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2012/12/23

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  • 『神に不正があるのですか』

    「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:10-16)---「神に不正があるのですか」、理不尽な目に遭うとき、また、復讐した...『神に不正があるのですか』

  • キリストに愛されているという実感

    「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)---数々の困難、患難に遭うとき。自暴自棄になりそうなとき。そういうときにふっと思い出すことがある...キリストに愛されているという実感

  • 神が義と認めてくださるということ

    「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:30-33)---神が私たちの味方であるなら、神が味方をしない連中は私たちに敵対するかもしれない。救われた私たちは神が義と認めてくださるが、彼らは何をもって自分を義とするのだろう。カネだろうか、才覚だろうか。自分の魅力だろうか。そのような自分を頼りにす...神が義と認めてくださるということ

  • 『益』とはなにか

    「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)---「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるところの「益」とは、誰にとっての益だろうか。専ら自分にとってのものではない。神および神の秩序にとっての益である。私たちがもしも「神のご計画に従って召された人々」なのであれば、神および神の秩序にとって益なことは、当然に、自分自身にとっても益である。私たちはイエスを長子とする家族だからである。このことについては、モーセの一生を思い出...『益』とはなにか

  • 奴隷の霊からの解放

    「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」(ローマ8:13-15)---希代の芸術家である岡本太郎は、「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(「自分の中に毒を持て」,p.137」)と書いている。ここでいう「流されたままで生きている」というのが、上の...奴隷の霊からの解放

  • イエスはこれ以上ないほど愛してくださる

    「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:35)---イエスにある者であっても患難や苦しみに遭うのは、上の聖句からも明らかであるし、私たちの経験からもそうである。ここ半年近く、私はその苦しみのさ中にいる。昨年11月頃に詩篇を読んでいたときには、なぜかとても心苦しくなっていった。初めてのことだ。途中でやめて理論的なロマ書を読み始めると、今度は引っかかるところがほとんどなく、過去の記事を修正してお茶を濁すしかなかった。しかし、こういうときであっても、イエスは私を愛してくださる。それどころか、これ以上ないほどに愛してくださるのだ。具体的には書けないがびっくりした。なんと有難いことだろう。日ごろ客体化して書いて...イエスはこれ以上ないほど愛してくださる

  • からだは罪のゆえに死んでいても霊が義のゆえに生きている

    「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」(ローマ8:5-10)---御父の恵みによって御霊をいただいた私たちは、今まで通り肉を持ち続けながらこの御霊を宿している。肉...からだは罪のゆえに死んでいても霊が義のゆえに生きている

  • 救いの型

    「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ7:25-8:4)---信仰は、つかみ取る類いのものではなく、与えられて備わるものである。神はイエスに...救いの型

  • 律法を行おうとするとかえって罪深くなるというパラドックス

    「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:15-20)---「自分がしたいと思うこと...律法を行おうとするとかえって罪深くなるというパラドックス

  • 聖なる律法

    「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:9-12)---ここでいう「死」とは生物としての人の死とは違って、ここでいう「殺した」というのは殺人とは違う。「死」とは聖なる律法の罪に死ぬことであり、あえて言うなら御父に殺されることを指す。もう行き詰まってしまってどうにもならなくなった私を御父が殺して、そして御父は私をよみがえらせる。このわざは2000年前に御子イエスによって示されたもので、私たちはこのイエスと...聖なる律法

  • 律法は罪なのでしょうか

    「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:7)---もし律法を知らなかったなら自分の行いが罪に当たることを知らずに済んだとパウロは言う。パウロは分かっていてこう書いているのだが、律法を知らなかったなら何をやってもよかったのだろうか。律法がモーセを介して人々に伝えられ明文化される前からこの神の律法は存在していたのだから、律法を知っているか知らないかは罪ということについては関係がない。律法を知らずに罪を罪とも気づかず御父の怒りの下に居続けることすらわからないのと、律法によって罪を罪と知って生みの苦し...律法は罪なのでしょうか

  • 人間の肉を追い込む律法

    「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:5-6)---私が聖書を手にしてまもなく、山上の説教での次の聖句を知った。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)そのころたまたま寄ったコンビニのレジの女性が可愛らしく思えたのだが、それと同時に上の「すでに心の中で姦淫を犯した」が思い出された。そのとき私の心の中には、レジの女性を...人間の肉を追い込む律法

  • 死者の中から生かされた者

    「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:12-13)---私たちは、正に「死者の中から生かされた者」であり、そのことを大いに喜んでいる。一方、死者たちは、罪に支配されていること自体に気がつかない。罪を罪とはわからない。この死人たちの世にあって、私の肉はうちのめされることが多々ある。しかし、この私の内には脈々としたいのちが流れて続けている。イエスは「わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)と言ったが、これは死者の中から生かされていただいた永遠のいのちについてのことで、この永遠...死者の中から生かされた者

  • 私の主

    「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:12-15)---私たちは、キリストの十字架の死と同じように死に、キリストの復活と同じようによみがえった。もしも私たちがキリストと出会ったのであれば、そうである。この出会いの前、私...私の主

  • 罪といのち

    「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:4-8)---ひとことに罪と言っても罪は二種類に大別される。刑事罰...罪といのち

  • 結果的に律法を守っている

    「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:5-7)---2019年10月14日付の記事と同じ聖書箇所。この記事の中で、「新たにされた私たちにとっても律法は存在し続けるので、私たちは相変わらず罪を犯し続けるが、今や罪赦されて罪から解放されている」と書いたのだが、それとは少し違うのではと気づいたことを書いてみる。何に気付いたのかというと、罪を犯し続けるが罪赦されるところもあると思うのだが、それ以上に、そもそ...結果的に律法を守っている

  • キリスト・イエスにつくバプテスマ

    「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:3-4)---神の愛とは、キリスト・イエスにつくバプテスマ、言い換えると十字架と復活の御技に尽きると思う。それはまさに「いのちにあって新しい歩みをするため」で、古い自分が死んで、そしてよみがえって新しく生きるためなのである。このバステスマによって、生ける水が内側からほとばしるようになる。そしてその後も、この十字架と復活を通して、御父は私に愛を惜...キリスト・イエスにつくバプテスマ

