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  • 中世の人口過密都市鎌倉

    中世の人口過密都市鎌倉 鎌倉の人口 現在の鎌倉市の人口はおよそ17万人。鎌倉時代の鎌倉の人口についてはもちろんよくわかっていないが、建長4年(1252年)に鎌倉幕府が禁酒法(枯酒の禁、一種の倹約・禁欲令)を発令した時に調べ上げられた酒壺の数(この法令により鎌倉市中の民家が所有していた3万7274個の酒壺のうち各戸1個だけを残してあとは全て破却された)や様々な市内の発掘調査の成果から、当時の鎌倉の人口はおよそ5万人から10万人程度と見積もられている。 2015年に放映されたNHKの「ブラタモリ」鎌倉編では、鎌倉時代の鎌倉の範囲が現在の市域の地図と重ねるとその面積は約3分の1と狭く、この狭いエリアに最大で10万もの人々が住んでいたこと、現在はこのエリアの人口が5万人くらいであることからかなりの人口密度であったこと、このため三方を山に囲まれ平地が少ない地形上鎌倉時代の住民は山際の谷(ヤツ)..

  • 警視庁 抜刀隊

    抜刀隊 デニムトートバッグ好評販売中です! 明治10年の西南戦争で最大の激戦となった田原坂の戦い。 剽悍無比の西郷軍の薩摩隼人たちの凄まじい白刃攻撃に、政府軍は各所で退却を余儀なくされ、戦況の悪化が憂慮されていました。このため政府軍は警視隊(警官)より剣術に優れた者たちを選抜し、ここに抜刀隊が編成されました。 田原坂の戦いで奮戦した警視庁の抜刀隊隊士を大胆にのせたレトロ感のある国産デニム地バッグです。 戦国・幕末グッズ 侍気分 鎌倉店

  • 鎌倉と島津家

    近世島津家資料では初代忠久は源頼朝のご落胤(庶長子)とされる。かって鎌倉八幡宮近く若宮大路沿いに存在していた本陣大石の宿帳「御屋形様御参詣並御名代記留」に忠久と頼朝の命日に墓参した西郷どんでおなじみの家中の名が記されている。画像は「鎌倉77,78号」に掲載された平田恵美氏の寄稿文、宿帳の一部です。  戦国グッズ 侍気分 鎌倉店

  • 石田三成 「義は我にあり!」

    捕らえられた石田三成は洛中を引き回され、六条河原の刑場で処刑される。 刑場に向かう三成は喉が渇き、警護の者に白湯を求める。 警護の者は白湯の代わりに、持ち合わせた干し柿を三成に差出した。  「白湯は用意できない。喉が渇いているならこの干し柿を召されよ」  三成は「干し柿は胆の毒(腹を冷やす)であるからご遠慮する」と断る。 これを聞いた警護の者は「これから首を刎ねられるものが腹を気遣うとはまことに笑止」と三成を嘲笑した。 すると三成は「お前らのようなものには理屈通りかもしれないが、 大義を思い、抱く本望の達成を望むものは首を刎ねられるその瞬間まで命を大事にするものだ」と言い放った。   石田三成肖像画  慶長5年(1600年)9月15日午前8時、関ヶ原にて先端の火ぶたが、 切って落とされた。   当時、時代の気運は新たな..

  • 幕末日本の銭湯にびっくりする外国人

    幕末、明治初年に日本を訪れた外国人は、日本の風俗、自然そしてとりわけ日本人の資質について概ね好意的な印象を抱いたようだ。   礼儀正しく、朗らかであり、そして慎み深く・・・   だが、ある風景を目にした彼らは一様に驚愕している。 男女混浴の風景です。  日本遠征記より 下田の共同浴場 ハイネ画  嘉永六年(1853年)黒船を率いて浦賀に来航したペリーは、帰国後著した「日本遠征記」に 「町内には男女混浴の共同浴場があり、男女とも赤裸々な裸体を何とも思わず、お互い入り乱れて混浴している有り様を見ていると、この町の住民の道徳心に疑いを感ぜざるを得ない」と記している。   安政三年(1856年)に来日、米国の初代駐日公使となったハリスは、 「何事についても間違いのない日本人が、何故このような品位に欠けたことをするのか理解に苦しむ」..

  • 人斬り抜刀斎とは何者か!?

