もちろんここで言っているのは、本当に物理的に人を殺めることを言っているのではない。修行者と力量ある師である作家との問答は、命を懸けた真剣勝負なのである。
山林・畑つきの1軒家に出会い、農のある暮らしを深めている最中であったが、原発事故にあう。
東京生まれ。20代のとき岩手県で3年間農業研修生として慣行農法を学ぶ。その後、仙台の郊外に家庭菜園を借り有機農法や自然農法を実践する。平成18年より宮城県角田市で山林・畑つきの1軒家に出会い、農のある暮らしをさらに深めている最中であったが、原発事故後は仙台市内に戻る。
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『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その5)
もちろんここで言っているのは、本当に物理的に人を殺めることを言っているのではない。修行者と力量ある師である作家との問答は、命を懸けた真剣勝負なのである。
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その4)
「死中得活(死中に活を得る)」。この語句は禅を考えるうえで重要な契機を与えてくれる。このような語句が多く登場することは、禅が生死に渡ることを示す。
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その3)
龍潭和尚は、徳山が仏の化身である老婆によって提起された「過去心・現在心・未来心」の公案を、徳山自身が体得できるよう、徳山の機微に合わせて接してやったのである。この徳山の説話は、禅における「わかる=悟る」の契機とその体験を垣間見させてくれる。
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その2)
この問答も傑作だ。「心」の問題を取り扱っている。「点心」と「点那箇心」がひっかけてあり機知にと富む問答になっているが、徳山にとっては、おばあさんの言葉は、「心」の問題を突き詰めてくる容赦のない問いとして迫ってきたであろう。
『碧巌録』より 第四則 徳山挟複子 / 徳山至潙山(その1)
禅では、形にとらわれない、執着しない、拘泥しないということが求められる。そのためには、時にこの徳山のような激しい行動が必要だ。心は行動に現れる。行動は心を形作る。形に捉われない心は、時にこんな奇矯とも取れる行動となって現れるし、奇矯な行動はとらわれのない心の表れでもある。
禅に「向上」「向上一路」という語がよく登場する。禅が目指す究極の境地を言う語でもあるし、また一つの境地に決してとどまることをしない(たとえ、それが究極の境地であっても)禅が、常に現状を打破し現在をつき抜けていく時のやむことのない努力を表す語でもある。
言葉は、自分の心境を表したり、自分に対する境界(環境)の様を描写して名付けるものである。山河大地は、自然とそこにあり、私たちに対峙するものである。自然とそこに存在するものをどうやって我々は認識するのか。
禅では、私が世界に対峙して、その世界(境界)の見方が求められるし、そういう見方ができるように修練することが禅でもある。そのものの見方とは、世界(境界)をありのまま、ありのままに見るということだ。
趙州が禅僧たちに示して言う、「禅の究極の道に至ることは難しい事ではない。ただ、あれこれ分別して選ぶことをしないことだ。境界を判断してそれをわずかに言葉にしただけで、それは分別・判断であり、ことを明白にしたということである。
『碧巌録』より 第一則 武帝問達磨 / 達磨廓然無聖(その5)
そういうわけで禅僧の雲門は言った。「禅の働きは、火打石を打った火花のように、ひらめく雷光のようだ」。
『碧巌録』より 第一則 武帝問達磨 / 達磨廓然無聖(その4)
禅では「刀」の喩えが多くもちいられている。刀は、迷いを断ち切る象徴でもあるが、過去、こだわりを断ち切る事でもある。
『碧巌録』より 第一則 武帝問達磨 / 達磨廓然無聖(その3)
達磨大師は人から人の心へとのみ伝えることのできる心に刻まれた真実を伝え、人々の迷いを晴らすため、インドから中国へやってきた。
