chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 菩提山 穴太寺(京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46)

    訪問日令和4年5月24日菩提山穴太寺(あなおうじ)天台宗の寺院慶雲2年(705年)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる仁王門(京都府登録文化財)3間一戸の八脚門入母屋造、本瓦葺17世紀中期頃の建立と思われる仁王像金網にレンズを近づけてアップで撮ると障害物の金網が消えた初めて訪れる寺院で予備知識もない正面に見えるのが本堂手水舎境内は緑に囲まれ爽快な気持ちになっていく鐘楼(京都府登録文化財)方一間の四脚入母屋造に桟瓦葺宝暦9年(1759年)の建立多宝塔(京都府指定文化財)文化元年(1804年)再建三間の多宝塔で柱は全て円柱軒は下重に二軒繁垂木、上重に二軒扇垂木として変化を持たせている周囲の清掃をしている女性に「素晴らしい塔ですね」と声を掛けると庭園からの風景が人気だと案内された書院と本堂内の拝観...菩提山穴太寺(京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46)

  • 醍醐山 醍醐寺 その2(京都府京都市伏見区醍醐東大路町22)

    訪問日令和4年5月23日世界遺産醍醐山醍醐寺その2京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵する山裾を「下醍醐」と称し「三宝院・伽藍・霊宝館」エリアに分けられている<伽藍エリア>桜馬場「醍醐の花見」とは、慶長3年(1598年3月)、豊臣秀吉がその最晩年に醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催し花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家のみ秀吉自ら下見のために醍醐寺へ通い、殿舎の造営や庭園の改修を指揮し、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられ...醍醐山醍醐寺その2(京都府京都市伏見区醍醐東大路町22)

  • 醍醐山 醍醐寺 その2(京都府京都市伏見区醍醐東大路町22)

    訪問日令和4年5月23日世界遺産醍醐山醍醐寺その2京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持つ国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵する山裾を「下醍醐」と称し「三宝院・伽藍・霊宝館」エリアに分けられている<伽藍エリア>桜馬場「醍醐の花見」とは、慶長3年(1598年3月)、豊臣秀吉がその最晩年に醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催し花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家のみ秀吉自ら下見のために醍醐寺へ通い、殿舎の造営や庭園の改修を指揮し、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられ...醍醐山醍醐寺その2(京都府京都市伏見区醍醐東大路町22)

  • 醍醐山 醍醐寺 その1(京都府京都市伏見区醍醐東大路町22)

    訪問日令和4年5月23日世界遺産醍醐山醍醐寺その1真言宗醍醐派の総本山の寺院広大な地域に位置し、山頂一帯を「上醍醐」山裾を「下醍醐」と称している下醍醐もパンフレットによると「三宝院・伽藍・霊宝館」エリアに分けられている<三宝院エリア>三宝院唐門(国宝)門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる門(勅使門)が唐門門全体が黒の漆塗で菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施されている(平成22年7月修復)玄関(重要文化財)受付で初めて訪れる寺院だと告げると、三宝院から拝観することを勧められた堂内に入ると更に受付があり、特別拝観料が必要とのこと(合計1,500円)京都らしい雰囲気のある写経所有料区域に入る葵の間(重要文化財)襖絵は、京都三大祭りの一つ「葵祭の風景」秋草の間(重要文化財...醍醐山醍醐寺その1(京都府京都市伏見区醍醐東大路町22)

  • 姨綺耶山 長命寺 その2(滋賀県近江八幡市長命寺町157)

    訪問日令和4年5月23日姨綺耶山(いきやさん)長命寺その2三仏堂(滋賀県指定文化財)本堂のすぐ西側に建つ本堂からは渡廊下で繋がっているもとは元暦元年(1184年)に佐々木定綱が父秀義の菩提を弔うために建立現在の建物は永禄年間(1558年-1570年)の再建と推定されるが、江戸時代の寛政5年(1793年)に改造されている堂内の様子<仏像部分を拡大>左:薬師如来、中:阿弥陀如来、右:釈迦如来入母屋造、檜皮葺き、丹塗の堂護法権現社拝殿及び渡廊下(滋賀県指定文化財)入母屋造檜皮葺。永禄8年(1565年)頃の建立と推定される本殿一間社流造で江戸時代後期の建立長命寺の草創説話にかかわる武内宿禰を祀る「太郎坊大権現の石柱」階段を上がってみる太郎坊権現社の拝殿なのか眼下には琵琶湖太郎坊権現社長命寺の総鎮守である太郎坊とは...姨綺耶山長命寺その2(滋賀県近江八幡市長命寺町157)

