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2012/12/23

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  • 宮清め

    「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたは...宮清め

  • 披露宴にて

    「イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハネ2:8-11)---先日出席した姪の結婚披露宴でのことだ。天使のようなかわいらしい女の子の給仕が数多くいる中、私たちのテーブルの給仕役はロバのように疲...披露宴にて

  • 聖霊のバステスマ

    「またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:32-33)---もう随分と前、私も水のバステスマを授かったことがある。水が浅く張ってあるバスタブに入った私を、牧師は全身沈めてすぐ引き上げる。これは死と復活を象徴するものであって、この水のバステスマとは型であり予兆なのだという理解を私はしている。しかし、ヨハネの後に来たイエスは、型として...聖霊のバステスマ

  • イエスによって御父が示される

    「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18新共同訳)---イエスの公生涯のさなか、このイエスは実に様々な人々とかかわった。多くの人々をあわれみ、給食の奇跡を起こし、病人をいやし、死者ラザロを生き返らせた。それはなぜだろう。多くの人々に御父の本質を示すためである。奇跡やいやしそのものが目的なのではない。だが、イエスによって示された御父を信じようとする人は稀であった。パンに喜びたらふく食べた人々は満腹するとあっさり解散してしまう。それでもイエスが示した御父を信じようとする人には、イエスのわざであるところの十字架と復活を通して恵みに預かった。イエスは今も、御父の本質を示し続けている。それをどう受け取るかを、私たちは問われている。---[...イエスによって御父が示される

  • イエスの栄光とは

    「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)---「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。個人的には、後者の方がずっと分かりがいい。イエスが肉をまとっておられた公生涯において、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。このことを言い換えると、さまざまな人たちとは違って記者はイエスの中に神を見いだしたのである。十字架で肉を処分して復活したイエス...イエスの栄光とは

  • 人として死んでいる人も神によって生まれることで生きた人になる

    「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:9-13)---アダムの違反以来、人は神を知ることがなかった。世は神の子を知らず、また、受け入れることがなかった。この断絶それ自体が人の罪なのであり、人々はやみの中でのたうち回り続けた。これらの人々にはいのちがなく、人として死んでいた。しかし、神の方から救いがもたらされ、まことの光...人として死んでいる人も神によって生まれることで生きた人になる

  • やみの中の私たちを照らすいのちの光

    「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:3-5)---「造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」とは、イエスに依らずに存在するものは、やみのものであるということである。実際、私たちはやみの中にいるのである。このやみの中で救いを求めてあえいでいる。しかし、人の光であるところのいのちが、やみに射し込んでいる。この光はやみの中にあって燦然と輝いており、やみの中にいた私にもこの光が照らされた。どの人にもこの光は照らされる。だが、照らされるのを嫌う者も少なくない。人の光を喜ぶ者は、イエスによる救いに招待されたのである。--...やみの中の私たちを照らすいのちの光

  • ことばは神とともにあった

    「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)---ことばにはそれ自体に意味があり、ことばの連なりがまた意味を生む。このことばによって、人から人へと意味が伝わる。聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。文字面の意味をはるかに超えた聖書のことばが飛び込んできて、読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。これは、大きな苦悶のさなかにいた...ことばは神とともにあった

  • イエスの復活

    「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:16-20)---イエスは極刑の死から復活した。11人の弟子たちの前に、復活の御姿を現す。私は以前、この復活の仕方が不思議でならなかった。エルサレム中の人々の前に復活の...イエスの復活

  • 世のすべてが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」とうめき続けている

    「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(マタイ27:45-46)---人は神に造られた被造物であったが、アダムの違反によって神と人とが断絶してしまった。神は、人との関係を回復しようと、御子イエスをこの世に送られた。このために、イエスは今まさに、この十字架の道を切り拓こうとしている。死んで、新たによみがえるという道だ。ところが、十字架に架かった御子イエスご自身が、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と、御父との断絶に苦しみの声が思わず漏れる。私たち世の人の神との断絶による悩み苦しみを、ここでイエスが味わうのである。このことを角度を変えて...世のすべてが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」とうめき続けている

  • イエスの受難、私の受難

    「それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。」(マタイ27:27-31)---ピラトの決定によって十字架に付けられることになったイエスは、十字架に付ける側のローマ兵にからかわれる。肉の上ではユダヤ人のイエスにとって、異邦人のローマ人に馬鹿にされるということは耐えがたい侮辱と屈辱だった...イエスの受難、私の受難

  • 『ホサナ!』と叫んだ群衆が今度は『十字架に付けろ』と叫ぶ

    「しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」すると、民衆はみな答えて言った。「その人...『ホサナ!』と叫んだ群衆が今度は『十字架に付けろ』と叫ぶ

  • イスカリオテ・ユダについて

    「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。」(マタイ27:3-4)---イエスを祭司長らに売り渡したイスカリオテ・ユダは、「イエスが罪に定められたのを知って後悔し」ている。これは、もしかすると、イエスが祭司長によって無罪となることをイスカリオテ・ユダは期待していたということなのではないか。そしてイエスが祭司長たちからキリストと認知され、人々からもキリストと認知される、そういう思惑があったのかもしれない。悪魔がイエスに対して次のように言っていたのと似ている。「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き...イスカリオテ・ユダについて

  • リンチ

    「イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」(マタイ26:64-68)---大祭司が「彼は死刑に当たる」と宣告する根拠は、「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずそ...リンチ

