訪問日:2025年2月徳川家康陣は佐賀県唐津市にあった陣跡です。名護屋城とともに国特別史跡に指定されています。豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城を築き,諸大名を呼び寄せ周辺に陣を築かせました。五大老の筆頭である徳川家康も例に漏れず陣を築きました。家康自身は1592年の4月に到着したようですが,当初は前田利家の陣に隣接した一であったようですが,小競り合いを起こし現在の名護屋城近くの場所に陣を構替えられた...
2025年6月
第506回:[肥前]徳川家康陣(五大老筆頭 徳川家康の陣跡)
訪問日:2025年2月徳川家康陣は佐賀県唐津市にあった陣跡です。名護屋城とともに国特別史跡に指定されています。豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城を築き,諸大名を呼び寄せ周辺に陣を築かせました。五大老の筆頭である徳川家康も例に漏れず陣を築きました。家康自身は1592年の4月に到着したようですが,当初は前田利家の陣に隣接した一であったようですが,小競り合いを起こし現在の名護屋城近くの場所に陣を構替えられた...
第505回:[肥前]前田利家陣(庭園も備えた前田利家の陣跡)
訪問日:2025年2月前田利家陣(とよとみひでやすじん)は佐賀県唐津市にあった陣跡です。名護屋城とともに国特別史跡に指定されています。豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城を築き,諸大名を呼び寄せ周辺に陣を築かせました。五大老の一人である前田利家は徳川家康に次ぐ勢力を持った大名でありますが若かりし日より秀吉との関係があった盟友ともいえる存在です。ています。利家自身は1592年の4月に到着したようですが,当...
第504回:[肥前]豊臣秀保陣(一門衆である豊臣秀保の朝鮮出兵における陣跡)
訪問日:2025年2月豊臣秀保陣(とよとみひでやすじん)は佐賀県唐津市にあった陣跡です。名護屋城とともに国特別史跡に指定されています。豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城を築き,諸大名を呼び寄せ周辺に陣を築かせました。豊臣秀保は豊臣秀吉の姉の子で秀吉の弟である豊臣秀長の養子となりましたので重要な一門衆ということになります。入江の一つである串浦から名護屋城を結ぶ通りを押さえた重要拠点に配置されている...
2025年6月
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訪問日:2025年2月徳川家康陣は佐賀県唐津市にあった陣跡です。名護屋城とともに国特別史跡に指定されています。豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城を築き,諸大名を呼び寄せ周辺に陣を築かせました。五大老の筆頭である徳川家康も例に漏れず陣を築きました。家康自身は1592年の4月に到着したようですが,当初は前田利家の陣に隣接した一であったようですが,小競り合いを起こし現在の名護屋城近くの場所に陣を構替えられた...
訪問日:2025年2月前田利家陣(とよとみひでやすじん)は佐賀県唐津市にあった陣跡です。名護屋城とともに国特別史跡に指定されています。豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城を築き,諸大名を呼び寄せ周辺に陣を築かせました。五大老の一人である前田利家は徳川家康に次ぐ勢力を持った大名でありますが若かりし日より秀吉との関係があった盟友ともいえる存在です。ています。利家自身は1592年の4月に到着したようですが,当...
訪問日:2025年2月豊臣秀保陣(とよとみひでやすじん)は佐賀県唐津市にあった陣跡です。名護屋城とともに国特別史跡に指定されています。豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城を築き,諸大名を呼び寄せ周辺に陣を築かせました。豊臣秀保は豊臣秀吉の姉の子で秀吉の弟である豊臣秀長の養子となりましたので重要な一門衆ということになります。入江の一つである串浦から名護屋城を結ぶ通りを押さえた重要拠点に配置されている...
訪問日:2025年2月堀秀治陣は佐賀県唐津市にあった陣跡です。名護屋城とともに国特別史跡に指定されています。豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城を築き,諸大名を呼び寄せ周辺に陣を築かせました。堀秀治は織田信長,豊臣秀吉旗下として活躍した堀秀政の長男で朝鮮出兵に参陣した時16歳という若さでしたが北ノ庄城を本拠地とする大名で陣所も能舞台や茶室を備えた豪華なものであったようです。結局,秀治は一度も渡海する...