  • 出発点としての律法

    「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)---律法は守り通すためというよりも、律法を守り通せないという罪の意識を自覚させるためのものである。かつて私が律法を知らなかった頃は、罪の意識にさいなまれることはなかったし、明らかに悪いことも平気でやっていた。罪にあたるという意識自体がそもそもなかった。しかし心のどこかがうめき続ける私は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)という今も鳴り響くこの声を聞いて聖書を開き、聖書を通して神の律法に接し、この律法に照らし...出発点としての律法

  • 人としての死、人としてのいのち

    「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(ローマ5:17)---死とは生物としての死を指すのではなく、人としての死を指している。また、いのちとは生物としてのいのちを指すのではなく、人としてのいのちを指している。「灰色にくすんで見える同僚たち」とか「毎月のノルマ達成に追われるだけ」といった表現が、様々な媒体に頻出する。仕事や生活に追われ続けて自分自身を見失ってしまうことだが、自分自身ではそうとは気づいていない。このように、人として死んでいる人というのは古今東西多くいたのだろう。まさに「ひとりによって死が支配するようになった」のである。現代においてこ...人としての死、人としてのいのち

  • 十字架と復活という神の愛

    「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たち...十字架と復活という神の愛

  • 患難が生み出す希望

    「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)---教会の門を叩いたのは、まだ20世紀の頃だ。購入した聖書を読み進めていって最初にありがたく思った聖句が上の「患難が忍耐を生み出し」のくだりだった。それから毎週教会に通い、賛美歌を歌い説教に耳を傾け兄弟姉妹と交わった。教会を変えもした。ある教会で、いきさつは忘れたのだが老牧師とサシでやりとりを重ねた挙げ句、「あなたはイエス様を分かっていますか!」と問い詰められて「いえ、全然……」と悄然として答えたということ...患難が生み出す希望

  • 成長痛

    「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)---俗に成長痛という言葉がある。あるいはもう死語かもしれない。しかし実際のところ、私たちは傷ついたとき、そしてそれを乗り越えることによって成長してゆく。上の聖書箇所では、このことを「希望」といっている。こういう苦難とは無縁に見える人がたまにいるが、かえって気の毒というか、御父から見捨てられているのかと思うほどだ。しかし、このような人もまた、人知れぬところで苦しんでいるような気もする。なにしろ御父の愛は、十字...成長痛

  • 極端なまでの非合理が死人を生かす

    「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:19-25)---「およそ百歳になって、自分のからだが...極端なまでの非合理が死人を生かす

  • 律法と信仰による義

    「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)---もし行ないによって義が確立するのであれば、割礼をしないことは不義に当たる。分かりがいい。では、割礼をしないことは、律法を確立するであろうか、それともそれを貶めるだろうか。イエス・キリストの十字架の死と復活以来、これは頭の上では分からなくなってくる。行いによる義とは自力で義をつかみ取ろうとするものであるが、信仰による義はそうではない。というのは、信仰というのは自分が力ずくで獲得するものではなく、死んでよみがえったイエスによって信じさせられるものだからである。信じさせられる以前には、自力ではどうやっても神の基準である律法には達することができず...律法と信仰による義

  • イエスの十字架は私を無罪放免にしたのだろうか

    「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25-26))---私たちのアダムの肉は律法を守ることができず、罪を犯し続けてきた。私たちをお造りになった御父は、今まさに義を示すために、ご自身の御子をなだめの供え物とされた。ここで義とは、御父が定めた律法を破った者を自ら裁く義であるから、正に神の大義である。その神の大義が私には直接には下されず、肉を持つが罪のない御子キリスト・イエスに下された。では...イエスの十字架は私を無罪放免にしたのだろうか

  • 値なしに義と認められる

    「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)---すべての人が罪を犯している。人間が持つアダムの肉を、神の律法が糾弾する。それゆえ、神の御目に義と映る者はおらず、神の御前にはすべての人が罪深い。何かをやったから罪だというよりも、存在そのものが罪深い。「義人はいない」のである。それゆえ、この絶対的な存在である神から栄誉や栄光を受けるには、私たちははるか程遠い。だがここに、この悲惨な状況に置かれた人間を救う救いの手が、神の方から差し伸べられた。それが、「キリスト・イエスによる贖い」である。イエスは、御自身もお持ちだった肉を十字架につけて処罰し、三日目に御父によって復活する。こ...値なしに義と認められる

  • 罪のとげ

    「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)---自分語りをする。まだ20世紀だった頃に教会の門を叩き聖書を読み始めた。当時ぎくりとさせられたのが、「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)だった。その当時買い物に行ったときのこと、可愛らしくて器量の良いレジ打ちの娘を見て、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」が即座に思い出された。私は今、まさに姦淫の罪を犯したのだ。律法が私たちにもたらすのは、この罪の意識...罪のとげ

  • 何を誇るのか

    「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)---行ないの原理について、パウロは第2章で「律法を誇りとしているあなたが、……」(2:23)と記している。律法を守ることで神の義に至ろうとしていたつもりが、気づくと、律法を守ることが自分の誇りとなり、他者に対する優越感に転じてしまう。一方、信仰とは、恵みによって与えられるものである。十字架と復活のイエスが訪れ、罪赦されて義と認められる。この信仰の原理は、自分の内面のことであって誰にも誇りようがない。むしろ、自分の誇りそのものがなくなってゆく。なぜなら私たちが誇るべきは私自身ではなく、私を救ってくれたイエス...何を誇るのか

  • 私の罪深さに表れる神の栄光

    「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」(ローマ3:7-8)---罪深い私は、その罪深さのゆえに人を傷つけ腹立たせることなど数知れない。赦されたにもかかわらず、人を許すことなどほとんどない。そのような私と比べれば神の栄光はよりまぶしく見える。しかし、そうと見えるだけで、神の栄光は自分によって貶められる。なぜなら私はこの御父によって造られ、そしてイエスの御技のゆえにこの御父と和解できたにもか...私の罪深さに表れる神の栄光

