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降りていくブログ https://kurahate22.hatenablog.com/

生きづらいものが生きていくために。回復とサバイバルについて考えていきます。

生きづらさは重い負荷ですが、それにより自分が生きるために必要なものへの意識や関心が深くなります。生きづらい人は誰のためでもなく、自分が生きていくために世間にまだ存在しないものを創りださなければいけない切実さを抱えています。生き抜くことは全く保証されていない。それにも関わらず生き残ろうとする人たちの創造は、通じる課題を持つ人たちの力となり、そして自身だけでなく、周囲の世界も回復させる力を持ちます。

ヨネ
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北区
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新居浜市
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2014/09/24

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  • 認識の変遷 「場づくり」から「結果的な接点づくり」へ

    大学時代、四国八十八ケ所めぐりをやってみて思ったことは、人は適切な環境とそれを生かす媒体(まるごとの存在が保証されながら同時に固まってしまった自分が揺り動かされる状況が併存するような。)があれば、そこで自律的に変化や回復をしていくということだった。 それまでは心の構造をより知れば自分の理解が深まるという認識だったのが、場の状態とそれによる自分の状態の変化を感じとるような感覚がもどっていけば、既知の知識で自分をコントロールしようとするよりもずっと自然に滞りを打破して変化できるようだという認識になった。 以後、「技法」みたいなものよりも、場とは何か、変化がおこりうるような場はどのように生まれるか、…

  • 当事者研究ネットワークに求めたいこと 「当事者研究の悪用」への向き合いを

    被害者の告発によって、閉じたコミュニティ内では、主催者やスタッフのような、より強い立場にあるものによって、当事者研究が場でおこった問題を被害者当人の責任に転換し、もみ消すために悪用されうることが明らかになった。 note.com ここでおこっていることは、当事者研究を用いてという点をのぞけば、組織やグループにおいて何度も何度も繰り返される抑圧だと思う。 DAYS JAPAN、アップリンクなどの事例をみても、教育系、福祉系、人権啓発系など、指導者的な立場の人、より強い立場の人など、「教える人」「わかっている人」「正しい人」「いいことをやっている人」など、道徳的な権威がうしろだてになっているような…

  • 6/26『被抑圧者の教育学』読書会ふりかえり

    出てきた話題 ・「被抑圧者と共にあることはそれ自体がラディカルであり、中途半端な姿勢では許されない」ということがどういうことだろうか。 →社会から搾取される少女たちの支援をしている一般社団法人Colaboの仁藤夢乃さんの講演を思いだす。仁藤さんは教えたり指導する立場として関わるのではなく、「女の子たちと一緒に」活動をしていると言われていた。 『被抑圧者の教育学』において、フレイレは相手を無知な存在として関わるのは痛切なあやまりであって、それは自身の抑圧者としての立場を保持したり、そこに戻ろうとしているようなものだと批判している。 Colaboの活動では、少女たちから出てきたプロジェクトもあり、…

  • 当事者研究界隈、どうなっているのか

    note.com べてるの家の関連施設、べてぶくろで地域住民との間で性暴力被害がおこった。被害者のブログによると、被害者の訴えをきいたべてぶくろスタッフRは訴えを公にするとべてぶくろが地域でやっていけなくなるとして、被害者を黙らせようと働きかけ、その態度に抗議する被害者を批判した。べてぶくろは組織としてそのスタッフRを容認し、擁護した。被害者は孤立し、べてぶくろを退職した。 またスタッフRは、その問題を、被害者個人の問題として被害者に自分が納得するよう”当事者研究”するように働きかけまでしたという。 被害は2015年におきており、被害者はべてぶくろから被害に向き合うことがされないまま、自分の非…

  • 自意識の植民地としての身体 打ち消しと間接性

    ある催しで、参加者が私はもう上手いダンサーの踊りを見て面白いと思えなくなったということを言っていたのを時々思い出す。 自分のことを動的な関係性そのものとみるのではなく、完結した、閉じた主体だとみなすとき、自分は環境に対して(一方的に)働きかける存在であり、自分の既知の知識や技術で他者に働きかける能力を内在させていなければいけない存在だと認識される。 一般的なイメージとは違って、依存症とはコントロールしすぎる病なのだと認識されはじめているけれど、自意識によるコントロールは既知に閉じており、必然的に閉塞を伴っている。 身体のことを、自意識は自分の所有物だとみなしていて、いかにそれをつかって多くのも…

  • 私の探究・研究相談室レポート 回復が回復する 探究と時代からの解放

    昨日の私の探究・研究相談室では場についての話しが比較的多かった。 世間一般では、主体というのは個人のことだと思われている。が、僕の認識ではむしろ場のほうが主体なのではないかと思う。 なぜなら個人が更新されていくために場が必要であるだけではなく、場が個人をつくると感じるからだ。個人は場という関係性の反映としてあると思う。 閉じた個ではなく、関係性こそが主体であるという認識は、大学では特に聞かなかった。自分に本当に必要なものは最終的には自分で見つけていくしかないし、今すでに発見されているものでは足りないと思う。そして個人はそれがその人に本当に必要ならば、時代がどうであれ、それを見出す力を持っている…

  • 人間化の過程 意味から解放された場所としての人間

    昨日の読書会。 フレイレは、人間の使命とは「より全き人間であろうとすること」だろうという。しかし「より全き人間」という言葉がまるでピンとこない。全きとは言葉通りにとるなら、完全で欠けたところがないということだろう。 完全。結局そういうものが本当にあると信じていることが不注意そのものなのであって、かつ強迫的に働くものだろうという認識だったので、首をかしげる。読書会のメンバーから「全き人間」という言葉はキリスト教的な文章でよくみられるという指摘がある。なるほどと思う。 里見実は、フレイレの解説書のなかでフレイレの『被抑圧者の教育学』とラテンアメリカの「解放の神学」の形成過程とは、時期的に重なりあっ…

  • フレイレから「生きづらさ」を考える

    あらためて、フレイレを通して「生きづらさ」を考えてみるとどうなるだろうか。まず「生きづらさ」という言葉について、『居るのはつらいよ』の東畑開人氏はSNS上で次のように述べている。 ”「生きづらさ」という言葉って、心理学ブームが下火になり始めた2000年代になって使われ始めてます。この言葉は、心を云々するではどうにもならない、社会の側の要因を指摘する言葉なんです。そして、その要因とは、社会の問題を個人の心に還元する社会のありようのことなので、心理学はつらい立場です” 問題は、個人の内面で完結しているのではなく、社会構造の側にあるという認識だ。臨床心理学の立場の人が自らが依拠している前提を根本的に…

  • 使い捨ての関係と体験の剥奪

    読書会を一緒にやっている河本さんの投稿から。 www.facebook.com 自然のものなので野菜ができる具合は常にばらつきがあると思う。畑をやっているとできるときは過剰なほどできる。しかし受け取り手の需要は決まっている。ということは、こういうお任せ型でないとき、どれだけたくさんのものがロスになっているかと思う。 サービスを提供する側と受ける側と割り切った関係性では、本当に良いものを目指そうとすることは非効率になる。お互い使い捨ての関係性から、育てあいの関係性に移行することでようやく維持されるものがある。 自家菜園が広がることはいいと思っているけれど、農家が困るのではないかと言われることがあ…

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