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  • 智恵子の生家・智恵子記念館(二本松市油井字漆原町)

    訪問日令和元年11月6日走行中「智恵子の生家」の案内板が突然目に入ってきた。「高村光太郎」との関係に興味をもっていたので立ち寄ることにした。智恵子の生家・智恵子記念館明治19年(1886年)福島県安達郡油井村字漆原の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子入り)とせんの二男六女の長女として生まれた。戸籍名は「チヱ」。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、使用人を多数抱えた資産家であった。明治の初期に建てられた生家、造り酒屋として新酒の醸成を伝える杉玉が下がっている。屋号は「米屋」、酒銘「花霞」生家内に入る。「しろしき」杜氏・酒男など男衆のたまり場。女衆の寝室。「帳場兼接客室」「酒林(さかばやし)」酒屋の看板として、杉の葉を球形に束ねて軒先につるしたもの。「搾りを始めました」と新酒が出来たことを知らせる役割を果たし...智恵子の生家・智恵子記念館(二本松市油井字漆原町)

  • 二本松城跡<霞ヶ城>(福島県二本松市郭内)

    訪問日令和元年11月8日予定していた2つの寺社が駐車場の関係でキャンセル。コンビニ駐車場で「最寄りの観光地」で検索すると200m以内に「霞ヶ城」がヒットした。史跡二本松城跡<霞ヶ城>二本松市街地の北に位置し、麓の居館と、標高345mの「白旗が峰」に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城である。江戸時代は二本松藩主丹羽氏の居城となった。二本松少年隊群像<制作:橋本堅太郎>戊辰戦争「二本松の戦いにおいて、藩の兵力は約1千人、それに対して薩摩・長州・土佐などの西軍は約7千人。徹底抗戦の末、慶応4・明治元年(1868年)7月、二本松城は炎上し、落城した。会津藩の「白虎隊」とは違って、二本松藩の場合は西軍が二本松城下に切迫する直前に、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちが緊急に各部隊へ配属されたため、正式な名称はなか...二本松城跡<霞ヶ城>(福島県二本松市郭内)

  • 安達太良神社(福島県本宮市本宮字舘越)

    訪問日令和元年11月8日道の駅「はなわ」にて快晴の朝を迎える。コンビニが併設されていて便利な場所である。寒さが苦手で、朝夕の冷え込みが身体に堪えるようになってきた。安達太良神社駐車場が狭いため車が枠の中に収まらず、4・5台分のスペースを占領し駐める。他に迷惑がかかるため急いで参拝する。一の鳥居狛犬社号標二の鳥居更に長い石段が続く。鈴木広視歌碑「菅山や神の鉾杉高々にしらゆう桂し雪の曙」貴船神社津島神社・金比羅神社拝殿創建は久安2年(1146年)と伝えられ、安達太良山の神々と大名倉山の神々を勧請し里宮とした事が始まりとされ、氏子達からは「明神様」と呼ばれている。近隣地域に点在する安達太良神社の総本宮であることから、鎮座地の名前が「本目村」から本宮村となったとされ「本宮」という地名の由来になったとされる。本殿本殿は屋...安達太良神社(福島県本宮市本宮字舘越)

  • 白河関跡(福島県白河市旗宿白河内)

    訪問日令和元年11月7日史跡白河関跡「白河の関」の名は時々耳にすることがあり、ずっと興味を持っていたが訪れたのは初めてである。ナビによると「らしき場所」に到着したはずなのだが想像していたものとは随分違っていた。「白河関の森公園」の駐車場に車を駐め彷徨ってこの場所に着いた。白河の関は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として名高い。設置時期も明らかではなく、関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。古関蹟(こかんせき)の碑白河藩主松平定信が寛政12年(1800年)8月、「ここが白河関跡である」であることを断定し、建立した碑。松平定信は文献による考証を行い、その結果、「白河神社の建...白河関跡(福島県白河市旗宿白河内)

  • 乃木神社(栃木県那須塩原市石林)

