車で10分ほど行つた所にある私のお気に入りの場所。4月8日は釈迦の生誕日、花まつり。桜の咲きやうには時空を超えた姿がある。それは死を予感さへする。ここがあそこであること。あそこがここであること。それを桜が伝へてゐるやうだ。花咲きけり
言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。
日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。
子どもが自立できる教育(小学館文庫)岡田尊司小学館生徒を育てるにはどうすればよいか。そればかりを考へてゐる。育てるにはまづ学力をつけるといふことがある。もちろん、その場合の「学力」とは何かといふ問題もある。それについては、中等教育では教科書が検定によつて決められてゐるのであるから、その教科書が理解できるかといふところを基準にしてゐる。次に「理解できる」とはどういふことなのかといふ問題もある。それについては、定められた試験において60点を取れるといふことを基準にしてゐる。しかし、学力が付き、理解ができれば、生徒は育つたといふことになるのか。学力=教養=幸福といふ図式はすでに過去のものである。私の身の回りにも高学歴の方はたくさんゐるが、彼らの言動を見る限り、かなり不自由な生活をしてゐることが分かる。この場合の...岡田尊司『子どもが自立できる教育』を読む
素晴らしきかな、人生(字幕版)ウィル・スミス久しぶりの休日。車の点検に遠出し、買ひ物をしてきた夕方。特に予定もないこの時間が好きだ。日が伸びてきたおかげて、夕方と言つても外は明るい。そんな時に、更にいい映画に出会ふとさらに幸福感に満たされる。出会ひは偶然の力であるから、うまく行かない時もある。しかし、今日はうまく行つたやうだ。洋画をあまり観ないが、今日たまたまprimevideoで観たのが、「素晴らしかな、人生」である。訳者もウィル・スミス以外は知らない。不思議な話ではある。六歳の娘を重い病で失つた男が、「出会ひ」を通じてその悲しみを受け入れていくといふのが物語である。しかし、その男は娘の死を受け入れられない。病んでゐることを心配する同僚たちが、秘策を練る。それが功を奏するのであるが、その同僚たちの秘策も...映画『素晴らしかな、人生』を見る
先日、ある読書会に参加した。4年ほど前にも参加したことがあるが、どんな風に進めていくのかもすっかり忘れてゐたのでしばらくは様子を見てゐた。テーマとなつた本について順々に感想を述べてゐるやうだつた。それはまあ普通に答へて、一巡し終はつたところで、何か仰りたいことがある方は御自由にといふので、少しのべさせてもらつた。すると70歳ほどの常連らしきお方が、「そんな事を発表者に訊いて時間をかけてここで話し合ふ意味があるか」と言つて来た。話し合ふ意味とはどういふ意味なのか、私には全く分からなかつた。意味なんかないと言へばない。そもそも読書会にいやいや読書自体に意味があるのかどうかも分からない。意味がなければ何もしないといふのが私には暴言のやうに思へた。何のことはない。その御仁は自分の話がしたいといふことに過ぎないとい...読書会の難しさ
先日スマホの料金プランの見直しに行つた。コロナが明けて再び出張が増えると、スマホを使ふ機会が増えると見込んでのことだ。結果的にはこのままでいいといふことになり、疑問に思ひながらもそのままにしておいた。それはそれで終はりなのだが、店先で気になる場面に遭遇した。それが老婦人と店員さんとのやりとりである。八十を過ぎた彼女がスマホを契約したいといふことで来店したやうだつた。「知らないうちに解約されてゐて困つてゐる」とのことだつた。しかし八十歳を越えた人の契約には家族の同意が必要で、家族に電話をかけて欲しいと言はれてゐた。それで電話をかけたのだが、娘さんは「これから出かけるところなので今晩家でね」といふことになつたらしい。なぜこんなに詳しく知つてしまつたのかと言へば、とにかく耳が遠いその御婦人相手に店員さんの声は店...スマホと老婦人
今号の紹介です。国会の議論のくだらなさは、昨日今日のことではないが、最近のものは最早「くだらない」ではすまされないほどの酷さである。小西議員の議論は、附き合ひきれない。だから、ここでも細かいことには触れないが、根拠も示さずに憶測で言ひがかりをつけるのはいい加減にせよ。それから杉尾議員の高市氏への批難も全く当たらない。それに対して「信じないなら質問しないでいただきたい」は私には正論に思ふが、如何。議論とは「よりよきもの」を巡つて交はされるところに意義があるだが、自分は絶対正しく相手は絶対間違つてゐるといふ決めつけで交はされるのは最早議論ではない。折伏である。自分と他者とが共に真実に至らうと努力するから議論が成り立つのだ。他者不信=自己絶対化なのだから、さういふ図式の中では議論は成立しない。高市氏は正しい。発...時事評論石川2023年3月20日(第827)号
子供のための哲学教室、といふものにとても興味がある。もう50年も前のこと、自分自身の子供時代を振り返ると、私は考へるといふことが生きるといふことだと感じてゐたのだらうと想像される。何となく格好いい表現だが、実態はさうではない。哲学の作法も分からないから理屈つぽい少年といふことでしかない。「屁理屈屋さん」といふ言葉を「格好いい表現」とは思はないだらうから、まさにさういふ存在だつた。それでも小学5,6年生の担任の先生は、さういふ私を妙に可愛がつてくれて、すべての生徒と交換日記をやつてくださる先生だつたので、私の面倒くさい「屁理屈」にもていねいに付き合つてくださつてゐた。そのノートは今もどこかにあるやうな気もするが、今の自分はそんな屁理屈屋はうんざりだから、見返したくはない。なぜこんな思ひ出話を書いたかと言へば...土屋陽介『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』を読む
今年の京大の現代文の1番は、福田恆存の『藝術とはなにか』からの出題だつた。試験が終はつた直後の昼休みに「先生、見ますか?」と受験生に言はれたが、試験は振り返つちやダメだと常日頃言つてゐた手前、「やめとく」と伝へて話題を切り替へたが、内心は見たくてたまらなかつた。そして、今朝やうやく予備校のウェブサイトで確かめた。なんと福田先生の文章だつた。昨日それを知つてしまつたら思はず解説してしまつてゐたかもしれないので、見ないことにして正解だつた。さて、文章に引かれた傍線部は次の通り。(1)ドラマは《為されるもの》であります(2)この呼吸は映画では不可能です(3)そのくらいなら、見せられるより見せる側にまわったほうがよっぽどおもしろい(4)教養とはそういう自我の堆積にほかなりません(5)現代では、藝術の創造や鑑賞のい...2023年京都大学の国語入試問題は福田恆存
今号の紹介です。今年最初の号。一年間といふ月日が、これほど変化をもたらした年といふのも珍しいことを感じる紙面構成である。昨年のまさに今、ウクライナへの侵略が始まつた。昨年の今頃は防衛予算の拡大についてなど政治的なタブーであつた。そして何より安倍首相が暗殺されることなど意想外中の意想外であつた。そして、それに伴つて宗教が社会の大ごとになつたのも何を言つてゐるのか分からない出来事であつた。しかし、である。世の中は変はつてゐない。今朝のテレビはパンダの移送が話題のほとんどであつた。上野のシャンシャン、和歌山のメイヒン、確かにそれは時の話題ではあらう。しかし、これだけか。人々の熱意の方向が私には分からない。大事な変化は大きすぎて見えない。今更ながらそれを感じる。「ユダ」の時代の到来を二面に掲載していただいた。左翼...時事評論石川2023年2月20日(第825/826)号
正しきことと良きことの区別ができない人がゐる。正しきことがいつでも良きことかどうか、一度考へるべきである。子供が何か過ちをした。それを叱る。それは正しきことである。しかし、叱つたからと言つて直ちに子供が良き子になるわけではない。だから、時間の猶予を与へなければならない。その時に、以前に輪をかけて叱り、怒鳴り、圧力をかけても、つまりは正しきことを幾重にも重ねても、それは良きことにはならない。裏木戸の戸を開けておけと古くから言はれるやうに、正しきことで子を追ひ込むことは良きことではない。むしろ悪しきことである。良きこと悪しきこと、正しきことと過つこと。かうした区別が大切である。これとは直接に関係ないが、アランは次のやうに書いてゐる。「ひどく腹を立ててゐる人間は、ひどく感動的な、いきいきと照らしだされた悲劇を、...怒りの鎮め方
受験生を抱へた身に去来する思ひそのまま。それは同時にこちらの老化でもある。昔は違つてゐたよな。やれやれと思ひ深々早や節分
まづは戯言を一つ。タイトルに「ソウギョウノウエン」と打ち込んだら、「操業農園」と出てきた。びつくりしたが、次の瞬間笑つてしまつた。操業農園では意味が分からない。蘭学事始(講談社学術文庫)杉田玄白講談社閑話休題。杉田玄白の『蘭学事始』には次のやうな箇所がある。「浮華の輩、雷同して従事せしも多かれども、創業の迂遠なるに倦(う)みて廃するもの少なからざりし」。(訳)浮かれて華やかなことが好きな人は、付和雷同して『解体新書』の翻訳に従事した者も多かったけれども、新しいことを始める時の回りくどくて面倒なことに飽き飽きして辞める者も少なくなかつた。今、仕事をしてゐてさういふことを感じてゐる。創立されて間もなく二十年になる学校に勤めてゐるが、この間のことを思ふと、まさに「創業の迂遠」なるを感じる。これに負けてしまひさう...創業の迂遠
ベルグソンの『物質と記憶』の第七版の序には「自分の立場ははつきり二元論だ」と書かれてゐる。そして、それは常識的な立場であるのに、哲学者からは理解されず評判が悪いとも書いてゐる。つまりは、物質といふものを、表象に還元してしまふ観念論も、我々の中に表象を生み出しつつも当の表象とはまつたく本性の異なるものだとする実在論とは、共に誤りであるといふ考へある。それは端的に「『もの』と『表象』の中間に位置する存在なのである」。私は、いまこのベルグソンの物質観を問題にしてゐるのではない(もちろん、その考へに異論があるわけではないが)。ではなく、二元論といふのは、かういふ使ひ方が正しいといふことが言ひたいのである。ところが、新聞に出てくる知識人たちの文章や、テレビに出てくるコメンテーターの中には、これを「物質か表象(精神)...誤解される「二元論」
モナドの領域(新潮文庫)筒井康隆新潮社今年最初の小説。じつを言ふと年末から読み始めてゐたが、年始になつて仕事が始まり、それをまとめる余裕がなくなり、今日になつてしまつた。読み終へて十日ほど経つので、もうまとめるといふ気力もない。ただ面白かつたといふ思ひである。「モナド」とは、空間を構成する単位を表す概念のやうだが、それ自体は構成要素を持たないものであるといふ。しかし、素粒子が原子を作るやうに、素粒子同士が関係を持つやうなものであるのに対し、モナドは一切の関係を持たない独立的なものであるとされてゐる。この世界はそのモナドの領域である。ところが、現代、別のモナドとの重なりが起きてしまつた。その証拠がある事件である。この小説の冒頭に書かれたバラバラ殺人事件が、その「重なり」の証拠であつた。もちろん、読者はそんな...筒井康隆『モナドの領域』を読む。
正月の談議(承前)吉本隆明は福田恆存のことを書かなかつた。このことをずつと不思議に思つてゐた。大学時代に、そのことについて先輩と議論したこともあつたが、両者については何も知ることはできなかつた。ところが、神道氏がかう言つた。「別冊宝島の『保守反動思想家に学ぶ本』に吉本は福田の訳した『アポカリプス論』を読んで影響を受けたと書かれてゐた。」この本は、1985年に出たMOOKで、私も読んでゐた。が、それは記憶になかつた。そこで、愛知に戻つて来て、書棚の奥から今日やうやく探し当てた。すると149頁にかうあつた。呉智英の言葉である。「福田はだから、吉本にも影響を与えているわけですよ。吉本の『マチウ書試論』ってのは明らかに今言った『アポカリプス論』に触発されて出てきたもんだから。」すると、真宗門徒氏は、吉本の『マチウ...正月の談議から――吉本隆明の福田恆存からの影響
