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  • 大間崎 (青森県下北郡大間町大間大間平)

    訪問日令和3年6月12日大間崎大間崎に着いたが、雨が降っていたので車内で休憩し遅い朝食を摂った予約していたフェリーの出航時間まで3時間もある日本海軍特務艦「豊国丸」戦死者慰霊碑太平洋戦争中「豊国丸」は、横須賀鎮守府所管特設運送艦として、北海道ー横浜間の石炭輸送に従事した艦船昭和20年7月、大間沖から大湊へ向かっていた豊国丸は函館市街の攻撃を終えた戦闘機の標的となる135名もの死者を出し、今なお約90名が大間崎沖の海で眠りに就いている石川啄木歌碑代表作の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」この「東海歌」が詠われた舞台は大間崎ではないかという説がある東海といえば函館の海岸が一般的だが……大間啄木会では「啄木が大間の光景を東海歌に詠んだのはほぼ間違いない」として平成10年7月、大間崎に石川啄木歌碑を建...大間崎(青森県下北郡大間町大間大間平)

  • 仏ヶ浦(青森県下北郡佐井村長後 他)

    訪問日令和3年6月12日仏ヶ浦(国名勝・天然記念物)平成17年(2005年)夏、アルファードを購入し函館までドライブをしたついでにと思い大間行きのフェリーに乗船し、青森に向かっている途中にこの景色が目に入った私は自然の美しさにはあまり感動することはないが、この仏ヶ浦の景色だけは別だもう一度、訪れてみたいと長い間思っていたが、ついにその日がやってきたしかし、雨がずっと降っていて海岸まで下りるかどうか悩んでしまうしかも、下りる遊歩道が見つからない雨が強くなってきたので車内で待機し、望遠レンズにつけ替えるこの日、大間発~函館行のフェリーを予約していたため海岸に下りるのを諦めたしばらくすると雨が上がり、空が明るく視界がよくなってきた大間岬に向けて車を走らせる途中、海と岩とが綺麗な場所が数カ所ある撮影令和3年6月12日下...仏ヶ浦(青森県下北郡佐井村長後他)

  • 太宰治記念館「斜陽館」(青森県五所川原市金木町朝日山)

    訪問日令和3年6月11日太宰治記念館「斜陽館」(重要文化財)明治40年(1907年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって建てられたもの和洋折衷・入母屋造りの建物は、米蔵にいたるまで青森ひばが使用されている階下11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の規模を有する大地主の豪邸である太宰が中学進学に伴い大正12年(1923年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした太宰はこの家を「苦悩の年間」の中で「この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである」と書いている欄間の透彫襖絵津島家仏壇絵皿には興味はないが、金銭的にどの程度の価値あるものなのかには興味がある柱時計これもただの大きなのっぽの古時計ではないはず「SEIKOSHA」の文字文字盤の...太宰治記念館「斜陽館」(青森県五所川原市金木町朝日山)

  • 太平山 長勝寺(青森県弘前市西茂森)

    訪問日令和3年6月11日太平山長勝寺津軽家の先祖大浦光信の死後、その子盛信(大浦城主)が亡き父のため享禄元年(1528年)種里(現在の鯵ヶ沢町)に創建慶長15年(1610年)二代信枚公が弘前城築城とともに現在地に移した種里の太平城から「太平山」の山号、光信の法名から「長勝寺」と号した三門(重要文化財)寛永6年(1629年)二代藩主信枚により建立文化6年(1809年)の大修理で、下層に花頭窓を設け仁王像を置く扁額には山号の「太平山」仁王像鐘楼銅鐘<嘉元鐘>(重要文化財)嘉元4年(1306年)の紀年銘が切られているところから嘉元の鐘と呼ばれるこの鐘は、長勝寺の創建より200年程前の銅鐘で、満蔵寺(現万蔵寺)から寄進されたものと伝えられる庫裏(重要文化財)文亀2年(1502)津軽の祖大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大...太平山長勝寺(青森県弘前市西茂森)

  • 金剛山 光明寺 最勝院(青森県弘前市大字銅屋町)