    訪問日令和元年11月7日乃木神社明治期の軍人の乃木希典の名がついた神社である。「二百三高地」の映画と司馬遼太郎の小説を読んだ程度で知識はないが興味を持っていた。社号標と鳥居乃木希典は、武人、教育者、また文人として多くの詩歌を遺している。「乃木大将」「乃木将軍」と親しまれ、東京乃木坂の地名の由来でもある。日露戦争における旅順攻囲戦では第三軍司令官として指揮を執った。手水舎二つ目の鳥居から中に入る。七五三の祈祷を待つ家族連れが順番を待っている。神馬舎皇太子時代の大正天皇から下賜された馬で「殿下」にちなんで殿号(しんがりごう)と名付けられた。殿号は別邸で亡くなり静子林に葬られた。生駒神社碁盤の儀(七五三)皇室に伝わる古い儀式で、碁盤の上に立ち地面に向かって降りる。世界の上にしっかりと立ち、碁盤の目のように筋目正しく美...乃木神社(栃木県那須塩原市石林)

  • 与楽山 大悲心院 観音寺(栃木県矢板市長井)

    訪問日令和元年11月7日温泉で身体を温め熟睡。道の駅「やいた」で朝を迎える。今日も天気に恵まれた。地元北海道では雪が降り積もっているというニュースが流れた。与楽山大悲心院観音寺(通称:寺山観音寺)途中狭い道もあったが観音堂近くにある大きな駐車場にたどり着いた。このような時はスタート地点になる山門へ移動することにしている。初めて訪れる寺で、そのきっかけとなったのは重文の像があることを知ったからだ。この先、わくわくするような参道が続く。「象頭山」と彫られた石碑「國寶記念」と刻まれている。現在は重文であるが、本尊の「千手観世音菩薩(秘仏)」が国宝だった頃に建てたと思われる。石橋アーチ状に組まれた石橋の下には満願ケ池。周囲の風景と見事に同化している。参道横に小さなお堂がある。はっきりはしないが、形から「不動明王像」か。...与楽山大悲心院観音寺(栃木県矢板市長井)

  • 木幡神社(栃木県矢板市木幡)

    訪問日令和元年11月6日この日最後の訪問地は重文の社殿を持つ木幡神社。昼時ということもあり駐車場で鳥居をみながら昼食を済ませる。木幡(きばた)神社坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、蝦夷討ちの途中にこの地に宿陣。「功あらば一祠を建立せん」と日ごろ崇敬していた山城国許波多神社に向かって戦勝を祈願した。延暦13年(795年)、戦に勝っての帰り道、ここに社を勧請したのが始まりとされている。鳥居扁額には「鹽谷惣社大明神」鎌倉時代から戦国時代の400年間にわたり塩谷地方を支配する塩谷氏の惣社・鎮守の森として厚く尊ばれた。左手に湯殿山、熊野三神、易體山の石碑がある。楼門(重要文化財)楼門と本殿は栃木県最古の神社建築で国の重要文化財に指定されている。昭和35年から大規模な解体修理が行われれ、建物の特徴から室町時代中頃の建造物...木幡神社(栃木県矢板市木幡)

  • 密興山 地蔵院 高宗寺(栃木県芳賀町祖母井)

    訪問日令和元年11月6日密興山地蔵院高宗寺建物は再建されてはいるが、開山は応永10年正月(1403年)良慶大和尚の創立というから古い。山門白木の豪壮な桜門造りで、延宝元年(1673年)維親という人が建てたと横堀家の古書にある。額には寺号の「高宗寺」一説によると、真岡藩主稲葉正成建立の「政城寺」の山門といわれている。仁王像いつものように格子の隙間にレンズを突っ込み撮る。日差しが強く格子の影が像に当たって面白い。迫力ある仁王像である。本堂仁王像の正面奥にある。真言宗豊山派の寺院で、本尊は「胎蔵大日如来」寺伝によると、天文2年(1533年)国歌安穏のため祖母井信濃守が再建。東京湯島の「根生院」の末寺である。額には山号の「密興山」前本堂は、明治24年の大暴風雨によって倒壊。仮本堂として再建されその後百年余の星霜を経て、...密興山地蔵院高宗寺(栃木県芳賀町祖母井)

