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  • 「新しい領解文」は、約仏の観点からも当然に間違いである

    仏教における悟りは空性了解が、本来、重要なものとなるが、浄土真宗では、空性了解より信心領解が重要となる。この違いは目的の相違による。その違いは、悟りを目的とするのか、彌陀摂取を目的とするのか、である。浄土真宗では、彌陀摂取により彌陀と一如、一味となることで、如来と同等の二種(法性・方便)法身を得れるとするため、空性の了解へと向けた智慧の開発、空性了解による法身の獲得、また、衆生済度へ向けた福徳、功徳の集積、円満なる福徳による色身の獲得を必要とは考えないのである。この両者にまたがる目的の隔たりを理解しないと、浄土真宗を理解することは難しいのであります。浄土真宗は、彌陀摂取により、凡夫のままにて救われ、凡夫のままにて二種法身を得れて成仏できると考えることになるわけです。約仏とはこの観点となります。では、輪廻の...「新しい領解文」は、約仏の観点からも当然に間違いである

  • 往生院金堂跡 再調査 五輪塔の一部をまた発見か!?

    岩瀧不動尊お参り後、今日は日が良いと思い、一ヶ月ぶりに往生院金堂跡の再調査へ。前回、五輪塔の一部を発見し、現地供養後に現在の往生院歴代尊位の墓所へとお祀りしましたが、更に気になることもあり、金堂跡南側斜面を調査したところ、五輪塔の一部か、石仏の台座と思わしき石を発見しました。周囲にある山の石とは明らかに質が違い、重く、また人工的に切り取られてあると思われるため、寺院関係のお墓石か石仏の台座とほぼ断定して間違いがないでしょう。更に再調査して参ります。これも、第5世であるとおっしゃられてお出ましなさられた浄興さんのお導きでしょうか。。やはり、前回に持ち帰った五輪塔の一部と同じ石質でした。形状的には石仏の台座の可能性が高いかもしれません。いずれにしても往生院歴代尊位の場所にてお祀りして御供養致します。更に調査を...往生院金堂跡再調査五輪塔の一部をまた発見か!?

  • AIとのhasunoha問答対比シリーズ・7

    AIとのhasunoha問答対比シリーズ・7「解脱」についてだが、AIの回答には少々がっかりした。まあ、「輪廻」=「迷い・苦しみ」という捉え方は間違ってはいないが、「解脱を得ることによって、人は無限の慈悲と智慧を身につけ」というのは間違いである。智慧と慈悲(功徳)の力により、解脱を得て、そして、それから更に修行の段階を進めて円満なる悟りへと向かうことになるのである。AI、まだこの程度の回答なのかと、ガッカリである。問い「解脱とは何ですか」https://hasunoha.jp/ai/q/bbe598e8e194ce20AIによる回答相談してくださり、ありがとうございます。心の底から出てくる疑問に向き合われていること、心から尊重いたします。仏教で説かれる「解脱」とは、苦しみや迷いから自由になることを指します...AIとのhasunoha問答対比シリーズ・7

  • 安土問答についての再考

    安土問答を更に考えてみたが、では、日蓮宗側はどう答えたら良かったのだろうか。貞安云ふ四十余年の法門を以て、爾前を捨て、方座第四の「妙」の一字は捨つるか、捨てざるか。法華云ふ四十余年四妙之中には何ぞや。(40年余の説法の何処にある妙か?)貞安云ふ法華の妙よ。汝知らざるか。(此の返答、之無く閉口す)貞安亦云ふ捨つるか、捨てざるか。(尋ねし処に無言す)当時の教判は、天台宗におけるものがベースになっているわけであるが、法華の妙は、円妙として、方便には含まれない判定にあったはずである。方座第四の妙が、法華の妙だと言われたら、「法華の妙は、方座の妙にあらず、円教の妙である」と答えて、「捨てるにあらず」としていれば、問答はまだ続いていたと思われるのである。法華玄義、法華玄義釈から、「法華の妙は、円教の中でも純円の妙であ...安土問答についての再考

  • 「安土問答」について

    信長の話題から、「安土問答」について聞かれていることがあるが、正直、あまり詳しくには把握していない。教判に関わることの議論がされたが、問答にもならないことで集結した、という認識である。要は、何が方便で、何が真理かということについて、方便の妙に関してのやり取りで、法華側が切り返せずに沈黙したことで、負けと判定された、というものではなかっただろうか。Wikipediaで内容を読み返したのだが、イマイチよくのみこめない、、方便の妙には法華の妙もあるから、それは(真理へ向けて)捨てるべきであるのかどうか、と聞いたのだろうか?ならば、法華の妙は、法華宗においては、教判において最高真理にあたるわけなのだから、捨てられるわけなどない。当然に方便ではないとの認識であるのだから。では、法華の妙が方便だと、どの経典のどこに書...「安土問答」について

