訪問日:2025年1月野崎城は大阪府大東市にあったお城です。三好長慶の巨大山城としられる飯盛城(飯盛山城)で知られる飯盛山の支脈に築かれており,1467年から始まった応仁の乱の頃には存在し,畠山氏を割った畠山政長と畠山義就(はたけやなよしなり)の争いの中で機能していたようです。その後も数度にわたり戦いがあったようですが1499年には政長の子である畠山尚順(はたけやまひさのぶ)方の拠点であったようです。戦国時代 ...
訪問日:2025年1月野崎城は大阪府大東市にあったお城です。三好長慶の巨大山城としられる飯盛城(飯盛山城)で知られる飯盛山の支脈に築かれており,1467年から始まった応仁の乱の頃には存在し,畠山氏を割った畠山政長と畠山義就(はたけやなよしなり)の争いの中で機能していたようです。その後も数度にわたり戦いがあったようですが1499年には政長の子である畠山尚順(はたけやまひさのぶ)方の拠点であったようです。戦国時代 ...
第497回:駒山城(町を一望する岩山の山上に築かれた境目の城)
訪問日:2025年1月駒山城は兵庫県赤穂郡上郡町にあったお城で,町史跡に指定されています。14世紀 南北朝時代の白旗城合戦に際し赤松則祐が築いたとされてきましたが,16世紀には宇喜多直家の家臣である長船貞親が在城下との記録もあり,戦国時代には交通の要衝を押さえる宇喜多氏の境目の城として機能したと考えられ,1577年に落城したとされます。現在に残る遺構はこの時代のものです。 ◆上郡の町中からよく見える生駒山の...
第496回:白旗城(多くの戦をくぐり抜けた赤松氏の落ちない城)
訪問日:2025年1月白旗城(しらはたじょう)は兵庫県相生市にあったお城です。赤松氏城跡として置塩城,感状山城とともに国史跡に指定されています。築城時期には何通りかの説がありますが,現地の案内やパンフレットには1336年(建武3年)に赤松円心(則村)により築城されたとありました。建武の元号からわかるように親政で有名な後醍醐天皇と後に室町幕府を開いた足利尊氏の争いの中で築城されました。西へ足利尊氏を追う天皇方...
訪問日:2025年1月古渡城は愛知県名古屋市にあった城です。天文年間(1532-1555)に前田利昌(利春)により築城されたとされます。前田家がこの城を拠点としている時に前田利家が誕生しています。1560年には利昌が死去し長男である 前田利久が家督を継ぎましたが,1569年には織田信長の意向を受け病弱で実子がなかった利久に代わり弟にあたる利家が継ぎます。その後は利家の子の利長に引き継がれます。1575年に越前府中城に利家が居...
訪問日:2025年1月古渡城は愛知県名古屋市にあった城です。1534年頃に東の今川氏に備えるため織田信秀が築城し,信秀の息子の織田信長はこの城で元服したと伝わります。信秀は那古野城を信長に譲りこの城を拠点としましたが1548年には末森城を築き移ったため廃城となりました。 ◆古渡城のあった場所は現在遺構らしきものは残っておらず,1690年 東本願寺の一如上人によって建立された真宗大谷派名古屋別院(東別院)となって...
第493回:鷲津砦(大高城を押さえ桶狭間の戦いの前哨戦で機能した)
訪問日:2025年1月鷲津砦は愛知県名古屋市にあった砦で大高城,丸根砦とともに国史跡に指定されています。1559年 織田信長が今川義元方の前線基地である大高城ににらみを利かせ鳴海城との連絡を絶つ位置に丸根砦とともに築きました。1560年の桶狭間の戦いに先立つ前哨戦では織田秀敏,飯尾定宗・尚清父子 等が配置されていたとされますが,今川家の重臣である朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に攻められ落城し,飯尾定宗は討死にし...
第492回:丸根砦(桶狭間の戦いの前哨戦,佐久間盛重隊の全滅)
訪問日:2025年1月丸根砦は愛知県名古屋市にあった砦で大高城,鷲津砦とともに国史跡に指定されています。1559年 織田信長は今川義元方の前線基地である大高城ににらみを利かせ鳴海城との連絡を絶つ位置に鷲津砦とともに気づきました。1560年の桶狭間の戦いに先立つ前哨戦では大高城の松平元康(徳川家康)に攻められ城将の佐久間盛重以下の兵士が全滅したと言われています。桶狭間の戦い以後,今川氏より独立した松平元康と同盟関...
訪問日:2025年1月大高城(おおだかじょう)は愛知県名古屋市にあった城で国史跡に指定されています16世紀初頭の永正年間に花井備中守による築城と伝わります。16世紀後半の戦国時代には織田信秀の勢力圏内となっていましたが,織田信長の代になると鳴海城の山口教継(やまぐちのりつぐ)が今川義元側に寝返り大高城の調略にも成功します。織田信長はこれに対して丸根砦,鷲津砦 等の砦を周囲に築き包囲を強めました1560年 桶狭間...
訪問日:2013年11月 → 2015年1月飯盛城は大阪府四条畷市と大東市にかけてあったお城です。以前は飯盛山城ということの方が多かったのですが,最近は飯盛城に統一されつつあります。国史跡に指定され続日本100名城にも選定されています。このお城 現在の大阪府と奈良県の間の生駒山脈にあり,畿内を押えるために非常に重要な位置にあります。元々は南北朝時代に南朝方の陣城として築かれたようですが,本格的な城郭となったのは戦国...
第490回:丹下砦,善照寺砦,中島砦(鳴海城を取り囲んだ三つの砦)
訪問日:2025年1月丹下砦,善照寺砦,中島砦(なかしまとりで)は愛知県名古屋市にあった砦です。織田信秀の死後 今川義元に寝返った鳴海城主の山口教継、教吉親子が1559年に義元により切腹させられると鳴海城には今川氏譜代の岡部元信が入りました。織田信長は鳴海城を取り囲むようにこの三つの砦を築き,南の大高城との連携を遮断するために大高城の北側には丸根砦、鷲津砦を築きました。1600年 桶狭間の戦いにおいて織田信長は...
訪問日:2025年1月鳴海城は愛知県名古屋市にあった城です。14世紀末から15世紀初頭の応永年間に安原宗範によって築かれたとされます。戦国時代には織田信秀の配下である山口教継(やまぐちのりつぐ)がこの城を守っていましたが,信秀の死去に伴い織田信長が家督を継ぐと今川義元に寝返りました。息子の山口教吉とともに織田信長に対抗し城を守り切ったにも関わらず,今川義元に親子ともども切腹させられました。信長の調略による...
訪問日:2025年1月名古屋城は愛知県名古屋市にあった城です。名城中の名城なのに今更ではありますが,尾張名古屋は城でもつと歌われ現在も中京地区の中心 名古屋の象徴的な存在であります。国特別史跡に指定され,もちろん日本100名城にも選定されています。16世紀の前半に今川氏親によって築かれた那古屋城(なごやじょう)が現在の二之丸辺りにありました。1538年に織田信秀が城主の今川氏豊を追い城主となりました。その子の織...
第487回:[近江]清水山城(高島七頭 総領家の城と考えられる)
訪問日:2024年11月清水山城は滋賀県高島市にあった城です。山上の城塞から麓の屋敷跡等も合わせると非常に広範囲に遺構が残っており清水山城館跡として国史跡に指定されています。築城時期は定かでありませんが,現在の高島郡の支配は鎌倉時代の1235年に近江源氏の佐々木高信が入ったことから始まります。高信を祖として高島七頭として7つの家に分かれていきましたがその中でも惣領家とされる越中氏(高島氏)の居城と考えられて...
皆様 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。この新年の挨拶も12回を数えています。ここで重要なお知らせですが,仕事で帰任の辞令が発令されたことによりタイ・バンコクでの生活も7年3か月で終えることになりました。1/2の朝には日本に入国している算段です。赴任当初はタイで海外子会社を設立し社長をやるといった激動の時を過ごしましたが,今やすっかり落ち着いてタイは第2の故郷と言えるくらい馴染...
第486回:[近江]田中城(高島七頭の一角であった田中氏の城)
訪問日:2024年11月田中城は滋賀県高島市にあった城です。築城時期は定かでありませんが,現在の高島市の田中郷に勢力を持ち高島七頭の一角とされる田中氏の居城で,鎌倉時代後期よりこの地を治めていたと考えられています。戦国後期から江戸時代にかけて活躍した田中吉政はこの田中氏の流れをくむとされています。戦国時代に入るとこの城は織田信長と朝倉義景・浅井長政連合軍が睨み合う場所となり信長公記に数度にわたり登場しま...
第485回:米沢城(伊達氏,上杉氏の本拠地となった置賜地域の中心)
訪問日:2023年10月米沢城は山形県米沢市にあった城で,続日本100名城に選定されています。 鎌倉時代に長井時広により築城されたと言われるが確証はありません,この城が重要な城として表舞台に登場するのは戦国時代に伊達氏の居城となってからです。1548年に伊達晴宗が桑折西山城から居城を移して整備が進んだと考えられます。その後,独眼竜こと伊達政宗の生誕の城としても知られ,勢力を拡大する政宗は1589年に蘆名氏を滅ぼして...