    訪問日令和3年6月11日金剛山光明寺最勝院駐車スペースが少ないということを知っていたため早めに道の駅を出発した重要文化財に指定されている五重塔は日本最北に位置する新仁王門昭和58年(1983年)の再建正面に本堂鐘楼藩政時代から戦前まで『時の鐘』があったが、戦争の供出により一時その姿を消した昭和31年(1956年)に商工会が中心となり普請を行い、最勝院境内に復元した「平和の鐘」この鐘楼、梵鐘は商工会から最勝院へ寄進された現在は『平和の鐘』として平和を祈りつつ心を込めて撞かれている本堂昭和45年(1970年)九月の再建天文元年(1532年)に高僧弘信上人が、堀越城外萩野の地に三宇の伽藍を造営し開基慶長14年(1609年)二代津軽藩主信枚が現在の弘前城を築いた慶長16年(1611年)弘前城の鬼門に当たる田町へ移転し弘...金剛山光明寺最勝院(青森県弘前市大字銅屋町)

  • 岩木山神社(青森県弘前市百沢字寺沢)

    訪問日令和3年6月10日岩木山神社弘前市郊外岩木山の南東麓にある神社。津軽国一宮鳥居の奥に見えるのが岩木山である一の鳥居平日ではあったが参拝者の姿が多くみられた二の鳥居三の鳥居鳥居が弁柄色に変わる参道は足腰に負担のかからない程度の緩やかな上りになっている初めて訪れる神社でこの先がどのようになっているか分からない参道の先に大きな建物が見えてくる守札授与所社務所(青森県指定文化財)楼門(重要文化財)寛治5年(1091年)神宣により、下居宮(おりいのみや)を岩木山東南麓の百沢地区に遷座「百沢寺(ひゃくたくじ)」と称したのが現在の岩木山神社となっている寛永5年(1628年)津軽信枚により、百沢寺の山門として建立された五間三戸楼門、入母屋造、とち葺形銅板葺上層に十一面観音、五百羅漢像が祀られていたが、神仏分離による廃寺の...岩木山神社(青森県弘前市百沢字寺沢)

  • 津軽山 革秀寺(青森県弘前市藤代)

    訪問日令和3年6月10日津軽山革秀寺(かくしゅうじ)重文の本堂と霊屋があることを知り訪れた駐車場を探すために寺の周囲を走り、墓地の空き地に駐めた朱色の「華雲橋」の奥に山門が見える山門扁額には「仰髙門」仰髙を調べてみると論語(子罕第九-10)からきているようだ門扉寺紋山門から本堂を眺める本堂(重要文化財)弘前藩祖津軽為信が慶長年間(17世紀初)現在の藤崎町に創建津軽為信が没した翌年の慶長13年(1608年)弘前藩2代藩主津軽信枚が為信の遺言により岩木山の眺望の美しい現在地に移した長勝寺八世格翁禅師を開山として、父・為信の菩提寺とした桁行17.8m、梁間16.2m、背面庇付、一重、入母屋造、茅葺扁額には山号の「津軽山」鐘楼津軽為信霊屋(重要文化財)江戸時代初期に建立された当時は質素であったが、文化年間(1804年~...津軽山革秀寺(青森県弘前市藤代)

  • 弘前城(青森県弘前市下白銀町)

    訪問日令和3年6月10日弘前城<別名:鷹岡城、高岡城>この日の朝に決めた予定では、弘前城は入っていなかったが、市内を走っているうちに気持ちが変わった前回は「津軽藩ねぷた村」の駐車所を利用、今回は弘前工業高校周辺の駐車場を利用した工業高校口の「埋門(うずみもん)跡」から入る(現在位置)弘前公園内で絵を描いている女性長閑な風景だ蓮池濠の風景も美しい二の丸南門(重要文化財)築城時の姿で現存する5棟ある門の一つ「埋門跡」から目指す天守は近いと聞いていたが、その姿は見えないまたまた方向音痴の本領発揮伯爵津軽義孝篆額弘前市立博物館辰巳櫓(重要文化財)二の丸の現存櫓3棟のうちの一つ三の丸追手門(重要文化財)弘前城植物園杉の大橋南内門外の大橋。名称は杉材を用いた橋ということから付けられた未申櫓(重要文化財)迷ってここまで来たが...弘前城(青森県弘前市下白銀町)

  • 弘前八幡宮(青森県弘前市大字八幡町)

