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  • 備中高松城城主 清水宗治 見事、名を残す

    「忍城を落とし、武功をあげよ!」 秀吉に命じられた石田三成は、忍城近くを流れる利根川を利用した水攻めを決意。 忍城の周辺に巨大な提(石田提)を築く。   忍城は本丸を残し、水に沈む。   のぼう(成田長親)は、浮き島となった忍城に籠城する士兵、領民を鼓舞するため、小舟に乗り水上に漕ぎ出すと、忍城を取り囲む三成方軍勢の前で田楽踊りを披露する。   映画「のぼうの城」の見せ場 野村萬斎さんの田楽踊りが見事でした。     清水宗治 錦絵  自らの最期をこの映画のシーンのように演出し飾った戦国武将がいました。   備中高松城城主 清水宗治   舞台は、天正10年(1582年)6月4日の備中高松城です。   織田の中国方面軍司令官の秀吉は、天正10年3月に姫路を出発し、翌月4月初旬に..

  • 天下布武 織田信長の暴風的衝動と本能寺の変!

       「彼は中背痩躯で髭は少なく、少し憂鬱な面影を有していた。極めて戰を好み、武技の修行に専念し、名誉心強く、義に厳しかった。戦術に極めて老練で、非常に性急であり・・・ 彼はみずからに加えられた侮辱に対して懲罰せずにはおかなかった。彼は日本の全ての王侯を軽蔑し・・・」   「彼がわずかに手をふり‘退け’と合図をすれば、どんなに多く広間に詰めていても、家臣たちは一瞬にしていなくなってしまう。家臣たちの狼狽の様子は、彼らの目の前に突然獰猛な牡牛が現れたかのようである」   当時、来日し信長の知遇を得たイエズス会のパードレが記した信長の人物評です。   大河ドラマや小説などで描かれる信長の人物像、   ‘既成の価値を歯牙にもかけない近代的な合理主義精神の持ち主' ‘残忍ともいえる無神論者、 あるいは魔王的な破壊者’   ..

  • 淀殿と悲しい秀吉の手紙

       淀殿肖像画 秀吉は史上例のない破格の出世をする。   尾張中村の土民の子せがれとして生まれ、わずか一代で関白、太閤へと昇進。   英雄はただ一代でおわる。 秀吉の死後わずか17年で豊臣家は滅亡します。   その出自のため譜代の重臣を持たず、数少ない直臣団も武功派と文治派に分裂。 脆弱な家臣団しか持てなかったことが豊臣政権短命の要因とされる。   秀吉子飼いの武将たちは家康の計略にはまり、関ヶ原の戦いでは東西に分かれ対立、豊臣家滅亡を招く。    秀吉が五大老に宛て、幼い秀頼の行く末を案じて書いた手紙が残っています。  「秀よりの事 なりたち候やうに 此かきつけ しゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此ほかにわおもいのこす事なく候 かしく」   (秀頼のこと 成り立つように この書付 五大老衆..

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