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  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(93)

    ここからはヨルゴス・セフェリスの作品。最初は「愛の歌」。風のバラが無知なぼくらをさらったのだね。この一行の「意味」はわかったようで、わからない。風、バラ、無知、ぼくらということば交錯する。「さらう」という動詞が、その交錯をさらに攪拌する。万華鏡をのぞいたときのように、何か、とてもあざやかなものを見たという印象がある。しかし、それを論理的に説明することはできないこの一瞬の混乱、そしてその混乱を美しいと思うとき、そこに詩が存在する。中井のように論理的な人間が、この混乱を混乱のまま一行にしているところに、中井の訳詩のおもしろさがある。「論理的に説明してもらえますか?」と質問してはいけないのである。**********************************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(93)

  • 自民党のキックバック問題

    自民党の裏金、パーティー券収入のキックバック問題。いまでは、だれもキックバック問題とは言わないようなのだが。2024年03月31日の読売新聞(西部版・14版)を見ながら(読みながらではない)、私は不思議な「フラッシュバック」に襲われた。見出しに「安倍派元幹部離党勧告へ」。どうやら、安倍派の大物(?)を処分することで、問題にカタかつけようとしているのだが、ふと私の頭の中に蘇ってきたのが、田中首相の逮捕である。表向きは、やっぱり金銭問題。ロッキードから金をもらっていた。それを適正に処理しなかった。それからロッキード問題はさらに拡大もしたのだが。でも、田中が失脚したのは、ほんとうは金が原因ではない。アメリカがベトナムへの自衛隊派遣を要請したのに対し、田中は憲法をタテに拒否した。それを怒ったアメリカが田中を追い落...自民党のキックバック問題

  • 「オッペンハイマー」の問題点、その2

    物理学者、数学者は、核分裂、核融合の夢を見るとき、あの映画のような光が飛び回るシーンを夢見るか、という疑問を書いた。私は彼らはイメージではなく、数式で夢見ると思ったからだ。これに対し、ある友人が「それではふつうのひとにはわからない」と言った。なるほど。では、ふつうのひとはあのシーンで、核分裂や核融合の仕組み、あるいはブラックホールのことがわかるのだろうか。私はふつうのひとのように想像力が豊かではないのか、あんなシーンを見ても、何も感じない。「もの」のなかで、電子や素粒子があんなふうに動いているとは想像できない。たしかに数式を書き並べられても、それが何を意味するかわからないが、しかし、彼らは数式で世界を理解しているということは理解できる。だって、アインシュタインはオッペンハイマーが持ってきた数式を一目見ただ...「オッペンハイマー」の問題点、その2

  • クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」(★)

    クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」(★)(Tジョイ博多、スクリーン9、2024年03月29日)監督クリストファー・ノーラン出演キリアン・マーフィ、ロバート・ダウニー・Jr、エミリー・ブラント私は数学者でも物理学者でもないから、私の想像が間違っているのかもしれないが、オッペンハイマー(キリアン・マーフィ)の頭の中で繰り広げられる「核爆発」の映像(イメージ)がなんとも理解できない。星が爆発し(死に)、ブラックホールが誕生するという映像(イメージ)も信じがたい。あんな、アナログのイメージで物理世界を見ているのか。私は、勝手な想像だが、数学者や理論物理学者は「数学」(数字の動き)で世界をとらえていると思っていた。頭の中で、つぎつぎに数式が動いていく。その変化、そのときの美しさに夢中になっている。いま...クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」(★)

  • こころは存在するか(30)

    「ことばは人間とともに生きている。語る相手を待ってのみ発達していく。」という文章が和辻哲郎全集第十巻のなかにある。相手を「持って」ではなく「待って」。「待つ」と「持つ」は漢字が似ているが、意味とずいぶん違う。「待つ」とき、「待っている人(ことば)」にできることは何もない。「ことば」は語る相手=聞いてくれる相手のなかで発達していく。新しいことばになっていく。筆者が書けば「新しいことば」になるのではなく、「相手のことば」のなかで変化することで「新しくなる」。これは、「聞いてくれるひと」の、それまでのことばが否定され(破壊され)、新しく生まれ変わるということだ。ことばは、常に、発した人を超越し、他者のことばを否定しながら生まれ変わり、そのあとで話者に帰ってくるものなのだ。「間柄の本質」については、こう書いている...こころは存在するか(30)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(92)