訪問日:2023年10月中山城(たかだてじょう)は山形県上山市にあった城です。伊達輝宗に命じられた中山弥太郎が16世紀後半頃に築き,北側の最上領に接した境目の城として機能してきたとされてます。実際には山形でも最古の石垣が残るなど,実際には豊臣政権下でこの地に入った蒲生氏による整備と考えられる特徴が多く残っています。江戸時代に入り上杉氏が治めるようになると中腹に御役屋が置かれました。 ◆中山城は天守山と...
訪問日:2023年10月高楯城(たかだてじょう)は山形県上山市にあった城で,別名 亀ヶ岡城とも呼ばれます。市史跡に指定されています。築城時期は明確でないものの,応永年間の1403年頃 最上氏祖の斯波兼頼の曾孫にあたる天童満長が虚空蔵山に築城したと伝わります。最上地域を支配していた最上氏の勢力圏では南端の城となり満長以降は上山氏または武衛氏と名乗り城主となりました。置賜地域を治める伊達氏に対抗する境目の城とし...
訪問日:2023年10月上山城(かみのやまじょう)は山形県上山市にあった城で,別名 月岡城とも呼ばれ市史跡に指定されています。この地は南北朝時代より天童氏の一族にあたる上山氏が高楯城を拠点として支配していましたが,羽州街道と米沢街道の分岐地点にあたる交通の要衝のため大勢力である最上氏と伊達氏の騒乱の場となりました。1508年 上山義房の時代に伊達氏により追われたが,1535年に義房の子である上山(武衛)義忠が奪還し...
訪問日:2023年10月山形城は山形県山形市にあった城で霞ヶ城とも呼ばれます。国史跡に指定され日本100名城にも選定されています。南北朝時代,羽州探題として斯波兼頼が1357年より築城を開始したとされます。その後,この斯波氏が最上氏を名乗り山形城は最上宗家の城として発展していきます。戦国時代から江戸時代初期まで出羽に覇を唱えた最上義光は大規模な城郭へと発展させ,1600年 北の関ケ原とも言われる慶長出羽合戦で上杉軍...
訪問日:2023年10月長谷堂城(はせどうじょう)は山形県山形市にあった城です。築城時期は定かでありませんが,1514年に史料に登場し伊達稙宗が当城を落としたと記録されています。一気に有名になったのは1600年 北の関ケ原と言われた慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)にて最上氏の重要な拠点として活躍したことによります。西軍についた上杉景勝の二万とも言われる大軍を率いるは知将 直江兼続。既に江口光清が守る畑谷城等を攻略し...
訪問日:2023年10月畑谷城(はたやじょう)は山形県東村山郡山辺町にあった城です。町史跡に指定されています。築城時期は不明ですが,戦国時代には山形城を本拠とする最上氏の支城として機能し,上杉氏や伊達氏といった隣接する勢力に対する最前線の城として活躍しました。1600年 北の関ケ原と称される慶長出羽合戦では城主 江口五兵衛光清(えぐちあききよ)が守るこの城を上杉軍の総大将 直江兼続の猛攻を受けました。主君の最...
第478回:[出羽]中野城(最上一族の骨肉の争いの跡と伝わる)
訪問日:2023年10月中野城は山形県山形市にあった城です。築城年代は定かではありませんが,15世紀初めに最上義直の次男である中野満基により築かれたと案内板にあります。以後,中野氏を名乗り最上一族の主要な分家として宗家の当主を幾人も輩出しています。戦国時代にも最上義守が中野家より最上宗家に入り第十代目の当主となっています。この義守の長男が有名な最上義光であり,次男が中野家を継いだ中野義時です。1574年に最上...
訪問日:2023年10月天童陣屋は山形県天童市にあった陣屋です。1830年に高畠藩主であった織田信美(おだのぶかず)は天童陣屋に移り天童藩の初代藩主となりました。この家系は織田信長の次男で織田信雄(おだのぶかつ)の子孫にあたる家系です。江戸時代を通じて明治時代まで存続しましたが,1868年 戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いの後は新政府方として奥羽鎮撫使先導役に任じられました。この時,藩主 織田信学(おだのぶみち)は病...
訪問日:2023年10月天童城は山形県天童市にあったお城です。舞鶴山の全域にわたって築かれたこの城は天童古城とも呼ばれ天童市舞鶴山公園として整備されています。築城時期は南北朝時代の北畠天童丸によるとの伝承がありますが,14世紀の後半に最上直家の子である里見頼直がこの城に入り天童氏を称しました。戦国時代に入ると出羽国村山地方で勢力を拡大し最上氏に並ぶ勢力となり,共闘と対立を繰り返します。当主が天童頼貞の時 1...
訪問日:2023年10月寒河江城(さがえじょう)は山形県寒河江市にあったお城です。鎌倉幕府政所別当として有名な大江広元の子である大江親広が最初に寒河江に入ったことに始まり,室町時代の時氏の頃に寒河江氏を名乗り,それまでの館であったものが城として整備されていったと考えられています。戦国時代になると最上義守・義光 親子の争いである天正最上の乱で義守についたため,義光が当主となると粛清の対象となり1584年 寒河江...
訪問日:2023年10月谷地城(やちじょう)は山形県西村山郡河北町にあったお城です。町史跡に指定されています。15世紀半ばの弘治年間(1555年~1558年)に中条長昌(ちゅうじょうながまさ)により築城されたとされます。その後,中条氏は断絶し谷地北方に勢力をもっていた白鳥十郎長久がこの城の城主となり城の整備が進みました。この白鳥長久ですが最上義守・義光 親子の争いでは義守に味方し,旗色が悪くなると仲介役を買って出...
訪問日:2023年10月東根城(ひがしねじょう)は山形県東根市にあったお城です。築城時期は南北朝時代の1347年に小田島長義が鎌倉から所領に戻り築城したとされることから小田島城とも呼ばれます。その後は天童氏の一族が東根氏を名乗り有力国人として勢力を持ちました。天童頼澄と最上義光が対立すると天童八楯の一翼として最上氏に対抗しますが1584年 家老の里見景佐(さとみかげより)が最上氏に寝返ったことにより落城し城主の...
訪問日:2023年10月延沢城は山形県尾花沢市にあったお城で,国史跡に指定されています。野辺沢城と表記することもあり霧山城の別名も持ちます。延沢氏は南出羽で力を持った国人ですが,築城年には諸説ありますが1547~1552年の間に 延沢満重が築城したとされます。戦国時代には天童氏を盟主とした同盟体である最上八楯に属し,最上義光に抵抗しました。時の当主である延沢満延は剛力をもって知られ最上軍を散々悩ましました。最終...
訪問日:2023年10月清水城は山形県最上郡大蔵村にあったお城で,県史跡に指定されています。1476年 最上氏の一族にあたる成沢満久がこの地に入り1478年に築城したとされます。これ以降,清水氏と名乗り代々の居城となりますが最上川の重要な河港を押さえるこの地は武藤氏や小野寺氏との争いの最前線となりました。五代目の清水義高は武藤氏との戦いで戦死しています。子の無かった六代目の清水義氏は最上義光の三男であった義親を...
訪問日:2023年10月新庄城は山形県新庄市にあったお城で,市史跡に指定されています。戦国時代から出羽を支配した山形藩の最上氏が1622年に改易となると,譜代の鳥居忠政が入りましたが,鳥居氏と縁戚関係にあった戸沢政盛が6万石でこの地を治めることになりました。当初は鮭延城に入りましたが山城で手狭であったため1624年から平城である新庄城の築城にとりかかったり翌年完成しました。戸沢氏による新庄藩は明治維新まで続いた...
訪問日:2023年10月鮭延城(さけのべじょう)は山形県最上郡真室川町にあったお城で,真室城や真鶴城とも呼ばれます。町史跡に指定されています。築城時期は1534-35年頃 小野寺氏に仕えていた佐々木綱村によって築かれたとされます。この佐々木氏は鮭延氏と称しこの城は小野寺氏勢力範囲の南を守る重要拠点となりました、綱村の子である鮭延秀綱の時代に最上義光に攻められ降伏した後は一貫として最上氏の重臣として活躍していく...
訪問日:2023年10月亀ヶ崎城は山形県酒田市にあったお城です。築城域については不明な点が多いのですが15世紀の後半に武藤氏(大宝寺氏)がこの地に城を築き当初は東禅寺城と呼ばれていました。戦国時代には武藤氏の一族がこの城に入り東禅寺氏を名乗り,砂越氏との抗争の舞台にもなりました。1583年 武藤氏の最盛期を築いた武藤義氏の家臣である前森蔵人は最上義光と通じ主君を弑逆し東禅寺義長を称したとされます。その後,義長の...
皆様 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。この新年の挨拶も10回を数えています。タイはバンコク暮らしも6年半ですので,既に日本でブログを書いていた期間よりタイで日本のお城のブログを書いている期間の方が長くなってしまいました。新型コロナウィルスの終息とともに,日本へ帰国する機会も少し増えて出張で帰国した時に少し,慰労帰国ではまとめて沢山のお城に行くことが出来ました。2023年に行っ...