  • ほんとうは逃げたかったイエスへの感謝の祈り

    「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)---イエスは捕らえられるのを前に、御父にやっぱりいやですと祈りの中で懇願する。この後イエスは、大勢の人の中で、あざけられ侮辱されつばきを吐かれ鞭で打たれ、そうして極刑の十字架に架かる。そこを通り抜けて至る救いへの道を切り拓くのだが、その直前に大きな拒絶感に襲われる。罪赦されて御父と和解し、魂の奥底から生ける水がほとばしり出る、そのようないのちを与えていただき、イエス様、ありがとうございます。逃げたかったにもかかわらず、この杯を飲んで十字架への道を切り拓いていただき、そうして...ほんとうは逃げたかったイエスへの感謝の祈り

  • イエスの恨み節

    「みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マタイ26:21-24)---イスカリオテ・ユダの裏切りについて、イエスは「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」と言っているが、これはやはり恨み節なのだろう。時事ネタになるの...イエスの恨み節

  • ただひとりイエスを分かっていた人

    「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ...ただひとりイエスを分かっていた人

  • 行ないについて

    「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。……すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さ...行ないについて

  • 愚かな娘は花婿より油切れの方が気になってしまう

    「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らない...愚かな娘は花婿より油切れの方が気になってしまう

  • 偽善者について

    「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:48-51)---主人のいいつけを守らず、それどころか好き放題やらかしている悪いしもべ。「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来」た主人に好き放題がばれて、「その報いを偽善者たちと同じに」される。悪いやつと偽善者とが同じ扱いなのである。では、この偽善者とはどういう存在だろうか。ひとことで言うと、表と裏が違いすぎたり、建て前と本音がかけ離れていたりしている人とでもいえばいいだろ...偽善者について

  • いなずまが東から出て西にひらめくように

    「さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」(マタイ24:25-27)---イエスの黙示より。このイエスの黙示は、終末についてのことと個人的なこととが重なり合っているように思う。このうち終末については、書く何かを自分は持ちあわせていない。しかし、「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです」とあるのは、イエスが私たちを訪れる時のこととして、全く確かなことだ。温かい飲み物を差し上げる時間すらないし、第一そのようなおもて...いなずまが東から出て西にひらめくように

  • 墓の内側は誰しも汚らしいが

    「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27-28)---ここでイエスがたとえるパリサイ人たちと自分とは、違うところと同じところがある。外側が人に正しいとはとても見えないであろうことが違うところであり、内側が偽善と不法でいっぱいであるところが同じところである。しかし私は律法によって内側の偽善と不法に否応なく気づかされ、苦しみの果てに罪赦していただいて、この内側の偽善と不法と同居している。一方、パリサイ人たちは、律法を他人にぶん回して自分を正しいように見せている。律法を守っていると...墓の内側は誰しも汚らしいが

  • 自分を高くする者は低くされ

    「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)---若い頃の私は、何一つできないくせにプライドだけは三人前だった。周り中からさまざまな形で叩かれた。しかし、こんな自分をくじいたのは、実は御父だったのだ。くじかれた自分は、イエスを介した和解を経て、こんどは御父が支えてくださるようになった。---[一版]2018年6月23日[三版]2025年2月1日イエス様の平安がありますように!にほんブログ村自分を高くする者は低くされ

  • 愛そうとすると愛せなくなる

    「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:36-40)---昔、講演で「クリスチャン笑顔」という言葉を聞いたことがある。その講演は教会のかなり偉い立場の人によるもので、その人が初めて教会に行ったときの様子として、教会中の人がクリスチャン笑顔で出迎えてくれて、というように話していた。笑顔とは違うそれは、人を愛そうとしているのだが空回りしてしまっている状態を指すのかもしれない。それだとしたら、愛すると...愛そうとすると愛せなくなる

  • 戒めを守ろうとして守れず苦しむ人の幸い

    「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:36-40)---神の完全な秩序は、律法という形で明文化されている。人はすべて、こうでなくてはならない。そのとき彼は、義人である。数多い律法の中で、大切なものとしてイエスは2つを挙げる。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。律法は、この2つに収斂する。神を愛し、人を愛せよ。だが...戒めを守ろうとして守れず苦しむ人の幸い

  • 聖書を頭の上でもてあそぶだけの人

    「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問して、言った。「先生。モーセは『もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。』と言いました。……すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ22:23-24,28-29)---支配者階層サドカイ人がイエスに議論をふっかける。聖書というのは力である。み言葉の力なのだ。正に、「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)というところの「ことば」である。死者をも生き返らせ、生ける死人をよみがえらせる、み言葉の力はそれほ...聖書を頭の上でもてあそぶだけの人

  • 私たち神のものが神に返る

    「それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:17-21)---イエスが見事に切り返す場面であるが、ここでイエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と言っている。世俗のものと神のものと...私たち神のものが神に返る

  • 山が動くのは自分の外側ではなくて内側

    「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:18-22)---いちじくの木を呪うと...山が動くのは自分の外側ではなくて内側

  • イエスの宮清め

    「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21:12-13)---イエスの宮清め。御父にお参りをする宮という聖なる場所には、捧げ物の商人たちであふれていた。彼らは御父にお参りをするのではない。参拝客のお参りの便宜のための商売をしている。イエスは彼らを追い払う。それも「強盗の巣」という強い表現で彼らを非難する。宮は私たちの内側にもある。しかしその宮は、およそ宮としての体をなしていなかったり、あるいは、もう、宮の存在に気付きもすらしないかもしれない。イエスの宮清めは、そのような私たちの宮を清めてく...イエスの宮清め

