北の砦にシエルはいた。 神器を持たない新兵に出来る事は限られている。 補給物資を受け取って采配を振るい分配をしたり、砦の外に出て負傷者を回収したりと、派手な戦闘を避ける配置についていた。 しかし最前線であることに変わりなく、魔物と遭遇することも当たり前で、剣を手放せない緊張感と共に忙しく過ごしていた。 今日は負傷者を、砦に連れ帰る役目だった。 前線で負傷して戦線離脱した者は激戦地から運び出され、...
現在、ポエム更新中。日常・恋愛・ファンタジーをテーマにした小説も取り揃えています。
オリジナルの詩や小説がメインです。ほのぼのとした何気ない日常やワンシーンを取り揃えていますので、お気軽にお立ち寄りください。
北の砦にシエルはいた。 神器を持たない新兵に出来る事は限られている。 補給物資を受け取って采配を振るい分配をしたり、砦の外に出て負傷者を回収したりと、派手な戦闘を避ける配置についていた。 しかし最前線であることに変わりなく、魔物と遭遇することも当たり前で、剣を手放せない緊張感と共に忙しく過ごしていた。 今日は負傷者を、砦に連れ帰る役目だった。 前線で負傷して戦線離脱した者は激戦地から運び出され、...
それからも、粛々と時間は過ぎていく。 卵は卵のままだったが、徐々に大きく肥大して、その質量を増やしていた。 鶏卵サイズから拳大、拳大から子供の頭大と成長していった。 エマは卵が育つたびに綿を詰めた袋を新調し、抱えるほどに育った今は背中に背負っている。 人間の頭よりも大きく育ったことに、シエルは申し訳ないと何度も謝ったが見た目ほど重くないし、卵から生まれてくるのが成長したドラゴンでも天馬でも英雄の...
職場についてすぐ、エマは常時卵を持ち込む申請書を提出した。 他人の神器。しかも卵の持ち込みは前例がないので、許可が出るまでの審査時間が長引く可能性はあったが、エマが拍子抜けするぐらい簡単だった。 どうやら事前に、騎士団と神殿からも、申請がされていたらしい。 国教の守護神からの贈り物なので、神器が尊重されるのは知っていたけれど、異例に対しての対応が早くてエマはほっとした。 シエルの卵を預かっても、...
朝が来る。 慣れ親しんだルーティン通りに、エマは規則正しく目を覚ました。 顔を洗い、長い髪を硬く編んで頭に巻き付け、身支度を整えてから、部屋を出る。独身寮の部屋にはキッチンがないので、城の食堂で朝食をとってから仕事場である植物園へと向かう。 そのまま広い植物園の中で作業に没頭し、ちょっとした休憩時間と城の食堂での昼食が息抜きになるのが、当たり前に繰り返される。 そんな代り映えのしない毎日が延々と...
夕闇を切り裂いたのは、白色に燃える小さな星だった。 キラキラと虹色の火花を散らし、細く長い尾を引きながらその小さな星は流れ落ちる。 その光は儚く、あっという間にアルタイ山脈の山肌へと吸い込まれて消えた。 地表に届く前に燃え尽きたのか音もなく、辺りは藍へと染まっていく。 あっという間に夜闇に包まれた草原の片隅で、眼裏(まなうら)を焦がした刹那を見つめる少年がいた。 名はイルカイ。数えで8歳になる。...
葬華師(そうかし)は凝(こご)った想いを昇華する。 想いが、喜びであっても悲しみであっても、強すぎれば澱み、穢れて濁るのだ。 その澱みを祓い清め葬る者を、葬華師(そうかし)と呼ぶ。 なんのこっちゃ? と思っていたが、義兄の憔悴ぶりを目にすることで、なるほどと腑に落ちた。 姉が亡くなって一年が過ぎても、義兄は気を塞いだままで、飲み食いだけでなく睡眠もままならない状態だからだ。 これは確かに、魂が澱...
卒業の歌が流れる中、あたしは覚悟を決めた。 学生生活も今日が最後だ。 粛々と進む式典の中、二列前に座る大好きなナナの背中が、感情の昂ぶりを押さえているのかかすかに震えている。 きっと卒業の寂しさを胸に抱え、別れの切なさに揺れながらも、片想いの相手に告白するかやめるか、最後の最後で迷っているに違いない。 大丈夫だよ、ナナ。 あなたが迷うなら、あたしが導く。 あなたが怯むなら、あたしが背中を押すよ。...
オリエンテーションは、フィールドワークである。 学園の管理下にある森を走破し、数か所あるポイントを巡って印を集め、出発地点に戻ってくる。ただそれだけであるが、契約獣とペアを組んだ同級生との絆づくりが目的であった。 とはいえ、森の中には肉食の獣も居るし、少ないながらも魔物がいる。 強い個体は年に数回の教員総出の討伐で狩られ、卒業間近の生徒たちの演習でも駆逐されているので、弱い魔物が残っていても比較...
エリスは今。 人生最大の危機に陥っていた。 うやうやしく捧げ持った小箱の中から、ちょこんと顔を出した自分の契約獣を目にして、悲鳴を上げる事こそ耐えたが顔色は蒼白である。 入学式の時に配られた契約獣の卵に自分の魔力を注ぎ、二週間たった今日。 魔法の授業で齲窩(うか)の呪文を用いて、生涯の相棒になるはずの魔法生物が生まれたのだ。 授業中であるから周囲は同級生ばかりで、そこかしこに契約獣と初めて対面し...