    「アクシオン・エスティ、創世記より」。この世界。この小さな世界の大きさ!「この世界」と呼ばれているものは、世界のなかにある「ひとつ」の存在である。たとえばオレンジの花。それは世界のなかにあることによって、世界と向き合っている。そのとき、「この世界(ひとつの存在)」は、それをとりまく世界(複数のつながり)に比べると確かに「小さい」。しかし、世界と向き合っている限り、そこには世界に対応するだけの「秘密」がある。その「秘密」は世界に存在するすべての「秘密」に同時につながっている。「秘密」ということばを詩人はつかっていない。中井の「訳」のなかには登場しない。しかし、私は、その書かれていない「ことば」を読んでしまう。「小さい(な)」と「大きさ」が結びつく一瞬に。「小さな世界」のなかに「大きな世界」が吸収され、どこま...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(92)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(91)

    中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(91)「石と血と鉄とで……」。心の樹は枝を広げて行く。それが私の眼に見える。ここに書かれている「眼」は「肉眼」のことである。けっして「心眼」ではない。「心の樹」と比較すると、その意味がわかる。「心の樹」は、いわば「想像」である。つまり、実在するのではない。それを「心の眼」で見れば、それら「空想の空想」になってしまう。「肉眼で見る」とき、「心の樹」という非現実(空想)は「肉体」の力よって現実の世界に引っ張りだされてくる。つまり「実在」になる。詩人は「見る」、そして「ことばにする」。そうすると、それは「現実」になる。ここには何か、ソクラテス、プラトンの時代からの、偉大な(強靱な)ギリシャ人の集中力がある。真摯な力がある。他の部分では「きみ」「僕」ということばをつかっているが...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(91)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(90)

    「日がな一日野を歩いた……」。生命の眼を覗く。生命の眼は我等の眼差を返す。同じことばと違うことばが交錯する。あえて書くと、「我等の眼が生命の眼を覗く。生命の眼は、我等の眼に、我等の眼差しを返す」。生命の眼のなかで、我等の眼差が反射し、帰ってくる。我等が覗いたのは、我等の生命の眼。そして、それは「反射する」ではなく、もっと積極的な「返す」という動き。「反射する」なら、鏡や水でもできる。しかし、「返す」は違う。そこには「動き」がある。「覗く」が動きだから、やはり動きとしての「返す」が絶対的に必要なのだ。繰り返される同じことばが、違うことばのなかにある「本質的な同じもの」を強烈に浮かび上がらせる。生きていることは、「動く」ことである。「動く」ものは死なない。つまり、決して消えない。なくならない。それを「生命」と...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(90)

  • こころは存在するか(28)

    「絵は我々が見ないときでも美しい。酒は我々が飲まないときでもうまい」というのはほんとうか。私は、そもそも「絵を見ないとき、その絵は存在しない。酒を飲まないとき、その酒は存在しない」と考えている。「見る」「飲む」のかわりに「想像する」をつかえば、「ある絵を想像する(想起する)とき、その絵は存在する。ある酒を想像する(想起する)とき、その酒は存在する」と言えるが、それはあくまで「想像のなか」に存在するのであって、現実に存在するかどうかはわからない。いろいろ考えるとめんどうくさくなるので、便宜上「どこかに存在している」という形で対応してはいるが、こんなことは何の意味もない。和辻は、「絵は我々が見ないときでも美しい。酒は我々が飲まないときでもうまい」ということばから、別のことを考えている。「美しい」「うまい」とい...こころは存在するか(28)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(89)

    「マルメロの林にたゆとう風……」。蘇りの形象は二連目の、第一行。これだけでは何のことかわからない。主語(あるいはテーマ)が提示されているだけである。つまり「文(名詞+動詞)」になっていない。しかし、「文」にならないことによって、逆にドキリとさせるものを含んでいる。この一行に、ほんとうに「動詞」は存在しないか。「蘇り」のなかに「蘇る」という動詞がある。ギリシャはいつでも「蘇る」と詩人は言っているのだ。それは、どんな風にか。この詩に書かれている「形」に。詩人が「形象」と呼んでいるすべての「形」に蘇る。だれも、それを壊せない。だれも、それを阻止できない。なぜなら、それはことばとして生きているからである。この一行は、もっとわかりやすい形に翻訳できたかもしれない。しかし、中井は、ここではあえて「わかりにくい」形で翻...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(89)

