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  • 「ひろかずのブログ」は終了します

    「ひろかずのブログ」は終了します2006年6月14日午後5時ごろに「ひろかずのブログ(no1)」を発行しました。文章は以下のようでした。昼から、「ブログに挑戦してみよう(NHK)」を参考に、悪戦苦闘の末ブログを立ち上げました。よろしくお願いします。当面、「まち歩き」で、見たこと感じたことを投稿します。今日はその1です。(2006/6/14)・・・昼過ぎにある高校の前を通ったんです。あやしげな人が二人密談しているようなようす。近寄ると、その学校の先生で、校門前でタバコを「いとおしそうに」吸って、おられたんです。不思議な光景でした。先生も大変ですね・・・これだけのブログでした。写真もありません。実をいうと写真の挿入の方法がわからなかったです。それから、「ひろかずのブログ」は14年が過ぎ、5000号を超えました。退職...「ひろかずのブログ」は終了します

  • 東播農民運動史(19) 農民組合・東播地区の歴史的役割

    農民組合・東播地区の歴史的役割兵庫県でもっとも早く日本農民組合支部を結成したのは、印南郡伊保村中島支部であり、最初に地方連合会を創立したのも東播連合会でした。東播連合会が、とくに初期において全国的兵庫県的に先進的な地位をもちえた要因は次のようでした。第一に、東播地方が県内最大の農業地域、農業生産高、最大多数の小作農家戸数をようする地域でした。また、兵庫県で最大、かつ最多数の地主的土地所有が分布し、それに見合った小作地経営が発達していました。印南郡伊保村中島に始まる日農指導下の小作争議が各地に飛び火すると、猛烈な勢いで播州平野に広がっていきました。第二に、東播連合会は、各地に分散していた自然発生的な小作人組合を、初めて近代的農民組合に組織する組織者の役割をはたしました。第三に、東播連合会の発展を促進した重要な要因...東播農民運動史(19)農民組合・東播地区の歴史的役割

  • 東播農民運動史(18) 赤はちまき事件

    赤はちまき事件大正13年12月、加古川小学校敷地拡大のため耕作者(N氏)の了解もなしに、田地1町3反を地主が町に売ってしまったのです。そして町当局が造成工事を着手しました。N氏等は1925年の中頃東播連合会に加入し、地主売渡価格の3分の1の要求しました。これに対して、町長はこれに対し、小作の耕作権はもちろん金銭の要求も拒否したため、木村(加古川町木村)の農民は、牛の角に赤はちまきをつけ、畝作りをして麦を蒔き、耕作するというユニークな方法で権利を地主に求めさせました。この一件により、地主の所有権より耕作権が優先することが認められたのです。大きな成果でした。この事件は「赤ハチマキ事件」と呼ばれました。しかし、この「赤はちまき事件」を指導した河合義一ら4人は半年間留置されました。義一は、昭和六年(1931)県会議員に...東播農民運動史(18)赤はちまき事件

  • 東播農民運動史(17) 河合義一

    河合義一大正七年(1918)の米騒動は、日本の労働運動に大きな影響をあたえました。さらに、第一次世界大戦後、ロシア革命の思想的な影響もあって、多数の農民組合・労働組合が組織されました。農村においては小作争議が年ごとに激増しました。県下では、最初に「農民組合東播連合会」が結成され、河合義一は会長に選らばれました。義一は、東京外語大学でフランス語を学び、卒業後は日本銀行に就職しましたが、まもなく発病(結核)し、神奈川県のサナトリウムで療養しました。この不慮の発病が、彼(河合義一)のその後の進路を大きく変えました。また、東京外語時代キリスト教徒であった彼は、本郷教会へよく通い、この本郷教会の持つ環境が、彼のその後の方向を決定的にしたともいえます。本郷教会に集まった人々の中には、大正デモクラシーの指導的役割を果した吉野...東播農民運動史(17)河合義一

