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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 戦場の衣食住③陸軍性処理問題

    「帝国陸軍戦場の衣食住」学習研究社2002年発行より転記性病の脅威日本陸軍の構成員は、そのほとんどが若い男子にあったために、性欲の処理は大きな問題であった。平時には各部隊に駐留している駐屯地に近接している遊興施設への登楼があり、戦地では後方に設置された「慰安所」で対応していた。ところが性行為という快楽の代償として、性病がつきまとった。「花柳病」と呼ばれ、軍隊内部では「三等症」という呼び名だった。性病でも「梅毒」は不治の病として世界的に猛威を振るっていた。梅毒の治療は1905年に病原菌「スピロヘータ・パリダ」が発見され、日本では注射薬剤の「サンバルサン」が登場した。軍隊での一番の脅威は、性病の感染による兵力の低下である。軍指定の慰安所では妓娼の定期診断を行っていたが、登録してない「私娼」の数も圧倒的に多かった。軍...戦場の衣食住③陸軍性処理問題

  • 戦場の衣食住②現地自活

    「帝国陸軍戦場の衣食住」学習研究社2002年発行より転記現地自活支那事変では、部隊単位での本格的な「現地自活」が開始される。戦闘の激化に伴う補給困難から、副食のための各種野菜の畑栽培、養豚・養鶏、燃料の炭焼き等の本格的な「現地自活」が開始されたのであった。多くの場合、各師団司令部の経理部の下に「自活隊」を編成して行われた。野戦献立の一例野戦での糧食給与は、次のコンセプトで行なわれていた。・手数がかからず簡単に調理ができるもの。・分配容易で携行に便利なもの。・保存性が良いもの。・追走品および現地で入手容易な材料を使用すること。これに従い「野戦炊具」で簡単に作られる料理としては、主食では米麦飯以外に五目飯・福神漬飯・缶肉飯・蒸パンなど、副食では煮豆・佃煮・味噌煮・鉄火味噌・塩昆布・甘露煮・味味噌・唐揚げなど、漬物と...戦場の衣食住②現地自活

  • 戦場の衣食住①飲料水・便所

    「帝国陸軍戦場の衣食住」学習研究社2002年発行より転記飲料水の工夫水の補給が困難な戦場では、兵員各自が腰につけている水筒が命の綱になる。軍隊の行進は、50分間の行軍ごとに10分間の小休止を取ることになっている。この休憩時に水分を摂取する際、注意すべき重要なことがある。激しい行軍で体内の水分が失われているため、急いで一度の水を飲むと胃痙攣(いけいれん)を起こす場合がある。このため一口ずつゆっくりと噛むように飲むことが教育されていた。また余裕のある場合には、3%濃度の食塩水をいれることが奨励されていた。野戦での便所の構築野営ないし露営を行う場合の排泄への対応は、マニュアルである「築営教範」に規定されている。短期間と長期間に大別し、短期間の場合は大便と小便は共通した厠で行われ、兵員30~40名に対して幅30cm、深...戦場の衣食住①飲料水・便所

  • 闇の女たち

    東京闇市興亡記」猪野健治編双葉社1999年発行RAA解体「忘れもしないのは昭和21年3月27日のこと。昼頃目をさますと、突然、全員集まれという。『GHQの指令で、今日限り、ただ今から慰安所は一切オフリミットになったから、皆さんは立ち退いてもらいたい。皆さんの犠牲で多くの一般婦女子の純潔が護られたのは歴史的事実であって、どうか国のために尽くしたということを誇りと慰めにお別れしてほしい…』寝耳に水とはこのことをいうのであろうか」「下着類の入った風呂敷三つを持って出た。その夜から私たちは兵隊相手の街娼になった。」彼女たちの多くは、すでに発生していたパンパンの一群へ身を投じていくことで生きのびようとする。有楽町のガード下、新橋。ラク町(有楽町)、バシン(新橋)はアメリカ兵相手の「洋パン」が多く、身なりも派手であった。ノ...闇の女たち

  • RAA、生贄にされた七万人の娘たち

    東京闇市興亡記」猪野健治編双葉社1999年発行RAAの発足RAAの発足は、迅速を極めた。8月17日、東久邇宮内閣が生まれた。8月18日、内務省警保局長から、各庁・府県長官あてに「進駐軍特殊慰安施設について」と題する、秘密無電の準備司令が発せられている。戦災で半壊状態であった妓楼、淫売屋は、国家権力で息を吹き返した。あまたの”昭和の唐人お吉”が狩り集められようとしていた。8月28日、皇居前広場では、特殊慰安敷設協会の設立宣誓式が行われた。「我らは断じて進駐軍に媚びるものに非ず、条約の一端の履行にも貢献し、社会の安寧に寄与し、以って国体維持に挺身せむとするに他ならざることを、重ねて直言し、以って声明となす」性を知らない娘たちが集まった【新日本女性に告ぐ】「国家緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本...RAA、生贄にされた七万人の娘たち