日日是好日おそまきながらカンヌ映画祭でも賞を受賞した『Perfect Days(パーフェクトデイズ)』を見てきた。映画を見ていたら、無性に掃除をしたくなった。掃除はいい、心を磨くことだ。主人公の平山を演じる役所広司さんの演技がいい。主人公の平山は、無口な公共トイレ掃除人だ。スカイツリーが見える浅草かどこかの古いアパートに一人で住んでいる。彼には日々のルーティンがある。持ち物もきちんといつもの場所において、いつもの順番で取っていく。なにかそういう決まりごとにこだわりがある人なのかと思う一方で、日々の決まり(清規)をきちんとこなして生活していく禅僧のようにも思える。
『碧巌録』より 第一則 武帝問達磨 / 達磨廓然無聖(その2)
仏教の信仰が厚く、仏法の保護者を任じている梁の武帝が、インドから渡来した達磨大師に問うた。「仏教の最奥義とはいかがなるものでしょう」
『碧巌録』より 第一則 武帝問達磨 / 達磨廓然無聖(その1)
『碧巌録』は禅の問答が記されたもの。その問答を吟味して、禅の本質とは何かを考察しようと考えた。 第一則の標題は「武帝問達磨 / 達磨廓然無聖」
某国国営放送を聴取していた時のことだ。ちょうど、日銀の政策会議があった時で、大学教授を招いてその解説をしてもらっていた。解説担当の大学教授は、偉大な領袖様の唱導したアベノミクスが失敗したと断罪していた。日銀が株や国債をじゃんじゃん買い入れる無茶苦茶な政策とも、大企業の内部留保だけが積み上がり労働者の賃金が目減りし、そして、物価が上がれば賃金も上昇するとしてインフレターゲットを設けたことを間違った経済理論だとも。
ロシアでプーチン大統領が選挙を圧勝した様子は、日本の民主主義を考える際にも興味深い。プーチン大統領は、圧倒的な支持率で選挙戦を勝利した。プーチン大統領からするとこれも立派な独自の民主主義政治で、民主主義的な手続きにのっとった正統な民主政治ある。
モーツァルトの器楽曲は、時に空疎に聞こえてきたりする。特に、後輩のベートーベンが、苦悩に満ちた重々しい楽曲を作っていてそれと比べたりする時は。天真爛漫に見えるモーツァルトも、スポンサーやパトロンたちを満足させねばならず、きっと世知辛いこの世の辛酸も舐めたのであろう。
男の嫉妬が描かれているのは、シェークスピアの悲劇「オセロ」だ。何と言っても悪漢イヤーゴ。彼は、自分より出世する同僚に、そして何より、美しい妻を娶る異人種の上官に嫉妬する。
オペラの主人公にはダメ男が多い。「椿姫」のアルフレードや、そしてなんといてもその代表は「カルメン」のドン・ホセだ。
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もちろんここで言っているのは、本当に物理的に人を殺めることを言っているのではない。修行者と力量ある師である作家との問答は、命を懸けた真剣勝負なのである。
「死中得活(死中に活を得る)」。この語句は禅を考えるうえで重要な契機を与えてくれる。このような語句が多く登場することは、禅が生死に渡ることを示す。
龍潭和尚は、徳山が仏の化身である老婆によって提起された「過去心・現在心・未来心」の公案を、徳山自身が体得できるよう、徳山の機微に合わせて接してやったのである。この徳山の説話は、禅における「わかる=悟る」の契機とその体験を垣間見させてくれる。
この問答も傑作だ。「心」の問題を取り扱っている。「点心」と「点那箇心」がひっかけてあり機知にと富む問答になっているが、徳山にとっては、おばあさんの言葉は、「心」の問題を突き詰めてくる容赦のない問いとして迫ってきたであろう。
禅では、形にとらわれない、執着しない、拘泥しないということが求められる。そのためには、時にこの徳山のような激しい行動が必要だ。心は行動に現れる。行動は心を形作る。形に捉われない心は、時にこんな奇矯とも取れる行動となって現れるし、奇矯な行動はとらわれのない心の表れでもある。
禅に「向上」「向上一路」という語がよく登場する。禅が目指す究極の境地を言う語でもあるし、また一つの境地に決してとどまることをしない(たとえ、それが究極の境地であっても)禅が、常に現状を打破し現在をつき抜けていく時のやむことのない努力を表す語でもある。
言葉は、自分の心境を表したり、自分に対する境界(環境)の様を描写して名付けるものである。山河大地は、自然とそこにあり、私たちに対峙するものである。自然とそこに存在するものをどうやって我々は認識するのか。
