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  • 経塚 楠開基 多門寺 横小路・多門寺跡石碑

    合間に横小路、多門寺跡の石碑へ。経塚楠開基多門寺と確かに彫られてある。上方にある浄土院跡の瓦群は、兵火により焼かれた跡が顕著だった。焼けた瓦、すすこけた瓦、溶けた土壁・・1348年の四條縄手の戦いで、往生院城、往生院と共に、浄土院も高師直軍により焼かれ尽くされたのであろう。多門寺は、その戦乱で亡くなった多くの者を供養するために、楠木正儀により建立されたのではないかと推察する。四條縄手の戦いの翌年に楠木正儀は往生院を訪れ、正行の菩提を弔っている。その足で浄土院にも訪れ、その際に供養の経文を納めたのが、この多門寺であったのではないだろうかと、初めて拝し、そのように思った次第である。その後、横小路のなだらかな里山へ。古い土器や土師器、甕等は散見されるが、奈良や平安、鎌倉期の瓦は畔を歩いてみた感じではなさそうだっ...経塚楠開基多門寺横小路・多門寺跡石碑

  • 河内・往生院・中興開山についての再考察 2024年4月29日

    当初は四天王寺別当系から類推していましたが、興福寺別当系でほぼ間違いないと結論付けました。河内・往生院・中興開山についての再考察2024年4月29日https://youtu.be/spGkyL1qAx0?feature=shared河内・往生院・中興開山についての再考察2024年4月29日

  • 横小路新池

    横小路新池の周りを少し散策。しかし、古い瓦類は全く見当たらなかった。浄土院以外に上方に古いお寺があれば、必ずこの新池にそれなりの瓦が溜まってきてあるはず。それが全くなかった。調査はとにかく一つ一つ、、横小路新池

  • 寺歴の再調査研究における今後の課題について 往生院六萬寺 2024年4月26日

    未解明点といまだ謎となっている課題についてまとめてみました。寺歴の再調査研究における今後の課題について往生院六萬寺2024年4月26日https://youtu.be/2cV4JGcZbWo?feature=shared寺歴の再調査研究における今後の課題について往生院六萬寺2024年4月26日

  • 「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・

    もう1年近く相当なる有志が声高に反対しているにもかかわらず、「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・この問題の根底、裏にあるものが見えていないからでもあろう。的が外れているのである。もっと本質について2014年の門主交代の時期ぐらいからの過程をじっくりと見ていくべきであろう。新しい「領解文」問題点指摘の声明総研冊子に本願寺派有志「新しい領解文」問題が、遅々として解決に向かわないのはどうしてなのか・・

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の二)について思ふ

    7-2にも、これまでのテンプレだった「ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。」はなく、7-3に持ち越しとなるのだろうか。しかし、くだんの論文が論外の間違いだらけのハリボテなのは誰からも明らかであり、それはそれとして、本丸は、新しい領解文の撤回、取り下げであり、この問題は門主の失政によるもので、門主の責任がやはり最も大きい。門主に諌言するのが勧学の役割であるのだから、遠回りの「声明」でなく、門主への「諌言状」として、「新しい領解文」の撤回、撤廃を図れるように、門主のこれまでの推進の意向の翻意を促すようにするのが、手っ取り早い解決の道になると思うのだが、、勧学・司教有志の会声明(七の二)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『教行...勧学・司教有志の会声明(七の二)について思ふ

  • 河内ふるさと文化誌 「若楠(わかくす)」のご紹介 2024年4月24日

    河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)について郷土文化誌は、地域地域の大切な文化資源を後世に伝えていくためにも大切な役割を担っています。やお文化協会さんの郷土誌「河内どんこう」は43年の歴史に幕を下ろされました・・120号にて終刊・・誠に残念なことでした・・https://blog.goo.ne.jp/.../8a42d802177f11b32d2749187fd3d48e皆様のご支援とご協力で、「若楠」(わかくす)が末永くに存続されていくことを祈念申し上げます。河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」のご紹介2024年4月24日https://youtu.be/X2tL_0loIlU?feature=shared河内ふるさと文化誌「若楠(わかくす)」のご紹介2024年4月24日