  • カストリ雑誌⑥証言の宝庫

    「東京闇市興亡記」猪野健治編双葉社1999年発行証言の宝庫=カストリ雑誌パンパンと呼ばれていた街娼は焼跡闇市時代の一つの象徴であるが、カストリ雑誌もまた、そこで売られていた。存在そのものが象徴であった。ではカストリ雑誌とはいったい、どのような雑誌だったのだろう。密造のインスタント焼酎であるカストリは、一合ならともかく三合も飲むと悪酔いして倒れてしまう。また、印刷用紙の不足を補うため、センカ紙という、チリ紙を転用した、みるからに悪質な再生紙を使用していた。つぶれるところが多く、吹けば飛ぶようなもの、という意味もこめられていた。もともとは大衆雑誌なのである。そして大衆雑誌には、その時代の世相や風俗、人々の生きざま、意識などが、色濃く影を落とし、刻みこまれている。敗戦直後の飢餓と廃墟と混乱と悪性インフレの闇市時代は、...カストリ雑誌⑥証言の宝庫

  • カストリ雑誌⑤「カストリ雑誌研究」

    「カストリ雑誌研究」山本明著出版ニュース社昭和51年発行カストリ雑誌とは闇市に、エロ雑誌が、ゴザの露店で売られていた・・・というのは間違っている。カストリ雑誌が本屋で売られていたのは1946年9月以降。戦後1年2ヶ月後である。ゴザで売られたのは1949年から53年あたりまで。カストリ雑誌が、どのような層に、どのような意識で読まれていたかは不可能だが、1947年で定価30円、40円というのは高い価格であった。カストリ雑誌と呼ばれるものは、戦時中は抑圧されていた性をとりあつかっていることが特徴である。外観は、粗悪なセンカ紙。見るからに安っぽい表紙と、写真・さし絵ともに、女性の裸体、ぬれ場が大部分。・・・つまり、さし絵をみればわかる。『りべらる』カストリ雑誌というと、すぐに『りべらる』を想起する人が多いけれども、『り...カストリ雑誌⑤「カストリ雑誌研究」

  • ♪花咲く乙女たち♪

    人気絶頂の歌手・舟木一夫が歌う「花咲く乙女たち」といえば、なぜか後に日活の映画スターになったMくんのことを思い出す。高校のクラスメートだったMくんは、休憩時間などに、よく「花咲く乙女たち」を口ずさんでいた。その「花咲く乙女たち」の日活映画は、当時はやっていた普通の青春歌謡映画だと思っていたが今でいう街起こし、地域起こしであったとは初めて知った。・・・・・・・・・・・・・・・・「人びとの戦後経済秘史」東京新聞・中日新聞編岩波書店2016年発行人出獲得競争人手不足が深刻化すると、集団就職は商店街・工場・大企業に拡大した。地域も東京から愛知県や大阪などにも広がり、「金の卵」と、もてはやされた少年少女たちが高度経済成長を支え続けた。・・・・高度経済成長期、繊維産業の一大集積地だった愛知県一宮市。戦後始まった「一宮七夕ま...♪花咲く乙女たち♪

  • ♪リンゴの唄♪

    リンゴは青森や長野が有名だが、岡山県の南部の茂平でも栽培されていた。おば(父の妹)は「リンゴで学校に行かせてもらったようなもの」と言っていた。戦後、茂平にリンゴの木は無かったが、それは”食料増産”も、少しはからんでいたのだろうか?・・・・・・・・・・・・「人びとの戦後経済秘史」東京新聞・中日新聞編岩波書店2016年発行「リンゴの唄」明治期に青森県で盛んになったリンゴ栽培は長野県などに拡大。昭和には植民地だった台湾などへ輸出も増えた。小粒で酸っぱい「紅玉」、持ちがよい「国光」が主流品だった。だが、戦況悪化で軍部はコメやイモなど主食になる作物の増産を優先した。1941年にはリンゴの木を新しく植えることを禁止。1943年には「りんご園耕作転換令」で一部切り倒しとイモなどへの転作を命令した。元農協職員A氏(89)は、「...♪リンゴの唄♪

  • カストリ雑誌④カストリ雑誌業

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「昭和の消えた仕事図鑑」宮沢優著原書房2016年発行カストリ雑誌業---戦後まもなくの昭和21年から25年ごろにかけて出版されたエログロな内容の大衆娯楽雑誌を出版する業者。紙不足の時代に、屑紙を再生した紙で作られた---カストリ雑誌が誕生したのは、敗戦後間もなくであった。それまでの表現の自由から一気に解放され、性、犯罪、怪奇、推理などを描いた出版物が堰を切ったように刊行された。それを牽引したのが、粗悪な紙で作られたカストリ雑誌であった。戦後、GHQによって用紙統制されていたが、カストリ雑誌は統制の対象外であった仙花紙で作られた。主に性風俗を扱ったものが多く、「風俗研究」「りべらる」「アベック」「好色草紙」「怪奇実話」「オール夜話」「犯罪実話」などの雑誌があった。雑誌「猟奇」...カストリ雑誌④カストリ雑誌業

