五ヶ井用水と西大寺技術集団(4)加古川下流域左岸の「五ヶ井(ごかい)用水」と西大寺勢力との関係を注目しています。五ヶ井修築に関係する伝承・寺伝があるのは、加古川市加古川町大野の常楽寺、加古川市加古川町北在家の鶴林寺、そして元は加古川宿にあった加古川市加古川町寺家町にあった常住寺です。常楽寺は、西大寺の末寺帳にあるように、播磨における筆頭末寺です。鶴林寺には、叡尊(西大寺中興の僧)が法華山で盛大な授戒活動を行なった後の帰路の弘安八(1285)年八月九日に宿泊しています。また、鶴林寺の応永の復興の建築物群が典型的な折衷様であり、鶴林寺の大工集団が南都系の姓であることなどから、鶴林寺に西大寺系勢力が入り込んでいたことは確実です。前回紹介したように、常住寺には、五ヶ井の井堰起工の当初、(日岡の神と聖徳太子)とが常住寺で...文観(35)五ヶ井用水と西大寺技術集団(4)
五ヶ井用水と西大寺技術集団(3)鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。人口も増えました。商業活動も盛んになりました。『加古川市史』は、「農業生産を高める用水の必要性を認めながらも、この時代には、農業技術の発達はまだなく、五ヶ井用水の完成は、農業技術の発達は戦国時代を待たねばなりません」としています。西大寺技術集団唐突に、ここに鎌倉時代の西大寺派の農業技術集団が登場します。一般的に鎌倉時代に、大河に堰を設けるなどということは、技術的に不可能と思われていたのです。でも、私たちの地域には、その技術がありました。五ヶ井用水は、北条郷から始まり、加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄の水田を潤しています。常樂寺は、大野(加古川市加古川町大野)は、北條郷にある西大寺派の有力寺院でした。五ヶ...文観(34)五ヶ井用水と西大寺技術集団(3)
文観(33) 『加古川市史」は五ヵ井用水の改修の完成を戦国時代としているが
五ヶ井用水と西大寺技術集団(2)『加古川市史」は五ヵ井用水の改修の完成を戦国時代としているが。以下は、平成29年度氷丘公民館地域学講座「日岡の文観(1315年前後を中心に)」、兵庫大学教授金子哲氏の講演を参照にさせていただいています。・・・・一般論として、鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。人口も増えました。商業活動も盛んになりました。『加古川市史』は、「農業生産を高める用水の必要性を認めながらも、この時代には、加古川という大河を利用した用水を造る技術がまだなく、五ヶ井用水の完成は、農業技術の発達は戦国時代を待たねばなりません」としています。(no5101)*図:五ヶ井用水水路図文観(33)『加古川市史」は五ヵ井用水の改修の完成を戦国時代としているが
五ヶ井用水と西大寺技術集団(1)五ケ井用水の成立は、室町時代(戦国時代)か?気まぐれですが、ここで話題を「五ヶ井用水」に変えます。五ヶ井用水の伝承はともかく歴史の古い用水です。加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古い用水です。「五ヶ井用水」は、北条郷・加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄という五ヶ井郷(庄)の用水であるところから名づけられた名称です。これらの名称からも推測できるが溝は古くからありました。それでは、五ヶ井郷が一体の井組として成立したのはいつのことでしょう。『加古川市歴史』は、郷村制の解体しきっていない時代、つまり室町時代(戦国時代)のことと考えられるとしています。五ヵ井用水改修の土木技術『加古川市史』は次...文観(32)五ケ井用水の成立は、室町時代(戦国時代)か?