  • 東播農民運動史(16) 野口の小作争議

    野口の小作争議1924年(大正13)の調査がある。加古郡の小作率は64.5%で、印南郡のそれは63.9%でした。ものすごく高率小作率でした。大正13年4月2日、加古川公会堂(現:加古川小学校近くの現在の市立図書館)で日本農民組合東播連合会の創立大会が行われました。「・・・生存の権利を持って対抗し、団結と組織をもって土地と自由を得るまで努力する・・・」と宣言しました。団結した農民のエネルギーは地主に小作料の減免を要求しまし。大正13年、野口の鵤(加古川市野口町長砂)では、大規模な小作争議が展開され、小作料の引き下げを求めました。これに対して地主は、成育中の稲を差し押さえ、小作人に、稲を刈り取らせないように対抗したのです。小作人は、「稲の刈り取りと運搬をさせて欲しい」と要求したが断られました。ある朝、地主側が雇った...東播農民運動史(16)野口の小作争議

  • 東播農民運動史(15) 小作争議:工業労働者との接触、啓発

    小作争議:工業労働者との接触、啓発加古郡・印南郡の小作率は、県下でも飛びぬけて高率でした。やがて、小作の怒りは小作争議として爆発しました。当時の社会情勢をみておきたい。第一次世界大戦後小作争議が頻発します。これはこの頃、工業化がすすみ、工業労働者との接触と啓発がありました。なによりも、大正10年(1921)の川崎及び三菱造船所の労働争議の影響があり、大正11年、全国農民組合である日本農民組合(日農)が神戸で発会しました。「日農」は、小作の地位向上と生活の安定を目指して小作争議を指導しました。大正12年、東播連合会が結成され、八幡村(現:加古川市八幡町)宗佐に本部をおきました。小作争議の主な要求は、地主に対して小作料の減免でしたが、従来の「お願い」から「要求」へとかわっていきました。◇国包の小作争議◇(*『大正1...東播農民運動史(15)小作争議:工業労働者との接触、啓発

  • 東播農民運動史(14) 地主と小作の関係

    地主と小作の関係見土呂村(現:上荘町見土呂)の大西甚一平は、明治20年(1889)に7郡にまたがって耕地と宅地192町、山林52町あまりを所有していた県内でも有数の大地主でした。大西家に残る当時の地主と小作の関係を示す「小作証書」から、地主と小作の関係をみておきます。文書は、省略しますが、内容は次のようです。◇小作証書(小作契約書)◇①小作契約は二年間であること。②米の作柄にかかわらず11月15日までに小作料を納めること。③期限までに納められなかった場合は、請け人(保証人)が代わって小作料を納入すること。④契約期間内であっても地主から要求があればいつでも小作地をかえす。また、別の契約書には、納入する小作米は大粒の高品質のものに限ることや米俵の種類の指定まで定めています。当時の地主と小作の関係が分かります。小作の...東播農民運動史(14)地主と小作の関係

  • 東播農民運動史(13) 農民組合・東播地区の歴史的役割

    農民組合・東播地区の歴史的役割兵庫県でもっとも早く日本農民組合支部を結成したのは、印南郡伊保村中島支部であり、最初に地方連合会を創立したのも東播連合会でした。東播連合会が、とくに初期において全国的兵庫県的に先進的な地位をもちえた要因は次のようでした。第一に、東播地方が県内最大の農業地域、農業生産高、最大多数の小作農家戸数をようする地域でした。また、兵庫県で最大、かつ最多数の地主的土地所有が分布し、それに見合った小作地経営が発達していました。印南郡伊保村中島に始まる日農指導下の小作争議が各地に飛び火すると、猛烈な勢いで播州平野に広がっていきました。第二に、東播連合会は、各地に分散していた自然発生的な小作人組合を、初めて近代的農民組合に組織する組織者の役割をはたしました。第三に、東播連合会の発展を促進した重要な要因...東播農民運動史(13)農民組合・東播地区の歴史的役割

  • 三島由紀夫(2) 加古川へは、徴兵検査と入隊前の2回のみ

    「東播農民史」をお休みにして、余話として三島由紀夫の続きです。三島由紀夫(2)加古川へは、徴兵検査と入隊前の2回のみまた、由紀夫は、青野ヶ原への入隊時については、『仮面の告白』で次のように書いています。・・・「(入隊の日)風邪で立っていることもできないほどだった。青野ヶ原の検査会場で、獣のように丸裸にさせられウロウロしているうちに何度かくしゃみをした。風邪のために熱が高く血沈を示したので肺浸潤といわれ、即日帰郷を命じられ・・・」と、ほとんど実話を書いています。ともかく、由紀夫が加古川市を訪れたのは、徴兵検査とこの入隊時のの二回だけです。由紀夫は都会人であり、加古川はあまり好きでなかったようです。由紀夫は、昭和45年11月25日に自衛隊市ヶ谷駐屯地での由紀夫自決しました。三島由紀夫は市としても、観光資源として紹介...三島由紀夫(2)加古川へは、徴兵検査と入隊前の2回のみ