  • 池田清子「もっと向こう」ほか

    池田清子「もっと向こう」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年03月19日)受講生の作品。「三連目がユニーク。際限のない甘えが印象に残る。最後の一行で悲しさがあふれてくる」「一連目は谷川俊太郎みたい。最終連は、気持ちが解放されて書かれている」「すんだ青い空、純粋さが昇華されている。最終連の泣くには、泣いていられる喜びに近いものがある」「空を見たときのピュアな気持ちを思い出す」最終行の「泣こうか」は、受講生が指摘したように、「がまん」と「甘え」が交錯し、そこに不思議な美しさがある。三連目☆★彡とそれを取り囲む円。ここから何を感じるか。「絵画的」「視覚的」という声が多かった。「ことばにしなくてはいけないのに、ことばにできない」と作者は言ったが……。私は、この「ことばのない世界」を「絵画」というよりは、「...池田清子「もっと向こう」ほか

  • Estoy Loco por España(番外篇438)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensMegustanlasobrasdeformassimplesdeJoaquín.Enlugardecrearunaforma,elhierroqueyaestabaallísetransformanaturalmenteenunanuevaforma.Joaquínloapoyatranquilamente.Hayalgoasícomolamiradadeunpadrequevecrecerasuhijo.Elhierroessufamilia.Sabedehierrocomolospadressabendeniños.YJoaquíncreaenelpoderdelhierro.Ahora,estehierroestáapuntodeconvertirseenun...EstoyLocoporEspaña(番外篇438)Obra,JoaquínLlorens

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(88)

    「私は愛する名に生きた……」にも「再生」に通じる一行がある。我が生命(いのち)尽きるとも変わらぬ海の轟きの中に。一行と書いたが、この一行は一連目の最後と最終連の最後にある。つまり、繰り返されている。だから二行ということもできるのだが。海の轟きは変わらない。だから、私はいのちが尽きても「再生する」と私は「誤読」するのである。そして、「我が生命」の「我が」とは「私」ひとりではなく、「我々」なのである。「我々」だからこそ、「私」はいつでも「我々」なかに「再生」する。「我々」とは「海の轟き」である。ギリシャは海と共にある国だ。ギリシャ人は海と共に生きている。ところで。この「再生」ということばを抱え込むこの三篇には、もうひとつ、共通するものがある。タイトルがいずれも書き出しの一行と重複する。ただし、本文に「……」は...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(88)

  • こころは存在するか(27)

    「人間の存在は行為である」。これは和辻哲郎全集(9)に出てくることばだが、「論語」のなかに書かれていたとしても疑問に思わない。カントにしろハイデガーにしろ和辻にしろ、ひとは結局同じことを、それぞれのことば(孔子語、カント語、ハイデガー語、和辻語)で語る。これは、ふつうは「翻訳」というかもしれない。しかし、私は「誤読」と呼ぶ。違っているが、重なり合う。重なり合うが、ずれてしまう。ひとの肉体は、それぞれ「個別」だからである。「理念(イデア?)=精神」が「一致する」という考えに、私は与しない。「肉体は個別でも共通(一致する)精神、理念がある」とは、私は考えない。肉体と精神(こころ)を分けて考える必要はない。肉体と精神(こころ)--それがあると仮定して--は同じものである。肉体を、ときどきひとは「精神」と呼んだり...こころは存在するか(27)

  • Estoy Loco por España(番外篇437)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPabloElpaisajedelaciudadsesuperponeconelperfildelhombre.Elperfildelhombresesuperponeconelpaisajedelaciudad.¿Cuáleselpasado(memoria)ycuáleselpresente?Estapreguntanotienesentido.Eltiempoquellamamos"elpasado"realmentenoexisteenningunaparte.Porqueeltiemponuncapasa.Todaslasmemoriassiempreexistenconeltiempodel"ahora".Sesuperponenynuncaabandonanel...EstoyLocoporEspaña(番外篇437)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころは存在するか(26)