    訪問日令和3年6月10日弘前八幡宮二の鳥居塗って間もない鮮やかな朱色の鳥居振り返ると遠くに一の鳥居が見える道路の延長線上にあり、駐車場は鳥居の下を進んだ所にある由緒によると、草創は平安初期坂上田村麻呂が蝦夷征伐で苦戦を続けたとき八幡村に小祠を建て、宇佐八幡宮を遙拝し武運を祈願したことに始まる境内にある祠法喜神社神社田代大神右側には社務所がある拝殿扁額には社号の「八幡宮」目的の唐門・本殿の姿が見えずがっかりしていたが、その入口を見つけた本殿へは左手の赤い格子戸を潜り抜けて行くのだが、社務所の許可が必要だ重文の社殿があるということで訪れた本殿・唐門ともに地方色を示しながら全体の形はよく整っており、桃山時代の巧みな建築手法を示す建築物この神社は始め大浦城(現岩木町)の鎮守として大浦城下にあったそれを津軽藩主二代信枚が...弘前八幡宮(青森県弘前市大字八幡町)

  • 田沢湖(秋田県仙北市)

    訪問日令和3年6月9日田沢湖私の旅では好んで湖を訪れるということはほとんどない初めて訪れる田沢湖の知識といえば日本一深い湖という程度だ漢槎宮(浮木神社)漢槎宮(かんさぐう)は浮木神社(うききじんじゃ)とも言い、田沢湖畔の潟尻に立つ社殿流れついた浮木(大木が湖面から2メートルぐらい顔を出し、斜めに水底に深く消えている流木)を祭ったものといわれている若い女性が楽しそうに魚に餌を投げスマホで撮影している湖面を見るとウグイが餌を求めて集まってくる辰子像(舟越保武作)知人からラインで1枚の画像が送られて「何処にある、何という像か」と質問された見たこともない像で答えることができなかったそれが、田沢湖にある、この辰子像だった質問者が大学の後輩ということもあり悔しい思いが倍増普段の私なら目的地にならない湖だが、その像を確かめた...田沢湖(秋田県仙北市)

  • 角館武家屋敷 その2(秋田県仙北市角館町)

    訪問日令和3年6月9日角館武家屋敷その2角館歴史村青柳家(秋田県指定史跡)<前回の続き>秋田郷土館雪国ならではの頑丈な造りの旧家を移築1階は素朴な農村の暮らしぶりを伝える農具などを展示2階では音の世界・戦乱の歴史について展示している指揮者・演奏者の直筆サイン入りというから凄い若い頃、オーディオ機器に興味を持ち集めていたが、今回の旅の前に全て処分し旅の資金にあてたジャズを中心にLPレコードも夢中になって集めていたクラシックも良く聴いたが、さすがに、この時代のジャケットは観たことがない若い頃のカラヤンカラヤンはジャケットの写真にこだわりをもち、横顔の写真が多い昔のジャケットはデザインが秀逸ジャケ買いしてしまいそうな1枚だ興味ある分野だけに時間を忘れてしまった外には「消防組」書かれている消防ポンプ車が置かれているポン...角館武家屋敷その2(秋田県仙北市角館町)

  • 角館武家屋敷 その1(秋田県仙北市角館町)

    訪問日令和3年6月9日角館武家屋敷その1象潟の道の駅から100km程走り武家屋敷周辺の桜並木駐車場に着く受付所で武家屋敷は初めてだと告げると簡単な地図を渡された公開武家屋敷は有料3軒、無料3軒の6軒旧松本家住宅主屋(秋田県指定文化財)松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移った屋敷は万延元年(1860年)作製による屋敷割絵図に表6間裏15間とある建物は茅葺の簡素な造りで下屋をおろした入口を入って居間、その右に座敷兼仏間が配されている裏側は水屋に続いて広縁があり、その奥に寝室が配されている旧藩時代は、殖産事業の原料となる植物や食用植物が植え込まれていた松本家を出て周辺を歩いていると方向音痴の本領発揮、迷子ではなく迷爺になってしまった(笑)近くを歩いていた女性に道を尋ねると...角館武家屋敷その1(秋田県仙北市角館町)

  • 角館武家屋敷 その1(秋田県仙北市角館町)

