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2012/12/23

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  • 信仰は聞くことから始まる

    信仰は聞くことから始まる

    「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:15-17)---もう随分前のことだが、教会にいた頃の私はトラクト配りを2回やった。各戸のポストにビラを投げ込む、ただそれだけのことだが、私の足は少しは立派になっただろうか。最近は冷え性に悩まされている。そのように、イエス・キリストや教会そのものを知ること自体は、イエスを通した御父との和解に至るためのきっかけになる。ここで、上の聖...信仰は聞くことから始まる

  • 十字架と復活を信じる

    十字架と復活を信じる

    「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)---イエスは十字架に死に、神によってよみがえった。このことを信じて人は救われる。死とよみがえりという形の救いを信じるのである。そして実際、よみがえったイエスは会いに来て下さる。このときに御父と和解でき、聖霊をいただく。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある」とあるとおりであり、心強い助け主なのである。毎日...十字架と復活を信じる

  • 義は目的なのか手段に過ぎないのか

    義は目的なのか手段に過ぎないのか

    「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ9:30-33)---律法の遵守を他人に押しつけたパリサイ人について福音書を読んでゆくと、自分たちが律法の遵守に励んだという形跡がまるで見られない。それどころか、マルコ福音書には「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』……と言っています。それなのに、...義は目的なのか手段に過ぎないのか

  • 『神に不正があるのですか』

    『神に不正があるのですか』

    「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:10-16)---「神に不正があるのですか」、理不尽な目に遭うとき、また、復讐した...『神に不正があるのですか』

  • キリストに愛されているという実感

    キリストに愛されているという実感

    「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)---数々の困難、患難に遭うとき。自暴自棄になりそうなとき。そういうときにふっと思い出すことがある...キリストに愛されているという実感

  • 神が義と認めてくださるということ

    神が義と認めてくださるということ

    「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(ローマ8:30-33)---神が私たちの味方であるなら、神が味方をしない連中は私たちに敵対するかもしれない。救われた私たちは神が義と認めてくださるが、彼らは何をもって自分を義とするのだろう。カネだろうか、才覚だろうか。自分の魅力だろうか。そのような自分を頼りにす...神が義と認めてくださるということ

  • 『益』とはなにか

    『益』とはなにか

    「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)---「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるところの「益」とは、誰にとっての益だろうか。専ら自分にとってのものではない。神および神の秩序にとっての益である。私たちがもしも「神のご計画に従って召された人々」なのであれば、神および神の秩序にとって益なことは、当然に、自分自身にとっても益である。私たちはイエスを長子とする家族だからである。このことについては、モーセの一生を思い出...『益』とはなにか

  • 奴隷の霊からの解放

    奴隷の霊からの解放

    「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」(ローマ8:13-15)---希代の芸術家である岡本太郎は、「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(「自分の中に毒を持て」,p.137」)と書いている。ここでいう「流されたままで生きている」というのが、上の...奴隷の霊からの解放

  • イエスはこれ以上ないほど愛してくださる

    イエスはこれ以上ないほど愛してくださる

    「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:35)---イエスにある者であっても患難や苦しみに遭うのは、上の聖句からも明らかであるし、私たちの経験からもそうである。ここ半年近く、私はその苦しみのさ中にいる。昨年11月頃に詩篇を読んでいたときには、なぜかとても心苦しくなっていった。初めてのことだ。途中でやめて理論的なロマ書を読み始めると、今度は引っかかるところがほとんどなく、過去の記事を修正してお茶を濁すしかなかった。しかし、こういうときであっても、イエスは私を愛してくださる。それどころか、これ以上ないほどに愛してくださるのだ。具体的には書けないがびっくりした。なんと有難いことだろう。日ごろ客体化して書いて...イエスはこれ以上ないほど愛してくださる

  • からだは罪のゆえに死んでいても霊が義のゆえに生きている

    からだは罪のゆえに死んでいても霊が義のゆえに生きている

    「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」(ローマ8:5-10)---御父の恵みによって御霊をいただいた私たちは、今まで通り肉を持ち続けながらこの御霊を宿している。肉...からだは罪のゆえに死んでいても霊が義のゆえに生きている

