冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。
本当のなつかしさ、本当のやさしさ、そういったしみじみとしたものだけが好みです。 気になるもの 錬金術、冥想、瞑想、オカルト、坐禅、気功、ヨーガ、オーパーツ、超能力、霊能力、前世記憶、PTSD、トラウマ、修験道、アトランティス、レムリア、ケルト、クンダリーニ,チャクラ、洗脳、情報操作、テレビっ子、個人主義、疎外、おひとり様、悟り世代、アセンション、無私、敬虔、清貧
◎メンタル体トリップ出口王仁三郎は、人間を霊と肉に区分して説明する。これは天人にコンタクトできていることから、いくつかある体外離脱中のメンタル体トリップだと思う。霊界物語第47巻第一一章手苦駄女から『人間は如何にして肉体を脱離し、精霊界に入るかと云ふに、此時の人間は睡眠にも居らず、覚醒にもあらざる一種異様の情態に居るものであつて、此情態に在る時は、其人間は、只自分は充分に覚醒して居るものとのみ思うて居るものである。而して此際に於ける諸々の感覚は醒々として、恰も肉体の最も覚醒せる時に少しも変りはないのである。五官の感覚も、四肢五体の触覚も特に精妙となることは肉体覚醒時の諸感覚や触覚の到底及ばざる所である。此情態にあつて、天人及び精霊を見る時は、其精気凛々として活躍するを認むべく、又彼等の言語をも明瞭に聞く事を得ら...肉体離脱の時
◎みろくの世への征戦幾人か生還できる霊界物語の『入蒙記霊界物語特別編』は、81巻の霊界物語中で番外に位置し、それだけで重要性がわかるもの。だが読んでみると、出口王仁三郎と植芝盛平一行は、パインタラで銃殺寸前まで行って奇跡的に助かったとか、このツアーで植芝盛平は、敵の銃弾の来る前に光の玉がくるので、それでもって銃弾を見切ったなどという、冒険活劇的エピソードに目を奪われがちである。だが、入蒙記を全体として見れば、出口王仁三郎一行6名が、モンゴルに入り、奉天からハロンアルシャン付近まで北上し、パインタラ経由で4か月で帰国したという物語ではあるが、重要なポイントが隠されている。このモンゴル・ツアーの後援者は、張作霖と並ぶ馬賊の頭目盧占魁だったが、結局このツアーの時期に張作霖の手で数千の将兵諸共殲滅された。この入蒙を支援...出口王仁三郎入蒙記の評価
◎戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず大正六年十一月三日のいろは神歌に出口王仁三郎の未実現予言の一つが上がっている。出口王仁三郎予言は、先の敗戦ですべて実現したなどと言ったり書いたりする人がいるので誤解されがちだが、いろは神歌は、明らかに未実現予言群であり、世の終わり、世の大峠における破壊と復興(破壊がノア、復興がナオ)が描かれている。例えば、『〇保日の命の現はれて、海の内外の嫌いなく、降らす血雨の河と成り、屍は積みて山を為す、カラクレナイの敷島の、赤き心は日本魂、火にさえ焼けぬ国魂の、光り輝く時となり、体主霊従の身魂を焼き尽し、水火の国の中津国、下津岩根に現はれし、厳の御魂の勲功の、天照る御代の楽もしさ。』などは、最初に大量殺戮シーンがあって、後半は、みろくの世なる水晶身魂の人々の出現を示す。(※保日の命...出口王仁三郎の未実現予言
◎天の浮橋植芝盛平には、著作はなく、口述本が残っているのみ。技も2回やると盗まれるとし、2回連続で同じ技をやることはなかった。合気神髄というのが、唯一の武道哲学の解説書のようなものだが、ちょっと見てもらうとわかるが、ほとんどの彼の内弟子でも理解できなかったほどに相当に大本教の教義と世界構造をわかっていないと何を言っているのかわからない内容の代物。出口王仁三郎は、その人生のクライマックスの一つである蒙古遠征に植芝盛平を帯同し銃殺寸前まで行って、辞世まで残している。植芝盛平が、銃の弾が来る前に、撃とうという心が白い気になって来るので、それをよければ弾には当たらないという体験をしたのはこの時ではないかと思われる。ちょっとでも自分が残っているとやられるのを知っていたのだろう。植芝盛平は、簡単には試合をやらせなかったとい...合気道植芝盛平その横顔