    訪問日令和3年6月9日角館武家屋敷その1象潟の道の駅から100km程走り武家屋敷周辺の桜並木駐車場に着く受付所で武家屋敷は初めてだと告げると簡単な地図を渡された公開武家屋敷は有料3軒、無料3軒の6軒旧松本家住宅主屋(秋田県指定文化財)松本家は、佐竹家の重臣今宮家の組下で佐竹氏の国替により主家に従って常陸から角館に移った屋敷は万延元年(1860年)作製による屋敷割絵図に表6間裏15間とある建物は茅葺の簡素な造りで下屋をおろした入口を入って居間、その右に座敷兼仏間が配されている裏側は水屋に続いて広縁があり、その奥に寝室が配されている旧藩時代は、殖産事業の原料となる植物や食用植物が植え込まれていた松本家を出て周辺を歩いていると方向音痴の本領発揮、迷子ではなく迷爺になってしまった(笑)近くを歩いていた女性に道を尋ねると...角館武家屋敷その1(秋田県仙北市角館町)

  • 皇宮山 蚶満寺(秋田県にかほ市象潟町象潟島)

    訪問日令和3年6月8日皇宮山蚶満寺この寺はこれまで三度訪れているが、受付の方やガイドさんが親切でついつい足が向いてしまう途中、予定になかった「十六羅漢岩・大物忌神社」に立ち寄ったため到着が遅れた松尾芭蕉像元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が訪れた『奥の細道』最北の地である私が旅先で訪れる所、かなりの高い確率で芭蕉が訪れていることが多い(笑)芭蕉は西行を追いかけこの地を訪れたが、芭蕉の足跡を辿る旅も面白そうだ芭蕉歌碑芭蕉が象潟(きさかた)を訪れた日は生憎の雨で、芭蕉は、中国の悲劇の美女西施(せいし)を思い浮かべ「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいる西施像三國志・孫子など中国の歴史ドラマをよく視るが紀元前から権力者は美女に弱い現在も中国訪問から急に変節し、親中派となった政治家などは怪しいワナ歴史を変えた悲劇の美女西...皇宮山蚶満寺(秋田県にかほ市象潟町象潟島)

  • 鳥海山大物忌神社(山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉)

    訪問日令和3年6月8日鳥海山大物忌神社「十六羅漢岩」で地元の男性に声を掛けた際に、自己紹介として寺社巡りをしていると話したその時に由緒あるという、この神社を紹介された一の鳥居額には「正一位大物忌神社鳥海山出羽國一宮」と読める正一位は、神社における神階の最高位で、紹介された理由が良く分かった手水舎由緒創祀は欽明天皇25年(1400余年前)の御代と伝えられている歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた山頂の本殿は伊勢野神宮と同じく20年毎に建て替える式年造営の制となっている現在の本殿は平成9年に造営されたもの上記「境内案内図」を拡大紹介された男性によると、階段を上り三ノ鳥居からの拝殿・本殿が素晴らしいと……二ノ鳥居鳥居の奥が駐...鳥海山大物忌神社(山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉)

  • 十六羅漢岩(山形県飽海郡遊佐町)

    訪問日令和3年6月8日十六羅漢岩ある目的地を目指し日本海側を北上中「十六羅漢岩」の案内標識があり寄り道をした以前から気になって場所でもある地元の男性の話しでは22体の磨崖仏があるそうだ展望台からの眺望この周辺に約10体の磨崖仏があるが判別できないので近くに寄ってみる早速、違った方向に歩き出したようで、地元の男性に指摘され、正しい方向を指で示されたその方向に磨崖仏があるらしいが判別できなかった1観音菩薩(かんのんぼさつ、アヴァローキテーシュヴァラ)2注荼半託迦(ちゅだはんたか、チューダパンタカ)岩の上に上らなければ観ることができないと聞いていた穏やかな表情の磨崖仏だ次の場所に移動するここには8体の磨崖仏が確認できた岩の左側部分(5体)右側部分(3体)獅子岩もあると聞いていたが既に忘れていた3舎利佛(しゃりほつ、サ...十六羅漢岩(山形県飽海郡遊佐町)

  • 山居倉庫(山形県酒田市山居町)