  • ホサナ!と言う側言われる側

    「そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。」(マタイ21:9-11)---イエスはエルサレムに入るにあたり、群集からあらんばかりの祝福を受けている。ただ、その祝福は、イエスこそローマの支配から解放してくれるだろうという期待であり、それでイエスに「ホサナ」と叫んでいる。そのイエスは大分前から、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そ...ホサナ!と言う側言われる側

  • 夕方まで粘ってとうとう声を掛けられた

    「また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦...夕方まで粘ってとうとう声を掛けられた

  • 針の穴は通るのではなく通らされる

    「それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」(マタイ19:23-27)---「らくだが針の穴を通る」ように天の御国に入る人とは、どのような人であろうか。それは気づくとあ...針の穴は通るのではなく通らされる

  • イエスは金持ちを生かすがためにお前死ねるかと迫っている

    「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなた...イエスは金持ちを生かすがためにお前死ねるかと迫っている

  • 赦しますってお前ちっとも赦してないだろ本当は

    「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(マタイ18:32-35)---私には、心底憎くて殺してやりたい、そんな奴がごろごろいる。先日、3度殺しても気が済まない元上司の降格人事が発表された。ざまあみろ、せいせいするわ。そういう思いの沸き立つ自分に引け目を感じるかといったら、かけらも感じない。むしろ、敵を心から赦してますなどと言う人がいたら、私はそいつのことを、この大嘘つきの偽善者め、と激...赦しますってお前ちっとも赦してないだろ本当は

  • 弱っていない人と弱っている人とではイエスは後者を憐れむ

    「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし...弱っていない人と弱っている人とではイエスは後者を憐れむ

  • つまずかせる足を切っていって

    「つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マタイ18:7-9)---もし、あなたの手か足の一つがつまずかせるならそれを切れとイエスは言う。この、壊死した手足を切らないと、全身が生きないからである。そして、眼も壊死したなら、全身を生かすために...つまずかせる足を切っていって

  • 誰が一番偉いかと競うのはしんどい割に何ももたらさない

    「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)---大ベストセラー「星の王子さま」(サン=テグジュベリ)の主人公である王子さまは、数々の小惑星を巡る。その4番目の星は実業家の星で、私は有能な人間だと二言目には口をつく。「有能な人間だからな、私は」。「だが私は有能な人間だからな!」。この星をあとにして、「おとなってやっぱり、まったくどうかしているな」という思いが...誰が一番偉いかと競うのはしんどい割に何ももたらさない

  • 信仰はあるかないかのどちらか

    「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイ17:19-20)---イエスは言う、「からし種ほどの信仰」。つまりそれは信仰があるのである。信仰とはあるかないかのどちらかしかない。たとえば「信仰が30%ある」というようなことはない。信仰の成長ということもない。違う言い方をすると、信仰とは獲得するものではなく与えられるものである。罪を自覚し、背負わされた十字架を背負って死に至り、そしてよみがえって与えられる。こ...信仰はあるかないかのどちらか

  • いのちを見出す / いのちを見失う

    「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:24-26)---ソロモンは賢王で、イスラエル王国に繁栄をもたらした。いわゆるソロモンの栄華というやつだが、一方で彼は、伝道者の書(コヘレトの言葉)で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(1:2)と虚しさをむき出しにする。ソロモンは全世界を手に入れたかも知れないが、まことのいのちを見失ってしまったのである...いのちを見出す/いのちを見失う

  • 求め続ければ救いの方からやってくる

    「すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパ...求め続ければ救いの方からやってくる

  • 神を利用するのか、神を信じるのか

    「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そし...神を利用するのか、神を信じるのか

  • イエスはいつでも食わせるパン屋のおやじなのだろうか

    「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」(マタイ14:19-22)---前々から不思議なのだが、どこまでもしつこくイエスを追いかけてくる群集は、給食の奇跡で満腹するや実にあっさりとイエスから離れてくれる。四千人の給食(マタイ15:32-39)でも全く同様に、満腹するや、あっさりとイエスから離れる。次から次へと飛...イエスはいつでも食わせるパン屋のおやじなのだろうか

  • 世のものなど惜しみなく売っ払うほどの宝

    「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)---この聖書箇所を初めて読んだときの自分は、持ち物を全部売り払うことのあまりのもったいなさに、まだ見つけてもいないのに後ろ髪を引かれる思いでいっぱいだった。賛美歌「キリストにはかえられません」の歌詞にある「世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け」も、当時は同じ思いで歌っていた。だが、そんな自分もこの宝を見つけたときにはすべてを大喜びで売ってこの畑を買うのである。なにしろこの世に死んですばらしいいのちに生まれ変わったのだから、世のものなど惜しみなく売っ払えるのである。---[一版]2022年5月28日[二版]2024年11月4日イエス様の平安...世のものなど惜しみなく売っ払うほどの宝

  • 隠されていた宝

    「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)---私はカネを求めていたようで、そうではなかった。人からの栄誉を求めていたようで、そうではなかった。ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書にあった。「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!今の私は、特に何かを失ったわけでもない。明日からも、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない...隠されていた宝

