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  • 法炬の円相について

    最近の葬儀は、(小さな・・など)広くない会場で喪家・会葬者と近い位置で勤めることもあるため、作法をそばで見られることも多くなっています。松明を投げる(法炬放擲)前に、松明を回して円を描いた後、真ん中で何か書いているようですが、何を書いているのですかと聞かれることも。拙生の場合は、一字梵字を空中に書いています。それは本尊に合わせる種子としています。阿弥陀如来であれば、「キリーク」、釈迦如来であれば、「バク」となります。あるいは、「ア」(大日如来・胎蔵界)でも良いかとも。法炬二本となったため、下炬と引導の場合とで種子を分けても良いかもしれませんね。下炬を「ア」(火天の種子でもある)として、引導を本尊の種子として。法炬の円相について

  • 葬儀における散華と法炬について

    葬儀における散華と法炬について葬儀における奉請の際に、梵字や仏名の無い華葩を散華し、それとは別に、棺に血脈・引導法語と共にお棺の上にお供え、納棺する華葩には、梵字や仏名を書いたものを調えて(通夜の奉請にて薫じてお供え)、葬儀奉請における散華の華葩は、私や会葬者、スタッフに納棺頂くということとして、たいまつは、一本目を秉炬佛事の下炬(法炬放擲)として、二本目は、引導法語後の引導(法炬放擲)として、一本目は火葬の聖火、二本目を黄檗度母引導故事由来として修めることにしてみようと思います。葬儀における散華と法炬について

  • お通夜・お葬儀について(新版)(往生院六萬寺)

    お通夜・お葬儀について(新版)(往生院六萬寺)往生院六萬寺にお葬儀をご依頼される場合は、下記をご参考になさって下さいませ。【基本儀軌・作法】授戒・引導法式【通夜・授戒】三帰戒・五戒・三聚浄戒・十重禁戒・戒名(法号)授与【葬儀・引導】秉炬佛事下炬(法炬)引導法語引導(法炬)【お布施】25万円(枕経・通夜法要・葬儀法要・安骨(還骨)法要・初七日忌法要まで)(約30年以上前から、お布施の額は一定25万円にて変わりございません)(※任意お車料・お膳料2~3万円※市外の場合、お車代2万円)※枕経・通夜式・葬儀式への往復をタクシーで伺うこともあります。その場合は、タクシー代相当のお車料を頂戴することがございます。※戒名料(法名料)は基本的にはお布施に含まれますが、任意ご厚志として別にてお包み頂く分は大変に有り難くに存...お通夜・お葬儀について(新版)(往生院六萬寺)

  • 葬儀における法炬・松明(たいまつ)について

    法炬(たいまつ)前に考察したように、火葬と引導の二本として、今までは一本のみで毎回葬儀社さんに借りていたが、二本まではやはり借りにくい(投げるし)、、これからは自作二本を持参致すことにします。併せて、剃刀も毎回借りていたのだが、この前に借りたものが、あまりにもお粗末な使い捨てのヒドい剃刀で、これはあかん、、と思い、本堂にあった本物の大きな剃刀を錆を落とし使えるようにして、装飾を施した。法炬(たいまつ)二本についての前のポストとはこれですね。・・昔の葬儀における引導は、火葬場の龕前堂にて行われていたのであろう。入龕念誦、龕前念誦、鎖龕念誦、起龕念誦、山頭念誦→葬列、龕前堂へと移動→法語、引導(法炬投下)→下炬(火葬)が、本来の正式な流れであったのだろう。山頭念誦はまさに別れの表白であるから、出棺の贐となるわ...葬儀における法炬・松明(たいまつ)について

  • 葬儀における散華について

    葬儀において、もう一つ気になっていたのが、散華。奉請の際に、天台宗や真宗では散華がある。真宗では基本、あまりされていない感じでもあるが。。ただ、いつも授戒願文の次の奉請にて散華してもと考えていた。ご来迎をお迎え致す意味でもである。しかし、問題は落ちたものが、お別れの際に踏まれないかである。希望は拾ってもらっておいて、納棺して頂くのがベストかもしれないが、スタッフに頼まなければ、私がちゃんとせねばならない。そのあたりがどうしたものかと気になる。納棺するならば、棺の上にそっと置くのでも良いのかもしれないが、、葬儀における散華について

