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降りていくブログ https://kurahate22.hatenablog.com/

生きづらいものが生きていくために。回復とサバイバルについて考えていきます。

生きづらさは重い負荷ですが、それにより自分が生きるために必要なものへの意識や関心が深くなります。生きづらい人は誰のためでもなく、自分が生きていくために世間にまだ存在しないものを創りださなければいけない切実さを抱えています。生き抜くことは全く保証されていない。それにも関わらず生き残ろうとする人たちの創造は、通じる課題を持つ人たちの力となり、そして自身だけでなく、周囲の世界も回復させる力を持ちます。

ヨネ
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北区
出身
新居浜市
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2014/09/24

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  • 9/29 話しの場研究室 発表原稿 自分にとっての場とは何か?

    発表1 自分にとっての場とは何か? 【経緯と位置づけ】心理カウンセリングを学ぶ学科にいた際、人が回復したり、変わっていく場はカウンセリングルームのなかだけではないのではないかと思った。四国遍路の体験、大学院での四国遍路をする人のインタビュー調査などを経て、適切な環境と媒体があれば専門家抜きでも人は自律的に回復したり、変わっていくと考えるようになった。つまり場づくりが重要なのだと思って、30人ぐらいで無農薬の米づくりをするイベントの企画をさせてもらったりした。 しばらくして、野外の場ももちろん変容の場になりうるのだけれど、そもそも自分は中学校や高校の頃から内面を静かに語れるような話しをすることが…

  • 世界への信頼の回復 探究と希望

    明日19時からは本町エスコーラで私の探究・研究相談室です。 www.facebook.com 世界への信頼の回復とは、世界が自分にとっていい意味で未知であり、応答的な存在であるという実感が出てくることかと思います。 自分にとっての世界像が変わらないのに、自分の価値だけがなぜか高まっていくのなら、常識的に考えて、それは自分が見えなくなっているということなのではないかと思います。世界像の変化の反映として、自分像も変わるのだと思います。 世界はこのように危険で荒野なのに、そんなものが信頼できるはずがないと思うかもしれませんが、世界全部を信頼する必要はなく(それも自分のイメージにすぎませんが。)、自分…

  • 自分の価値を高めるのか ゆるすのか

    畑の共同作業日だったけれど、雨がひどく降ってきて土もべちょべちょに濡れたので、作業は中止して午後から第4回関西当事者研究交流集会へ。 cocopit.net ある分野のマイノリティが、別の分野のマイノリティに対して差別や軽視を持っていないかというと、全くそんなことはないということはよく言及されている。 自分が何かのマイノリティだからといって、他のマイノリティにもやさしい価値観を持っていたりということはない。むしろ世間的には自分の価値が低く扱われるために、自動的に他のところで補おう、盛り返そうとマッチョになりがちですらある。 マッチョの何が問題かというと、自分だけが勝手にムキムキ(厳しい価値観を…

  • そろそろ「自己肯定感」を卒業しよう

    信田さよ子 on Twitter: "気になったのが自己肯定感という言葉。大阪に続き仙台でも質問された。何度も言うが自己肯定感や自尊心が高い低いって自滅に続く道だ。他者やアートや読書など時には自然界からつまり自分の外部から備給されるものだから。親から愛されなかったんだから自分で自分を好きにならなきゃダメとか→" 信田さよ子 on Twitter: "自己肯定感を高めるワークに出たけどちっとも自己肯定感高まらない自分ってダメなんじゃないか?という人が居て「犠牲者」じゃないかと思った。新自由主義に貫かれた最後は自分に戻ってくる残酷なブーメランはビジネス書に溢れ時にはアディクションの世界にもはびこっ…

  • わたしという「止まった時間」とその付き合い方

    友達に誘われて操体法的なお話し会に。 具体例を聞いて色々と腑に落ちるところがあった。 意志と感覚は相反する関係。より意志で操作しようとするとき、感覚は消えてゆき、逆に感覚が優勢になるとき自分の意志は消えていく。 意志は、過去、記憶、止まったもの(死んだもの)に基づくものであり、感覚は現在動いているもの、生きているもの、変わっていこうとするものであり、プロセスそのもの。 感覚とプロセスは連動している、近しいものであるというより、感覚とはプロセスそのものだ、という理解のほうが妥当だろうと思える。痛みという感覚があるならそれはプロセスそのものだと理解する。 お話ししてくれていた方本人のエピソードで、…

  • 罪の取り戻し 宇井純『自主講座「公害原論」の15年』

    昨日のDIY読書会、「宇井純さんの自主講座「公害原論」の15年」を発表する。 修復的司法の研究をされている小松原織香さんがされている環境と対話研究会の読書会で知った本。 当時は公害に向き合える学問分野などなく、公害に向き合おうと思えば、自分たちでゼロからはじめなければならなかった。 東大工学部の教授たちにとっては、大学の教壇を助手や一般市民などに使われることは沽券にかかわるようなことだったようだ。圧力がかかったが、協力的な新聞記者が記事を書き、その加勢で大学が動き、自主講座が認められた。 自主講座なのは、宇井さんが工学部助手という立場であるために、大学の正規の講座とは認められないため。当時は助…