  • イエスのいう豊かさとは

    「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」(マタイ13:10-12)---「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう」、これをマタイ効果と名付けている人々がいるそうだ。富を持つ者はさらに大きな富を持ち、という意味で、多くの人もこの意味を想起すると思うが、イエスは「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)とも言っているのであるから...イエスのいう豊かさとは

  • 恵みという名の種

    「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:3-9)---種がさまざまな場所に蒔かれた。ちなみに蒔いたのは「種を蒔く人」だ。種を蒔く人は場所を選ばずどんなところにも蒔いている。日の当たらないところ、雨の降らないところにもまんべんなく種は蒔かれた。この種には名前がある...恵みという名の種

  • しるしを見て納得できれば信仰に至るのか

    「そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」(マタイ12:38-40)---現代に生きる私たちは、何かが正しい(または正しくない)ことを言うために、証拠によって根拠づける。だからパリサイ人たちが、しるし(証拠)をみせてほしいとイエスに頼むのも、全く分からないでもないのだが、彼らがしるしを見せて欲しいというのは、何かを確かめるためではなく、しるしが与えられればイエスを信じるというものである。しかし...しるしを見て納得できれば信仰に至るのか

  • イエスは私にもまむしのすえと言っているんじゃないか?

    「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:34-37)---人はその肉に、よい倉も悪い倉も宿しており、良い物も取り出せれば悪い物も吹き出てしまう。ことばによって罪に定められるのならば、ことばでの失敗のない人間などいないのだから、全ての人間が神の御前に有罪なのである。私たちもまた、まむしのすえなのである。そのよ...イエスは私にもまむしのすえと言っているんじゃないか?

  • 重荷を背負い続けるすべての人へのイエスの招待

    「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)---今日はたまたま祝日・スポーツの日だが、休んで汗かいて気分転換しろよというのとは根本的に異なるイエスのこの招きは、人の根っこの部分をがらりと変えようとするものだ。そもそも、私たちはなぜ重荷を背負い続け疲労感に苛まれることになるのか。それは、世慣れていないのに世に身を置いているからなのかもしれない。イエスが変えようとしているのは、世慣れていない私たちを世慣れさせることではなく、世慣れてい...重荷を背負い続けるすべての人へのイエスの招待

  • 周囲の評価より天との和解

    「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:16-19)---バステスマのヨハネやイエスは悔い改めを説き、当時のパリサイ人の世と鋭く対立した。ヨハネは飲み食いしないというので悪口をいわれ、イエスは大いに飲み食いして悪口を言われる。飲み食いについての善し悪しで言われているので...周囲の評価より天との和解

  • イエスとは

    「さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:2-3)---イエスはバステスマのヨハネについて、「きたるべきエリヤ」と言っている(14節)。その預言者エリヤにたとえられるヨハネが、イエスについて確信が持てない。イエスがキリストなのかどうなのか。自分が教会の門を叩いて聖書を読み始めた頃、神は分かるし聖霊も分かった。もっともそれは、神はいると頭で思い描いたという程度でしかなかったが、イエスというこの人はどういう人なのだろうと、どうにもうまく飲み込めなかった。バステスマのヨハネですら迷ったのだから、分からなくても寧ろ当たり前かもしれない。ところが、復活のイエ...イエスとは

  • 自分の十字架を負ってというのは文字どおり十字架を負うこと

    「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:38-39)---イエスはこの世に来て、どのような役割を果たしただろうか。一言でいうと、「肉において罪を処罰」するため(ローマ8:3)である。そのために、十字架に架かり、そしてよみがえった。そして、私たちが自分自身の罪を処罰して御父と和解するための道筋をつけたのである。これがイエスの役割であり十字架であった。イエスにある者、また、イエスに従おうとする者もまた、自分なりの十字架を気づくと負っている。それはイエスがつけたこの道筋を歩むことに他ならない。だから、イエスが「自分の十字架を負って」とここで言...自分の十字架を負ってというのは文字どおり十字架を負うこと

  • 毛さえも数えられていることはありがたいか空恐ろしいか

    「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(マタイ10:29-31)---ネットの世界にはターゲティング広告というものがあるが、私はこのターゲティング広告が嫌ったらしくてしようがない。常につきまとわれているという感覚があり、生理的に受け付けない。この場合、ターゲティング広告はアルゴリズムという無生物が自動的にやっていることだ。頭ではそうと分かっていても、誰かが自分のすべてを何もかも分かった上で広告を配信してきているのではないかという気にもなってくると恐さすら覚えてくる。上の「あなたがた...毛さえも数えられていることはありがたいか空恐ろしいか

  • イエスにある者とそうでない者との対立

    「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ10:21-22)---イエスは公生涯中に様々なところで伝道をしたが、次第に群衆がいらだちはじめ、あるときには石を投げられまたあるときには崖から突き落とされかけた。理由は単純で、この群衆がイエスにある者ではないからである。イエスにある者とそうでない者とは、これほどまでにわかり合えず対立する。だから「子どもたちは両親に立ち逆ら」うのである。逆に言うと、十字架に死にイエスによって新しく生まれた人は、もはや他の人とはわかり合えない位に割り切る必要があり、じっさい人々に憎まれる。だが、私を憎むやつは、実は私に映...イエスにある者とそうでない者との対立