  • 人からの誉れ、神からの誉れ

    「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)---共通の知人のことを「あの人は人から褒められたいというのが強い」と評した人がいて、確かにそうだなあと思うと同時に、人から褒められたいということ自体について違和感も持った。あまり褒められることのない自分も、人からは褒められたいとはやはり思う。しかし自分は人からはあまり褒められなくてもいいな、というのが上に書いた違和感である。今日もやることをきちんとやる。御父からお褒めにあずかり、自分自身もその自分を褒める。もっぱら人から褒められるためにやっていたら、そ...人からの誉れ、神からの誉れ

  • 死んだ日々と生まれ変わった日々

    「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ローマ1:28-32)---「彼らが神を知ろうとしたがらない」とあるので、大昔から無神論者はいたのだろう。しかし彼らは「死罪に当たる...死んだ日々と生まれ変わった日々

  • 知者であると言いながら愚かな者

    「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1:18-23)---もし、...知者であると言いながら愚かな者

  • 渇き

    「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩63:1-3)---詩人ダビデは、このとき荒野にいたとある。実際に喉が渇いていたばかりか、心も渇ききっていた。しかしダビデはあきらめることなく御父に祈り賛美する。このダビデの肉の上での子孫であるイエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)と言う。じっさいそのとおりで、十字架と復活のイエスを介して御父と和解すると...渇き

  • コミュ力人間

    「彼は、自分の親しい者にまで手を伸ばし、自分の誓約を破った。彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である。あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。しかし、神よ。あなたは彼らを、滅びの穴に落とされましょう。血を流す者と欺く者どもは、おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。けれども、私は、あなたに拠り頼みます。」(詩55:20-23)---「彼の口は、バタよりもなめらか」というのは、今の世でのコミュ力を思い起こさせる。じっさい彼らは自分しか頼りにしないという以上に、自分の口しか頼りにしない。無頼派で、人を信じず神など見えない。彼らは周囲とうまくやっているよ...コミュ力人間

  • 砕かれた悔いた心

    「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩51:16-17)---全焼のいけにえというのは、値の張る物を神に捧げることという理解でいいのだろうか。物の捧げ物というのは心が伴っていなくともできるもので、このことはどの人にも心当たりがあると思う。そこを詩人は、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」と詠う。心が伴っているか以前に、心そのものが大切なのだ。その心は「砕かれた、悔いた心」であるという。頑なな心ではない。この頑なな心は、イエスの十字架の死に預かることではじめて砕かれ、そしてイエスの復活と共に悔いた心によみがえる。上の詩を言い替...砕かれた悔いた心

  • 御父を信じる者の強さ

    「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩42:5)---詩人は、私のたましいは絶望していると詠う。私は絶望していると書くのではなく、絶望という感情から距離を置いてそれを観察している。また、この絶望という言葉と御顔の救いという言葉とが、鮮やかなコントラストを作り出している。上に引用した4行は、この5節以外にも11節に繰り返され、さらに43:5でも用いられている。詩人のお気に入りのフレーズだったのだろうか、それとも当時流行したのだろうか。この巧みな詩人は絶望感にさいなまれながらも、なお御父を思う。これが創造主を信じる者の強さ、たくましさだと思う。私たちをお造りになった御父は、時機にかなったみ技をなさってくださる。...御父を信じる者の強さ

  • 沈黙

    「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。私はひたすら沈黙を守った。よいことにさえ、黙っていた。それで私の痛みは激しくなった。私の心は私のうちで熱くなり、私がうめく間に、火は燃え上がった。そこで私は自分の舌で、こう言った。主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」(詩39:1-4)---詩人ダビデが自ら沈黙を選んだのか、それとも沈黙を強いられたのかはよく分からない。あるいは沈黙せざるを得なくなったのかもしれない。そうしてダビデは、この沈黙の重さに、要するに死にたいと御父にこぼす。このような人生の闇のときに人は全く頼りにならない。「私の愛する者や私の友も、...沈黙

  • 御父に喜ばれる道

    「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」(詩37:23-24)---レプタ銅貨2つを献金箱に投げ入れたやもめにイエスは彼女の信仰を見た(マルコ12:41-44)。いわゆるレプタのやもめにとっては御父への信仰がすべてであり、まさに彼女の道であった。だから有り金すべてを献金しろと言っているのではない。むしろ、人それぞれに、御父に喜ばれる道があると思う。周り中からみじめな奴だと見られていても、自分はイエスと共にあって満足しているというのも、その道の一つだろう。このたとえは上のレプタのやもめに近い。「人の歩みは主によって確かにされる」のであり、自力でじたばたせずに天に従うとき、気づくと主に喜ばれ自分も満足でき...御父に喜ばれる道

  • この世相にあっていのちを輝かせる

    「悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す。主に祝福された者は地を受け継ごう。しかし主にのろわれた者は断ち切られる。」(詩37:21-22)---時事ネタになるが、少し前に駐日ジョージア大使の映像が炎上した。大使の主張の力点は、大使の妻の妊娠中や子を連れているときに電車の席を譲ってくれた人が誰もいなかったというところにある。私はその映像についてヤフーニュースで知ったのだが、そのコメント欄には目を覆うものがあった。大使を支持すると短く書いたコメントもいくつかあったが、専用席ではなく優先席だから譲らなくてよいのだというものが多かった。堂々と主張していた。かねてより思っていたことなのだが、「情け深くて人に施す」ような正しい人がいなくなってしまった。私に対して情け容赦がないのだと思っていたら、上の...この世相にあっていのちを輝かせる

  • 御父を信じる人の悩みは報われる

    「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」(詩34:19-20)---「正しい者の悩みは多い」というのはいつの世もそうなのだろう。一方で、この詩を詠ったダビデ王は別の詩の中で「悪者には心の痛みが多い」(詩32:10)とも詠っている。このことについて、ユング心理学者の河合隼雄氏は「人生とは、いかに言いかえようとも、そもそもすさまじいものなのである。」と書き記しており(「昔話の深層」、p.46)、悩み多く生きるということではどの人も変わらないのかもしれない。しかし御父は、両者のうち正しい者を救い出される。ここで、正しいとは御父を信じることをいう。御父を信じる者にとって悩むことは報われて、何一つ失うことはない。---健や...御父を信じる人の悩みは報われる