    時間は存在する。しかし、過去を考えるとき、時間は存在しない。「過去」という時間は存在しないというか、「過去」を考えるとき、時間のなかで「過去」「現在」「未来」という区別はなくなる。言い換えよう。過去の行為がいつまでも苦痛であるのは、時間とともに「過去」が過ぎ去らないからである。いつも「現在」として、私のそばにある。私を取り囲んでいる。時間は人間の意思、感情を無視して、人間のなかで「時制」を破壊して存在し続ける。物理や数学のときにつかっている時間、人間の意思や感情とは関係のない時間について考えても、意味はない。時間は存在しない、とはそういう意味である。和辻は、カントは「有るものと、単に考えられるにすぎないものを区別する」というようなことを書いている。単に考えられるにすぎぬもの、とは何か。数学的、物理学的な時...こころは存在するか(26)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(87)

    「コリントの太陽を飲む……」にも「再生」ということばが登場する。これも、終わりから二行目である。ずいと見渡せば世界は再生する、一行のみの引用と決めて書き始めたので、方針は変えないが、もし二行引用すれば、この詩と「艶やかな日、声のホラ貝……」の最後の二行がとても似ていることがもっと明確になる。ここに書かれている世界は「わが愛するもの」のことであり、それはギリシャということになる。詩人はいつもギリシャを見渡している。彼にはギリシャの全部が見える。「ずいと」ということばが、なんともいえず、肉体を刺戟してくる。実際に、見渡している、そのときの目つきが生きている。だから「世界は再生する」は、そのまま「肉体は再生する」という感じで響いてくる。「ずいと」をギリシャ語でなんというのか知らないが、詩人がなんと書いているのか...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(87)

  • こころは存在するか(25)

    カントの「実践理性批判」について、和辻がいろいろ書いている。それを読んでいる途中に、私はノートにこんなことを書いている。人を殺す。それが善いことか悪いことかは、実際にそれが行われたあとで判断される。もちろん「人を殺すことは悪いことである」。しかし、こういう道徳というか、定義というか、よくわからないが、それが真実かどうか、私は自分の肉体をとおして語ることができない。私は殺されたくない。だから、それを悪いことと感じている。つまり、利己心から、自己中心的な感覚から言っていることになる。しかし、実際に「人を殺す」、あるいは「人を殺すことにかかわる」場合は違うだろう。私が「頭のなか」で考える善悪を超えて、実際に人を殺したひとの肉体に何かが押し寄せてくるだろうと思う。もし、その「殺人」がボタンひとつで可能ならば、これ...こころは存在するか(25)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(86)

    「艶やかな日、声のホラ貝……」の最終連、その終わりから二行目。わが愛するものはすべて絶えず再生し、この「すべて」は二連目で繰り返されている「ギリシャ」のことである。なぜ、「すべて」と書くのか。「すべて」が破壊されたからである。だから「すべて」と書かずにはいられない。そこには強い祈りがこめられている。「絶えず」も同じである。破壊されても、破壊されても、そのつど再生する。そういう「意味」とは別に。私は「わが愛する」の「わが」の表記に、ふいに胸をつかれた。「わが」に似たことばは、この詩では「私」が出てくる。「男」が出てくる。それから「我が手」「我が空」のように漢字で「我が」と書かれた部分がある。また、「わが」とは別の「きみ」ということばもある。たぶん、この「きみ」が「わが」に含まれている。つまり「わが」とひらが...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(86)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(85)

    「夏の身体」。不死の一瞬を再発見する。「不死」は「いのち」。生きているということ。しかし、この行が「生を再発見する」、あるいは「いのちを再発見する」だとしたら、たぶん、印象は弱くなる。「不死」は単純な「いのち/生」を意味しない。「不死」のなかにある「死」ということばが否定されることで、その奥から「いのち/生」が新しくよみがえってくる。「死」を越えて、よみがえってくる。この超越の運動が、詩の、ことばのいのちである。この詩には「比喩」がたくさんある。「ヴィーナスの丘」とは「恥丘」のことだが、こういう「比喩」は何かをあらわすのではなく、何かを隠すことによって、逆に隠されたものを思い出させるという働きをしている。「恥丘」(このことばは、もはや死語かもしれない)を「ヴィーナスの丘」ということばで隠す。すると、人間と...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(85)