  • 『兜率天の百の神々』法話会 ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下

    御寿まもなく89歳と思えないほどのご健勝、ご転法輪でございます。本当に尊く有り難いことでございます。口自在たる慧蔵にて至善なる勝者流の、教誨の真髄を持す比類なき御方、無数なる勝者の海を凝集せし御身に祈願せん。最上と共通の悉地を給わんことを。ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下に最敬礼申し上げます。合掌『兜率天の百の神々』法話会1日目https://youtu.be/Xw-eYRyamFY?feature=shared『兜率天の百の神々』法話会2日目https://youtu.be/kXb-aNsW9Bs?feature=shared2024年4月19-20日、インド、ヒマーチャルプラデーシュ州ダラムサラ/ツクラカンダライ・ラマ法王が『兜率天の百の神々』(gadenlhagyama)に...『兜率天の百の神々』法話会ダライ・ラマ14世ガクワン・ロサン・テンジン・ギャツォ猊下

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の一)に思ふ

    そう言えば、7-2があるのだろうが、これまでのテンプレだった「ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。」は7-1にはないが、7-2にはやっぱりあるのかな?まあ、この問題は門主による失政でもあり、門主の責任がそもそも大きい。門主に諌言するのが勧学の役割でもあるのだから、「声明」ではなく、「諌言状」として、「新しい領解文」撤回への意向を門主が総局に促すようにすれば良いのではないかとは思うのである。勧学・司教有志の会声明(七の一)に思ふ

  • 河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)2024年春季号発行・拙稿「玉日姫坐像について」

    河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)、2024年春季号が無事に発行されました。拙生は、「玉日姫坐像について」。親鸞聖人自作坐像奉納との関連を詳しくご説明させて頂いております。やはり、これも往生院と九條家との関わりでありますね。次回は、「法然聖人三日月の御影について」。すでに原稿はお渡ししています。その次を「往生院と南朝について」(これも原稿入稿済)に予定していましたが、「歴史から消えていた謎の山麓寺院河内・浄土院について」に変更しようと思います。定期購読(年2000円)ご希望の方は、ご入会のお誘いを参照下さいませ。草川様はじめ、ご入会賜りました皆様、本当にありがとうございました。もうまもなくで届くかと存じます。引き続きに宜しくお願い申し上げます。河内ふるさと文化誌「若楠」(わかくす)2024年春季号発行・拙稿「玉日姫坐像について」

  • 河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ 現地見学説明会 2024年4月22日

    本日に市文化財課に金堂跡の現況、そして、浄土院跡を確認して頂くために現地説明をさせて頂きました。調査へ向けて進むことを誠に願っています。とにかく、引き続き両者ともに調査研究を鋭意に進めて参ります。河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ現地見学説明会2024年4月22日https://youtu.be/89gh9chyprU?feature=shared河内・往生院金堂跡と河内・浄土院跡へ現地見学説明会2024年4月22日

  • 『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』論文の間違いについて

    あぁ、、問題論文、出されたのは1月だったか、、時が過ぎるのは速いな…反論文をお願いしますと言われたが、私は、正式な研究者でもないし、学術学会員でもなく、どの学会にも属していない。また、「議論の余地はない」と、念押しして述べてある時点で、呆れてその気も無くなるレベルでさえある。先に示した満井秀城勧学(与奪者)の改悔批判における『「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」は、生死即涅槃の法義です。仏智見から見れば自他一如として、仏と衆生と隔てるものはありません。それを凡夫の分別心が両者を隔絶してしまうのです。』の主張に対しての拙反論のあれだけで、もう十分にお腹いっぱいという感じでもある。。要は、論文における下記に対して反論するだけで、もう十分ということである。『・・これを私は約仏の視点として説明して来た。約仏の視点...『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』論文の間違いについて

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の一) ー総合研究所冊子の問題点ー

    かの低レベル問題論文への声明。彼岸中にあの大恥論文を門末全てへ郵送配布したことを聞いて呆れたのが先月、、暖簾に腕押し、厚顔無恥さに脱力したものです。勧学・司教有志の会声明(七の一)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『教行信証』「信文類」(『註釈版』二五一頁)このたび池田行信前総局名で、『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』という総合研究所の冊子(以下、冊子と呼ぶ)が、本願寺派全寺院へと送付された。その序論によれば、この冊子は、総局主催で行われた「新しい領解文」についての各教区の学習会において多くの僧侶・門信徒から投げかけられた疑問や困惑の声を承け、総合研究所所長(当時)満井秀城氏が自身の説明論理として作成したものであるという。しかし、...勧学・司教有志の会声明(七の一)ー総合研究所冊子の問題点ー