  • 救いの型

    救いの型

    「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ7:25-8:4)---信仰は、つかみ取る類いのものではなく、与えられて備わるものである。神はイエスに...救いの型

  • 律法を行おうとするとかえって罪深くなるというパラドックス

    律法を行おうとするとかえって罪深くなるというパラドックス

    「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:15-20)---「自分がしたいと思うこと...律法を行おうとするとかえって罪深くなるというパラドックス

  • 聖なる律法

    聖なる律法

    「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:9-12)---ここでいう「死」とは生物としての人の死とは違って、ここでいう「殺した」というのは殺人とは違う。「死」とは聖なる律法の罪に死ぬことであり、あえて言うなら御父に殺されることを指す。もう行き詰まってしまってどうにもならなくなった私を御父が殺して、そして御父は私をよみがえらせる。このわざは2000年前に御子イエスによって示されたもので、私たちはこのイエスと...聖なる律法

  • 律法は罪なのでしょうか

    律法は罪なのでしょうか

    「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:7)---もし律法を知らなかったなら自分の行いが罪に当たることを知らずに済んだとパウロは言う。パウロは分かっていてこう書いているのだが、律法を知らなかったなら何をやってもよかったのだろうか。律法がモーセを介して人々に伝えられ明文化される前からこの神の律法は存在していたのだから、律法を知っているか知らないかは罪ということについては関係がない。律法を知らずに罪を罪とも気づかず御父の怒りの下に居続けることすらわからないのと、律法によって罪を罪と知って生みの苦し...律法は罪なのでしょうか

  • 人間の肉を追い込む律法

    人間の肉を追い込む律法

    「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:5-6)---私が聖書を手にしてまもなく、山上の説教での次の聖句を知った。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)そのころたまたま寄ったコンビニのレジの女性が可愛らしく思えたのだが、それと同時に上の「すでに心の中で姦淫を犯した」が思い出された。そのとき私の心の中には、レジの女性を...人間の肉を追い込む律法

  • 死者の中から生かされた者

    死者の中から生かされた者

    「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:12-13)---私たちは、正に「死者の中から生かされた者」であり、そのことを大いに喜んでいる。一方、死者たちは、罪に支配されていること自体に気がつかない。罪を罪とはわからない。この死人たちの世にあって、私の肉はうちのめされることが多々ある。しかし、この私の内には脈々としたいのちが流れて続けている。イエスは「わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)と言ったが、これは死者の中から生かされていただいた永遠のいのちについてのことで、この永遠...死者の中から生かされた者

  • 私の主

    私の主

    「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:12-15)---私たちは、キリストの十字架の死と同じように死に、キリストの復活と同じようによみがえった。もしも私たちがキリストと出会ったのであれば、そうである。この出会いの前、私...私の主

  • 罪といのち

    罪といのち

    「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:4-8)---ひとことに罪と言っても罪は二種類に大別される。刑事罰...罪といのち

  • 結果的に律法を守っている

    結果的に律法を守っている

    「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:5-7)---2019年10月14日付の記事と同じ聖書箇所。この記事の中で、「新たにされた私たちにとっても律法は存在し続けるので、私たちは相変わらず罪を犯し続けるが、今や罪赦されて罪から解放されている」と書いたのだが、それとは少し違うのではと気づいたことを書いてみる。何に気付いたのかというと、罪を犯し続けるが罪赦されるところもあると思うのだが、それ以上に、そもそ...結果的に律法を守っている

  • キリスト・イエスにつくバプテスマ

    キリスト・イエスにつくバプテスマ

    「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:3-4)---神の愛とは、キリスト・イエスにつくバプテスマ、言い換えると十字架と復活の御技に尽きると思う。それはまさに「いのちにあって新しい歩みをするため」で、古い自分が死んで、そしてよみがえって新しく生きるためなのである。このバステスマによって、生ける水が内側からほとばしるようになる。そしてその後も、この十字架と復活を通して、御父は私に愛を惜...キリスト・イエスにつくバプテスマ

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