雪って、冷たいのか暖かいのか、わかんないな。 道の脇に寄せられて、こんもりと山と積まれた真っ白い雪に身体半分埋もれながら、マリエラは空から落ちてくる粉雪を呆然と見つめていた。 マリエラは国家公務員で、伝令部に所属する市井担当の郵便配達員である。 北の街に赴任した初めての冬は、南部生まれのマリエラの想像をはるかに超えていた。 一瞬で冬が嫌いになるぞ。と配属直後にヘラヘラ笑っていた上司の顔を思い出し...
数日おきに、ディミトラはスキュロス島を訪れた。 商品になる装飾品は制作が追い付かず数はとても少なかったが、島に渡るとすぐにアネモイが現れ、攫うように神殿横の小屋へ連れ込まれた。 とはいえ、無体な事をされる訳ではない。 根掘り葉掘り繰り出されるアネモイの問いに答え、雑談をして、なぜか「女の身でも自らを護れるようになれ」と護身を教わる事になっていた。 なぜそこまでしなくてはならないのか理解できないの...
ディミトラは影の薄い娘だった。 淡い金の髪に、海の色を溶かしたような青い瞳。 整った顔立ちながら癖が少ないがゆえに、エーゲの風景に溶け込むよう馴染み、印象に残らないという、不思議な容貌をしていた。 スキュロポーラ島で物売りの父親と装飾品を作る母親。共に暮らす兄妹7人のちょうど真ん中に生まれた。 じっと耳を傾ける質で口数は少なく、我儘を言い周囲の手を煩わせることもなく、かといって冷めて距離を置くで...
花見酒だと洒落込んで、丑三つ時に家を出た。ふらりふらりと河川敷の桜並木を見上げて歩き、適当な石に腰掛ける。買い込んだカップ酒に口をつけ、ケラケラ笑っていたがふと気づく。座れるほどの、岩があっただろうか?ゾロリ、と空気が動き、影が差す。遠く、犬が吠えた。...
再会は、会社帰りの夜道だった。同棲中、家族に連れ帰られ、それきり三年。ほらみろ、訃報は嘘だったじゃないか。ずっと、会いたいと思っていたんだ。生ぬるい風の中、元気だったか?の問いに、赤い唇が弧を描く。相変わらず綺麗だ。重ねた手が、ヌチャリ、と音を立てた。...
すえた甘い臭いがする。閉ざされた扉の向こうから、熟れすぎた果実のように、甘い腐臭が。重い扉の向こうにあるのは、なにか。グジュグジュと溶け落ちた粘塊が脳裏をよぎり、手が震える。鍵を開け扉を押し開くと、密度の濃い腐臭が断末魔のように、部屋には満ちていた。...
貴方の手が好きなのだ。節くれだった指も、ゴツゴツした手のひらも、筋張った甲も…無骨なフォルムに見惚れてしまう。欲しかった貴方の手を、独り占めできる幸福。血も肉も体温もない、理想の貴方を窓辺に飾る。青空を背に、歓喜するほど美しい白が、カタカタと風に鳴いた。...
「花。夜に出歩くな。不審者情報を知らないのか?」「ごめん、家族にコンビニで買い物を頼まれたの」 本当は言い出したのは私で、ただたんに肉まんが食べたかっただけなのだけど、家族から渡された買い物メモが良い仕事をしてくれた。大神君はまるっと信じたようだ。「いや、危ないだろ。おまえの家族、危機管理が足りてないぞ。大丈夫か?」 あきれたような大神君の表情に、てへっと笑った。「私の逃げ足の速さを知ってるからね...
夕方からチラチラと散り始めた風花は、積もることなく夜闇に舞っていた。 こんな寒い夜はコタツから片時も離れたくない気持ちが強まるけど、それ以上に猛烈に肉まんが食べたくて仕方なかった。なにしろ今週は、大神君成分が足りないのだ。 初めて一緒に帰った日から、約束してもないのに一緒に学校を出て自宅まで送ってくれるようになり、慣れてきた頃合いで「気を付けて帰れよ」と教室で別れるようになった。 理由はわからな...
ぴゅうっと冷たい風が鼻先をなでた。 過ぎていく冷え切った空気は、冬の気配に満ちている。 授業が終わって、教室を出る時から、大神君は私の横にいた。 図書室で本を返し、目星をつけていた本を借りる間も、大神君は面白そうに私を見ていたから、ガラにもなく緊張してしまった。 好きな書籍のタイトルを見られるのって性癖を丸出しにしている気がして、生々しい脱衣を見られるよりも恥ずかしい気がするのは、私だけだろうか...
隣の席の大神君には、立派な獣耳がある。 少し青みがかった白銀の獣耳はふわっふわで、硬そうな黒髪の中からニョッキリ生えていて、教室に差し込む太陽に照らされるとすごく綺麗で、本当に良い獣耳だ。 触りたいな~と思うけれど挨拶以外で大神君と関わる事はないし、なにより私以外の誰にも獣耳は見えてないみたいなので、知らないふりをしている。 入学した時から獣耳が気になっていて、同じクラスになった二年生の今年は大...