    訪問日令和3年6月8日山居(さんきょ)倉庫(国史跡)数年前に土門拳記念館の写真を撮っていたとき「私と同じレンズですね」と声を掛けられたその同世代の男性から、いい被写体あると紹介されたのがこの山居倉庫であるこの場所に案内された時に、探していた場所だと思った当時「さんきょ」とは読めず「やまい」でナビ検索をしていた明治26年(1893年)に建造された米の保管倉庫現在、12棟からなる倉庫が残り、9棟は現役の米蔵として使用されている残り1棟は1985年に「庄内米歴史資料館」2棟が2004年に「酒田市観光物産館酒田夢の倶楽(くら)」として改装されている背後を囲む「欅並木」は日よけ・風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理が行われている三居稲荷神社歩いてきた道を振り返る二重屋根倉庫内を覗いてみる山居倉庫正面魅力的な黒色の...山居倉庫(山形県酒田市山居町)

  • 土門拳記念館(山形県酒田市飯森山)

    訪問日令和3年6月8日土門拳記念館写真家・土門拳の写真作品を所蔵・研究・展示するための酒田市立の美術館日本初の写真専門の美術館として、7万点におよぶ土門作品のすべてを所蔵している入館料が以前に訪れた時に比べると、倍近く値上がりしていたコロナの影響かと思い尋ねると、酒田市の条例改正でこのようになったとのことこの日の最初の入館者だった亀倉雄策と土門拳~時代を創った二人の仕事~1964年の東京オリンピックのポスターをこの二人が担当していたということを初めて知ったオリンピックのポスターに写真を用いたのは東京五輪が最初のようだ1964年東京オリンピックのポスターをはじめ日本万国博覧会のポスターなど数々の傑作が知られている亀倉雄策と土門拳古寺巡礼私の旅で寺社の写真が中心になっているが元々興味があったわけではなかったこの記念...土門拳記念館(山形県酒田市飯森山)

  • 宮城峡蒸溜所(宮城県仙台市青葉区ニッカ1番地)

    訪問日令和3年6月6日宮城峡蒸溜所山形県と宮城県の県境付近(住所は宮城県)にある山中にある蒸溜所コロナの影響で臨時休業していたが、一部営業が再開したことを知った問題なのが緊急事態宣言地域からの入場は認めないということ(困った)そこで、前日に蒸溜所に電話した現在、旅行中だが出発前北海道は緊急事態宣言はしていなかったので入場させて欲しいと(懇願)数分後に連絡があり「お待ちしています」との内容であった(嬉)駐車場に着くと札幌ナンバーのため係の人が寄ってきた昨日連絡したことを告げると「失礼しました。○○様ですね。お待ちしていました」と丁寧に対応されたこの日は、ギフトショップとビジターセンターのみ開放されていると説明された目的は売店で限定ウイスキーを購入することなので周囲の建物を見ながら売店へ向かうレンガ建ての大きな建物...宮城峡蒸溜所(宮城県仙台市青葉区ニッカ1番地)

  • 鈴立山 若松寺<別称:若松観音>(山形県天童市大字山元)

    訪問日令和3年6月7日鈴立山若松寺(じゃくしょうじ)<別称:若松観音>重要文化財の観音堂があるということで訪れた山の上にあるとは知らず狭くてカーブの多い道に悩まされた花笠音頭歌碑「めでためでたの若松さまよ枝も栄えて葉も茂る」歌詞の「若松さま」がこの若松寺を指していることを、後で調べて分かったそれまでは会津の若松だと思っていたが、花笠音頭は山形県の民謡だった(恥)地蔵堂(子育て地蔵)通称「お地蔵さま」若松寺の地蔵は子育てがテーマ若松寺縁起本坊「天台宗祈願道場」の札と「祈願所」の扁額観音像子育て地蔵福満稲荷社石仏福聚観音(福が聚まる観音様)水屋香炉堂この日も朝早く駐車場に着き、車中で待機写真左の住職が境内の清掃、拝観の準備をしていた観音堂(重要文化財)寺伝によれば、和銅元年(708年)元明天皇の勅命によって行基菩薩...鈴立山若松寺<別称:若松観音>(山形県天童市大字山元)

  • 瑞宝山 本山慈恩寺(山形県寒河江市大字慈恩寺)