  • カストリ雑誌③仙花紙盛衰記

    「カストリ雑誌にみる戦後史」山岡明著オリオン出版昭和45年発行仙花紙盛衰記昭和22年初めに「猟奇」2号が、拡大強化された≪刑法175条≫の適用を受ける最初の雑誌になった。そのため世間の注目を集めたのか、3号から売り上げも伸びた。それなのに、発行を続けられなくなった。悪性インフレの激流に呑み込まれてしまった。定価も高すぎた。手もちの印刷用紙が底をついた。昭和23年3月、いわゆる「低俗・不良出版物」は用紙の割り当てをもらえなかった。自由売買の「仙花紙」に切り替えるしか仕方なくなっていた。仙花紙は、チリ紙を転用したもので和紙の一種。昭和42年ごろにはトイレット・ペーパーなど本来の姿に戻った。「平凡」にはじまる芸能話題誌昭和20年12月に創刊号。昭和23年に、編集内容を変えて芸能話題誌への道をあゆむことになった。なおこ...カストリ雑誌③仙花紙盛衰記

  • カストリ雑誌②発禁処分”H大佐夫人”

    有名な「H大佐夫人」のストーリー。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『猟奇』2号昭和21年12月発行H大佐夫人北川千代三中学四年生の私は、昭和19年の歳末、東京からさのみ遠くないC県C市から二三里奥のY町に疎開しました。その家の主人といふのは、現役の陸軍大佐で、陸軍砲兵学校の教官をしている人でした。家族は、大佐の夫人の美根子さんと、下働きの雇婆さんの三人でした。そこへ私が加わったのでした。美根子夫人は、軍人の妻であるに拘わらず、何かと思ふほど、身繕ひや、お化粧に念をいれる人でした。高雅な香水の匂ひをあびせられた時、私の全官能を、いやが上にも掻き立てるのでした。「喬雄さん、此処に居る間は遠慮しないでネ・・・・」と言ひながら、私の肩の辺りに手を触れて起き上がる時など、魅...カストリ雑誌②発禁処分”H大佐夫人”

  • カストリ雑誌①どくとるマンボウ孵化直前

    後年、有名なった作家もカストリ雑誌に執筆している。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「北杜夫どくとるマンボウ文学館」北杜夫著河出書房新社2012年発行僕の怪談黄山木精何しろあのくらいゾッと背筋が寒くなった話はなかった。それは僕が高等学校の寮に入った時の話。僕の同室者は奇妙な奴だった。同じ新入生なのだが、入寮して一週間にもなるのにロクスッポ口をきかない。顔色は青ざめていて、目はドロンとして気味が悪いくらい。でも二人部屋の同室者でこいつと一緒に居なければならない。入寮してから半月ばかりたった、ある夜のことだった。夜中に僕はふと目をさました。寝静まりシーンとして、窓から月光が流れ込んでいた。その時、廊下の方でミシッという音がした。僕は布団の中でちじこまった。なんだろう、今の音は。僕は布団がめく...カストリ雑誌①どくとるマンボウ孵化直前

  • 陸軍の軍用馬・軍用犬・軍用鳩

    「帝国陸軍戦場の衣食住」学習研究社2002年発行より転記日本陸軍①軍馬日本陸軍の軍馬に対する依存度は大きなものだった。馬を利用した戦闘兵科は、騎兵、砲兵、輜重(しちょう)兵に代表される。後方支援では兵站が中心、食糧・弾薬・資材の運搬に従事した。帝国陸軍②軍用犬日本陸軍で利用された軍用動物といえば馬が一番だが、それ以外に軍用犬や軍用鳩が存在した。犬は人間の感情を理解し、言葉を聞き分ける能力があることから、各国の軍隊で伝令、捜索、警戒、補給といった重要な任務に利用していた。日本陸軍では軍用犬の任務を、警備任務の「警戒犬」伝令任務の「伝令犬」荷物運搬の「運搬犬」医療任務の「衛生犬」の四種に分けて運用した。犬の種類はシェパード、ドーベルマン、エアーデル・テイアの三種類が中心である。犬の条件は、体格が50~70cm年齢は...陸軍の軍用馬・軍用犬・軍用鳩