  • 川口家と美作後南朝の繋がりについて

    室町時代、臨済宗(相国寺派)の盂蘭盆会ではこんなにたくさんのお経、陀羅尼が読誦されていたのか、、現在のように開甘露門が無いということは、施餓鬼会とはまた少し性質を異にしていたものになっていたということでもあるのだろう。相国寺は、足利義満の菩提寺であるが、南禅寺や東福寺を別格として、足利幕府の庇護を受けた京都五山、鎌倉五山を中心とした臨済宗系が北朝系とするならば、曹洞宗、総持寺が南朝系として、それぞれに教線を拡大していったとも言えるのかもしれない。もちろん、臨済宗でも末寺の数が全国的に圧倒的に多い妙心寺派について考えてみる必要がある。妙心寺派の寺院は室町期の守護代系の武家が開基している寺院が相当に多い印象である。ならばやはり北朝系となる感じかも。今のところ、河内の楠木家子孫における浄土真宗寺院の展開を以前に...川口家と美作後南朝の繋がりについて

  • 楞厳呪・八句陀羅尼の期待効果について

    楞厳呪の第五会のみを地鎮、撥遣、また、八句陀羅尼を各祈祷等において読誦する場合がありますが、仏頂百傘蓋尊は、仏母・女尊で、護法、守護の力が強大とされており、障りを除いてくれる者として、特に八句陀羅尼を含む第五会が仏頂百傘蓋尊の主要陀羅尼であり、やはり、障りを除く効果、加持を期待して、となるのではないだろうか。当然に災いを防ぐ祈願となる陀羅尼である消災呪との併用も目立つのである。更に、楞厳呪は反呪詛、つまり、呪詛返しの力が強いともされているため、より守護の意味合いでも重用されたのでもあるのでしょう。そう言えば観音経にも呪詛返しの文言がありますね。また、禅宗で楞厳呪と共に特に読誦するお経は、大悲心陀羅尼(大悲呪)である。観音菩薩の守護、加持を頂くための陀羅尼となるが、楞厳呪ほどの強烈な文言はなく、どちらかと言...楞厳呪・八句陀羅尼の期待効果について

  • 首楞厳三昧経と楞厳経について

    首楞厳三昧経と楞厳経とは別物です。楞厳経は、正式には大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経となります。首楞厳三昧経は、首楞厳三昧についての内容を説くものであります。楞厳経が、禅定の完成へ向けた功徳を説く一方で、首楞厳三昧経は、首楞厳三昧そのもの自体とはどのようなものであるのかを説いているだけなのである。つまり、首楞厳三昧へ至るためにどうするべきであるのかの中身、内容について具体的なものは乏しく、十地の菩薩でしか成し得ない三昧であるとして、要は修行者向けの実践解説ではないということが言えるのであります。そのため、禅宗ではあまり重視されるものとはならず、禅定の完成へ向けて役立つとされた楞厳経の方が重用されることになったわけです。ちなみに、楞厳経は、チベットには仏頂大百傘蓋陀羅尼経として伝わっており、楞厳経の...首楞厳三昧経と楞厳経について

  • 浄土真宗と曹洞宗と三昧について

    海、舟の喩えが多用されるのは、海印三昧、般舟三昧など、初期浄土教経典にもやはり由来しているのであろう。大智度論にも多い。三昧、念仏→往生、見仏という三昧行、念仏行のあり方を、念仏→法性(仏性)往生としたのが、親鸞聖人であると言える。ならば、道元禅師の坐禅→見仏、坐禅→仏性とも、要は似通った論理とも言える。もちろん、他力と自力での歴然とした差はあるが、、法友の愁いにそんなことを考えた朝である。生死の苦海ほとりなしひさしくしづめるわれらをば弥陀弘誓のふねのみぞのせてかならずわたしける浄土真宗と曹洞宗と三昧について

  • 禅宗と法華懺法と三昧行について

    禅宗と法華懺法が結びつかないと思われがちだが、常行三昧行は、天台摩訶止観に由来し、三昧行の狙いは、見仏(→授記)にあります。念仏三昧行も見仏(→授記)を目的とするわけである。つまり、三昧行は、止観、禅定の完成へ向けた行であると共に、見仏、実質的には、往生へ向かうための補完と言えるわけであります。法華懺法が彌陀念仏とセットになるのも、やはり見仏、往生のためとなります。臨済宗が、浄土教と近接した関係となり、在家葬送において引導を極楽とするのも、この台密の法華懺法の影響が考えられるわけであります。しかし、一方で、臨済宗は見性、つまり、如来蔵の見性を目的とする己事究明に止観の主眼を置くのでもあります。要は、止観、禅定は、見仏を自分自身の如来蔵へと向けて行うと言い得るものとなり、阿弥陀如来や弥勒菩薩、他の如来、菩薩...禅宗と法華懺法と三昧行について