  • 四方八方囲まれても

    「私は、敵対するすべての者から、非難されました。わけても、私の隣人から。私の親友には恐れられ、外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。私は死人のように、人の心から忘れられ、こわれた器のようになりました。私は多くの者のそしりを聞きました。「四方八方みな恐怖だ。」と。彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」(詩31:11-14)---ダビデの賛歌。祈りの中で、御父に窮状を訴えている。周り中からの非難、そして忌避。祈りの中で、私たちは上のダビデ王のように、自分の心中を言い表して御父に伝える。このような祈り方は他にはあまり見られないのではないかという気がする。古来からのこの祈りの形式は、はからず...四方八方囲まれても

  • ご利益の祈りとほんとうの祈り

    「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩27:4)---「……、どうぞ叶えてくれというのは、ほんとうの祈りではない。こういうのは宗教的の祈りではなくて、ただ世間の商売、取り引きというてよい」、こう記したのは、禅学者の鈴木大拙である(大熊玄編、「はじめての大拙」)。あのご利益の祈りというのは、神という存在を下に見ているのではないかと思っている。「願いを叶えろよな!」というような。しかし、私たちの御父をもし下に見るとしたら、私をお造りになったこの御父が私にかしずくことになってしまっておかしなことになってしまう。御父にご利益の祈りをするとは、このおかしさを抱えるのである。一方、上のダビデの祈りの中...ご利益の祈りとほんとうの祈り

  • 御前で悩み切る

    「私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。」(詩25:16-19)---憎しみに囲まれて、詩人ダビデはうち悩む。この悩むということこそ、孤独な者の特権といえる。悩みとその苦しみを通して自身と対話し御父に祈る。この過程を通して自分は内に穿たれてゆく。悩み苦しむとき、心底困ったとき、いつもは楽しい友人知人など何の助けにもならない。むしろ逆で、ささっと遠ざかってしまうのだ。「あいつやべーよ」。悩みを恐れず孤独を忌まず御前で自分自身と向き合うこと、これにはやはり忍耐力がいる...御前で悩み切る

  • しあわせの中に住むたましい

    「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。」(詩25:12-15)---詩篇を読み進めてゆく中、「悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。」(詩22:26)に行き当たった。悩みにあるときには食が喉を通らないので、食べて満ち足りたときというのは悩みを通り抜けてうれしく、主を賛美する。しかし最近、こういう類いの悩みというのを、表ではほとんど耳にしなくなった。ダイエットのような容姿の悩み、人よりも耳目を集めたい、そういう外形的な悩みとでもいうものにあふれている。...しあわせの中に住むたましい

  • 打ちひしがれて悩む詩人

    「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」(詩22:6-8)---詩人は打ちひしがれている。悪いときにはすべてを悪く捉えてしまう。これは自分もそうだし、誰しも同じなのだろう。それで古今東西の多くの人がこの詩に共感する。「私は虫けらです」という自らの矮小化も、このようなときにしばしば陥る。ところで、この22篇のずっと後には「悩む者は、食べて、満ち足り、」(詩22:26)と詠われる。食欲もなくなって痩せ細った悩む者が、腹一杯食って満足する日が戻るのである。必ず戻る。御父は私たち被造物を放ってはおかないからである。---[一...打ちひしがれて悩む詩人

  • 主のさばきはまこと

    「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」(詩19:9)---私は長い間、主を恐れる(畏れる)ということがわからなかった。いったいなぜ、主を恐れるということがあるのだろうか。今はよく分かる。「主のさばきはまこと」なのだ。だからかつての私は、教会に行こうという思いが募って実際に通いだした。そのときの私は御父の存在自体を知らなかったが、まさに主を畏れざるをえなかったからだ。翻って思うに、主のまことのさばきが下ることは、とてつもなく大きな恵みだと思う。---[一版]2020年4月27日[二版]2023年10月27日健やかな一日をお祈りします!にほんブログ村主のさばきはまこと

  • 私の闇を照らす神

    「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(詩18:25-29)---人に親切なんかしてやるものかと思っていた時期がある。親切をして、その場では感謝されても、時間が経つとけろりとしているので、器の小さい私などは親切なんかするものではなかったという後悔に駆られる。そんなことがたまたま重なった。しかし、御父は「恵み深い者には、恵み深く」されるお方だったのだ。じっさい、イエスによって御父と和解して以来、御父からどれだけ良くしていただいたで...私の闇を照らす神

  • 演技に疲れて本来の自分がわからない

    「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。」(詩15:1-5)---ダビデ王の賛歌。乱暴に言ってしまえばこんな奴いるかよという内容であるし、ダビデ王にしてもこういう人がもしいたならなあという気持ちを歌ったのだろうと思う。なにしろ生きるということは戦いで、ダビデ王はその波乱万丈の戦いを生き抜いた人であった。もし、私こそこの詩で歌われて...演技に疲れて本来の自分がわからない

  • 他人からどう見られるかは恐れても

    「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。また私の敵が、「おれは彼に勝った。」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(詩13:3-6)---「おれは彼に勝った。」と言わないように、また、私の仇が喜ばないように、という思いは、他の人から自分がどう見られるかというところから出てくる。ヤコブは兄のエサウに会う前夜、この不安に捕らわれた。他人からどう見られるかを恐れるということは、詩篇にも創世記にもあるほど、人がもともと持ち合わせている性質なのだろう。もちろん私にも少なからずある。では、この詩人の御父へ...他人からどう見られるかは恐れても

  • 御父が与えてくださるもの

    「彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」(詩12:4-5)---御父は、悩む人や貧しい人を救いに入れよう、そう仰る。では救いとは何だろうか。悩みの解決であろうか。豊かになることだろうか。しいたげからの解放だろうか。そういった事々の一番根っこのところにあるいのちの回復、それが救いである。悩む人も貧しい人も、またしいたげられる人も、御父の御前に罪深い存在であることに変わりはない。だがその罪深い肉は、救われたときにキリストの十字架と復活によって赦されて御父が和解してくださるのである。私はこれを神の愛だと...御父が与えてくださるもの