  • 証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について 当麻曼荼羅の普及への貢献 2024年4月21日

    動画にしていく方が考察が進むという・・文章にまとめるより楽という・・一つのサボりですね。まあ、記録にもなるので、助かる面も。。証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について当麻曼荼羅の普及への貢献2024年4月21日https://youtu.be/QQg2DJPVb4I?feature=shared河内・往生院の中興開山はいったい誰であるのか?当麻寺との関係から読み解く2024年4月21日https://youtu.be/KX1wygsB1_o?feature=shared往生院六萬寺の歴史について(動画説明)新しい順http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92790532.html証空上人(浄土宗・西山義の祖)と九條家の関係について当麻曼荼羅の普及への貢献2024年4月21日

  • 浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も

    浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も出てきた。九條道家により東福寺末寺となり、臨済宗に改宗した際に、浄土系儀礼を浄土院に全て引き渡したのかも。いや、むしろ引き継がせるために道家が1240年頃〜に浄土院を建立したのかもしれない。ならば、往生院中興開山は、証空上人、その近い門弟であった可能性もやはり高いか。再調査の際に憑依されてお知らせ下さった浄興と名乗られたお方なのか?いずれにしても、証空上人による西山浄土宗として往生院は中興されたのはもう明らかとなった。これも全ては当麻曼荼羅のお陰様である。浄土院の当麻曼荼羅は、往生院のものだった可能性も

  • 河内・往生院中興開山についての推論

    当麻寺と九條家、九條家と往生院、信円さんと当麻寺、来迎会練供養と往生院、当麻曼荼羅と九條家(慶政、教実、頼経、道家等)、当麻曼荼羅と浄土院・往生院、当麻寺と葛城修験と往生院、、、いよいよ、往生院中興開山、ほぼ信円さん(興福寺・当麻寺別当)で間違いないかと。。河内・往生院中興開山についての推論

  • 河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか? 日想観と共に華麗荘厳な来迎会 2024年4月18日

    河内・浄土院についての関連から、往生院でも迎講、来迎会、二十五菩薩お練り供養、聖衆来迎練供養会が修されていたと考えられることについて。考古学者・小林義孝先生は、20年以上前に、早くからこのことを指摘されていました。色々と解明が進み、誠に有り難いことでございます。河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日https://youtu.be/jLFVh6IFfiI?feature=shared河内・往生院でも当麻寺さんと同様の二十五菩薩お練り供養が修されていたか?日想観と共に華麗荘厳な来迎会2024年4月18日

  • 往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説・指摘

    寺史掲載の考古学者、小林義孝氏の論文からである。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説されていたのである。慧眼に恐れ入る。もちろん、双子、兄弟寺院であった河内浄土院に本尊、当麻曼荼羅があったこととは無関係ではなかっただろう。つまり、浄土院、往生院ともに、迎講、来迎会、練り供養がなされていたのであろう。もちろん、往生院にも当麻曼荼羅があった可能性も極めて高い。東大阪市の文化財課の文化財調査官を往生院金堂跡とともに浄土院跡にも案内するが、練り供養がなされていたとなれば、娑婆堂と金堂が確実にあったと思われるため、その痕跡についてもその際にしっかりと見極めたい。往生院で二十五菩薩練り供養が行われていた可能性が高いことを早い段階から仮説・指摘

  • 河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まる

    九條道家の兄、慶政上人(九條良経の子・兼実の孫)が、実質的に当麻曼荼羅の由来を世に広め、その普及に努めていたことを突き止めた。もちろん、証空上人の当麻曼荼羅普及に関することも書かれている。やはり、河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まったと共に、河内往生院にも当麻曼荼羅が本尊としてあり、二十五菩薩お練り供養がなされてあった可能性が極めて高い痕跡があることも改めてわかった。金堂跡の地勢から小林義孝氏の論文にてそれが詳細に述べられてある。後ほどにそれはあげることにする。https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/.../KU-1100-19940331-02.pdf河内浄土院の創建にあたっては、九條家開基、証空上人開山の可能性は、更にかなり高まる