  • 真備町「岡田更生館事件」その2・・・「岡山県史」から

    岡山県史に「岡田更生館」の文字はある。そこで何があった、なかった、とかいう記述はない。同じ目的の施設である「少年の丘」の自慢話が載っているだけ。・・・・・・・・・・・・・・「岡山県史現代1」より転記戦災孤児と浮浪者戦災のため両親を失い、頼るべき親戚や知人のない子供たちや、中国東北部で敗戦を迎え、親を失った子供たちがそれである。一時は浮浪児の数は約800人と推定された。浮浪児は岡山市に集中し、殊に人の通行量の多い岡山駅周辺(ヤミ市含む)と残飯の入手が容易な津島の進駐軍兵舎の周囲に多かった。1946年(昭和21)9月7日の合同新聞記事によれば、浮浪児は乗客から弁当や残飯を貰ったり、自由市商人(ヤミ市の商人)の手先、売子となっているが、一般に労働を嫌い、自由奔放な生活を送りつつその日その日の糧を求めている。中には傷痍...真備町「岡田更生館事件」その2・・・「岡山県史」から

  • 縄ない

    子供の頃、雨の日に祖父は長屋にいた。長屋には縄ない機があった。イスに座って稲わらを供給しながら、足踏みで縄をなっていた。その縄は畑仕事など、自給用で必要量以外は縄をなうことはなかった。茂平には、”もとやん”という漁師がいて、海の仕事がない日には家で手編みで藁草履を編んでいた。小学学校の運動会の前の日には、もとやんの家に行って藁草履を一足買っていた。藁草履で走れば速く走れると、上級生が言っていた。他にもう一軒、藁の手仕事で人形か台所用品か忘れたが、作っているおばあさんがいた。下記は引野の話だが、福山では「縄ない大会」があり、「全国大会」にも出場していたようだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「梶島山のくらし」梶島山のくらしを記録する会編2011年発行梶島山の大事な副業としての縄ない稲作・麦作...縄ない

  • 亀島山地下工場ほか

    防空壕は各戸に一ヶ所設けられた割には遺構がない。どこの家の防空壕も、よほどちゃちなものだったのだろう。・・・・・・・・・・・・・「新編倉敷市史6近代」昭和18年春、県下4市7町で屋外灯の点灯時間が制限されるようになった。屋内の電灯は黒い覆いをかけたり窓を覆うなどしして光が外へ漏れないようにした。その灯火管制を少年団・警防団・隣組などが監視した。防空壕日本各地で空襲を受けるようになると、防空壕も造らねばならなくなった。各戸で自宅の庭に造るのは当然で、町内会や隣組や公共団体は人の出入りの多い場所などに横穴式防空壕の築造が半ば強制された。倉敷市は内務省や県などからの通達を受けて、合計11万円余りをかけ、横穴式防空壕10ヶ所・トンネル利用の防空棒1ヶ所、簡易貯水槽10ヶ所などを設けることにした。そして市民は、白壁の家を...亀島山地下工場ほか

  • 満蒙開拓青少年義勇軍

    満洲での最大の犠牲者が開拓者であったことは、間違いないが開拓団や義勇軍は、回顧録のほとんどが犠牲になった部分のみを記して、自らの侵略者の面を書いているのは、みたことがない。結果的に悲劇になった原因は、ソ連軍の侵攻、中国暴徒、住民より先に逃げた日本軍・政府役人。渡満を進めた政府、町村長や校長先生。また、時代を読めなかった開拓者本人にも一因がある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「新編倉敷市史6近代」(語り)内原訓練所から深夜の東京駅で下車。真っ暗な宮城方面へ向かって遥拝。万歳三唱と海ゆかばを合唱。夜明けとともに大阪近郊に着く。焼土と瓦礫の中にチョロチョロと燃えるものがみえる。放心した状態で此方を見ている人が点在しているのが無惨で、今去ろうとしている自分の国かと思うと、侘しさを感じた。昭和20年5月18...満蒙開拓青少年義勇軍

  • ”ぜいたくは敵だ”

    「新編倉敷市史6近代」パーマネント規制倉敷署は、街頭で”パーマネント狩り”を実施。倉敷理髪業組合も倉敷署で次の申し合わせをした。①男子は丸刈り、角刈り、スポーツ刈りで、油類はつけない。②女子の髪型は県連合指定の時局型七種のどれかとする。さらに倉敷市では、男は日傘やマフラーを使用しない。女は毛皮の襟巻、高級ハンドバック、夏手袋を廃絶し、ジャズのレコードは使用しない--などを申し合わせた。政府は「ぜいたくは敵だ」の標語の下、警察などを動員して国民の不満や不安を抑え込んでいった。昭和18年になると、”敵性レコード”の一覧表を作成し、それに載るレコード演奏を禁止する一方、大政翼賛会は「海ゆかば」「愛国行進曲」など74遍を「国民の歌曲」に選定し、国民歌唱運動を始めた。倉敷市平和町の女子青年団がハリウッド俳優など、敵国人の...”ぜいたくは敵だ”