  • いつの世もコミュ力の世のようだが

    「主よ。お救いください。聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」(詩12:1-4)---「この舌で勝つことができる」、正にコミュ力全盛の今の世界ではないか。旧約聖書にも詠われているのだから、むしろ、口がうまいのが勝つのは世の常というか、もっと踏み込んで言うと、世とはそういうところということなのだろう。イエスに救われた私たちは、そのとき瞬時にして世の原理から神の原理に移された。だから、私たちは世では末席に身を置きながらも、御父と...いつの世もコミュ力の世のようだが

  • 拠り所

    「主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。「それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(詩11:1-3)---「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」、拠り所とは、この詩では御父への信仰を指す。私たちは、御父という軸を中心にして右回りしたり左回りしている。信仰を与えられた者の中心軸は神であり、この中心軸こそ上にいう拠り所である。この拠り所が壊されることはない。ただ、「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け」と言われて拠り所が見えづらくなることは少なからずある。中心軸が大きくぶれて、そのぶれの大きさが自分でも分かるほどだ。そんなときに私は...拠り所

  • 強者

    「彼は心の中で言う。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。彼は村はずれの待ち伏せ場にすわり、隠れた所で、罪のない人を殺す。彼の目は不幸な人をねらっている。彼は茂みの中の獅子のように隠れ場で待ち伏せている。彼は悩む人を捕えようと待ち伏せる。悩む人を、その網にかけて捕えてしまう。不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる。彼は心の中で言う。「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」(詩10:6-11)---この詩の作者による強者像、イメージ。「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない」、彼らは本当にそう思っている。詳しくは書けないが、代々に渡って濃縮されて、もうどうしよ...強者

  • 無頼派

    「悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。貧しい者は決して忘れられない。悩む者の望みは、いつまでもなくならない。主よ。立ち上がってください。人間が勝ち誇らないために。国々が御前で、さばかれるために。主よ。彼らに恐れを起こさせてください。おのれが、ただ、人間にすぎないことを、国々に思い知らせてください。」(詩9:17-20)---「人間が勝ち誇らないために」、「ただ、人間にすぎないことを」。神を知らない人というのがある。己をのみ頼り他人に目が向かない。人をどう利用しようかとばかり考えている。神にも何にも頼らない無頼派といえばいいのだろうか。私は弱い者ではあるが、神と共にあることの満足感がある。ただ、いかんせん本当に弱いので、この世では彼ら勝ち誇った無頼派には到底叶わない。しかし彼ら無頼派はい...無頼派

  • 心と思いを調べる神

    「主は諸国の民をさばかれる。主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神は、心と思いを調べられます。」(詩7:8-9)---私は、こいつぶん殴ってやろうかとか、蹴飛ばしたろか、嫌がらせしてやるなどと思い浮かぶことが職場ではよくある。少し前に、イタリアの修道院でうつ病になってしまったシスターの話を聞いたが、修道院という大人数のいる職場なのだからこういう思いが湧くのは当たり前なのにその自分を押し殺し続けてしまったのかもしれない。一方で、詩篇で詩を詠む人々は、自分の思いを神にぶっつけている。ただ、私は、ぶん殴ってやるとはいつも思っていても、ぶん殴ったことは一度もない。ぶん殴ることが悪いことだからではない。傷害罪...心と思いを調べる神

  • 私は衰えております

    「主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください。主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。私のたましいはただ、恐れおののいています。主よ。いつまでですか。あなたは。」(詩6:1-3)---今、私は衰えており、恐れおののいている。大抵の困難は、過去にも経験したことであり、恐れることもなく忍耐しているうちに、気づくと抜け出ている。しかし今は違う。自分の今までの経験があまり生きそうにない。御父が激しい憤りで私を懲らしめているかのようだ。ダビデ王は、この詩で似た苦しみを御父に祈っている。祈りとは神とのおはなしと言え、その神とのおはなしの中でダビデ王は「私は衰えております」と吐露する。祈りの中で、私たちは御父にそれこそ...私は衰えております

  • 心の真の喜び

    「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩4:7-8)---真に心の喜びとなるものはなんであろう。これはどの人にとっても、実はそう変わらないのではないか。穀物やぶどう酒の豊富さ、潤沢な預貯金といった物質的なものは、心を満たすどころか、かえって虚無に陥ってしまうものらしい。地位や名誉も、心を満たすものではない。チンギスハンが広大な版図を手中にして諸地域の総督を首都の宮殿に集めひれ伏せさせたとき、彼は虚しさしか感じなかったそうだ。「なんだこれだけのことか」。(この話は内村鑑三のどれかの本に書かれていた。)ソロモン王が著した伝道者の書(コヘレト...心の真の喜び

  • なんと私の敵がふえてきたことでしょう

    「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラしかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。」(詩3:1-3)---和を以て貴しとなす日本という国では、たとえば学校で、いじめられた子が転校に追いやられ、いじめた子たちは不問とされる。和の中では善悪などでは動いておらず、和を乱したとされる者を追い出すのである。このような国では、できるだけ目立たず突出しないことが処世訓となるのだが、イエスにある者は、そのこと自体が突出することになるかもしれない。じっさいイエスにある者は、「なんと私の敵がふえてきたことでしょう」ということをしばしば経験するように思う。イエスは1...なんと私の敵がふえてきたことでしょう

  • きょう、わたしがあなたを生んだ

    「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」(詩2:7)---御父は言われる。私に言われる。「きょう、わたしがあなたを生んだ」と。「きょう」とはいつであろう。御父がはじめの人アダムを生んだとき。イエスが肉を持つ者として生まれたとき。アダムの子孫である私たちが上の聖句にはじめて接したとき。そののち、キリストの十字架と復活と同じように、私たちが死んで新たに生まれたとき。私たちは、父である神とあまりに遠く離れてしまっていた。だが、この新たに生まれたときに御父との和解が叶う。ほんとうの生みの親と共にあることの、なんという安らぎ、なんという心強さよ。---[一版]2020年4月4日[二版]2023年8月27日健やかな一日をお祈りします!にほんブロ...きょう、わたしがあなたを生んだ