  • 令和6年春彼岸法要 法話「法然聖人 親鸞聖人 御影坐像 ご紹介」・「往生について」

    令和6年春彼岸法要法話1冒頭「法然聖人親鸞聖人御影坐像ご紹介」https://youtu.be/4biDOLY4xUs?feature=shared令和6年春彼岸法要法話2「往生について」https://youtu.be/9cv1Aug7-Sk?feature=shared※フリップの内容はこちらで詳しくご覧頂けます。https://fb.watch/qZ0I_4X6kL/?令和6年3月・春彼岸施餓鬼法要配布資料「往生・引導・灌頂について」http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92486211.html令和6年春彼岸法要法話「法然聖人親鸞聖人御影坐像ご紹介」・「往生について」

  • 法然聖人三日月の御影について

    法然聖人の坐像とは別となる三日月の御影については、鎌倉時代の藤原隆信か、藤原信実によるものではないかとして、文化財課による鑑定待ち(いつになるか分からないが)であり、別に厳重保管対象としている。もしかするとオリジナルの三日月の御影かもしれない。藤原隆信は、歌人、画家で法然聖人の下で出家している。藤原北流であり、もちろん、九条家、九条兼実とも交流は深い。また、その子の信実は、似絵の家元でもある。隆信か信実によるものを九条兼実か九条道家が、往生院に下賜したものであろうと思われるのである。伝説の法然上人御影https://archives.bukkyo-u.ac.jp/.../MK/0003/MK00034R007.pdf法然聖人三日月の御影について

  • 念仏門の変遷

    平安時代、安助上人が、晩年、往生院にて修されていたのは日想観、五念門であったことが、拾遺往生伝に記されてありますが、四天王寺在中時代には、観無量寿経に基づいた阿弥陀講、往生講の講師として講式を修されていたことが分かります。平安期の浄土教は、観想中心の念仏行であったわけですが、法華験記、拾遺往生伝、後拾遺往生伝、二十五三昧会などにおける行法を詳しく見てみると、天台法華、台密、東密による真言行が圧倒的にその中心となっていたことが窺えるのであります。念仏門は、観想念仏から、密教念仏、そして、称名念仏と多様な変遷を経るわけです。往生院金堂跡からは、梵字キリークの瓦が出土しており、密教的な浄土教も奉じていた可能性が高いと推測できます。観想念仏と密教念仏が融合したあり方であったと思われ、どのような勤行、修法が日々営ま...念仏門の変遷

  • 福徳・功徳の資糧集積のあり方について

    功徳行、報恩行、助正業として、ボランティアや奉仕活動、慈善事業、寄附事業を勧めるのは、浄土真宗的にも、また、仏教的にも、誰もが平等にできるような実践ではないということもあるのだが、あまり良い功徳行、報恩行、助正業というわけでもないのである。もちろん、社会、国、世界では奨励されていることではあるため、個人の意思で行う分には当然に構わないことではあるが、結局は、人間ご都合主義、人間第一主義のいわゆる優生思想、差別思想を内包してあることがあるため、仏教の全ての衆生を助ける、救うというための平等の慈悲によっての行いにはなりにくく、それどころか、自己満足や欺瞞に陥り、自分では良いことをしたつもりではあるものの、それが功徳にもならずに、逆に業を汚す行いとなり得ることにも注意が必要になるのであります。(例えば、(人間社...福徳・功徳の資糧集積のあり方について

  • 親鸞思想の浄土論、往生論、成仏論と仏性論

    親鸞思想の浄土論、往生論、成仏論が、通仏教とは全く異なる性質、論理であることを理解していないために、助正論や報恩行、功徳行などの必要性についての議論がいつまでも起こるわけであります。時流や社会、世界の潮流に合わせてとか、色々と理由をグダグダと述べ立てても、それは、理由、根拠には全くならないのであります。冒涜とまではならなくても、宗祖の思想、教義への疑義を呈していることになるわけであります。仏性論については、そもそも悟りへと向けた自力的あり方の根拠となる仏性の存在は否定されるものであり、あくまでも成仏は、法性法身阿弥陀如来との一如、一味において成されるものであるため、自分の側における仏性があるのかないのかは、一切関係がないことで、仏性論は、否定的な無記に近い立場となるのであります。もちろん、輪廻にあり、煩悩...親鸞思想の浄土論、往生論、成仏論と仏性論