訪問日:2023年10月砂越城は山形県酒田市にあったお城です。築城時期は定かにではありませんが,平安時代末期の1154年 播磨国の赤松氏の分家が石黒氏を名乗り土着し築いたと伝わります。鎌倉時代に入り源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと砂越氏が郡司としてこの地に入り,この城を本拠地にするようになりました。戦国時代になると庄内地方は最上川北域の砂越氏と最上川南域の武藤氏(大宝寺氏)が二大勢力として激しく争うことになりま...
訪問日:2023年10月出羽松山城は山形県酒田市にあったお城です。明治維新後は松嶺城とも呼びました。鶴ヶ岡城を本拠地とする庄内藩 酒井家 初代藩主の酒井忠勝の遺言により1647年 二代藩主の酒井忠当(さかいただまさ)が弟の酒井忠恒に庄内中山2万石を分与したことにより始まります。当初,中山陣屋が拠点となっていましたが後に中山は松山と名称を変え出羽松山藩となりました。 1779年 三代目の酒井忠休(さかいただよし)が500...
訪問日:2023年10月尾浦城は山形県鶴岡市にあったお城です。大浦城や大山城とも呼ばれます。築城時期は定かではありませんが,この地域を治めた武藤氏(大宝寺氏)によるもとされます。武藤氏は宗教権威である羽黒山の別当職を兼ねる戦国大名として成長しますが,1532年 武藤晴時が当主の時に本拠地の大宝寺城が砂越氏により攻撃され焼失されると本拠地をこの城に移しました。武藤義増は本庄繁長の乱に加担し上杉謙信に反旗を翻し...
訪問日:2023年11月鶴ヶ岡城は山形県鶴岡市あったお城です。続日本100名城に選定されています。 元々は室町時代にこの地を支配した大宝寺氏(武藤氏)の本拠地として築城され大宝寺城と呼ばれていました。1532年 武藤晴時が当主の時に砂越氏維に攻められ焼失しました。この後,武藤氏は尾浦城に本拠地を移し大宝寺城は支城となりました。その後,上杉氏の史城として機能していたようですが,関ケ原の戦い後にこの地に入った最上義光...
訪問日:2023年村上城は新潟県村上市にあったお城です。中世城郭,近世城郭 双方の特徴を残し国史跡に指定され続日本100名城にも選定されています。 別名舞鶴城とも呼ばれ,本庄氏が治めた時代は本庄城と呼ばれていました。臥牛山に築かれた平山城で築城時期は不明ですが16世紀前半頃に築かれ,戦国期には現在の新潟市より北方に勢力を持った国人衆である揚北衆の代表格である本庄氏の本拠地として機能していたようです。本庄時長...
訪問日:2023年10月江上館(えがみやかた)は新潟県胎内市にあった城館です。 奥山荘城館遺跡(おくやまのしょうじょうかんいせき)として国史跡に指定されています。鎌倉時代の初期に三浦和田一族である和田義茂が地頭としてこの地に入りました。1277年に分割統治され中条地域を支配した一族が中条氏(なかじょうし)を名乗り15世紀 室町時代に江上館を本拠地としたとされます。同時に北条地域を引き継いだ同族の黒川氏とは争いが...
訪問日:2023年10月五十公野城(いじみのじょう)は新潟県新発田市にあったお城です。築城時期は不明も新発田氏の一族である五十公野氏によって築かれたとされます。戦国時代に新発田重家が五十公野治長という名でこの城を継いでいましたが兄である長敦の死により本家の新発田氏を継ぐことになりました。これによりこの城は義弟の五十公野信宗が後を継ぎました。1581年より勃発した新発田重家が上杉景勝に反旗を翻した新発田重家の...
第460回:新発田城(新発田氏の活躍に始まり溝口氏が発展させた名城)
訪問日:2023年10月新発田城は新潟県新発田市にあったお城です。菖蒲城(あやめじょう)とも呼ばれ日本100名城に選ばれ,国の重要文化財となる建築物を2基持つ名城です。また本丸の一部は市史跡に指定されています。近世以前の城の正確な築城時期は不明ですが,前身となる城は中世にこの地を支配した新発田氏によるものと考えられます。揚北衆の新発田氏と言えば御館の乱で上杉景勝を助けた新発田長敦や重家が有名ですが,御館の...
第459回:浜松城(家康の出世城として知られる){含 引間城}
浜松城は静岡県浜松市にあったお城です。市史跡に指定され、続日本100名城にも選ばれています。城の前身は15世紀前半に築かれたとされる引間城(曳馬城)でした。当時は今川氏が遠江でも勢力を持ち傘下の飯尾氏がこの城に入っていました。1560年 桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると飯尾連竜(いのおつらたつ)は今川氏真と対立し攻められ落城は免れたものの結局講和後に謀殺されています。 この機に乗じて徳川家康がこの城を接収...
第458回:鳥羽山城(二俣城をめぐる攻防で徳川方の陣となる)
訪問日:2023年8月鳥羽山城は静岡県浜松市にあったお城です。隣の二俣城とともに 国史跡に指定されています。築城時期は不明確ですが二俣城の向かいの山に築かれお互いに補完しあう関係であったようです。二俣城が武田氏に奪われると徳川家康はここに本陣を置いたとされますので,やはり16世紀中盤から機能している城と考えられます。この城も1590年からの堀尾吉晴が城主であった時代に現在見ることのできる石垣造りに改修されてい...
訪問日:2023年8月二俣城は静岡県浜松市にあったお城です。隣の鳥羽山城とともに 国史跡に指定されています。 築城時期は定かではありませんが,今川氏が遠江を支配し,今川義元が桶狭間の戦いで敗死した1560年から今川氏が滅亡する1569年の間に原型は出来上がっていったと推測されます。その後,徳川家康は武田信玄に味方した松井氏を降伏させ鵜殿氏長(うどのうじなが)を城代として入れました。この城は家康の本拠地であった浜...
訪問日:2023年6月新庄城は滋賀県高島市にあったお城です。 築城については明確では無いのですが清水山城の築城され新庄氏,浅見氏,多胡氏などが城主として伝わります。1574年に織田信長が高島郡を平定した後は浅井長政から信長に降伏した磯野員昌(いそのかずまさ)がこの城を支配拠点として高島郡を治めました。浅井氏旗下でも猛将として知られた員昌でしたが1578年に信長の意に背き出奔。その後は信長の甥にあたる津田信澄が大...
第455回:[美作]岩屋城(多くの争奪戦の場となった美作国随一の山城)
訪問日:2022年11月岩屋城は岡山県津山市にあったお城で,県史跡に指定されています。美作国は室町時代から戦国時代にかけて特定の大勢力が安定的に治めることは無く,周辺の有力大名が争奪する場となり,この岩屋城はこの中で重要な役割を果たした大規模山城です。築城は1441年 嘉吉の乱により衰退した赤松氏に代わり美作守護職となった山名教清(やまなのりきよ)によるものとされます。応仁の乱が勃発すると赤松氏が再度奪還し...
訪問日:2022年11月津山城は岡山県津山市にあったお城です。鶴山城とも呼ばれ国史跡に指定されています。また,日本100名城に選ばれ,日本三大平山城の一つにも数えられる名城です。この小高い山は鶴山と呼ばれ,室町時代には山名氏が築いた城がありました。戦国時代に山名氏が衰退した後は破棄されていたようですが,江戸時代に入り1603年 森忠政が18万6千5百石の大名として美作国に入った後 築城を開始しました。城が完全に完成...
第453回:院庄構城(戦国期に美作の中心拠点として機能したか?)
訪問日:2022年11月院庄構城(いんのしょうかまえじょう)は岡山県津山市にあったお城です。美作国の守護所であったとされる院庄館の南側に位置するこの城の築城時期は不明確ですが,出土品などから16世紀 室町・戦国期から江戸時代初頭まで機能したと考えられています。応仁の乱以降の動乱では山名氏の拠点になり赤松氏との攻防がで城主が頻繁に変わったようです。その後は毛利氏や宇喜多氏の拠点として機能し,江戸時代の1603年...
訪問日:2022年11月院庄館(いんのしょうやかた)は岡山県津山市にあった城館で国史跡に指定されています。現在は作楽神社(さくらくじんじゃ)となっているこの場所は鎌倉時代から室町時代にかけて美作国の守護館があった場所と推定されています。1332年 元弘の乱で敗れた後醍醐天皇が隠岐に配流となる際に立ち寄ったとされ,後醍醐天皇に従い忠臣と謳われる児島高徳(こじまたかのり)が桜の幹に十字の詩を記したとの伝承が残り...
第451回:西方院山城(興福寺の軍事勢力により築城){付 鬼薗山城}
訪問日:2022年10月西方院山城(さいほういんざんじょう)は奈良県奈良市にあったお城です。興福寺の軍事勢力であった古市氏は対抗勢力である筒井氏に備えるために,現在は奈良ホテルとなっている大乗院の境内に鬼薗山城(きおんざんじょう)の築城を開始しました。途中で境内であることが問題視されたため,国道169号線を隔てた東隣の西方院山にこの城を築城しましたが,再度計画は変更され鬼薗山城を完成させました。1445年に筒...