山の竜とフローレンスが、その生活に徐々に慣れている間。 はじめは穏やかだった山の周辺も、徐々に騒がしさを増していました。 フローレンスは姿かたちだけでなく気質も美しかったので、とても愛されていたお姫様でしたから、取り戻そうと動く人間がたくさんいたのです。 フローレンスの国だけではなく他国の者も合わさり、多くの騎士や軍隊が山の竜の住処を目指していました。 それでも、山の竜の住処は岩山の連なる特別な...
人には人の王がいるように、山や海や空にもそれぞれを統べる竜が居ました。 竜からしてみれば、王のように君臨するつもりも支配する気はありませんでしたが、竜は悠久ともいえる長い時を生きるうえに、力も強く神秘の力を持っているので、いつの間にか統べる者として認識されていたのです。 生物として突出した存在であるがゆえに、小さな他種族から頼られることが多く、些細なことから少し手のかかる事まで願われました。 そ...
「あっぶねぇー!」 ドン! と背中を押されて吹っ飛んだ瞬間。 隣から伸びてきた見知らぬ腕に、腰を巻かれた。 掃除当番でゴミ箱を抱えて階段を下りていた途中だったので、その腕が止めてくれなかったら、私は階段数十段分の高さを空中ダイブしていたに違いない。 ありえないほどの腹部圧迫で「ぐえっ」と思わず変な声が出るぐらい勢いがついていたけど、危機一髪で階段落ちから助けてくれた人の腕は力強くて、私の体重にも揺...
恋は人を愚か者に変えるらしい。 ならば感情で動く今の私は、激しい恋に落ちている。 金の靴を残して消えた、金の髪と青い瞳の美しい乙女に恋をした。 彼女は魔物を倒し囚われた私を開放すると、あっという間に姿を消してしまった。 あの日からずっと。 月の輝く星のない夜に現れ、金の靴を残した不思議な彼女を、ただひたすら追い求めている。 どこから来て、どこに消えたのか。 彼女の全てが謎めいていた。 華麗に戦っ...
白雪姫は目を覚ます。 山頂のゴツゴツした岩場に置かれた、寒々しいガラスの棺の中。 二度、三度と緩やかにまばたいて、透明な蓋に細い指先を当ててそっと押し上げた。 華奢な体を起こし、ふと、目覚める直前に喉の奥から転げ出た毒林檎の欠片に気付いて、ポイと遠くへと投げ捨てる。 冷たい冬の空気を大きく吸って、吐いて、棺の中に座ったまま、そっと視線を傍らへと投げた。「姫様、首尾はいかほどに?」 ひっそりと控え...
オオカミを割腹すると宇宙だった。 丸々と大きく膨らんだ腹を裂いた切れ目のその奥に、どこまでも果てのない暗闇の深淵を彩りながら、赤や青に煌めく星に似た輝きが幾つも煌めいていたのだ。 「これはいったい、どういうことだ?」 茫然とした顔でつぶやいたのは、ナイフを手にした狩人である。 人食いオオカミが近隣の村や森に出ると聞いて、警戒がてら様子を見て回っていた気の良い青年だった。 森の中にある老婆の家を訪...
彼の名前はクレヒト・ループレヒト。 数年前から頻繁に研究のため地上と月を行き来し、とうとう地球に移住してきた祖父のお気に入り。 祖父が亡くなる一か月ほど前に研究のため同居を始めたが、今はシュエの保護者でもある。 血縁はないが祖父の養子になったので、書類上の叔父になる。 地球に永住を決めた者同士ではよくある事だが、甘えるには他人である。 大地が恋しくなるには、ある程度は歳を重ねた者か幼少期に地上を...
北限に立ち、夜明けを見る。 ただそのためだけに、ザクザクと雪を踏みしめて、シュエは岬の岩場を目指していた。 先月、祖母の後を追うように、祖父も亡くなった。 すべての手続きを終えて地球で生きると決めて、なんとなく夜明けを見たくなったのだ。 北限は吹雪く日も多く、思い立ってもなかなかその機会は訪れなかった。 久しぶりの晴れの訪れは唐突で、雪どころか風もなくシンと恐ろしいほどに静かだ。 北限に近い土地...
空は快晴。 天高く晴れた空は底抜けに青く、雲一つなかった。 足を踏み入れた山はすっかり秋の顔をしていて、鮮やかな紅が目にまぶしい。 背負ったリュックはさほど重くないけれど、小一時間も歩けば息が上がってくる。 少しひんやりした秋の風は、火照ってくる身体にちょうど良かった。 ミッチリと密集した雑木もすっかり秋の色で、色鮮やかな美しい風景も、先の見えない獣道寸前の山道は不安をあおる。 登山というには軽...
天国と地獄は、いつだって隣りあわせだ。 文化祭で販売する焼き芋機の試運転で出来上がった焼き芋の試食は、準備する生徒の特権でもあるのだけれど、焼き立ての芋を手にしたまま晶くんを見つめる数人の喉がゴクリと鳴った。 ふんわり色付いた晶くんの頬のほうが焼き芋より美味しそうだ、なんて、いけない事を先輩たちも声に出さず思っていそうな眼差しになっている。 同じ一年で、同時に入部している、希少女子の私と話すより...
月が出ていた。 透き通るような銀盤に、そういえば中秋の名月ってそろそろだったっけなと思う。 終わったのか、これからなのか、今ひとつ覚えていないけれど、まぁるい真円に少し足りない歪さが不安定な気候にピタリとはまっている。 日中は半袖でちょうど良かったから、こうして陽が落ちてしまうと肌寒くて、本当に秋になったんだなぁと感じる。 ほわぁぁ~とのんびり空を見上げていたら、後ろから声をかけられた。「おいコ...
