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2012/12/23

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  • 神の国を追い求めれば、パンは後からついてくる

    「群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(ヨハネ6:24-26)---給食の奇跡に預かった群衆は、イエスを追って湖を渡る。ものすごい行動力だ。カペナウムまで来たのがパン欲しさからというのは、イエスが彼らに告げたとおりであり、彼らにとってはイエスはパン屋の親父にすぎないのである。しかしイエスが世に与えようとするものはいのちであってパンではない。パンをたらふく...神の国を追い求めれば、パンは後からついてくる

  • 聖書に何を求めるのか

    「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39-40)---「あなたがた」であるところの彼らは、「永遠のいのち」を求めて聖書に当たる。一方で、「いのち」を与えるのはイエスなのに、そのイエスのもとには行こうとしない。「永遠のいのち」、「いのち」と敢えて抜き書きしたが、この両者は違うもののように思える。彼らが欲しがっている「永遠のいのち」とは、死なないことなのではないか。つまり死ぬのが恐いのだ。死はなににも増して恐いものなので、彼らの気持ちそのものはよく分かる。そして、彼らは不死を願って聖書にすがっていたかも知れない。しかしこれでは、死んだ...聖書に何を求めるのか

  • 御技について

    「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。」(ヨハネ5:36-38)---世間でよくあることだが、味方が何かやって賞賛したとして、敵が同じ事をしても舌打ちする。イエスがラザロをよみがえらせてすら、パリサイ人は舌打ちしていた。パリサイ人だけではない、弟子たちも含めてどの人もイエスのわざ...御技について

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