◎巨人軍の荒川博バットとともに吹き飛ばされる王貞治の師匠である巨人軍の荒川博。ある日、植芝盛平が持っている木刀めがけて、荒川がバットを横なぎに振った。その瞬間に植芝盛平が気合を入れたら、荒川はバットもろともに吹っ飛んだ。それが2回あって、荒川は植芝盛平に弟子入りした。植芝盛平は、80過ぎだったが、門人と一緒に30分くらい丁寧に身体をストレッチしていた。80過ぎの老人とは思えないほど身体が柔らかく、古神道独特の体操である天之鳥船も大変柔軟だった。植芝盛平は、天之鳥船を三回と振魂一回をセットで3セットやっていた。(振魂では右手を下に左手を上に組む)(以上出所:開祖の横顔14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿月刊秘伝編集部/編BABジャパン)※振魂:振魂の行事なり。之には種々の方式あれども、普通の場合に...合気道植芝盛平天之鳥船と振魂
◎人道的とは何か出口王仁三郎が、ペットを可愛がることについて、可愛がられている本人の立場でコメントしている。これによるとペットを可愛がるというのは、形式上動物愛護ではあるが、ペット本人の立場から見れば、ペットとしての人生修行の目的を果たしえないために、虐待のようなものだとしている。『動物愛護について一切のものは輪廻転生の理によつて形を現はして居る。動物は畜生道に堕ちた霊がそこに現はれて居る、故に動物は向上して人間に生れかはらうとの希望をもつて居るものである。愛護されて居る動物、虐使されて居る動物、一見甚だ不公平の如く見えるが、虐使されつつある動物は、其修行を経ねば向上する事が出来ないやうに出来て居るのであるから、人間が殊更に愛護すると言ふ事になれば、修行が完成せられないで、死後再び動物界に生れ来て、修行の仕直し...ペットを可愛がるのをペット本人はどう思っているか
◎虚しく往きて実ちて帰る映画『空海』は、弘法大師空海入定1150年を記念して1984年に制作された映画。この映画は、空海の一代記であって、時の真言宗の即身成仏観や曼荼羅観が出ていて面白い。なお映画『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』は、長安を舞台に化け猫と空海が対決するというファンタジー映画であって、求道ものではない。空海の入定が3月21日であって、この季節に映画『空海』を拝見するのは、高野山を参拝した時のことなど思い起こされて、非常に興味深いものであった。平城天皇、藤原薬子の乱でがたがたしている時代に、最澄が一足先に時の仏教エスタブリッシュメント奈良を捨て、伽藍もなかった比叡山に入り、遅れて空海は、最初から修験で虚空蔵求聞持法にて唐留学の準備のため、山に入り、運よく唐上陸を成し遂げた。野球のイチローは、一歩...映画『空海』1984
◎古神道と他宗教とのコラボ史日本書記には、仏教が日本に入ってくる時に、日本には、天地百八十神がおわしますのに、仏教を入れるなどは、これら先住の神々がお怒りになるだろうと恐れたり、疫病に乗じて仏像を投げ捨てたり、寺を焼いたことが記されている。儒教の孟子が日本に入ってくる時も、易姓革命により万世一系の天皇制を侵すものとして、何度も中国の船が沈んだという。日本は仏教を入れるには入れたが、習合して古神道を捨てることはなかった。禅が入ってくる時に、栄西は他宗派から世俗の名利にさといなどと陰口を叩かれ、密教が入ってくる時に、空海は平城天皇と嵯峨天皇が争っていたところ、うまく嵯峨天皇を推して勝者の側についたとその立ち回りぶりをくさされるが、新宗教は常にそういう目にあう。皇室は、空海以後すっかり葬祭がすっかり真言密教化してしま...日本教としての古神道