  • 字「南九重堂」 「九重」は「九輪」と混同したか!? やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた? 2024年4月17日

    結局は、字「院堂」に、桜井寺金堂、六萬寺金堂、安助上人御堂、往生院金堂、全て多重的に存在していた可能性がやはり高いかも、、字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日https://youtu.be/vwaqZ_RkML4?feature=shared字「南九重堂」「九重」は「九輪」と混同したか!?やはり、字「院堂」に桜井寺・六萬寺も多重的に存在していた?2024年4月17日

  • 正行の城あと 字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ 楠木正行の城あとを確認 往生院金堂跡・北側 2024年4月16日

    いよいよ、本命となる六萬寺の探索へ向かった。残念ながら、奈良時代、平安時代の瓦は見つからなかったけど、別に成果があった。しかし、もう藪蚊がかなりすごい、、藪の中の探索はもう無理かな、、正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日https://youtu.be/LMt8vU0EuqM?feature=shared正行の城あと字「南九重堂」に六萬寺跡を探索へ楠木正行の城あとを確認往生院金堂跡・北側2024年4月16日

  • 河内・往生院と浄土院 当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く 2024年4月15日

    浄土院跡を確認できた流れに乗って、いよいよ、六萬寺の本丸を探すために、字「南九重堂」周辺へと行きたかったのですが、市の文化財課の調査官を迎える準備のために、まずは歴史館の資料整理、掃除を優先。往生院金堂跡、浄土院跡へも案内するため、効率よく回れるようにしたいですね。とにかく、やる気があるうちにやるしかない。。河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日https://youtu.be/Ikn99qGB93g?feature=shared河内・往生院と浄土院当麻曼荼羅銘文から引き続き関係性を読み解く2024年4月15日

  • 河内・浄土院・当麻曼荼羅銘文の分析

    往生院の金堂落慶法要は、遅くとも1210年までかな。。浄土院は、1230年頃になるかな、、やはり、同時というわけでは無かったかも。しかし、九條家が両方ともに関わりの深いことがわかった。更に浄土院の開山の検討にて、往生院の中興開山についても誰であったのか、かなり絞れることにはなりそうだ。重源、叡尊、忍性、慈円、信円、、信円はありえるかも。浄土院は、当麻曼荼羅を本尊としての落慶ならば、やっぱり証空が有力になるかな。しかし、当麻曼荼羅銘文は本当に有り難い。まさに情報のタイムカプセルだ。修復と修複はやはりちがうのだろう。。原文は複なのである。つまり、複写した、新しいものということであろう。原本はやはり破損したわけだ。修復不可、要は焼けるなどしたのではないだろうか。ならば、1337年の後醍醐天皇が立ち寄られたことと...河内・浄土院・当麻曼荼羅銘文の分析

  • 河内・浄土院と往生院 その関係性について 当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考える

    浄土院・当麻曼荼羅の銘文を分析することで、往生院の歴史についても解明できていけることがあるとみています。つまり、中世に往生院に建立された金堂の落慶法要の導師となった中興開山と、浄土院の開山が同じなのではないかということです。今のところ証空上人(浄土宗・西山派の祖)ではないかとみています。とにかく今後の研究がずいぶんと進みそうです。有り難いです。河内・浄土院と往生院その関係性について当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考えるhttps://youtu.be/L5cqkU3zOpQ?feature=shared河内・浄土院と往生院その関係性について当麻曼荼羅銘文から浄土院の歴史を考える

  • 河内・浄土院か? 浄土寺跡について 往生院の兄弟寺!? 当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解く

    河内・浄土院の成立年代、開山、開基を当麻曼荼羅銘文から推測してみました。限りなく往生院の兄弟寺ということかも。金堂が同時期に建てられた可能性が、、本当に不思議なことです。(そういえば、法名の阿号は時宗でしたね・・)河内・浄土院か?浄土寺跡について往生院の兄弟寺!?当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解くhttps://youtu.be/MWzfFt9mqrE?feature=shared河内・浄土院か?浄土寺跡について往生院の兄弟寺!?当麻曼荼羅銘文から浄土院の成立を読み解く

  • 奈良国立博物館にある鎌倉時代の「當麻曼荼羅」は浄土寺の本尊であったのか!?