第450回:多聞山城(天守を備え近世城郭の先駆けともいわれる)
訪問日:2022年10月多聞山城(たもんやまじょう)は奈良県奈良市にあったお城で多聞城の名前でも知られます。戦国時代の大和の支配者として力を持った松永久秀が1559年 支配拠点として眉間寺山に築城を開始し1561年に入城したとされます。現在建物は残っていませんが,各史料・文献より後の天守の元となる四層の櫓や名前の由来にもなっている多聞櫓を備えた非常に先進的な城であったことで知られ,軍事・政治の両面で優れた拠点で...
訪問日:2022年10月椿尾下城(つばおしもじょう)は奈良県奈良市にあったお城です。築城時期は定かではありませんが興福寺の門跡である大乗院方の衆徒であった椿尾氏が築いたものと考えられており,筒井順慶と松永久秀の争いの中では筒井方として筒井氏の拠点となった...
訪問日:2022年10月椿尾上城(つばおかみじょう)は奈良県奈良市にあったお城です。築城の時期は明らかになっていませんが,1531年には筒井氏の持ち城であったことから筒井順昭による築城の可能性が高いと考えられています。筒井氏は平城である筒井城を本拠地としていたことからこの城は詰城としての役割を担っていたようですが,1559年に筒井順慶が松永久秀により筒井城を奪われると順慶はこの城を本拠地として交戦しました。 157...
訪問日:2021年11月郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)は岐阜県郡上市にあったお城です。県史跡に指定され続日本100名城にも選ばれています。戦国時代の郡上を支配した東氏(とうし)の拠点であった赤谷山城をめぐり東常慶(とうつねよし)・常堯(つねたか)に対抗した遠藤盛数(えんどうもりかず)が現在の八幡山に築いた砦がこの城の最初となります。これに勝利した盛数のこの遠藤慶隆(えんどうよしたか)により城と城下町...
皆様 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。2014年の3月から始めたこのブログも次の3月から10年目に突入です。タイはバンコク暮らしも2年の任期延長にともない6年目となっています。世界中の新型コロナウィルスの影響は緩和されているものの,日本へ帰国する機会はめっきり減ってしまいました。2022年は2度帰国したのですが,1回目は出張による非常に短いものでしたので,10月末から11月頭にかけて帰国...
訪問日:2021年11月乗政城(のりまさじょう)は岐阜県下呂市にあったお城です。詳細は不明ですが11世紀末頃 平安時代の永長年間に吉川遠江守則政がこの地に居城したと郷土史に記載が残る。乗政川流域に勢力をもったであろうこの人物の名前である則政(のりまさ)がこの地の由来になったとも考えられます。城跡は現在は水田になっていますが元々は城平(しろだいら)と呼ばれています。 ◆県道440号線より見る城跡。現在は水田...
訪問日:2021年11月萩原諏訪城(はぎわらすわじょう)は岐阜県下呂市にあったお城です。県史跡に指定されています。戦国時代の飛騨で勢力を持った三木氏(みつきし)を没落させた金森長近は1584年 三木氏の重要拠点であった桜洞城にほど近い萩原郷に娘婿の佐藤秀方に命じて築城させたとされます。1619年 現名の一国一城令の後も参勤交代や領内管理の宿泊所である旅館として機能したようですが,1692年の出羽国転封により廃されまし...
訪問日:2021年11月桜洞城(さくらぼらじょう)は岐阜県下呂市にあったお城です。市史跡に指定されています。正確な築城時期は分かっていませんが,16世紀の初頭に三木直頼(みつきなおより)が築城したとされます。それ以降,三木氏代々の本拠地として機能しました。戦国時代の当主である三木自綱(みつきよりつな)が1579年に松倉城を築いて居城を移したことから息子の三木信綱が入り支城として機能しましたが,自綱は冬場は高所...
訪問日:2021年11月鍋山城は岐阜県高山市にあったお城です。県史跡に指定されています。築城については諸説ありますが一般に天文年間(1532-1555年)に鍋山安室(なべやまあんじつ)により築城されたと伝わります。安室には嫡子がおらず,戦国時代の飛騨国の最大勢力と言える三木自綱(みつきよりつな)の弟である顕綱(あきつな)を養子としましたが,結局 安室は顕綱に毒殺され鍋山氏は城を追われました。その後,自綱の次男である...
訪問日:2013年9月, 2021年11月高山陣屋は岐阜県高山市にあった陣屋です。現存する貴重な陣屋跡として国史跡に指定され,高山の観光名所の一つになっています。豊臣政権下より高山城を本拠地とし飛騨国を治めた金森氏が出羽国上ノ山に転封となると,江戸幕府は1692年に飛騨を直轄領である天領としまし,金森氏の下屋敷であったこの場所を政治の中心である役所を置き高山陣屋と呼びました。これ以降,明治維新まで陣屋は存続し,明...
訪問日:2021年11月増島城は岐阜県飛騨市にあったお城です。県史跡に指定されています。1585年より豊臣政権下の武将として金森長近飛騨国の統治者となりました。その後,本城である高山城の整備と並行して築城が始まったと考えられています。 飛騨国を掌握するための支城として飛騨古川を押さえたこの城には長近の養子である金森可重(かなもりよししげ)が入りました。 1615年の元和の一国一城令により廃城となりましたが,引続き...
訪問日:2021年11月東町城(ひがしまちじょう)は岐阜県飛騨市にあったお城です。市史跡に指定されており高原川の河岸段丘に位置しており一般的には神岡城として知られています。一方で歴史的には東町城というのが正しい呼称です。河川と街道を押さえる交通の要衝として機能した考えらています。正確な築城年代は分かっていませんが,16世紀後半に武田信玄の家臣である山県昌景が江馬時盛に命じて築城させ飛騨・越中攻略の拠点とし...
第439回:江馬氏下館(北飛騨における江馬氏の繁栄を示す城館跡)
訪問日:2021年11月江馬氏下館(えまししもやかた)は岐阜県飛騨市にあった城館です。江馬氏城館跡の一つとして国史跡に指定されています。北飛騨の雄としえ知られる江馬氏が高原郷(飛騨市神岡町)に入ったのは13世紀の中頃と言われています。江馬氏は室町幕府直属の武士であったことが史料からわかっており,この下館の利用は14世紀には始まったと考えられています。14世紀末から15世紀になると堀や庭園が設けられ発展し現在の姿へ...
訪問日:2021年11月高原諏訪城(たかはらすわじょう)は岐阜県飛騨市にあったお城です。江馬氏城館跡の一つとして国史跡に指定されています。14世紀 室町時代より飛騨国の北部にある高原郷(現在の飛騨市神岡)に勢力を持った江馬氏の本城として知られます。当初は下館である江馬氏館を中心に治めていたようですが,16世紀に入り戦国時代となると飛騨国南部で勢力を拡大した三木氏(みつきし)等との勢力争いの中で山城である高原...
訪問日:2021年11月安祥城(あんじょうじょう)は愛知県安城市にあったお城です。市史跡に指定されています。安城城とも書きます。正確な築城年代や築城者は分かっていませんが、室町時代 15世紀前半に和田親平がこの地を治めていた頃の築城と言われます。戦国時代の1476年頃に松平信光がこの城を奪い取ったことにより歴史の表舞台に登場します。以後,徳川家康の祖父である松平清康が1524年に本拠地を岡崎城に移すまで4代にわたっ...
訪問日:2021年11月岡崎城は愛知県岡崎市にあったお城です。市史跡に指定され日本100名城に選定されています。前身となる城は現在地より南の明大寺にあり15世紀前半に三河国守護職にあった仁木氏の守護代であった西郷稠頼(さいごうつぎより)によって築城されたとされます。 西郷信貞が当主の時代の1524年に徳川家康の祖父に当たる松平清康により攻略され岡崎は松平氏の本拠地となりました。その後,1531年頃に現在地に移され本格的...
第435回:田峯城(奥三河に勢力を持った田峯 菅沼氏の本拠地)
訪問日:2021年11月田峯城(だみねじょう)は愛知県北設楽郡設楽町にあったお城です。奥三河で重要な勢力であった作手の奥平氏,長篠の菅沼氏とおもに山家三方衆と呼ばれた田峯 菅沼氏の本拠地です。築城は1470年 菅沼定信によるとされます。歴史が大きく動いたのは1575年 当主の菅沼定忠と家老の城所道寿は武田勝頼方として長篠の戦いに参陣するも敗退。親族の菅沼定直や家老の今泉道善に謀反に起こされ城に戻れず命からがら敗走...
訪問日:2021年11月長篠城は愛知県新城市にあったお城です。国史跡に指定され日本100名城に選定されています。豊川と宇連川(うれがわ)が合流する地点の断崖にあるこの城は1508年に山家三方衆として知られる奥三河の主要国人であった菅沼氏の菅沼元成により築城されました。 織田信長と武田信玄の争いが表面化すると菅沼氏は武田方に属することになりましたが,1573年に織田方の徳川家康に追われ,その代わりに1575年 奥平信昌が...
