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2014/11/03

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  • 「東国」と「吉備」

  • 「天智」と国号変更について(改訂版)

    以下は以前に書いたものですが、その後の研究の進捗から多少内容が変更されるべき点があり、ここに改訂版を提示します。「国号変更」について朝鮮の史書である『三国史記』の『新羅本紀』には「六七〇年」という年に「倭国自ら国号を更えて日本と号す。日の出ずる所に近し。故に名と為すと」と書かれています。この「国号変更」については以下のように考えられます。この「国号変更」はこのとき変更したということではなく、それが「新羅」に正式に伝えられたのがこの時点であったと理解すべきこととなりました。なぜなら「国内」及び「唐」に向けては以前にすでに「国号」を「日本」とするという意思表示が成されていたものであり、それが「新羅」に対しては遅れたということではないでしょうか。そして既に指摘したように彼らは「筑紫日本国」とは別に「日本国」を名...「天智」と国号変更について(改訂版)

  • 『古事記』編纂と「天智朝」の復活としての「新日本王権」

    以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」による派遣(外交権を取得したと自負したもの)と、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国として認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。「近畿王権」の当初の意図はあくまでも「倭国」の後継者というものであったものが、「唐」からも「さらには「筑紫」の勢力(これは旧倭国でありその後「筑紫日本国」として存在したと推定)からもそうとは見なされず、「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定し、また「筑...『古事記』編纂と「天智朝」の復活としての「新日本王権」

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