良寛と言へば、一般には江戸後期の僧侶のことが知られてゐる。吉本隆明や水上勉の著作にもあるほどで、俳人・漢詩人としても知られてゐる。今、調べると辞世の句は「うらをみせおもてを見せてちるもみじ」であつたと言ふ。一昨日の宗教談議の中で、鎌倉時代の既存仏教は、いはゆる「末法の時代」に何をしてゐたのだらうかといふ疑問が湧いた。そこでふと口に出て来たのが「良寛といふ僧侶がゐたやうな気がする」とつぶやいたが、記憶も曖昧で確かなことは言へなかつた。そこで今朝調べてみると、確かに鎌倉時代に「良寛」といふ人物がゐた。その方はむしろ「忍性」と言ふ名で知られる人で、(鎌倉の)極楽寺忍性と言はれてゐる。真言宗とも律宗とも異なる真言律宗と呼ばれる宗派である。貧民やハンセン病の患者の救済を目指して活躍してゐた。ちなみに言へば、大阪の四...二人の良寛
正月とお盆と、長い休みの時の最大の楽しみは、気の置けない友人二人との語らひである。昨日も、その時間を楽しんだ。初詣の話から始まり、それぞれのこの期間に出会つた人の話や読んだ本の話を語り始めた。いつものこの調子であるが、昨日は「信じるといふこと」について話が至つた。宗教や信仰といふ漢語では、私が感じた印象とは違ふやうにも感じる。それはやはり「信じるといふこと」がふさわしいやうに思ふ。神道と真宗と無教会とそれぞれの立場からの発言は、何が正しくて何が間違つてゐるといふ理性的な追究ではない。人間とは何かといふことについて(それはたぶんに日本人とは何かといふことになるのであるが)のそれぞれが思ふところを率直に語るなかで、気づきや問ひがつぎつぎに生まれてくる。その感覚が日常では味はふことのない喜びである。これだけ書く...宗教談議とその逸脱
昨日のこと。散歩がてら買ひ物に出た。薬を一つと、久しぶりに使つたプリンターのインクがないことに気づいたのでそれを買ひに出た。夕飯は何にしようかと家内と話してゐるとパンが食べたいといふことになつて、スーパーにも寄つた。イオン系のスーパーなのでwaonで支払つた。いくら入つてゐるのかも分からないし、購入した物がいくらになるのかも分からない。ところが、レジを過ぎてレシートを見ると、残金はきつちり5,000円だつた。現在消費税は8%。物の値段も10円単位ではなくなつてゐる。計算してもこんなことは起きないだらうと思ふ。何とも気持ちの良い出来事だつた。こんなところで運を使つてしまふなんてとは一瞬思つたが、まづは気持ちの良い買ひ物に小さな喜びを記しておきたい。快事ひとつ
privateの対義語は、もちろんpuvlicである。私的と公的といふ感じで捉へてゐるのが一般的な日本人の感覚である。ところが、イギリスの私立学校を「puvlicschool」と言ふのはなぜ?と訊くと一瞬黙つてしまふ人が多い。日本人の感覚で言へば「privateschool」といふことになるからである。つまり、この両者の英語的感覚は、公私といふ日本語の感覚とは異なつてゐるといふことである。もちろん、英語にも「privateschool」と呼ばれる私立学校は存在するし、その方が数は多い。しかし、イートンやハローのやうな伝統的な私立学校はprivateschoolと呼ばれてゐる。では、このprivateといふ言葉の意味はそもそも何か。稲垣良典によれば、privationといふ名詞を見れば分かると言ふ。つまり、...privateといふこと
国語といふ教科の中の現代文といふ科目は、文化的な伝統を伝へ、自から文章を読めるやうになるための技術的訓練といふ側面は弱く、現代を彩る問題意識はどこにあるかといふ課題提示と悪文をいかに読み取るかといふ技術的訓練の側面が強い。悪文といふのは致し方ない面があつて現代日本語を母語とする日本語人を相手に授業をするのであるから、誰が読んでも明解に意味が分かるやうな達意の文章が課題文になることは少ない。つまりは、誰が読んでも一読ではあまり意味が分からないやうな文章を読み解くといふことが必要になるわけだ。さて、昨今私が気になつてゐて、今年の授業の中で随分手こずつたのが「再帰性」といふ概念である。社会学者のベックが有名だが、中世社会を変革して近代化を成し遂げた社会(封建社会を打破して資本主義社会にしたり、専制政治に終止符を...再帰的といふこと
神とは何か哲学としてのキリスト教(講談社現代新書)稲垣良典講談社追悼の意味を込めて、今年最後の書評はやはりこの書である。本年1月15日に93歳で亡くなられた、トマス=アクィナス研究の第一人者である。私は、福田恆存が見たトマス=アクィナス像でしか、この中世の代表的神学者を知らなかつたから、その評価はあまり高いとは言へないものだつた。つまり、神とは背後から感じるものであつて、それを正視し表現することから神は神でなくなつたといふのが福田恆存の中世理解であつた。もちろん、その代表者がトマスであるから、勢ひ福田はトマスの神学を謬見もしくは誤解と見てゐたわけだ。しかしながら、私たちに理性や悟性といふ知性があるからには、神とは何かを問ふことは知的誠実そのものであり、言つてみれば知性とは真の根源たる神(もちろん、真に限ら...稲垣良典『神とは何か哲学としてのキリスト教』
学力格差を克服する(ちくま新書)宏吉,志水筑摩書房今年は、学力をどのやうにして伸ばすかといふことについて考へた。もちろん、その際に重要になるのが「評価」である。学力が伸びたかどうかは、結局「評価」の問題に尽きる。つまりは、学力とは何かといふことを曖昧にしたまま、学力が伸びたかどうかといふ判断もできない。学力といふことの内実も、いかに伸ばすかといふ手段の実際も、この「評価」の問題なのである。今年一年間で読んだ本の中で、今後とも読み続けるべき書が、この『学力格差を克服する』といふ書である。著者は、大阪大学の大学院教授であつた志水宏吉氏である。本書に出会ふまで私は知らなかつたが(今思へば、苅谷剛彦氏の「関西調査」の関連でお名前が出来てきたかもしれない)、やはり先達がゐればもう少し早く知ることができたのにと悔やま...志水宏吉『学力格差を克服する』を読む
バカと無知―人間、この不都合な生きもの―(新潮新書)言ってはいけない橘玲新潮社前回紹介した『バカを治す』の著者適菜収氏的に言へば、B層の人々が今日信じ込んでゐる「正義」の嘘を暴いた書である。ご存じ『言ってはいけない』の著者による第三弾。バカは無知とは違ふ。自分のことをバカとは気づかないのがバカで、「自分の能力についての客観的な事実を提示されても、バカはその事実を正しく理解できないので(なぜならバカだから)自分の評価を修正しないばかりか、ますます自分の能力に自信をもつようになる。まさに『バカにつける薬はない』のだ」。つまり、原理的にバカは自分のことをバカと認識できないので、知らないでバカなことをしたり、信じたりしてゐるのはバカではなく、無知である。となると、この本の著者も私自身も自分自身が信じてゐることを間...橘玲『バカと無知』を読む
バカを治す(フォレスト2545新書)適菜収フォレスト出版今日が仕事納め。大阪に戻る途中で名古屋の予備校に通ふ浪人生に会つて激励をし、帰阪する。車中で読んだのが本書。哲学者適菜氏の言ひたい放題の社会評論。はじめに書かれてゐたのが、本書の目的。これを明示するのがこの方のいいところ。これが嫌なら読まなければ良い。本は読みたい人のためにある。「本書の目的は、バカを批判することではありません。もっと言えば、バカを批判しても無駄です。バカは『バカの世界』の住人です。住んでいる『世界』が違うので、共通語がない。」その通りだと思ふ。そして、続けて「それよりも、バカの本質をつかむことにより、自分の内部に存在する『バカ』を克服することが大切です。」その通りだと再び思ふ。そして、そのためには、ゲーテやニーチェを読むことだといふ...適菜収『バカを治す』を読む
「生きてゐる目的つて何ですか」。ドキリとするが、そんな質問をされたことがある。その生徒には、その時その必要があつて尋ねてきたのであらうが、さうやすやすと答へられるものではない。何がきつかけで、どうしてさういふ心境になつたのか、あるいはどこまで深刻な事態があつてさう訊いてきたのかは、尋ねられた瞬間には分からなかつた。だから、簡単には答へずに、「今日の放課後は時間があるか」と訊いてみた。掃除も終はつて、教室に残つてゐるやうにこつそり伝へて、他の生徒が帰るまで机の位置を整へたり、掃除のやり残しがないかを点検したりして彼と二人になるまで自然に過ごした。まだ夕方の日差しが明るい時間だつた。机を挟んで横に坐り、「どうした」とだけ言葉をかけた。何かがあつたのだらうが、それが何かは自分でも分からないのだらう。当たり前のこ...歩くといふこと
安倍晋三元総理追悼論-日本を取り戻し世界を導いた稀代の名宰相に捧ぐ-深田匠高木書房高木書房の斎藤信二社長よりお送りいただいた。斎藤さんが、案内書にかう書かれてゐた。「安倍元総理が暗殺された後、マスコミや左派野党がテロリストの思惑通りにテロ目的の完遂に『協力』し、いわゆる『魔女狩り』に狂奔して延々と統一教会と保守政治家の取るに足らない些細な接点を大げさに騒ぎ立て、テロリストをまるで『被害者』であるかのように擁護し、殺害された被害者である安倍氏を『加害者』の自業自得であるかのように貶める悪質な印象操作が執拗に行われています。」私もまたこの認識と同じである。今年起きたマスコミの報道は「テロ」であり、それに同調して視聴率やテロリスト擁護者の口車に載せられた大衆は共犯者である。かつて評論家の適菜収が明らかにしたとこ...深田匠『安倍晋三元総理追悼論』出来
今号の紹介です。今年最後の号だけあつて、一年を振り返る記事が多い。やはりと言ふべきであるが、安倍元首相の暗殺については多くの論者が触れてゐる。特に警察の怠慢、話題が別のところに行つてしまつたこと、マスメディアの劣化、自民党のお粗末さ、国民の衆愚化、それらは共通してゐる。頷けることばかりで、それだけに現在の惨状に思ひやられる。一面の吉田先生の「三題噺」はここ何年か続いてゐるが、年末の恒例として面白く読ませていただいた。痛快である。二面の照屋先生の指摘は、その通りである。独裁者は現れる時代は暗黒である。しかし、それは他責的な衆愚と化した国民が呼び寄せるものでもある。つまり、共産主義の暗黒化は当然として、民主主義の暗黒化は責任逃避の国民が招き寄せるものである。三面の小滝氏の論は、現状を的確に指摘してくれてゐる。...時事評論石川2022年12月20日(第824)号
西部邁の評伝の2冊目である。気鋭の批評家である著書は二冊目。面白く読んだ。短いカットを重ねて、読者の心に映像を描き出すやうな手法のやうに思へた。4章41節からなる本書は、非行保守ともいふべき、二律背反の中の平衡術を自らに課し、自己矛盾を一身に体現した西部邁といふ人物を著者ならではの筆遣ひで著したものであつた。断節の重なりでしか切り結べない映像もあるだらうが、長回しで描く西部邁も読んでみたい。山崎正和が鴎外を論じたやうな西部像である。読者にとつてはそれはオマージュであらうが、徹底的な否定であらうがかまはない。20世紀から21世紀にかけて、守るべきものが蒸発していく日本において、保守主義をいや真正の保守主義を掲げた男の非情な生涯を、しかも氏はそれを笑顔で過ごさうとしてゐたが故に一層悲哀のある生涯を描く必要があ...渡辺望著『西部邁「非行保守」の思想家』を読む
今号の紹介です。今号で何より印象に残るのは、2面の荒木氏の言葉である。安倍晋三元総理の暗殺の後、マスコミはとんでもない方向に報道を導いてゐる。「警察からすれば統一教会で騒いでくれることによって警備の決定的なミスで元総理の暗殺を許したというとてつもない責任から世論の目をそらすこともできる」。まさにこの通りである。あの暗殺事件は、警察の大失態であり、そのことにこそ批判の矢は放たれるべきである。そして、山上の動機は一体何だつたのか。あの手製の銃は殺傷能力があるのかである。新聞もテレビもすべて山上に、そしてそれを利用する左翼弁護団にジャックされてしまつた。このことを正面切つて言ふジャーナリストはゐない。3面の伊藤氏は「国民の心は立憲民主党から離れている」と書いてゐるが、果たして「離れている」のだらうか。もともと近...時事評論石川令和4年11月号(823号)