  • 石泉学派の弘願助正についての補足

    石泉学派の弘願助正については、随分と前にも考察しているが、称名以外の五念門を往生への助正業と成すのを、その基本としつつ、五念門以外に、報恩行の活動も、その助正業に含めるのか否かが問われてくるところになるわけであります。つまり、通仏教の功徳行とその性質が同じとなるわけで、もちろん、往生へ向けては善根功徳は欠かせないものであるため、功徳+称名念仏は、往生の基本要素であるわけです。門主が勧めようとしているのは、要は浄土真宗も、通仏教に準じて、名号+功徳でいきましょう、というわけです。但し、功徳+称名念仏による「往生」と、浄土真宗の「往生」とは、そもそも同じではなく、中身も性質も異なるものであります。そのため、同じように、功徳+称名念仏では、浄土真宗の「往生」の要件にはならないのであります。流れ的には、浄土往生→...石泉学派の弘願助正についての補足

  • 3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要

    事前申し込みの彼岸施餓鬼塔婆もほぼ書き終えて、諸々の準備も整ったが、配布資料はもう少し精査したかった、、「往生・引導・灌頂について」令和6年3月・春彼岸施餓鬼法要配布資料http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92486211.html結局、法話も日和ってしまい当たり障りのない「往生について」に。称名念仏+功徳は、やはり往生の基本になると落ち着くかな。3/20は、夕方に日想観極楽誓願法要。晴れとなり日没を拝せれると有り難いですね。3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/92167878.html3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要

  • 池田総長辞意表明 総長選挙 新総長就任

    池田総長辞意表明総長選挙新総長就任https://note.com/ryouge/n/n65a446a99544結局、騒動、混乱を収束させるどころか、騒動、混乱を助長しているのが門主であることが、前回今回と続いての総長候補指名からも明らかに窺えるところとなった。白票が一番の得票とは、、指名する人選も不可解極まりなく、教義センスだけでなく、政治センスも疑われて仕方がないだろう…門主として適任にあらずはもう明らかながら、辞めさせられないのは門末においては誠に悲劇的なことであるだろう、、少し淡い期待を抱いたが無駄であった。池田総長辞意表明総長選挙新総長就任

  • 尼僧を強姦し14年間監禁・性加害…住職に蛮行を促し尼僧を「ロボット玩具」にした80代"生き仏"の地獄の所業

    千日回峰行を成満した者であっても、傲慢、高慢な鬼畜へと成り下がってしまった、ということなのであろう・・成満後も常不軽菩薩行の実践者であるべきはずが、周りが不動明王の化身だなんだと神格化するなどして崇め奉りすぎなのも問題であるのだろう・・とにかく、千日回峰行では当人が煩悩障さえもほとんど対治できなかったということで、被害者へのしかるべき補償と共に、当該加害者二人には相当な処分と、一から修行をやり直させるのが、天台宗、宗門としての役割となるであろう・・まあ、個人的には千日回峰行はあまり仏教の修行としては良くないとも考えている。山を走り廻ると、どうしてもたくさんの虫などの生き物を踏み殺すことになってしまい、殺生を避けれないからだ。だからあまりお勧めできる修行ではそもそもない。尼僧を強姦し14年間監禁・性加害…住...尼僧を強姦し14年間監禁・性加害…住職に蛮行を促し尼僧を「ロボット玩具」にした80代"生き仏"の地獄の所業

  • 新旧領解文をどのように見直せばよいのか

    門主は、石泉学派が好みであり、念仏者には、通仏教の功徳行、善徳行もやはり必要だとの感覚は、もちろん十分に理解できるのであります。功徳行、善徳行を、雑修、雑行、自力だと一切否定する側が問題だと思うのも、まあ、普通であればそう思うわけでもあります。仏教、世間一般の感覚から見ても。仏教の基本的なあり方、基礎となる土台を無視して、「他力」、「信心」一辺倒により過ぎたのも、そうだとも思うのである。そのあり方を見直すべくに「報恩」、「報謝」としての功徳行、善徳行を勧めるとの方向性へとなり、それをより明確化していきたい、修正したいとの門主の意思も窺えるわけですが、何分にもそれを任せた者が、あまりにも無知であったのが大誤算であったと思うのであります。仏教も浄土真宗も、まあ分かっていないというお粗末さと、功名心による高慢さ...新旧領解文をどのように見直せばよいのか

  • 浄土真宗の「信心」の内実について

    このリンクのポストに絡めて、https://www.facebook.com/share/p/k14tNEccrJ5JJKS2/親鸞聖人以降の者たちにおいて「信心」の内実が甘く見積もられてしまうようになった弊害なのでしょうかね、と。本願寺派の方ではありませんが。まあ、そうなのだとは思います。それが◯◯上人や誰彼のせいだともおっしゃる方もあるわけですが、これまで、親鸞聖人の浄土論、往生論、成仏論の特異性を理解した上から「信心」の内実について深く検討してこなかった可能性が高いのではないかとも思うのであります。本来、成仏に必要となる膨大な智慧資糧と福徳資糧の代替が、浄土真宗においては「信心」決定一つに集約されることになるわけですが、その根拠が、新旧領解文を理解する程度、唱和、解説を聴く程度で済むとするならば、ま...浄土真宗の「信心」の内実について