  • 姨綺耶山 長命寺 その1(滋賀県近江八幡市長命寺町157)

    訪問日令和4年5月23日姨綺耶山(いきやさん)長命寺その110年前になるが、キャンピングカーを購入直後にこの場所に来たことがある入口が狭く車体を擦るのも嫌だと思い、その時は諦めたのだが訪れてみたいとずっと思っていた長命寺本堂へは808段の石段の参道を登ることになる。狭いが自動車道も整備されている気力・体力・信仰心もなく恥ずかしながら車で自動車道を走ることにした山上駐車場に到着。ここから本堂まで、約100段の石段がある「聖徳太子礼拝石」聖徳太子の開基と伝わっている山門(冠木門)水屋書院最後と思われる階段の上に朱色のお堂が見えてくる初めて訪れる寺院で目の前に現れる建物を撮っていく背後には重文の三重塔本堂(重要文化財)天台宗の寺院3世紀後半から4世紀初頭の景行天皇の時代、武内宿禰がこの山で長寿を祈ったといい、開...姨綺耶山長命寺その1(滋賀県近江八幡市長命寺町157)

  • 法輪山 正明寺(滋賀県蒲生郡日野町松尾560)

    訪問日令和4年5月22日法輪山正明寺(しょうみょうじ)黄檗宗の寺院宗派を意識して寺巡りをしている訳ではないが、黄檗宗の寺院は崇福寺(長崎)万福寺(宇治)に次いで3ケ寺目と少ない参道の奥に山門が見える無縁塔山門までの途中に墓石や石塔がピラミッドの様に積まれていたこれまで見たことがなかっただけに驚いた黄檗宗独特のものなのかは分からない……山門扁額には山号の「法輪山」山門の奥に本堂が見える本堂(重要文化財)聖徳太子の創建と伝えられ、比叡山延暦寺系の地方大寺として栄えていたが、戦国時代の戦火を受けて消失江戸時代の再興、永源寺の高僧一絲文守大和尚の尽力によって後水尾天皇の勅建寺となった済堂軒先にある「大魚板」室内にある「大魚板」堂内にある仏像庫裏・方丈へと続く玄関本堂(重要文化財)本堂は、後水尾天皇から京都御所の清...法輪山正明寺(滋賀県蒲生郡日野町松尾560)

  • 阿育王山 石塔寺(滋賀県東近江市石塔町860)

    訪問日令和4年5月22日阿育王山(あしょかおうざん)石塔寺(いしどうじ)天台宗の寺院聖徳太子創建の伝承をもつ寺院伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという寺号石柱石塔寺への参拝は、今回で3度目となる年齢とともに長い階段の昇降が膝と心肺に負荷がかかり苦しくなってきた苦しくなると呼吸を整えるため周辺にある魅力的なものを撮るようにしている過去に上ったことのある階段は、精神的には楽だと言っても肉体的には辛い。また、休憩この階段横には多くの石仏があり、休憩時も楽しむことができる五輪塔と石仏が混在している石造三重塔<伝・阿育王塔>(重要文化財)奈良時代前期建立高さ7.6m石材は花崗岩石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大長保3年(100...阿育王山石塔寺(滋賀県東近江市石塔町860)

  • 松峯山 金剛輪寺(滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874)

    訪問日令和4年5月21日松峯山金剛輪寺天台宗の寺院西明寺、百済寺とともに湖東三山の1つ聖武天皇の勅願で行基の開創、創建は天平9年(737年)または天平13年(741年)と伝えられる平安時代前期の850年頃に、天台宗の円仁(慈覚大師)によって再興された源義経が木曾義仲追討武運必勝、北条時宗が佐々木頼綱に命じた元軍降伏などの祈願をしたといわれている総門(黒門)江戸時代初期の建立で、全体的に黒色を施していることから「黒門」とも呼ばれる「わけいりて佛の恵み松の峯嵐も法の聲かとぞきく」境内案内図受付を終え本堂までの「長~い」参道を歩く他の湖東三山(西明寺、百済寺)は複数回訪れているが、金剛輪寺は二度目となる西谷堂江戸時代の建立本尊:阿弥陀如来像赤門白門明寿院(本坊)の入口になる黒門から緩やかな上り坂が続いてきたが、...松峯山金剛輪寺(滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874)