◎自分で考えるイチローの引退会見の中で、アメリカの野球は考えない野球に向かっているが、日本はそれを真似することはないというようなニュアンスの発言があった。NYヤンキースの田中マー君の登板の時に、ヒューストン・アストロズは、球種、球速、コース、何球目にどんな配球をしてくるかなどを分析しきっており、アストロズのバッターは、ほぼ次にどういう球が来るかをかなりの確率で分かっているなどと解説される。そういう中で、名門ヤンキースで、5年連続2けた勝利する田中マー君は偉大であって、日本の野球は、未だに野村監督のID野球レベルなのかなと勘ぐってしまう。この辺は別の突っ込み所。そうしたあらゆるデータを駆使したAI分析に立ち向かっているのが、メジャーリーガーなのであるが、データの収集と分析と予測を外部に頼っているがゆえに、選手個人...イチローの考えない野球批判
◎人になつかぬ野良猫でもかわいいことに変わりはない時々庭で、えさをねだっていた野良の若い白猫がパッタリ来なくなり、近所の野良猫が一斉に変わる時期があり、またそういう時期を迎えたのかと思った。この白猫は、年齢は、1歳半くらいで、目が深い青で、毛並みは純白であり、とても美しいオス猫だった。近所には他にODDEYESの白猫もいるのだが、それとは違う気品のある白猫だった。1歳になるまでは、母猫(白猫)と兄弟猫のキジ白とで三匹で行動を共にすることが多かったが、最近は三匹とも独立して動くようになっていた。この白猫は、昨年夏までは、傷一つない顔とボディであって、代表的イケメン白猫として見かけるのが楽しみだったのだが、秋のスーパー台風以後は、毎日顔や背中に生傷が絶えず、前足の内側が血の色に染まっていることが多くなり、いつのまに...武闘派の白猫、神上がりましき
◎無相は空なく不空もなし道元が師の如浄に「因果は感じるべきものなのでしょうか」と質問した。(宝慶記)すると如浄は、「因果を否定してはいけない。永嘉禅師は、証道歌で『闊達の空は因果を撥(はら)う、莽莽蕩蕩(もうもうとうとう)として殃禍(おうか)を招く。(大意:現象には何も実体がないという理屈だけで世を処して行けば、そのメカニズムは明白にはわからないものだが、結局ひどい災いを招くものだ。)』と言っているように、(そんな人は)仏道修行という仏法の中において、善根を断った人であり、釈迦の子孫とはいえない。」現象は実体がないから、どんな悪いことをしてもいいのだとか、あるいは有を捨て転変して変わり続ける空だけを信じるなどは、水に溺れるのを避けるために猛火に飛び込んでしまうようなものである。だから証道歌のこの段の冒頭では、「...因果は感じるべきものか
◎エネルギーという言葉ももどかしく第七身体は、大神であり、仏であり、タオであり、言葉では表現できない。あらゆる現象には実体はないが、一つながりにつながっている。過去も現在も未来も、男も女も、光も闇も、神も悪魔も。色即是空で一気通貫。これは第六身体であって、全体だが、個ではない。第六身体と第七身体に相互の影響は、語られたことはないことはないが、梵我一如などあまりとりあってはいけない説ばかりのように思う。日本神話で言えば、天之御中主神が第七身体であって、高御産巣日神、神産巣日神が第六身体。ここから個が打ち出される。個の最初である第五身体に行住坐臥のような日常性はみられず。ダンテス・ダイジによれば、コーザル体と思しき自己意識は頭頂から離脱して地球の次元、宇宙の次元の壁をも越えて現象宇宙を上昇する。この部分が、コーザル...七つの身体相互のエネルギー変換-1
◎身体と感情人間が、神仏に向き合っていくモチベーションを理性と感情に分けてみると、どうしても感情のエネルギーの方が勢いがあることは誰もが感じているところである。ところで、感情と肉体は密接に絡むことを野口整体の野口晴哉が語っている。『怒りっぽいとか、気が散るとかいうのも体と関係があって、みんな鳩尾が硬くなっています。鳩尾が柔らかければ、怒ったといってもそれは怒ったふりをしているだけで感情は発動していない。顔が赤くなるとか、心臓がドキドキするとか、手足がブルブル震えるとか、怒りには怒りの生理的変化があるのです。悲しみには悲しみの生理的変化がある。それが伴わない感情というのはないのです。「腹が立つ」という言葉があります。直腹筋が緊張するのです。裸にして観ていますと、本当に腹筋が立つのです。こういう時は頭が草臥れた場合...感情には生理的変化が伴う