第433回:水茎岡山城(足利将軍の避難所にもなったことで知られる)
訪問日:2021年11月水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)は滋賀県近江八幡市にあったお城です。1508年 室町幕府11代将軍であった足利義澄は大内義興に追われ近江に逃れました。水茎岡山城はその頃に義澄の頼った九里信隆(くのりよしたか)により築城されたとされます。1510年にはこの城で幕府軍を退けており,後に12代将軍となる足利義晴もこの城で誕生しましたが,結局,義澄は今日に戻れぬままこの城で死去しました。九里信隆は...
訪問日:2021年11月田辺城は京都府舞鶴市にあったお城で市史跡に指定されています。舞鶴城(ぶかくじょう)とも呼ばれます。織田信長の配下として丹後に進攻し守護大名である一色氏を滅亡に追いやった細川藤孝・忠興親子は八幡山城に入り,その後宮津城を築城し居城としました。家督を忠興に譲り隠居した藤孝は幽斎と号し元々は一色氏の八田守護所があったとされる場所に田辺城を築城して1582年に完成させ移りました。最も田辺城を...
訪問日:2021年11月宮津城は京都府宮津市にあったお城です。1580年頃 室町時代より続いた丹後守護職の一色氏を滅亡へと追いやった織田信長傘下の細川藤孝が丹後に入った当初は山城である八幡山城を居城としたようですが,その後すぐに統治の便利な宮津城を築城しました。1582年の本能寺の変の後に藤孝は家督を子の細川忠興に譲り,自身は幽斎と号し田辺城に隠居しました。1600年の関ケ原の戦いで東軍についた細川氏は丹後に残った...
第430回:弓木城(一色氏が最後の抵抗を試みた稲富氏の居城)
訪問日:2021年11月弓木城(ゆみのき/ゆみきじょう)は京都府与謝郡与謝野町にあったお城です。この一帯は鎌倉時代の後期より稲富保(いなとみのほ)と呼ばれた,室町時代にはこの地域を治めた稲富氏がこの城を居城としました。稲富氏で最も著名な人物は鉄砲の名手として知られた四代目の稲富祐直(いなとみすけなお )です。晩年には一夢(いちむ)と号しました。織田信長軍傘下である細川藤孝・忠興親子の軍により勢力を失ってき...
第429回:[丹後]八幡山城(一色氏から細川氏へ続く丹後支配の変遷)
訪問日:2021年11月八幡山城は京都府宮津市にあったお城です。正確な築城者は不明ですが,室町時代から戦国時代にかけては丹後守護職であった一色氏の勢力下にあったとするのが妥当です。1580年 織田信長の命を受け丹後に進攻して一色氏を衰亡させた細川藤孝・忠興が最初に居城とした城考えられています。 但し,翌年より統治に便利な平城である宮津城の築城が開始されます。完成後に宮津城に移ったことにより,八幡山城は地域統治...
訪問日:2021年11月宇谷城(うだにじょう)は京都府舞鶴市にあったお城です。宇谷城は由良川沿いの交通の要衝にあたる尾根先に築かれており,物流を押さえる拠点であり,地元の伝承などから一色氏の配下である在地領主の井田氏(飯田氏?)の城であったと考えられています。 ◆城は比高 50m程度の小山に築かれています。◆民家の軒先の奥に登り口があります。 ◆登山道の様子。◆城域の北端に到達しました,この辺りから竪...
第427回:[丹後]中山城(一色義道が裏切りにあったとされる)
訪問日:2021年11月中山城は京都府舞鶴市にあったお城です。戦国時代に守護職 一色氏の城として機能しており,一色義道や沼田幸兵衛清延が城主であったと伝わります。一色氏の当主であった義道が城主であったとすると本城郭の重要な城であったと推測されます。1579年 義道は織田信長傘下の明智光秀や細川藤孝に本拠地である建部山城を落とされこの城に逃げ込みました。ところが城主の沼田幸兵衛の裏切りにあい追い詰められ自刃した...
皆様 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。タイはバンコク暮らしも5年目に突入していますが,2020年から2021年にかけて世界中の新型コロナウィルス蔓延。これによる混乱は海外駐在者を直撃し,何年も日本に帰れなくなるということが常態化しました。私自身最後に日本に帰国していたのは2019年末から2020年の元旦にかけてでした。つまり,2年近くお城巡りも全くできなかったことにより記事にするネタも...
訪問日:2021年11月建部山城(たけべやまじょう)は京都府舞鶴市にあったお城です。城自体は南北朝期に地元勢力により築かれたと伝わりますが,室町幕府では四職の筆頭をもつとめた名門 一色氏が丹後守護職として在所とした八田守護所を守る城とし機能したことで知られます。1578年 織田信長軍の一翼である細川藤孝(幽斎)・忠興親子の侵攻を受けて,当時の当主である一色義道は建部山城に籠城し抵抗をしますが,1579年には落城しま...
皆さんご無沙汰しております。11/8より日本に一時帰国しており日本にいます。実に2019年末から2020年元旦に帰国して以来ですので2年弱ぶり。自主隔離がありますので2週間ちょっとの間ですが,友達に会ったり会社に顔を出したりとこの間に会えなかった人への挨拶はもちろんのことですが,たくさんお城に行ってきました。●一色氏から細川氏への流れを見ようと丹後地方に出陣。建部山城,中山城,弓木城,宇谷城,八幡山城,宮津城,...
残念なお知らせです。ついに 「こにるのお城訪問記」 記事用のお城ネタが尽きました。2017年のタイ・バンコクへの転勤という大きな危機をいとも簡単に乗り越えて第2期に突入。それから3年10カ月ほどで第425回まで更新を継続することが出来きました。2019年末まではかなりの頻度で日本に帰国する機会に恵まれ,その度にお城には行っていました。これによりむしろブログ更新数よりネタの増加が上回りブログの更新には支障がない状態...
第424回:[播磨]山崎城(因幡街道の主要都市を支配した近世城郭)
訪問日:2019年12月山崎城は兵庫県宍粟市にあったお城です。山崎陣屋,鹿沢城とも呼ばれます。宍粟郡山崎町(現 宍粟市)は姫路と鳥取を結ぶ因幡街道の中間地点として栄え,戦国時代は宇野氏が本拠地とし,長水城や篠ノ丸城といった中世城郭が支配拠点として機能しました。織豊政権下では黒田官兵衛や木下勝俊 等がこの地を治めましたが,江戸時代の1615年には池田輝政の子である輝澄がこの地に3万8千石で入り近世城郭である山崎城...
訪問日:2020年1月塚口城は兵庫県尼崎市にあったお城です。塚口寺内町とも呼ばれます。室町時代から戦国時代にかけて,この地域における一向一揆の拠点であった塚口御坊を中心とした寺内町として発展しました。周囲を高い土塁と堀で囲んだ惣構えの構造になっており,1578年に荒木村重が織田信長に反旗を翻した際には城郭として機能しました。現在は宅地化により面影が失われていますが,4か所に造られたという虎口の一部や堀跡に...
訪問日:2019年12月聖山城(ひじりやまじょう)は兵庫県宍粟市にあったお城です。1493年に宇野氏の重臣であった下村則真(しもむらのりざね)によって築いたとされ,長水城を本拠地氏とした宇野氏の支城として機能しました。1580年 織田信長軍の司令官としてこの地に侵攻した羽柴秀吉はまずはこの城を攻め落とし本陣として宇野氏の籠る長水城と篠ノ丸城を攻略しました。 ◆登り口は山麓の觱篥神社(ひちりきじんじゃ)の横に...
第422回:篠ノ城(長水城と連動し地域の支配拠点として機能した)
訪問日:2019年12月篠ノ丸城(ささのまるじょう)は兵庫県宍粟市にあったお城です。宍粟市(旧 山崎町)の中心に突き出した尾根の先に築かれたこの城は南北朝時代の14世紀半ばに赤松顕則(あかまつあきのり)によって築かれた伝わります。戦国期はこの地域で勢力を誇った宇野氏の居城である長水城の支城として機能したと考えられ,宇野正頼が当主である時にはその子の光景の城となっていましたが,父子の対立により光景が殺害され...
訪問日:2019年12月長水城(ちょうずいじょう)は兵庫県宍粟市にあったお城です。長水山城とも呼ばれます。標高584mの高所に築かれたこの城は南北朝時代の14世紀中盤。播磨守護の赤松則祐(あかまつのりすけ/そくゆう)により築かれその四男である広瀬師頼が城主となったとされ,広瀬氏四代の後,宇野氏に城主が代わり五代続きました。1580年 織田信長軍の司令官として聖山城に入った羽柴秀吉による攻撃により落城。城主であった...
訪問日:2019年12月伊賀上野城は三重県伊賀市にあったお城です。国史跡に指定され日本100名城にも選ばれています。平安時代この場所には平楽寺や薬師寺という寺院があったとされ,室町時代には伊賀守護の仁木氏(につきし)の城館がありました。豊臣政権下の1585年になり筒井定次が伊賀に入ると仁木氏館の跡に近世城郭を築城しました。関ケ原の戦いの間に一時西軍の新庄直頼・直定父子に城を奪われるなどしましたが,定次は奪還に...