  • 延生山 地蔵院 城興寺(栃木県芳賀郡芳賀町大字下延生)

    訪問日令和元年11月6日入浴施設が併設されている、道の駅「はがロマンの湯」に車中泊。雲一つ無い快晴の朝を迎えた。延生山地蔵院城興寺道の駅から5分ほど走った所にある。大きな駐車場の駐車しているのは私の車のみ。中に入って分かったが、境内にある幼稚園も休みだった。山門額には山号の「延生(のぶ)山」「延命地蔵尊」天正12年(1584年)堂塔伽藍全焼し、その折に記録も消失、開基・造立も詳かでない。鐘楼お堂の額には「平和観音」観音堂「地蔵菩薩像」子育地蔵堂後鳥羽・土御門・順徳の頃か、天皇の后が妊娠するも臨月になっても産気づかなかった。帝の夢枕に「女人の安産は地蔵菩薩十種の大願の第一なれば、此の菩薩を信仰給わば御安産疑いなし」と消え失せた。帝は、后の産紐を解かれ、安々と王子を産んだ事により「紐解地蔵」とも称される。帝は仏師・...延生山地蔵院城興寺(栃木県芳賀郡芳賀町大字下延生)

  • 曛静山 華徳院 薬王寺(茨城県桜川市青木)

    訪問日令和元年11月5日この日は予定して通りに事が進まず、「最寄りの有名寺院」で検索していくつかの候補の中からここを選んだ。曛静山(くんせいざん)華徳院薬王寺選択の基準は、国宝・重文の建築物や塔のある寺院だが、いずれにも該当しない。だが、引きつける何かを感じていた。山門駐車場から山門が見える。何と素晴らしい景色だろう。久し振りに「二宮尊徳像」を見た。知らなかったが、この地区・青木村を復興させた人物だという。「二宮尊徳像」この地を潤していた青木堰という堰があり、青木村にとって無くてはならないものだった。堰があった桜川は急流であった為に増水により流される度に改修をしていた。改修費を払えなくなり、堰は壊れたまま放置されることとなり、それに伴い収穫量は激減。村の救済を二宮尊徳に頼み、青木村復興事業の一つとして青木堰が完...曛静山華徳院薬王寺(茨城県桜川市青木)

  • 雨引山 楽法寺(茨城県桜川市本木)

    訪問日令和元年11月5日雨引山楽法寺(らくほうじ)<通称:雨引観音>この日は朝から訪問地の予定が狂い、移動中に「最寄りの有名寺院」で検索し選択した寺の一つである。薬医門<黒門>(桜川市指定文化財)初めての寺だと思い楽しみにしていたが駐車場に着いた瞬間、見覚えのある風景が広がっていた。2年前に大洗港から関東地方を回った時に訪れていた。長い石段の参道で絵を描いていた男性と話をした記憶がはっきり残っている。仁王門が見える。前回とは違った道を進むことにした。小安地蔵堂享保年間、徳川吉宗の台命より造建この彫刻に興味を持っていた。駐車場に私の車が見える。奥の院(客殿)寛政4年(1792)再建。旧幕時代は雨引山楽法寺運営の中枢的建物。「千手観世音菩薩」鬼子母神堂六角堂堂内の様子不動明王像(茨城県指定文化財)永享10年(143...雨引山楽法寺(茨城県桜川市本木)

  • 米井山 無量寿院 龍禅寺(茨城県取手市米ノ井)

    訪問日令和元年11月5日千葉県柏市にある、道の駅「しょうなん」で朝を迎える。訪問予定の2つの寺院には道路幅や駐車場が無いなどの問題で断念せざるを得ない状況に追い込まれた。米井山無量寿院龍禅寺3つ目がここ龍禅寺。実はここもナビの案内する道は道路幅がかなり狭く、他の道を探すため周辺を20分ほど走ってみたが無かった。意を決してナビの案内する道へ。小回りが苦手な私の車は右左折も切り返しをしなければ曲がってくれない(冷汗)寺号標柱山門本堂宗派は天台宗。天慶2年(939)の創建と伝えられる。山号の米井山(べいせいざん)は、平将門が武運長久を祈願するために龍禅寺に参詣した際に、井戸から米が噴き出したことに由来するといわれている。将門はこれを吉祥と喜び、地名の「米ノ井」もこれに由来すると伝えられている。額には山号の「米井山」仁...米井山無量寿院龍禅寺(茨城県取手市米ノ井)