    きた!奈良国立博物館にある鎌倉時代のこの「當麻曼荼羅」、確定的に浄土寺のだ。正式名称は、浄土院か!https://www.narahaku.go.jp/collection/v-1008-0.html鎌倉時代に壮麗な大金堂があり、この曼荼羅が阿弥陀如来の仏像、または弥陀三尊と共に本尊として祀られていたのだろう。歴史を掘り起こした!やったぞ!奈良国立博物館にある鎌倉時代の「當麻曼荼羅」は浄土寺の本尊であったのか!?

  • 河内・浄土寺跡、探索へ 大発見・再発見!

    浄土寺跡、昼から実際に探しに行ってきた。どこにあるのか・・全く見当がつかず。最初1時間、とにかく横小路墓地の南側を探すもわからず。しかし、横小路墓地には無数に古い石仏があるのにはびっくりした・・かなり古い。平安からのものもあるかも・・次に、墓地の南側を諦めて、西側を探すも畑が多く、全く手がかりなし。やはり字名のとおりに浄土谷方面であるとみて、横小路墓地の北側に入ると・・あった。発見した・・無数に散らばる中世の瓦。しかも、往生院金堂跡と同様の瓦が無数に・・いや、中には平安期のも・・すぐに往生院に匹敵する大金堂があったと推測できた・・しかし、全く歴史には何も登場していない・・不思議だ・・市の資料を探しても、まともに調査もほとんどされていない感じである・・府の史跡指定を受けた往生院金堂跡と変わらない金堂があった...河内・浄土寺跡、探索へ大発見・再発見!

  • 横小路・浄土寺跡周辺域・箕後川南側、横小路山麓付近の調査へ向けて

    浄土寺跡、その周辺域に、平安期、現在、往生院六萬寺・仏殿の阿弥陀如来坐像が祀られてあったとすれば、やはり、そこそこ大きな瓦葺きの本堂があったと推測されます。実は、本尊級の貞観仏が二躯ありますから、往生院には前身となる浄土系のお寺が、六萬寺以外に二つあったことも考えられることにはなります。となれば、平安前期の瓦が出てくるところが、必ず近くにあるはずと言えます。まずは、その第一候補の浄土寺跡とその周辺域、箕後川南側、横小路山麓付近を隈なく調査してみたいところです。箕後川ルート近辺以外は未開地に近いだけに期待はできますが…とにかく露出してあるであろう瓦が、一番の鍵になります。特に沢へと落ちてきているかもしれない瓦。探索に行かねば、、山歩きのお手伝い募集です。生駒山系の山歩き「横小路南谷連絡道」https://y...横小路・浄土寺跡周辺域・箕後川南側、横小路山麓付近の調査へ向けて

  • 往生院金堂跡 立派な庭園があった!? 2024年4月11日

    仁和寺・御室(おむろ)の親王を迎えることもあったことから、おもてなし、休息を頂くための書院か方丈が、金堂とは別にあったのではないかと推測される。ならば併設で庭園も造られてあった可能性も高くなる。往生院金堂跡立派な庭園があった!?2024年4月11日https://youtu.be/_W4_g7JG12g?feature=shared手水鉢、つくばいがあったということは、庭園、裏庭があったということでもあろう。禅文化の影響だろう。円爾禅師か、黙庵禅師によるかかと思われる。ならば古い鬼瓦は鬼門厄除けと共に庭園の飾りの役割もあったのかもしれない。庭園に鬼瓦はセットでもある。一応、希望調査範囲を出してみたが、どうなるかな、、またあとで動画も。往生院金堂跡立派な庭園があった!?2024年4月11日

  • 往生院六萬寺の歴史 補足について 2024年4月10日

    これまでの歴史考察動画の内容を踏まえて、更に補足したいことについて述べています。往生院六萬寺の歴史補足について2024年4月10日https://youtu.be/K0DON7QMXKY?feature=shared往生院六萬寺の歴史補足について2024年4月10日