あたしは今日も食べている。 お腹がたぷたぷになっても気にせずに、ゆっくりモグモグ咀嚼する。 山盛りのパスタに、どっしり分厚いステーキ。 背油を散らした濃いスープ麺に、風味多彩なスパイス煮込みも湯気を立てている。 グツグツ煮立ったオリーブオイルと海鮮たっぷりのアヒージョも最高だから、パンのお代わりをちょうだい。 フワフワやわらかなケーキに、サクサク歯ごたえの良いクッキーに、喉越しひんやりのアイス...
群青のローブをまとったエンダリオンが、真直ぐにラヴィニアに向かって歩く姿に、会場はシンと静まり返った。 ため息ひとつ聞こえず、ただ、動揺を隠せない無数の人々から発せられるかすかな衣擦れの音だけが、サラサラと大広間を満たしていく。 群青のローブをまとった魔術師が膝を落とし、王国一尊く令嬢の手を取る様を、誰もが息を飲んで見守っていた。 「ラヴィニア・ドラクロワ様。初めて出会った日からずっと、貴女だけ...
王国を揺るがせた王太子の婚約を巡る騒動から三カ月。 王太子の誕生の祝いを兼ねた、華やかな夜会が開催された。 伯爵位以上の貴族が集う豪奢な舞踏会で、シャンデリアが照らす大広間には、煌びやかな衣装をまとった紳士淑女が優雅に集う。 事前に重大な発表が成されると告知されていたことから、自然にラヴィニアに視線が集まった。 なにしろ、王太子妃教育を受けていた中で、唯一残った令嬢である。 教養も立ち振る舞いも...
17歳になったラヴィニアは、順調に悪女の道を突き進んでいた。 正しく言うと、周囲の思惑や誘導で出来上がった「ラヴィニア悪女街道」を、まっすぐに突き進むしかなかった。 もちろん、ラヴィニア自身の希望は、これっぽっちも含まれていない。 同年代の少女は思考が幼すぎて友達は出来なかったけれど、その親世代の茶会に呼ばれることが多く、失敗狙いの不手際を仕掛けられたら、完璧なマナーで返り討ちにした。 宰相補佐...
寂しさに気付いてしまうと、気持ちが高ぶってポロポロと涙が零れ落ちる。 庭園の中に満ちた花の香りは甘く優しいけれど、涙で視界がぼやけてよく見えなかった。 いい加減、涙を止めて茶会に戻らないとお父様に心配されてしまう、とゴシゴシと目をこすったラヴィニアに、横からハンカチが差し出された。 うつむいて気が高ぶっていたので、ハンカチが差し出されるまで横に人が来たのに気が付かなかったから、ひどく驚いてしまう...
ラヴィニアとは悪女の名前である。 正しくは、悪女と評された女性の名前を調べれば、当たり前に出てくる名前である。 歴史書に残された名は数多にあるが、悪女として「ラヴィニア」でページが埋め尽くされた様は、いっそ壮観でもあった。 あるラヴィニアは、正妃を毒殺して、自らも毒杯を賜った側妃だった。 別のラヴィニアは、皇帝を操り国を傾け、クーデターの果てに首を落とされ愛妾だった。 違うラヴィニアは、贅沢三...
宝月祭が終わってもラタンフェの街は賑わっていた。 当初予定していた期間よりも長く、三か月間滞在していた部屋を引き払うため、ミントは荷造りをしていた。 臨時で務めた治療院も二週間前に辞めて、純粋に観光も楽しんだし、祭りが終わった後の日常の港町の暮らしも体験した。 ローも同じように宝月祭後も漁師たちと海に出ていたが、ミントと同じころに船を降りて、ミントと一緒に観光したり、今のように港街のリサーチに一...
最終日の夜更け。 ミントとローも人の流れに乗って、海岸へと向かって歩いていた。 サワサワと海風が優しく頬をなでる。 宵から深夜にかけて、神殿横の桟橋や街近くの海岸に人が流れるように歩いていく。 宝月祭の最終日になると人々は、海に向かって願い事を乗せたランタンを流すのだ。 漁師たちが水揚げした怪魚マカラタを原料にしたランタンは、薄い膜を張りあわせて小さな船型に加工されている。 マカラタの粘液を加工...
宝月祭は三日三晩続き、最終日に願いを乗せたランタンを海に流す。 それまでは昼夜を問わずお祭り騒ぎで、大通りにはズラリと隙間なく無数に露店が並び、中央広場の舞台では演劇や大道芸も間断なくおこなわれている。 神殿に行けば舞や歌を奉納する祭事が続き、神殿前の広場では昼夜を問わず祝福を込めた細工物が用意されていた。 貝で出来た螺鈿細工や魚の骨であつらえたペンダントや腕輪が定番だが、アクセサリーに限らず財...
気が付くと、空中高くに放り出されていた。 銀の月が見えたかと思えば逆さまになり、ミントは勢いよくドボンと海へ頭から墜落する。 落ちた衝撃でつかまれていたはずの腕からローの手が離れ、グルグルと回りながら身体が深く暗い海底へと引き込まれていく。 水を飲み込まないように息を止めても、全身を押し包む冷たさは凍えるほどで、ミントは身体をこわばらせていた。 身体を推し包む水の冷たさに思わず息を吐き出してしま...