  • 栄西禅師が定めた日常勤行について

    栄西禅師が定めた日常勤行にて早い段階から建仁寺では、南宋の禅林と同様に、朝課、楞厳呪・回向昼課、楞厳呪・回向晩課、安楽行・法華三昧・極楽誓願真言・止観の修学坐禅、寅申巳亥(午前3時~5時、午前9時~11時、午後3時~5時、午後21時~23時)と定め置かれている。晩課の内容が少し不明だが、天台・延暦寺で行われていた法華懺法・弥陀念仏が想定される。今の臨済宗では、法華懺法の名残は全くない。法華経となれば、毎日、観音経を読誦するぐらいである。真言を修学の対象としていたのは驚きである。もちろん、今の臨済宗では僧堂において真言、梵字、密教を学ぶことはまずない。止観については、天台摩訶止観を学んでいた可能性が高いが、これも今の臨済宗ではまず学ぶことはない。現在の僧堂で「学ぶ」こととなれば、各法事の作法、所作はもちろん...栄西禅師が定めた日常勤行について

  • 葬儀における献茶・献湯について

    この前、市外での公益社さんの会館で葬儀導師をお勤めさせて頂いた際に、他の葬儀社では最近、霊前へのお供えで見られなかった献茶、献湯がきっちりとあった。入龕、龕前、鎖龕、起龕、山頭に次いで、本来であれば、献茶、献湯を行って、秉炬佛事に入る。一般葬送において、葬儀会館では、献茶、献湯は役僧不足や準備の関係からも省略されることが大半であり、拙生もそうである。また、事前に会館への指示で、葬儀式では、霊前に献茶、献湯をお供えしておいてほしいということも今までは無かったのである。本来は別れの贐のため重要なものであるだけに、公益社さんの配慮を見て、改めて考えさせられることになった。恐らくは、定型のお供えとなっているのか、昔に導師からの指示で、それが通例となったのではないかと思われるのである。やはり、老舗の経験による差が出...葬儀における献茶・献湯について

  • 総持寺(能登・祖院)と加賀藩・前田家と南朝について

    総持寺を庇護した加賀藩、前田家は、もちろん、南朝である。そのため、南朝勅願所である総持寺を厚く庇護するのは当然であったわけなのである。前田家は、菅原道真を祖とする美作菅一族の出自であり、美作菅党は、後醍醐帝に従った一族で、室町時代、山名教清によって美作に入ることになった小倉宮良泰の子、尊義親王、尊秀親王に仕えることにもなり、以後、美作後南朝を支えることになるのである。その菅党から、やがて尾張へと移り、織田信長の家臣となったのが、前田利家である。前田利家は、豊臣政権の五大老にあり、当然に、利家の子、利長は、豊臣秀頼の後見と目されていたものの、利家の死後は徳川家康に協力することになり、関ヶ原の戦いでは、当然に南朝勢力である東軍に味方することになるのである。また、利長の次に藩主となった利常が、家光に警戒された背...総持寺(能登・祖院)と加賀藩・前田家と南朝について

  • 臨済宗と曹洞宗における台密・密教の影響について

    初期臨済宗で楞厳呪がどのように誦されていたのかを調べてみたが、最後の偈頌、八句陀羅尼は見当たるが、全会が読誦されていたかどうかは今のところまだ分からない。結局、修法の中心は、やはり台密法式である。つまり、台密に禅を中心と置くか、禅に台密を補完するか、であって、栄西禅師の台密葉上流(建仁寺流)、栄朝流が、初期臨済宗では主流であったようだ。九条道家開基、円爾禅師により臨済宗に改宗した往生院も、円爾禅師の流れとなることから、台密栄朝流による修法が中心となっていたと推測できることになる。ならば、唐招提寺に伝わった往生院にあった鎌倉期の戒体箱は、もしかしたら、この時に円爾により調えられたものであるのかもしれない。これは新しい考証となりそうである。栄西禅師から学んだ覚心禅師が三時勤行を定めているが、仏頂尊勝陀羅尼、宝...臨済宗と曹洞宗における台密・密教の影響について

  • 禅宗で楞厳呪を読誦する理由について

    禅宗では、釈尊に関する法会や主要行事において、真言、陀羅尼である楞厳呪を多用して誦すわけですが、その理由についてはあまり知られていない。一番には、もちろん、修行増進のためとなる。特に、禅定の三昧の完成へ向けてである。だから、禅宗で重用されることになったわけであります。要は、正しい持戒と正しい禅定により、正しい智慧の完成へと向かうためということになり、その障りとなるものを排除し、如来のお加持を頂くために修するのである。その如来のお加持には、悟りへと向けた見仏と授記の利益を得ることも当然に含んであるわけです。短く、最後の偈頌、「オンオノリー〜」のみを唱える場合もありますが、本来は、大悲呪もそうであるが、本格的に修する場合、密教と同様に曼荼羅道場を設け、結界を布いて、儀軌どおりに、全体を三週間かけて、何万回と唱...禅宗で楞厳呪を読誦する理由について