  • 田舎の映画館主の仕事

    町の映画館は昼夜上映し、同じ映画が1週間つづいた。田舎の映画館は夜だけ上映し、映画は日替わり。以前、元・映画館主さんと話したら仕事の大半はポスター張りだったそうだ。決まった場所にポスターを持っていって、毎日張り替える。(盆正月のみ2~3日、同じ映画をすることがあった)フィルムは自転車で運んできてくれ、終わったら自転車に積んで返しに行ったそうだ。(2016.5.15福山市船町)・・・・・・・・・・・・・・・・・・「新修倉敷市史6近代」映画館映画フィルムの流通は、映画会社が直営館を持ち自社の作品を上映した。洋画の場合は日本支社の営業部員がフィルムの選定を館主と交渉したり、あるいは館主が東京や大阪へ行き、自分の目で確かめる時代もあった。現在では情報が早く、地方も都会もなく、電話一本で取り決めることができる。我が国の映...田舎の映画館主の仕事

  • 屋根の葺き替え

    家は麦藁屋根だった。子どもの時、葺き替え工事があった。手伝いをしたわ訳ではないが、古い藁にさわったのか、こすったのか・・・工事の期間中、着ている服も、顔も煤だらけになった記憶がある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「新修倉敷市史8」屋根葺きかつての倉敷の農村では、麦藁葺き屋根や葭葺き屋根が主流を占めていた。二毛作として麦作り盛んであった。一般の農家では、屋根材料の小麦藁は、自家製麦で賄われていた。葭(よし)は、用水や干拓地や高梁川の中州などから購入された。麦藁に比べて葭の方が耐用年数は長いが、費用は葭の方がかさんだ。県北では萱(かや)を使うが、県南では葭(よし)を使う。また一緒に使う場合もある。手順丸太を使った足場作りから始まる。長い丸太を屋根の垂木に縄でくくりつけ、およそ2m間隔に置き、上に板を...屋根の葺き替え

  • 桃娘とマスカット娘

    昭和30年前後、岡山駅の桃娘やマスカット娘はどのようにして乗客に売っていたのだろう?下りの「博多行」の列車。汽車が止まると同時に窓に寄りアピール。売れると、品物を渡し、お金を受けとり、おつりを差し出す。2~3人目の客になると、発車時間が迫り、時にはおつりをもって走りながら手渡しか。こちらマスカット娘。桃娘と同じで、売るのは特急または急行に限定された。特急に庶民が乗ることは稀でなく、ありえない時代だった。季節は夏。このため窓が開いているのが助かる。(当時は特急でも窓が開閉できたのだろう)プラットホームでの、一般的な売り子は「弁当売り」で、駅弁をおじさんが売っていた。慣れた動きと声で販売していた。・・・・・・・・・・・・・「目で見る岡山の昭和」蓬郷巌著岡山文庫昭和62年発行昭和4年高松稲荷のケーブルカー開通備中高松...桃娘とマスカット娘

  • 発動機とバーチカルポンプ

    子どもの時、家にある唯一ともいえる近代的な農具は発動機だった。発動機で脱穀したり、畑や田んぼの灌漑にはバーチカルポンプとに使用していた。・・・・・・・・・・・・・・・・「目で見る岡山の昭和」蓬郷巌著岡山文庫昭和62年発行農発とバーチカルポンプの普及昭和2年石油発動機の大量生産が昭和時代に入るとともに増えて、県内の普及台数は25.000台で全国第一位。昭和12年の「岡山農発」の生産は17.000台で、全国60%のシェアを誇った。かんがい専用のバーチカルポンプも全国に先がけて普及し、機械化農業の先進県になった。発動機とバーチカルポンプ

  • 和服の女子・洋服の男子 (昭和4年の城見小)

    父の小田郡城見村立「城見尋常小学校」の卒業記念写真。男子児童数が37人・・・全員学帽・学生服女子児童数が38人・・・1名が洋服、37人が和服。この2年後くらいには女子も全員洋服になったと思われる。父の話などで推測すると、男子はこのうち、半数が高等小学校、半数が中等へ進学。中等学校進学の半数が神辺実業。残りは笠岡商・金光中・福山中(誠之館)。高等教育は、大学なし。陸軍士官学校1~2名。※管理人の卒業写真は父と同じ場所。最前列がイス、男女は右・左だった。驚くのが、父の方が生徒数が多い。・・・・・・・・・・・・・・・・・・「目で見る岡山の昭和」蓬郷巌著岡山文庫昭和62年発行昭和2年学童服が普及大正末期から児島で始まった学生服の大量生産で、学童たちの服装が、和服から学童服へと急速に変わっていった。昭和13年ごろには10...和服の女子・洋服の男子(昭和4年の城見小)