在りし日の美麗な船は、今や、見る影もなかった。 帆柱はへし折れ、国籍旗のポールは跡形もなく、船内の壁だけでなく舷側もまだらに崩れ、甲板に黒々と開いた大穴は船底近くまで月光を届けている。 甲板上の捕縛用の魔法陣の横。 惨状としか呼べない船上で、ミントは額の汗をぬぐった。 累々と転がっているケガ人だが、とりあえず目につく負傷は、命に問題のないところまで治せたと思う。 それでも、こんな時には考えてしま...
吹き込んできた潮風は、ホコリや破片で濁っていた空気を押し流した。 よどんでいた室内の空気も澄みつつあって、ローは手元に戻ってきた魔槍を右手でつかみ、軽やかにクルリと回して肩に当てる。「うるせぇ誘拐犯だな」「僕らは国籍旗も掲げず、不法停泊している船舶の確認に来ただけっす。国民の拉致監禁に関しても、投降するなら今っすよ。観念するならよし。抵抗するなら強制確保っす」「はいこれ」と懐から取り出した書状を...
ゆらゆらと波に揺れる感覚でミントは目覚めた。 子供の頃から、神の手の意地ともいえる指導の下、犯罪に使われやすい薬や毒には体を慣らしているので、基本的に抵抗値が高いのだ。 使われた薬の種類も匂いでわかっているので、意識さえ戻れば解毒も即座にできる。 とりあえず、現状を考察した。 ロザリンデの部屋で会話をしている最中に、窓から不法侵入した男三人に攫われた。 今は袋詰めされたまま、小舟で運ばれているの...
頼りなく揺れる波の不規則な感覚に、ロザリンデは意識を取り戻しつつあった。 それでもまだ半分は夢の中であり、誘拐され袋詰めされたまま運ばれている。 薬剤や毒には体を慣らしているので、誘拐犯たちが思うより覚醒が早いのだろう。 攫われる理由については、ありすぎてわからない。 なにしろロザリンデは海洋王国ドラクルの第一王女で、つい先日までフラメル国の正妃でもあったからだ。 海路の確立。交易の利潤拡大。人...
宝月祭前は街中に人が集まっているので、岩場の多い街はずれの海岸は人目に付きにくい。 ほんの少し前に太陽も沈みきって、辺りはヒタヒタと迫る夜に染まりつつある。 立ち寄る者はほとんどいないが、観光客がぽつぽつと夜の散歩に訪れることもあり、男三人が岩場にいても不自然に見えなかった。「それで、てめぇはどうすんだ?」 唐突に尋ねられたダンテは「え?」と驚きの声を上げた。 ローに投げかけられた質問の意図がわ...
いよいよ明日は宝月祭である。 祭りの三日前から早めに治癒院を閉めているので、昼食前に仕事は終了する。 そのかわり街角に治癒スペースが設けられ、職員が順番で待機することになっていた。 ミントのような新婚や、婚約者がいる者はパートナーとの時間を優先させる決まりがあるので、仮治癒所の待機番も免除されている。 だからミントは宝月祭が終了する三日後まで、仕事はお休みになる。 ジルが迎えに来たので一緒に昼食...
宝月祭まで一週間を切ると、マカラタ漁も儀式めいた要素が強くなる。 祭り用の素材としてではなく、神への奉納品としての漁に変化していた。 奉納品は銛で突いたりせず、魚体を傷つけぬように網で囲い込んで捕らえていく。 銛を投げる機会がなくなり、それでもシャークゥへの威嚇要員として船に乗り込んでいるローは退屈そうな顔をしていた。 船から降りる選択肢がないわけではないが、寄せられた期待に「ちーとばかし目立っ...
自分ではない体温に包まれて、ウトウトとまどろむ。 抱き寄せられる多幸感に満たされ、輪郭もおぼつかない幸福な夢を見ていたら、ふわりとスパイスの香りが濃くなり、意識が浮上していく。 クッキリと目覚める前に、眠りに落ちる前は側にあったぬくもりが消えていることに気付いて、ハッと本格的に覚醒して飛び起きた。 そのまま立ち上がろうとしたところで、へにゃへにゃとその場に崩れ落ちる。 疲れて眠ってしまうぐらい身...
本当に、少しだけのつもりだった。 けれど、話し始めるとおっとりしたロザリンデは声音同様に穏やかな人柄だった。 それに、訳あり事情に触れないように話題を展開すると、お互いに自分のパートナーに関する話になる。「わたくし、ダンテには苦労を掛けてしまって……気にしないで下さいと言われるたびに、申し訳ない気持ちになってしまいますの」「私もです。守ってもらえるのは嬉しくても、ローさんのために出来る事って、あま...
宝月祭が一週間後まで迫った休日。 ミントは久しぶりにのんびりと一人で過ごしていた。 本来はローも休日だったが、宝月祭の直前まで船の護衛としてマカラタ漁に出向いている。 なんでもマカラタを捕食する、肉食のシャークゥという巨魚が現れたらしい。 マカラタ漁には付き物のシャークゥだが数頭の群れで行動するし、漁のために群れから引き離したマカラタの個体を狙うのが厄介で、たまに船そのものも狙われるから討伐する...