昭和45年の『歴史と人物』11月号に福田恆存は「乃木将軍は軍神か愚将か」(のちに「乃木将軍と旅順攻略戦」と改題)を載せた。もちろん、それは司馬遼太郎の『殉死』と福岡徹の『軍神』を批判したものである。福田はかう書いてゐる。「なるほど歴史には因果関係がある。が、人間がその因果の全貌を捉へる事は出来ない。歴史に附合へば附合ふほど、首尾一貫した因果の直線は曖昧薄弱になり、遂には崩壊し去る。そして吾々の目の前に残されたのは点の連続であり、その間を結び附ける線を設定する事が不可能になる。しかも、点と点とは互ひに孤立し矛盾して相容れぬものとなるのであらう。が、歴史家はこの殆ど無意味な点の羅列にまで迫らなければならぬ。その時、時間はづしりと音を立てて流れ、運命の重味が吾々に感じられるであらう。合鍵を以て矛盾を解決した歴史...昭和45(1970)年の福田恆存
イデオロギーの終焉とは、ダニエル・ベルの言葉だつたらうか。脱工業化社会においては、個人の趣向(=これを価値観だと考へるからをかしなことになつたのだが。それはまた別の話)が重視されるやうになり、もはやイデオロギーの出る幕はないといふことになつた。確かに学生運動は無くなつたし、経済学部や史学科からマルクス主義は一掃された。だが、共産党は国会議員を有してゐるし、革命の意思を明言してゐる(これは反社会的団体ではないのか?)。生協は市民社会に浸透してゐる(これつて関係を立たなくていいのか?彼らの資金源になつてゐるのでは?)。立憲民主党は、護憲といふ名のイデオロギー政党であるし、その心は社会主義的全体主義である。現代でもインテリは反体制派であることを存在根拠としてゐる。一昨日もある雑誌編集者から電話をもらひ、1時間以...左翼は今もゐる
今号の紹介です。世のマスコミの変更振りは、ここに来てひどいものとなつてゐる。左翼が勢ひづいてゐるといふ構図である。きつかけは7・8事件であるが、そのことの解明はどこかに行つてしまひ、安倍憎し、保守憎しのルサンチマンの炎が日本の言論を焼き尽くしてゐる。3年後に訪れる冷静な振り返りは、きつとさう記録するであらう。それほどにひどい。そんな中で本紙だけは、そのことを暗示してゐる。現状は、世界的には第三次大戦前夜であり、国内的には左翼の跳梁跋扈であり、「個人主義をうまく利用した全体主義」と「個人を相対化する共同体主義」とが対立してゐるのである。個人、国家、世界でこの世界観の対立を、明確に示してゐるのが、今号の主題のやうに読み取れた。もちろん、それは意図的に組まれたといふのではなく、執筆者の主張が見事に編集者に編まれ...時事評論石川2022年10月(822)号
岸田首相の言説がいよいよ怪しくなつてきた。検討使と揶揄されてゐるうちは、良くも悪くも「変化」を来たさない。静かな後退は、それはもちろん政治的には悪であるが、それでも時間に余裕があるから、そのうちに次世代が育つ可能性があつた。与党の衆議員がいまどれぐらゐゐるのか知らないが、大臣に指名されるやうな人物でもほとんど見知らぬ人ばかりであるから、まつたく知らない人ばかり。その中には多少はまともな人もゐるだらうから、三年後の衆議員選挙の時には頭角を現してくる方もゐるだらうと期待を、しかしかすかな期待を寄せてゐた。しかし、それまで宗教法人の解散請求には民法の不法行為は該当しないと言つてゐたのに、旧統一教会への批判が高まるにつれて、次の日には突然「該当する」と答弁を変更してしまつた。大衆迎合主義に見えるこの変更には、何か...いよいよソフトファシズムの時代へ
歌に救はれ、歌によつて生きられた人が實朝だらう。大海の磯のとどろに寄する濤割れて砕けて裂けて散るかもこの一首で實朝は永遠を生きることが出来た。もちろん殺害されなければ、もつと多くの名歌を残せただらうが、永遠は先の一首で摑み得た。この激しい波濤の様を實朝自身に重ねて詠むのが常識であるが、それとは別に彼の眼に映つたありのままの姿だと今は思ふ。彼を預言者にする必要はないからである。これほどに波濤の荒々しさを、リアリズムで描いた才はもはや中世を超えてしまつてゐるやうにさへ思はれた。それがどうしても可能であつたのかは分からない。が、實朝はそれを成し遂げたといふことだけが大事なことである。歌の力はかういふ才によつて磨き続けたれてゐる。實朝の歌
昨日深夜に義父が亡くなり、急遽帰宮することになつた。随分と久しぶりだ。義父の弔ひでの帰郷は仕方ないとは言へ、心の準備なく帰るのはやはり落ち着かないものである。父を失つた娘としてはどのやうな思ひで車中を過ごしたであらうか。義父は娘を待つて逝つてくれた。そんなことをあれこれと思ひつつ、列車に乗り込んだ。日豊線は本線であるが、単線である。駅で待ち合はせることが多く、進みは遅い。この感覚も本当に久しぶりである。緊張して神経がささくれだつてゐるやうに感じる。曇り空に、沈痛な思ひは滞つてゐる。久しぶりの九州
メタ認知についての非常にわかりやすい書である。非認知能力といふ言葉を学んだのが、5年前である。そして職場で伝へ保護者にも伝へて、社会的にも「認知」されてくるやうになつて一気に浸透して来たそれはそれで大変良いことで、学力をつけるにはコンピテンシーの要素が重要だといふことは当然と言へば当然のことである。が、ここに来て非認知能力といふのはやはり認知能力なのではないかといふ思ひも出て来た。忍耐力はともかく批判的能力(クリティカルシンキング)といふのは認知領域であることは間違ひない。したがつて、学力とは別の能力とは、メタ認知が出来る力とした方がいいやうに思ふ。本書はそのガイドとしては最適である。一般書なので出典が明らかでないのが残念だが、それはネットで調べれば良い。関心のある方はどうぞお読みください。勉強できる子は...『勉強できる子は○○がすごい』を読む
選挙において投票率の低さが問題になつてゐる。50%そこそこでも投票に行かない国民は問題にされない。その一方、世論調査は大変な影響力を持つてゐる。この2つを考へれば、世論とは怠惰な人民の気分表明に過ぎない。特に後者が国民の意思だといふ見解に政治家が負けてゐる。国民主権といふのであれば、主権者は絶対に腐敗する。権力が絶対であればその権力者も絶対に腐敗する。その時、その権力者を批判するのは誰か。それが政治家である。「主権者よ、あなた方は間違つてゐますよ」と。政治家が選良と呼ばれる所以はそこにあると思ふが、如何。投票率と世論調査
元首相の痛恨の死を国を挙げて弔ふことに反対する人がゐる。私にはその理由が全く分からない。しかし、式は厳粛に行はれた。これが輿論である。弔意に刃を向ける人は恥を知るべし。国葬儀の挙行を思ふ
胃腸炎による発熱で、ここのところ伏せつてゐる。病院に行けばコロナを疑はれ、検査に待たされ、陰性が分かつて診察をしてもらつた。詳しく調べたいなら大きな病院へと言はれたが、それはさうでせうが、何となく腑に落ちない。血液検査だけしておきませうと言はれたが、結局何も分からないのだらう。抗生剤と整腸剤を処方してもらつたがここからが傑作。薬局には直接行かず車で待てとのことであつた。陰性なのにである。薬局の人から携帯に連絡があつたので、その理由を伺ふとコロナの検査をした人は一様に局内に入れないとのこと。それを少しだけ腐すと返答に窮してゐた。医療従事者自身が、検査を信じず、科学的根拠のない気分で動いてゐるのである。こんなことは、この地域のこの病院だけで行はれてゐる醜態と思ひたいが多分違ふだらう。法律的根拠がないことを咎め...医療と国葬儀とをめぐるメディアのダブルスタンダード
今号の紹介です。久しぶりに投稿した。あまりの日本の現状の悲惨さに打ちひしがれてゐたところで、中澤編集長から何でもいいから書いてくれと言はれ、思ひのたけを書いたのが本稿である。「日本は病んでゐる」この言葉に尽きる。本来の姿ではないと思ひたい。けれどそれは無理なのかもしれない。宿痾と書けば難しいので、持病と書いた。日本人の持病が顕在化してゐる。どんどんその持病は悪化してゐる。しかも、そのことに気づいてゐる気配はない。むしろ、「悪化を食ひ止める運動」=「正常化運動」の旗手として先頭を切つてゐる輩こそが、持病の象徴になつてゐる。そして彼らに信を置いてゐる大衆。彼らは傾向として全体主義に親和性が強い。個の独立を遠ざけ、日本の独立を阻止しようとする。その主張は我が国の周辺に存在する全体主義国家を利することに通じてゐる...時事評論石川2022年9月号(第820・21合併号)
山本七平の思想日本教と天皇制の70年(講談社現代新書)東谷暁講談社まさに今、何をおいても読むべき本である。さう思ふ。空気が支配してゐる。しかも、それは空気であるがゆゑに次々に変化していく。そして、空気が入れ替はつたことに何の疑問も持たず、むしろ空気であるがゆゑに「生きていくために必要なもの」として進んで次の空気を受け入れていく。あの内村鑑三でさへ、不敬事件を起こして天皇主権の明治国家にあつて神への信仰を貫いたあの内村鑑三さへ、山本によれば晩年には妥協してゐたと言ふ。(『現人神の創作者たち』)さういふ日本の空気に闘ひを挑み、死んでいつたのが山本七平である、といふのが東谷氏の見立てである。私は、まだまだ山本の作品群を読んでゐる途中であるので断言はできないが、たぶんさうだらうといふ思ひが強い。こんな文章を読むと...東谷暁『山本七平の思想』を読む
5月25日に81歳で亡くなられた葛西前理事長のお別れの会に出かけた。たまたま休みの日だつたので、名古屋まで出かけてきた。別に東京でも会は開かれてゐたが、名古屋会場はマリオットアソシアホテルの大ホール。たいへん大きな会場で、お別れの会と言ふから式典があるのかと思ひきや、献花をして展示パネルを巡つて氏の業績を回想して出ていくといふ形式であつた。少し拍子抜けであつた。これならもう少し最初の献花で時間を採れば良かつたと思つた。ただ、入り口のところで三年前の卒業生に出会ひ、帰りに喫茶店に寄つて少し話が出来たのが良かつた。文Ⅰから法学部に行き、今は司法試験を目指して勉強してゐると言ふ。東大の講義の様子を聴きながら、昨今の情勢について話をしつつ、間あいだに懐かしい高校時代のことを挟みながら、東大法学部出身の葛西理事長が...葛西敬之お別れの会
テレビやネットニュースは、定期的にあるテーマを流し続けてゐる。コロナ禍、ウクライナ戦争、統一教会、どれもこれも同じことばかりで、一向に真実に迫つてゐるやうには思へない。ウクライナ戦争だけは、専門家が分からないことは分からないと言つてくれるが、それ以外の場合には、「専門家」が真実めかして語つてゐる。その論法は「一事が万事」である。自分の診た患者や相談に来た被害者が言つてゐることが事の全てであるやうに語る。そして、次の段階では自分の直感に合致する内容だけを集めるから、その「万事」が真実となつていくのである。一事→万事→真実コロナの感染流行がが第七次だといふ。もはやインフルエンザと同じではないか?といふことで、諸外国は対応が変更してゐるが、私たちの国の施策は変はらない。といふより変へられない。フィルターバブルと...狂乱のメディアの思ふツボーーフィルターバブル
昨日、夏休みを楽しんだ大阪の地を離れて愛知に戻つた。早めに出ようと思つてゐたが、朝食を摂らうとしてゐたらテレビの下のレコーダーが点滅してゐるのに気づいた。前夜に激しい雨でも降つて停電でもしたのかと思つた(前日の夕方、一瞬停電したことがあつたので、とつさにさう思つた)。それで、電源を落とさうとしてみたが、まつたく作動しない。コンセントを抜いてしばらく置いておくことにした。といふのは二年ほど前に調子が悪くてメーカーに問ひ合はせたところ、静電気が悪いことをしてゐるかもしれないので、コンセントを抜いてしばらくそのままにして置いてくださいと言はれたことがあつたからである。朝食後に再びコンセントを入れて挑戦してみたが、点滅してゐる状態は改善されなかつた。困つたことになつた。岡本太郎と太陽の塔関係の番組をたくさんハード...レコーダーの死と安倍元総理終焉の地
沖縄の島守―内務官僚かく戦えり(中公文庫た73-1)田村洋三中央公論新社沖縄決戦に臨む昭和20年(1945年)、当時の知事は官選であつた。前任者は、会議のために上京したまま帰らず、政府は島田叡(しまだ・あきら)に知事就任を要請し、その年の1月に着任する。43歳。「俺は死のとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」といふ言葉を語り、反対する家族を制したと言ふ。丁度同じ時期に、沖縄県警察部長を務めてゐたのが荒井退造であつた。彼もまた出張や病気療養を理由に沖縄を離れる官吏が多い中で、最期まで沖縄に留まり、沖縄県民の疎開に尽力した。享年44。二人は、沖縄本島の南端摩文仁の丘の壕から出て行つたまま、帰らぬ人となつた。映像は当然ながら戦闘の姿を映し出す。血が流れ、泥まみれになり、飢ゑや恐怖に苦しむ人々の姿を繰り...「島守の塔」を観る
