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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 「天空の城」に登る 竹田城

    竹田城兵庫県朝来市兵庫県朝来市和田山町竹田「日本のマチュピチ」とも呼ばれる竹田城。登城へのスタートはJR播但線の竹田駅。駅のホームから石垣が見える。あの場所を目指す。竹田駅の駅裏から始まる登城への道。天空の城「竹田城」、山頂の石垣群が魅了する。無名だった「竹田城」は、角川映画の「天と地」」のロケ地で知られるようになった。それもカナダロケのおまけのロケ地で報道された。その後、写真展や写真雑誌で対岸の山である「立雲峡」から雲海と石垣の山城を写した写真が、この竹田城を全国区の観光地に押し上げた。写真家が観光地にした。現在は入城料が必要だが、通路や安全施設がかつてに比較にならい程整備されている。観光ガイドさんも待機している。登城日・2009.7.4ほか「天空の城」に登る竹田城

  • 「天空の城」に登る 矢筈城

    矢筈城岡山県津山市加茂町山下「矢筈城」は、美作の山中に聳え立つ、まさに”天空の城”。矢筈城の麓に加茂川が流れ、因美線「松ボウキ橋梁」。正面の山が矢筈城。標高は756m。比高410m。この城は羽柴秀吉の中国攻めにも耐えたことでも知られる。難攻不落の城。とにかく、高くて、険しい。山頂が近くなると、堀切や石垣が幾重にも本丸へつづく。山頂本丸からは中国山地の山々が望め、下を見ると、この城の高さを実感する。岡山県指定の史跡、最強の山城かも知れない。登城日・2015.4.18「天空の城」に登る矢筈城

  • 「天空の城」に登る 津和野城

    津和野城島根県鹿足郡津和野町後田観光都市、石見の国の津和野に聳える津和野城。お城は鎌倉時代に築かれていたが、近世の城は坂崎家三万石の城。坂崎家とは、”千姫様”の救出で有名な坂崎出羽守直盛。その後、因幡国鹿野藩から亀井政矩が4万3千石で入城し、幕末まで続いた。後裔の方は国会議員で活躍している。太皷谷稲成神社に登山口があり、山頂へ道が続いている。登城の道の上を、観光リフトが上下している。山頂の石垣群は迫力がある。出丸・三の丸・二の丸・本丸と石垣が連なる。山陰地方の田園風景。津和野の町、JR津和野線、前に聳える青の山。すばらしい展望を楽しめる。登城日・2011.10.27「天空の城」に登る津和野城

  • 「天空の城」に登る 鬼ノ城

    鬼ノ城(きのじょう)岡山県総社市鬼城山吉備路サイクリングロードから見る古代山城「鬼ノ城」。お城が築かれた頃は、この付近は海。山の麓(海岸線)だった場所に「砂川公園」という大きな児童公園があり、そこが駐車場兼登城口。砂川公園からスタートして、経山を越えて鬼ノ城山へ向かう。経山から鬼ノ城を見る。「鬼ノ城ビジターセンター」に着いたら、そこが鬼ノ城の入口。鬼ノ城は大野城と同じく、大唐帝国の倭国侵攻に備えた古代山城。石垣が延々とつづくのが見どころ。お城の周囲は約3km、城門が4ヶ所。標高は400m。鬼ノ城は海からの敵に備えた城だが、その海は城門に立っても望むことはできない。海は陸地化し、総社市や岡山市や倉敷市を構成している。晴れた日には四国の、小豆島・屋島・五色台を見ることができる。登城日・2013.1.31「天空の城」に登る鬼ノ城

  • 「天空の城」に登る 常山城

    常山城岡山県岡山市南区灘崎・玉野市常山岡山平野の南に、山の姿が美しく「児島冨士」と呼ばれる山がある。それが「常山」で、戦国時代は常山城。常山城は天正3年毛利に攻められ落城。城主・上野氏は城で腹を斬り、姫と侍女34人が奮戦し討ち死や自害した。34基並ぶ、「女軍の墓」。常山は眺めもいい。南の玉野市と瀬戸内海方面を展望する。東の児島湾方面。藤田伝三郎が、日本の大規模農業化を目指した干拓地がどこまでも広がる。登城日・2007.3.17ほか「天空の城」に登る常山城