  • 「七支供養」(七支清浄行)について

    「帰依・懺悔(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」は、チベット仏教ではどのようになるのかと申せば、要は「七支供養」(七支清浄行)として調えることになるわけであります。それは、華厳経における普賢行願讃の内容であり、「帰依、礼拝、懺悔、供養、随喜、勧請、廻向」として調えられるもので、「勧請を発菩提心、あるいは菩提心の保持」とする場合もありますが、この七つの供養を行うことによって、福徳資糧となる功徳も積むことができることになるのであります。ですから、七支供養を勤めて、日常においては、五戒、もしくは十善戒に努めること、これが往生、引導を頂くためにおいても、必要最低限の条件であると言い得るわけでもあります。七支供養は、1分~2分ほどあればできるお勤めです。もちろん、難行苦行などではなく、誰もが簡単にできる供養、功徳であ...「七支供養」(七支清浄行)について

  • 二十五三昧会の現代版へ向けて

    改めて考えてみると、寂しいことではあるが、日本では悟りへと至るためとしての仏教ではなくなりつつあると共に、往生、引導のためとしての仏教でもなくなりつつあるのかも…と。そもそも、悟れるとは思ってはいなくても、往生できる、引導されるとも、ほとんどの方は本気で思っていないのが現実なのではないだろうか、、そのため、形骸化が著しくなり、僧俗ともに仏教と向き合う敬虔さ、真摯さも失われつつあるのだと言えるわけでもあります。それは、本来、仏教徒、檀信徒において大切な仏教修養となる布薩、ハ斎や講などの集まりがなくなっているということも関係があるのでしょう。お寺でイベントを行うのは良いのだが、檀信徒となってもらい、布薩や講などの仏道修養へと繋がらないのであれば、そのあり方を考えなければならないということでもあります。拙生とし...二十五三昧会の現代版へ向けて

  • 「往生・引導・灌頂について」令和6年3月・お盆施餓鬼法要 配布資料

    春彼岸の配布資料を一気に書いたが、当初予定していた題「浄土門について」ではなく、「往生・引導・灌頂について」となってしまった。先に考えていた法話の内容とはまた違ってきてしまい、途中で、普通に一般的に考えられている「自力、他力」、「難行、易行」の定義とは、異なる見解となってしまったからである。まあ、これも一つの考察かと、自分に納得させて。。とにかく彼岸近しである、、岩瀧山往生院六萬寺令和6年3月・お盆施餓鬼法要配布資料「往生・引導・灌頂について」最近、個人的に、西本願寺・本願寺派の「新しい領解文(りょうげもん)」問題について考察することが多くあったことから、従来より進めていた浄土真宗の教義についての考究がよりいっそうに進むとともに、日本における初期の浄土教、平安時代の往生院における日想観(じっそうかん)を中...「往生・引導・灌頂について」令和6年3月・お盆施餓鬼法要配布資料

  • 信心獲得、信心決定の内実について

    これは・・従来の領解文もそうだが、改悔批判で唱和させて、与奪者が解説を行い、正しい領解を確認するということの根拠、論拠が、新旧ともに疑わしいものであると宣言してしまっているようなことではないだろうか。領解の精査は、直結して信心獲得、信心決定の内実の精査へと向かうものでもあり、教義における根本中枢、核心を扱うものである。それがいい加減なもの(新しい領解文はもちろん論外ではあるが)を根拠、論拠としていたとなれば、とんでもないことである。もしも、従来の領解文に問題があるから、新しい領解文が必要となったとしての制定動機であったのであれば、信心の核心を扱い、教義の中枢となるものになるのであるのだから、議論を重ねた上でより慎重かつ丁寧に進めるべきであっただろう。それが、仏教としても、浄土真宗としても間違いだらけのもの...信心獲得、信心決定の内実について