日本人と「日本病」について(文春学藝ライブラリー)七平,山本文藝春秋昨今の世相を見てゐて、どうやら日本人は病んでゐるなといふ思ひを深くした。もちろん、その日本人に私も含まれてゐる。病んでゐる人が他人を病んでゐると判断できない理屈はないのであつて、むしろ自分も同じ症状を体験してゐるのであるから余計に正確に判断ができるといふこともある。そんなこともあり、「日本人といふ病」といふ小論を書いた。いろいろと文献を読まうと思つてゐたが、あれやこれやと思ひをめぐらしてゐるうちに、文献を引用するより現状を正確に描写した方がよいと思つて書き上げた。そして、ふと書棚を見るとこの本が眼に入つた。「日本病」、同じことを感じてゐるのかなとも思ふ。さう言へば河合隼雄にはタイトルも同じ『「日本人」という病』といふ書まである(こちらは病...『日本人と「日本病」について』を読む
山本七平は、かつてかういふことを話してゐた。「白昼、時の総理大臣を射殺するというのは大変な事件だったわけですが、簡単にいうと、犬養さんのほうが不純だとされたわけです。純粋な将校と不純な大臣では、不純なほうが悪い。弁護人はそこをわきまえて集中的に演説をぶつ。すると、たちまち方も何もなくなってしまう。」「要するに弁護の方法はひとつしかない、動機が純粋であった、だから褌(ふんどし)まで替えていったと推してゆけばよいのだという、そうすれば世論が味方をしてくれる。事実、助命嘆願書の集まり方はものすごかったもの。」小室直樹の「地震ナマズ説」も引用してゐるが、「地震が起きるのはナマズが暴れるから」と考へるのが日本人で、諸悪の根源さへ殺せばすべてが解決すると考へる発想がその根源にある。自分も含めた社会のなかに悪があると考...動機が純粋であれば殺人が許される国五・一五事件と山上
すぐそばの彼方(角川文庫)白石一文KADOKAWAタイトルの両義性が面白い。すぐそばに存在はしてゐるのに、はるか彼方にゐるやうに感じる。それは逆にはるか彼方にゐるやうに考へてゐながら、すぐ近くに存在してゐた。この小説の主人公は、まさに周囲の人にさう感じてゐるのである。果たして、周囲の人からはどう見られてゐるのだらうか。いまこの文章を書きながらそんなことを感じる。次期総理大臣を目指す正解の大物の次男として生まれ、経済的には何不自由なく暮らしてゐた。その立場でしか分からない苦労はあるだらうが、お坊つちやま君のやうにも感じてしまふ。主人公視点で書かれてゐる小説だから、すぐそばにゐながら彼方にゐるやうに感じる相手といふのは、主人公から見た存在感である。しかし、俯瞰的に見れば、きつと周囲の人から見るといつも現実から...白石一文『すぐそばの彼方』
【映画パンフレット】破戒キャスト間宮祥太朗,石井杏奈,矢本悠馬,高橋和也,小林綾子,B5サイズ東映ビデオ独立系の映画は、田舎にゐるとなかなか観ることができない。この映画の存在すらじつは知らなかつた。先日会つた友人から、この映画のことを聞き、是非とも観たいと思つて早速出かけた。1906年に自費出版された島崎藤村の小説『破戒』が原作である。当時の世風に差別意識が厳然としてあつたことは事実である。そして、それは形を変へて現在もあり続けてゐる。映画を観てゐて、これを過去のものとして描いてはゐないかといふ疑問はあつた。映像が綺麗すぎて、100年以上前の日本があれほど美しかつただらうか。着るものや姿の端正な風が、美しすぎて違和感があつた。その意味では、市川崑監督の『破戒』の映像や音楽、そして人の姿の暗くて崩れてゐる感...『破戒』を観て――誠実な人
日本を滅ぼす教育論議(講談社現代新書)岡本薫講談社出版は2006年だから、「教育論議」を語るには古い本である。話題の中にも、詰め込み教育とゆとり教育のことが出て来ることもある。しかし、そこで語られる問題点は、今も十二分に通用する事柄である。それだけ「教育論議」が正常化してゐないといふことでもあるが、じつはそれは「教育論議」に限らないといふことなのである。同質性社会である日本では、例へば「道義的責任を取る」といふ言葉一つ取つてみても、それを盾に攻め込む人の「道義」や「責任」と、それに答へる人のそれらとは共通するものがない以上、「道義的責任を取りました」と言はれればそれ以上は議論ができないといふことである。アカウンタビリティといふ言葉も俎上にのぼるが、それを「説明責任」と訳してゐるかぎりは、「説明」すれば「責...岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』を読む
彼が通る不思議なコースを私も(集英社文庫)白石一文集英社先日読んだ『翼』と同様、主人公は女性である。魅力的な「彼」との出会ひから、十年ほどの間の出来事(と思ひきや最後にさうでないことが明らかになる)。教員である「彼」の言葉には、異論もないわけではない。が、なるほどと思はせる言葉が多くあつた。「医学の力が恒常性と自然治癒力に依拠しているのと同じように、教育の力は、人間そのものの変化の力、成長の力に大きく依存している。だからこそ、教育にはうわべだけでなく、人間を根底から変えていく力がある。」「だからこそ」の後には、果たしてさうなのかといふ疑問がある。本当に教育にさういふ力があるのであれば、現代の日本の状況からは日本の教育が絶望的であることだけが明らかになつてしまふ。個人主義、民主主義、平和どれ一つとつても「根...白石一文『彼が通る不思議なコースを私も』
今日は軽口。昨日、夕食の買ひ物に出かけた帰りにふと人だかりに気づき、近づくと「豆餅」が売られてゐた。百貨店の即売会である。豆餅といふと、餅の中に豆が入つてゐるのかと思つたが、聞けば五つ入りだと言ふので、大福のことであつた。出町ふたばの豆餅、十年ぐらゐ前に食べた気がするが、どんな味かすつかり忘れてゐる。有名なことは知つてゐる。五つ入りで1,100円。このセットしかないと言ふ。一度ためらつて買ひ物をしてやつぱり買つていかうと思つて5分後に立ち寄ると「残り二つですよ」と言はれ、決断してよかつたと思ふ。何だか得をしたやうな気がする。家に戻つて早速一ついただく。塩味のえんどう豆が利いてゐて美味しい。消費期限は当日中。近所に知り合ひでもゐればおすそ分けもできるが、それもできない。家内も一つ食べたが、結局冷蔵庫行き。さ...京都ふたばの豆餅
流言蜚語(ちくま学芸文庫)清水幾太郎筑摩書房蜚語とはデマのことである。安倍元総理の狙撃事件以後、知りたいことがほとんど聞かれずに、その周辺の私にとつてはどうでもよい情報が報道されてゐる。あの事件は本当に単独犯なのか、そしてどうして安倍元総理以外に被弾した人がゐないのか、私にはそのことの謎の解明こそ大事なことである。奈良県警の不始末は明らか。犯人が実母を恨んでゐるのは明らか。それでそのことは十分である。それなのに、本質なところに報道は迫らない。それがなぜなのか。むしろその方が気になつてゐる。「吾々が眼隠しをして往来を歩かせられた場合、『水溜りがある!』と言われると、もう一ケ月も好天気が続いているということを考える暇もなく、いやたとえ考えたとしても思わず足をとどめるであろう。これと同じように報道、通信、交通が...清水幾太郎『流言蜚語』
トップガンマーヴェリック:オリジナル・サウンドトラック(通常盤)(特典:なし)ヴァリアス・アーティストUniversalMusic映画好きの友人を誘ふには、映画観に行かないかと声をかけるのがいい。それでも、これほどの人気作品なので、公開してから一ケ月は経つてゐるだらうから既に観てゐる可能性が高いから、観てゐれば何か他の作品を探さねばと思つてゐたが、予想に反してまだ観てゐないといふことで、家内も誘つて観に行つた。前作は、たぶん大学時代に観たはずだから、もう四十年ほど前になるか。友人は私よりもだいぶん若いので、前作を知らないと言ふ。なるほどだから未観であつたのかと妙に納得した。あらすぢは略す。ただ大変に面白かつたと言つておけば、良いだらう。未観の方はぜひ行かれてはと思ふ。最後は少々ご都合主義的なまとめ方であつ...「トップ・ガンマーベリック」を観る
翼(鉄筆文庫し1-1)白石一文鉄筆しばらく小説は白石一文と決めてゐる。気分的な正確さを言へば、白石一文になる、かな。いい小説に出会へるか出会へないかは、生活するにおいて重要な位置を占める。仕事柄、小説は興味関心とは離れてでも読むが、それでも趣味の読書は面白いものでありたい。その点で、白石一文には今のところ満足してゐる。今回の小説は、女性が主人公。会社に勤める仕事の出来る人物であることは、これまでとあまり変はらない。正直に言へば、女性であるといふことを自覚しないまましばらく読んでゐた。いろいろな話が筋を描きながら、最後には収斂していくのもいつも通り。だが、今回のものは結構寂しい終はり方であつた。隠れたテーマは死であるやうにも思ふ。「たとえ自分自身が死んでも、自分のことを記憶している人間がいる限り完全に死んだ...白石一文『翼』を読む。
朝には耳をつんざく蝉鳴が、ふと気づくとぱたりと鳴き止んでゐた。それほどに暑いのか。エアコンの風が嫌ひなせいで、エアコンつけずに冷たいお茶を飲みながら過ごしてゐる。そして、窓から入つてくる風を楽しみつつ読書をしてゐる。さうして、ふと気づくと、いつの間にか蝉の声が鳴き止んでゐた。夏に生きる蝉も炎天下の暑さには閉口してゐるのだらうか。蝉の声にいつしか慣れてしまつてゐるのにも、驚かされる。相当な音である。そして、読書に集中してゐた訳でもないのに。蝉も静まる酷暑の昼
やうやく長い休みに入つた。ゴールデンウィーク以来の休みになるだらうか。だいぶ疲れも溜まつてゐるやうな気がする。もちろん、日曜日には休める日もあることはあつたが、それでも何かしら仕事をこなさなければ、翌週の仕事が回らないといふ状況で、緊張感が続いてゐた。それが端的に現れるのは、朝早く起きてしまふといふことだつた。年のせいもあるが、熟睡といふことをここのところ経験したことがない。寝つきは悪くないが、夜は何度も起きてしまふ。夕方には集中力がなくなることもあつて、仕事のペースが落ちてしまふ。それでも「ちょつとお話が……」と生徒や同僚が来れば、直ちに自分の仕事は脇において、そちらの話を聴くことにしてゐる。それがささやかな信条でもある。さうして私の時間は微分化(最適化)されていく。私自身が、恩人たちの人生の微分化によ...休みには休みの難しさがある。
やうやく明日から夏休み。今日の大阪出張で、そのまましばらくは休み。じつは、一昨日から大阪入りしてゐて、まづは京都大学の交流会に参加。京大の各学部の先生から10分づつ話をうかがふ。これがすこぶる面白い。話そのものといふより、その話の観点がまつたく世間ずれしてゐて、大学といふ空間の独立した雰囲気がいいのである。何学部とは言はないが、新しいことを目指す学問なのだから、その新しさを表現できないと話してゐた。なるほど、その方の認識の中ではその通りきれいに整理されてゐるのであらう。しかし、学問の新しさとは、さういふものなのだらうか。少なくとも文系の学問においては文献研究から始めるのだから、新しいこととは何かを知るためには古いことを知らなければならない。大学の学部といふところが、それに始まりそれに終はるところである。高...スジの悪い大学入試改革
今号の紹介です。一面の「忘れられる精神の安全保障問題」は、必読だ。国家の独立は一身の独立からとは福沢諭吉の言葉だが、その言葉が暗示するやうに、独立とは精神の独立である。したがつて安全保障とは精神の安全保障である。今般、安倍元首相の暗殺によつて世の中がパンドラの箱を開けたやうに混乱してゐて、なかんづく「虚しい気分」が蔓延してゐるが、そんなときに、本稿は精神の安全保障に役立つものとなつてゐる。つまりは、私たちの日本は、精神が侵されてゐるのである。しかも、そのことに気づいてゐないといふ状況である。マスコミの対応一つとつても、そのことに気づいてゐないことは明白である。なんとなれば、今起きてゐるのは元首相の暗殺事件であるのに、そのことの重大さはどこかに行つてしまつて、容疑者への同情に終始し、警備当局の大失態や今なす...時事評論石川2022年7月号(819号)
自動車ジャーナリストの三本和彦氏が亡くなつた。車そのものの批評も素晴らしかつたが、日本の車社会の問題点もズバリと言ひ当ててゐた。心に残る言葉もいくつもあるし、心に残る言葉をインタヴューの相手から引き出す人でもあつた。残念だ。https://news.yahoo.co.jp/articles/2920696b7b0ec5e368bbbbe8a8d0ab4acba89e47追悼三本和彦さん