  • 隔離病舎

    伝染病は怖かった。2~3日前には、いっしょに遊んでいた子があっという間に亡くなった。家族では昭和20年の赤痢が流行した年、祖母と曽祖父が感染、隔離病舎に送られた。(小田郡城見村の隔離病舎跡地。現在は笠岡市「恵風荘」)その時、祖母は治り、曽祖父は死んだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・「金光町史本編」金光町平成15年発行隔離病舎伝染病の予防は諸外国との不平等条約改正のためにも政府は力を入れ、隔離病舎建設を市町村に強く要請した。「悪疫流行については、避病舎設置を厳達あり」強制を迫られた。伝染病の隔離病舎維持に莫大な経費がかかるため、対策として村民にその予防法を提示している。それは「蠅の駆除、肥溜の管理、寝具等の日光消毒、食器等の煮沸消毒」等を挙げた。一例・昭和3年の患者数赤痢19(死亡6)腸チフス3パラチフス1...隔離病舎

  • 病気・・・戦中・戦後

    「日本医療史」新村拓著吉川弘文館2006年発行戦時体制下の医療1929年の世界恐慌の波及による不況は、農村を疲労させ、産業の合理化は多くの失業者を生み出した。凶作に苦しむ東北では娘の身売りがみられ、欠食児童の急増や母子心中の増加が社会問題化していく。国民の体力低下を如実に示したのは、徴兵壮丁検査の結果である。徴兵検査の不合格者は大正末期、1000人につき約2502人であったが、1930年代には350~400人にまで増加した。筋骨薄弱者や結核患者が急増。合格者のうち、甲種合格者は年々減少していった。危機感を感じた軍は、新しい省の設立構想を打ち出した。「世界に冠絶する大和民族天賦の優良素質を今日ここまで低下せしめたるは衛生軽視の政治、行政機構に存するのである」として、中央行政機関の整備を強調した。1937年首相に就...病気・・・戦中・戦後

  • 病気・・・予防医学など

    「日本医療史」新村拓著吉川弘文館2006年発行性病予防行政性病予防行政は、売買春の場を中心に警察によって展開された。検梅を実施した。娼妓たちの商品価値の維持と営業保全と目的に検梅を実施した。遊郭の経営者たちは、娼妓が病気で休むことを避けようと画策したため、医学的な予防対策としては限界があった。性病はコレラや天然痘のように目に見えるかたちで社会に衝撃を与えるわけはない。その対策は遅れた。1910年サルバルサンを発見したことによって、梅毒はようやく治癒可能となった。この薬は副作用が強く、ペニシリンが登場するまでは治療に困難が伴った。一般の人が梅毒の苦しみや恐怖から解放されたのは、ペニシリンが普及するようになった戦後のことである。東京大学医学部付属病院1877年「貧困にして、研究上須要と認る者を無料入院せしめ、治療を...病気・・・予防医学など

  • 病気

    「日本医療史」新村拓著吉川弘文館2006年発行コレラコレラは、安政5年(1858)に大流行。治療法・薬はなく、庶民の間では村境で鉄砲を打つコレラ退散祭りなどした。文久2年1862)7月にも大流行、9月に入り衰えた。梅毒18世紀後半ファン・スウィーテン液が蘭方医に伝幡し1932年まで引き継がれた。駆梅療法剤としてサルバルサンが1909年に出た。ペニシリン等の抗生物質が1952年以降確立された。性病明治初期に設立された特定疾患を対象とした病院で、伝染病院と並んで梅毒病院が多い。公娼制度のもと各地にみられた遊郭は、梅毒をはじめとする性病の感染源となった。病気は人々の生活の中に深く入り込んだ。事態を変えたのはイギリス公使パークスである。1867年(慶応3)、開国後の日本に駐在することになったイギリス軍は、検梅制度の実施...病気

  • テレビ番組から「岡田更生館事件」

    フジテレビ・「アンビリバボー」放送日・2020年9月3日20:00~21:00真備町といえば、「2018西日本豪雨」で全国に被災報道がされた。その、真備町岡田といえば横溝正史の疎開先で知られ、地区には「金田一耕助」の看板や標識があふれている。終戦後、町に浮浪者があふれていたころ吉備郡真備町岡田に厚生施設ができた。それが「真備更生館」。管理人の妻は、学校卒業後、真備町岡田に毎日通勤していた。その妻に「岡田更生館」のことを聞いても、まったく知らなかった。管理人も、知らなかった。(一定の年齢以上の人なら)誰でも知っている、毎日新聞”大森実記者”。大森記者が更生館を取材した。そこには、監禁・虐待・暴行・傷害・殺人・搾取横領、栄養失調・感染症が充満していた。大森記者の記事が毎日新聞に載ると、国会に取りあげられた。岡田更生...テレビ番組から「岡田更生館事件」