  • 三島由紀夫(1) おじいさんは志方出身

    新しい発見がありましたので、「東播農民運動史」をお休みにして、余話として三島由紀夫のお話です。三島由紀夫(1)おじいさんは志方出身今年は三島由紀夫没後50年です。由紀夫のおじいさんの平岡定太郎(さだたろう)の話から始めます。彼は、福島県知事に抜擢されました。抜擢したのは原敬です。彼は、樺太庁長官にもなりました。定太郎の長男が梓(あずさ)で、その息子が平岡公威(きみたけ)、つまり三島由紀夫です。定太郎は、加古川市志方町に生まれています。でも、家族は、定太郎の時代に東京に移転しており、もちろん由紀夫は東京生まれです。三島由紀夫と直接関係した人も、ほとんど亡くなりです。50年の歳月は「ずいぶん昔」なんですね。NHKは特集番組を組まれるそうで、先日、東京から取材に来られ、三島由紀夫の足跡を一緒に歩きました。平岡家の菩提...三島由紀夫(1)おじいさんは志方出身

  • 東播農民運動史(12) 中島支部の小作争議

    中島支部の小作争議東播地方でもっとも攻勢的な小作争議としてあげられるのは、伊保村中島支部のたたかいでした。大正11年(1922)、支部結成時点で小作料1割9分減額を獲得しました。その後、地主が申立てた小作調停委員会記録によると、「(地主は)大正12年度の作柄も豊作でしたが、3割の減額を行ました。が、小作は、さらに大正13年度は5割減額を要求し、大正14年度小作料についても、組合は虫害被害を理由として前年同様、6割6分減免」を要求しました。これに対し、調停委員会の審議は大正15年9月まで続きましたが、妥協が成立せず不調に終わりました。調停打切りとなり、地主はただちに大正15年度稲作を立毛のまま差押を申請しました。組合も東播連合会の応援を得て立毛差押にたいする警戒・動員体制をとりました。魚橋警察署長及伊保村長両名、...東播農民運動史(12)中島支部の小作争議

  • 東播農民運動史(11) 県下で最初の日本農民組合、中島支部結成

    県下で最初の日本農民組合、中島支部結成大正10年秋は地方一帯が凶作で、中島では反当2石4斗の収穫にしかなりませんでした。4月に新聞で日農創立のことを知り、中島では、数回の寄合をもって協議し、小作料2割5分~3割減額要求を地主に提出することをきめ、小作組合の結成にこぎつけました。志方、井上、中島、岸井、北野の5名が神戸の賀川豊彦氏の所へ相談に出かけ、行政長蔵(ゆきまさちょうぞう)が本部から派遣されました。この時の争議では、小作地返還戦術は問題にならず、4月28日に玄長寺(中島・写真)で杜会問題小作問題講演会を開いて、周辺20数ケ部落の農民に参加をよびかけ、小作農民の団結を強化して地主とたたかうことを、22日に発表しました。当時印南、加占郡各地には小作料減額を要求する動きが伝わり、一触即発の情勢のなかで、日農本部が...東播農民運動史(11)県下で最初の日本農民組合、中島支部結成

  • 東播農民運動史(10) 地主・多木久米次郎

    地主・多木久米次郎加古郡別府村、多本久米次郎家は、干鰯など魚肥商を主として高利貸付で土地を集積し、明治12年(1879)には12町5反歩を所有しました。久米次郎は、農業の肥科利用が魚肥よりも、早期に合成肥料の生産へ、次に化学肥科製造に目をつけました。そして農地514町歩を買い集めて、植民地地主に転身しました。大正末期にはそれが1600町歩、小作人1173名をもつ大農場主となり、昭和初期にはさらに小作地2400百町歩に拡大して、朝鮮全土で最大の個人農場主となっています。農場経営と並行して、多木製肥所が生産する肥料の販路拡大につとめ、農場小作人にも肥料を貰付けては、現物で回収するやり方で収益を高めました。朝鮮人小作震民がこれに対して、地主であり資本本家である多木の不法な手段であるとして昭和7年「米殺と肥料の代金返還...東播農民運動史(10)地主・多木久米次郎