  • 「天空の城」に登る 若桜鬼ヶ城

    若桜鬼ヶ城鳥取県八頭郡若桜町若桜若桜の町並みの、どこからでも鬼ヶ城が見える。城は鎌倉時代からつづき、江戸時代の初めに廃城となった。戦国時代には尼子の山中鹿之助が城取りをしたり、毛利と織田の攻城戦もあった。今は石垣の遺構が多く残ることで知られている。本丸からの眺めは素晴らしく、若桜市街地をはじめ鳥取県や兵庫県の山々が望める。季節によれば雲海もみえるそうだ。登城日・2013.7.17「天空の城」に登る若桜鬼ヶ城

  • 「天空の城」に登る 大野城

    大野城福岡県太宰府市・大野城市史跡”太宰府跡”。後方の山が、古代山城”大野城”。標高410mの山の、山頂付近を周囲7kmにわたり強固な城が残っている。大野城には、太宰府跡から登城の道が整備されている。ただ登って行けばいい。大野城に着く。城は大唐帝国から防御が目的で、岡山県の鬼ノ城や香川県の屋嶋城と同時代のもの。大和朝廷の国家事業。この場所に来てみれば、玄界灘が見え、国家存亡の興廃を掛けた山城であることが容易に想像できる。玄界灘から寄せる敵に、”水城”で防御する。水城が破れたら”大野城”で守る。城の規模は戦国時代の小田原城や大坂城にも匹敵するそうだ。城門跡や石垣が残り見どころ満載の史跡となっている。なお、整備された道は下れば太宰府天満宮に着く道で、健康にも観光にも適した古代山城だ。登城日・2014.1.12「天空の城」に登る大野城

  • 「天空の城」に登る 佐伯城

    佐伯(さいき)城大分県佐伯市西谷町佐伯市の「歴史と文学のみち」。正面の山が佐伯城。標高は約140m、毛利氏2万3千石のお城。豊後水道を眺めながら登る。山頂はぐるりと石垣に囲まれていて壮観な造り。その中央に天守台がある。海側は城下町と島々が望める。青い海は現在、西日本有数の養殖漁場になっている。登城日・2013.2.20「天空の城」に登る佐伯城

  • 「天空の城」に登る 神辺城

    神辺城広島県福山市神辺町旧山陽道の神辺宿から神辺城を見る。福山城が今年、築城400年。それ以前は備後地方の中心であった神辺と神辺城。城は南北朝時代に築かれ、福山城の築城に伴い廃城。その際神辺城から一番櫓・二番櫓・三番櫓が福山城へ移築されたと伝えられる。現在城跡は桜の名所。近年は初夏のアジサイロードも有名になっている。登城日・2014.4.13ほか「天空の城」に登る神辺城

  • 「天空の城」に登る 猿掛城

    猿掛城岡山県小田郡矢掛町横谷・倉敷市真備町正面の山が猿掛城。高松城水攻めの際、毛利輝元の本陣になったことで有名な山城。(矢掛町・吉備真備公園より)元は鎌倉時代から15代、この地を治めた庄氏の城。小田川の右岸に沿って聳える。山頂が近くなるころ、幾重にも曲輪が重なり本丸へつづく。堀切や石垣も残り、山城の雰囲気をよく残している。登城日・2012.12.24「天空の城」に登る猿掛城

  • 「天空の城」に登る 海山城

    海山城愛媛県今治市波方町郷山頂に聳える海山城。始まりは奈良時代で、のろし台ができたそうだ。戦国時代には来島村上氏の重要な砦があり、そのことを偲んで現在の天守閣風の展望が建設された。ここからの眺めは素晴らしく、360度の大パノラマ。来島海峡大橋の展望もいい。春は桜の名所になっている。登城日・2010.10.2「天空の城」に登る海山城