常楽寺の宝塔前回の続きです。常楽寺の墓地にある宝塔も材質(花崗岩)、様式等から伊派の手による石造物であることはたしかです。この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)に次のような説明があります。(文章は変えています) (常楽寺宝塔) 花崗岩製 高さ 2.35メートル 銘文 正和四年(1315)乙卯八月 日 願主 沙弥道智この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時、慈母をここ葬ったと『播磨鑑』は伝えています。 道智は、東大寺戒壇院の律僧『播磨鑑』の著者、平野庸脩(ひらのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。また、塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈すればよいのでしょうか。『播磨鑑』が書かれたのを元禄時代(...文観(31)常楽寺の宝塔
東播磨正和石塔群造立の背景八田洋子氏は、福田寺層塔の解説文の中で、「播麿地方には、正和の銘の入った石造物が四基ある・・・(中略)・・・これらは、中央の伊派の作晶であることが考えられる」という重要な指摘をされています。この四基の石造物とは、常楽寺宝塔・報恩寺五輪塔・一乗寺笠塔婆・福田寺層塔のことです。これらの石塔群を山川論文では「東播磨正和石塔群」と一括して紹介されています。この東播磨正和塔群のうち、常楽寺宝塔と福田寺層塔の基礎格狭問の形状が非常に類似する点は、先に紹介したように八田氏によって指摘されています。この他にこれらの石塔間の共通点を探るなら、石塔が造立さている場が、いずれも文観や西犬寺と関係の深い寺院であることです。一乗寺笠塔婆が後醍醐天皇(実際は即位前〉の「勅」よって、文観を中心に造立されたものである...文観(30)東播磨正和石塔群造立の背景
福田寺の層塔自宅から2キロほど西へ行くと稲屋(加古川市加古川町稲屋)の集落があります。稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。稲屋の近くにある泊神社は、地域の氏神であり、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられています。この稲屋に福田寺という古刹があります。「ふくでんじ」と読みます。福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔があります。現在は十一重ですが、本来は十三重であったと思われます。塔身(初層軸)には、三面に如来像を浮き彫りされています。この反対の面の如来像両協に銘文があり、銘からこの層塔は、正和二...文観(30)福田寺の層塔
法華山の一乗寺の傘塔婆文観が正応三年(1290)、一乗寺において慶尊律師の下で得度(とくど・出家)しました。文観13歳の時でした。ということは、文観が小僧として常楽寺(加古川町大野)に入ったのは10歳ごろだったのかもしれません。一乗寺の正門付近は、高さ290㎝の大型の笠塔婆(凝灰岩製)があります。文字は読みにくいですが、写真をご覧ください。塔身正面の上部に種子(梵字)「アーク(大日如来)」と彫り、その下に大きな字で「金輪聖王」、その下に少しあけて「自金堂一町」と彫られています。その下に、やや小さな字で「正和五十二月廿一日」「依勅造立之」と二行に分けて刻まれています。この笠塔婆は、正和五年(1316)十二月に造立されたものであることを知ることができます。「勅」というのですから、通常ならは天皇による命です。この傘塔...文観(29)法華山の一乗寺の傘塔婆