◎心身霊のすべてがクンダリニー+神力で焼き尽くされる「スピリチュアリティの真実/本山博/PHP研究所」にクンダリニー覚醒のステップが書いてあり、アストラル・プロジェクション、カラーナ・プロジェクション(メンタル体・プロジェクションのことか)の次に不動明王段階が置いてある。この段階では、心身霊のすべてがクンダリニー+神力で焼き尽くされるという。不動明王体験を経ると霊の世界を超えて宇宙も包める次元に入れるようになり、過去、現在、未来が一体となってわかり、さらに神様と一つになると空がわかるという。本山博は周辺に霊能力者が多かったせいか、霊能力者は、自分を残しているが、悟った人は自分がないと断言しているところ。実はここが肝なのだが、あれこれ理屈で説明してもわかってもらえないという雰囲気の書きぶりである。本山博のクンダリニー覚醒のステップ
◎シンクロニシティとトータル・コントロール出羽三山は、羽黒山、月山、湯殿山。いずれも修験の修行で有名な山であって、冬季は月山、湯殿山が、積雪のため閉山となる。湯殿山は、いわゆる「語られぬ湯殿」がありがたい。人は、食べられて孤独でなければ、何十年でも何百年でも同じ生活パターンを繰り返すものだというが、それに飽き足らぬ思いがある一定の閾値を越えたときに求道に向かうのだろう。奥の細道で、芭蕉の出羽三山の句。涼しさやほの三日月の羽黒山雲の峰幾つ崩れて月の山語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな三日月は白い実相の片鱗、背景に羽黒のマーヤの森の闇のコントラスト。雲の峰なる転変する現象が崩れて正体である月輪を望む。真理は言葉で語られぬので「語られぬ湯殿」、袂はマーヤ。芭蕉の句は、その句でもってその時点でのあらゆる現象のうつろい...芭蕉の出羽三山
◎明知も無知も超える禅で弟子が大悟した時に、師匠が贈る言葉として、「それをも棄てて生きていきなさい」などと言われることがある。ラーマクリシュナの言うところの明知(ジュニャーナ)と無知(アジュニャーナ)は、仏教で言う明と無明や、闇と光、善と悪と同義。ラーマクリシュナは、神が万物に生きていることを知るのが明知だとし、「あのお方」を直接親しく知るのが、大明知(ヴィジュニャーナ)だとする。彼は、棘(無知)を抜くにはもう一本棘(明知)が要るが、抜いた後は、二本とも棄てる。なぜならば、「あのお方」は二本とも超えているからだという説明が出てくる。そこで、ラーマクリシュナは、明知を持つ人は無知も持つが、それで終わりではなく、明知も無知も超えるのがブラフマンだと確言する。(参考:ラーマクリシュナの福音1/シュリーマ(M)/東方出...ラーマクリシュナ明知も無知も棄てる
◎一人では続かない『執事だけが知っている世界の大富豪58の習慣/新井直之/幻冬舎』に「どんな時でも決まった時刻にヨーガをなさいます」というのがある。まさかヨーガをすれば、大富豪になれると思う人はいるまい。この40代イタリア人女性の大富豪は、会議中でも就寝中でも決まった時間、例えば16時が来れば、会議を30分ほど中断してヨーガの先生とヨーガをやる。就寝中でも決まった時間が来れば先生が起こしてヨーガをやる。なぜヨーガの先生を雇っているのかといえば、一人ではこの習慣は続けられないからだそうだ。師匠の力は貴重であり偉大なものだ。このヨーガは、金持ちであることを手放さないでやるのだから「健康を目的とした」ハタ・ヨーガなのだろうと思う。この世のすべての享楽を味わい尽くし、この世のすべての悲惨を甘受せしめられでは、金の価値を...大富豪はヨーガの先生を連れている
◎了解のできないうちは実行しない古神道には幽斎と顕斎がある。また古神道では、人を霊と体に区分し、霊主体従などと唱える。そこで出口王仁三郎は、幽斎はドンドンやってよいが、顕斎である鎮魂帰神法、鎮魂は、了解のできないうちは、なるべく実行しない方がよいと戒める。歴代の陛下は御即位式の節は必ず鎮魂祭を行はせらるるほどに、鎮魂祭は、古神道における重要な祭儀。だが所謂デモ鎮魂を頻りに濫用すると、却て至貴至重なる、皇国の神法を汚濁したり、また禁厭祈祷と同一視されたりしては、日本国の重大行事を軽視する事になる。更にデモ鎮魂の弊害の例として、大本教では地方の発狂者などが治病の為に鎮魂を受けに来るのを、鎮魂をうけたために発狂したように誤って伝えられたことを挙げている。鎮魂を修する者は、了解した者でないといけないというが、何を了解し...デモ鎮魂を戒める