  • 「天空の城」に登る 岡城

    岡城大分県竹田市大字竹田竹田は大分県の山間部に位置する。竹田は中川氏七万石の城下町。静かな街中には、”軍神広瀬中佐”の広瀬神社と大きな銅像が建つ。豊後竹田駅から城下町を歩きながらお城に向かう。この感じがいい。岡城の下にある大駐車場。岡城は「日本100名城」「日本桜百選」、更に秋の紅葉も見事だそう。それに名曲「荒城の月」で、大分県の大観光地。入城を始めると、高石垣が連なる石垣群に圧倒される。城は稲葉川と大野川に挟まれた台地に築かれた。岡城跡に建つ「滝廉太郎」。同じ大分県の日出(ひじ)城跡にも「滝廉太郎」像がある、本家争い?石垣群の彼方に九重連山を望む。史跡としても、観光としても「岡城」はすばらしい。登城日・2013.2.21「天空の城」に登る岡城

  • 「天空の城」に登る 門司城

    門司城福岡県北九州市門司区字古城山門司城は九州の北端、源平合戦「壇ノ浦の戦い」の関門海峡の真上にある。標高は175m。戦国時代は毛利氏と大友氏の戦いの場となり、江戸時代に細川氏が小倉に入城後は廃城となった。門司城への道は、車道、歩道とも整備され関門大橋を眺めながら、その騒音を聴きながら登ることができる。山全体が市民の公園になっている様子で、山頂以外にも駐車場が多い。城跡からの眺めは絶景で、特に下関と関門海峡が美しい。「門司城跡」という碑の前に立つと、この地が大陸との軍事面での重要地点であるのを感じる。そのため、明治時代に「下関要塞」、昭和時代の「防空施設」の遺構が、数多く残っている。登城日・2015.2.20「天空の城」に登る門司城

  • 「天空の城」に登る 青陰城

    青陰城広島県尾道市因島田熊町青陰城は因島の中央にあり、標高275mの青影山山頂周辺が曲輪となっている。お城は村上水軍の鎌倉時代から江戸時代初期まで居城だった。登城の最大の特徴は眺めがいいこと。田熊町の市街地から青影山に向かって登る。麓の田熊や土生の眺めが変化してくる。前に見える生名島や岩城島、行き交う船とその音。山頂に「青陰城跡」の碑がある。城跡は広島県指定史跡。生名島や岩城島の他に、左に佐島や弓削島、右に生口島が迫るように見える。ハイキングの城跡として一級品。下山は中ノ庄側におりるが、日頃足を使ってない人はきつい城跡だ。登城日・2008.7.20「天空の城」に登る青陰城

  • 「天空の城」に登る 今高野山城

    今高野山城広島県世羅郡世羅町甲山今高野山城は、今高野山龍華寺から遊歩道が山頂までつづいている。お城は古く、大田庄を支配した上原氏が築いた。上原氏は戦国時代に、毛利氏に滅ぼされた。現在山頂に模擬櫓が建ち、世羅町内からランドマーク的存在で聳えている。山頂展望台。休日のみ内部に入れる。展望台からは、世羅町の中心部と周辺を見渡すことができる。尚山頂には展望台の他に、戦時中の「甲山防空監視哨」が保存されている。中国地方では、保存の状態がいちばんよいと思う。一見の価値がある。登城日・2013.5.6「天空の城」に登る今高野山城

  • 「天空の城」に登る 備中国吉城

    国吉城岡山県川上町七地国吉城への道は、川上町地頭からひたすら吉備高原に向かって上る。その道からは、ぽつんと一軒家などが何軒か見えたり、集落があったりする。やがて「城山公園」と神社があり、城山公園には模擬櫓が建っている。残念ながら櫓に登っても、樹木が邪魔して周辺がよく見えない。戦国時代、国吉城は松山城主・三村氏の支城だったが毛利氏に敗れ落城。慶長年間と廃城になった。城跡は高地にあるので、朝霧や雲海が発生することがあり、幻想的な眺めを堪能できる。登城日・2005.9.4「天空の城」に登る備中国吉城