訪問日:2019年12月丸山城は三重県伊賀市にあったお城です。元々は北畠具教(きたばたけとものり)が隠居氏として築城を試みたのが始めともされるが,本格的な築城は伊賀進出を目論んだ織田信長の次男 北畠(織田)信雄が1578年 部下の滝川雄利(たきがわかつとし)に命じて開始しました。築城途中の城が大規模城郭であることに気づき危機感を募らせた伊賀の土豪たちは不意を突いて攻撃し滝川雄利軍を追い払うことに成功しました。...
第418回:[伊勢]亀山城(東海道を押さえる交通の要衝){付 亀山古城}
訪問日:2019年12月亀山城は三重県亀山市にあったお城です。元々は鈴鹿郡一帯を治めていた関五家の一人である関実忠(せきさねただ)が鎌倉時代の1265年に築城したと伝わります。当初は古城と呼ばれる小高い丘に築城され,関氏が代々本拠地としている間に現在の位置に移りました。織田信長の伊勢侵攻より後は東海道を押さえる交通の要衝であったこの城は戦いの場となっていきます。1583年関盛信の時代には家臣のクーデターにより一...
訪問日:2019年12月田丸城(たまるじょう)は三重県度会郡玉城町にあったお城で,玉丸城とも表記されます。県史跡に指定され,続日本100名城にも選ばれています。元々は南北朝時代に南朝の主力勢力であった北畠親房が築いたとされます。吉野と伊勢を結ぶ街道を押さえる要衝でしばしば争奪の場となりましたが南北朝統一は北畠氏一族の拠点となり戦国時代を迎えます。新興勢力である織田信長軍が伊勢に進行すると当主の北畠具教(き...
訪問日:2019年10月岩国城は山口県岩国市にあったお城で,日本100名城にも選ばれています。1600年 関ケ原の戦いでは西軍の総大将であった毛利輝元は大幅な減俸となり本拠地を萩城に移しました。毛利の有力な一族衆で両川としれ知られる吉川氏の当主 吉川広家は東軍の徳川家康に通じますが,それまでの米子から岩国に国替えされました。岩国城は横山に要害となる山城を築き,藩主は山麓には御土居と呼ばれる居館で政務をとり居住し...
訪問日:2019年10月荒滝山城は山口県宇部市にあったお城です。県史跡に指定されています。陶氏や杉氏 等と並ぶ大内氏の重臣で長門守護代を任された内藤氏の居城と伝わります。中でも最大の力を持ち知名度も高い内藤興盛は陶晴賢が大内義隆に反旗を翻した大寧寺の変では消極的に協力したようですが,興盛の死後に毛利元就と陶晴賢が争った厳島の戦いでは内藤氏家中も分裂,嫡孫の内藤隆世は大内氏に殉じ滅亡,この城に居城していた...
訪問日:2019年10月萩城は山口県萩市にあったお城です。国史跡に指定され日本100名城にも選ばれています。背後の指月山(しづきさん)の麓に建てられ,山上に詰丸もあることから指月城とも呼ばれます。1600年 関ケ原の戦いで西軍総大将となり敗れた毛利輝元は大幅に減封され安芸など計8か国の大大名から長門・周防二か国の大名となり,広島城からこの萩に本拠地を移しました。戦国時代には吉見氏の城があったそうですが,指月山山...
訪問日:2019年10月山口城は山口県山口市にあったお城です。幕末の動乱期に尊王攘夷に舵を切った長州藩 毛利氏は有事に備え,本拠地の萩城に代えてこの城を築きました。1863年から1864年にかけて毛利敬親(もうりたかちか)により本拠地を山口城に移転,幕府には居館の移転として申請したため山口屋形・山口政庁とも呼ばれます。屋形と言いながらも大砲による砲撃戦を想定した近代的な縄張りの平城で戦国時代より背後の鴻峰山にあ...
訪問日:2019年10月築山館は山口県山口市にあった城館です。大内氏遺跡として国史跡に指定されています。15世紀中頃 室町時代に大内教弘(おおうちのりひろ)が本拠地の大内氏館で手狭になったことから大内氏館のすぐ北側に築いたとされます。江戸時代までは築地や庭園跡がよく残っていたそうですが,現在は西北隅の築地(土塁)が残っているのみです。 ◆館跡は築地神社と八坂神社という二つの神社の境内となっています。◆史...
訪問日:2019年10月大内氏館は山口県山口市にあった城館です。大内氏遺跡として国史跡に指定され,続日本100名城にも選ばれています。この居館は守護大名として室町時代から戦国時代まで西国に絶大な勢力を誇った大内氏の本拠地として 1360年 大内弘世(おおうちひろよ)の頃に築かれたとされます。大内氏は中国や朝鮮といった海外との貿易を盛んに行い,京都の貴族との交流も盛んで,文化にも造詣が深かった第14代 大内政弘の頃に...
訪問日:2019年10月高嶺城(こうのみねじょう)は山口県山口市にあったお城です。大内氏遺跡として国史跡に指定され,続日本100名城にも選ばれています。周防・長門から九州の一部まで支配した名門 大内氏は1551年 家臣である陶晴賢の謀反により大内義隆が自害した大寧寺の変により滅亡に向かいます。晴賢は大友氏より養子となった大内義長を当主に立てましたが1555年 厳島の戦いで晴賢自身が毛利元就に敗れ自害。1556年 本拠地に...
訪問日:2019年4月大垣城は岐阜県大垣市にあったお城です。市史跡に指定され,続日本100名城にも選ばれています。麋城(びじょう),巨鹿城(きょろくじょう)の別名を持ちます。1535年に宮川安定が築城したと言われます。戦国期の16世紀後半には西美濃三人衆の一人である氏家卜全やその子の氏家直重が城主を務めた時期もあります。天守は豊臣秀吉の家臣である伊藤盛景(祐盛)が築きました。1600年の関ケ原の戦いの直前には石田三成...
訪問日:2019年4月黒野城は岐阜県岐阜市にあったお城です。市史跡に指定されています。1595年 豊臣秀吉政権の時に加藤貞泰(かとうさだやす)に築城されました。斎藤龍興,織田信長,豊臣秀吉に仕え功のあった父の加藤光泰が朝鮮出兵で陣没したことにより家督を継いだ貞泰は所領の甲斐より4万石で同地に移封となりました。1600年 関ケ原の戦いでは初め西軍につくも途中で東軍につき所領を安堵されています。貞泰は黒野城の城下町の...
訪問日:2019年4月鷺山城(さぎやまじょう)は岐阜県岐阜市にあったお城です。鎌倉時代 12世紀末期に佐竹秀義によって築城されたとされます。室町時代から戦国時代にかけ美濃守護であった土岐氏の本城である革手城の支城として機能した後,土岐氏の内訌を制した11代土岐頼芸はこの城に居を構えていました。その後,戦国時代の美濃の覇者となった斎藤道三は本拠地の稲葉山城を息子の斎藤義龍に譲ると自身は隠居してこの城に入りまし...
訪問日:2019年4月上茜部城(かみあかなべじょう)は岐阜県岐阜市にあったお城です。織田信長,豊臣秀吉に仕えた名人久太郎とも呼ばれた堀秀政の生誕の城として知られますが,現在は道路沿いの石碑と案内板のみが城があったことを示しています。城自体は16世紀の前半に堀資重により築かれたと伝わります。その子孫である堀秀重の子としてこの城で誕生した堀秀政は織田政権,豊臣政権にとって無くてはならない存在の武将となってい...
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訪問日:2025年1月野崎城は大阪府大東市にあったお城です。三好長慶の巨大山城としられる飯盛城(飯盛山城)で知られる飯盛山の支脈に築かれており,1467年から始まった応仁の乱の頃には存在し,畠山氏を割った畠山政長と畠山義就(はたけやなよしなり)の争いの中で機能していたようです。その後も数度にわたり戦いがあったようですが1499年には政長の子である畠山尚順(はたけやまひさのぶ)方の拠点であったようです。戦国時代 ...
訪問日:2025年1月駒山城は兵庫県赤穂郡上郡町にあったお城で,町史跡に指定されています。14世紀 南北朝時代の白旗城合戦に際し赤松則祐が築いたとされてきましたが,16世紀には宇喜多直家の家臣である長船貞親が在城下との記録もあり,戦国時代には交通の要衝を押さえる宇喜多氏の境目の城として機能したと考えられ,1577年に落城したとされます。現在に残る遺構はこの時代のものです。 ◆上郡の町中からよく見える生駒山の...
訪問日:2025年1月白旗城(しらはたじょう)は兵庫県相生市にあったお城です。赤松氏城跡として置塩城,感状山城とともに国史跡に指定されています。築城時期には何通りかの説がありますが,現地の案内やパンフレットには1336年(建武3年)に赤松円心(則村)により築城されたとありました。建武の元号からわかるように親政で有名な後醍醐天皇と後に室町幕府を開いた足利尊氏の争いの中で築城されました。西へ足利尊氏を追う天皇方...
訪問日:2025年1月古渡城は愛知県名古屋市にあった城です。天文年間(1532-1555)に前田利昌(利春)により築城されたとされます。前田家がこの城を拠点としている時に前田利家が誕生しています。1560年には利昌が死去し長男である 前田利久が家督を継ぎましたが,1569年には織田信長の意向を受け病弱で実子がなかった利久に代わり弟にあたる利家が継ぎます。その後は利家の子の利長に引き継がれます。1575年に越前府中城に利家が居...