  • 伊富貴山 観音護国寺<通称:大原観音寺>(滋賀県米原市朝日1342)

    訪問日令和4年5月21日伊富貴山観音護国寺<通称:大原観音寺>最初に訪れたのは、外国人による仏像窃盗事件が関西を中心に発生していた頃である県外の車両と言うことで巡回中の警察官に職質を受けた場所がこの惣門横趣味が歴史という警察官で、戦国時代にこの地域で起こった出来事について語ってくれた惣門(重要文化財)制作年は不明だが、長浜城の裏門を移築したと伝えられている観音寺由緒参道を歩く若い女性が参道沿いで歓迎してくれる(笑)ちょっとした心遣いだが嬉しい階段の奥に本堂が見えてくる本堂(重要文化財)伊吹山にあった観音護国寺が、正元年中(1259~60年)に現在地に移転大原荘の地頭・大原氏の保護を受けながら、弘安年間(1278~88年)までに寺観を整えた現在の本堂は、正徳5年(1715年)に再建された桁行5間・梁間5間・...伊富貴山観音護国寺<通称:大原観音寺>(滋賀県米原市朝日1342)

  • 浅井歴史民俗資料館・五先賢の館(滋賀県長浜市)

    訪問日令和4年5月21日旅先で雨の日は屋内施設である博物館や美術館などを訪れるようにしている道の駅にある「お市の方と浅井三姉妹」の像浅井歴史民俗資料館(滋賀県長浜市大依町528)浅井三姉妹には興味を持っていたこともあり、地元で知識を得ようと資料館を訪れた資料館の門になる入口には「郷土学習館」とある1階は「浅井家三代の間」2階は「市と浅井三姉妹の間」になっている館内は(理由はわからないが)撮影禁止興味はあるが、一度読んだだけでは理解できない(残念)五先賢の館(滋賀県長浜市北野町1386)「担当者の人がとても親切で丁寧に説明してくれる」というネットの口コミで訪れた場所であるその担当者と思われる人が対応してくれたが、地元愛を感じる人で訪れて良かったと思った遠州流庭園編み笠門小雨の中、最初に庭園に案内された各所に...浅井歴史民俗資料館・五先賢の館(滋賀県長浜市)

  • 氣比神宮(福井県敦賀市曙町11-68)

    訪問日令和4年5月20日越前国一宮氣比神宮仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う社殿はほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる大鳥居(重要文化財)寛永年間旧神領地佐渡国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹(むろのき)で、正保2年(1645年)に建立した高さ36尺(10.9m)柱間24尺、木造両部型本朱漆空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆狛犬中鳥居外拝殿拝殿内部本殿祭神:伊奢沙別命(いざさわけのみこと)-主祭神仲哀天皇-第14代天皇神功皇后-仲哀天皇の皇后九社の宮境内の西方に位置し、本殿を向い九社の神社が鎮座する絵馬奉納所芭蕉像「月清し遊行のもてる砂の上」神門(門扉)撮影...氣比神宮(福井県敦賀市曙町11-68)

  • 大原山 西福寺 (福井県敦賀市原13-7)

    訪問日令和4年5月20日大原山西福寺浄土宗鎮西派の寺院応安元年(1368年)、後光厳天皇の勅願により、良如を開山として創建された総門<大門>(敦賀市指定文化財)寛永年間(1661~1673年)、立石の信徒が寄進したもので、1本の木で建てたと寺誌に記載されている境内に入ると十数人の方々が雑草などの処理をしていた(感謝)三門2・3年前にも訪れた事があるが、「平成大修理」あまり進んでいないように感じる大玄関(敦賀市指定文化財)文政4年(1820年)の再建名勝書院庭園江戸時代中期作庭、面積1400坪、築山林泉式庭園自然の山と泉、石灯篭等の配置にすぐれた書院庭園で、極楽浄土を地上に表現した庭といわれている四修廊下(重要文化財)御影堂から阿弥陀堂へ渡る回廊で、念仏行者が極楽浄土へ往生する姿を再現している廊下の奥に阿弥...大原山西福寺(福井県敦賀市原13-7)

  • 常宮神社(福井県敦賀市常宮13-16)

