人斬り抜刀斎とは何者か!?

人斬り抜刀斎とは何者か!?

「大逆無道、天地に容る可からざる国賊に付き、天誅を加へん」 文久二年(1862年)から文久三年にかけて京都で天誅テロ事件が頻発する。この時期を評して「暗殺の季節」とも呼ぶことがある。天誅とは天に代わって悪人を誅罰するとの意味ですが、一般的には文久年間以降に過激な攘夷派が主に京都を舞台に行った暗殺行為を指します。彼らは暗殺、脅迫等の行為を天誅という言葉で正当化しました。 天誅は徳川幕府が断行した安政の大獄への報復に始まった。安政の大獄で反幕分子の捕縛に関わった者たちを暗殺し、続いて佐幕派・公武合体派の公家や幕吏、富商なども天誅の対象とされた。天誅の名のもとに京都で人斬りが続発。京の都は暗殺の季節を迎える。当時、京都における幕府の機関は、京都所司代と町奉行であったが、これらの機関では尖鋭化する過激な攘夷浪士の捕縛やいよいよ複雑化する朝幕関係を処理することができなくなっていた。そのため京都に強固..