  • 葬儀における引導について・秉炬仏事・法炬・下炬について

    昔の葬儀における引導は、火葬場の龕前堂にて行われていたのであろう。入龕念誦、龕前念誦、鎖龕念誦、起龕念誦、山頭念誦→葬列、龕前堂へと移動→法語、引導(法炬投下)→下炬(火葬)が、本来の正式な流れであったのだろう。山頭念誦はまさに別れの表白であるから、出棺の贐となるわけである。「〜茶三点を傾け、香一炉に焚いて、雲程に送り奉りて〜」現代では、法語の前に法炬、下炬があるということは、もともとは、火葬点火後→引導法語ということであったのかもしれない。いや、黄檗引導の故事は、引導法語→法炬投下だったであろうか?法炬投下→引導法語だったか?法炬投下→引導法語→下炬または、引導法語→法炬投下→下炬が正しいことになるのかもしれない。つまり、松明は二回使わねばならないということなる。ならば、二つ用意して、一つは投下、もう一...葬儀における引導について・秉炬仏事・法炬・下炬について

  • 近世公家(鷹司家)の葬儀の流れ・満中陰まで

    近世公家(鷹司家)の葬送の記録がなかなか興味深い。鷹司兼煕公の葬儀、満中陰までの記録がある。戒名、院号(通例、戒名は天皇、摂関家は院号のみ)を三宝院に頼むも、突き返して、自分たち(身内に僧侶関係も多い)で(心空華院と)付けている。20日に亡くなって、23日に通夜、入棺。24日に出棺。25日〜27日は、そのまま二尊院に安置されていたのだろう。28日に送葬行列とあるが、実質、引導、焼香とあるため、葬儀が28日であることがわかる。死後1週間後である。龕前堂は火葬場にある建物であり、火葬場への送葬後、龕前堂にて葬儀が営まれる感じであったのだろう。火葬、収骨を終えて戻り(二尊院)、七ヵ日法事が勤められている。七ヵ日法事は、七日間、毎日勤めるものであるようだ。七ヵ日法事とはどのような法事であったのだろうか。そして、初...近世公家(鷹司家)の葬儀の流れ・満中陰まで

  • 葬儀・葬式、弔いのあり方について

    最近、お葬儀を新興の葬儀社さんのところにてお勤めすることが多くなってきているが、やはり、老舗の方が、細かい配慮が行き届いていると感じることが多々である。特に、公益社さんは、老舗の中でもそのように感じることがある。もちろん、それぞれの会館でのスタッフさんの器量、質次第ということにもなるが・・個々人の経験、意識の差で、かなりの開きがあると感じる・・新興のところは、都度都度での(寄せ集め)チームみたいなカタチとなり、ギリギリで人を回しているようなところもあるから、常に何だか余裕がないように感じる・・「弔い」が確りとできるかどうかは、亡くなった方自身にとってはもちろんのこと、遺族にとっても大切なものとなる。取り返しの付かないことであるため、「悔い」の残るようなものとなってはいけない。今や、葬儀は、簡素化、省略化の...葬儀・葬式、弔いのあり方について

  • 護良親王の最期・・

    今回は護良親王を取り上げて頂けている。護良(もりよし)親王と楠木正成は互いに信頼し合っていた憂国の同志。足利尊氏による後醍醐帝への策略諫言に騙されて護良親王は追い落とされてしまう。同時に楠木正成は全ての官職を辞任して抗議の意を示すが、後醍醐帝との信頼関係にも大きなヒビが入る。足利尊氏が再起を図り京へ向けて侵攻を開始。楠木正成には十分に尊氏の侵攻を止める策略があったが、後醍醐帝に採用されず、不仲であった新田義貞と共に楠木正成は湊川で不利な戦いに挑み、壮絶な最期を遂げるのである。誠に無念である。護良親王の最期・・

  • 南木会趣意書の意義は大きい

    江戸時代の往生院の歴史で、幕府からではなくて、松平信平の個人からの朱印拝領が明らかになったのは本当に大きい。また、大きな銅製の仏像があったことは初めて知った。江戸時代の往生院の歴史は、檀家総代であった池島村の庄屋、富家家の古文書に詳しくあったはずながら、明治期の寺院をめぐる混乱で散逸、滅却したようである。だから、江戸期の歴史も断片を他の資料から知るだけで、詳しくは分からないのである。地租改正による上知令での寺領没収に、神道国教化に伴う神仏分離令による廃仏毀釈、これらにより往生院も寺院放棄の波が押し寄せたのであろう…本尊など木製の仏像や仏具などの売却は免れたが、金属製の仏像や仏具は、ことごとく売り払われたことが記されてある。大きな銅の仏像の全容も謎である。しかし、なんとも罰当たりなことではあるが、そのような...南木会趣意書の意義は大きい