  • 植わった木

    「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」(詩1:3-4)---東に騒ぎあればすぐさま東に飛び行き、南の群れを見いだすや乗り遅れまいと群れに混じる。あるいは世渡り上手というのかもしれないが、根がない、というか、まさに「もみがら」だ。彼らは自らのことを「みんな」と言う。一方で、「水路のそば」というのは土が軟らかいと思うのだが、そういうところにしっかり根を張る「植わった木」。一本、芯があり、彼は自らのことを「私」と言う。根は水路の土手が崩れることを防ぐ。木の実を喜んでもぎ取る人がいる。そして葉でできた木陰で人は一息つく。こういうのをこそ「栄え」というのだろう。---[一版]20...植わった木

  • 聖書の目的

    「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:30-31口語訳)---ヨハネ伝の結び。聖書というものが書かれて編まれた目的について。それはもっぱら、「イエスは神の子キリストであると信じるため」である。それ以外の目的はない。イエスが救世主キリストである、ということは、聖書を通してのみ分かることだ。だが、ただ聖書を何回も繰り返して読めば、例えば百回読めば分かるようになるというものではない。百回読むとはわざなのであり、それでは肉の努力によって肉を救うということになってしまう。暗唱聖句なども同様で、救いのためには意...聖書の目的

  • トマスの思考と信心

    「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」(ヨハネ20:24...トマスの思考と信心

  • トマスはイエスを信じた

    「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:26-20:29)---懐疑的な弟子トマスと復活のイエスとの出会い。自分の不在時に復活のイエスが現れたと聞いたトマスは、自分はそんなことは信じないと言い張った(20:19-25)。そのような者にも、ただ恵みによってイエスは出...トマスはイエスを信じた

  • 私たちは全権委任されるほど御父に認められる

    「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:22-23)---罪の甚だ多く神の怒りの下にあった私たちは、この復活のイエスを通して神から罪赦され、その神との和平の中にある。ここで罪とは、神の律法に違反することである。この律法を守り通そうとすることにトライしようとしても、アダムの肉ある身としてどうしても違反を犯してしまう。何度やってもだめなのだ。私たちは、神の律法を守り得ないゆえに、神の怒りの下に置かれたばかりか、この御父と対立し続けてきた。それでも神は御子を受肉させて世に送り、律法を守ることのできないこの肉そのものに十字架という処罰を与える。...私たちは全権委任されるほど御父に認められる

  • 平安があなたがたにあるように

    「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:19-21)---私もかつては恐れのあまり戸を閉めきりにしてしきりに不安がっていた。ここで復活のイエスは「平安があなたがたにあるように」と言う。この平安というのは、私の根っこの部分についてのことで、イエスと共にあるということが、観念的な理解ではなく、実際にそうなのである。言い換えると、私のアイデンティティ...平安があなたがたにあるように

  • マリアがイエスの「マリヤ」という声を聴くとき

    「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言って...マリアがイエスの「マリヤ」という声を聴くとき

  • わたしは渇く

    「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)---イエスは人々にこう呼びかけ続けた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)渇ききっている人々に呼びかけ続け、枯れない水が内からわき出ることを約束した。その満ち満ちたイエスが...わたしは渇く

  • イエスご自身が十字架を背負う

    「そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。」(ヨハネ19:16-17)---かつてイエスは弟子たちに、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:38-39)と言っているが、今はイエスご自身がイエスの十字架を負っている。自分がそれによって極刑に処せられる道具をである。「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」、すなわち復活するには、このような過程が...イエスご自身が十字架を背負う

  • 『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』

    「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」...『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』

  • 神の御名を冒涜するのは誰か

    「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。」(ヨハネ19:5-8)---祭司長たちとポンテオ・ピラトとの駆け引き。祭司長たちは言う。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります」。ここでいう律法とは、「主の御名を冒涜...神の御名を冒涜するのは誰か

  • からかわれるイエスをおいたわしやと遠目で見ているうちに

    「そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。」(ヨハネ19:1-3)---イエスは異邦人にからかわれ平手で打たれる。異邦人ということについては、少し前の聖書箇所に「さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。………。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。」(ヨハネ18:28)とあるとおりであり、また、この兵士たちは明らかに下級の兵士であるから、イエスは下のそのまた下から辱めを受けている。このことをお気の毒にとかおいたわしやと客観視することは簡単だ...からかわれるイエスをおいたわしやと遠目で見ているうちに

  • 天の王国、世の王国

    「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」(ヨハネ18:37-38)---総督ピラトのイエスへの尋問。「それでは、あなたは王なのですか」というピラトの尋問は、イエスがローマ法に照らして有罪(guilty)か無罪(notguilty)かを問うものである。つまり、イエスがカイザルに対する反逆罪に当たるかどうかを調べている。これは、これからイエス...天の王国、世の王国

  • 肉の弱さ

    「一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:25-27)---一番弟子を自称するシモン・ペテロはイエスを否む。大祭司邸の私刑の場に、ペテロは潜り込む。弟子としてこの私刑を見届ける必要を感じたからだろうか。あるいは、もっとドライに情報収集をしていたのだろうか。おそらくそうではなく、単にイエスが心配だったからだろう。そうすると、神のことを人が心配するという構図にな...肉の弱さ

  • イエスは生けにえか

    「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」(ヨハネ18:10-14)---希代の芸術家である岡本太郎は、こう書いている。「この現し身(うつしみ)は自分自身のそして社会の、象徴的な生けにえであってかまわない。そう覚悟したんだ。」(「自分の中に孤独を抱け...イエスは生けにえか