  • 往生院金堂跡・再調査へ向けて 2024年4月10日

    往生院金堂跡・再調査へ向けて2024年4月10日https://youtu.be/aWOyoaP1gKY?feature=shared東大阪市文化財課による往生院金堂跡の再調査へと向けた事前見分のための北東池の境界確認、散在してある瓦等の確認往生院金堂跡・再調査へ向けて2024年4月10日

  • 新しい領解文のこと

    最近、歴史ばかりで、新しい領解文のことは辞めたのですか、諦めたのですか、と。彼岸頃にあのくだんの問題論文が全国門末に郵送配布されたと知り、マジかと呆気にとられているという感じですね、、暖簾に腕押し。詰んでいるのに投了しない、、駄目だこりゃです。新しい領解文のこと

  • 往生院六萬寺・歴史再考察・修正補足動画 4月8日・釈尊降誕会の様子 2024年4月8日

    往生院六萬寺・歴史再考察・修正補足動画4月8日・釈尊降誕会の様子2024年4月8日https://youtu.be/Cdtx_BML4qw?feature=shared往生院六萬寺・歴史再考察・修正補足動画4月8日・釈尊降誕会の様子2024年4月8日

  • 空白寺院の存在!?「河内・六萬寺→◯◯寺→往生院」本尊・阿弥陀如来仏像の由来について考える(岩瀧山 往生院六萬寺)2024年4月7日

    実は、六萬寺荒廃の跡、安助上人創建となる往生院の前に、現存の貞観仏彫刻・阿弥陀如来坐像の由来となる寺院があったと思われることと、百済留学前後における瓦づくりについて、六萬寺の考えられる伽藍様式について、など、専門家からアドバイスを頂いたことについても触れています。補足として、鎌倉期の九條家の関係での玉日姫のことと親鸞聖人りことについても。空白寺院の存在!?「河内・六萬寺→◯◯寺→往生院」本尊・阿弥陀如来仏像の由来について考える(岩瀧山往生院六萬寺)2024年4月7日https://youtu.be/5SWeAVu17lo?feature=shared空白寺院の存在!?「河内・六萬寺→◯◯寺→往生院」本尊・阿弥陀如来仏像の由来について考える(岩瀧山往生院六萬寺)2024年4月7日

  • 「河内・往生院の歴史を概観する」平安時代から江戸時代まで(岩瀧山 往生院六萬寺)

    「河内・往生院の歴史を概観する」平安時代から江戸時代まで(岩瀧山往生院六萬寺)2024年4月6日https://youtu.be/h21-2zIeuMA?feature=shared「河内・往生院の歴史を概観する」平安時代から江戸時代まで(岩瀧山往生院六萬寺)

  • 「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察する

    往生院六萬寺・歴史再調査について。動画でまとめました。「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察するhttps://youtu.be/uKoFMTehfIU?feature=shared「河内・桜井寺と六萬寺の歴史を解明する」日本最古の鬼瓦!?日本最古の寺院!?日本最古の九重塔!?往生院以前の古代史を再考察する

  • 日本最古の鬼瓦? 日本最初に作られた鬼瓦? 河内国・桜井寺(百済留学僧・善信尼入寺・589年)の全容解明へ向けて 2024年4月3日

    鬼瓦三種についての考察日本最古の鬼瓦?日本最初に作られた鬼瓦?河内国・桜井寺(百済留学僧・善信尼入寺・589年)の全容解明へ向けて2024年4月3日https://youtu.be/yftEVTxU-SQ?feature=shared日本最古の鬼瓦?日本最初に作られた鬼瓦?河内国・桜井寺(百済留学僧・善信尼入寺・589年)の全容解明へ向けて2024年4月3日

  • 桜井寺の実態解明へ向けて・古墳時代の鬼瓦

    鬼瓦、どうも三種違うと。明らかに粘土、焼きが古墳時代のものは、古墳時代に建てられた日本最古の寺院建造物にあった鬼瓦の可能性があり、つまり、六萬寺の前身、桜井寺が500年代の早い時期には建てられて、善信尼がその後に入寺したと思われるわけである。つまり、仏教伝来は550年頃ではなく、まだ古墳文化の濃い、500年すぐであった可能性が高いことになる。渡来文化流入直後、自国作の試みの最初の鬼瓦というわけである。だから埴輪などと同じ質感なのであろう。まだ、瓦の製法も伝わったかどうか、直後ぐらいなのだろう。渡来人が書いた百済にあった鬼瓦の模写を真似て作ったのではないかと思われる粗さである。その次のものは、明らかに更に年代が経ってからのもので、飛鳥白鳳〜奈良時代のものであろう。まだ作りは甘いが、粘土、焼きはかなりしっかり...桜井寺の実態解明へ向けて・古墳時代の鬼瓦

