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  • 物語り

    「物語り」とは、様々な出来事と関係しあうネットワークの中に存在している、「私たちはどんな未来へと進んでいくべきか」という思いが反映されている「実在」のこと。それは、「唯一無二の真実の歴史」ではないが、「物語=虚構」ではない。<以下、この記事(ミラー)からの抜粋/太字は引用者による> ・・・・・「物語り」とは、過去のさまざまな史料や出来事同士の関係性、結びつきのことだ。古戦場を訪れても、私たちが目にするのは草木の生い茂る野原だけだ。しかし、そこから出土する武具や人骨、残された文書や絵画などを相互に関係づけることで、私たちは過去の戦いの「実在」を確信できる・・・・・歴史的出来事は単独で存在しているわけではなく、ほかの様々な出来事と関係しあうネットワークの中に存在している。その相互関係のネットワークを「物語り」と呼べば、歴史的出来事の存在は物語りの文脈に依存し、それに支えられている・・・・・歴史的出来事が「実在した」と認められるには、他の出来事や史料と整合的であることが求められる。それが虚構である「物語」との決定的な違い・・・・・「ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)はなかったという新たな証拠を見つけた」と主張する人がいたとしても、部分的な証拠では、膨大な史料から専門家集団が築き上げた、歴史のネットワークの中で根拠づけられた「ホロコーストの実在性」は覆せない。織物の中にほつれた糸が何本かあっても、全体の図柄は変わらないのと同じ・・・・・都合のよい史料や出来事だけを継ぎ合わせた主張が「歴史」の名に値しないのは当然です。と同時に、いかに史料と整合的であっても「唯一無二の真実の歴史」なるものも、実は存在しません・・・・・歴史には紡ぎ手の「私たちはどんな未来へと進んでいくべきか」という思いが反映されているからこそ、意味があります・・・・・。**************...

  • 古代倭国(日本)の通史・・・3世紀の邪馬台国から、6世紀の欽明大王まで

    <全文.pdf> ・・・・・3世紀の邪馬台国から、6世紀の欽明大王まで・・・・・古代倭国(日本)の通史・・・・・多くの史書が、時代を下った8世紀に編纂(へんさん)された日本書紀の、天武朝の正統性強調を意図した記述の解釈にばかり深入りしがちなのとは、真逆のアプローチ・・・・・の分析・・・・・邪馬台国の勢力圏は北部九州限定だった・・・・・魏志倭人伝にある卑弥呼の勢力圏は29カ国であり、近畿から北部九州までの広い領域に対応するものではない・・・・・大和盆地では、3世紀の後半に纏向(まきむく)遺跡(桜井市)を拠点とする勢力が勃興し、箸墓古墳を残す。しかしそこから北に6キロも離れていない布留(ふる)(現天理市)には、百済から七支刀を得るなどしていた、別の勢力があった。4世紀になると纏向の勢力は、奈良盆地北部(現奈良市)や大阪平野(現藤井寺市)にも拠点を築くが、その拠点同士が古墳の大きさなどを競い合う。つまり諸勢力を統一する大きな王権はまだなかった。 5世紀には、「倭の五王」が南北朝時代の中国の宋に朝貢する。そのうち讃(オオサザキ=仁徳天皇)と珍は上町(うえまち)台地(現大阪市)に拠点を置いて百舌鳥(もず)古墳群(堺市)に葬られ、済は飛鳥(現明日香村)、興は布留、武(ワカタケル=雄略天皇)は初瀬(現桜井市)を拠点とした・・・・・だが同じ5世紀には、奈良盆地南西部(現御所市)に「かづらぎ」の王がおり、現在の岡山県、群馬県、宮崎県などにも大規模な古墳が築かれていた。つまり畿内の覇権は拠点を異にする諸勢力の間で動き、列島各地にも王がいた。彼らは銅鏡や鉄剣などの威信財の贈与や、前方後円墳を巡る儀礼などを通じて、相互に連合や同盟を結んでいた・・・・・6世紀になると、みしま(現淀川流域)に拠点を置き、コシ(現福井県)、オウミ(現滋賀県)、オワリ(現愛知県)などの勢力の支持を得たオオド王(男大迹王=継体天皇)が、ヤマトにも勢力を浸透させて、キ(現和歌山県の紀の川流域)を牽制(けんせい)しつつ、ツクシ(現福岡県)の王の磐井を屈服させる。その死後にはまた混乱があるものの、朝鮮半島西南部から渡来し飛鳥を開発して勢力を築いた蘇我氏が、オオド王の子の欽明大王を迎え入れ、畿内から北部九州の間の諸勢力の上に乗っかる王権を確立していく・・・・・万世一系神話を脇に置き、物証からの考察から入れば、このように生産力開発をバックにした権力者たちの生々しい歴史が浮

  • 大澤真幸「天皇制の謎と民主主義『基盤装置』の危うい未来」

    <全文> <作成途中>天皇はー制度としての天皇はー謎である。天皇制はなぜあるのか。何のためにあるのか。日本人は、それを明晰に説明することはできない・・・・・天皇制の歴史を振り返ると、謎が幾分かは小さくなるだろうか。逆である。謎は深まるばかりだ・・・・・ 日本の歴史を振り返ってみると、その大半の期間において、天皇や朝廷は、たいした機能果たしていないように見える。一見、ほとんど無用である。 それどころか、ときの最高権力者にとって、天皇制は、ないほうがよい障害物だったのではないか、 と推測したくなる期間が実に長い・・・・・武家政権は、天皇制を完全に打倒し、撤廃することもできたように見えるのに。そうはしなかったーそうできなかったのだ・・・・・ これほど無用に見えるのになお日本人がそれを棄てることができないのだとすれば、日本人は天皇制をよほど必要としてきたのだ・・・・・天皇制のもうひとつの顕著な特徴は 直属の軍隊を持たないということである 古代の天皇は 直接的に納品しよる軍事力を持っていた しかしある時期平安時代のごく初期行こう 天皇は 軍事力とは切り離された 軍隊とのこのような無関係という伝統は 今日の天皇制にも受け継がれているもちろん現代の象徴天皇が軍隊 自衛隊 から切り離されているのは 直接的には 大日本帝国憲法の下で 天皇が 統帥権を持っていた ことに対する 安静からである が今述べたようにむしろ 天皇自身が 軍隊の最高 指揮権を握っていた 天皇以降の体制は天皇制の歴史にとっては例外である 軍隊から切り離されている戦後の天皇は 天王星の状態への復帰 日本国憲法 によれば 天皇は 象徴である 日本国と 日本国民統合 の象徴だ と だが これが 何を意味しているのかは確定できない どこにも 明確に 規定されていないからだ 鹿橋 戦後天皇制は 日本の政治に対して ある重要な機能を果たしていた 天王星が 民主主義が可能であるための最小限の条件を整えた 振り返ってみると 敗戦後の 反省金雀 は天皇は天皇制に対する 批判や反対を公然と視聴できた 日本市場 唯一の期間であろう日本史には一つの法則がある 天王家 朝廷の敵とみなされたものは必ず政治的な歯医者になるのだ 天皇 競艇の 全面的な適当ないながら なお政治的に生き延びたケースは たったひとつしかない 承久の乱の時の関東節 北条義時泰時 に率いられた鎌倉 の武士勢力が その唯

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