報恩寺の五輪塔*平荘町山角前回、報恩寺の層塔を紹介しましたが・今回も同寺の五輪塔の紹介です。『加古川市史(第一巻)』を読んでみます。・・・・五輪塔の作者は大和伊派(いは)の名工、伊行恒(いのゆきつね)であるという、・・・・伊行恒は、大和を根拠地にしながら、摂津の御影を中心にその活躍が知られている。その伊派の石工たちたちが深く関係したのが、大和の西大寺の叡尊(えいぞん)・忍性であって、叡尊・忍性が「殺生禁断」の記念碑として各地に建立した十三重の塔は、すべて伊派の石工たちが刻んだものであったとこともよく知られている。・・・・報恩寺の層塔は、形式などからも伊派の石工による作品として間違いがなさそうである。報恩寺の層塔の銘を読んでおきます。銘文常勝寺元応元年巳未(1319)十一月六日銘には、常勝寺とあり、報恩寺ではあり...文観(28)報恩寺の五輪塔*平荘町山角
文観を追いかけていますが、西大寺の石工技術集団について付け加えておきましょう。伊派石工集団常楽寺の墓地に立派な宝塔があります。この近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすく、従って、安く作ることができます。常楽寺の宝塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料とした宝塔です。報恩寺(平荘町山角)の四基の五輪塔も花崗岩です。そして、報恩寺には見事な花崗岩の十三重の層塔があります。常楽寺の宝塔や報恩寺の層塔・五輪塔は、他所で完成させ、ここに運ばれたものと思われる。これらの宝塔・十三重の層塔・五輪塔は、ともに西大寺の石工集団伊派の製作による石造物といわれています。当時、硬い花崗岩に見事な細工を加工する技術を持った石工集団は、西大...文観(27)伊派石工集団
前号の続きです。円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、(県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。宝筐印塔には康暦元年の銘が刻まれています。北朝年号(康暦元年)康暦元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔として造立したものと思われます。この宝筐印塔の「北朝年号」からもわかるように、赤松本家は、曲折はあったものの足利尊氏(北朝方)として活躍し、後醍醐天皇(南朝方)に敵対し、時代を乗り切ります。江戸時代までは、北朝側であろうが、南朝側であろうがあまり問題とならなかったのですが、明治時代となり突如「南朝正閏論(せいじゅんろん)」が声高に叫ばれ...文観(27)南北朝正閏論(2)
後醍醐天皇・文観は亡くなりました。激動の人生をおえました。シリーズ「文観」もおわりになりますが、少しだけ余話として、「南北朝正閏論(なんちょうせいじゅんろん)」に触れておきます。南北朝正閏論(1)「南北朝正閏論(なんぼくせいじゅんろん)」、もうあまり聞かれなくなった言葉です。南北朝正閏論の発端は、明治44年1月15日の「読売新聞」の社説でした。ここでは水戸学の南朝正当論から「学校の歴史の教科書で南朝と北朝を並べているのはおかしい」という論調でした。第二次桂内閣の時でした。野党の立憲国民党はこの問題を倒閣運動に結び付けようと飛びついたのです。この時、桂太郎は、元老の山片有朋に相談して明治天皇の勅裁を受け、ここで法律として南朝が正当であると決められました。以来、足利尊氏は南朝に敵対した『逆賊』とされました。昭和9年...文観(25)南北朝正閏論(1)
文観ルート話を少し戻します。後醍醐帝が討幕の行動をおこした時、寺院がその都度拠点となっています。当初、元弘の乱によって後醍醐天皇が都を落ちていったのは笠置山であり、そこの笠置寺にこもりました。隠岐島から脱出、船上山に大山寺(だいせんじ)の僧兵を頼りに陣を張りました。「建武の新政」の失敗から再度、都を捨てて吉野蔵王堂を行在所として、後に河内へ出て金剛寺、さらに観心寺へと行宮を移しています。この一連の寺院と関連のある人物を探すと、当時後醍醐天皇の信任が厚かった醍醐寺座主文観僧正の名が浮き上がってきます。後醍醐帝はこの討幕挙兵の策謀が露見して、腹心の者たちが捕縛された知らせを受けると、当時、息子の護良親王が座主であった比叡山延暦寺へ逃げ込みました。そして、六波羅軍(鎌倉幕府軍)が、比叡山の行在所攻撃にきたという情報が...文観(24)文観ルート