7月8日昼の出来事に。一瞬の暗転しのびしのぶ夏
光のない海(集英社文庫)白石一文集英社気鬱する日々のなかで、支へとなるのはやはり言葉である。いろいろな言葉を読んでゐる。朝は聖書、夜は小説。昼間は仕事上のテキストや各所から届くダイレクトメールの数々。仕事柄「言葉」を読むことからは離れられない。しかし、言葉は同時に刃でもあつて、組織人としてはその刃に突き刺されることもある。鈍感力だけで生きてゐたり、人を刺しては溜飲を下げてゐる輩が同僚にゐるのであつてみれば、言葉は凶器とも思へてくる。あるいは、教育の現場は言はば強制の場でもあるので、それを拒否する力は当然ながら反作用として生まれる。彼らが放つ意地の悪い発言の数々も、かなりの深さで刺さつてくる。しかし、言葉の力しか信じられるものもない。いい本に出合つた時の幸福感は、生きてゐる喜びに直結してゐる。家族や友人との...白石一文『光のない海』を読む
国家の最高人物を警護することができないほど、私たちの国は気が緩んでゐる。戦争が終れば、もはやいつでも戦前である。その緊張感の無さが、人を殺し続けてゐる。人を弱くし、人を恥知らずにし、夜郎自大にさせていく。よく生きることーー手放さずに。もはや戦前であるのに。
今号の紹介です。川久保先生の道徳教育についての論考に刺戟を受けた。現在、中学校で「道徳」を高等学校で「公共」が必修教科・科目になつてゐる。そこで「国民のあり方」を教へる場面で「国を愛する態度」といふ表現は使用しない方がよいとの指摘である。主観的な表現である「愛」はこの場合馴染まないといふ趣旨である。全くその通りだと思つた。しかし、それ以前に、道徳を学校で教へるといふことに無理はないかといふことも感じた。例へば、美術といふ科目が中学高校にある。授業では大概絵画を描かせるのだが、果たしてその作品は藝術品だらうか。おままごとよろしく、誰かの見様見真似で製造過程をなぞつていく。以前には写生を中心としたデッサン力を養ふことに主眼が置かれてゐたやうであるが、私が見聞きする限り現在は「思つたことを描きなさい」といふスタ...時事評論石川2022年6月号(818号)
エリートと教養-ポストコロナの日本考(中公新書ラクレ753)村上陽一郎中央公論新社村上陽一郎は、ここぞといふ時に大事なことを書いて指摘してくれる碩学であると思つてゐる。反知性主義といふ言葉の誤用も、コロナ禍の日本の政府の対応の不備も、きちんと指摘してくれてゐた。『村上陽一郎全集』なるものがどうして出ないのか不思議であるが、体系だつた文章を書かれないからであらうか。教養人といふものの役割を十分に果たされてゐるかういふ方の文章は、きちんとまとめていくのが出版社の現代的意義であらう。本書は、必ずしも一つのことを目指して書かれてゐるものではない。言つてよければ「エリートと教養」といふタイトルをつけることで、逆にさういふ主旨なのかと気づかせてくれる内容である。途中、現代日本語や音楽の話になつたときには、少々タイトル...村上陽一郎『エリートと教養』を読む
大河への道(河出文庫)立川志の輔河出書房新社ストーリーは予想通りだが、その予想を裏切らないといふのが、結構掃除映画の魅力に繋がる。それぐらゐ予想を裏切らないといふのは難しいのだ。伊能忠敬は日本中を歩き回り日本地図を描いた人物として知られてゐる。が、実は完成した時には既に亡くなつてゐたといふのだ。歴史に詳しい人なら、そんなの知つてゐるよと言はれさうだが、知らない私は驚かされた。忠敬の出身地千葉県香取市の地域振興策として、忠敬を主人公にNHKの大河ドラマを制作しようといふ市の職員達の会話からストーリーは始まる。担当職員役の中井貴一と松山ケンイチの軽妙な会話が面白い。役人として上長にたいしてきちんと仕事を成し遂げようとする中井の姿は「忠」である。また、原案企画を依頼するべく脚本家を訪ねるが、その偏屈な脚本家を橋爪功が...映画「大河への道」を観る。
明日のリーダーのために(文春新書)葛西敬之文藝春秋元JR東海社長の葛西敬之氏が、81歳で亡くなられた。私が勤めてゐる学校の理事長をこの3月まで勤めていらしたが、最後の卒業式はお越しにならなかつた。肺の病気と闘つていらしたので、コロナ禍での移動を危惧されてゐたのだと思ふ。2016年から3期6年理事長を務められて、その任期を満了されて次の理事長にバトンタッチされたばかりだつた。個人的にお話をしたことは残念ながらなかつた。ただ、私信を一度頂戴したことがある。私の手紙への感想と学校への思ひを綴られたもので、ここで引用するやうなものはない、と思つてゐた。だが、今読み返してみると福田恆存への共感を記してあつた。現代の青年への思ひが書かれてゐた。ご本人の許可もいただくこともできないので、ここでは引用は差し控へる。ただ、その思...追悼葛西敬之先生
今号の紹介です。当然だが、ウクライナ一色。月刊紙としては、少し距離を置いて今回のウクライナ侵略戦争を読み解く役割がある。深く人間論にまで及んだ論考もある。是非ともお読みいただければと思ふ。どうぞ御關心がありましたら、御購讀ください。1部200圓、年間では2000圓です。(いちばん下に、問合はせ先があります。)●人間不在の防衛論議ウクライナ及びウクライナ人が日本及び日本人に教へること評論家金子光彦●コラム北潮(今年の十大リスク)●ロシア・ウクライナ戦争の「教訓」明日の日本を見てゐる日本人麗澤大学国際問題研究センター客員教授勝岡寛次●教育隨想沖縄祖国復帰半世紀に想ふ(勝)●陰謀論に騙されるなジャーナリスト伊藤達美●コラム眼光峯村氏に宿る朝日的独善(慶)●コラム「韓活」のためのハングル講座(紫)不可解なロシア軍の残虐...時事評論石川2022年5月号(第817号)
今週の金曜日、東京大学が主催してゐる「金曜講座」でこの作品を取り上げるといふので読んでみた。石川にイエスを題材としたいといふ思ひがあるのかどうか。そしてあるのなら、それはなにゆゑなのか。それを考へながら読んだが、何も感じなかつた。掌編であるからすぐに読める。昭和21年に発表された作品だ。不潔で飢えた少年をイエスに見立てたアナロジーに、切実さを感じなかつた。「金曜講座」を聴いて、何か変化があれば、また書かうと思ふ。一応、福田恆存の石川淳評を引いておく。「石川淳において解體に瀕した自我の建てなほしといふ近代的なこころみが、新しい小説概念の探求といふ線にそつておこなはれたのであるが、このもつとも近代的なしごとが、もつとも古めかしい封建的色彩を帯びるにいたつたといふことである。この作品は「古めかしい封建的な色彩を帯び」...石川淳「焼跡のイエス」を読む
クヌルプ(新潮文庫)ヘッセ新潮社知り合ひのFacebookのタイムラインでこの本が紹介されてゐたので読んでみた。新潮文庫の新版で字も大きく160頁足らずの本であるが、正直すらすらと読めるものではなかつた。少年が初恋を抱いた年上の少女に裏切られたことから始まる漂泊の人生に共感が抱けぬままに、それでも読み続けたといつた感想である。しかし、この少年クヌルプが聖書を頼りに自分の生き方を尋ね歩く生き方は、『デミアン』や『車輪の下』に通じるもので、さういふ言葉に出会ふと上質なヨーロッパ人の生き方を感じることができた。「だが、ね、仕立屋さん、きみは聖書に注文をつけすぎるよ。何が真実であるか、いったい人生ってものはどういうふうにできているか。そういうことはめいめい自分で考えだすほかはないんだ。本から学ぶことはできない。これが僕...ヘッセ『クヌルプ』を読む
昨日は母の日。大阪から愛知に戻ると、玄関にお花が届いてゐた。我が家には子がない。なので母の日に何かを贈つてくれるといふ習慣はなかつた。ところが、かつての同僚で今も家族同然のお付き合ひをしてゐる若き友人が家内を母親と思つていつからか花を贈つてくれるやうになつた。今数えてみると、すでに4鉢の花が我が家にあるのでもう5年になるやうだ。ありがたいことだと思つてゐる。饒舌であるがシャイで、私たちと彼との会話は常に弾んでゐるといふ訳ではないが、時に堰を切つたやうに話し始める時がある。それを聞いてゐるのが面白い。色々なことを感じてゐるやうでもあり、引き出しはたくさんあつてそこに言葉がしまつてあるのだが、私と彼とに間ではその引き出しが開くことはあまりない。その弾んでゐない会話だが、ずつと続いてゐる。愛知と大阪とで日頃は離れてゐ...マスカレード(紫陽花)が届く
河上徹太郎の評論に「ユダと現代風景」といふ文章がある。重要な文章であるが、この文章だけでなく、そもそも河上徹太郎その人も既に現代の読者人からは忘れられてしまつた感がある。現代の劣化の一つの傍証ではあるまいか。さて、その中にかういふところがある。「雑多な薪をいくつか並べ、これでうまく燃え上がるだらうと火をつけて見ると、中で一本どうしても一緒に火がつかない木があることがある。見ると生だつたり、湿つてゐたりするのだが、さういふのは隣りと協調しないで、ひとりでくすぶつてゐるだけでなく、折角燃えようとする隣りを牽制する作用を持つてゐる。少し位置を変へて空気を通はせるが、周囲となじまない。業を煮やして私は思はず、『まるで左翼だ。』と呟いた。傍にゐた若い友人が、『なるほど。』と私の気持を分つてくれた。こんな独り言に属する放言...左翼は滅びない。
共同存在の現象学(岩波文庫)レーヴィット岩波書店先日も、カール・レーヴィットの『ヨーロッパのニヒリズム』について書いたが、今度は本格的な哲学論考でマールブルク大学の教授資格請求論文である。今回は、その解説を書いた熊野純彦氏の文章についてである。文庫にして75頁にもわたる「解説」は、素直に評伝と言つてよいもので、私にはとても理解しやすいものだつた。もちろん、倫理学的基礎付けだとか、存在と存在者との違ひであるとか、ハイデガーの『存在と時間』に内包する矛盾だとか、ハイデガーとその高弟であるレーヴィットとの本質的な違ひであるとかは、すべて極めて哲学的な思考そのものであるので、「分かつた」訳ではない。しかしながら、彼らが「ヨーロッパに対して」「仮借ない鋭敏さでじぶん自信とその国民を問いただす」やうに「ヨーロッパに対して向...カール・レーヴィット『共同存在の現象学』の解説を読む。
昨日は朝から姫路に行き、1日散策で過ごす。10年以上前、まだお城が工事中だつた頃両親が大阪に来てくれた時に、城が見たいと言つていゐた父の願ひで訪れて以来。2007年7月16日でした。城があの、真つ白い状態である時に来たかつたが、もはや普通の白鷺城で少し残念。だが、その威容は変はらず、美しかつた。以前の記憶とは違ひ、天守閣まで随分と遠く感じた。月並みながら城を巡る道のうねりに警備の巧みさを感じた。城を出て近くの文学館に足を伸ばした。出てから左手に回り、ちゃうど城の裏側をぐるりと弧を描いて歩くとたどり着いた。山田風太郎展をやつてゐたが、それには関心がない。姫路の歴史と、和辻哲郎に関心があり、何より館長が藤原正彦といふので行くことにした。この地にゆかりのある作家や詩人がこれほどゐるのかといふことに驚いた。やはり文化が...姫路散策
先日観た「82年生まれ、キムジヨン」のいい感触から韓国映画が観たくなつてゐる。友人にそれとなくお薦めを訊いたが、ドラマなら知つてゐるがと言はれていくつか名前を挙げてもらつたが、20話もあるやうなドラマを観ようとは思へず、結局かつて観た映画を再度観ることにした。それが「8月のクリスマス」である。主演はハンソッキュ。監督はホンジノである。私が韓国に留学してゐたのが88年から89年なので、その直後に観たやうに思つてゐたが、全く違つてゐた。何と99年に日本公開といふから10年は経つてゐた。その10年間の韓国への感情の距離感を今は全く思ひ出せないが、好意的な思ひで韓国の文化、特に映画を観てゐたのだと思ふ。尤も冬のソナタやらは一度も観たことはない。ドラマはやはり長過ぎる。uさて、「8月のクリスマス」だが、今回10年以上ぶり...韓国映画「8月のクリスマス」を観る