    訪問日令和3年6月6日瑞宝山本山慈恩寺慈恩寺には拝観できる仏像も多く、魅力的な三重塔もあり、今回が三度目の訪問になる駐車場横にはお洒落なカフェもでき、雰囲気が変わっていた山門(山形県指定文化財)元文元年(1736年)築造3間1戸の楼門造で、入母屋造、八脚門で銅板葺仁王像本堂(重要文化財)神亀1年(724年)行基が慈恩寺を景勝であるのを見て京に帰り、聖武天皇に奏上天平18年(746年)聖武天皇の勅命でインドの婆羅門僧正が開山開山約1300年江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した現在は3ヵ院17坊法相宗に始まり、天台宗・真言宗・修験の外時宗、禅宗等多様な宗派が入り混じっていた昭和27年(1952年)「天台真言両宗慈恩寺派」となり、昭和47年(1972年)「慈恩宗大本山慈恩寺」として独立...瑞宝山本山慈恩寺(山形県寒河江市大字慈恩寺)

  • 鶴布山 珍蔵寺(山形県南陽市漆山)

    訪問日令和3年6月6日鶴布山珍蔵寺山形県南陽市の漆山地区には、古くから鶴の恩返し伝説があるという珍蔵寺には鶴の羽で織った織物を寺の宝物としたと伝えられている緑のトンネルを上っていく五輪塔地・水・火・風・空の五大をそれぞれ方形・円形・三角形・半月形・宝珠形に石などでかたどり、順に積み上げている手水舎山門彫刻扁額の文字が読めない虚空蔵菩薩堂虚空蔵菩薩仏足石・仏足石歌碑(南陽市指定文化財)鐘楼梵鐘には鶴の恩返し伝説が描かれている本堂寛正元年(1460年)極堂宗三和尚によって開山この地に古くから伝えられる「鶴の恩返し」を縁起とし、鶴女房の夫だった金蔵が仏門に帰依したのが開基としている初めは金蔵寺という名であったが、後に現在の名となった<日本伝承大鑑より>正直者の金蔵という男が、ある時、1羽の鶴が縛られているところに出く...鶴布山珍蔵寺(山形県南陽市漆山)

  • 鶴布山 珍蔵寺(山形県南陽市漆山)

    訪問日令和3年6月6日鶴布山珍蔵寺山形県南陽市の漆山地区には、古くから鶴の恩返し伝説があるという珍蔵寺には鶴の羽で織った織物を寺の宝物としたと伝えられている緑のトンネルを上っていく五輪塔地・水・火・風・空の五大をそれぞれ方形・円形・三角形・半月形・宝珠形に石などでかたどり、順に積み上げている手水舎山門彫刻扁額の文字が読めない虚空蔵菩薩堂虚空蔵菩薩仏足石・仏足石歌碑(南陽市指定文化財)鐘楼梵鐘には鶴の恩返し伝説が描かれている本堂寛正元年(1460年)極堂宗三和尚によって開山この地に古くから伝えられる「鶴の恩返し」を縁起とし、鶴女房の夫だった金蔵が仏門に帰依したのが開基としている初めは金蔵寺という名であったが、後に現在の名となった<日本伝承大鑑より>正直者の金蔵という男が、ある時、1羽の鶴が縛られているところに出く...鶴布山珍蔵寺(山形県南陽市漆山)

  • 如意山 乙宝寺(新潟県胎内市乙)

    訪問日令和3年6月6日如意山乙宝寺(おっぽうじ)令和元年10月に一度訪れ、今回が二度目になる楽しみにしていたということもあり、駐車場には6持45分に着いた金毘羅堂弁天堂(新潟県指定文化財)仁王門仁王像鎌倉期に制作された仁王像の修復作業中ということで今回は一体のみ総工費2,500万円完成年度令和8年5年後には放浪の旅は無理だろうと思いながら仁王像を眺めていた三重大塔(重要文化財)前回訪れた時は曇天の午後でうまく撮れなかった朝の光ではどうかと思い早くに訪れたのだが同じような感じであった塔の周囲は高い木に囲まれ、自動設定ではで撮ると黒くつぶれてしまう鐘楼手水舎金堂(大日堂)インド僧婆羅門僧正は、当寺に釈迦の左眼を納めて「乙寺」と名づけたといわれている右眼は中国に納められ「甲寺」と呼ばれた平安時代後白河天皇は、左眼を納...如意山乙宝寺(新潟県胎内市乙)