  • 葬儀での引導法語について

    随分前に聞かれたことに、引導法語について、どう組み立てるのか、であるが、その一定のあり方、形式は決まったものがあるわけではないとは思う。当然に宗派によっても異なるし、日蓮宗さんや真言宗さんは長文丁寧であると感心することがある。一方、臨済、曹洞は、漢文調を好み、簡素と言えば簡素である。特に僧侶の葬儀では、法語を七言絶句のみを調える場合がある。平仄式(ひょうそくしき)で、平字、仄字、平仄外字とルールがあり、また、起承結では七文字目を韻で踏まないといけない。在家でも正式な葬儀法語となると、偈頌、法名、腹句、一字関、落句となるが、最近ではそこまで調えられることはあまり無くなってしまっているように思う。わかりやすく、書き下しで、現代語で、簡潔に、となりつつあるだろう。もちろん、一から全てを調えるのは、並大抵ではない...葬儀での引導法語について

  • 「新しい領解文」騒動、現総局の情けない他人事感・・

    最後に公文名総務のあいさつでは、「SNS時代で誤情報がすぐに広がっていく。それがまるで真実であるかのように受け取られる。混乱の原因はそのようなところにあると思う。某新聞でも、ちゃんと確証をせずに情報を載せていたものも多々あったのではないかと思っている。」という意を述べました。反対、混乱をネットや某新聞のせいにしている時点で、まだ他人事みたいなのが、本当に呆れる。どう取り繕おうとしても、間違いは、間違いであり、門主、前総長、前総局の間違い、責任であろう。かの大恥論文もまだ配布しているとは、呆れを通り越して、もうウケる。まあ、上記の他人事のように、本人たちは、宗派のお金で地方を回って、泊まって、温泉入って、美味しいものが食べれてラッキーとか程度な感じでもあるのだろう。まるで親鸞聖人への申し訳ないという気持ち、...「新しい領解文」騒動、現総局の情けない他人事感・・

  • 川口蓮海(怒濤・宏)文学と往生院

    泉南の大雄寺近くに居を構えていた際には、このエピソードを鑑みると浄土宗に傾向していたことが窺える。浄土宗大雄寺の住職であった豊島妙澄尼の娘と再婚し、そして、やがて不思議にも往生院入寺の話が来ることになる。やはり、川口家が南朝ゆかりにあったことからであろうか。その前にいた久米田寺は、もちろん南朝ど真ん中の一つではあったが、、新聞社を辞めた後は、文筆家として放浪されることになるが、往生院入寺まで、南朝について意識されていた節はほとんどなさそうである。もしあれば、著作において必ず何か触れているであろうからだ。どうもそれはないみたいである。しかし、先祖の因縁からなのであろうか。南朝ゆかりを転々とされていたようにも思える。大雄寺もすぐ近くの地名に楠畑とあるように楠木家の所領地の一つであったのであろう。楠木正成の家臣...川口蓮海(怒濤・宏)文学と往生院

  • 浄土教の基本となる考え方と浄土真宗について

    先のポストの続きとして・・信心(領解)の度合いは、やはり個々人それぞれで当然に様々となります。また、彌陀の救いは平等に垂れられてあるものですが、何をもって救いとするのかも問われるところとなります。見仏と授記、大乗仏教ではこの二点が、悟り、涅槃へと向けての必須となります。如来の救いとは、この二点を我々が頂く、頂けることを意味するものと考えることができます。(浄土教では、如来在世となる阿弥陀如来の浄土にて、阿弥陀如来との見仏と阿弥陀如来からの授記を頂くために、極楽への往生を目指すという教えが基本となります。)阿弥陀如来の極楽世界も一仏国土として膨大で、三千大千世界を有しており、報土、化土、穢土等も有するところとなりますが、如来在世であるため、見仏と授記は可となってあると言える世界であり、穢土上であっても応身の...浄土教の基本となる考え方と浄土真宗について

  • 浄土真宗における本願疑心について

    本願疑心は、当然に信心獲得、信心決定していないわけであるから、浄土真宗の(目指すべき)往生(先)からは外れるものとなる。問題は、では「弥陀の救い」は、疑心者に頂けなくなるものかどうかである。このあたりは非常に微妙な問題となる。拙生は、弥陀の救いは、誰にも平等に頂けるものであるが、その本願を受けるこちら側のありようにおいて、その救いのありよう、救いの度合いも当然に異なるものになる、というのが拙見解となります。要は、往生先が異なるということです。法界・法海、報土、化土・応土、穢土、諸々の天界、その他の浄土などと。親鸞聖人の目的とされる往生先は、上記の中でも特に最上となる法界・法海(真実報土)を想定されておられるものと言えます。本願疑心は、その想定先(の往生)からは外れてしまうと考えると良いのではないかと思うわ...浄土真宗における本願疑心について