訪問日:2025年1月古渡城は愛知県名古屋市にあった城です。1534年頃に東の今川氏に備えるため織田信秀が築城し,信秀の息子の織田信長はこの城で元服したと伝わります。信秀は那古野城を信長に譲りこの城を拠点としましたが1548年には末森城を築き移ったため廃城となりました。 ◆古渡城のあった場所は現在遺構らしきものは残っておらず,1690年 東本願寺の一如上人によって建立された真宗大谷派名古屋別院(東別院)となって...
訪問日:2025年1月鷲津砦は愛知県名古屋市にあった砦で大高城,丸根砦とともに国史跡に指定されています。1559年 織田信長が今川義元方の前線基地である大高城ににらみを利かせ鳴海城との連絡を絶つ位置に丸根砦とともに築きました。1560年の桶狭間の戦いに先立つ前哨戦では織田秀敏,飯尾定宗・尚清父子 等が配置されていたとされますが,今川家の重臣である朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に攻められ落城し,飯尾定宗は討死にし...
訪問日:2025年1月丸根砦は愛知県名古屋市にあった砦で大高城,鷲津砦とともに国史跡に指定されています。1559年 織田信長は今川義元方の前線基地である大高城ににらみを利かせ鳴海城との連絡を絶つ位置に鷲津砦とともに気づきました。1560年の桶狭間の戦いに先立つ前哨戦では大高城の松平元康(徳川家康)に攻められ城将の佐久間盛重以下の兵士が全滅したと言われています。桶狭間の戦い以後,今川氏より独立した松平元康と同盟関...
訪問日:2025年1月大高城(おおだかじょう)は愛知県名古屋市にあった城で国史跡に指定されています16世紀初頭の永正年間に花井備中守による築城と伝わります。16世紀後半の戦国時代には織田信秀の勢力圏内となっていましたが,織田信長の代になると鳴海城の山口教継(やまぐちのりつぐ)が今川義元側に寝返り大高城の調略にも成功します。織田信長はこれに対して丸根砦,鷲津砦 等の砦を周囲に築き包囲を強めました1560年 桶狭間...
訪問日:2013年11月 → 2015年1月飯盛城は大阪府四条畷市と大東市にかけてあったお城です。以前は飯盛山城ということの方が多かったのですが,最近は飯盛城に統一されつつあります。国史跡に指定され続日本100名城にも選定されています。このお城 現在の大阪府と奈良県の間の生駒山脈にあり,畿内を押えるために非常に重要な位置にあります。元々は南北朝時代に南朝方の陣城として築かれたようですが,本格的な城郭となったのは戦国...
訪問日:2025年1月丹下砦,善照寺砦,中島砦(なかしまとりで)は愛知県名古屋市にあった砦です。織田信秀の死後 今川義元に寝返った鳴海城主の山口教継、教吉親子が1559年に義元により切腹させられると鳴海城には今川氏譜代の岡部元信が入りました。織田信長は鳴海城を取り囲むようにこの三つの砦を築き,南の大高城との連携を遮断するために大高城の北側には丸根砦、鷲津砦を築きました。1600年 桶狭間の戦いにおいて織田信長は...
訪問日:2025年1月鳴海城は愛知県名古屋市にあった城です。14世紀末から15世紀初頭の応永年間に安原宗範によって築かれたとされます。戦国時代には織田信秀の配下である山口教継(やまぐちのりつぐ)がこの城を守っていましたが,信秀の死去に伴い織田信長が家督を継ぐと今川義元に寝返りました。息子の山口教吉とともに織田信長に対抗し城を守り切ったにも関わらず,今川義元に親子ともども切腹させられました。信長の調略による...
訪問日:2025年1月名古屋城は愛知県名古屋市にあった城です。名城中の名城なのに今更ではありますが,尾張名古屋は城でもつと歌われ現在も中京地区の中心 名古屋の象徴的な存在であります。国特別史跡に指定され,もちろん日本100名城にも選定されています。16世紀の前半に今川氏親によって築かれた那古屋城(なごやじょう)が現在の二之丸辺りにありました。1538年に織田信秀が城主の今川氏豊を追い城主となりました。その子の織...
訪問日:2024年11月清水山城は滋賀県高島市にあった城です。山上の城塞から麓の屋敷跡等も合わせると非常に広範囲に遺構が残っており清水山城館跡として国史跡に指定されています。築城時期は定かでありませんが,現在の高島郡の支配は鎌倉時代の1235年に近江源氏の佐々木高信が入ったことから始まります。高信を祖として高島七頭として7つの家に分かれていきましたがその中でも惣領家とされる越中氏(高島氏)の居城と考えられて...
皆様 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。この新年の挨拶も12回を数えています。ここで重要なお知らせですが,仕事で帰任の辞令が発令されたことによりタイ・バンコクでの生活も7年3か月で終えることになりました。1/2の朝には日本に入国している算段です。赴任当初はタイで海外子会社を設立し社長をやるといった激動の時を過ごしましたが,今やすっかり落ち着いてタイは第2の故郷と言えるくらい馴染...
訪問日:2024年11月田中城は滋賀県高島市にあった城です。築城時期は定かでありませんが,現在の高島市の田中郷に勢力を持ち高島七頭の一角とされる田中氏の居城で,鎌倉時代後期よりこの地を治めていたと考えられています。戦国後期から江戸時代にかけて活躍した田中吉政はこの田中氏の流れをくむとされています。戦国時代に入るとこの城は織田信長と朝倉義景・浅井長政連合軍が睨み合う場所となり信長公記に数度にわたり登場しま...
訪問日:2023年10月米沢城は山形県米沢市にあった城で,続日本100名城に選定されています。 鎌倉時代に長井時広により築城されたと言われるが確証はありません,この城が重要な城として表舞台に登場するのは戦国時代に伊達氏の居城となってからです。1548年に伊達晴宗が桑折西山城から居城を移して整備が進んだと考えられます。その後,独眼竜こと伊達政宗の生誕の城としても知られ,勢力を拡大する政宗は1589年に蘆名氏を滅ぼして...
訪問日:2023年10月中山城(たかだてじょう)は山形県上山市にあった城です。伊達輝宗に命じられた中山弥太郎が16世紀後半頃に築き,北側の最上領に接した境目の城として機能してきたとされてます。実際には山形でも最古の石垣が残るなど,実際には豊臣政権下でこの地に入った蒲生氏による整備と考えられる特徴が多く残っています。江戸時代に入り上杉氏が治めるようになると中腹に御役屋が置かれました。 ◆中山城は天守山と...
訪問日:2023年10月高楯城(たかだてじょう)は山形県上山市にあった城で,別名 亀ヶ岡城とも呼ばれます。市史跡に指定されています。築城時期は明確でないものの,応永年間の1403年頃 最上氏祖の斯波兼頼の曾孫にあたる天童満長が虚空蔵山に築城したと伝わります。最上地域を支配していた最上氏の勢力圏では南端の城となり満長以降は上山氏または武衛氏と名乗り城主となりました。置賜地域を治める伊達氏に対抗する境目の城とし...
訪問日:2023年10月上山城(かみのやまじょう)は山形県上山市にあった城で,別名 月岡城とも呼ばれ市史跡に指定されています。この地は南北朝時代より天童氏の一族にあたる上山氏が高楯城を拠点として支配していましたが,羽州街道と米沢街道の分岐地点にあたる交通の要衝のため大勢力である最上氏と伊達氏の騒乱の場となりました。1508年 上山義房の時代に伊達氏により追われたが,1535年に義房の子である上山(武衛)義忠が奪還し...
訪問日:2023年10月山形城は山形県山形市にあった城で霞ヶ城とも呼ばれます。国史跡に指定され日本100名城にも選定されています。南北朝時代,羽州探題として斯波兼頼が1357年より築城を開始したとされます。その後,この斯波氏が最上氏を名乗り山形城は最上宗家の城として発展していきます。戦国時代から江戸時代初期まで出羽に覇を唱えた最上義光は大規模な城郭へと発展させ,1600年 北の関ケ原とも言われる慶長出羽合戦で上杉軍...
訪問日:2023年10月中野城は山形県山形市にあった城です。築城年代は定かではありませんが,15世紀初めに最上義直の次男である中野満基により築かれたと案内板にあります。以後,中野氏を名乗り最上一族の主要な分家として宗家の当主を幾人も輩出しています。戦国時代にも最上義守が中野家より最上宗家に入り第十代目の当主となっています。この義守の長男が有名な最上義光であり,次男が中野家を継いだ中野義時です。1574年に最上...
訪問日:2023年10月天童陣屋は山形県天童市にあった陣屋です。1830年に高畠藩主であった織田信美(おだのぶかず)は天童陣屋に移り天童藩の初代藩主となりました。この家系は織田信長の次男で織田信雄(おだのぶかつ)の子孫にあたる家系です。江戸時代を通じて明治時代まで存続しましたが,1868年 戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いの後は新政府方として奥羽鎮撫使先導役に任じられました。この時,藩主 織田信学(おだのぶみち)は病...