代筆屋(幻冬舎文庫)辻仁成幻冬舎手紙を代行するといふ仕事をする男が主人公。売れない小説家が生きるために選んだ仕事だが、それでも注文があれば誰のでも代行をするといふ訳ではなく、まづは話を聞いて、納得すれば書くやうにしてゐる。やはり小説家である。取材をしてゐるといふことであらう。なるほどこれは小説である。依頼する本人も宛名の人物も架空の話。もちろん、代筆屋自身も想像上の人物である。小説が生み出されるきつかけが手紙の代筆といふアイディアによつて生み出されたといふことのやうだ。後書きに、本書の元々の出版社である海竜社の編集者からの依頼が手紙であつたと記され、その編集者とのやり取りがこの小説の誕生のきつかけになつたとも書かれてゐた。手紙は宛名がある。ある特定の人に向かつて書かれるものだ。だから、それ以外の人が読むのは言は...辻仁成『代筆屋』を読む。
大阪に戻り、録画デッキに保存されてゐたドラマを観た。家内がどうしても観てほしいといふので観ることにしたが、渋滞にはまつて到着までに随分とかかつてしまつたので疲れてゐたせいで、途中で挫折。翌日、観ることができた。「妻、小学生になる」である。堤真一が父親、母親役には石田ゆり子。最後の2回しか録画されてゐないので、内容的には間違つてゐるかもしれない。死んでしまつた母親が、あまりにその死に苦しみ、ゾンビのやうな生を生きてゐることを心配して、ある小学生の少女の体を借りて戻つて来るといふお話。原作は漫画だけに荒唐無稽ではあるが、生きるとは肉体がある無しに関係なく貫くものであること。そしてその貫く力の源泉は愛であること。さういふことが人々の会話や仕草から伝はつてきた。そして媒体となつた小学生の少女の家族も同じであつた。その母...最果タヒと優河と
先日、前任校の卒業生から名古屋に行くので会へないかとの連絡があつた。GWの初日初めて祝日なのでこちらも休みなのだらうと思つたにだらう。あいにく全寮制の学校は祝日は休みではなく、通常通りの授業。ただ、たまたま夕方から時間が取れたので出かけることにした。もう一人卒業生も加はつて楽しい語らひの時間を過ごした。30歳を過ぎた彼らが今何を感じて何を考へてゐるのか、話題は多岐に渡つたが、そこに耳を傾けた。あるときは饒舌にある話題では訥々と話す様子は10年以上前の彼らのそれとは違つてゐて、もはや若き友人と言つた方が相応しい姿であつた。会社やそこでの人間関係や業務知識を通じて、世界への通路を様々に拡げて行つたといふことである。もちろんそれらを通してそれだけ彼らが成長したといふことも意味してゐよう。そして、嬉しいやうな寂しいやう...語らひと語りと。
ドラマを観るのが息抜きの一つである。今期のドラマの随一(といふかこれ以外は見てゐない。あとは大河か。あらら2つともNHKだ)は、NHKBSの「しずかちゃんとパパ」である。初めから観てゐたわけではない。ほかの番組を観てゐるときに出てきた宣伝を観て一度観てみようと思つて観たのがきつかけだ。鶴瓶が好きなのと、吉岡里穂がいいし、「SUITスーツ」で観た中島裕翔がよかつたからである。もちろん、ドラマはまづは本。それが駄目ならいくら役者がよくてもいいものにはならない。この確信を揺るがす芝居やドラマに出会つたことはない。しかし、オリジナル作品の場合には、役者でドラマを選ぶほかはない。それで観たのが、一ヶ月ぐらゐ前だらうか。いいなと思ふほどでもなかつたが、悪くはないから観続けてゐた昨日、第7回「パパの深い海の底」が良かつた。そ...ドラマ「しずかちゃんとパパ」が面白い
本当に久しぶりに韓国の映画を観た。とは言へ、映画館ではなくPRIMEVIDEOで観たので、家のテレビで観た。一人娘が生まれ、産後にありがちな物忘れに違ひないと思つてゐたが、夫は単にさういふことでもないと思ひ始める。何かと無理をさせたせいではないかと自分を苛(さいな)む夫は、自分の実家に正月に帰省すると長男の嫁として家族や一族の世話をしなければならなくなる妻のことを思つて「疲れてゐるから実家に帰りたくない」と妻に伝へる。しかし、妻は「長男が帰らなければ、それはきつと嫁が嫌がつてゐるからに違ひないと義母に思はれ、ひどいことになるから帰りませう」と語る。そして、実家に戻ると予想通り妻は酷使される(ここら辺りは韓国らしいなと思ひながら観てゐた。夫よ、しつかりしろ。いつまで母親の言ひなりなんだ!)。やうやくソウルに戻るか...韓国映画『82年生まれキムジヨン』を観る
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車で10分ほど行つた所にある私のお気に入りの場所。4月8日は釈迦の生誕日、花まつり。桜の咲きやうには時空を超えた姿がある。それは死を予感さへする。ここがあそこであること。あそこがここであること。それを桜が伝へてゐるやうだ。花咲きけり
八月の御所グラウンド(文春e-book)万城目学文藝春秋久しぶりに万城目学の小説を読んだ。直近(第170回)の直木賞を受賞した作品だからである。受賞作は、「八月の御所グラウンド」だが、単行本にはもう一作「十二月の都大路上下(かけ)ル」も収められてゐる。後者は、毎年行はれてゐる全国高校駅伝の大会に取材したもので、私も以前勤めてゐた学校がこの常連出場校で、宝ヶ池辺りで応援したことが何度もあるので、懐かしく読んだ。ネタバレになるので詳細は止めるが、その都大路を走る高校生の横で見えるヒトには見える歴史的人物が絡んだ話である。受賞作の方は、同じく京都の大学のライバル関係のある教授二人が学部長選を争つてゐる。その前哨戦として「野球の対抗戦に勝て」といふ厳命を受けた彼(多聞)がその戦ひに挑む。彼に借金をしてゐたためその...万城目学『八月の御所グランド』を読む
先日、春休みを使つて岡山に遊んできた。初めて訪れた岡山は晴天に恵まれ、楽しい旅となつた。一日目は、岡山城と後楽園とを歩く。外国人の多さに驚いた。地方都市もすでに世界的な観光地になつてゐたといふことだ。平日に訪れるのはむしろ外国人の方が多いのかもしれない。宇喜多秀家、小早川秀家、池田光政と城主は変はつたが、いづれも著名な武士たちである。西国に睨みを利かすそれなりの人物でなければ治められなかつたといふことだらう。戦国の山城から、平野に城を構えた先駆けであつたといふことも、時代の変化を鋭敏に捉へた証である。ただそれだけに目の前に流れる旭川の氾濫を受け、治水には苦労もしてゐたやうだ。現在の城は近代建築になつてゐるが、形状の異形もその現れであるやうに感じられた。池田家は、途中から養子を迎へて家を守つてきたことにも驚...岡山に遊ぶ
2024年度京都大学入試現代国語に出題された文章は、次の通り。大問1(文理共通)奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』大問2(文系)高村光太郎「永遠の感覚」(理系)石原純『永遠への理想』大問1と今年度の東京大学の文科類に出題された文章との共通点については前回述べた。それは偶然の一致であるので、「奇跡」と評したが、京都大学大問2の共通性については意図したものであるので、「奇跡」ではない。もちろん、同じ主題で全く異なる筆者の文章を探し当てるといふのは、たいへんな労苦であるし、素晴らしいと思ふ。しかも、その主題が「造形芸術における永遠性」といふものであつてみれば、それは見事といふほかはない。18歳(あるいはそれ以上)の青年に、このやうな主題をぶつけるといふことは、さすが京都大学と思はせた。...造形藝術の永遠性とは何かー2024年度京都大学入試現代国語の文章
2024年度京都大学入試現代国語に出題された文章は、次の通り。大問1(文理共通)奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』大問2(文系)高村光太郎「永遠の感覚」(理系)石原純『永遠への理想』大問1と今年度の東京大学の文科類に出題された文章との共通点については前回述べた。それは偶然の一致であるので、「奇跡」と評したが、京都大学大問2の共通性については意図したものであるので、「奇跡」ではない。もちろん、同じ主題で全く異なる筆者の文章を探し当てるといふのは、たいへんな労苦であるし、素晴らしいと思ふ。しかも、その主題が「造形芸術における永遠性」といふものであつてみれば、それは見事といふほかはない。18歳(あるいはそれ以上)の青年に、このやうな主題をぶつけるといふことは、さすが京都大学と思はせた。...造形藝術の永遠性とは何かー2024年度京都大学入試現代国語の文章
東京大学の2024年度入試の第四問(文科のみ出題)の設問(一)は「『ガラスは薄くなっていくが、障壁がなくなる日は決して来ない』とはどういうことか、説明せよ」となつてゐる。そして、京都大学の2024年度入試の大問1(文理共通問題)の問5は「『核心は近づいたかと思えはまた遠ざかる』のように筆者が言うのはなぜか、『祈り』の歌詞に触れつつ説明せよ」となつてゐる。「祈り」とは吟遊詩人ブラート・オクジャワの詩(沼野充義訳)で、第一段落に記されてゐるもの。神よ人々に持たざるものを与えたまえ賢い者には頭を臆病者には馬を幸せな者にはお金をそして私のこともお忘れなく……東大京大とも、翻訳にまつはる話題である。異文化理解だとか他者理解だとか、あるいは多様性の尊重といふこがいかに難しいかといふことを、それとは明示しないけれども、...2024年度入試東京大学と京都大学の奇跡的な一致
東京大学国語入試問題の2024年度の第一問についての論評は、昨日記した。「なに」を訊く問題が4つ揃わなかつたので、「なぜ」を2つ混ぜるしかなかつたといふのが私の考察である。「なに」を訊く問題には「なぜ」が入るが、「なぜ」と訊けば理由しか含まれないと私は考へるので、その文章自体も含めて、2024年度の東大の現代文第一問は「面白くなかつた」といふのがその内容である。では第四問(文科のみに課される問題)はどうか。こちらは、良いと思つた(それにしても随分偉さうな物言ひですね。我ながらさう思ひます)。フランス文学研究者が、日本語でフランス文学の翻訳を通じて感じてゐることを記してゐる。菅原百合絵「クレリエール」翻訳論では、2013年第一問『ランボーの詩の翻訳について』湯浅博雄があるが、こちらは文科理科共通問題であつた...2024年度東京大学の国語第四問について
春休みは、大学入試問題を解くことにしてゐる。やうやく、今年の東京大学と京都大学の入試問題を解くことができた。いつもにも増して、解くまでに時間がかかつたやうな気がする。それは東京大学の第一問評論が面白くなかつたからだ。ちなみに近年出題された文章のタイトルだけを挙げると、2023年吉田憲司「仮面と身体」2022年鵜飼哲「ナショナリズム、その〈彼方〉への隘路」2021年松嶋健「ケアと共同性-個人主義を超えて」2020年小坂井敏晶「『神の亡霊』6近代の原罪」となつてゐる。そして、今年は2024年小川さやか「時間を与えあう――商業経済と人間経済の連環を築く「負債」をめぐって」だつた。物事の両義性に焦点を当てた文章を、よくぞこれほど違ふジャンルの文章から持つて来られるなと思ふほど見事な文章選択眼ではある。しかし、その...WHAT(なに)を問へない時にWHY(なぜ)を問ふ
今号の紹介です。先月号に引き続き留守晴夫先生の論稿が掲載された。喜ばれる読者も多いだらう。『再び、戦争は無くならない』とある。戦争といふ局面では、「人間の中身が丸見えになる。善人はより善い人になり、悪人はさらに悪くなる」といふのは、今般のウクライナ戦争を取材した番組の中で、あるウクライナ人医師が語つてゐた言葉だと言ふ。であれば、戦争をやれない日本人は、道徳的な問ひに突き付けられる機会を失つてゐるのであるから、堕落してゐるに違ひない。留守先生は、師匠の松原正の言葉を引用して論稿を閉じる。まさに、自分自身を振り返つて見ても、戦争に立ち会つたときに、どういふ振る舞ひをするであらうかと自問すれば、「善人」になれるとは断言しがたい。さらに「悪人になる」とも断言しがたい。かういふ態度こそがきつと不道徳的といふのであら...時事評論石川2024年3月20日(第839)号
我が産声を聞きに(講談社文庫)白石一文講談社昨年の5月にコロナ禍は終息し、さまざまな規制は解除された。2020年4月7日だつただらうか、緊急事態宣言が出て以来、丸3年の間のあの閉ざされた空気を小説家はどう書いたのか、白石のこの小説で初めてそれを読むことができた。主人公の名香子は結婚を目前にして唐突に全く唐突に婚約者に破談を告げられる。その裏切りとも思へる試練を経て、名香子は上京して別の男性と結婚した。女の子が生まれその子供も成人していよいよ2人の生活が始まるといふ段になつて、夫から突然離婚を切り出される。言葉だけではない。その話をしたまま、夫は別の女性の元に行つてしまふ。傷心に暮れる名香子は故郷の明石に帰る。その途中、婚約者であつた男性と会つて、ある重大な事実を知らされる。そして、再び東京に戻つて来る。現...白石一文『我が産声を聞きに』を読む