◎毎日の自分自身のチューンナップベネズエラで停電が6日も続いているという。2018年9月6日(木)未明の北海道胆振東部地震でのブラックアウト大規模停電は、ほぼ解消するのにまる2日を要した。首都圏では、東日本大震災の時に計画停電をやられ、停電というのが、いかに不便で活動力を削ぐものかを経験させられた。電気がなければ、上水も下水も使えない。熊本地震や、昨年の西日本豪雨などの被災地でもそうだったし、東日本大震災の被災当夜は、多くの人が停電で夜を明かしたので、見事な星空を見たという。ほとんど報道されないが、北朝鮮北部は、昨今の経済制裁で停電が長期間続いている地域があるという情報もある。文明論的には、電気文明は、火力文明の一翼であって、この時代の窮極兵器が核兵器であることから、どうしても火力文明は火で滅ぶという神話や古伝...停電と邪気払い
◎自己放下、神への沈潜と一者ゾイゼが第六身体を語っている。『根源の一者に、再び導かれることになっている、すべての人間にとって有益なのは、自らと万物の始原を知ることです。というのは、それによって、そうした人たちの最終目標も定まるからです。ですから、かつて真理について語った者はすべて、絶対の原初で、最も単一な何かがあり、それに先んずるものは皆無であるという点では、一致した意見を抱いていることを、承知しなければなりません。』(永遠の知恵の書/ドイツ神秘主義叢書6ハインリヒ・ゾイゼ/創文社P175から引用)ゾイゼが第六身体のことを根源の一者とよび、自らと万物の始原であり、絶対の原初で、最も単一な何かであると、三様の表現をとっている。これは有の側。また根源の一者は終わりがなく測り知れず、理性によって知ることはできないとす...ゾイゼの第六身体、第七身体
◎悟りは、科学的なメカニズム悟りは、科学的なメカニズムだなどという。ある宗派では、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経を何日も唱え、マントラシッディ経由で飛び込もうとする。ある宗派では、空というこの一なるものだが、変化をやめぬものを観想し、また諸尊格をありありと観想し、向こう側に飛び込もうとする。ある宗派では、セックスには何かあるとみて、愛欲の地獄に落ち込まないままに光明を、愛と大慈大悲の大海を目指そうとする。(木乃伊取りが木乃伊になりやすい)ある宗派では、向精神性薬物を用いる。もっともそれを利用するには、タイミングと用量について師匠の細かな指示を受けねばならない。(これもまた木乃伊取りが木乃伊になりやすい)若年で小食で睡眠不足で、禅などの冥想修業を繰り返せば、人によっては、精神を病んだり、肉体を病んだりして亡くなる人...方法と結果
◎自分自身で水を飲んではみたものの自力と他力と言えば、弥陀の本願に救い摂らせ参らせるなど、自力が他力に転換するなどとと、気軽に転換を語る。自力は大変、他力は容易など、浄土系では言うものの、実際は、自力も困難、他力も困難なのではないかと思う。阿弥陀仏が自分のことを救い摂ってくれるかどうかは、阿弥陀仏様の匙加減一つであって、自分がやってほしいと思ったからできるという類のことではない。ロバは馬より一回り小さいし、馬は精悍だが、ロバはのろまな感じを受ける。駄目な禅僧は、自分のことをめくらのロバと称する。禅ではよく馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることまではできないという。なんとなれば、自分で飲むしかないから。あるいは、冷暖自知す、などとけむに巻く。水辺にあって水を飲まないロバこそがダメ僧だと自称する。とこ...自力と他力