  • 借り物の言葉、自分の言葉、聖霊の言葉

    「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:19-20)---ある人から聞いたことなのだが、その人のとても辛かったときに「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(1コリント10:13)という言葉が聖書にあると言われて、その人は猛烈に腹が立ったそうだ。なぜそんなにも腹が立ったのだろう。その人が聖書に関心がなく、それどころか忌避していたからかもしれない。あるいは、神はこう言っているぞと大上段に振りかざすばかりで、その人への気遣いや思いやり...借り物の言葉、自分の言葉、聖霊の言葉

  • 羊飼いのない羊にもっとも必要なのは羊飼い

    「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:35-36)---さまざまな町や村を巡ったイエスは、群衆のひとりひとりが弱り果てて倒れているように見えた。彼らはあたかも羊飼いのない羊のようだった。この福音書のころより時代はずっと下るが、産業革命後のカール・マルクスは「人間は特定の土地から切り離されて、自分の労働力を商品として売るようになる」と書いたという(佐伯啓思著、「西欧近代を問い直す」、p.73)。私はマルクスの考えに賛同する者ではないが、地縁から切り離されて都会で孤立し、自分を切り売りしてゆくしかなくなるという趣旨の的確さには...羊飼いのない羊にもっとも必要なのは羊飼い

  • 真の病とイエスによる治癒

    「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:10-13)---取税人や罪人たちは自らの病人ぶりを自覚していて、それで医者を必要としていた。パリサイ人や人々に後ろ指を指され続ける中、イエスが取税人たちを訪れた。さて、もしも彼ら取税人や罪人たちがイエ...真の病とイエスによる治癒

  • 神が会いに来て神に出会う

    「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」(マタイ9:9)---イエスは取税人マタイのところに来て「わたしについて来なさい」と言った。これは、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙3:20)と同じことで、イエスはまさに会いに来た。マタイがすぐさまイエスに従ったのは、頭であれこれ考えてのことというより、むしろ脊髄反応的なものではないか。ペテロなども同じであるが、つまり神に出会ったのである。神に出会うためにこちらから探したり追いかけたりしても無理で、...神が会いに来て神に出会う

  • 因果関係がないからこその恵み

    「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると、彼は起きて家に帰った。」(マタイ9:1-7)---イエスが「あなたの罪は赦された」...因果関係がないからこその恵み

  • ただの死と復活に至る死

    「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ8:23-27)---イエス一行を乗せた船は嵐に遭い、舟は大波をかぶって浸水する。弟子たちはみなガリラヤの者で漁師もすくなくないから、この事態が何を意味するのかは分かっている、今にも溺死するのである。そしてイエスは彼らの懇願に応じて、湖...ただの死と復活に至る死

  • 『死人』への恵み

    「そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:19-22)---イエスは律法学者の申し出をあしらい、弟子には「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と、どうあっても自分について来いという。なぜ律法学者は弟子にしてもらえず、もう一人の男は弟子にしてもらえるのだろうか。律法学者が従前の律法解釈から離れることができないからだ...『死人』への恵み

  • 土台

    「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)---山上の説教の最後、土台について。それにしても最近の若者の狼藉ぶりには、目が余るものがある。高速道での故意の事故をはじめ、通勤電車の中などでは自分も被害に遭う。彼らはどうも、現実の世界はゲームの延長と思っている節がある。正に...土台

  • イエスはその人に君臨して主となる。主よと言われて主になるわけではない

    「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)---もうずっと前、すがりつくように聖書を読み続けていた頃、マルコ伝のある箇所でのイエスの言葉をとても嫌みに感じていた頃があった(それがどの箇所なのか、今では思い出せない)。そしてその箇所を読むときには、あわれみ深い主のおことばをどうしてこう感じてしまうのだろうといつも葛藤を覚えていた。なぜなら、そのころの私にとって、主イエスがあわれみ深いお方であるということは当たり前の大前提だったからだ。しかし、信仰とは信じるものというよりも信じさせられるものなのである。私が主よとイエスを追い求めるというよりも、イエスが私のもとを訪れるのである。イエスが私の主である...イエスはその人に君臨して主となる。主よと言われて主になるわけではない

  • 狭き道には入らされる

    「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)---世の道は広く、誰しもがそこを通ろうとする。周りと同じように振る舞うのは、さしあたり楽なのである。流されるようにこの広い道を歩いていく。そこにイエスは、狭き道を切り開いた。十字架と復活の、いのちへと至る道だ。この狭き道に入る門は、目には見えない。だから探してもみつからない。この門にはいつの間に入らされ、気付くとこのイエスの道にいる。そして、イエスと同じく死とよみがえりとをくぐった先に「いのち」がある。そののちも、私たちはこの狭い道を通り続ける。世とは異なる原理で歩むため道のりは険しい。イエスも「あな...狭き道には入らされる

  • イエスに何を求めるのか

    「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)---このマタイ伝には金持ちのボンの話が記されている(19:16-22)。持ち物を売って貧しい人に分け与えよとイエスに言われ、悲しんで去って行く。この金持ちが欲しいと言った永遠のいのちとは、リッチなこの生活を永遠にということだったかもしれない。だから、求めなさいというときには何を求めるのかということが常に問われる。もちろん魂の救いを求めるのであり、魂の満たされることを求めてたたき続ける。求め、捜し、たたけば開かれるとイエスは言う。ところが、たたいて、たたいて、さらにたたいても、開かれないどころかびくともし...イエスに何を求めるのか

  • 人にちょっかい出す前にまず自分の救いに専心せよ

    「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイ7:1-6)---この世はあらゆる種類のさばきに満ちている。...人にちょっかい出す前にまず自分の救いに専心せよ