  • 「天空の城」に登る 備中松山城

    備中松山城岡山県高梁市松山かつて、お猿の山として岡山県の観光地だった臥牛山。今は、「天空の城」として全国版の観光地となっている。観光駐車場からスタート。城下町を歩いて、最初に「御殿坂」。武士は、この坂からお城に入った。通常時の「お城」は「尾根小屋」と呼ばれる場所に、御殿、政庁があった。今は高梁高校なので、石垣を眺めながら通過する。これより、松山城へ登る。その登城の道は、江戸時代からの道で、「大石内蔵助の腰掛石」がちょうど中間点に残っている。ここで腰を掛けて休憩する。やがて「ふいご峠」と呼ばれる駐車場がある。観光客がいう「備中松山城」は、ここから。ふいご峠から少し歩くと石垣が現れ、以後次々に石垣がつづき、最後に天守閣が現れる。幕末の城主は日本史でも有名な板倉勝静(かつきよ)だが、現在の城主は「さんじゅーろー」とい...「天空の城」に登る備中松山城

  • 「天空の城」に登る 琴石山城

    琴石山城山口県柳井市琴石山は柳井市にあり、その聳え立つ姿は多くの場所から望むことができる。問題は登ることにパワーまたはスタミナが必要。標高545.5m、比高もほぼ同じ。山は大きい。山頂までの道は、遠くて高かった。山頂付近は今「琴石グリーンパーク」となっていて、車で登ることもできる。展望はすばらしく、柳井港から室津半島までの絶景。戦国時代には毛利の城があり、九州の大友氏の侵攻に備えていたそうだ。登城日・2013.4.26「天空の城」に登る琴石山城

  • 「天空の城」に登る 日和佐城

    日和佐城徳島県海部郡美波町日和佐日和佐は太平洋に面した、美しい町で海にはウミガメ、町には四国霊場の薬王寺がある。白亜の天守閣は町のどこからも眺められ、お城を目指して登ればいい。天守閣からは、海・町並み・薬王寺が見渡せるが、残念ながら城の遺構は無く、模擬天守。展望や花見を楽しむ市民の公園になっている。登城日・2012.4.5「天空の城」に登る日和佐城

  • 「天空の城」に登る 船上山行宮

    船上山行宮鳥取県東伯郡琴浦町別所隠岐島に流された後醍醐天皇が、名和長年により島から脱出し、ここ船上山に行宮を置いた。幕府との「船上山合戦」後、ここから”建武の新政”が始まった、とも言える。遠目には断崖の山に見えるし、事実絶壁の山だが、ハイキングの道があり、四季折々の自然あり、大山方面の展望あり、自然と歴史の公園になっている。登城日・2010.11.5「天空の城」に登る船上山行宮

  • 「天空の城」に登る 伽藍山城

    伽藍山城岡山県矢掛町江良朝霧の伽藍山。伽藍山は矢掛町のランドマーク的な山。伽藍山の麓を流れる小田川、旧山陽道。川からも道からも、東からも西からも、その山容を眺めることができる。伽藍山は名の通り、最初は大伽藍が建っていた。(奈良時代)戦国時代、織田と毛利の争いの時は毛利方の支城があった。山頂からは、矢掛町や吉備高原、広島県域まで望める。標高は290m、登山道は整備されている。登城日・2018.1.25「天空の城」に登る伽藍山城

  • 「天空の城」に登る 屋嶋城

    屋嶋城(やしまのき)香川県高松市屋島屋嶋城は香川県を代表する観光地「屋島」にある。屋島の山頂全体が古代山城で、7世紀に大和朝廷により築造された。そこへの道は、お遍路道を登っていく。道は急だが、お遍路さん以外にも市民の遊歩道を兼ね上り下りの人が多い。城門・城壁は四国88ヶ所霊場の「屋島寺」のすぐ近くにある。山頂手前で、遍路道と分かれる。城門・城壁は2016年に復元して公開された。屋島寺に近く、獅子の霊巌にも近い。霊場と観光地と史跡を備えた場所に「屋嶋城」は位置する。前面に高松市街地が望める。登城日・2018.5.5「天空の城」に登る屋嶋城