  • 「新しい領解文」の功罪・・

    とにかく、「新しい領解文」を改悔批判で使用したという汚名は、もう歴史から消せない事実となって残ってしまうことになってしまった・・拙生としてはそれだけは何としても止めねばと、12月にできるだけのことで最後にしたのではあったが、虚しくも力及ばずであった。親鸞聖人に大変申し訳ないと拙寺のご自作坐像に平身低頭三拝九拝である・・いずれにしても、西本願寺・本願寺派は大恥、汚辱を歴史に刻んでしまったわけである。江戸期の異安心、惑乱ならば、世間に対してのイメージとしてはさほどの影響はなく、また世間もそんなに関心なかったことであったろうが、現代のネット時代、ニュースは世界中の隅から隅に行き渡り、更にデジタルデータとして消されずに残るだけに、もはやそのマイナスイメージは江戸期とは比にならない計り知れないものであるだろう・・「新しい領解文」の功罪・・

  • 往生院、先々代、川口蓮海(宏・怒濤)について

    往生院、先先代、川口蓮海(宏・怒濤)はいわゆる秀才である。寺史にまとめられてある来歴は墓誌に刻まれてあるのとは若干異なるところもあるが、桁違いな文才があったことがとにかく分かる。小説、童話、または戯曲まで、幅広い執筆活動である。戦後にその著書群を顧みる者がなかったため、いまだ世に埋もれたままとなってしまっている。お寺のどこかには、元原稿や印刷物などが保管されてはあるのだろうが、敢えて本格的に調べないと出てこないだろう、、いずれ私が調べ出して、全集として発行してみるのも良いのかもしれないが、、その中でも仏教小説にはかなり興味がある。一覧は大正12年までのものだが、昭和初期の「輪廻」という長編宗教小説は特に高い評価を受けていたようだ。晩年は、時代の流れに抗えずに楠公道場、菊水寮での錬成、学童疎開受け入れに精魂...往生院、先々代、川口蓮海(宏・怒濤)について

  • 四條縄手の合戦について

    先先代が、陸軍少尉に頼み、四條縄手の合戦について考察してもらっている。言わば、戦闘のプロに頼んだわけである。陸軍幹部から見ても、四條畷市の四條畷付近が本戦地であったとは考えにくいと思われている。特に陣容図にあるように、拙生は、佐々木道誉軍が、暗峠から侵攻してきているのに、大軍が控えてある野崎付近まで前線を伸ばせるわけがないと考えるのである。上四条が最大の激戦になったのは、鷲尾山城、興法寺砦、慈光寺砦、古神感寺城と落とされてしまい、とにかく、砂山城、客坊城、往生院城は死守せねばと正行軍が奮戦したからである。丁度、上四条一帯が、暗峠から下ってきた佐々木道誉軍を向かえ討つ防衛の最前線となったのである。上四条が、砂山城、客坊城、往生院城の中間点でもある。だから、そこから人骨、武具等が大量に出土しているのである。も...四條縄手の合戦について

  • 松平信平公と徳川家との関係について

    南木会の趣意書は、前にも一通り読んだつもりになっていたが、その際には「信平」の名前に注目することはなく、鷹司信房により再興されたが、明治には廃仏毀釈で、当時の政譽住職が大変な目にあっていたのだな程度であった。数日前というか、前日のこの考察がなければ、また見過ごしていたかもしれない。信平は、家光の正室、鷹司孝子が姉にいたことから、幕府において旗本として取り立てられるところとなっている。妻は、徳川頼宣の娘である。家光は、徳川頼宣や松平忠輝など、家康の子どもらが美作後南朝支持者にあることは重々に知っていた上で、30万の兵をもって上洛し、後水尾天皇から譲位を受けた美作後南朝高仁天皇を廃位させ、明正天皇を即位させたのである。信平の父、信房が、信長と共に、南朝支持者となっていたことは、信房が往生院後中興開基になったこ...松平信平公と徳川家との関係について