    「大逆無道、天地に容る可からざる国賊に付き、天誅を加へん」 文久二年(1862年)から文久三年にかけて京都で天誅テロ事件が頻発する。この時期を評して「暗殺の季節」とも呼ぶことがある。天誅とは天に代わって悪人を誅罰するとの意味ですが、一般的には文久年間以降に過激な攘夷派が主に京都を舞台に行った暗殺行為を指します。彼らは暗殺、脅迫等の行為を天誅という言葉で正当化しました。 天誅は徳川幕府が断行した安政の大獄への報復に始まった。安政の大獄で反幕分子の捕縛に関わった者たちを暗殺し、続いて佐幕派・公武合体派の公家や幕吏、富商なども天誅の対象とされた。天誅の名のもとに京都で人斬りが続発。京の都は暗殺の季節を迎える。当時、京都における幕府の機関は、京都所司代と町奉行であったが、これらの機関では尖鋭化する過激な攘夷浪士の捕縛やいよいよ複雑化する朝幕関係を処理することができなくなっていた。そのため京都に強固..

  • 徳川幕臣とお茶の話

    今年6月に世界文化遺産に登録された富岡製糸場のホームページにのる同製糸場のあらましに、「明治維新後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、産業や科学技術の近代化を進めました。そのための 資金を集める方法として、生糸の輸出が一番効果的だと考えました。そこで政府は生糸の品質改善・生産向上と、技術指導者を育成するため、 洋式 の繰糸器械を備えた模範工場をつくることにしたのです。」と説明されています。日米修好通商条約が締結された翌年の安政六年(1859年)の安政開港から昭和恐慌までの約70年間、生糸輸出による外貨獲得で日本は産業近代化に必要な資材等を欧米列強から輸入できたという事ですね。 ところでこの生糸に次いで開港時より明治30年頃まで日本の輸出品目第2位の地位にあったのはお茶(煎茶)でした!(開港直後の輸出品第1位は海産物でしたが、その後2,3年で生糸、お茶に抜かれます) ちょっと意外な感じ..

  • 辻斬り と かぶき者

    「月のない星明りのきらめく薄暗い夜で、提灯の火で足元をてらして歩くと、天王橋の所で、一人がヒェッと脅えたので、提灯を差付ると、そこに年寄った男が袈裟懸け(けさがけ)に斬られて、真逆様に打倒れ、まだ斬り立ての・・・」   江戸幕末を生きた古老の回顧談を集めた篠田鉱造氏著「幕末百話」に江戸文久元治の頃の辻斬りの話がありました。   辻斬りとは? 大辞林をひくと「武士が刀の切れ味を試し、また武術を磨くために、夜間、路上で行きずりの人を斬ったこと。また、斬る人。江戸初期横行し、幕府は禁令を出して引き回しの上死罪とした。」とあります。   辻斬りは世情騒乱の幕末期にも横行していますが、大辞林にもあるように未だ戦国の気風が残る江戸初期において多く発生したようです。   徳川第3代将軍の家光(1604~1651)や水戸黄門として知られる徳川..

  • 新撰組 沖田総司と黒猫の話

    「幕末未来人」という昭和52年に放映された連続ドラマをNHKのオンデマンドで見ました。 学校帰りの2人の高校生が横須賀の戦艦三笠の艦内を見学していると、突然不思議な現象が起きて彼らは幕末にタイムスリップ。   2人の若者は幕末の日々を、持っていた日本史年表を頼りに悪戦苦闘しながら過ごします。 しかし2人が遭遇する幕末の出来事と日本史年表が記述する史実との間で徐々に歪みが生じていく。  薩英戦争が史実より3日前に勃発。 長州の桂小五郎が池田屋で命を落とす。 ・・・  新撰組の沖田総司も登場する。 沖田総司は若き蟹江敬三が演じる水戸浪士と決闘する。 勝負は沖田総司有利の展開となるが、急に激しく咳込んだところを蟹江浪士に斬られてしまう。   まさかの展開!      沖田総司の剣は天才的であったらし..

  • 中国大返しと戦国の使者

    天正10年(1582年)6月3日の夜半、備中高松城を囲む秀吉のもとに、 前日2日早暁 明智光秀謀反により織田信長が本能寺にて死すとの情報が もたらされる。   秀吉は素早く毛利側と講和を結び、翌日4日に備中高松城を開城させると、 光秀討伐のため京を目指し全軍を移動させる。 7日には本拠姫路城に帰着。 ここで在庫する金銀米銭を残らず将兵に分配、姫路での籠城戦の意思は無く、光秀との乾坤一擲の決戦に打ってでる決意を将兵たちに示す。   天正10年(1582年)6月13日、山城の国山崎で会戦、1日にして光秀を倒す。 本能寺の変報をうけて、実におよそ200kmの行程を駆け抜け、わずか10日後に光秀との天王山の戦いに勝利した秀吉。 世に名高い秀吉の中国大返しです。   羽柴秀吉肖像画  ところで、秀吉陣営に本能寺の変..