  • 東播農民運動史(9) 余話として、大地主:近藤亀蔵

    余話として、大地主:近藤亀蔵北播に近藤亀蔵というとてつもない大地主がいました。余話として紹介しておきましょう。・・・・「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門(かど)通れば後光さす」と、当時の俗謡に歌われている。何でも相撲の番づけ表に見立てるのが日本人の好みで、江戸時代大はやりしたが、享保年間(1730年ごろ)に、はじめて「日本長者鑑(かがみ)」という長者番づけが出たとき、東西の両横綱として上げられたのは、東が出羽の本間、財産四十万で、西は播磨の近藤、六十万両であり、近藤家は日本一の大金持ちと折り紙をつけられた。寛政元年(1789)、わずか九歳で先代の跡を継いだ亀蔵は、文化、文政、天保へと40年間にわたり、いろいろなことに東奔西走した。地主のほかに、回漕業(海運業)をもっとも手広くやり、大坂・兵庫・高砂・下関に倉庫をお...東播農民運動史(9)余話として、大地主:近藤亀蔵

  • 東播農民運動史(8) 地主・大西甚一平(現:加古川市上荘町)

    地主・大西甚一平(現:加古川市上荘町)加古川地方は、綿作の中心地であり、江戸時代の終わりのころ綿作は大いにさかんでした。しかし、明治時代に入りしばらくすると質のよい、安価な輸入綿におされ綿作は衰え、また、明治14年からはじまった松方内閣のデフレ政策により農産物は一気に下落し、土地を手放す農民があいつぎました。一方で、これらの土地を集積して、この地方では、多くの大地主が誕生しています。特に、加古川地方は小作率(土地のうち小作地のしめる割合)が高く、明治36年の調べであるが、小作率は加古郡が69.7%、印南郡が55.9%でした。この数字は、県平均の52.1%と比べて随分比率です。前回の復習です。現高砂市の伊藤長次郎は、県内最大の地主で、明治26年(1893)に播磨11郡で田畑456町、宅地6町、山林48町を所有して...東播農民運動史(8)地主・大西甚一平(現:加古川市上荘町)

  • 東播農民運動史(7) 地主・伊藤長次郎家

    中島の農民運動を見る時、今市の伊藤長次郎家を省くことはできません。簡単に伊藤家と時代背景ついて触れておきます。*伊藤家は、代々、伊藤長次郎の名を受け継いでいます。地主・伊藤長次郎家明治初期に伊藤家が、村内で所有した土地面積は、田2反6畝1歩、畑14反4畝15歩、宅地5反歩であったといいます。伊藤家先代が、積極的に「土地を買い入れた時期は、明治10年代の初め頃から17、8年頃です。きわめて短期間に517町4反5歩まで買い進めました。それまで、干鰯、綿、木綿、さらに米、麦、油、素麺を扱う商人資本であった伊藤家が、大土地を所有するには、二つの理由が考えられます。一つは、それまで好況をうたわれてきた姫路木綿の価格が、1877(明治10)年頃から下落し、綿織物などの農村家内工業は衰退したことです。農家は、肥料の買入れにも...東播農民運動史(7)地主・伊藤長次郎家

  • 東播農民運動史(6) 中島の70戸の集落、うち農家は47戸

    中島は、兵庫県で最初に日本農民組合の支部が結成された集落です。中島・今市を含む農民運動について『東播地方農民運動史(木津力松著)』(写真)に詳しく紹介されていますので、読んでみます。中島の70戸の集落、うち農家は47戸兵庫県で最初に日農(日本農民組合)支部が結成されたのは1922(大正11)年4月28日、印南郡伊保村中島支部でした。当時、中島は、総戸数70戸、うち農家は47戸、非農家が23戸の集落で、農業戸数の大部分をしめる約40戸が小作、自小作と推定されます。非農家には地主があり、他方で農業を離れ、日本毛織、三菱製紙、鐘渕紡績に通勤する労働者の多いのが特散でした。耕地面積は、田36歩の大半を、近在の大地主・伊藤家(今市)をはじめとする数戸が所有しており、小作地として27.3町歩を貸し付けていました。*大地主・...東播農民運動史(6)中島の70戸の集落、うち農家は47戸