  • 信仰を与えられるということ

    「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)---イエスの祈り。信仰とは、自分で取得できる類のものではなく、信じさせられるものである。このことについては何度か書いてきたが、上の聖書箇所もその信仰についてである。まず、弟子たちは「あなたがわたしを遣わされたことを知りました」。つまりイエスが知らせてはじめて御父を分かったのである。神が神であるということをどれだけ自分の力でつかみ取ろうとしても、観念の域を出ること...信仰を与えられるということ

  • 私たちは一つなので私は孤独を感じない

    「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」(ヨハネ17:22)---「彼らも一つであるためです」とあって、私は誰と一つなのだろうかと考えたらすぐに気づいたことがある。私は孤独を感じない。昔はまるで違った。孤独、孤立に日々心を痛めていた。だが、いつ頃からかはよく分からないのだが、今は孤独を感じない。それは、私たちが一つだからなのかもしれない。では、多くの人と人付き合いするようになったのかというと、そうではない。自分のスマホの連絡帳の登録数を見る人は、驚きそして失笑するだろう。だが、自分自身としては、これで一向に差し支えない。自分にとって大切なのは、こんな自分を救ってくれたイエスとのつながりである。このつながりを介して私...私たちは一つなので私は孤独を感じない

  • 『この世のものでない』人々

    「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17:14-20)---イエスの祈り。イエスは正に今、自分自...『この世のものでない』人々

  • 『みことば』と『あなたがわたしに下さったみことば』

    「いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(ヨハネ17:7-8)---イエスの祈り。私たちは聖書を通して、日々みことばに接している。聖書に何かがあると思うので、日々みことばを調べている。そのことが無駄になることは決してない。だがそれは「みことば」であって、「あなたがわたしに下さったみことば」とは異なる。両者はいったい、何が違うのだろう。復活のイエスは、みことばを通して私たちにお会いになる。まさに、「あなたがわたしに下さったみことば」を通して、私たちにお会いになるのである。...『みことば』と『あなたがわたしに下さったみことば』

  • 彼らはあなたのみことばを守りました

    「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。」(ヨハネ17:6)---イエスの祈り。ここでイエスは、御父に私たちを取りなしている。一体いつ、私たちは御父のみ言葉を守っただろうか。守ることができたであろうか。第一、私たちのアダムの肉は、そのようにはできていないではないか。それなのに、イエスは「彼らはあなたのみことばを守りました。」とみなした上で御父に取りなしている。みことばを守ることの到底叶わぬ私たちを、みことばを守ったから義とみなして下さい、そうイエスは御父にとりなしている。そして、イエスがこれから行う十字架と復活のわざを通して、私たちはこの信仰義認にあずかっ...彼らはあなたのみことばを守りました

  • 彼らはあなたのみことばを守りました

    「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。」(ヨハネ17:6)---イエスの祈り。ここでイエスは、御父に私たちを取りなしている。一体いつ、私たちは御父のみ言葉を守っただろうか。守ることができたであろうか。第一、私たちのアダムの肉は、そのようにはできていないではないか。それなのに、イエスは「彼らはあなたのみことばを守りました。」とみなした上で御父に取りなしている。みことばを守ることの到底叶わぬ私たちを、みことばを守ったから義とみなして下さい、そうイエスは御父にとりなしている。そして、イエスがこれから行う十字架と復活のわざを通して、私たちはこの信仰義認にあずかっ...彼らはあなたのみことばを守りました

  • イエスを知るということ

    「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)---イエスの御父への祈り。聖書はいったい、何のためにあるのだろう。人の魂が救済されるためのものだろう。世界や宇宙の万物が書かれているわけではない。イエスの十字架と復活が、手を変え品を変え書かれている。だが、読んで理解したから魂が救済されるというわけではない。聖書は教科書や参考書とは違う。...イエスを知るということ

  • 世に勝つとは

    「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:31-33)---ひとことに孤独と言っても、さまざまな意味合いが含まれている。本来的な意味での孤独の他に、社会的な孤立であるとか、さみしさというのも含まれているように思える。まだあるかもしれないが、それらの区分けは、今の自分にはまだできていない。イエ...世に勝つとは

  • 復活のイエスに会うとは

    「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:21-22)---復活のイエスに出会う際、私たちは今まで経験したことのなかったほどの激しい苦痛が続く。しかしやがて、復活のイエスは戸の外に立ってたたいてくれる。このイエスと出会うことで、御父は私たちと和解してくださり、あらゆる罪が赦される。罪にさいなまれて続けてきた私たちの、この解放感とこの喜びよ。この内面の、腹の底に溜まるような満足感は、パンによる満腹とは明...復活のイエスに会うとは

  • 御父の子らしい自然さ

    「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:12-15)---真理の御霊、内住の聖霊について。「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」とは、一言で言うと、そのとき、私たちは瞬時にして変えられるとい...御父の子らしい自然さ

  • イエスの有り難みはどこに

    「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。……しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(ヨハネ16:7,16)---イエス様はあわれみ深いお方で、としばしば語られたり讃美されたりする。だが、肉のイエスのあわれみ深さばかり取り上げるのは、個人的にはピントがずれているように思える。イエスのありがたみは、なんといっても、そのあわれみ深い神である「わたしが去って行くこと」、つまり十字架に架かること、それから、「またしばらくするとわたしを見」るという復活にあ...イエスの有り難みはどこに

  • 父に祈り求めるもの

    「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16))---御父に何であれ祈り求めて、その祈りが叶ったと言うことが、私にはない。今の私にはこうありたいと願っていることがあるが、かえって道を塞がれてばかりだ。だが、御父が必ず願いを叶えてくださることは違いない。ただ、願うものそのものを実現するというようなご利益宗教的なものではないのである。ここに、著名な詩「苦難にある者たちの告白-ニューヨークの病院の壁に書かれていた作者不明の詩」の一部を引用する。大事を成そうとして力を与え...父に祈り求めるもの