  • 拙浄土門考と浄土真宗について比較検討していくのであれば

    次に、拙考と浄土真宗について比較検討していくのであれば、阿弥陀佛による名号の利益・功徳による救いの範囲をひとまずは往生(見仏・授記を含む)までとするのか、それとも一気に悟り・成仏までとするのか、つまり、悟りへの指向・方向性の明示とするのか、即座に完結までとするのか、この点も、法性法身(真実浄土)を往生先として想定するのかどうかと併せて考えていかないといけないことになります。そして、「信心」獲得・決定の内実の検討であります。法性法身(真実浄土)への往生並びに成仏(二種法身円満)へ向けた「名号」の利益功徳の力へのアプローチのあり方について、例えば、三帰依や善行・功徳等の条件、必要性の検討となります。更には、「名号」の利益功徳の力以外に、一切、何も頼りとしない、頼まない、必要としないあり方を、往生についてと捉え...拙浄土門考と浄土真宗について比較検討していくのであれば

  • 「浄土門」についての一考

    浄土宗や浄土真宗の教義とは別に、貴兄が考える「浄土門」とはどのようなものかと問われていたことについて、春彼岸の法話として、改めてまとめてみることにした。基本的に、浄土門の教えとは、極楽往生を目指すもので、往生により、阿弥陀佛との見仏、阿弥陀佛からの授記を頂くことで、浄土での修習によって悟りに至れる(成仏できる)ように調えるためのものと考えるのであります。その往生先については、報身報土だけではなく、応身応土など、見仏身、浄土地にも、往生者に応じての相違があると考えています。ただ、往生先を阿弥陀佛の(法性)法身、法身そのものを含めるかとなれば、それは想定していません。(名号の利益功徳に即座の成仏までを含めるのかどうかもまだ保留としておきます。)また、極楽の報土にせよ、応土にせよ、極楽の六道(地獄もあり)にせよ...「浄土門」についての一考

  • 往生院金堂跡での発見物について

    今回の五輪塔の一部だけではなく、これまでに、往生院金堂跡のお寺所有の池付近からのものも併せて、私が発見したものは結構ある。キリークの大きな丸瓦、鬼瓦、南側沢にあった鎌倉期の土管もそうである。本格的な発掘調査ができれば、五輪塔や石仏の一部なども含めて、もっともっと色々なものが見付かるのであろうが、市文化財課が動いてくれないと、当然に難しい…とにかく試掘でも良いのだが、、そういえば昨年に調査官調査の親鸞聖人自作坐像もまだ途中である。法然聖人三日月の御影も含めて、まだ幾つも調査依頼をしているのに…行政を待っていては時間だけが無駄に過ぎていきかねない。やはり、合間合間に私が調査研究していかねばなるまい、、あと、岩瀧山の中腹から上にあったと思われる建物の調査もあれから一向に進んでいない。山の探索もまたやらねば…往生院金堂跡での発見物について

  • 西本願寺・本願寺派の第323回定期宗会での門主開会挨拶の内容について

    門主の挨拶に「新しい領解文」についての直接的な言及はなく、信心の社会性の体現(社会活動やボランティア活動)へ向けた意思表示もややトーンダウンしたように思える。(もちろん、混乱、騒動の責任を取って退任する気はなさそうである。)そもそも社会活動やボランティア活動、寄附行為などは、彌陀本願に適うものではない。当然に誰もができる実践ではないからだ。余裕のある者、お金のある者、能力のある者にしかできないことを勧めるのは、彌陀がお垂れになられた平等の慈悲に添うものではないのである。浄土門においてそういったことを勧めるのは、自力云々以前に、本来、あまり良くないことになる。とにかく押し寄せてある反対の声に、門主も配慮せざるを得なくなったのは確かなのであろう。補足・・釈尊も、無理強いするような功徳のあり方を言われたわけでは...西本願寺・本願寺派の第323回定期宗会での門主開会挨拶の内容について

  • 新しい御守札「厄除招福」

    コロナ禍が終わり、疫病退散の御守はお役目御免となり、もう置いていませんが、ありますか?と聞かれる方がまだあるため、観音さんのとは別で、新しく「厄除招福」でお作りし、また、大きさ、フィルムケースも変えてみることに。基本的には1年毎に変えるとかではないのですが、変えたいという方も多いみたいですね。結構頼りにされているため、切らさないように気をつけたいものです。またしっかりと日を見てお勤めをしたいと思います。改めて考えてみると祈祷祈願の際にも必ず楞厳呪を読誦しますね。白傘蓋仏母尊の護法力のお加持を頂戴致すということになるわけです。そういえば、下の山号と寺名、逆に読まれる方がたまにいるようで、「じ、まん、ろく、」って何ですか?と聞かれたことがある…若い方は、西洋の書き出ししか知らないことがあり、仕方がないのかもし...新しい御守札「厄除招福」

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