  • 猛将 柴田勝家と湯漬け飯の話

    永禄三年(1560年)、2万5000の大軍を率いて駿府を出陣した今川義元は 尾張に侵攻、若き信長はこれを迎え撃ち、見事に撃破する。 世に名高い桶狭間の合戦です。   信長の領国の最前線となる砦に対し今川勢の攻撃が開始されたとの知らせを受けると、仮眠をとっていた信長は起き上がり‘敦盛’を舞う。  「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり・・・」   そして具足をつけ、立ったまま湯漬けを食べると、僅かな近臣を従え清州城から駆け出る。   大河ドラマでも度々描かれるシーンです。 具足を纏い、決死の覚悟を決めた信長が立ちながら湯漬けをかきこむ姿が 恰好よいです。   永山久夫氏著「戦国の食術」に、湯漬けは信長の‘先手必勝の勝負食’であり、出陣や軍議の前に湯漬けをさらさらとかきこんだと書かれています。 ..

  • 山中鹿介幸盛 ー 願わくば、我に七難八苦を与えたまえ

    「その百折不撓(ひゃくせつふとう)の精神の強靭さは、驚嘆すべきものがある。日本歴史上おそらく類がないであろう。」   海音寺潮五郎氏著の「武将列伝―山中鹿之介」に鹿介を評してこう 記されています。   山中鹿介幸盛の主家、尼子氏は経久の代に山陰地方を席巻、近隣の諸国を打ち従え、天文初年(1532年)には11か国の国人を従える大大名家となる。 その後、経久の子晴久が跡目相続をしたころより安芸の毛利元就に圧迫され、尼子氏は次第に衰運に向かう。 そして晴久の嫡子義久の代、尼子氏は永禄9年(1566年)にその本拠、 富田城が毛利軍の猛攻を受け陥落、戦国大名としての尼子氏は滅亡した。   山中鹿介は富田城の奪回のためひそかに同志を募る。 尼子の血筋を継ぐ勝久を擁して、尼子氏再興のため立ち上がった。   一時..

  • 備中高松城城主 清水宗治 見事、名を残す

    「忍城を落とし、武功をあげよ!」 秀吉に命じられた石田三成は、忍城近くを流れる利根川を利用した水攻めを決意。 忍城の周辺に巨大な提(石田提)を築く。   忍城は本丸を残し、水に沈む。   のぼう(成田長親)は、浮き島となった忍城に籠城する士兵、領民を鼓舞するため、小舟に乗り水上に漕ぎ出すと、忍城を取り囲む三成方軍勢の前で田楽踊りを披露する。   映画「のぼうの城」の見せ場 野村萬斎さんの田楽踊りが見事でした。     清水宗治 錦絵  自らの最期をこの映画のシーンのように演出し飾った戦国武将がいました。   備中高松城城主 清水宗治   舞台は、天正10年(1582年)6月4日の備中高松城です。   織田の中国方面軍司令官の秀吉は、天正10年3月に姫路を出発し、翌月4月初旬に..

  • 天下布武 織田信長の暴風的衝動と本能寺の変!

       「彼は中背痩躯で髭は少なく、少し憂鬱な面影を有していた。極めて戰を好み、武技の修行に専念し、名誉心強く、義に厳しかった。戦術に極めて老練で、非常に性急であり・・・ 彼はみずからに加えられた侮辱に対して懲罰せずにはおかなかった。彼は日本の全ての王侯を軽蔑し・・・」   「彼がわずかに手をふり‘退け’と合図をすれば、どんなに多く広間に詰めていても、家臣たちは一瞬にしていなくなってしまう。家臣たちの狼狽の様子は、彼らの目の前に突然獰猛な牡牛が現れたかのようである」   当時、来日し信長の知遇を得たイエズス会のパードレが記した信長の人物評です。   大河ドラマや小説などで描かれる信長の人物像、   ‘既成の価値を歯牙にもかけない近代的な合理主義精神の持ち主' ‘残忍ともいえる無神論者、 あるいは魔王的な破壊者’   ..

  • 淀殿と悲しい秀吉の手紙

       淀殿肖像画 秀吉は史上例のない破格の出世をする。   尾張中村の土民の子せがれとして生まれ、わずか一代で関白、太閤へと昇進。   英雄はただ一代でおわる。 秀吉の死後わずか17年で豊臣家は滅亡します。   その出自のため譜代の重臣を持たず、数少ない直臣団も武功派と文治派に分裂。 脆弱な家臣団しか持てなかったことが豊臣政権短命の要因とされる。   秀吉子飼いの武将たちは家康の計略にはまり、関ヶ原の戦いでは東西に分かれ対立、豊臣家滅亡を招く。    秀吉が五大老に宛て、幼い秀頼の行く末を案じて書いた手紙が残っています。  「秀よりの事 なりたち候やうに 此かきつけ しゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此ほかにわおもいのこす事なく候 かしく」   (秀頼のこと 成り立つように この書付 五大老衆..