  • 「天空の城」に登る 備前天神山城

    天神山城岡山県和気郡和気町田土天神山城は吉井川の左岸、標高400mの山城。曲輪が何重にも連なり、石垣遺構が残っている岡山県指定の史跡。山城の場所や高さや規模から、難攻不落の城だったが、城主・浦上氏の家臣であった宇喜多直家に攻められ天正3~5年ごろ落城した。登城日・2011.3.23「天空の城」に登る備前天神山城

  • 「天空の城」に登る 高越山城

    高越山城岡山県井原市「天空の城」に登る高越山城

  • 「天空の城」に登る 羽衣石城

    羽衣石城鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石羽衣石城は、登城口への道(車道)も、登城(登山)の道も、それなりに険しい道だった。登城の道は、途中に石垣の遺構もあり楽しめるが、その一方で転落の危険もある道だった。標高は372m、展望はいい。手前に東郷湖、彼方に日本海。い~い眺め。城主南条氏は戦国時代、尼子についたり、大内についたり、毛利についたりして生き延びた。模擬天守閣は二代目だが、初代の模擬天守阿は昭和の初めに南条氏の子孫の方が建てられたそうだ。登城日・2020.10.13「天空の城」に登る羽衣石城

  • 「街の子」昭和の歌姫に--美空ひばり

    30代の時、横浜市の磯子に住んでいたことがある。美空ひばりは磯子の魚屋の娘という話は聞いてはいたが、自分も若く、芸能界のことを思う余裕はなかった。今は、その魚屋さんがあった場所位は、行っておけばよかったと思う。亡くなってから久しいが、よく見れば義兄(姉の夫)と同じ年だ。義兄は「加山雄三と同じ歳」とはよく言っていたけど、美空ひばりと同じというのは聞かなかった。何故かな?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「昭和時代敗戦・占領・独立」読売新聞社著中央公論社2015年発行美空ひばり「街の子」昭和の歌姫に1948年(昭和23)年5月1日、大人の歌謡曲を軽々とこなす少女に聴衆は度肝を抜かれた。わずか10歳の小柄な少女が、横浜野毛の横浜国際劇場でデビューした瞬間だった。人気歌手の渡辺はま...「街の子」昭和の歌姫に--美空ひばり

  • 高梁川改修事業

    「岡山県政史」岡山県昭和44年発行高梁川改修事業この工事は、内務省の直轄施行であったが、中途で第一次世界大戦の勃発があり、着工以来20ヶ年で大正15年にいたって竣工した。高梁川東西用水組合の設立高梁川改修工事に伴い、都窪郡清音村古池以下の都窪郡・浅口・児島の3郡19ヶ町村の6.580町歩の区域は、従来の諸用水組合を統合して高梁川東西用水組合を設立し、酒津に統一した配水池・分水樋門・水路を設けるなどの工事を行った。廃川地の処分この事業によって、高梁川下流の東西両川のうち、東川は廃川となり、その廃川敷の総面積は454町歩で、うち37町歩は地元の事情者に無償払い下げ、残り416町歩は県費約16万円をもって道路・用排水幹線を設けるなどして将来の開発に備えた。なお、東川廃川敷には、昭和時代になって倉敷絹織工場(後の倉敷レ...高梁川改修事業

  • 岡山の昭和

    「眼で見る岡山の昭和1」日本文教出版昭和62年発行・・・・・・・・・・・・・・昭和元年(1926)学童服が普及大正末期から児島で始まった学生服の大量生産で、学童たちの服装が、和服から学童服へと急速に変わっていった。当時は並品で一着50銭前後、昭和3~4年ごろの児島の学生服生産量は百万着を越え、同13年頃には一千万着と、全国90%シェアを誇り、「学生服王国」となった。なお、女子学童の和服姿も、少し遅れて洋服への転換が進み、昭和4年頃にはほとんどが洋服になった。・・・・・・・・・・・・・・昭和2年(1927)普通選挙9月に、普通選挙法による初めての県会議員選挙が行われた。岡山県下の有権者は一躍8万人から26万人に増えた。この選挙では、警察による選挙干渉(野党候補者への弾圧)が激しかった。高梁川を遡る高瀬舟帆を揚げ、...岡山の昭和