訪問日:2025年2月木下延俊陣は佐賀県唐津市にあった陣跡です。名護屋城とともに国特別史跡に指定されています。豊臣秀吉は文禄・慶長の役に際して名護屋城を築き,諸大名を呼び寄せ周辺に陣を築かせました。木下延俊は秀吉の正室である寧々の兄にあたる木下家定の三男です。縁者であるだけに延俊は名護屋城の大手のほど近くある方広寺山に陣を構えることが許されたようです。 ◆まず目指すは佐賀県立名護屋城博物館です。◆内...
訪問日:2025年2月唐津城は佐賀県唐津市にあったお城です。国特別史跡に指定され,日本100名城にも選定されています。豊臣秀吉の朝鮮出兵として知られる1592~1598年 文禄・慶長の役に際して築かれた巨大城郭です。玄界灘を望む勝男岳と呼ばれた独立丘陵に天下人の秀吉は黒田長政、加藤清正 等を普請奉とし九州の大名を動員し築城。わずか3か月の突貫工事で完成させたとされ,秀吉自身も1年強在城しています。また,名護屋城の周...
訪問日:2025年2月唐津城は佐賀県唐津市にあったお城です。続日本100名城にも選ばれています。1595年 豊臣秀吉の命によりこの地に入った寺沢広高(てらざひろたか)は当初 波多氏の城郭であった岸岳城に入ったようですが,1602年から新しい本拠地として唐津城の築城に着手し1608年に完成しました。満島山に本丸を築き山麓に二の丸や三の丸を配置するこの城の工事はに松浦川の流路を変え,諸藩の助力を得るなど大掛かりなものであっ...
訪問日:2025年2月岸岳城(きしたけじょう)は佐賀県唐津市にあったお城です。鬼子岳城とも表記するこの城は県史跡に指定されています。築城時期は不明な点が多く12世紀に上松浦党(かみまつらとう)の祖とされる源久(みなもとのひさし)の次男である持(たもつ)により築かれたとされたり14世紀の南北朝時代とされたりします。いずれにしても14世紀後半から戦国時代にかけて上松浦党を束ねた波多氏の重要拠点として機能し本拠地...
訪問日:2025年1月野崎城は大阪府大東市にあったお城です。三好長慶の巨大山城としられる飯盛城(飯盛山城)で知られる飯盛山の支脈に築かれており,1467年から始まった応仁の乱の頃には存在し,畠山氏を割った畠山政長と畠山義就(はたけやなよしなり)の争いの中で機能していたようです。その後も数度にわたり戦いがあったようですが1499年には政長の子である畠山尚順(はたけやまひさのぶ)方の拠点であったようです。戦国時代 ...
訪問日:2025年1月駒山城は兵庫県赤穂郡上郡町にあったお城で,町史跡に指定されています。14世紀 南北朝時代の白旗城合戦に際し赤松則祐が築いたとされてきましたが,16世紀には宇喜多直家の家臣である長船貞親が在城下との記録もあり,戦国時代には交通の要衝を押さえる宇喜多氏の境目の城として機能したと考えられ,1577年に落城したとされます。現在に残る遺構はこの時代のものです。 ◆上郡の町中からよく見える生駒山の...
訪問日:2025年1月白旗城(しらはたじょう)は兵庫県相生市にあったお城です。赤松氏城跡として置塩城,感状山城とともに国史跡に指定されています。築城時期には何通りかの説がありますが,現地の案内やパンフレットには1336年(建武3年)に赤松円心(則村)により築城されたとありました。建武の元号からわかるように親政で有名な後醍醐天皇と後に室町幕府を開いた足利尊氏の争いの中で築城されました。西へ足利尊氏を追う天皇方...
訪問日:2025年1月古渡城は愛知県名古屋市にあった城です。天文年間(1532-1555)に前田利昌(利春)により築城されたとされます。前田家がこの城を拠点としている時に前田利家が誕生しています。1560年には利昌が死去し長男である 前田利久が家督を継ぎましたが,1569年には織田信長の意向を受け病弱で実子がなかった利久に代わり弟にあたる利家が継ぎます。その後は利家の子の利長に引き継がれます。1575年に越前府中城に利家が居...