  • 日光東照宮・日光田母沢御用邸(栃木県日光市)

    訪問日令和元年11月3日昨夜は2年毎に開催している学生時代の同期会をプレ五輪と称して東京で開催。2日目は道路の渋滞が予想されるため電車で日光に移動した。日光東照宮この選択は大正解で車なら身動きがとれなくなっていた。東武日光駅から循環バスを利用し東照宮へ向かう予定だったが、渋滞のため徒歩の方が早いと判断し昔話をしながら歩く。疲労しかけたことに目的地に到着したが、この観光客の賑わいぶりには正直驚いた。この重要文化財の五重塔を撮るために前年に訪れたが、この日はこの一枚だけ。「三猿」の建物付近もこのような状態。少しズルをしながら三猿に近づく。陽明門前の入口側通路は特に混雑していて、階段付近は注意が必要なほどだ。反対側からも立ち止まって、ゆっくり写真を撮るなどとてもできない状態だった。流れに逆らって堂々と歩いているのが私...日光東照宮・日光田母沢御用邸(栃木県日光市)

  • 東京国立博物館(東京都台東区上野公園)

    訪問日令和元年11月2日湯島天神から靖国神社も考えたが、東京国立博物館に足が向いた。週末ということもあり上野公園内は想像以上に賑わっていた。東京国立博物館東京では私の観光の定番となっている博物館。常設展示の多くは写真撮影が許可されている。今回は一眼レフではなく、不慣れなポケットカメラでの撮影になる。黄釉銹絵海樹図大瓶(重要文化財)「執金剛神立像」矢の根五郎図額(重要美術品)大好きな浮世絵が展示されていた。太刀福岡一文字助真(国宝)伝源頼朝坐像(重要文化財)「聖徳太子立像」「菩薩立像」飛鳥時代前期の木彫。頭体幹部をクスノキの一材から彫り出している。「聖観音菩薩立像(模造)」埴輪猿(重要文化財)「火焔型土器」「貴賓室」「四天王立像」不動明王立像(重要文化財)十二神将立像(重要文化財)「阿弥陀如来立像」企画展会場にて...東京国立博物館(東京都台東区上野公園)

  • 湯島天満宮(東京都文京区湯島三丁目)

    訪問日令和元年11月2日2年毎に開催している同期会をプレ五輪と称して大学のあった東京でこの日に行うことになった。時間に余裕があったので宿泊するホテルに荷物を置き、ポケットカメラを持ち近くの観光地へ向かう。湯島天満宮(通称:湯島天神)最寄りの観光地の一つが湯島天神。近い場所にあるはずなのだがいつものように迷ってしまった。グーグルやヤフーマップを使ったが目的地が遠ざかり、結局、人に尋ねてやっとたどり着く。唐門いくつかの門があるようだが、唐門から入る。門扉の彫刻。神紋の「加賀梅鉢紋」さすが大都会、祭りの法被を着た猿が普通に歩いている(笑)祭事の「菊まつり」が開催されていた。今夜、宿泊するホテルの菊も展示されている。拝殿社伝によれば、雄略天皇2年(458年)、勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社...湯島天満宮(東京都文京区湯島三丁目)

  • 赤城山 西福寺(新潟県魚沼市大浦)