  • 毎月5日・小楠公月忌・四條縄手の合戦について

    5日、小楠公月忌旧暦なら四條縄手の合戦は、丁度この頃になる。一番寒い時分である。松平信平公、ちゃんと毎月供養滞りなくお勤めしておりますよ。もう拙生で休まず25年以上になります。しかし、南木会趣意書を読むと、四條縄手の合戦は、今の四條畷市の四條畷神社付近ではなく、河内六万寺村の四條、縄手であると、何度も強く訴えている。まあ、当時、あの辺りは北朝勢力圏であり、そこまで僅かな手勢で攻め寄せることはまずあり得ない。今の水走、石切神社、枚岡神社附近までが南朝の防衛勢力圏だったのである。普通に考えれば、本陣の往生院から、北朝勢力圏のあそこまでたどり着けるわけはないのである。Wikipediaの四條畷の合戦の説明は、あまりにも主張が偏り過ぎている。かなり意図的でもあるのだろう。楠木正行公の胴塚も、鷹司信房公がその荒廃ぶ...毎月5日・小楠公月忌・四條縄手の合戦について

  • 大発見!! 鷹司松平家・松平信平と往生院との繋がりと美作後南朝について

    まてよ、、よく読めば、鷹司信房の子、鷹司松平家の「松平信平」の名が、、きた!後南朝と繋がる。信平の妻は、紀伊徳川家、徳川頼宣の娘。頼宣は、もちろん、美作後南朝(影の)後見者。慶安事件、承応事件の(影の)首謀者。その信平が、往生院に、楠木正行のお墓をしっかりと祀り供養するようにと、永世壹百拾參石の朱印を与えている。往生院歴史にあった幕府より授かった朱印とは、この信平からであったのだ。ちゃんと読まないと。繋がったか。信平の子、信政の妻は、美作津山藩、森長継の娘、大姫である。松平信平と往生院、そして、美作後南朝がここで繋がるのである。更に精査しないと。・・100石が今の1000万ぐらいの価値だから、年1000万ほどを永世に保証されたということである。それも松平信平の加増された禄からのようである。つまり、信平のど...大発見!!鷹司松平家・松平信平と往生院との繋がりと美作後南朝について

  • 明治期の往生院・南木会・鷹司煕通との関係について

    次に、明治になり往生院の歴史に登場することになる鷹司煕通のことであるが、楠木正行の墓所を本格的に整備して、陵墓とする計画が突如として沸き起こるのであります。南木会の創設であり、その会長に鷹司煕通がなります。明治時代の往生院は、廃仏毀釈の影響もあって不安定な中、無住となったりしており、すっかりと本堂は老朽化著しく、境内も荒れ果ててしまいます。大正14年に川口蓮海が入寺するまで、一時、村の管理となりました。そのような中で、ある意味、寺運に恵まれるような話が突然に起きるわけです。小楠公墓所整備と共に、お寺の再興もと。しかし、この南木会は結局、頓挫してしまうことになります。まあ、もしも話が進んでいたならば、現在の四條畷神社と同様の神社となっていた可能性もあったわけです。小楠公神社の一角のお寺になるという感じです。...明治期の往生院・南木会・鷹司煕通との関係について

  • 楠木正成公、正行公の戒名について

    拙寺の楠木正行公のお墓は胴塚に建てられてある五輪塔になるが、五輪塔には残念ながら銘は確認されていない。もちろん、その台座下に経筒があり、経文や五輪塔建立由来などが納められてある可能性は高いが、いまさら確認などはできない。隣には、江戸初期、鷹司信房開基、後中興浄泉和尚開山の浄土宗往生院成立の際に、楠木正成の供養塔が板碑で建立されており、その銘には、位牌と同様に、「雲光寺大円義龍居士」と彫られてあることが確認できる。となれば、楠木正行の戒名も本堂に祀られてある位牌のとおりの内容として供養されていたのだろう。現在、毎月5日に供養しているのも、この位牌の戒名にてである。正行の他のお墓で、首塚となる宝篋院の五輪塔には、梵字以外には銘がなく、戒名は確認できない。他にも幾つか正行のお墓と伝わるものもあるが、戒名は確認で...楠木正成公、正行公の戒名について

  • 鷹司信房と美作後南朝について

    少し前の考察で、美作後南朝における高仁天皇に関して、後水尾天皇譲位→高仁天皇即位→家光介入→即廃位→明正天皇即位における経緯もそうだが、「本能寺の変」にて、二条御所にいたのが、美作後南朝の「尊道親王」であったとした説も挙げましたが、これらのことを朝廷内にて最も知れていた人物こそが、何よりも鷹司信房であったわけです。そもそも、二条家から鷹司家の養子に入るように促したのが、信長で、信の字を与えられるほどに信認が厚かったのが、信房であったわけです。余談ながら二条御所も、二条家の屋敷を信長が改修したものであります。信長が二条家とも深い結びつきにあったことが窺えます。信房は、正親町天皇、後陽成天皇と仕えるわけですが、93歳まで高齢ながら権威を長らく保っていました。往生院の再興開基となったのも最晩年になります。その再...鷹司信房と美作後南朝について

  • 天皇の戒名と公家の戒名について(本地の菩提寺ではない場合)