訪問日:2025年1月古渡城は愛知県名古屋市にあった城です。1534年頃に東の今川氏に備えるため織田信秀が築城し,信秀の息子の織田信長はこの城で元服したと伝わります。信秀は那古野城を信長に譲りこの城を拠点としましたが1548年には末森城を築き移ったため廃城となりました。 ◆古渡城のあった場所は現在遺構らしきものは残っておらず,1690年 東本願寺の一如上人によって建立された真宗大谷派名古屋別院(東別院)となって...
訪問日:2025年1月鷲津砦は愛知県名古屋市にあった砦で大高城,丸根砦とともに国史跡に指定されています。1559年 織田信長が今川義元方の前線基地である大高城ににらみを利かせ鳴海城との連絡を絶つ位置に丸根砦とともに築きました。1560年の桶狭間の戦いに先立つ前哨戦では織田秀敏,飯尾定宗・尚清父子 等が配置されていたとされますが,今川家の重臣である朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に攻められ落城し,飯尾定宗は討死にし...
訪問日:2025年1月丸根砦は愛知県名古屋市にあった砦で大高城,鷲津砦とともに国史跡に指定されています。1559年 織田信長は今川義元方の前線基地である大高城ににらみを利かせ鳴海城との連絡を絶つ位置に鷲津砦とともに気づきました。1560年の桶狭間の戦いに先立つ前哨戦では大高城の松平元康(徳川家康)に攻められ城将の佐久間盛重以下の兵士が全滅したと言われています。桶狭間の戦い以後,今川氏より独立した松平元康と同盟関...
訪問日:2025年1月大高城(おおだかじょう)は愛知県名古屋市にあった城で国史跡に指定されています16世紀初頭の永正年間に花井備中守による築城と伝わります。16世紀後半の戦国時代には織田信秀の勢力圏内となっていましたが,織田信長の代になると鳴海城の山口教継(やまぐちのりつぐ)が今川義元側に寝返り大高城の調略にも成功します。織田信長はこれに対して丸根砦,鷲津砦 等の砦を周囲に築き包囲を強めました1560年 桶狭間...
訪問日:2013年11月 → 2015年1月飯盛城は大阪府四条畷市と大東市にかけてあったお城です。以前は飯盛山城ということの方が多かったのですが,最近は飯盛城に統一されつつあります。国史跡に指定され続日本100名城にも選定されています。このお城 現在の大阪府と奈良県の間の生駒山脈にあり,畿内を押えるために非常に重要な位置にあります。元々は南北朝時代に南朝方の陣城として築かれたようですが,本格的な城郭となったのは戦国...
訪問日:2025年1月丹下砦,善照寺砦,中島砦(なかしまとりで)は愛知県名古屋市にあった砦です。織田信秀の死後 今川義元に寝返った鳴海城主の山口教継、教吉親子が1559年に義元により切腹させられると鳴海城には今川氏譜代の岡部元信が入りました。織田信長は鳴海城を取り囲むようにこの三つの砦を築き,南の大高城との連携を遮断するために大高城の北側には丸根砦、鷲津砦を築きました。1600年 桶狭間の戦いにおいて織田信長は...
訪問日:2025年1月鳴海城は愛知県名古屋市にあった城です。14世紀末から15世紀初頭の応永年間に安原宗範によって築かれたとされます。戦国時代には織田信秀の配下である山口教継(やまぐちのりつぐ)がこの城を守っていましたが,信秀の死去に伴い織田信長が家督を継ぐと今川義元に寝返りました。息子の山口教吉とともに織田信長に対抗し城を守り切ったにも関わらず,今川義元に親子ともども切腹させられました。信長の調略による...
訪問日:2025年1月名古屋城は愛知県名古屋市にあった城です。名城中の名城なのに今更ではありますが,尾張名古屋は城でもつと歌われ現在も中京地区の中心 名古屋の象徴的な存在であります。国特別史跡に指定され,もちろん日本100名城にも選定されています。16世紀の前半に今川氏親によって築かれた那古屋城(なごやじょう)が現在の二之丸辺りにありました。1538年に織田信秀が城主の今川氏豊を追い城主となりました。その子の織...