禅では、私が世界に対峙して、その世界(境界)の見方が求められるし、そういう見方ができるように修練することが禅でもある。そのものの見方とは、世界(境界)をありのまま、ありのままに見るということだ。
趙州が禅僧たちに示して言う、「禅の究極の道に至ることは難しい事ではない。ただ、あれこれ分別して選ぶことをしないことだ。境界を判断してそれをわずかに言葉にしただけで、それは分別・判断であり、ことを明白にしたということである。
そういうわけで禅僧の雲門は言った。「禅の働きは、火打石を打った火花のように、ひらめく雷光のようだ」。
禅では「刀」の喩えが多くもちいられている。刀は、迷いを断ち切る象徴でもあるが、過去、こだわりを断ち切る事でもある。
達磨大師は人から人の心へとのみ伝えることのできる心に刻まれた真実を伝え、人々の迷いを晴らすため、インドから中国へやってきた。
日日是好日おそまきながらカンヌ映画祭でも賞を受賞した『Perfect Days(パーフェクトデイズ)』を見てきた。映画を見ていたら、無性に掃除をしたくなった。掃除はいい、心を磨くことだ。主人公の平山を演じる役所広司さんの演技がいい。主人公の平山は、無口な公共トイレ掃除人だ。スカイツリーが見える浅草かどこかの古いアパートに一人で住んでいる。彼には日々のルーティンがある。持ち物もきちんといつもの場所において、いつもの順番で取っていく。なにかそういう決まりごとにこだわりがある人なのかと思う一方で、日々の決まり(清規)をきちんとこなして生活していく禅僧のようにも思える。
仏教の信仰が厚く、仏法の保護者を任じている梁の武帝が、インドから渡来した達磨大師に問うた。「仏教の最奥義とはいかがなるものでしょう」
『碧巌録』は禅の問答が記されたもの。その問答を吟味して、禅の本質とは何かを考察しようと考えた。 第一則の標題は「武帝問達磨 / 達磨廓然無聖」
某国国営放送を聴取していた時のことだ。ちょうど、日銀の政策会議があった時で、大学教授を招いてその解説をしてもらっていた。解説担当の大学教授は、偉大な領袖様の唱導したアベノミクスが失敗したと断罪していた。日銀が株や国債をじゃんじゃん買い入れる無茶苦茶な政策とも、大企業の内部留保だけが積み上がり労働者の賃金が目減りし、そして、物価が上がれば賃金も上昇するとしてインフレターゲットを設けたことを間違った経済理論だとも。
ロシアでプーチン大統領が選挙を圧勝した様子は、日本の民主主義を考える際にも興味深い。プーチン大統領は、圧倒的な支持率で選挙戦を勝利した。プーチン大統領からするとこれも立派な独自の民主主義政治で、民主主義的な手続きにのっとった正統な民主政治ある。
モーツァルトの器楽曲は、時に空疎に聞こえてきたりする。特に、後輩のベートーベンが、苦悩に満ちた重々しい楽曲を作っていてそれと比べたりする時は。天真爛漫に見えるモーツァルトも、スポンサーやパトロンたちを満足させねばならず、きっと世知辛いこの世の辛酸も舐めたのであろう。
男の嫉妬が描かれているのは、シェークスピアの悲劇「オセロ」だ。何と言っても悪漢イヤーゴ。彼は、自分より出世する同僚に、そして何より、美しい妻を娶る異人種の上官に嫉妬する。
オペラの主人公にはダメ男が多い。「椿姫」のアルフレードや、そしてなんといてもその代表は「カルメン」のドン・ホセだ。
国民の政治離れが言われている。たとえば、選挙に参加する有権者は3割から4割以下だ。その原因の一つに、自分が何をしても、何を言っても政治は変わらないというあきらめの気持ちや徒労感がある。
軍事的緊張が高まっているところで、相手から先制攻撃を受けて被害が出ている、やむを得ず反撃せざるを得ないと言って、ずるずると侵攻を開始することがある。現在ロシアがよく使う作戦として知られているが、日本軍もかつて中国や満州で用いたものだ。
永吉希久子著『移民と日本社会 データで読み解く実態と将来像』(中公新書)読んで非常に参考になった著書であり考えさせられた。タイトル通り、外国人、移民、外国人労働者について冷静に分析している内容なので、決して声高に政策や主張をしているのではない。そこが余計に説得力がある。