鷲摑みされて、さんざん顔面を締め付けられた後。 ジルはどうやったのか上手くローの手からシュルリと逃げ出して、離れたところで降参とばかりに両手を上げた。 糸目がニィと緩やかに弧を描くと同時に薄い唇も弓型になり、人の良さそうな笑顔をつくった。「お二人さんの仲が良くてなにより。とりあえず、再会の祝杯でもどうっすか?」「おひとりさまを楽しめ。デートの邪魔すんな」「ちょっ! 呼びつけといて理不尽! 傷つい...
ラタンフェに滞在して10日も過ぎれば、港街での暮らしにも慣れてくる。 仕事が終わってから、久しぶりに外食でもしようと、ミントとローは湾岸沿いの屋台を目指していた。 東にある湾を見下ろす小山も、西側の海岸へと続くなだらかな丘も、立ち並ぶ数階建ての建物も、神話から抜き取ったひとつの絵画に似た美しさがあった。 古い石造りの街並みも窓辺に飾られた花によって鮮やかに彩られ、大きな通りを行きかう雑多な人々の...
商店街の横にある大きな治癒院に、臨時職員としてミントは勤めることになった。 宿から見ると大きな商店街を越えた反対側なので、通うのに近いとは言えないが遠くもない。 大祭の前後は現地住民だけでなく観光客も爆発的に増えるので、当然ながらケガ人や病人も増える。 そのため大祭に合わせた期間限定とはいえ、旅に流れている治癒師も雇用先を見つけやすいのだ。 ましてや交易も盛んなラタンフェは元々の人の出入りが激し...
国の南端にあるラタンフェは、大きな湾に面している中規模の街だ。 外交の拠点になれるほどの大きさはないが、外国との交易も活発で、地域産業である漁業も盛んな豊かな街である。 雑多な人種の出入りが激しいので、街の者も余所者に慣れていた。 ラタンフェ名物の宝月祭は、満月の夜に行われる。 無数のランタンを灯して街を彩るさまは幻想的で、豊穣と祝福を祈る大祭なので、国内だけにとどまらず外国からも訪れる者が多い...
どれほど眠ったのかはわからない。 ざわざわと人の動き回る気配に、フッと目が覚めた。 気が付くと、朝が来ていた。 扉代わりの布がめくり上げられ、簡易鎧を身に着けた見知らぬ騎士が顔を出す。「気が付かれましたか? 簡単ではありますが食事を用意しました。朝食の後で移動しますので同行ください」 昇り始めたばかりの太陽と、しっとりと露を含んだ空気があたりに満ち、ラージはそろそろと身を起こす。 幌馬車内にいた...
そうこうしているうちに、いよいよ王都への最後の難所に差し掛かる。 昼も夜もなく走り続ける強行軍で、がたつく幌馬車の中で気絶するように眠るしかなかったが、難所を通り抜けるのが夜になるとはついていない。 数回王都に出向いたことのあるラージでも、切り立つ岩場に挟まれた峠道は思い出すのも気が滅入った。 切り立った岩山をゆるく巻くように削り取られた道の片側は、切り立った崖の場所も多く、両側に岩場がある場所...
それは、突然の招集だった。 王都から騎士の一団がやってきて、戦の準備として働き盛りの治癒師や鍛冶師と言った職業人を連れて行くという。 田舎街に残されるのは、弟子に仕事を譲り渡した老人か、まだこれから仕事を覚えていくという見習いになる。 幸い産婆や薬師は召集対象外だったので、すぐさま街の者たちも暮らしに不自由は起こらないと予想できたが、運悪くラージは召集対象になってしまった。 40歳を過ぎて弟子...
上質な陶磁器に注がれた豊かな紅茶の香りに、ミントは困ったように眉根を寄せる。 隠れ家とはとても思えない豪華の館の一室で、なぜか歓待を受けていた。 上質なソファーも、華美な室内も、自分にはあまりに不似合いだとソワソワして、まったく落ち着かない。「緊張してる? 楽にしてもらえると嬉しいけど」 正面に座ってにこやかに告げてくる少年に、ミントは無言のまま淡く微笑んだ。 幼子のように無垢な笑顔を見せてくる...
ペロリと今にもはがれ落ちてきそうな半月は、それでも明るかった。 淡い銀色の光が一帯に満ちて、濃い影と広場の様子も浮き上がらせる。 広場の脇にそそり立つ岩壁は黒々と闇に染まり、相反して切り開かれたその場所は明る開け、動く騎士たちの姿をくっきりと浮かび上がらせる。 全員で襲いかかれるほど開けた場所ではないのも手伝って、間合いのはかり方も慎重だった。 峠の入り口を過ぎれば、幌馬車一台が抜けるのもギリ...
幾つもの篝火を掲げ、夜闇の中をその一団は王都へと進んでいた。 照らせる範囲は狭いけれど炎を手に手に掲げ、年季の入った幌馬車の周囲を騎士の一団が馬で駆けている。 頑丈ではあるが粗末な幌馬車の車輪はガラガラと大きな音を立て、激しい振動を伝えてくるので、乗せられた者たちは一睡もできない。 まるで気を失うようにまどろむだけの強行軍に、一週間も過ぎれば幌馬車に乗る者すべてが疲れ切っていた。 木製の車輪から...