文観は破戒僧でない足利尊氏を後(うしろ)楯(だて)とする北朝に対して、南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天皇は京郡奪還の夢を果たすことなく、吉野に逃れて三年足らずで世を去りました。52歳でした。文観は、正平十二年(1357)河内金剛寺大門往生院で亡くなりましたが、後醍醐天皇の死後活躍はありません。文観の人生は、後醍醐天皇の活躍と重なりました。『太平記』によりつくられた文観の評価文観の死後の話です。文観の宗教は、もっぱら「邪教」真言宗立川流の祖とされて流布されています。この宗派は、「セックスを宗教に持ち込んだ異形の信仰である」としています。この説は『太平記』により広がった説を言えるようです。後醍醐天皇が亡くなり、足利尊氏の時代が始まりました。足利幕府によりつくられた公認の歴史書と...文観(23)文観は破戒僧でない
鎌倉幕府滅ぶ元弘二年(1333)五月二十二日、北条時高(31)は、鎌倉の東勝寺で最期を迎えました。そして、グレンの炎は次々と自害する諸将を焼き尽くしました。死者は600人、みな切腹して果てました。鎌倉幕府は滅びました。文観の活躍元弘三年(1333)六月五日、後醍醐天皇は京都へ凱旋しました。引き続き文観が鬼界ヶ島(硫黄島・鹿児島県)から帰ってきました。その後の文観の経歴は、華々しいものでした。(南朝年号)・正慶二年(1333)硫黄島から帰洛・建武元年(1334)このころまでに醍醐寺座主・東寺大勧進職・建武二年(1335)東寺一長者(真言宗のトツプ)・建武三年(1336)大僧正に任じられるしかし、後醍醐天皇による「新政(建武の新政)」は、前回にみたように失敗し、足利尊氏にうらぎられ、吉野に逃げ込みました。時代は、め...文観(22)鎌倉幕府滅ぶ
後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し、京都へ凱旋し、「新たな政治」(建武の新政)をはじめました。建武の新政とその後の南北朝の展開の詳細については、他の書物をお読みください。ここでは中学用歴史教科書(『中学新歴史・帝国書院』)を読んでおきましょう。建武の新政幕府をほろぼした後醍醐天皇は、1334年、年号を「建武」と改め、天皇みずからが政治を行いました。そして、これまでの公家(くげ)政治のしきたりを大はばに改め、公家と武家の政治の両面を取り入れたしくみをつくり、倒幕(とうばく)に功績のあった公家や武士に官職をあたえました。これを「建武の新政」といいます。しかし、新政府は、公家や寺社を大切にしましたが、倒幕に活躍した武士に対しては恩賞が少なく、また、当時の武家社会につくられていた慣習を無視したりしたため、多くの武士たちから不...文観(21)建武の新政
後醍醐天皇、隠岐に流されるも倒幕計画に失敗した後醍醐天皇はとらわれ、さらに暮府によって皇位をはくだつされ、隠岐(おき)に流されました。元弘二年(1332)三月、鎌倉幕府の滅亡の1年余り前のことでした。後醍醐天皇は、身を日本海に浮かぶ孤島におくことになりましたが、時代は動いていました。時代は、商業も盛んになり、情報の飛び交う社会でした。隠岐は、かつての孤島ではありません。情報は、秘密のルートからどんどんもたらされました。後醍醐天皇の遠島の後も、息子の護良(もりよし)親王や、河内(かわち)の豪族、楠木正成(くずのきまさしげ)らによってなおも根強く倒幕運動は続けられていました。後醍醐は、隠岐島にいながらも、なお幕府打倒の機会を虎視眈々と狙っていたのです。詳細は省きますが、隠岐へ流されてから11ヶ月後のことでした。元弘...文観(20)後醍醐天皇、隠岐に流されるも