    訪問日令和4年5月20日常宮神社(じょうぐうじんじゃ)古くは氣比神宮(越前国一宮)の奥宮・摂社で「常宮(つねのみや)」「常宮御前」「常宮大権現」とも称された国宝の「朝鮮鐘」は統一新羅時代の作(文禄の役で朝鮮から持ち帰ったもの)鳥居(参道入口)額には「常宮神社」参道狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える七福神の「えびす」様が迎えてくれる鳥居(境内入口)額には「常の宮」手水舎中門(福井県指定文化財)江戸時代の建立、銅板葺、向唐破風の屋根、正面1間、側面2間の四脚門中門の奥に拝所が見える拝所(福井県指定文化財)江戸時代の建立、銅板葺、向唐破風の屋根もとは氣比神宮の中門で寛永14年(1637年)小浜藩主酒井忠勝によって寄進された昭和18年(1943年)に現在地に移築され拝所となった額には「常宮大権現」この...常宮神社(福井県敦賀市常宮13-16)

  • 金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町1-4)

    訪問日令和4年5月20日金崎宮(かねがさきぐう)明治23年(1890年)の創建祭神:恒良親王・尊良親王史跡金ヶ崎城跡治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる南北朝時代の延元元年(1336年)から翌2年(1337年)3月にかけて、金ヶ崎城に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍(のち南朝方)の軍勢とそれを攻撃する斯波高経率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦い尊良親王、新田義顕(義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、3月6日、落城する恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出したが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月毒薬を盛られて亡くなった。御年15歳であった鳥居額には「金崎宮」「金崎宮縁起」当地敦賀の人々...金崎宮(福井県敦賀市金ヶ崎町1-4)

  • 誓法山 金前寺(福井県敦賀市金ケ崎町1-4)

    訪問日令和4年5月20日誓法山金前寺(こんぜんじ)高野山真言宗の寺院本尊:十一面観世音菩薩(袴掛観音)「金崎宮」を訪れたのだが本堂の近い場所に「社号柱」があり間違ってしまった途中で変だと思い気づいたのだが撮った写真は残していた「金前寺寺歴」では歴史上の人物が次々と登場してくる天平8年(736年)聖武天皇の勅願により泰澄が開山弘仁2年(811年)弘法大師空海が訪れる延元2年(1337年)金ヶ崎の戦いで金ヶ崎城が落城……扁額には山号の「誓法山」実はこの寺号札を見るまで「金前寺」とは知らずにいた動揺し「金崎宮」は何処だと周囲を探したことを思い出す本堂金ヶ崎の戦い、織田信長による越前攻め、太平洋戦争敦賀空襲で三度も焼失現在の本堂は平成元年(1989年)の建立平成27年(2015年)『今昔物語集』にも由来が記されて...誓法山金前寺(福井県敦賀市金ケ崎町1-4)

  • 劔神社(福井県丹生郡越前町織田113-1)

    訪問日令和4年5月19日劔神社(別名:織田明神)越前二の宮劔神社(つるぎじんじゃ)織田信長の先祖が当社の神官であったことから氏神と崇めた社北入口側鳥居越前町織田文化歴史館大駐車場に車を駐め北入口から入る鳥居天満宮天満宮といえば神牛菅原道真は乙丑(きのとうし)生まれ、牛と梅を愛したという神牛の頭部を撫でると智恵が付くという庚申宮(こうしんぐう)劔大明神馬場庚申宮は織田七庚申の一つ文武天皇の御代に疫病が流行、護摩祈祷をしたところ青面金剛が現れ疫病を鎮めると約束その年が庚申の年、庚申の月庚申の日だった三猿参道狛犬旧神前院護摩堂(越前町指定文化財)この堂宇は、劔神社の神宮寺である織田寺の護摩堂として延宝3年(1675年)に建立された真言密教の修法により護摩祈祷が行われ、煙のために黒く煤けて当時の面影を残している手...劔神社(福井県丹生郡越前町織田113-1)

  • 大瀧神社・岡太神社(福井県越前市大滝町23-10)