◎自らを省みる閑日月人間の幸福のバリエーションを神社仏閣で頒布しているお守りの種類で見れば、健康、家内安全、交通安全、金運上昇・商売繁盛、恋愛成就、良縁との縁結び、安産、学業成就、合格祈願厄除け・魔除け、というようなところ。これに対して人生全体を12区分してみる西洋占星術では、プライベート面とされる第一室から第六室が、物質面、肉体面であって、全体の半分。一方パブリック面・公的面とされる第七室から第12室とは実は精神面ではないかと思われる。こうした12の区分そのものがそれほど古いものではないので、あまりこだわるわけにも参らぬが、人生の幸福の代表的12面といえば、こういう風になる。1室:自分自身の大悟2室:金や財産3室:兄弟、初等教育4室:家庭5室:恋人、子供6室:健康、部下7室:配偶者8室:性と死9室:高等教育、...人間にとっての幸福の諸相と裏側
◎こんなひどい世でも望みかかへて神のいませる2019年3月6日厚生労働省主催の依存症の理解を深めるための普及啓発イベント「誤解だらけの“依存症”in東京」に特別ゲストとして清原和博氏が出席しトークショーを行った。清原氏は2016年2月に覚せい剤取締法違反で逮捕され、5月に懲役2年6月、執行猶予4年の有罪判決を受けている。話の内容は、要するに逮捕がきっかけで治療が始まったこと(逮捕されないと治らないんだ)。薬物は一時的に止められても止め続けるのは自分自身では難しい。薬物中毒専門病院でないと治療が難しいということ。それを教訓にすると一度でも麻薬に手を出してはいけないということになる。昔は中毒と言ったがいまは依存症。薬物依存、アルコール依存、ギャンブル依存、youtube依存、動画依存、モバゲー依存、ポルノ依存などな...清原和博選手薬物中毒を語る
◎天皇に殉ずると他人に親切は同義一億火の玉、撃ちてしやまむなど、公に殉ずるという日本人の気質は、戦前戦中において、極めて純粋であり、世界史的には類例を見ないものだろうが、日本の歴史から見て、それが特殊なものでないことは、以下の例を見れば明らかである。〇楠三代記の楠公の言生きんと欲すれば必ず破れ死なんと欲すれば必ず勝つ(日本国の軍人には生きて還るという心懸けの者はない。(だが満州から真っ先に帰ったのは軍人だったが))◎万葉集に海往かば水潜屍(みずくかばね)、山往かば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ閑には死なじ顧みはせじ。◎同上東人の立つる言だて額には矢は立つとも脊には瘡は負はじと云々。報本反始とは、もともとは礼記にある言葉で、本に報い、始めに反 (かえ) るということ。戦前は、祖先信仰と国家神道推進のため政府に盛ん...戦前の日本人気質の骨抜き
◎人為極大となった今の時代まもなく新帝に譲位される前の微妙に落ち着かない2019年3月である。出口王仁三郎説では、日本には革命がなかった。道鏡、藤原純友、平将門は、帝位をうかがいながらも、謀反人として成敗された。出口王仁三郎は、『革命のある国は弱く、革命のない国は強い』(出口王仁三郎全集第1巻皇道編第5篇皇道と国体第4章神国の研究)としている。その理由は産業構造のことではなく、革命のある国では、軍隊が自分の命を惜しむから弱く、一方日本のように革命のない国では、軍隊が自分の命を惜しまず忠烈勇武だからとする。時代は移り、ボタン一つで何十万人、何百万人を殺戮できる兵器の時代となった。そうした時代では、軍隊自らが帝位をうかがうので士気が低いとか、そうでなければ忠烈勇武というのは全く関係がないように見えるが、実にそういう...革命のない国日本
◎どのような願望を持つかということ大学、高校受験や資格試験や就職活動で、人は未来において合格することを想像し、観想するものだ。そうしてその実現可能性を高めるために勉強したり、学業成就のお守りをもらいに行ったりする。自分の努力の範囲内で実現する願望ならより容易なものであるが、どうみても自分の今生の努力では届かない類の願望も起こることがある。例えば、フィギュアスケートでオリンピック2連覇の羽生結弦選手を超えたいとか、若手将棋棋士の藤井聡太七段を打ち負かしたいとかである。まったくのど素人がそれを願望してもまず届くことはないだろう。というのは、彼らがその水準に到達できているのは、今生だけの努力ではないからと思われるからである。ハタ・ヨーガでは、普通に今生で肉体を整え、次の生でクリア・ヨーガをやるということを展望するので...過去を変えるということ