後醍醐天皇、加古川を行く正和5年(1316)、北条高時が執権につきましたが、幕府の支配体制の乱れは著しものがありました。先に述べたように、この機を見た後醍醐天皇は、正中(しょうちゅう)元年(1324)、倒幕を計画しました。この時は、事前に機密が漏れ不成功におわりました。しかし、後醍醐天皇は、天皇には珍しく、それであきらめるような「やわ」な人物ではありません。元弘元年(1331)にも倒幕の計画を進めましたが、この時も身内の密告により失敗に終わってしまいました。俊基は、捕らえられ鎌倉へ護送されました。文観は遠島でした。そして、後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになりました。京都を出発した天皇一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の山陽道を通り、加古川の宿に入りました。加古川での宿は、播磨の守...文観(19)後醍醐天皇、加古川を行く
文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ後醍醐天皇の幕計画は正中の変に続き、またまた失敗でした。今度は、鎌倉幕府は激怒しました。厳しい取り調べでした。文観等には死罪の決定が下されました。「たとえ身分の高い僧であろうとも、死罪にすべきだ」ということに決まったのです。しかし、次のような噂話がまことしやかにつたえられています。・・・・執権の北条高時が眠っているとき、夢の中に数千の猿があらわれ、「われらは、比叡に住む仏の使者である」と、猿が高時(時の執権)につげたのでした。「僧たちに拷問(ごうもん)にかけたらしいが、かならず仏罰があろう。さきごろの地震も、そのむくいである・・・」と言って姿を消しました。もともと気の弱い高時は、夜中におきて、部下をやって、文観の獄舎をのぞかせたところ、獄舎の障子に、不動明王の姿が写しだされて...文観(18)文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ
余話として:『太平記』を読んでみましょう〝日野俊基の妻との別れ″元弘の乱で、俊基はつかまり、二度と都に帰れることはなく、そして死を覚悟していました。妻との別れの名文が、後世にのこっています。死の旅につながる不安と郷愁のみがうたいあげられています。しかし、後醍醐天皇のことについては、ひとこともふれていません。俊基のこの名文は、私事にとどめたのでしょう。『太平記』の一場面として語り継がれています。余話としてとりあげておきます。暗記しておきたい文章ですね。『太平記』より・・・落花(らつか)の雪(ゆき)に踏(ふ)み迷(まよつ)ふ、交野(かたの)の春(はる)の桜狩(さくらが)り、紅葉(もみじ)の錦(にしき)を衣(き)て帰(かん)る、嵐(あらし)の山(やま)の秋(あき)の暮(くれ)、一夜(ひとよ)を明(あ)かす程(ほど)だ...文観(17)〝日野俊基の妻との別れ″
正中の乱は失敗するも!幕府は、倒幕の中心となった日野資朝(すけとも)・日野俊基(としもと)を取り調べましたが、下手な裁断はくだせませんでした。倒幕を企てたといっても、密告だけで、これという証拠もなかったのです。もし、倒幕計画に加わったと思われる公家たちをことごとく捕え、後醍醐天皇までむりやりに退位させてしまえば、地方の武士や民衆の反発を買いかねません。決裁は、両名を死刑にするところですが、資朝(すけとも)は佐渡ヶ島へ遠島。俊基(としもと)は「無罪」としました。後醍醐天皇は、これでへこたれるような、やわな天皇ではありません。「倒幕」に二文字がますます燃え上がらせるのでした。それからしばらく経(た)って、宮中に、醍醐寺の文観僧正等が招かれました。「ご坊に、お願いがございます」と、俊基が殊勝な顔つきで、頭をさげるので...文観(16)正中の乱は失敗するも!