  • 日本最古の鬼瓦、日本最初に作られた鬼瓦の可能性あり

    このような鬼瓦は過去出土の前例がなく、古墳〜飛鳥時代の可能性もあると。500年代、つまり、日本に仏教が伝わった初期の頃の寺院建造物に使われた可能性があるということになる。つまり、六萬寺の前身、桜井寺のもの、日本初の尼僧として百済から帰国した留学僧、善信尼が入寺した(589年)とされる桜井寺のものである可能性が出てきたわけである。今の六万寺一帯は、飛鳥時代、もともとは河内三郷の一つ桜井郷と称されていた。そこにあったとされる桜井寺が六萬寺の前身と伝わっていたわけであるが、そのお寺のものならば、日本初期も初期の寺院建造物の、最初期、最古の鬼瓦かもしれないのである。どうりで粘土質感、焼き感、作り感が、土器や埴輪などと同じで古墳時代なわけである。この鬼瓦は、596年に建立された飛鳥寺よりも、もっと古い、550年以前...日本最古の鬼瓦、日本最初に作られた鬼瓦の可能性あり

  • 奈良時代創建「六萬寺」(聖武天皇勅願・行基菩薩開基・本尊薬師如来) 六萬寺、九重堂・塔の存在について

    六萬寺・九重塔についての考察奈良時代創建「六萬寺」(聖武天皇勅願・行基菩薩開基・本尊薬師如来)六萬寺、九重堂・塔の存在について2024年4月2日https://youtu.be/7sUycV0n4A0?feature=shared奈良時代創建「六萬寺」(聖武天皇勅願・行基菩薩開基・本尊薬師如来)六萬寺、九重堂・塔の存在について

  • 六萬寺の九重堂(九重塔)・日本最古の木造建築の九重塔と推測している

    拙推測では、小字の院堂が、往生院金堂跡のことであり、九重堂(あるいは九重塔)は、奈良時代〜平安時代にあった六萬寺の寺院建造物であったと思うのである。九重堂は、奈良時代〜平安時代に建てられた日本最古の木造建築の九重塔であったのではないかと推測している。京都、法勝寺にあったとされる八角九重塔よりも古いと見ている。日本で九重塔は、法勝寺と百済大寺にしかあったとされていないが、六萬寺にもあったというのが拙説である。それを裏付けるように奈良時代、平安時代の瓦が出てきてあることが、昨日にも確認できた。奈良時代、瓦葺きでの九重塔、それも50メートルを超える塔があったと考えるのである。塔から眺める景色がどれほどに美しかったであろうか。日本最古の九重塔。史実証明していきたいところであります。六萬寺の九重堂(九重塔)・日本最古の木造建築の九重塔と推測している

  • 往生院金堂跡再調査、往生院所有地北東池の南側で、鎌倉期のキリーク丸瓦二種を発見

    エイプリルフールネタではなく、午前中に行った往生院金堂跡再調査、往生院所有地北東池の南側で、鎌倉期のキリーク丸瓦二種を発見。最初のものは一回り小さく、山門か別棟のものと思われる。二つ目に出たものは金堂のものと推測される。いずれにしても、山門か別棟があったことが明らかになったのは新発見である。息子は完璧な灯明皿を発見した。その他、平安期の瓦と思わしきものや、土師器や甕などの破片も数点回収。これからすぐに洗って分析に入ります。歴史的発見!洗いましたら、完全なるキリーク梵字が浮かび上がりました。一つは金堂、もう一つは一回り小さくて山門か中門の軒丸瓦と推測されます。一回り小さいのは新発見となります。また、調べてみたら今までにない瓦の種類もあり、鎌倉期以前のものであれば、平安時代から瓦葺きの建物があった可能性もかな...往生院金堂跡再調査、往生院所有地北東池の南側で、鎌倉期のキリーク丸瓦二種を発見

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