  • 東播農民運動史(5) 日本農民組合、神戸で誕生

    日本農民組合、神戸で誕生大正7年(1918)年に起きた米騒動は日本の杜会運動動に大きな影響を与えました。さらに、第一次世界大戦後のロシア革命の思想的影響もあって多数の労働組合が組織され、同8年には497件ものストライキが起きています。並行して、農村においても小作争識件数は年ごとに激増しました。小作人組合が組織され、小作人も組合を背景に集団的に要求する形に変わっていきました。このような時期に、日本農民組合創立者である賀川豊彦(写真)と杉山元治郎によって設立の準備がすすみ、同11年4月9、神戸キリスト教青年会館において創立大会が開かれました。大会議長に杉山が選ばれ、貿川起草の次の綱領が決定されました。綱領一、われら農民は知識を養い、技術をみがき、徳性を涵養し、農村生活を享楽し、農村文化の完成を期す。一、われらは相互...東播農民運動史(5)日本農民組合、神戸で誕生

  • 東播磨農民運動史(4) 東播は、飛び抜けて小作の多い地域

    東播は、飛び抜けて小作の多い地域やがて、江戸幕府は終わり、日本は開国をします。それに伴い、機械紡績が始まりました。安い外国綿がどっと輸入されるようになり、国内の綿生産の衰退は決定的となりました。明治10年代になると神戸港の輸入品は綿糸・綿花・石油でした。特に、イギリス綿糸やインド綿花の輸入が激増しています。東播の貧しい農民に、貧困がひろがりました。そのため多くの農民は、田畑を手放します。いっぽう、木綿問屋など村の富農層は、土地を集め、いっそう経営規模を拡大させました。この傾向は、明治になりますます広がります。明治14年のようすを見ておきます。兵庫県下の平均小作率は44.5%と高率でしたが、加古郡は55%、印南郡は53%と綿作のさかんな両郡とも県平均をはるかに上回る小作率でした。見土呂の大西家を例にすると、天保7...東播磨農民運動史(4)東播は、飛び抜けて小作の多い地域

  • 東播農民運動史(3) 木綿を藩の専売品に

    木綿を藩の専売品に江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。道臣は、姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。しかし、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできなかったのです。江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。しかし、多くの地元の木綿業者や藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつも、なかなか道臣の案に協力しませんでした。と、いうよりも協力できなかったのです。*小説ですが、河合寸翁の経済政策について、『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』(文庫『河合道臣』PHP文庫)をお読みくだ...東播農民運動史(3)木綿を藩の専売品に

  • 東播農民運動史(2) 綿の話から始めましょう

    綿の話から始めましょう綿の話から『東播磨農民運動史』をはじめます。綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河伝えられたのが最初であるとい割れていますが、栽培技術が伴わずその時は絶滅してしまいました。その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地になりました。木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立ったのです。江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになりました。姫路木綿は、品質がよく、市川や加古川の水質が木綿を晒すには適していたのです。姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、江戸で大好評を得ました。この...東播農民運動史(2)綿の話から始めましょう

  • 東播地方農民運動歴史(1) 『東播の農民運動史』を紹介しましょう

    前号で「文観」を終えることにしました。すっきりした終わり方でなく申し訳ありません。でも、最近「文観さん」は加古川出身であることは、歴史学会でも確かめられました。地元でも、もっと知ってほしいし人物です。全国的にも広く宣伝したいですね。『東播の農民運動史』を紹介しましょうところで、「ひろかずのブログ」ですが、前にも書いたように5000号でやめようと計画していました。前号で5107号になりました。もっとも、最近はおなじような記事が重なっています。でも、終わることにチョット躊躇しています。書き残した話題があると意味だけではありません。もちろん、ぜひ調べたい話題も残っています。特に、東播地方での赤松一族の活躍の話題と東播の日本農民運動史です。中世の東播における赤松一族の話題は、紹介できません。というのは、今のところ歴史学...東播地方農民運動歴史(1)『東播の農民運動史』を紹介しましょう