  • 大量殺人事件

    横溝正史が小説のヒントにしたことでも知られる”津山30人殺し”。犯人は、父とはひと月違いの同い年。肺病が原因で徴兵検査が不合格。病も不合格も犯人の心を折ったに違いない。なお「加茂町史」は、事件記載は一行だそうだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「岡山県政史」岡山県昭和44年発行大量殺人事件昭和13年5月21日、苫田郡西加茂村で30名を射殺するという事件があった。犯人は同所の都井睦夫(22才)で、病身のため失恋し、自暴自棄的行動が多いため部落民が敬遠したのでますます狂的になり、ついに21日午前二時半ごろからかねて用意していた猛獣狩用モーゼル五連発猟銃を九連発に改装したものを兇器そして、まず同居の祖母を射殺し、続いて同部落21戸のうち12戸を襲い、即死28名、重傷死2名、重傷1...大量殺人事件

  • 昭和13年、昭和14年、昭和15年

    「昭和5・一億の新体制」講談社平成元年発行昭和13年「国民政府を相手とせず・・・・」。昭和13年1月、近衛内閣の声明は、日中戦争終結への道を自ら閉ざすことになった。中国民衆の抗戦意思は衰えず、徐州作戦、武漢作戦と戦線は伸び切って膠着状態に陥った。一方国内では、総力戦体制の完成を期す国家総動員法が成立し、議会はその機能を失い、各分野での統制が拡大、市民的自由は制限されていった。木炭車・スフなどの「代用品時代」が訪れ、暗い現実を紛らわすかのように、庶民は双葉山の連勝、映画「愛染かつら」に熱狂した。昭和14年昭和14年8月、ノモンハン事件さ中の独ソ不可侵条約締結に平沼麒一郎内閣は倒れ、あとには「複雑怪奇」という言葉が残った。そして9月、独軍はポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まった。昭和15年昭和15年、「近衛新体...昭和13年、昭和14年、昭和15年

  • 日中戦争の泥沼化

    「満州事変から日中全面戦争へ」伊香俊哉著吉川弘文館2007年発行日中戦争の泥沼化1937年(昭和12)11月、関東軍は蒙疆(もうきょう)政権を樹立した。同年12月北支那方面軍が中華民国臨時政府を樹立した。1938年3月には、中支那派遣軍が南京に中華民国維新政府をを樹立した。この傀儡政権は統一もせず、民衆の信望は低かった。国民政府の軍事的潰滅のあてが外れていった。1938年春、徐州に中国軍50~60万人が集結した。大本営は、大規模な包囲殲滅作戦である徐州作戦を4月7日命令した。しかし六個師団約20万人の日本軍は、中国軍をほとんど捕捉することができず、5月19日に徐州を占領しただけに終わった。徐州作戦にひきつづき、大本営は武漢攻略作戦に着手した。当時武漢は中国軍主力の拠点であり、国民政府・党の機関も存在していたため...日中戦争の泥沼化

  • 慰安所の実態

    「満州事変から日中全面戦争へ」伊香俊哉著吉川弘文館2007年発行慰安所の実態日中戦争期には民間人の渡航は許可制であった。慰安婦政策が存在しなければ、業者が渡航許可を得ることは困難であった。慰安所での性病の検査には軍や、時には領事館が関与していた。中国戦線で「慰安婦」とされたのは、日本国内、日本の植民地であった朝鮮・台湾、日本占領下の中国の、女性であった。日本からは職業的な売春婦が連れて行かれるケースが多かったとみられるが、一般女性もいた。朝鮮・台湾からは一般の若い女性が連れていかれるケースが多かった。これら一般女性の場合、仕事の内容を偽って募集された女性も多かった。彼女たちは戦地に着いてから「慰安婦」として使われることを知らされたが、もはや帰国するすべはなかった。慰安所の稼働時間は朝から深夜までの15時間程度で...慰安所の実態