  • イエスの喜びと私たちの喜び

    「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:11)---イスカリオテ・ユダが裏切って、ついにイエスは栄光を受けた(ヨハネ13:31)。上の聖句は、このことがあってのちにイエスが弟子達に語った言葉である。ここでイエスの言う喜びとは、どのようなものであろうか。栄光を受けた喜びであろうか。おそらく、イエスが奥底のところで持ち続けているものを、ここで喜びと言っているのではないかと思う。そしてこれは、私たちの奥底にもあるものであり、イエスは私たちのこの喜びを満たすと約束している。私たちはかつて、自分の中に喜びというものがあること自体を分からずにいた。その頃は、喜びは外部から来ると思っていたが、それはただの刺激に過ぎなかっ...イエスの喜びと私たちの喜び

  • 実を結ぶとは

    「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできませんわたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:1-5)---剪定をするのは御父であ...実を結ぶとは

  • イエスが与える平安

    「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)---平安とは何だろう。イエスが与えるこの平安とは何だろう。ストレスのないことだろうか。しかし、このストレスは多くの場合外部環境によってもたらされるので、イエスが私たちひとりひとりに与える何かとは異なるように思える。イエスがここで約束しているのは、もっとずっと奥深いところ、すなわちたましいの平安のことである。このことについては、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マ...イエスが与える平安

  • 世の原理に死に御父の原理によみがえる

    「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」...世の原理に死に御父の原理によみがえる

  • イエスを知っているのにイエスを知らない

    「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:7-9)---ピリポはイエスの弟子として、長い間イエスに付き従っている。そのピリポは、イエスに「私たちに父を見せてください」と願う。しかしイエスは「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」と返す。知っているのに知...イエスを知っているのにイエスを知らない

  • イエスが拓く道

    「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)---イエスは行かれる。「場所」を備えるために、父の家へと。十字架の道を通って。この道をかつ...イエスが拓く道

  • あなたがたは互いに愛し合いなさい

    「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)---大分前のことだが、通勤電車が駅に着いてホームを走り出した途端、すてーんと滑って転んだ。マンガの絵そのままに、すてーんと転んだ。幸い体に痛みはなかったし何しろ乗り換え時間があまりないので、そのまま立ち上がってまた走った。このことを職場で話すと、それはyoutuberがバナナの皮をホームに置いていて、どこかで動画を撮っているんだと教えてくれた。私は心底驚き、そして途方もない気分になった。通勤時間帯の電車や駅が...あなたがたは互いに愛し合いなさい

  • 裏切りを受ける神の子

    「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」(ヨハネ13:21-22)---イエスの動揺、そしてそれを目の当たりにする弟子たちの当惑。イエスは何に動揺しているのだろう。イスカリオテ・ユダの裏切りを間近にして、それで動揺している。死者をよみがえらせ、目の見えない人を見えるようにし、五千人の給食をも行った神の子イエス。その神の子イエスが、裏切りを前に動揺している。公生涯での御子イエスと私たちとでは、同じところが1つだけある。それは肉をまとっているということで、私たち人間と同じことでイエスも痛みを感じる...裏切りを受ける神の子

  • 苦痛のない愛は愛とはちがう

    「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14-15)---遙か昔、教会にいた頃、足を洗い合うということがあった。総勢20人くらいだっただろうか、はしゃぎながらやっている。自分も誰かの足を洗った。誰かはまるで覚えていない。多分、向こうも覚えていないだろう。思うに、足を洗った相手をまるで覚えていないというのは、私にとってその人は大切ではないわけで、上の聖書箇所でイエスが言った意味での足を洗うというのとは似て非なるものだった。このような、自分にたいして痛みの伴わない行為というのは、誰でも彼でもやっている。しかし、ここでイエ...苦痛のない愛は愛とはちがう

  • イエスが愛、愛がイエス

    「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13:1)---ユング心理学者の河合隼雄さんは、「物と心、自と他などと明確に分割することによって、近代人は多くのことを得たが、…………。つまり、明確に分割した途端に失われるものが「たましい」だと考える」と書いている(「物語を生きる」,p.13)。このことを「愛」という言葉に当てはめてみると、愛だけを分割して取り出した途端に愛とは何かが分からなくなるということになるだろうか。そうすると、イエスが愛であり、愛がイエスである、という方がより近いだろう。愛の乏しいこの私にも、十字架と復活というイエスの愛は惜しみなく注がれた。---健やかな一日...イエスが愛、愛がイエス

  • イエスの言うことを聞くとは

    「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(ヨハネ12:47-48)---イエスの言うことを聞くか、それとも受け入れないか。受け入れないというのはわかりやすい。この世に多くいる。では、イエスの言うことを聞くとはどういうことだろうか。それは、イエスのことばがその人の内に入って、その人の古い人が死ぬことである(ローマ6:6)。---健やかな一日をお祈りします!にほんブログ村イエスの言うことを聞くとは

  • ブラックな世界に射し込むイエスという光

    「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネ12:46)---イエスは光として世に来た。ただ、多くの人は盲目であったため、光を光とは分からなかった。光を光といやでも分かった人もいる。目が一時的に見えなくなったサウロがそうだ。そこからすれば、盲目のため光を分からない人々はやみの中にとどまっているのだろう。ここでやみとは何だろうか。御父という唯一の神が分からずに、好き勝手やっている状態ではないだろうか。言い換えるとブラックであって、利権が神であって、正義も何もあったもんではない。このブラックさに息苦しくなったら、イエスに照らされることを祈ろう。このやみの原理とは異なる創造主の原理がある。---健やかな一日をお祈りします!にほんブログ村ブラックな世界に射し込むイエスという光

  • かたくなな心

    「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:37-41)---ラザロのしるしを目の当たりにした多くの人々は、イエスを神の子とは信じなかった。イザヤによれば、御父が彼らの目を盲目に...かたくなな心

  • 死ななければ生きない

    「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24-25)---聖書という書物は、十字架と復活についてもっぱら書かれている。死ななければ生きないのである。一粒の麦が地に落ちたとき、死ななくてはその麦が生きていのち輝くことはできない。しかし、この麦が地に落ちたのは御父によってであり、麦がみずから落ちたわけではない。マモニズムに満ちたこの世にあっても、死んではじめて、このマモニズムを超えて生きるようになる。このこともまた、御父の働きであり、イエスの十字架も、自ら選んだというよりは御父の命令に従った...死ななければ生きない

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