  • 初鰹の話 ちょっと時期はずれですが

      初物、ことに初鰹に寄せた江戸の人々の関心は熱狂的なものでした。   ‘女房を質に入れても食べたい’初鰹は正月ごろに鹿児島沖に到着し、その後黒潮に乗り初夏相模沖に到達します。   鎌倉、小田原あたりの漁師が採った初鰹は東京湾入り口で特別な高速船に積み替えられ、江戸日本橋の魚河岸に運び込まれます。   冷凍設備のなかった時代、鮮度の落ちやすい生の魚を運ぶため「押送船オシオクリブネ」 という当時の最高速の船で運ばれたのです。 この押送船、細長い船体に片側4挺ずつの櫓があり、8人の船頭さんが一斉に漕ぐ高速船で、魚荷専用のクール宅急便のような存在でした。   最初に入荷されたものが正式には初鰹ですが、これはとても庶民が口に出来るものではありません。 まず将軍家に献上され、残りを超高級料理茶屋や限られたセレブ(人気歌舞伎スタ..

  • 大坂夏の陣に散った武辺者 真田幸村 後藤又兵衛 毛利勝永

     大坂夏の陣は東西両軍合わせ戦死者2万5千を超える類例をみない激戦となった。   天下分け目の戦いと言われる関ヶ原の決戦でも戦死者の数は1万に満たない。   すでに戦いの行方が決しているなかで、何故これほどの戦死者を出す激戦となった のでしょうか?   大坂夏の陣、戦国最後の武辺者たちの真にめざましい戦いがあったようです。   慶長19年(1614年)11月、徳川家康は30万人にのぼる大軍をもって 大坂城を包囲。 この大坂冬の陣の戦いは、真田幸村の活躍もありやや西軍(大坂豊臣方)有利で あったが、翌月には休戦条約が結ばれ、老獪な家康の策略により天下の堅城大坂城 も二の丸、三の丸の濠までも埋められてしまいます。   慶長20年(元和元年)5月、家康は再び大軍を率い大坂城に攻め寄せる。   ..

  • 「軍師 官兵衛」 名前の話

     「軍師 官兵衛」 黒田官兵衛を筆頭に~兵衛の名前が多く登場します。 竹中半兵衛、母里武兵衛、母里太兵衛。 もうすぐ後藤又兵衛も登場しますね。   磯田道史氏著「江戸の忘備録」によれば、(人別帳から確認できる)江戸時代には日本人男性の約半数が~兵衛、右衛門、左衛門であったようです。   同書によれば、兵衛、衛門はもともと朝廷の衛士を示す官名で、中世の日本人に「自分は貴人の末孫で武士であった」との意識が高まり、庶民も自由に~兵衛、~衛門を名乗り始めた。  室町時代にはこの官名の‘私的使用’がすっかり定着。 かくして日本中が~兵衛、~衛門の名であふれたようです。     ところが明治3年、時の政府はこの官名を‘通称’として称することを禁じた通達を出します。 ~兵衛、~衛門は本来、律令制度に由来した官命ですから..

  • 江戸の渋谷スクランブル交差点

       東京渋谷のスクランブル交差点。 まさに圧巻の景色が展開される場所です。 圧倒的な人の数、信号が青に変わり一斉に動き出す人、人、人・・・。   今や外国人観光客にもすっかり有名になった東京の観光名所です。   江戸の観光名所をあげれば、浅草観音、神田明神、湯島天神・・・ こうした神社仏閣の他に、大都市江戸でなければ見られないものがあった。 大名たちの登城の様子です。   大名たちの登城日、江戸城城門(大手門、桜田門)前では 渋谷スクランブル交差点にも劣らない圧巻の風景が見られたはずです。   定例の登城日は月に3日あり、他に年始や節句などの式日 に江戸在府の大名たちがほぼ同時刻一斉に登城します。   江戸の観光客は時間前に道筋に出て、各々良い見物場所を確保し 大名たちの登城行列..

  • 「光りあるところに影がある」超人的忍者は存在したのか?

       白木三平作 サスケ 漆黒の闇を疾風の如く駆け抜け、手裏剣を打ち、高い塀も難なく 飛び越える。 その姿を追えば、煙の如く姿を消す。   映画やアニメの世界で活躍する超人的な忍者。 はたして実在したのでしょうか?  以下順に考えてみました。   *戦国の世 時代は忍者を必要とした   戦国時代、武将たちが繰り広げた合戦は戦う前にすでに勝負が 決していたことが多かったようです。   戦国武将たちは戦いにあたって、敵側に内通者を作る(内通工作)、 意図的な噂を流し敵方将兵を仲間割れさせる(離間策)といった 謀略を仕掛ける。 事前の謀略戦が合戦の勝敗を決定づけたと言えるようです。   またいざ合戦となれば、闇夜に紛れて敵方を奇襲するといったゲリラ戦 や、敵陣営に放火し後方を..

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