    天皇の戒名は、本地の菩提寺ではない場合、基本的には神儀であるため、戒名をお祀りする場合は、基本は院号のみとなっている。後陽成院、後光明院と、拙寺では二柱のみ現存してある。また、皇后も院号のみであることが分かる。中和門院は、後陽成天皇の皇后、近衛前子である。一方の摂関家では、本地の菩提寺ではない場合、院殿、最終の官位、殿下となっている。(拙寺は、九条家、鷹司家の菩提寺ではあったが、本地の菩提寺ではない)鷹司信房公も後法音院殿従一位殿下となっている。このあたりの違いや、僧侶の戒名の違いなどを調べるとある一定の形式のあることがわかる。僧侶の場合など位号が、和尚、大和尚、大徳、僧正、大僧正など色々であり、宗派によっても位号が様々である。天皇の戒名と公家の戒名について(本地の菩提寺ではない場合)

  • 楠木正成公、楠木正行公の戒名について

    ちなみに、楠木正成、楠木正行の戒名には諸説あるが、正成の「大圓義龍」と正行の「雲山升龍」はほぼ同じであるものの、院号が違うことがある。正成の「雲光寺」が「霊光寺」、正行の「大光寺」が「文光寺」だったり、更には、寺が院であったり、または、道号の雲が霊であったりと、、あるいは、殿がつけられてある場合なども。居士が、卍堂、仏海、仙海なども。卍堂は意外である。拙寺の位牌は江戸前期であると思われるため、オリジナルとは言えないかもしれないが、戒名の変遷を調べてみると案外面白いのかもしれない。例えば、墓石に彫られてある戒名からの写しまちがいで、霊が雲になったとか、文が大になったとか、普通にありえそうだ。楠木正成公、楠木正行公の戒名について

  • 後南朝・小倉宮家の御供養

    昨日にポストを見られた方から、小倉宮家の御供養をお願いしますと、岡山のとある方から。ならば、南朝、後南朝も改めて御供養することに致します。後南朝・小倉宮家の御供養

  • 「天台宗の寺で性暴力被害」音声テープの内容と親鸞聖人の「夢告女犯偈」について

    「天台宗の寺で性暴力被害」尼僧が僧侶と大阿闍梨の懲戒申し立てhttps://www.asahi.com/articles/ASS105CY4S10UTIL00W.html音声テープの内容は、親鸞聖人の夢告女犯偈「行者宿報設女犯我成玉女身被犯一生之間能荘厳臨終引導生極楽」を僧侶A(大阿闍梨Bではなく、大阿闍梨の弟子)が援用して、観音菩薩の代わりとなって、性の悩みで訪れる者(僧侶)たちとエッチしてあげなさいと述べているものではないかと、、そんなむちゃくちゃな、、親鸞聖人は、もう往生が予定されたレベルにまで境地、信心が至られてあったからこその夢告であると解されてあり、そこまでに至れてない僧侶はもちろん、簡単に破戒が許されるものではなく、ましてや、菩薩の境地にもない普通の者、尼僧に、観音菩薩の代わりになって、僧侶...「天台宗の寺で性暴力被害」音声テープの内容と親鸞聖人の「夢告女犯偈」について

  • 「天台宗の寺で性暴力被害」 尼僧が僧侶と大阿闍梨の懲戒申し立て

    千日回峰行を成満されたからといって、周りが何か特別であるかのように神格化するのは愚かなことであり、また、その神格化に惑わされてもいけない。天台宗の高僧が、アドヴァイタ、ノンデュアリティに利用されていた例もある。「新しい領解文」も結局はアドヴァイタ、ノンデュアリティに利用された一つの現れであるとみている。共通しているのは、無知である。仏教の基本を学んでいない無知ということもあるが、間違った空の解釈を根拠として、仏も凡夫も、悟りも煩悩も同一、同列に扱う愚である。もう一つは、同じく間違った空の解釈を根拠として、一切は幻なるものとして、煩悩も悪業も関係ない、もともと無いなどと始末する愚である。浄土真宗の正しい信心のあり方を蝕む「新しい領解文」は、見真大師の御影に泥を塗ったが、天台宗、伝教大師の御影に汚い泥を塗った...「天台宗の寺で性暴力被害」尼僧が僧侶と大阿闍梨の懲戒申し立て

  • まだ配布しているとか・・満井論文・・

    大きな間違いを晒しておきながらも「議論の余地なし」と大恥の満井論文『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』、桂紹隆先生にちゃんと謝罪して、当然に配布も辞めているのかと思っていたが、まだ配布しているとは・・他の勧学や総合研究所のこれまでの功績をも著しく貶める愚行中の愚行・・誰か本当に早く気づかせてあげてほしいものです・・哀れすぎる・・まだ配布しているとか・・満井論文・・

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