  • 文観(39) 天満大池(2)・天満大池の改修と西大寺(文観)ルート

    天満大池の改修と西大寺(文観)ルート6世紀のなかば、日本に仏教が伝わり、そこには有益な知識や技術が含まれていました。平安時代のはじめになると、神社側では「このままでは、自分たちは時代おくれになるぞ」と言う声がひろまりました。そのため、神社を支配する豪族や武士が、僧侶をやとって神前で仏事を行いました。また、仏教がわも、庶民に慕われている神道と結びつくことによって布教を有利に進めることができたのです。やがて、神社にお寺が併設されました。これが神宮寺です。天満神社の場合の神宮寺は、円光寺で天満神社に併設していました。このように、日本では仏教と神道が争うことなく融合していました。しかし、明治政府は、仏教と神道の分離を命じました。そのため、円光寺は今の中村の地に移転させられました。この円光寺は、西大寺の末寺である大野(加...文観(39)天満大池(2)・天満大池の改修と西大寺(文観)ルート

  • 文観(38) 天満大池(1)・天満大池は、鎌倉時代の築造か?

    またまた話題は、新井用水から飛びます。天満大池(加古郡稲美町)の話です。ここでも、西大寺農業技術集団・文観が登場します。天満大池は、鎌倉時代の築造か?『稲美町史』より、国安天満宮の沿革をみておきます。国安天満宮(稲美町国安)のは白雉(はくち)4年(653)、王子権現という錫杖地蔵を勧請して創建され、その場所は、国安東で、現在の天満神社のお旅所でした。寛平5年(893)社殿を今の地に移し、天満大池は、白鳳3年(675)に築造したとしています。そして、永禄8年(1565)6月、本社を再建し、この時に主神を天満天神(菅原道真)としました。ざっと、以上のようです。池大神「天満大池は、白鳳3年(675)に築造」に注目ください。天満大池は、白鳳の頃には築かれたというのです。もちろん、白鳳時代にも池(原天満大池)はあった想像...文観(38)天満大池(1)・天満大池は、鎌倉時代の築造か?

  • 文観(37) 五ヶ井用水と西大寺技術集団(6) 五ヶ井用水は、西大寺勢力の全盛の「文観の時代」に修築

    五ヶ井用水は、西大寺勢力の全盛の「文観の時代」に修築「五ヵ井の改築が、いつなされたか」ということです。兵庫大学の金子先生論文「東播磨における文観の活動」をお借りします。五ヶ井改築に関係する伝承・寺伝を有する三寺(常楽寺・鶴林寺・常住寺)には、すべてに西大寺勢力が入っています。このようなことから、西大寺勢力が加古川下流域に勢力を伸ばした鎌倉時代後期以降と考えられます。ある記録によると、赤松円心支配地に、「五箇庄内宿村付、下司・公文・政所名・木村・大津村」が含まれています。これは、(赤松)円心が得た播磨守護領五箇荘のうち、守護の直接的支配が及ぶ地域です。宿村(現在の加古川町本町)、木村(現在の加古川町木村)、大津村(現在の加古川町稲屋)です。五ヶ井の主要井筋の一つ「木村筋」は、現在でもこ本町・木村・稲屋の水路(井筋...文観(37)五ヶ井用水と西大寺技術集団(6)五ヶ井用水は、西大寺勢力の全盛の「文観の時代」に修築

  • 文観(36) 五ヶ井用水と西大寺技術集団(5)

    伊派石工集団常楽寺(加古川町大野)の墓地に立派な宝塔があります。この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすく、従って、安く作ることができます。常楽寺の宝塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料とした宝塔です。西大寺の末寺・報恩寺の四基の五輪塔も花崗岩です。そして、報恩寺には見事な花崗岩の十三重の層塔(写真)があります。常楽寺の宝塔や報恩寺の層塔・五輪塔は、他所で完成させ、ここに運ばれたものと思われます。これらの宝塔・十三重の層塔・五輪塔は、ともに西大寺の石工集団伊派の製作による石造物といわれています。当時、硬い花崗岩に見事な細工を加工する技術を持った石工集団は、西大寺の石工集団より見つけることはできません。報恩寺の五...文観(36)五ヶ井用水と西大寺技術集団(5)

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