  • ナラティブコミュニティを学ぶ第一回 亀裂と開け

    ナラティブコミュニティを学ぶの1回目へ。非モテ研の西井さんとウィークタイの泉さんのお話しを聞きに。 www.facebook.com 場には、当事者、支援者、親、当事者かつ場を持っている人などが来られていた。 本を読むのが苦手で不勉強なので、レジメなど人が簡潔にまとめてくれたものが大変ありがたい。ナラティブ・コミュニティとは?、ナラティブ・コミュニティの意義、分類、自助会の歴史、12ステップ、12の伝統など。 細かいところで興味をひかれたのが、自助会で12ステップを通して多くの参加者が回復していくというところで、50〜70%の回復率という数字が妥当性を検討されることもなく引用され続けているのも…

  • <9/14 話しの場のフィードバック>

    昨日体験した話しの場のフィードバックをこちらにも転載します。 発言:話した内容を忘れてしまった場の雰囲気が一番よかったかもしれない コメント:身体教育研究所(野口整体の前衛的部門)の野口裕之さんが語っていたことを思いだしましたが、記憶に残るというのは異物として残るのであり、それが消えるのが一番いいと。例として、ものすごく美味しいラーメンを食べて忘れられないよりも、食べたことを含めて忘れてしまうラーメンのほうがいいのだ、と。 精神にとって、生きていくことは、取り込んでしまった異物(異化されたもの)を忘れて(同化して)いくことなのだ、という考え方です。 ものすごく記憶に残る、覚えてしまうというのは…

  • 価値の脱落

    自分が何かを価値あることとして内面化し、それゆえ強迫されていることがある。 それらが変化するときというのは、転換、というような感じで、表から裏へみたいに明確な切り替わりがあるのではなく、腐った肉がずるっと骨から取れていくように、脱落していくという感じなのではないかと思う。鮮やかな感覚があるわけじゃなくて、それはただ死んで、減少し、なくなっていく。 そして世間ではその価値が普通はいいもの、素晴らしいものとされているから、それに自分がさして共感しないようになっていくと、ちょっと申し訳ないような気もする。 たとえば、僕は「成長」など存在しないと、5年前ぐらいからはじめたこのブログの最初の投稿から言っ…

  • 「奪われた刀」としての科学技術

    山本義隆氏によれば、現在では「科学技術」と合成語になり、一つのものとして考えられている「科学」と「技術」はそもそも別々のものとしてありました。 DIY読書会でも発表していただいた角南さんのブログに本の引用の文章など含め詳しく書かれてます。角南さんご自身が経験された当時の時代感覚もあわせて書かれているのでそれも参考になります。 dohokids.blogspot.com 「技術」は職人のものでしたが、「科学技術」として合成されることによって、職人は時代を転換させる最前線の実践者でもあったところから、指示を受け、注文通りの品をつくるだけの、創造性のない下請けとして位置づけられるようになりました。創…

  • 「現実」をつくる鏡

    徳島県の自殺稀少地域の人たちにアンケートをとると、自分は幸せでも不幸せでもないと思うと回答する人が多かったそうです。 bookclub.kodansha.co.jp 幸せとか、そういうことをふりかえって認識していないひととき、自分が何であるかとかそういうことが意識にない一瞬があるとき、自分はまだ回復していない、幸せじゃないという認識をしていたとしても、その状態がすでにある意味達成された状態なのだと思っています。 苦しい人がその苦しさが減ることを求めるのは当たり前で別にそれをやめることをすすめているのではないのですが、別にどこかに行き着くところ、幸せを手に入れた状態がくるわけじゃないようです。 …

  • 【今後の活動の予定】DIY読書会を様々な場所で

    自分にとって核心的な興味や関心事を探究して、その過程を発表する場として「ジャンル難民学会」という場を考えました。(名前は変える予定なのですが。) そこで重要だとも思うことの一つは、「わたし」と「あなた」という二者関係に閉じる探究ではなく、「社会」や「世界」という第三者、既知の世界の外に、探究という関わり方を通して直接にふれ、やりとりしていくことです。このことが開けを生んでいくと思います。 ただ発表というのは多くの人にはハードルが高いです。発表するなどということは針のむしろに立たされるような感覚なのかもしれません。それはたぶん、今までの自分が受けた教育や学校の場においてはそうであって、自分の経験…

  • 【9月の催しもの】話しの場研究室 熾(おき)をかこむ会 DIY読書会 私の探究・研究相談室

    【9月の催しもの】話しの場研究室・熾をかこむ会・DIY読書会 →9月から熾(おき)をかこむ会は第二火曜日の14時〜17時になりました。なお、同日19時からは西川勝さんによる星の王子さま読書会があります。 →DIY読書会はいつもより30分早く19時開始です。 9月8日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口 9月10日(火)14時 熾(おき)をかこむ会 場所:茶山KPハザ 9月16日(月・祝)19時 DIY読書会 場所:ちいさな学校鞍馬口 9月27日(金)19時 私の探究・研究相談室 場所:本町エスコーラ 9月29日(日)13時半 話しの場研究室 場所:ちいさな学校鞍馬口 【9/…

  • 言葉の更新 「私たちのは学びであり、あなたがたのは回復である」ところから

    は別のことではないと考えています。一方が教育分野の事柄であり、もう一方が福祉分野の事柄であるようなことではないと思います。 ある人が変容したことを学びとは考えず回復としてだけ捉えたり、逆にある人が学んだという事態をその人の人としての回復としてとらえないことは、よく考えるなら、人を馬鹿にしたとらえ方だと思います。 私どものは学びだけれど、あなたがたのは回復ですというわけです。 回復という言葉は、元にもどるという意味なので、元でなかったもの、元より下になったものが元にもどる、「普通(=あるべき姿)」にもどると考えているようです。元というのは私たち(=あるべき姿としての「普通」、ニーチェ的な批判をも…

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