訪問日:2023年10月上山城(かみのやまじょう)は山形県上山市にあった城で,別名 月岡城とも呼ばれ市史跡に指定されています。この地は南北朝時代より天童氏の一族にあたる上山氏が高楯城を拠点として支配していましたが,羽州街道と米沢街道の分岐地点にあたる交通の要衝のため大勢力である最上氏と伊達氏の騒乱の場となりました。1508年 上山義房の時代に伊達氏により追われたが,1535年に義房の子である上山(武衛)義忠が奪還し...
訪問日:2023年10月山形城は山形県山形市にあった城で霞ヶ城とも呼ばれます。国史跡に指定され日本100名城にも選定されています。南北朝時代,羽州探題として斯波兼頼が1357年より築城を開始したとされます。その後,この斯波氏が最上氏を名乗り山形城は最上宗家の城として発展していきます。戦国時代から江戸時代初期まで出羽に覇を唱えた最上義光は大規模な城郭へと発展させ,1600年 北の関ケ原とも言われる慶長出羽合戦で上杉軍...
訪問日:2023年10月長谷堂城(はせどうじょう)は山形県山形市にあった城です。築城時期は定かでありませんが,1514年に史料に登場し伊達稙宗が当城を落としたと記録されています。一気に有名になったのは1600年 北の関ケ原と言われた慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)にて最上氏の重要な拠点として活躍したことによります。西軍についた上杉景勝の二万とも言われる大軍を率いるは知将 直江兼続。既に江口光清が守る畑谷城等を攻略し...
訪問日:2023年10月畑谷城(はたやじょう)は山形県東村山郡山辺町にあった城です。町史跡に指定されています。築城時期は不明ですが,戦国時代には山形城を本拠とする最上氏の支城として機能し,上杉氏や伊達氏といった隣接する勢力に対する最前線の城として活躍しました。1600年 北の関ケ原と称される慶長出羽合戦では城主 江口五兵衛光清(えぐちあききよ)が守るこの城を上杉軍の総大将 直江兼続の猛攻を受けました。主君の最...
訪問日:2023年10月中野城は山形県山形市にあった城です。築城年代は定かではありませんが,15世紀初めに最上義直の次男である中野満基により築かれたと案内板にあります。以後,中野氏を名乗り最上一族の主要な分家として宗家の当主を幾人も輩出しています。戦国時代にも最上義守が中野家より最上宗家に入り第十代目の当主となっています。この義守の長男が有名な最上義光であり,次男が中野家を継いだ中野義時です。1574年に最上...
訪問日:2023年10月天童陣屋は山形県天童市にあった陣屋です。1830年に高畠藩主であった織田信美(おだのぶかず)は天童陣屋に移り天童藩の初代藩主となりました。この家系は織田信長の次男で織田信雄(おだのぶかつ)の子孫にあたる家系です。江戸時代を通じて明治時代まで存続しましたが,1868年 戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いの後は新政府方として奥羽鎮撫使先導役に任じられました。この時,藩主 織田信学(おだのぶみち)は病...
訪問日:2023年10月天童城は山形県天童市にあったお城です。舞鶴山の全域にわたって築かれたこの城は天童古城とも呼ばれ天童市舞鶴山公園として整備されています。築城時期は南北朝時代の北畠天童丸によるとの伝承がありますが,14世紀の後半に最上直家の子である里見頼直がこの城に入り天童氏を称しました。戦国時代に入ると出羽国村山地方で勢力を拡大し最上氏に並ぶ勢力となり,共闘と対立を繰り返します。当主が天童頼貞の時 1...
訪問日:2023年10月寒河江城(さがえじょう)は山形県寒河江市にあったお城です。鎌倉幕府政所別当として有名な大江広元の子である大江親広が最初に寒河江に入ったことに始まり,室町時代の時氏の頃に寒河江氏を名乗り,それまでの館であったものが城として整備されていったと考えられています。戦国時代になると最上義守・義光 親子の争いである天正最上の乱で義守についたため,義光が当主となると粛清の対象となり1584年 寒河江...