  • 2020年秋「坪枯れ」

    これは、2020年10月2日の笠岡市東大戸の水田。こういう「坪枯れ」した田んぼが、今年は多い。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中国新聞9月26日土曜日コメ農家ダブルショック中国地方収入減・ウンカ被害甚大価格安・コロナで外食減中国地方の農家が、米の収入減と価格安とう二重の危機に懸念を強めている。稲を枯らす害虫トビイロウンカが猛威を振るいはじめ、広島県西部では収穫できなくなった水田もある。新型コロナウイルスの感染拡大で外食や給食需要が激減し、米価も全国で下がる見通し。農家には厳しい秋になりそうだ。東広島市西条町の田んぼに、茶色い穴が開いたように見える「坪枯れ」被害が広がる。ウンカに荒らされた跡だ。視察したJA広島中央・営農販売課の西田課長が「稲が全滅した水田も複数ある。全体の収量は2~3割減るかもしれ...2020年秋「坪枯れ」

  • 遺体処理

    日中戦争時、父は一人の遺体を焼いて、その一人分の遺骨を複数人、つまり本人及び他の戦死者(土葬)の遺骨箱に入れていたと話していた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「満州事変から日中全面戦争へ」伊香俊哉著吉川弘文館2007年発行中国戦線での遺体処理戦友の死体を背負って前線から撤退するケースもあった。しかし戦局が不利であったり、作戦行動との兼ね合いで時期的に余裕がない場合などは、そうはいかなかった。銃弾が飛びかう下で、戦死した上官の遺品として肩章と軍刀を取った後、「右腕を銃剣で切り落とし、三角布で自分の首に下げた」数日間処理できず「悪臭のはなった」腕を枕元に置いていた。収容された遺体が多数に上った場合、手首から先を切断し遺骨とし、遺体は埋葬することもあった。激戦のなかで戦死した戦友の指1本...遺体処理

  • 朝鮮の兵站基地化

    「満州事変から日中全面戦争へ」伊香俊哉著吉川弘文館2007年発行朝鮮の兵站基地化朝鮮では、1937年以降、羊毛や綿花といった軍需品の生産がいっそう強化され、米穀増産方針も復活された。39年には内地への米穀供出量を確保するため朝鮮人には雑穀混食が強制された。鉱物資源の収奪も強化され、金・鉄・石炭・黒鉛などあらゆる鉱物資源の採掘を拡大していった。日本の兵站基地としての性格を強めていった。兵站基地化を支えたのはファッショ的人民支配と皇民化政策であった。朝鮮では1938年7月に国民精神総動員朝鮮連盟が発足され、朝鮮人は戦争協力に動員される一方、皇民化政策の下でその民族性を抹殺されていった。一面(一村)一神社の設置が推進され、1938年頃には神社は2.300と31年のほぼ10倍の数に達した。1937年には、天皇への忠誠を...朝鮮の兵站基地化

  • 無差別爆撃

    無差別爆撃「満州事変から日中全面戦争へ」伊香俊哉著吉川弘文館2007年発行満州事変開始後満州事変開始後まもなく、関東軍は満洲で中国軍部隊や列車などに航空部隊による機銃掃射や爆撃を開始した。1931年10月8日には、15年戦争最初の都市爆撃として錦州爆撃が行われた。1932年1月に開始された第一次上海事変で大規模化し軍事目標主義に反する爆撃がおこなわれた。南京爆撃1937年7月に日中全面戦争を開始した日本は、「敵航空兵力を覆滅す」るための高高度からの爆撃が各地の飛行場を目標として実施された。1937年8月の南京に対する昼間・低空爆撃で迎撃機や高射砲により、予想外の被害を受けた。日本軍はすぐに夜間の高高度爆撃に転換したが、これより実態は無差別爆撃となった。1937年9月、大規模な南京爆撃にあたっては「爆撃は必ずしも...無差別爆撃

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