月刊正論2024年04月号[雑誌]正論編集部日本工業新聞社今、書店に並んでゐる『正論』4月号に、「国語の『混乱』をごまかすな」を書いた。年末に、「今度、言葉についての特集を組むことになつたから、是非書いてほしい」との依頼を受けた。30分ほど、それについてどんな意図なのか、あるいは私が今何を考へてゐるのかといふことについて話し合つた。国語の混乱といふワードがその時に出てきたかどうかは分からない。ただ、年明け早々にある「全国大学入学共通テスト」については触れてほしいとのことだつたので、「分かりました」と答へ、その電話を切つた。実はこの年始は、金沢に旅行に行くことにしてゐた。11月に日帰りで金沢に出かけることがあり、今度は家族で来ようと決めてゐたからである。しかし、何だか気が進まないところもあつて、予定がすつぽ...『正論』2024年4月号に寄稿
令和6年の2月が明日で終はる。今月60歳になり還暦を迎へたが、特別な感慨もなくどうしようもない停滞の中を苦々しい顔をしないで(他人様からはいつも笑つてゐますねと言はれる)過ごしてゐる。今の願望は早く定年を迎へたいといふことである。恥づかしいことであるが、偽ることでもあるまい。その原因の一つはデジタル社会の生きづらさである。ワードを使つて文章を書くのは当り前。エクセルを使つて表計算するのは当たり前。そこら辺りはまだいい。楽々清算やら、teamsやら、その他さまざまなソフトやアプリを駆使してデジタル社会は人間にその仕様に馴れるやうに求めて来る。現代の人間疎外である。デジタルデバイド(デジタルによる格差)を取り上げる若者はゐない。何が多様性だ。そんな言葉の薄つぺらさは、この一事で分からう。技術上達者が生きやすい...還暦を通り越してや春を待つ
今号の紹介です。久し振りの留守晴夫先生の論稿が掲載。喜ばれる読者も多いだらう。留守先生の師匠でもある松原正の名著『戦争は無くならない』と同じタイトルで寄稿された。今号ではその前半が載せられてゐる。近著メルヴィルの『詐欺師ー仮面芝居の物語―』についてから書き起こされてゐる。人に「心」がある限り、つまりは「悪と悲惨」とを解決しようとする良心がある限り、この世から戦争が無くなることはないといふ主旨である。次号も楽しみにしたい。一面にある共産党のカネについての話は面白かつた。共産党の昨年の総収入は190億円といふから驚く。しかもその収入のほとんどが「赤旗」の購読料といふのから驚きである。政党助成金を受取つてゐない共産党の資金源である。それが今たいへんなことになつてゐるといふのだ。購読者の漸減と、配達の負担である。...時事評論石川2024年2月20日(第837/38)号
草の芽に降りし光や微かなる
快挙(新潮文庫)白石一文新潮社写真家を目指すが、その能力に限界を感じ、ホテルマンなどのアルバイトで生活を送る俊彦。彼は小料理店を営む2歳年上のみすみと一緒になつた。小説を書き始めた俊彦が小説家として世に出ることを勧め、支へてくれてゐた。小説を書きながらも、あと一歩のところでそれが世に出ない。筆力の限界と共に、担当し俊彦の文才を買つてくれてゐた編集者の急逝といふ不遇もあつた。それでも長い忍耐の時期を過ごしながら出会つた人との繋がりでノンフィクションの本が出、10万部を越すベストセラーになる。不遇の中で腐りかけながらも、俊彦を支へてくれたみすみの存在が切ない。彼女は決して聖女ではなく、愛に迷つてもゐるが、傷ついた心を決して他人のせいにはしない女性であつた。俊彦は『快挙』といふ小説をそれぞれ別の作品として2度書...白石一文『快挙』を読む
今年は暖冬だと言はれたが、寒い日はあつてそんな時はやはり寒い。特に当地は埋立地で、本来は海の上、雨の次の日は不思議に風が強い。それはここに来るまで経験したことのないほどの風の強さで、1年に何度も台風が来てゐるやうに感じる。もちろん建物は鉄筋コンクリート建てだから壊れることはないが、サッシは築17年も経つとどうやら隙間が開いて来るやうでガタガタと揺れる。夜中に何度か起きたことがあるが、海の上だものなと思ふと腹も立たない。それよりは快晴の日の景色の解放感の方が優つてゐる。さて、そんな今年の冬だが、不思議に薔薇が咲いた。5月に咲き、秋に咲き、冬に咲いた。これは初めてのこと。これが暖冬のせいなのかは分からないが、嬉しい出来事である。ベランダにオレンジ色の薔薇に引き寄せられ寒い外に出て行つた。冬に咲く花の強さや席を...花咲く冬もある
今月、文春新書から、福田恆存の講演が文章になって出版される。新潮社から刊行されてゐたカセット文庫が、新潮新書ではなく文藝春秋から出るのは不思議な感じを受けますが、読者としてどちらでもよく、刊行されることを素直に喜びたい。何度も聴いたものなのだが、活字になれば、また違つた発見があるかもしれない。福田恆存の言葉処世術から宗教まで(文春新書)福田恆存文藝春秋福田恒存講演日本の近代化とその自立1(新潮カセット講演)福田恆存新潮社福田恆存講演第2集理想の名に値するもの(新潮カセット講演)福田恆存新潮社福田恒存講演3近代日本文学について;シエイクスピア劇の魅力(新潮カセット講演)福田恆存新潮社福田恆存の講演が本に
草にすわる(文春文庫)白石一文文藝春秋今日も白石文学を楽しんでゐる。今作は短編集。5篇の作品が編まれてゐる。中では「砂の城」を推す。「若い矢田が、世を恐れ、人を恐れ、そして自らの無知を深く恐れながら、必死で文学と格闘していった」「彼の文学は、無神論者が血眼になって神を求めているような、いわば見苦しい徒労だね」「要するに矢田は人間関係の距離を上手くはかることのできぬ男であり、それは彼の生まれついた一大欠落だった」ここに記された作家矢田泰治とは、白石一文のことなのかどうか、あるいは父親で直木賞作家の白石一郎のことなのかは分からない。そんなことはもちろんどうでも良いことだが、かういふことを書き留めることのできる白石一文の日本人評を、私は得難い観察眼として嬉しく思ふのである。言葉はそれを感じるものにしかかたちを与...白石一文『草にすわる』を読む
今年最初の映画。紛れもない日本映画だけれど、やはりどこか違和感がある。主役が夜眠る夢がモノクロで、不穏な音楽にうなされてゐるやうな印象を受ける。しかし朝起きた彼は不機嫌でもなく、昨日と同じやうに朝の作業をこなして仕事に行く。渋谷辺りの公衆トイレを清掃するのが彼の仕事。寡黙に丁寧に仕事をこなす。昼休憩に寄る神社の境内ではサンドウィッチを食べる。木漏れ日を見ては笑顔になる。ピントをわざと合はせず偶然の妙に委ねてフィルムカメラでその木漏れ日を撮る。もう何年も続けてゐる。帰宅して銭湯に行き、帰りがけに一杯やつて家に帰つて本を読む。眠たくなつたらそのまま眠る。その1日の固定された生活から弾き飛ばされたやうな心情や考へが汚物のやうに夢に滲み出て来る。しかし夢は見れば終はる。あたかも浄化されたかのやう。だから、朝になれ...「PERFECTDAYS」(役所広司主演)を観る
冬休み最後の1日となつた。太陽の塔を見に行かうと思ひ立ち、昼食をとつた後に出かけた。歩いて行かうかと思つたが、2時間ほどの歩行に膝がどう反応するのかを考へるとやめた方が賢明だと思ひ直してモノレールで出かけた。公園を訪ねる人は思ひのほか少なかつた。温かい冬の一日に公園での散歩はもつてこいだが、やはり初詣が優先ではあらう。太陽の塔には神事につながるものは何もないからである。思はず拝みたくなる威風と清潔とはあるけれども、岡本太郎といふ藝術家が創り出した意匠である。しばらく眺めてゐると頭部の辺りにカラスが飛んでゐるのに気がついた。これまで何度も見てきた姿であるが、珍しい光景だつた。以前、このブログに書いたかもしれないが、太陽の塔について旧約聖書のノアの話に触れたことがあつたと思ふ。簡単に言へば、ノアの家族たちは大...2024年の太陽の塔高所恐怖症の鳥はゐるのか
子どもが自立できる教育(小学館文庫)岡田尊司小学館生徒を育てるにはどうすればよいか。そればかりを考へてゐる。育てるにはまづ学力をつけるといふことがある。もちろん、その場合の「学力」とは何かといふ問題もある。それについては、中等教育では教科書が検定によつて決められてゐるのであるから、その教科書が理解できるかといふところを基準にしてゐる。次に「理解できる」とはどういふことなのかといふ問題もある。それについては、定められた試験において60点を取れるといふことを基準にしてゐる。しかし、学力が付き、理解ができれば、生徒は育つたといふことになるのか。学力=教養=幸福といふ図式はすでに過去のものである。私の身の回りにも高学歴の方はたくさんゐるが、彼らの言動を見る限り、かなり不自由な生活をしてゐることが分かる。この場合の...岡田尊司『子どもが自立できる教育』を読む
素晴らしきかな、人生(字幕版)ウィル・スミス久しぶりの休日。車の点検に遠出し、買ひ物をしてきた夕方。特に予定もないこの時間が好きだ。日が伸びてきたおかげて、夕方と言つても外は明るい。そんな時に、更にいい映画に出会ふとさらに幸福感に満たされる。出会ひは偶然の力であるから、うまく行かない時もある。しかし、今日はうまく行つたやうだ。洋画をあまり観ないが、今日たまたまprimevideoで観たのが、「素晴らしかな、人生」である。訳者もウィル・スミス以外は知らない。不思議な話ではある。六歳の娘を重い病で失つた男が、「出会ひ」を通じてその悲しみを受け入れていくといふのが物語である。しかし、その男は娘の死を受け入れられない。病んでゐることを心配する同僚たちが、秘策を練る。それが功を奏するのであるが、その同僚たちの秘策も...映画『素晴らしかな、人生』を見る
先日、ある読書会に参加した。4年ほど前にも参加したことがあるが、どんな風に進めていくのかもすっかり忘れてゐたのでしばらくは様子を見てゐた。テーマとなつた本について順々に感想を述べてゐるやうだつた。それはまあ普通に答へて、一巡し終はつたところで、何か仰りたいことがある方は御自由にといふので、少しのべさせてもらつた。すると70歳ほどの常連らしきお方が、「そんな事を発表者に訊いて時間をかけてここで話し合ふ意味があるか」と言つて来た。話し合ふ意味とはどういふ意味なのか、私には全く分からなかつた。意味なんかないと言へばない。そもそも読書会にいやいや読書自体に意味があるのかどうかも分からない。意味がなければ何もしないといふのが私には暴言のやうに思へた。何のことはない。その御仁は自分の話がしたいといふことに過ぎないとい...読書会の難しさ
先日スマホの料金プランの見直しに行つた。コロナが明けて再び出張が増えると、スマホを使ふ機会が増えると見込んでのことだ。結果的にはこのままでいいといふことになり、疑問に思ひながらもそのままにしておいた。それはそれで終はりなのだが、店先で気になる場面に遭遇した。それが老婦人と店員さんとのやりとりである。八十を過ぎた彼女がスマホを契約したいといふことで来店したやうだつた。「知らないうちに解約されてゐて困つてゐる」とのことだつた。しかし八十歳を越えた人の契約には家族の同意が必要で、家族に電話をかけて欲しいと言はれてゐた。それで電話をかけたのだが、娘さんは「これから出かけるところなので今晩家でね」といふことになつたらしい。なぜこんなに詳しく知つてしまつたのかと言へば、とにかく耳が遠いその御婦人相手に店員さんの声は店...スマホと老婦人
今号の紹介です。国会の議論のくだらなさは、昨日今日のことではないが、最近のものは最早「くだらない」ではすまされないほどの酷さである。小西議員の議論は、附き合ひきれない。だから、ここでも細かいことには触れないが、根拠も示さずに憶測で言ひがかりをつけるのはいい加減にせよ。それから杉尾議員の高市氏への批難も全く当たらない。それに対して「信じないなら質問しないでいただきたい」は私には正論に思ふが、如何。議論とは「よりよきもの」を巡つて交はされるところに意義があるだが、自分は絶対正しく相手は絶対間違つてゐるといふ決めつけで交はされるのは最早議論ではない。折伏である。自分と他者とが共に真実に至らうと努力するから議論が成り立つのだ。他者不信=自己絶対化なのだから、さういふ図式の中では議論は成立しない。高市氏は正しい。発...時事評論石川2023年3月20日(第827)号