  • 「知られざる福山海軍航空隊」展

    写真・2020.9.1場所・福山市伊勢丘「福山市東部支所」東部支所の玄関ロビーで写真展をしている。図書館ついでに見学した。戦時中、大津野村長の弟さんは海軍中将という偉い人で、昭和18年その縁もあり津之下に飛行場ができた。飛行機は田島や神島に隠したとある。神島には10機以上、茂平も2~3機隠していた。昭和19年3月に宅間航空隊の下部だったが、昭和20年3月「福山海軍航空隊」として独立した。そして戦争末期、「水上観測機により6月25~28日、沖縄本島付近に突入。9人死亡。」とある。時速が新幹線並み、またはそれ以下の飛行機で突っ込む。しかも観測機。出撃した日さえ、あいまい。さらに、戦死の発表は、その2ヶ月後。「8月10日海軍省が9名の戦死を発表」。国家に殉じた行為でありながら、兵の死は虫けら同然の軍だったのがよくわか...「知られざる福山海軍航空隊」展

  • 風船爆弾の矢掛小田工場・・・その4

    「風船爆弾」吉野興一著朝日新聞社2000年発行気球兵器の裏面「ふ号」は、爆弾投下後は自爆して「消える」はずだった。可燃性の素材ででき、器材もマグネシウム合金を使う試みもあった。「ふ号」と生物兵器細菌・害虫などは処女地へ行くと外敵がいないため予想外の繁殖を来すことがある。研究も行われていたが、攻撃の企画が確立されたとき、使用してはならいないと上から達せられた。研究は進められた事実はある。常石敬一は「登戸研究所が、牛に死をもたらすウイルスを風船爆弾に積み込む研究していた」と書く。アメリカ側の被害モンタナ、ワイオミング、オレゴン、アラスカ、カナダなどで巨大な紙風船が発見され始めた。これらの情報は、軍や警察、FBIにも届けられていた。「ふ号」はアメリカに到着していたのである。1945年1月4日、決定的な報告が届く。オレ...風船爆弾の矢掛小田工場・・・その4

  • 風船爆弾の矢掛小田工場・・・その3

    「風船爆弾」吉野紘一著朝日新聞社2000年発行風船爆弾無音でアメリカ大陸のあちこちに連続的山火事を起こさせ、敵に十分な恐怖感を抱かせる。少なくとも、最低でも30kgを超える爆弾または焼夷弾を吊るして放球する必要があると考えられた。高度維持装置や砂袋などの重量も合わせて200kg近い重量を、高度10.000m帯の偏西風に乗せるための浮力が逆算された。結局、気球の直径は10mと決まった。気球には水素ガスを充填した。高度10.000mの標準大気は約260ヘクトパスカルで、風船に充填する水素ガスに自由な膨張を許すならば地上にくらべで約4倍の体積に膨らむことを意味していた。もしも水素ガスを満杯にして放球したならば、気球はたちどころに上空で破裂することになる。かといって、気球の内部の膨張をおそれるあまり水素ガスの量をすくな...風船爆弾の矢掛小田工場・・・その3

  • 福山海軍航空隊へ連合軍が進駐

    「福山市史下巻」福山市史編纂会昭和58年発行福山海軍航空隊跡地(JFEふくやまフェスタ2016.5.8)昭和20年11月2日連合軍米第10軍41師162連隊の歩兵大隊約1.000人が、大津野の旧海軍航空施設に平穏に進駐した。警察署長はつぎのような心がまえを通達している。①家屋を解放せず、夜間は戸締りすること。②婦人は胸を現わさず素足を見せずモンペを着用する。③外人に笑顔を見せたり、ハンカチを振ったりしない。④たとえ拳銃を向けられても手を挙げたりせず、物品を持ち出すものには代金を請求する。⑤女子の貞操に対する危険には生命を賭して抵抗する、などである。連合軍兵士が、日本の婦女子に対して乱暴な行為に及ぶのではないかという心配は、一般市民の間に流言飛語となって流れていた。それに対する対策として9月20日に県下の関係業者...福山海軍航空隊へ連合軍が進駐

  • 日中戦争と四十一連隊

    「福山市史下巻」福山市史編纂会昭和58年発行歩兵41連隊跡地(2016.5.15福山ばら祭り)日中戦争と四十一連隊昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。7月27日第二次動員が第五師団にも下令され、これにともない四十一連隊(連隊長・山田鉄二郎大佐)も応召することになった。31日夕刻、福山駅から出発していった。山田部隊3.000人は12月上旬から南京総攻撃(いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった)に参加して中国軍に大損害を与えた。このころの山田部隊は進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。南京で正月を迎え、4月から徐州会戦に向かった。5月19日徐州占領した。こののち日中戦争は泥沼化したが、食糧難、武器不足、病気、中国軍ゲリラに悩まされながら、軍の作戦が北進論から南進論に転換しマレー...日中戦争と四十一連隊