    訪問日令和元年10月30日赤城山西福寺天文3年(1534年)に波多野義重を開基、芳室祖春を開山として天台宗の寺院として創建、後に曹洞宗へ改宗され現在に至る。「日本のミケランジェロ」とも称される江戸時代の名工「石川雲蝶の彫刻」が多く残されている。山門(赤門)西福寺には山門が二つある。第一山門は、朱色に塗られていることから通称「赤門」と呼ばれている。石川雲蝶作の「禁葷酒(きんくんしゅ)」と刻まれた石碑同じく「火除地蔵」「仁王像」赤門の彫刻大型観光バスが到着し観光客が降りてきたので周辺を散策する。白山神社駐車場の横に奇妙な形の覆いがある。山門(白門)開山堂落慶の翌年、安政五年に建立された。扁額には山号の「赤城山」仁王像難敵のガラスで保護されている。顔の表情が写る場所を探す。仁王像は仏師「山本桃楓」作鐘楼と梵鐘鐘楼は、...赤城山西福寺(新潟県魚沼市大浦)

  • くがみ山 国上寺 その2(新潟県燕市国上)

    訪問日令和元年10月30日くがみ山国上寺その2賛否両論のあった本堂の「イケメン偉人空想絵巻」を後にする。大師堂(御仮堂)宝永8年(1711)に建造、弘法大師像を安置している。本堂を建立している間、本尊阿弥陀如来・脇侍等を安置していたことから、「御仮堂」ともいわれている。堂内の様子「弘法大師像」弘法大師五鈷掛けの松空海が唐より帰朝の際、一寺建立と請願され、日本に向け三鈷杵と五鈷杵(ごこしょ)を投じられた有名な伝説話がある。飛んできた三鈷杵が届いた所が高野山の松に掛り、もう一つの五鈷杵が飛んで来たのがこの松だという。高野山は知っていたがもう一つがここだとは知らなかった。雷井戸良寛禅師像寺号石柱修学旅行の女子高生が山門前で話をしている。風神雷神像水子子育地蔵方丈講堂(別称:客殿)堂内の様子「千手観世音菩薩像」が安置さ...くがみ山国上寺その2(新潟県燕市国上)

  • くがみ山 国上寺 その1(新潟県燕市国上)

    訪問日令和元年10月30日くがみ山国上寺その1登山者と国上寺(こくじょうじ)参拝者が共用する駐車場に到着する。案内図を見ると少し歩かなければならないようだ。緩やかな坂道を進んでいく。ボケ封じ・がん封じ地蔵他人事ではない年齢になってきている。やすらぎ観音手を合わせ目を閉じ、3呼吸後に目を開けると、やすらぎを授けてくれるという。山門近くに修学旅行の女子高生の集団がいたので、静かな場所に移動する。鐘楼正面に見えるのが本堂本堂に向かう参道の左右に安置されている石仏元明天皇和銅2年(709)に越後一の宮弥彦大神の託宣により建立された、越後最古の古刹。六角堂悲劇の武将、源義公伝説が寺伝にある。兄・頼朝に追われた義経は、文治3年(1187年)平泉へ逃れるその途中に国上寺本堂に隠れていた。義経が隠れていることを頼朝に密告する者...くがみ山国上寺その1(新潟県燕市国上)

  • 酒呑童子神社(新潟県燕市国上)

    訪問日令和元年10月30日秋の旅、最初の車中泊は、温泉施設が近くにある道の駅「国上」。夕暮れと間違いそうな朝を迎えた。酒呑童子神社(しゅてんどうじんじゃ)「国上寺」を目指し、道の駅を出た直後、右手に塔の姿が目に入り立ち寄ることにした。案内板に目を通す。気になっていた塔の記載がない。鳥居鳥居とその奥に建つ五重塔とに違和感がある。鳥居には社号五重塔ネットでの検索結果、平成9年(1997年)分水町の大工が「趣味」で数年の歳月をかけ手作りで完成したという。なかなか粋な大工がいたものだ。鳥居朱色の鳥居。「酒呑童子は分水町に生まれ、国上寺で外道丸と呼ばれ稚児として過ごした。生来美男子であったため、近隣近郷の娘達から恋文が山のように届いたが、開くことなく修行に励んでいた。ある日、返事の来なかったことを悲観した娘が己の命を絶っ...酒呑童子神社(新潟県燕市国上)

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