    訪問日令和4年5月19日大瀧神社・岡太神社全国で唯一“紙の神様”をおまつりする神社大徳山という霊山の山上にある「奥の院(上宮)」と、山のふもとにある「下宮」から成り立っている大瀧神社は「大瀧兒権現」という神仏習合の霊場で、白山信仰の本山である平泉寺の末寺として隆盛その別当「大瀧寺」の境内に、「岡太神社」という紙の神様がまつられていたらしい狛犬神門と社殿寺社巡りを中心に旅を楽しんでいるが、この社殿に最も魅力を感じている本殿・拝殿(重要文化財)江戸時代後期の天保14年(1843年)に再建された下宮の社殿入母屋造りに千鳥破風に唐破風、そしてまた入母屋に唐破風が重なっていく屋根は、全国でも類を見ない手掛けたのは曹洞宗本山永平寺の勅使門(重要文化財)を手掛けた名棟梁、大久保勘左衛門彼は、美しさと複雑さを併せもつ唯一...大瀧神社・岡太神社(福井県越前市大滝町23-10)

  • 萬松山 大安禅寺(福井県福井市田ノ谷町21–4)

    訪問日令和4年5月19日萬松山大安禅寺臨済宗妙心寺派の寺院福井藩第4代藩主松平光通が大愚宗築を開山として、越前松平家の永代菩提所として万治元年(1658年)に創建したほぼ全ての建造物が第二次世界大戦や福井地震の影響を受けることなく創建当時のまま残存している大安禅寺令和の大修理重要文化財に指定されている本堂・庫裏・開山堂・開基堂・鐘楼の保存修理工事中であったヘルメットを被って工事中の本堂を見学するかつて姫路城近くを車で通った時に工事中でがっかりして諦めたことがあった道の駅で、その姫路城から来たというプロのカメラマンと話す機会があり、その事を話したこの先、生きている間にこのような光景は二度と見ることはできないと言われ、彼が撮った写真を見せてもらったその事が頭にあり、修復工事中の弘前城の写真を撮りにいったことも...萬松山大安禅寺(福井県福井市田ノ谷町21–4)

  • 菅生石部神社(石川県加賀市大聖寺敷地)

    訪問日令和4年5月18日菅生石部神社<通称:敷地天神・菅生天神>用明天皇元年(585年)この地で疾病が流行したとき、宮中で祀られていた菅生石部神が勧請されたのが始まり社号柱加賀国二宮で、旧社格は国幣小社鳥居神門(加賀市指定文化財)総欅造りの銅葺き2層の楼門文政7年(1824年)に起工し、翌年9月に完成額には「菅生石部神社」随神像阿吽一対の組み合わせで安置されている手水舎拝殿『平家物語』巻第七に、志保山の戦いで平家の搦め手を破った木曾義仲が「能美の荘(現・能美市周辺)」を寄進したことが記されている寺宝には足利氏の寄進状や、前田利常の夫人・天徳院(徳川2代将軍秀忠の娘)が寄進した『蒔絵角赤手箱』(重要文化財)などの文化財も多数ある「菅生石部神社は全国の斎藤さんの氏神」平安時代の前期、藤原叙用は、斎宮頭(神宮に...菅生石部神社(石川県加賀市大聖寺敷地)

  • 小松天満宮(石川県小松市天神町1)

    訪問日令和4年5月18日小松天満宮創建は明暦3年(1657年)、加賀藩2代藩主前田利常(前田家3代目当主)が隠居城として小松城に入城城の鬼門にあたるこの地に前田家の遠祖菅原道真の分霊を勧請したのが始まりと伝えらている社号柱一の鳥居鳥居から社殿にいたる参道は北極星から北斗星をみた「逆さ北斗」型をしている北斗型参道と冬至と七夕の日の出線についての説明二の鳥居正面突き当たりにある「筆塚」を左に進む(逆さ北斗型参道)筆塚芭蕉句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」神門(重要文化財)神門を右に曲がり進む(逆さ北斗型参道)四脚門、切妻、銅板葺、一間一戸、木部朱塗り「天満宮」の額狛犬願かけ撫牛各地の天満宮で「牛が動かなくなった」という話しはよく聞く参道手水舎手水鉢に浮かんでいるおもちゃはカラスの被害を防ぐ為のもの(楽しい...小松天満宮(石川県小松市天神町1)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、今、出発の刻(たびだちのとき)さんをフォローしませんか?

ハンドル名
今、出発の刻(たびだちのとき)さん
ブログタイトル
今、出発の刻(たびだちのとき)
フォロー
今、出発の刻(たびだちのとき)

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用