  • 養蚕業の発展を拒む要因ほか 「福山市史」より

    「福山市史下巻」福山市史編纂会昭和58年発行養蚕業の発展を拒む要因大正期に川北・山野・中条・加茂の諸村に乾繭場を設け、大正11年駅家村に繭市場を設けた。しかし、いっそうの発展を阻む要因も存していた。それは生糸が海外の需要に依存し、海外の好不況が繭価の高低に決定的に作用していたこと。および「小農」の農家副業の一環として行う零細規模の養蚕業として成立していたためである。とくに養蚕業が主として桑の自給と結合しており、食糧自給を建前としていた当時の農家においては、桑栽培に大きな限界を有していた。また労働力の面においても、基本的には自家労働力に依存している限り養蚕業の発展には大きな限界があった。養蚕業は世界大恐慌(昭和5~7)の影響によって衰退し、その後一時回復するが、第二次大戦の勃発によって急速に衰退し、桑園は食料増産...養蚕業の発展を拒む要因ほか「福山市史」より

  • 松根油の大増産

    「新修倉敷市史第6巻」倉敷市平成16年発行松根油の大増産松根油は「肥松」と呼ばれる老松の根が原料。倉敷市では町内会単位に割り当て、市街地周辺の向山・足高山・酒津山などで掘ったが、割り当て事務の途中に次の割り当てが届く性急な増産要求だった。おまけに老松は間もなく底をついたが、増産要求は容赦なかった。翼賛壮年団・警防団・在郷軍人会の会員らを動員し松の根を掘っている。農家・疎開者・失業者・国民学校高等科の生徒らが動員された。山の中から松の根を掘り出し、硬い根を割り砕いて乾留する重労働だった。戦争末期には予科練習生も松根掘に従事した。それでも生産はなかなか増えなかった。さらに岡山県は昭和20年4月から、航空機の潤滑油の原料になるヒマ(トウゴマ)の緊急増産に乗り出し、農家は一戸平均40本以上を栽培するよう割り当てた。街路...松根油の大増産

  • 昭和14年の歴史的大干ばつ②野々浜の森池

    その年、茂平では八幡様で雨乞いの祈祷して火を焚いたそうだ。山口では、ため池の工事が始まった。「奥山池」(奥山池は昭和18年に完成した。笠岡市山口2020.4.11)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「野々浜むかし語り」野々浜公民館平成3年発行森池森池の工事は、昭和14年ごろから工事が始まった。毎日50人くらいの地元の者が、朝の8時から5時ごろまで働く。成年男子で1日1円20銭程の手間賃が出た。婦人や中学生は安かったはずだ。残業をすれば幾らか分も付けてくれた。皆人力で、つるはしやモッコ、トロッコなどで作業をした。工事の大半は築堤に費やされ、四反ほどもある堤防の敷地の上に土を積んではつく固め、また土を積む。森池が完成したのは昭和16年だったと思う。ここで子供らはよく泳いだ。わしは子供の頃、6尺ふんど...昭和14年の歴史的大干ばつ②野々浜の森池

  • 昭和14年の歴史的大干ばつ①倉敷

    昭和14年の大干ばつはよく知られているが、現在の倉敷市域でも、地域により豊作の水田があったようだ。(「岡山県の昭和史」山陽新聞社昭和61年発行)この写真は昭和39年のニュースで、毎日のように笠岡に各市町村から”友情の水”がタンク車で送られてきた。東京五輪の年、笠岡では飲み水に事欠いた。しかし、それは笠岡市笠岡限定で、かつ井戸水などが無い家庭に限られた。この年の夏は暑かったような記憶はあるが、家の稲作や果物・野菜に影響はなかった(と思う)。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「新修倉敷市史第6巻」倉敷市平成16年発行歴史的大干ばつ昭和14年の大干ばつ岡山観測所が記録した6~8月の降雨量は、過去一世紀平均の23%に足りなかったのである。初めは麦やイ草の収穫、製塩などの関係者を喜ばす晴天続きだったが、田植え時...昭和14年の歴史的大干ばつ①倉敷

  • 軍事施設の転換利用

    施設の転換利用といえば、明治の初め、日本全国のお城はすべてお殿様から国家(陸軍)の所有となった。・・・戦目的なので転換とはいえないかな。昭和20年8月の敗戦により、軍隊は消滅したので、自動的に転換利用となった。昭和40年代になると紡績工場閉鎖・売却による、大型ショッピングセンターの開店。これらが転換利用で目立つ。・・・・・・・・・・・・・・・・・「岡山県史現代Ⅰ」岡山県昭和59年発行軍事施設の転換利用津島の兵舎と練兵場は連合軍に接収され、兵舎は進駐軍の営舎。練兵場は飛行場に使用された。1947年(昭和22)3月に連合軍は呉に引き揚げた。兵舎第六高等学校は校舎焼失していたが、兵舎の一部(旧兵器支廠)を借りて授業を続けた。それが足掛かりとなり、1949年に岡山大学が設立の際、旧兵舎の全部をキャンパスにすることができ...軍事施設の転換利用

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