  • ものがありふれたら一番大切なものを見失ってしまった

    「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31-33)---唐突だが、近代という時代は、もっぱら頭による支配だったのではないかと思い始めている。ヴォルテールやルソーらが頭で紡いだ思想はフランス革命の一因となり、建前の上ではこれら諸思想が政治原理となった。物理学を用いエネルギーを操って、機関車や飛行機といった金属の塊を自在に動かせるようになった。農学や化学は収量を大幅に増やし、さらにそれを加工し...ものがありふれたら一番大切なものを見失ってしまった

  • あなたのうちの光

    「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22-23)---「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。「あなたのうちの光」。これが私たちの中で光放たなければ、私たちのうちの暗さは耐え難い。福音書の登場人物で言うとニコデががこの暗さに絶望している。そしてこの点については、どの人もニコデモと変わらない。日々を忙しくしてこの暗さから目をそらすようにしている人も少なくないだろう。強い刺激でこの暗さをごまかす人も少なくないだろう。しかし、どうしようとも私たちのうちの光は暗いのだ。暗く、絶望している。これは、魂についての問題であ...あなたのうちの光

  • それがなくなると困り果てるもの

    「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)---宝とは何だろう。その人にとって価値の高いもの、値打ちのあるものというところだろうか。あるいは、それがなくなるとその人が非常に困るものともいえるだろう。金銭については、私にとって生活の必要のものであり、価値は低くはないがそれほど高くもなく、また、なくなると困るが一番困るものではない。もしなくなったとして一番困るとしたら、イエスへの信仰、神との和解である。これほど価値のあるものはなく、長年にわたって私の心棒でありつづけてきた...それがなくなると困り果てるもの

  • 私が神に赦されたいからあなたを赦しますとのメールが来た

    「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14-15)---まだネットに性善説が残っていた頃には、私も見知らぬクリスチャンたちとメールで交流していた。ある人から久しぶりにメールがあったのだが、私はあなたを赦しますという。私はこの人に何かした覚えはないのだが、この人は何かのことで私に腹が立ったのだろう。それにしても、私はあなたを赦しますというのは、このメールを寄こした人が御父に赦されたいがために書いたことが明らかで、私の何らかのことでなど赦してなんかいないのである。全く身に覚えのないことで赦すの赦さないの、しかもそれは私のためなどではないのだから、返信など書かずにほおったことは言うま...私が神に赦されたいからあなたを赦しますとのメールが来た

  • 施しの報いは神からのものか、人からのものか

    「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:1-2)---ある歌手は、「しない善よりする偽善」と言っている。また、その人の奥さんのこれまた歌手は、かつて東北の大震災があったときにトラック10台を連ねて何でも提供できるようにという趣旨のことを当時言っていた。まさに自分の前でラッパを吹いているわけだが、こういう人たちの受ける報いというのは、歌手としてのブランドイメージの向上ということになるのだろうか。だが、善と偽善...施しの報いは神からのものか、人からのものか

  • 敵のために心から祈るのは

    「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:43-45)---イエスは次のようなたとえ話をしている。「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。…………。だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼...敵のために心から祈るのは

  • 目をえぐりだせと言うイエス

    「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:27-30)---シロアムで目の見えない人(ヨハネ9章)を癒やしたイエスは、私たちには目をえぐりだせと言っている。見えなくなれと言っている。イエスの厳格な律法解釈は、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した」と...目をえぐりだせと言うイエス

  • イエスの律法解釈はたいへんに厳しい

    「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:21-24)---「人を殺してはならない」という十戒の中の戒めを形式上守ることは、多くの人にとって...イエスの律法解釈はたいへんに厳しい

  • イエスは律法を成就するために来られた

    「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決し...イエスは律法を成就するために来られた

  • 塩気をなくした塩は塩気をつけてもらえる

    「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)---塩気をなくした塩は、どうなるのであろう。神の御国の役には立っていないようになる。では、どうすれば、あるいは、どうであれば、神の御国の役に立つことができるのだろうか。それは自分一人でできることではなく、このことのためにイエスが受肉して公生涯を開始したのである。塩気はこのイエスがつけてくださるのだ。塩気をなくした私たちに会いに来て、ご自身と同じように私たちを死なせそしてよみがえらせる。罪が赦され義と認められ、御父との和解に至る。こうして、私たちはイエスを介した御父への信仰を与えられ、塩気をつけてもらって地の塩たるを回復する。神の御...塩気をなくした塩は塩気をつけてもらえる

  • 義への飢え乾き

    「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)---ここでいう「義」とは、文脈上、神の義の意。誤解を恐れず言い換えれば、神に認められるということ。さらに誤解を恐れずにいうと、神がお造りになった私たちは、その神から認められていない。アダムの違反のためだ。アダムの子孫でありアダムの肉を持つ私たちは、神の聖なる律法を遵守することができない。それも全くできない。そのことは、山上の説教の中でイエスがこれから明らかにしてゆく。律法に照らして、アダムの子孫である私たちは罪深い存在であり、神の義には到達できない。義を求めてどれだけ熱心に行っても神の水準にははるかに届かず、ここに至って自身の罪深さ、義への飢え乾きはピークに達する。しかし、その到達できない神の義、これを求めてやまない人こそ幸...義への飢え乾き