子供のための哲学教室、といふものにとても興味がある。もう50年も前のこと、自分自身の子供時代を振り返ると、私は考へるといふことが生きるといふことだと感じてゐたのだらうと想像される。何となく格好いい表現だが、実態はさうではない。哲学の作法も分からないから理屈つぽい少年といふことでしかない。「屁理屈屋さん」といふ言葉を「格好いい表現」とは思はないだらうから、まさにさういふ存在だつた。それでも小学5,6年生の担任の先生は、さういふ私を妙に可愛がつてくれて、すべての生徒と交換日記をやつてくださる先生だつたので、私の面倒くさい「屁理屈」にもていねいに付き合つてくださつてゐた。そのノートは今もどこかにあるやうな気もするが、今の自分はそんな屁理屈屋はうんざりだから、見返したくはない。なぜこんな思ひ出話を書いたかと言へば...土屋陽介『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』を読む
今年の京大の現代文の1番は、福田恆存の『藝術とはなにか』からの出題だつた。試験が終はつた直後の昼休みに「先生、見ますか?」と受験生に言はれたが、試験は振り返つちやダメだと常日頃言つてゐた手前、「やめとく」と伝へて話題を切り替へたが、内心は見たくてたまらなかつた。そして、今朝やうやく予備校のウェブサイトで確かめた。なんと福田先生の文章だつた。昨日それを知つてしまつたら思はず解説してしまつてゐたかもしれないので、見ないことにして正解だつた。さて、文章に引かれた傍線部は次の通り。(1)ドラマは《為されるもの》であります(2)この呼吸は映画では不可能です(3)そのくらいなら、見せられるより見せる側にまわったほうがよっぽどおもしろい(4)教養とはそういう自我の堆積にほかなりません(5)現代では、藝術の創造や鑑賞のい...2023年京都大学の国語入試問題は福田恆存
今号の紹介です。今年最初の号。一年間といふ月日が、これほど変化をもたらした年といふのも珍しいことを感じる紙面構成である。昨年のまさに今、ウクライナへの侵略が始まつた。昨年の今頃は防衛予算の拡大についてなど政治的なタブーであつた。そして何より安倍首相が暗殺されることなど意想外中の意想外であつた。そして、それに伴つて宗教が社会の大ごとになつたのも何を言つてゐるのか分からない出来事であつた。しかし、である。世の中は変はつてゐない。今朝のテレビはパンダの移送が話題のほとんどであつた。上野のシャンシャン、和歌山のメイヒン、確かにそれは時の話題ではあらう。しかし、これだけか。人々の熱意の方向が私には分からない。大事な変化は大きすぎて見えない。今更ながらそれを感じる。「ユダ」の時代の到来を二面に掲載していただいた。左翼...時事評論石川2023年2月20日(第825/826)号
正しきことと良きことの区別ができない人がゐる。正しきことがいつでも良きことかどうか、一度考へるべきである。子供が何か過ちをした。それを叱る。それは正しきことである。しかし、叱つたからと言つて直ちに子供が良き子になるわけではない。だから、時間の猶予を与へなければならない。その時に、以前に輪をかけて叱り、怒鳴り、圧力をかけても、つまりは正しきことを幾重にも重ねても、それは良きことにはならない。裏木戸の戸を開けておけと古くから言はれるやうに、正しきことで子を追ひ込むことは良きことではない。むしろ悪しきことである。良きこと悪しきこと、正しきことと過つこと。かうした区別が大切である。これとは直接に関係ないが、アランは次のやうに書いてゐる。「ひどく腹を立ててゐる人間は、ひどく感動的な、いきいきと照らしだされた悲劇を、...怒りの鎮め方
受験生を抱へた身に去来する思ひそのまま。それは同時にこちらの老化でもある。昔は違つてゐたよな。やれやれと思ひ深々早や節分
まづは戯言を一つ。タイトルに「ソウギョウノウエン」と打ち込んだら、「操業農園」と出てきた。びつくりしたが、次の瞬間笑つてしまつた。操業農園では意味が分からない。蘭学事始(講談社学術文庫)杉田玄白講談社閑話休題。杉田玄白の『蘭学事始』には次のやうな箇所がある。「浮華の輩、雷同して従事せしも多かれども、創業の迂遠なるに倦(う)みて廃するもの少なからざりし」。(訳)浮かれて華やかなことが好きな人は、付和雷同して『解体新書』の翻訳に従事した者も多かったけれども、新しいことを始める時の回りくどくて面倒なことに飽き飽きして辞める者も少なくなかつた。今、仕事をしてゐてさういふことを感じてゐる。創立されて間もなく二十年になる学校に勤めてゐるが、この間のことを思ふと、まさに「創業の迂遠」なるを感じる。これに負けてしまひさう...創業の迂遠
ベルグソンの『物質と記憶』の第七版の序には「自分の立場ははつきり二元論だ」と書かれてゐる。そして、それは常識的な立場であるのに、哲学者からは理解されず評判が悪いとも書いてゐる。つまりは、物質といふものを、表象に還元してしまふ観念論も、我々の中に表象を生み出しつつも当の表象とはまつたく本性の異なるものだとする実在論とは、共に誤りであるといふ考へある。それは端的に「『もの』と『表象』の中間に位置する存在なのである」。私は、いまこのベルグソンの物質観を問題にしてゐるのではない(もちろん、その考へに異論があるわけではないが)。ではなく、二元論といふのは、かういふ使ひ方が正しいといふことが言ひたいのである。ところが、新聞に出てくる知識人たちの文章や、テレビに出てくるコメンテーターの中には、これを「物質か表象(精神)...誤解される「二元論」
モナドの領域(新潮文庫)筒井康隆新潮社今年最初の小説。じつを言ふと年末から読み始めてゐたが、年始になつて仕事が始まり、それをまとめる余裕がなくなり、今日になつてしまつた。読み終へて十日ほど経つので、もうまとめるといふ気力もない。ただ面白かつたといふ思ひである。「モナド」とは、空間を構成する単位を表す概念のやうだが、それ自体は構成要素を持たないものであるといふ。しかし、素粒子が原子を作るやうに、素粒子同士が関係を持つやうなものであるのに対し、モナドは一切の関係を持たない独立的なものであるとされてゐる。この世界はそのモナドの領域である。ところが、現代、別のモナドとの重なりが起きてしまつた。その証拠がある事件である。この小説の冒頭に書かれたバラバラ殺人事件が、その「重なり」の証拠であつた。もちろん、読者はそんな...筒井康隆『モナドの領域』を読む。
正月の談議(承前)吉本隆明は福田恆存のことを書かなかつた。このことをずつと不思議に思つてゐた。大学時代に、そのことについて先輩と議論したこともあつたが、両者については何も知ることはできなかつた。ところが、神道氏がかう言つた。「別冊宝島の『保守反動思想家に学ぶ本』に吉本は福田の訳した『アポカリプス論』を読んで影響を受けたと書かれてゐた。」この本は、1985年に出たMOOKで、私も読んでゐた。が、それは記憶になかつた。そこで、愛知に戻つて来て、書棚の奥から今日やうやく探し当てた。すると149頁にかうあつた。呉智英の言葉である。「福田はだから、吉本にも影響を与えているわけですよ。吉本の『マチウ書試論』ってのは明らかに今言った『アポカリプス論』に触発されて出てきたもんだから。」すると、真宗門徒氏は、吉本の『マチウ...正月の談議から――吉本隆明の福田恆存からの影響
良寛と言へば、一般には江戸後期の僧侶のことが知られてゐる。吉本隆明や水上勉の著作にもあるほどで、俳人・漢詩人としても知られてゐる。今、調べると辞世の句は「うらをみせおもてを見せてちるもみじ」であつたと言ふ。一昨日の宗教談議の中で、鎌倉時代の既存仏教は、いはゆる「末法の時代」に何をしてゐたのだらうかといふ疑問が湧いた。そこでふと口に出て来たのが「良寛といふ僧侶がゐたやうな気がする」とつぶやいたが、記憶も曖昧で確かなことは言へなかつた。そこで今朝調べてみると、確かに鎌倉時代に「良寛」といふ人物がゐた。その方はむしろ「忍性」と言ふ名で知られる人で、(鎌倉の)極楽寺忍性と言はれてゐる。真言宗とも律宗とも異なる真言律宗と呼ばれる宗派である。貧民やハンセン病の患者の救済を目指して活躍してゐた。ちなみに言へば、大阪の四...二人の良寛
正月とお盆と、長い休みの時の最大の楽しみは、気の置けない友人二人との語らひである。昨日も、その時間を楽しんだ。初詣の話から始まり、それぞれのこの期間に出会つた人の話や読んだ本の話を語り始めた。いつものこの調子であるが、昨日は「信じるといふこと」について話が至つた。宗教や信仰といふ漢語では、私が感じた印象とは違ふやうにも感じる。それはやはり「信じるといふこと」がふさわしいやうに思ふ。神道と真宗と無教会とそれぞれの立場からの発言は、何が正しくて何が間違つてゐるといふ理性的な追究ではない。人間とは何かといふことについて(それはたぶんに日本人とは何かといふことになるのであるが)のそれぞれが思ふところを率直に語るなかで、気づきや問ひがつぎつぎに生まれてくる。その感覚が日常では味はふことのない喜びである。これだけ書く...宗教談議とその逸脱
昨日のこと。散歩がてら買ひ物に出た。薬を一つと、久しぶりに使つたプリンターのインクがないことに気づいたのでそれを買ひに出た。夕飯は何にしようかと家内と話してゐるとパンが食べたいといふことになつて、スーパーにも寄つた。イオン系のスーパーなのでwaonで支払つた。いくら入つてゐるのかも分からないし、購入した物がいくらになるのかも分からない。ところが、レジを過ぎてレシートを見ると、残金はきつちり5,000円だつた。現在消費税は8%。物の値段も10円単位ではなくなつてゐる。計算してもこんなことは起きないだらうと思ふ。何とも気持ちの良い出来事だつた。こんなところで運を使つてしまふなんてとは一瞬思つたが、まづは気持ちの良い買ひ物に小さな喜びを記しておきたい。快事ひとつ
privateの対義語は、もちろんpuvlicである。私的と公的といふ感じで捉へてゐるのが一般的な日本人の感覚である。ところが、イギリスの私立学校を「puvlicschool」と言ふのはなぜ?と訊くと一瞬黙つてしまふ人が多い。日本人の感覚で言へば「privateschool」といふことになるからである。つまり、この両者の英語的感覚は、公私といふ日本語の感覚とは異なつてゐるといふことである。もちろん、英語にも「privateschool」と呼ばれる私立学校は存在するし、その方が数は多い。しかし、イートンやハローのやうな伝統的な私立学校はprivateschoolと呼ばれてゐる。では、このprivateといふ言葉の意味はそもそも何か。稲垣良典によれば、privationといふ名詞を見れば分かると言ふ。つまり、...privateといふこと
国語といふ教科の中の現代文といふ科目は、文化的な伝統を伝へ、自から文章を読めるやうになるための技術的訓練といふ側面は弱く、現代を彩る問題意識はどこにあるかといふ課題提示と悪文をいかに読み取るかといふ技術的訓練の側面が強い。悪文といふのは致し方ない面があつて現代日本語を母語とする日本語人を相手に授業をするのであるから、誰が読んでも明解に意味が分かるやうな達意の文章が課題文になることは少ない。つまりは、誰が読んでも一読ではあまり意味が分からないやうな文章を読み解くといふことが必要になるわけだ。さて、昨今私が気になつてゐて、今年の授業の中で随分手こずつたのが「再帰性」といふ概念である。社会学者のベックが有名だが、中世社会を変革して近代化を成し遂げた社会(封建社会を打破して資本主義社会にしたり、専制政治に終止符を...再帰的といふこと
神とは何か哲学としてのキリスト教(講談社現代新書)稲垣良典講談社追悼の意味を込めて、今年最後の書評はやはりこの書である。本年1月15日に93歳で亡くなられた、トマス=アクィナス研究の第一人者である。私は、福田恆存が見たトマス=アクィナス像でしか、この中世の代表的神学者を知らなかつたから、その評価はあまり高いとは言へないものだつた。つまり、神とは背後から感じるものであつて、それを正視し表現することから神は神でなくなつたといふのが福田恆存の中世理解であつた。もちろん、その代表者がトマスであるから、勢ひ福田はトマスの神学を謬見もしくは誤解と見てゐたわけだ。しかしながら、私たちに理性や悟性といふ知性があるからには、神とは何かを問ふことは知的誠実そのものであり、言つてみれば知性とは真の根源たる神(もちろん、真に限ら...稲垣良典『神とは何か哲学としてのキリスト教』