混乱する社会14世紀の初め、時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをしませんでした。そのため、社会の混乱は深まるばかりでした。後醍醐天皇は、その機会を政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意したのです。その事件の顛末を少し述べておきましょう。正中の変(正中元年・1324)この討幕計画の中心になったのは、日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)です。資朝は、当時の公家政治の中心人物でした。いっぽう俊基は、身分はもともと低く後醍醐天皇からその才能を認められ取り立てられた人物です。後醍醐天皇の信頼のおける仲間内の会議で俊基から討幕の計画が提案されました。さすがの、仲間の貴族もびっくりしました。俊基は、天下の情勢、後醍醐天皇の決意を諄々と語りました。具体的には「倒幕の旗揚げ...文観(15)正中の変(正中元年・1324)
後醍醐天皇の野望14世紀の初め、長く続いた鎌倉幕府も、蒙古襲来をきっかけに、その支配体制にかげりが見えはじめていました。時の執権・北条高時は、田楽や闘犬にふけり、政治をかえりみることをあまりしませんでした。そのため、政治は腐敗し、社会の秩序も乱れ始めました。こうした社会の混乱が深まっていた文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位したのです。天皇は、政権を武士から取り戻し、政治を改めようと、鎌倉幕府打倒を決意しました。後醍醐天皇はまず、中宮の安産祈願に名を借りて、寺々に幕府打倒の祈祷を行なわせます。自らも法衣をまとい、護摩を焚き、経を唱えながら、幕府調伏を祈祷しました。八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること後醍醐天皇の討幕にかける執念を知る手掛かりが、奈良の般若寺に残されていました。般若寺には古くから伝えられてきた仏像・...文観(14)後醍醐天皇の野望
文観と後醍醐天皇と結びつき文観は、永仁3年(1295)西大寺に入り受戒し、文観25才の時文観・朱音を名乗り、叡尊の起こした真言律宗の叡尊の十三回忌の追善務める西大寺の真言律僧としてその姿を現しています。復習です。正安3年(1301)真言宗に入り醍醐寺の道順により真言僧となっています。醍醐寺は、もともと天皇家と縁が深い寺でした。そして、寺内の道順(淳)は、後醍醐天皇の信頼を得ていた僧でした。文観は、この道順(淳)の直弟子となりました。文観は、師である道順の線に連なって、後醍醐天皇に近づいたようです。たちまち、双方の政治家的な気質、野心家的な素質が急激に二人を親しくさせていきました。後醍醐天皇は、天皇家の家系では珍しいほど政治好きでした。政治の場から遠ざけられ、愛欲と詩歌書画の世界に埋没し、そのことにほとんど疑問を...文観(13)文観と後醍醐天皇と結びつき
後醍醐天皇の絵像について当後醍醐天皇が紹介されるとき、かならずといってよいほど紹介されるのが、神奈川県藤沢市にある時宗の総本山、清浄光寺(しょうじょうこうじ)に伝わる右の後醍醐天皇の絵像です。この絵像で、後醍醐天皇は、天皇の正装である黄櫨染(こうろぜん)の抱(ほう)を着、その上に袈裟(けさ)を掛けて、右手には密教の法具の金剛杵(こんごうしょ)、左手には金剛鈴(こんごうれい)をにぎり、八葉蓮華の敷物の上に座したすがたで描かれています。かつては、後醍醐天皇が幕府倒す時の祈りを行うさまを描いたともいわれていました。が、この絵像が、文観を師として灌頂を受けたすがたを写したことが、最近、絵像に付属する文書(「揄祇灌頂之事」(「清浄光寺文書」)から知られるようになりました。この後醍醐天皇像については、歴史学者の黒田日出男氏...文観(12)真言律宗(4)・後醍醐天皇の絵像について