訪問日:2023年10月谷地城(やちじょう)は山形県西村山郡河北町にあったお城です。町史跡に指定されています。15世紀半ばの弘治年間(1555年~1558年)に中条長昌(ちゅうじょうながまさ)により築城されたとされます。その後,中条氏は断絶し谷地北方に勢力をもっていた白鳥十郎長久がこの城の城主となり城の整備が進みました。この白鳥長久ですが最上義守・義光 親子の争いでは義守に味方し,旗色が悪くなると仲介役を買って出...
訪問日:2023年10月東根城(ひがしねじょう)は山形県東根市にあったお城です。築城時期は南北朝時代の1347年に小田島長義が鎌倉から所領に戻り築城したとされることから小田島城とも呼ばれます。その後は天童氏の一族が東根氏を名乗り有力国人として勢力を持ちました。天童頼澄と最上義光が対立すると天童八楯の一翼として最上氏に対抗しますが1584年 家老の里見景佐(さとみかげより)が最上氏に寝返ったことにより落城し城主の...
訪問日:2023年10月延沢城は山形県尾花沢市にあったお城で,国史跡に指定されています。野辺沢城と表記することもあり霧山城の別名も持ちます。延沢氏は南出羽で力を持った国人ですが,築城年には諸説ありますが1547~1552年の間に 延沢満重が築城したとされます。戦国時代には天童氏を盟主とした同盟体である最上八楯に属し,最上義光に抵抗しました。時の当主である延沢満延は剛力をもって知られ最上軍を散々悩ましました。最終...
訪問日:2023年10月清水城は山形県最上郡大蔵村にあったお城で,県史跡に指定されています。1476年 最上氏の一族にあたる成沢満久がこの地に入り1478年に築城したとされます。これ以降,清水氏と名乗り代々の居城となりますが最上川の重要な河港を押さえるこの地は武藤氏や小野寺氏との争いの最前線となりました。五代目の清水義高は武藤氏との戦いで戦死しています。子の無かった六代目の清水義氏は最上義光の三男であった義親を...
訪問日:2023年10月新庄城は山形県新庄市にあったお城で,市史跡に指定されています。戦国時代から出羽を支配した山形藩の最上氏が1622年に改易となると,譜代の鳥居忠政が入りましたが,鳥居氏と縁戚関係にあった戸沢政盛が6万石でこの地を治めることになりました。当初は鮭延城に入りましたが山城で手狭であったため1624年から平城である新庄城の築城にとりかかったり翌年完成しました。戸沢氏による新庄藩は明治維新まで続いた...
訪問日:2023年10月鮭延城(さけのべじょう)は山形県最上郡真室川町にあったお城で,真室城や真鶴城とも呼ばれます。町史跡に指定されています。築城時期は1534-35年頃 小野寺氏に仕えていた佐々木綱村によって築かれたとされます。この佐々木氏は鮭延氏と称しこの城は小野寺氏勢力範囲の南を守る重要拠点となりました、綱村の子である鮭延秀綱の時代に最上義光に攻められ降伏した後は一貫として最上氏の重臣として活躍していく...
訪問日:2023年10月亀ヶ崎城は山形県酒田市にあったお城です。築城域については不明な点が多いのですが15世紀の後半に武藤氏(大宝寺氏)がこの地に城を築き当初は東禅寺城と呼ばれていました。戦国時代には武藤氏の一族がこの城に入り東禅寺氏を名乗り,砂越氏との抗争の舞台にもなりました。1583年 武藤氏の最盛期を築いた武藤義氏の家臣である前森蔵人は最上義光と通じ主君を弑逆し東禅寺義長を称したとされます。その後,義長の...
皆様 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。この新年の挨拶も10回を数えています。タイはバンコク暮らしも6年半ですので,既に日本でブログを書いていた期間よりタイで日本のお城のブログを書いている期間の方が長くなってしまいました。新型コロナウィルスの終息とともに,日本へ帰国する機会も少し増えて出張で帰国した時に少し,慰労帰国ではまとめて沢山のお城に行くことが出来ました。2023年に行っ...