  • 如意山 乙宝寺(新潟県胎内市乙)

    訪問日令和3年6月6日如意山乙宝寺(おっぽうじ)令和元年10月に一度訪れ、今回が二度目になる楽しみにしていたということもあり、駐車場には6持45分に着いた金毘羅堂弁天堂(新潟県指定文化財)仁王門仁王像鎌倉期に制作された仁王像の修復作業中ということで今回は一体のみ総工費2,500万円完成年度令和8年5年後には放浪の旅は無理だろうと思いながら仁王像を眺めていた三重大塔(重要文化財)前回訪れた時は曇天の午後でうまく撮れなかった朝の光ではどうかと思い早くに訪れたのだが同じような感じであった塔の周囲は高い木に囲まれ、自動設定ではで撮ると黒くつぶれてしまう鐘楼手水舎金堂(大日堂)インド僧婆羅門僧正は、当寺に釈迦の左眼を納めて「乙寺」と名づけたといわれている右眼は中国に納められ「甲寺」と呼ばれた平安時代後白河天皇は、左眼を納...如意山乙宝寺(新潟県胎内市乙)

  • 如意山 乙宝寺(新潟県胎内市乙)

    訪問日令和3年6月6日如意山乙宝寺(おっぽうじ)令和元年10月に一度訪れ、今回が二度目になる楽しみにしていたということもあり、駐車場には6持45分に着いた金毘羅堂弁天堂(新潟県指定文化財)仁王門仁王像鎌倉期に制作された仁王像の修復作業中ということで今回は一体のみ総工費2,500万円完成年度令和8年5年後には放浪の旅は無理だろうと思いながら仁王像を眺めていた三重大塔(重要文化財)前回訪れた時は曇天の午後でうまく撮れなかった朝の光ではどうかと思い早くに訪れたのだが同じような感じであった塔の周囲は高い木に囲まれ、自動設定ではで撮ると黒くつぶれてしまう鐘楼手水舎金堂(大日堂)インド僧婆羅門僧正は、当寺に釈迦の左眼を納めて「乙寺」と名づけたといわれている右眼は中国に納められ「甲寺」と呼ばれた平安時代後白河天皇は、左眼を納...如意山乙宝寺(新潟県胎内市乙)

  • 新発田城(新潟県新発田市大手町)

    訪問日令和3年6月5日新発田城新発田市は、学生時代に寮生活で同室だった朋友の出身地でもあり往時を思い出す別名、菖蒲城(あやめじょう)初代新発田藩主溝口秀勝が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直のときに完成した旧二の丸隅櫓(重要文化財)駐車場から歩いてくると最初に目に入ってくるのが「旧二の丸隅櫓」石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる技法白と黒が美しい海鼠(なまこ)壁で仕上げられている新発田城は山城と違い、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城堀部安兵衛武庸(たけつね)像高田馬場の決闘で名を馳せた、赤穂浪士四十七士の一人が何故と思った調べてみると、寛文10年(1670年)越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として誕生している武庸が13歳...新発田城(新潟県新発田市大手町)

  • 福地山 種月寺(新潟県新潟市西蒲区石瀬)

    訪問日令和3年6月5日福地山種月寺(しゅげつじ)週末で好天ということもあり車も多い田園風景を眺めながら重文のお堂のある種月寺を目指す六地蔵山門山門の前に立ったとき、このような特色ある山門を見たことがあっただろうかとしばらく考えていた記憶にはないが素晴らしい屋根の形の山門だ石に刻まれた「禅窟」は禅寺の意味観音像だと思うが、美しい石仏だこの石仏にお参りをしていた初老の女性がいたので声をかけた山門の屋根の形について尋ねたのだが、話しはいつの間にか世間話にかわっていたこの土地に生まれ、青春時代を過ごし結婚し子供が生まれ、現在は孫の学校の送り迎えをしているとのこと手を合わせる習慣が子供の頃から日常になっているようだ山門について聞くことはできなかったが、桜と紅葉の季節は美しいと話してくれた山門の彫刻門扉に「丸に十字」の寺紋...福地山種月寺(新潟県新潟市西蒲区石瀬)

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