2023年2月24日付の河北新報に掲載された保坂正康氏の論考に刺激を受けた。この論考はロシアのウクライナ侵攻が1年になるのにあたって「戦争」について考察したものだ。古い「戦争論」は、軍事学者のクラウゼビッツが書いたもので、「戦争」とは、相手にこちら側の政治的意思を押し付ける暴力行為であった。
人間の「安全保障」を高めることが必要だと考える。それは、変化する国際情勢などに対応し、国民の生活や生存に関して、将来はますます不安が募るからだ。もし、私たちに国の方針を決める政府や代議士を選択する力があるのであれば、私は人間の「安全保障」を大切にしてくれる代表者を応援したい。
私は国防費を増やすことに賛成だ。それは、こんな記事に触発されて考えた。
問題は「音」をどうするかです。日本語でもそうですが、実は言語は、音も一定せず発音も時とともに変化するのです。奈良時代の日本語と現代の日本語では発音が違っていた、特にハ行音の変化などはよく知られたところです。中国語もそうで、その詩が作られた当時の中国語の発音と現代の中国語では発音が全く変わっています。
自分が好きな漢詩を選んで、勝手に解釈し勝手に思ったことを書きます。でも、同じように中国で生まれ漢字で書かれた「漢詩」を好きになってくれる人が増えればうれしいのです。
チャップリンが演じる独裁者は、もちろんヒットラーの戯画化された姿だ。同時代的につくられたものだから、これを見たら本物のヒットラーはどう思っただろうか。映画の中では、独裁者が収容所を逃げ出したユダヤ人の床屋と間違われ、そのユダヤ人の床屋演じるチャップリンが独裁者と勘違いされ、オーストリア併合の場面で演説をすることになる。
どうせなら、(残された人生の中で)古典的名作映画は見ておきたいということで見たのは、日本の「鉄道員」ではなく、イタリアの「鉄道員」イタリアはなぜか「自然主義」の作風が強い。自然主義とは、現実を現実のままに描くこと。イタリア語では「リアリズモ」だろう。すると、労働者の生活や貧困や薄汚い現実をありのままに描くことになる。V・デ・シーカの「自転車泥棒」もよかったし、それより前のプッチーニの「ラ・ボエーム」も一種のリアリズムだろう。
昨年末だったか、『映画監督が選ぶ史上最高の映画べスト100』というのが、英国映画協会(BFI)から発表された。その第1位がスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』だった。これは難解な映画だったが、映像、特に宇宙の映像場面が素晴らしく、映画を作る方の立場の人からすれば、その苦労や凄さが分かるので、高評価なのだろうと思った。
映画「青い山脈」は石坂洋次郎の小説を映画化したもので、出演者をかえて何度も映画化されている。戦後間もない1949年の今井正監督の版は、女学校の教師島崎先生役を原節子さんが演じている。小津映画の原さんばかり見ていると、こういう新しい時代の自立する女性を演じる原さんがとても新鮮だったし、さらにはとても似合っていると思った。
昭和残侠伝は、1965年公開の東映映画。高倉健、池部良、三田佳子、松方弘樹らが出演。健さんの魅力が存分に堪能できる映画。しのびにしのんだ健さんが、ついに一人で立ち上がる健さんのたたずまいの美しさや寡黙さの魅力と言ったらない。
もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ議会であれ共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。
国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。
ソ連(ロシア)では、第2次世界大戦でヒトラー率いるドイツ軍と戦ったことを「大祖国戦争」というのだそうだ。これは偉大な祖国を侵略から守ったという矜持を込めての事だろう。その戦争の記憶や記録となれば、「公式」なものしか許されない。人々は、政府や世論(そして、日本風に言えば世間)が許容するそれに関する見解や記憶を語るしかないのだ。それは往々、指導的男性たちの、男どもの作り上げた勇ましくて英雄的で無味乾燥の「神話」だ。
河北新報10月17日付の「時評」に掲載された、中北浩爾氏の小論がずっと気になっていた。中北氏が述べている点で、私が気になったことを簡単に要約すると、