  • Estoy Loco por España(番外篇437)Obra, Sergio Estevez

    Obra,SergioEstevezlaserie"Amoresinternos"EstaobradeSergiotambiéntieneuna“sensacióndecantidad”devida.Todavíanohadecididoquéformatomaráestetrabajo.Sinembargo,hay"señales".Estáacostadabocaabajo,conlaespaldaarqueada.Sucabezaysuspiesestánenelaire.Tienelacabezatorcidayelrostrovueltohaciaunlado,mirandoaunhombre.Quizáseste"inacabado"noseaelpuntodepartida,sinoelfi...EstoyLocoporEspaña(番外篇437)Obra,SergioEstevez

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(84)

    「その夜をもはや知らぬ……」に、矛盾がある。その夜をもはや私は知らぬ、死の恐ろしい無名性を。「もはや知らぬ」ということば自体が矛盾である。「もはや知っている」という表現は可能でも、「もはや知らぬ」とは言えない。「知る」ことによって「状況/状態」が変わってしまうからである。「きみのことは、もう知らない」という言い方はある。これは、「私はもう関係しない」という意味である。いちばん近い言い方には「もう忘れた」がある。だが、この「もう忘れた」は、たとえば「昔、その本を読んだが、ストーリーはもう忘れた」という「忘れた」とはずいぶん違う。「きみのことは、もう知らない(きみのことは、もう忘れた)」というとき、「きみ」を「忘れようとしている」であって、実際は「忘れてはいない」。それは言いなおせば、「まだ覚えている」であり...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(84)

  • こころは存在するか(24)

    フォイエルバッハから和辻が引き出していることばでは、「思惟は有から出る。有が思惟から出るのではない」が刺戟的である。「有」と呼んでいるものは「人間存在」であるが、これを「肉体(あるいは実践)」と読み替えると、「思惟は肉体(実践)から生まれる。思惟から肉体が生まれるのではない」になる。人間とは、まず「肉体」なのである。「思惟」や「ことば」は嘘をつくかもしれないが、「肉体」は基本的に嘘がつけない。机の上にコップがある。水がある。喉が渇いている。その水が安全かどうか、わからない。しかし、目の前の相手がそれを飲んで見せてくれたら、「ことば」が通じなくても(相手が外国人だとしても)それは安全だとわかり(直観することができ)、飲むことができる。もちろん相手があらかじめ「解毒剤」のようなものを飲んでいて「安全」について...こころは存在するか(24)

  • こころは存在するか(23)

    和辻哲郎全集9。「人間の学としての倫理学」のなかで、和辻は「歴史学」とは「実践哲学」である、と書いている。私が知っている「学校教育」では「歴史」は「ストーリー」で、たしかに誰が、いつ、どこで、何をしたかを教えられたが、それは「実践」ではなかった。歴史上の人物の「実践」について教えられたが、それは「私の実践」とは何の関係もなかった。「歴史上の人物」はいたが、個人はどこにもいなかった。だから、私には「学校教育の歴史」というのもがぜんぜん理解できなかった。私が「歴史」がおもしろいと感じたのは、和辻の「鎖国」を読んでからだ。そこには「歴史上の人物」のほかに、無名の「個人」がいた。スペインを出発し、世界を一周してきた船が、スペイン(だったと思う)近づく。スペインの船と出会う。そのとき、「きょうは何月何日」という話が...こころは存在するか(23)

  • こころは存在するか(22)

    和辻哲郎全集9。「倫理」について考えながら、和辻は、こんなことを書いている。〈間・仲〉は生ける動的な間であり、従って自由な創造を意味する。この「自由な創造」ということばを読みながら、私は、そこにベルグソンとの共通性を感じる。「生きる」とは「自由な創造」をすることである。和辻は「日本語」にこだわって、ことばの「意味」をおいかけているが、きょう読んだ部分では「存在」、「存」と「在」の区別が刺戟的である。「存する」「在る」は、ともに「ある」という意味でつかっているが、そのつかい方は微妙に違う。「存」の反対のことばは「失」であり、それは時間的な意味をもつ。「生存」ということばの反対のことばは「忘失」である。「生存」とは主体的な行動をすること(創造すること)である。その「創造」には「自己自身」と「もの」を含む。一方...こころは存在するか(22)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(83)