  • おのれの心に地獄を見出す者は幸いである

    「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)---ユング心理学者の河合隼雄さんは、「おのれの心に地獄を見出し得ぬ人は、自ら善人であることを確信し、悪人たちを罰するための地獄をこの世につくることになる」と書いている(「影の現象学」,p.169)。この言い方を借用するなら、イエスの上の聖句は、おのれの心に地獄を見出す者は幸いであるという趣旨と言っても差し支えがないと思う。「悪人たちを罰するための地獄をこの世につく」っているのは、福音書の時代ではパリサイ人、律法学者たちであり、彼らは自分たちは律法を守り教える善人だと思いこんでいる。だが、こういう人たちが自分の内面の地獄に目が向くことはまれで、さらに言えば、その内面の地獄から外側に目をそらすために他人様を罰しているところがあるは...おのれの心に地獄を見出す者は幸いである

  • ペテロはなぜイエスに声を掛けられたのか ペテロはなぜすぐ従ったのか

    「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」(マタイ4:18-22)---イエスが歩くガリラヤ湖のほとりには、多くの漁船が並び持ち主たちが手入れをしていた。その中で、イエスはペテロ、アンデレとヤコブ、ヨハネに声を掛け、彼らは仕事も何もなげうってイ...ペテロはなぜイエスに声を掛けられたのかペテロはなぜすぐ従ったのか

  • この世をくれると言われてもイエスはさっぱり興味がない

    「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:8-10)---荒野で悪魔は引き続きイエスを誘惑するが、この悪魔はこの世と世の栄華のすべてをくれるというのだ。自分が聖書に接して以来、長らく分からなかったのがここだった。この世とその栄華を手に入れてそれを神の国にしてしまえばずっと簡単ではないか。しかしこれは神を知らないゆえの考えだった。神と御子にとっては、この世とこの世の栄華は引きつけられるものではなく、悪魔がくれてやると言われても、欲しいと感じないし要るとも思わない。「神と富と...この世をくれると言われてもイエスはさっぱり興味がない

  • み言葉は悪魔も使う -道具としてのみ言葉

    「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ4:5-7)---悪魔の誘惑に遭うイエス。その誘惑とは、詩篇91:11-12によるものであった。悪魔もみ言葉を使うのであり、ここではイエスを挑発するためである。だからここでは、み言葉は、いのちのことばとしてではなく、もっぱら道具として使われている。さて聖書を知らない知人から聞かされた話なのだが、その人が困難に突き当たっていたときに、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐える...み言葉は悪魔も使う-道具としてのみ言葉

  • パンだけで生きることができるか

    「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)---「人はパンだけで生きるのではない」という箇所だけが一人歩きしている聖書箇所。姪が就活中にこの言葉を使って、いやそういう意味じゃないと返したことがある。ところが、逆に、もっぱらパンだけで生きているような人が数多くいるように見えてならない。パン、それと情報だけで生きているこのような人たちは、すべてを物質的に捕らえているのだろうか。物質的な部分...パンだけで生きることができるか

  • 受洗するイエス

    「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)---受肉した神の子イエ...受洗するイエス

  • みことばは「いのち」の触媒

    「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)---パウロ書簡の後半部は「おこごと」で占められるが、上の聖句はロマ書のおこごとより。ちなみに、おこごとを馬鹿にしているというわけではない。なぜなら聖書のことばは、字面とは全く異なる意味で働くことがあるからである。つまり、聖書の言葉とは霊的なものなのだ。上の14節は、煩悶きわまったアウグスティヌスが、この言葉に触れて回心を果たした聖句である。つまり、アウグスティヌスにとっては、ロマ13:14が「いのち」の触媒だったのである。触媒となる聖句が何かは人によって全く異なり、予測のしようもない。聖書の「おこごと」の箇...みことばは「いのち」の触媒

  • 愛とは何か

    「「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(ローマ13:9-10)---「愛」とは何か、自分にはまるで分からない、そう言い続けてきた。アガペーとかフィリアとかエロスとか、一体何のことだと思う。愛という言葉を耳にすると、何かだまくらかされているようにすら感じる。愛という言葉はうさんくさいのだ。だが、こんな自分であっても、愛されていると思うことは少なからずある。あるいは、そのときにはなんとも思わないことが、ずっと後になって、ああ愛してくれていたんだなあとじんわり思い出すこともよくある。愛とは、愛する側の...愛とは何か

  • 復讐を禁止する神

    「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)---有史以来ハンムラビ法典ほど優れた法律はないと、かねがね自分は思っている。「目には目を」。近代法は復讐や決闘を禁じるが、ハンムラビ法典はやられた限りにおいての復讐を認めている。被害を受けた者が復讐感情を持つのは自然なことで、その自然の情を果たすことができるのであるから、何と素晴らしいことだろうか。そんな...復讐を禁止する神

  • イエスによる世からの解放

    「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)---「心の一新」は、与えられた聖霊によるもので、自力でどうこうして一新できる類いのものではない。イエスが与えて下さるものである。このこと自体よりも、この「心の一新」によって変えられた私は、この世と調子が合わなくなるとパウロは言う。現代の欧米社会のように強い自我を持つ社会であればまだしも、日本のような和を以て貴しとなす社会、「わたし」がなく「和」の平衡状態を重んじるKYの社会、突出する者を叩いては村八分にしてかかるこの社会において、世と調子を合わせないというのは相当の覚悟がいることである。だが、パウロは...イエスによる世からの解放