フラフラになりながら帰宅して、粉々になった自分の理性と平常心に埋もれるように、ミントはベッドの中で丸くなる。 布団をかぶり羞恥に震えながら、どうしてこんなことになったのだろう? と考えた。 何らかの理由があってのことだろうが、当事者であるミントだけが取り残され、何も知らなかった。 嘘ではないけれど、真実でもない事を言い広められしまうと、どうしていいかわからなくなる。 これはいくらなんでもひどす...
気が付けば部屋の中は光に満ち、思い返さなくてもすごい夜だった。 肌をあわせて、気を失うように眠り、眩しさに朝だと思い目覚めた時には、太陽が中天をとっくに過ぎている。 起き上がろうとしたミントは、フニャフニャと力の抜ける身体に抗えず、ポスンと寝床に横たわる。 穿たれた痛みの残滓で、腹の奥がしびれるように熱い。 何事にも限度があるのを、身をもって知った。 その場の雰囲気に酔い、人肌から受け取る熱に正...
その時は、唐突に訪れた。 ローがミントの家に居候してから、三つ目の季節が半ばほど過ぎた頃の事だった。 いつものようにふらりと外出し、夕食前に帰ってきた青年を笑顔で迎え入れたミントは、その眼差しに表情を凍らせる。 ローの身にまとう空気が、冴え冴えとした月光のように冷えていたからだ。「嬢ちゃん、ここを発つ準備をしろ。誰にも知らせず、一週間以内だ」 剣呑な低い声に、ミントは目をまたたいた。 急なことに...
満ちていた月が欠け、欠けた月がまた満ちていく。 その繰り返しは、一人暮らしでは寂しいものでしかなかったけれど、二人暮らしとなってからは揺れる心そのままに似ていた。 いつまでと期限を切らなかったローは、あれからミントの家に居ついていた。 それどころか、ひとつふたつと季節が過ぎても、当たり前の顔で一緒に暮らしている。 はじめは戸惑っていたミントも、この奇妙な同居人にすぐに慣れてしまった。 相変わらず...
その男は、月の綺麗な夜に訪れた。 夜半に響いたノックの音に、急ぎの病人かケガ人の呼び出しだと予想して扉を開けたミントは、大きく目を見開いた。 知らない男だった。 長いローブに覆われて体格もはっきりしないが、背が高く凄味のある気配で、戦いを生業にする者だと一目でわかった。 使い込まれた旅装は長旅に汚れていても、うらぶれた気配はみじんも感じない。薄汚れてしまったからこそ、丁寧に使い込まれた艶が見て取...
成人向けサイト アルファポリス と ムーンライトではR18で掲載しています。こちらには本番の合体抜きで掲載していますが、性的な匂わせは強めになっています。 僻地にある小さな街で、ひっそりとミントは暮らしている。 あまり周囲と関わらない生活も、育ての親が「神の手」の呼び名を持つ著名な医師なので、素性を探られて利用されないためにも必要な事だった。 そんなミントの元に、ある日、一人の青年が訪れた。 養父...
泣き声が聞こえる。 カンカンと激しく鳴り響く警告の鐘の音。 ヒリヒリと肌を突き刺す悲しい叫びと、ビリビリと空気を震わせるほどの怒号。 そしてそれらすべての絶望を押しつぶすほどの、耳をつんざく咆哮。「誰か、助けて!」 絶望に濡れたそんな叫びが、街中にあふれている。 魔物を防ぐための高い壁は翼を持つ魔竜には意味がなく、砲撃を恐れてか砲台ごと壁の一部が脆くも崩されていた。 今は魔竜の存在に怯えて近づい...
「7」は縁起の良い数字らしい。 ところがどっこい。 私にとっての「7」は試練の数字である。 始まりは、両親の「7」信仰である。 幸運の象徴にもなるし、神様の祝福のような、ポジティブなイメージがくっついているから、とにかく「7」は凄い数字なのだ。 神様を持ち出すなんて大げさだなぁとも思うけれど、旧約聖書の中での「7」は「安息の日」だし、七福神とか七代天使とか、調べてみればご利益のありそうな話がどんど...
鍛冶師の生活は不規則だ。 従業員は定時に出勤し定時に帰宅するが、煉獄の幻魔堂の主人であり特殊鍛冶師であるゴードンの生活リズムは、仕事の進捗に左右される。 特に退魔の武器を手掛けている時は、材料になる幻魔や魔物の核をや結晶を御して鋼に叩きこむため、数日掛りで大槌や小槌を振るう。 その間、飲食はもちろんの事、睡眠もまともに摂れない。 だから、ひとつの武器を完成させると、精魂尽き果て倒れ込むように眠る...
一日が終わった。 一人きりの部屋で、やっとくつろげる。 一人暮らしを始めて一年。 ひとりで過ごすことにも、やっと慣れた。 木製のチェストの上には、白いウサギのウエディングドールがふたつ仲良く並んでいた。 フワフワのぬいぐるみは特別製で、両手で小物を抱えられるように隠しポケットもついている。 あなたの好きな面白デザインのUSBを持たせたいねと話して、つまんないこだわりかもしれないけれど、注文を出した...
昔々。 山里の小さな村に与助という若者がおりました。 つい先だって父は亡くなり、6人いた兄姉も家を出て、今では老いた母との二人暮らし。「末のおまえに苦労をかけるのはねぇ」と眉根を寄せる母にも、けろりと笑って「おいらはまだ子供だし」とのんびり構える始末。 独り立ちの歳でなくとも齢は14。 ポヤポヤしてたらあっという間に男やもめの出来上り。 自分の足腰がしっかりしているうちに、末の子にもまともな縁付...
