ものごころついたときに、自分の人生は 「すでに余生」 だった。 数奇な人生を歩むことになったアラフィフおじさんが、残りの人生を生き直す日々に、ふとつぶやくためのブログです。
45歳からフルートを始めました。 3年ほどがむしゃらに練習をして、まだまだうまくなりたいと、練習場所確保のために防音室を借りました。 防音室にスペースがまだあったため実家に置きっぱなしにしていたピアノを入れたのですが…。 ピアノの世界に触れるにつけその広さと奥の深さに圧倒され、ピアノに夢中になってしまいました。 音楽について、そして人生について恥も外聞もなく熱く語っております。
今回も日常我々が用いる言葉とその裏に存在する意識の関係について、ちょっと考えてみたい。 以前から私は「裏切り」という言葉にとても違和感を感じていた。ふーむ、裏切る、裏切られたとはいったいどういうことなのか、人は何をそれで言わんとしているのか、そこに何を求めているんだろうかと。 国語辞典的な意味では「味方を捨てて敵方についたり、約束・信義・期待に背いたりすること
最近よくYouTubeなどで「人生詰んだ」という表現をよく目にする。これはほとんどがある意味誇張表現だし、その人たちの人生はまだまだ続いていくのであって、今後どういう展開になるかなんて誰もわからないけれど、一つ言えるだろうことは、「人生詰んだ」という発想の下の人生はある意味その通りになるんじゃないかなってことだろうか。 あるYouTube動画のコメント欄で人生が詰むことなんてあり得ない、それは…
「ブログリーダー」を活用して、flute45さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。