  • イエス同様「彼」は世界から捨てられる一方で「彼」は神に受け入れられる

    「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」(ローマ11:15)---イスラエルと異邦人とについての文脈の中でのみことば。「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう」。この「彼」は、ここではイスラエル。だが、イスラエルだけでなく異邦人でも、私でも彼でも、誰にでも上のみことばに当てはまる。イエスは世界中の憎しみのさなかに、極刑の十字架につけられて死んでいった。しかし神によって、イエスはよみがえる。そのイエス同様、「彼」は世界から捨てられて、そのことによりその世界は和解をする。その一方で、捨てられた「彼」は神に受け入れられて、死者の中から生き返る...イエス同様「彼」は世界から捨てられる一方で「彼」は神に受け入れられる

  • 響き渡り続けている声

    「でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」(ローマ10:18)---「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた」というところの「その声」とは、ヨハネ3:8にある「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。」とあるところの「風」と同じである。その声は全地に響き渡り地の果てまで届いているのだが、「彼らは聞こえなかった」し、風の音を聞いても「それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。声であれ風であれ、それはいつもどこにもあるのだが、あるときそれが自分を貫くのである。苦しみ抜いたその果てに貫かれる。このとき、貫く側に絶対的な主権があ...響き渡り続けている声

  • 観念ではない信仰

    「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)---信じるとはどのようなことなのだろう。それは観念的な確信ではない。私が教会にいたはるか昔、上のローマ10:10を引用して、口で告白したので自分は救われるという旨のことを言う人たちをよく見た。自分もそうだったと思う。しかし、ここで問われているのは、何を信じるかだろう。むしろ、信じるというよりは、イエスによって信じさせられるのである。...観念ではない信仰

  • 信仰は聞くことから始まる

    「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:15-17)---もう随分前のことだが、教会にいた頃の私はトラクト配りを2回やった。各戸のポストにビラを投げ込む、ただそれだけのことだが、私の足は少しは立派になっただろうか。最近は冷え性に悩まされている。そのように、イエス・キリストや教会そのものを知ること自体は、イエスを通した御父との和解に至るためのきっかけになる。ここで、上の聖...信仰は聞くことから始まる

  • 十字架と復活を信じる

    「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)---イエスは十字架に死に、神によってよみがえった。このことを信じて人は救われる。死とよみがえりという形の救いを信じるのである。そして実際、よみがえったイエスは会いに来て下さる。このときに御父と和解でき、聖霊をいただく。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」とあるとおりであり、心強い助け主なのである。毎日...十字架と復活を信じる

  • 義は目的なのか手段に過ぎないのか

    「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ9:30-33)---律法の遵守を他人に押しつけたパリサイ人について福音書を読んでゆくと、自分たちが律法の遵守に励んだという形跡がまるで見られない。それどころか、マルコ福音書には「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』……と言っています。それなのに、...義は目的なのか手段に過ぎないのか

  • 『神に不正があるのですか』

    「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:10-16)---「神に不正があるのですか」、理不尽な目に遭うとき、また、復讐した...『神に不正があるのですか』

  • キリストに愛されているという実感

    「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)---数々の困難、患難に遭うとき。自暴自棄になりそうなとき。そういうときにふっと思い出すことがある...キリストに愛されているという実感

  • 神が義と認めてくださるということ

    「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:30-33)---神が私たちの味方であるなら、神が味方をしない連中は私たちに敵対するかもしれない。救われた私たちは神が義と認めてくださるが、彼らは何をもって自分を義とするのだろう。カネだろうか、才覚だろうか。自分の魅力だろうか。そのような自分を頼りにす...神が義と認めてくださるということ

  • 『益』とはなにか

    「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)---「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるところの「益」とは、誰にとっての益だろうか。専ら自分にとってのものではない。神および神の秩序にとっての益である。私たちがもしも「神のご計画に従って召された人々」なのであれば、神および神の秩序にとって益なことは、当然に、自分自身にとっても益である。私たちはイエスを長子とする家族だからである。このことについては、モーセの一生を思い出...『益』とはなにか

  • 奴隷の霊からの解放

    「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」(ローマ8:13-15)---希代の芸術家である岡本太郎は、「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(「自分の中に毒を持て」,p.137」)と書いている。ここでいう「流されたままで生きている」というのが、上の...奴隷の霊からの解放

  • イエスはこれ以上ないほど愛してくださる

    「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:35)---イエスにある者であっても患難や苦しみに遭うのは、上の聖句からも明らかであるし、私たちの経験からもそうである。ここ半年近く、私はその苦しみのさ中にいる。昨年11月頃に詩篇を読んでいたときには、なぜかとても心苦しくなっていった。初めてのことだ。途中でやめて理論的なロマ書を読み始めると、今度は引っかかるところがほとんどなく、過去の記事を修正してお茶を濁すしかなかった。しかし、こういうときであっても、イエスは私を愛してくださる。それどころか、これ以上ないほどに愛してくださるのだ。具体的には書けないがびっくりした。なんと有難いことだろう。日ごろ客体化して書いて...イエスはこれ以上ないほど愛してくださる

  • からだは罪のゆえに死んでいても霊が義のゆえに生きている

    「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」(ローマ8:5-10)---御父の恵みによって御霊をいただいた私たちは、今まで通り肉を持ち続けながらこの御霊を宿している。肉...からだは罪のゆえに死んでいても霊が義のゆえに生きている

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