訪問日:2023年10月天童城は山形県天童市にあったお城です。舞鶴山の全域にわたって築かれたこの城は天童古城とも呼ばれ天童市舞鶴山公園として整備されています。築城時期は南北朝時代の北畠天童丸によるとの伝承がありますが,14世紀の後半に最上直家の子である里見頼直がこの城に入り天童氏を称しました。戦国時代に入ると出羽国村山地方で勢力を拡大し最上氏に並ぶ勢力となり,共闘と対立を繰り返します。当主が天童頼貞の時 1...
訪問日:2023年10月寒河江城(さがえじょう)は山形県寒河江市にあったお城です。鎌倉幕府政所別当として有名な大江広元の子である大江親広が最初に寒河江に入ったことに始まり,室町時代の時氏の頃に寒河江氏を名乗り,それまでの館であったものが城として整備されていったと考えられています。戦国時代になると最上義守・義光 親子の争いである天正最上の乱で義守についたため,義光が当主となると粛清の対象となり1584年 寒河江...
訪問日:2023年10月谷地城(やちじょう)は山形県西村山郡河北町にあったお城です。町史跡に指定されています。15世紀半ばの弘治年間(1555年~1558年)に中条長昌(ちゅうじょうながまさ)により築城されたとされます。その後,中条氏は断絶し谷地北方に勢力をもっていた白鳥十郎長久がこの城の城主となり城の整備が進みました。この白鳥長久ですが最上義守・義光 親子の争いでは義守に味方し,旗色が悪くなると仲介役を買って出...
訪問日:2023年10月東根城(ひがしねじょう)は山形県東根市にあったお城です。築城時期は南北朝時代の1347年に小田島長義が鎌倉から所領に戻り築城したとされることから小田島城とも呼ばれます。その後は天童氏の一族が東根氏を名乗り有力国人として勢力を持ちました。天童頼澄と最上義光が対立すると天童八楯の一翼として最上氏に対抗しますが1584年 家老の里見景佐(さとみかげより)が最上氏に寝返ったことにより落城し城主の...
訪問日:2023年10月延沢城は山形県尾花沢市にあったお城で,国史跡に指定されています。野辺沢城と表記することもあり霧山城の別名も持ちます。延沢氏は南出羽で力を持った国人ですが,築城年には諸説ありますが1547~1552年の間に 延沢満重が築城したとされます。戦国時代には天童氏を盟主とした同盟体である最上八楯に属し,最上義光に抵抗しました。時の当主である延沢満延は剛力をもって知られ最上軍を散々悩ましました。最終...
訪問日:2023年10月清水城は山形県最上郡大蔵村にあったお城で,県史跡に指定されています。1476年 最上氏の一族にあたる成沢満久がこの地に入り1478年に築城したとされます。これ以降,清水氏と名乗り代々の居城となりますが最上川の重要な河港を押さえるこの地は武藤氏や小野寺氏との争いの最前線となりました。五代目の清水義高は武藤氏との戦いで戦死しています。子の無かった六代目の清水義氏は最上義光の三男であった義親を...
訪問日:2023年10月新庄城は山形県新庄市にあったお城で,市史跡に指定されています。戦国時代から出羽を支配した山形藩の最上氏が1622年に改易となると,譜代の鳥居忠政が入りましたが,鳥居氏と縁戚関係にあった戸沢政盛が6万石でこの地を治めることになりました。当初は鮭延城に入りましたが山城で手狭であったため1624年から平城である新庄城の築城にとりかかったり翌年完成しました。戸沢氏による新庄藩は明治維新まで続いた...
訪問日:2023年10月鮭延城(さけのべじょう)は山形県最上郡真室川町にあったお城で,真室城や真鶴城とも呼ばれます。町史跡に指定されています。築城時期は1534-35年頃 小野寺氏に仕えていた佐々木綱村によって築かれたとされます。この佐々木氏は鮭延氏と称しこの城は小野寺氏勢力範囲の南を守る重要拠点となりました、綱村の子である鮭延秀綱の時代に最上義光に攻められ降伏した後は一貫として最上氏の重臣として活躍していく...
訪問日:2023年10月亀ヶ崎城は山形県酒田市にあったお城です。築城域については不明な点が多いのですが15世紀の後半に武藤氏(大宝寺氏)がこの地に城を築き当初は東禅寺城と呼ばれていました。戦国時代には武藤氏の一族がこの城に入り東禅寺氏を名乗り,砂越氏との抗争の舞台にもなりました。1583年 武藤氏の最盛期を築いた武藤義氏の家臣である前森蔵人は最上義光と通じ主君を弑逆し東禅寺義長を称したとされます。その後,義長の...
皆様 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。この新年の挨拶も10回を数えています。タイはバンコク暮らしも6年半ですので,既に日本でブログを書いていた期間よりタイで日本のお城のブログを書いている期間の方が長くなってしまいました。新型コロナウィルスの終息とともに,日本へ帰国する機会も少し増えて出張で帰国した時に少し,慰労帰国ではまとめて沢山のお城に行くことが出来ました。2023年に行っ...
訪問日:2023年10月砂越城は山形県酒田市にあったお城です。築城時期は定かにではありませんが,平安時代末期の1154年 播磨国の赤松氏の分家が石黒氏を名乗り土着し築いたと伝わります。鎌倉時代に入り源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと砂越氏が郡司としてこの地に入り,この城を本拠地にするようになりました。戦国時代になると庄内地方は最上川北域の砂越氏と最上川南域の武藤氏(大宝寺氏)が二大勢力として激しく争うことになりま...
訪問日:2023年10月出羽松山城は山形県酒田市にあったお城です。明治維新後は松嶺城とも呼びました。鶴ヶ岡城を本拠地とする庄内藩 酒井家 初代藩主の酒井忠勝の遺言により1647年 二代藩主の酒井忠当(さかいただまさ)が弟の酒井忠恒に庄内中山2万石を分与したことにより始まります。当初,中山陣屋が拠点となっていましたが後に中山は松山と名称を変え出羽松山藩となりました。 1779年 三代目の酒井忠休(さかいただよし)が500...
訪問日:2023年10月尾浦城は山形県鶴岡市にあったお城です。大浦城や大山城とも呼ばれます。築城時期は定かではありませんが,この地域を治めた武藤氏(大宝寺氏)によるもとされます。武藤氏は宗教権威である羽黒山の別当職を兼ねる戦国大名として成長しますが,1532年 武藤晴時が当主の時に本拠地の大宝寺城が砂越氏により攻撃され焼失されると本拠地をこの城に移しました。武藤義増は本庄繁長の乱に加担し上杉謙信に反旗を翻し...
訪問日:2023年11月鶴ヶ岡城は山形県鶴岡市あったお城です。続日本100名城に選定されています。 元々は室町時代にこの地を支配した大宝寺氏(武藤氏)の本拠地として築城され大宝寺城と呼ばれていました。1532年 武藤晴時が当主の時に砂越氏維に攻められ焼失しました。この後,武藤氏は尾浦城に本拠地を移し大宝寺城は支城となりました。その後,上杉氏の史城として機能していたようですが,関ケ原の戦い後にこの地に入った最上義光...
訪問日:2023年村上城は新潟県村上市にあったお城です。中世城郭,近世城郭 双方の特徴を残し国史跡に指定され続日本100名城にも選定されています。 別名舞鶴城とも呼ばれ,本庄氏が治めた時代は本庄城と呼ばれていました。臥牛山に築かれた平山城で築城時期は不明ですが16世紀前半頃に築かれ,戦国期には現在の新潟市より北方に勢力を持った国人衆である揚北衆の代表格である本庄氏の本拠地として機能していたようです。本庄時長...
訪問日:2023年10月江上館(えがみやかた)は新潟県胎内市にあった城館です。 奥山荘城館遺跡(おくやまのしょうじょうかんいせき)として国史跡に指定されています。鎌倉時代の初期に三浦和田一族である和田義茂が地頭としてこの地に入りました。1277年に分割統治され中条地域を支配した一族が中条氏(なかじょうし)を名乗り15世紀 室町時代に江上館を本拠地としたとされます。同時に北条地域を引き継いだ同族の黒川氏とは争いが...
訪問日:2023年10月五十公野城(いじみのじょう)は新潟県新発田市にあったお城です。築城時期は不明も新発田氏の一族である五十公野氏によって築かれたとされます。戦国時代に新発田重家が五十公野治長という名でこの城を継いでいましたが兄である長敦の死により本家の新発田氏を継ぐことになりました。これによりこの城は義弟の五十公野信宗が後を継ぎました。1581年より勃発した新発田重家が上杉景勝に反旗を翻した新発田重家の...
訪問日:2023年10月新発田城は新潟県新発田市にあったお城です。菖蒲城(あやめじょう)とも呼ばれ日本100名城に選ばれ,国の重要文化財となる建築物を2基持つ名城です。また本丸の一部は市史跡に指定されています。近世以前の城の正確な築城時期は不明ですが,前身となる城は中世にこの地を支配した新発田氏によるものと考えられます。揚北衆の新発田氏と言えば御館の乱で上杉景勝を助けた新発田長敦や重家が有名ですが,御館の...