◎柳生宗矩の親友沢庵は、徳川家光が心酔していた大徳寺の禅僧。出身地が但馬出石で山形県上山も流罪の地として知られる。堺の南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事し、32歳になった慶長9年(1604年)に、大悟し、印可された。慶長十四年には、大徳寺の住職になったが、紫野の仏法世を救う仏法に非ずと唱え、3日で住職をやめた。5年後に大阪冬の陣が起こる。1620年彼は出石に帰り、前後13年くらいぶらぶらしている時期がある。この時期は、いわゆる悟後の長養ではなく、本人の説明も単に閑を楽しんでいるわけではないというが、はっきりは理由を書いていない。長期間ぶらぶらしていたのに、家光が江戸に巨刹東海寺を立てて沢庵を迎え、頻繁に沢庵を訪問したのは、家光の禅への帰依が厚かったからではあるまい。勝海舟の沢庵評は、要するに幕府の隠密僧だから全国行脚...沢庵宗彭
◎天童山の道如上座電車に乗ると膝や太腿に穴のあいたジーンズを着ている人もいる。これは故意にそうしているのであって、人に見せる目的のものである。正法眼蔵随聞記で、天童山の書記(修行者中の第二位)で道如上座という人がいた。この人は政府高官の子弟であったが、親族とも交際せず、世俗の利益も貪らなかったので、衣服のやつれや、破れは目も当てられなかった。あまりにも率直で遠慮のない道元が彼に質問するに、「貴殿は貴顕の生まれながら、その衣服はどうしてそこまでぼろぼろなのですか」。道如答えて曰く、「僧だから」と。清貧を通すには、世間からバカにされることを恐れないという一種の決心が必要である。専門道場での修行はある意味で社会性の放棄だが、天童山においても棄てきれぬ僧は珍しくなかったのだろう。ぼろぼろファッションと清貧
◎戦争のタイミングと覚醒1941年11月26日のハル・ノートで、日本は進退谷(きわ)まり、対米開戦に追い込まれたところはある。北朝鮮の人々の生活困窮は、今に始まったことではないが、トランプ・金正恩会談が決裂し、金正恩が手ぶらで帰ってくることになったのは、ボディー・ブローのように効いているかもしれない。その上、会談決裂翌日には、傀儡政権みたいなのが発足し、読み筋どおりで動かしている勢力もあるのだろうと想像した。時しも、インド・パキスタンも武力行使の応酬があり、ベネズエラ国内は非常時であり、イスラエル対イランも不穏である。このように熾火のような紛争が同時多発する時には、どこかが本格的に着火する場合がある。ユーゴ紛争の時みたいに。一旦本格始動してしまえば、その戦争の勢いを止めることはほとんど人間の手を離れてしまいがち...トランプ・金正恩会談が決裂
◎五六七の神世(みよ)を楽まむ。みずほの国日本は、野にも山にも神の徳がはっきりと感じられる。赤い紅葉と白い蓮の花なら日章旗だが、このような風景は野山に冴え渡る。やがて隆々と昇る旭光に倣って神の道が照らし、万人が神を知っている、ほづまの国の精神を世界の果まで輝かして五六七の神世(みよ)を楽しみましょう。かくして最終節は、『身の過ちは宣りなおせ』。一回行ってしまった過ちは、『言い直す』だけで、神様に勘弁してもらえるのか。そもそも過去の行動を宣り直すとは何か。これを関西人風のソフトで、人情に通じた優しい物言いであって、布教して信者を増やす殺し文句であると考えると、おそらく間違える。霊界物語第26巻総説歌から。『【み】づほの国の民草よ【の】にも山にも神の徳【あ】きの稔のいちじるく【や】百頴千頴(ほかいちかい)の稲の波【...縦から読んでも横から読んでも-6
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