    「狂えるザクロの木」は強烈な詩である。朝の中庭。南風が吹き抜けている。そこに、一本の木。おお、あれが狂ったザクロの木か、これは一行全体ではなく、一行の後半部分であり、この「おお、あれが狂ったザクロの木か、」ということばが詩のなかで何回も繰り返される。しかし、それは正確な繰り返しではない。二度目からは「おお、あれが狂ったザクロの木か?」と疑問符がつく。最初の「おお、あれが狂ったザクロの木か、」と疑問符ではなく、読点「、」である。これは非常に大きな違いである。中井は、その「違い」を書き分けている。(原文に疑問符があるか、ないか。私は、それを知らないが。)最初の「おお、あれが狂ったザクロの木か、」は疑問ではなく、確信である。見た瞬間に「狂ったザクロの木」と直観した。その直観を明確に示しているのが「あの」という指...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(83)

  • Estoy Loco por España(番外篇436)Obra, Lola Santo

    Obra,LolaSantosHayuna“sensacióndecantidad”devida.Sientolaenergíaquenaciódelatierrayseguiránaciendo."Material"queaúnnohatomadoformayseacumuladebajodelasrodillas.Éstasahoracambiarányseconvertiránenpatas.Enesemomentonacenbrazosycabezasalmismotiempo.Caderas,glúteosysenosfuertes.Elcuerpodeunamujercreaun"cuerpocompleto"queaúnnoexiste.Estaobramuestralafuerzadela...EstoyLocoporEspaña(番外篇436)Obra,LolaSanto

  • こころは存在するか(21)

    行動は自分に欠けているものの獲得を目指すか、存在しないものの創造を目指す、とベルグソンは書くのだが、この「存在しないもの」を単にいまそこにないものではなく、「無」と考えるとどうなるか。「無を創る」。「無になる」とか「無我の境地」ということばが日本語にはあるが、「無を創る」というのは、それとは違う。「有」の否定(「有」からの解放)ではなく、「有」とは関係なく(「有」を踏まえず、「有」を基盤とせず)、「無を創る」。ベルグソンのなかに「絶対的な無」ということばが出てくる。これは「全体の観念」であり、しかもそこに精神のひとつの運動が加わっている。「否定」という運動だ。ある事物から他の事物へと飛び移る。飛躍する。ひとつのところに身を置くことを拒む。ひとつのところに身を置くことを否定する。そして、自分の「現在」の位置...こころは存在するか(21)

  • Estoy Loco por España(番外篇436)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPabloSerie"Protocolos"años90,Oxidooleosobrehierro,90x70cmLoscoloresempiezanadesmoronarse.Haycosasquesobreviveninclusocuandosedesmoronanloscolores.Noestristeza.Noessoledad.Essimilaralatristeza,peronosepuedellamartristeza.Essimilaralasoledad,peronosepuedellamarsoledad.Algoqueséperonopuedoexpresarconpalabras.Esoesloquenace.Ysequédaahí.Nisiquie...EstoyLocoporEspaña(番外篇436)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころは存在するか(20)

    私は多なる一であり、一なる多であるこのことばがベルグソンのなかに出てくる。「なる」を「即」と「誤読」すれば「多即一、一即多」であり、「多」を「色」と、「一」を「理(空)」読み替えれば「色即是空、空即是色」になるだろう。このとき「なる」は英語で言えば「be動詞」になるのかもしれないが、「なる」を「なす」、つまり「為す」あるいは「生す」と読み替えれば、それはすべて「私」という「肉体」によって誕生する世界になる。私がベルグソンに親近感を覚えるのは、こういう「誤読」を誘ってくれるからである。ベルグソンのことばのどこかに、私が知らずになじんできた「東洋」のことばがある。「多」を「色」と私は書き換えたが、これは「私が出会った、私以外の存在」であり、それは「意識が存在として分類しているもの」というものであり、「私(肉体...こころは存在するか(20)

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