文観の西大寺の僧に文観は、弘安元年(1278)に播磨国(はりまのくに)に生まれ、13歳のときに法華山一乗寺(ほつけさんいちじょうじ)(兵庫県加西(かさい)市)で出家し、僧になりました。法華山は、真言律宗の開祖叡尊(えいぞん)ゆかりの寺院であり、法華山で僧になった文観は、二年後には、叡尊がかつて住職であった奈良西大寺へはいり、西大寺二世長老の信空(しんくう)から教えを受けました。正安三年(1302)に、西大寺の信空から教えを受け秘法を授けられた文観は、同年に醍醐寺報恩院の道順から阿闇梨(あじゃり:真言・天台の高僧)の位を持つ正規の僧となっています。醍醐寺で得度した叡尊が、西大寺流の律宗をおこしたのちも、醍醐寺や高野山と関係を持ちつづけたように、文観もまた、正規の真言僧でありつつ、西大寺流の律僧としての活動をつづけ...文観(11)真言律宗(3)・文観の西大寺の僧に
真言律宗(2)文観、西、大寺に入る西大寺が創建されたのは奈良時代ですが、当初は、興福寺や薬師寺を越える壮麗な寺院でした。しかし、称徳天皇が亡くなり、道鏡が東国へ左遷されると、西大寺に対する関心はうすれ、平安時代には衰退の一途をたどりました。鎌倉時代には、所有していたすべての荘園を失いました。これを再生したのが叡尊(えいぞん:1201-1290)です。叡尊は、当時の戒律を守らない、特に浄土系の僧侶・人々(庶民)のあり方に疑問をもちました。西大寺に住み、深く戒律を学びました。西大寺に住んで10年が過ぎたころ、叡尊は仲間とともに誓いを立てました。お釈迦さまの弟子として、生まれ変わっても、浄土へは行かず、かつてお釈迦さまがしたように、諸仏の救いからもれた人々を救いたい。そのためには、地獄の苦しみも忍ぼうと叡尊は述べてい...文観(10)真言律宗(2)文観・西大寺に入る
真言律宗の寺々真言律宗は、中学校の歴史にはあまり登場しませんが、時代に大きな影響をあたえました。永仁三年(1295)、文観は西大寺に入り受戒(真言律宗の僧受戒した後の名前)しました。この時の坊号(お寺での名前)は「殊音(しゅおん)」でした。大野(加古川町大野)の常楽寺は、この西大寺系の真言律宗の寺としてさかえました。西大寺直参末寺近辺の西大寺系の寺院を見ておきましょう。加古川市加古川町大野常樂寺播磨の筆頭末寺*西大寺常楽寺は、この近辺では西大寺の末寺の中でも、最も格の高い寺院でした。加古川市加古川町本町常佳寺(元は寺家町)加古川市平荘町山角報恩寺加古川市尾上町成福寺(不明)兵庫大学の金子教授は西大寺流の寺院として、次の2寺を西大寺の末寺とされています。西大寺流寺院稲美町中村円光寺(元は稲美町国安)加古川市加古川...文観(9)近辺の西大寺直参末寺
新仏教と旧仏教ここで、鎌倉仏教の話をしておきましょう。鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きおきました。その上に重い税金があり、人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。こんな時、人々は、仏様に救いをもとめます。この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。そして、「浄土(極楽)」の教えを広めようようとしたのです。それも、厳しい修行は必要でなく、一心に仏様にすがれば、極楽に往生できるという教えでした。そのため、庶民は救いを仏様に求めたのです。この浄土教の教えは、すさまじい勢いで広がろうとしました。当然、それまでの宗教(教団)と争いがおきました。常楽寺は西大寺系の真言律宗の寺院旧仏教側にも反省がおきました。「お釈迦さまが一番大切にされたのは戒律(かいりつ)を守ることである...文観(8)新仏教と旧仏教
「思い込み」というのは怖いですね。「文観は、北条の法華山一乗寺の僧侶であり、そこから奈良の大寺に移り後醍醐天皇の保護のもとで大活躍した人物である」と当然のように北条(加西市)で誕生した人物であると思い込んでいました。『加西郡誌』を読んでみます。文観、『加西郡誌』より*以下は、「加西郡誌」より「文観」を説明した個所の最初の部分の記述です。「・・・文観僧正は、我が郷土(加西市)から出た人物中の傑物である。・・・・また、その革命家的素質はよく後醍瑚天皇を助けて、北條氏からの政権奪還の計画を(一時)成功させました。そして、鎌倉末期の仏教美術家として絶大の手腕を揮うたことは、遺品によって明らかに証明されています。文観僧正については、多くの書物で見ることができます。太平記には「文観僧正は、元は播磨国、法華寺(一乗寺)の住僧...文観(7)加古川市大野は、北條郷
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