懐かしい人に再会した。 偶然と呼ぶには恐ろしいほどの、たまたまの連続。 たまたま残業が入ったから、いつもと違う電車に乗った。 たまたま買いたい新書があったから、いつもと違う駅で降りた。 たまたま立ち寄った大きな本屋で、同じ本に同時に手を伸ばした。 ただ、それだけ。 本当にそれだけのこと。 たくさんの「たまたま」が重なっていたけれど、特別なんて何もないはずだったのに。「すみません」 触れた手に謝罪...
この物語は 七海美桜様 主催の ノベプラ作者でアンソロ本作るってさ(同人誌)【2期・冬!】 に参加して、初のアンソロ本 「夏色綴り」 に寄稿した物語です。 Webに公開したのは今年のお正月ですが、執筆したのは去年の二月でした。 自分の紡ぎ出した物語が本の形になり、製本されて手元に届く喜びは、言葉を尽くしても足りない気がします。 貴重な体験をありがとうございました。 今回、Webに掲載するにあたって...
二カ月ほど前のことを思い出していたら、沢口の細っこい姿が見えた。 俺が見えたのか、満面の笑顔でブンブンと手を振っている。 まるで、飼い主を見つけた犬みたいに一直線に俺のところに駆けてくるから、変に照れくさかった。 だけど、そんな顔は見せずにスポーツドリンクを差し出した。 そして、おなじみになった公園で、ブランコに並んで揺れる。 自称ライバルには、野球部でのこともキチンと報告していた。「レギュラー...
あの日は五月だった。 高校に入学してからずっと、俺は毎朝走っていた。 そして、彼女も同じ時間に走っていた。 いつも追い越すばかりで、それが誰かなんて気づかなかったけれど、体育の時間に走っている沢口を見れば、そのフォームですぐにわかった。 ただただ走りたいから走る。楽しいから走る。 走るのが気持ち良くて仕方ないから、思い切り走っているだけ。 走ることが好きだって叫ぶような、元気良い走りだった。 ...
七月の朝は太陽に力があって、まだ六時なのに眩しかった。 空気に夏の気配が満ちて、家を出て二〇分も走れば汗がしたたり落ちてくる。 定番のランニングのコースは、ダラダラとした上り坂が山肌をうねるように続き、緩やかに山頂付近を回ってから、曲がりくねった下り坂で市街地に戻ってくる。 安定したペースで俺は走り続け、上り坂も中盤を過ぎたころ、見慣れた背中を発見してホッとする。 今日も沢口は走っていた。 ポニ...
祈りが届いたのだろうか。 月の、綺麗な夜だった。 天気も良かったので庭に石で竈を作り、網を置いて魚や野菜を焼いていた。 星空を見ながらの夕食は、子供たちも大好きなメニューのひとつなのだ。 食べごろなものを見計らって、子供たちの皿にポイポイと放り込んでいたら、不意に後ろから声が響いた。「うまそうだな、俺も食っていいか?」 身を震わせるような衝撃に打たれて振り向くと、会いたくて会いたくてたまらなかっ...
勇者たちが村を旅立って、5年が過ぎた。 各地に沸いた魔物の討伐に手を取られ、魔王の元にはたどり着けていないらしい。 それでも、無数にある国同士で協定を結び、魔王討伐に協力する動きが出てるみたいだ。 あたしたちの村から旅立つのを決めるのなんて一週間もかからなかったのに、大きな国の人たちの動きはなんて遅いんだろう。 7年過ぎた。 国境を封鎖され、閉ざされていた魔王の元に向かう道が、解放されたらしい。...
あたしには幼馴染がいる。 アイツは勇者になって、世界を救うために旅立った。 あたしたちが生まれ育ったのは、世界の果てみたいな小さな村だった。 小さい村だけど周りの自然が凄すぎて、その辺で日向ぼっこしているよぼよぼの爺さんだって、杖で魔犬に致命傷を与えるぐらい変な村だった。 爺さんや婆さんになっても戦闘力が高いのだから、おじさんおばさんクラスになると一騎当千。子供の遊びを通じて鍛えられていた。 子...
クリスティアンは覚悟を決めた。 嘘で塗り固められた手紙は愛らしかったが「ありのままの貴女と結婚したい」と告げるのだ。 婚約者であるマルグリットと手紙を交流し始めて一年。 顔合わせが無事に終われば、婚約式と結婚式の日取りもいよいよ決まる。 お互いに、素の自分をさらけ出しても良い頃合いだろう。 始まりは、新街道の計画である。 今まで王都を経由して、東西南北の辺境地に向かう街道しかなかった。 非常事態...
マルグリットは追い詰められていた。 貴族らしい上等な手紙が早馬で、マルグリット宛に届いたのは数日前。 何かの間違いであって欲しいと繰り返し確認し、一字一句覚えるほどに見直したけれど、何度見直そうと内容は変わらなかった。 婚約者であるクリスティアンが、マルグリットに会うため西の辺境地を出立すると書いてあった。 手紙の書かれた日付を見れば、クリスティアンが明日にでも到着しておかしくない。 到着してし...
月のない夜だった。 ザァザァとうるさいぐらいに波が自己主張している。 深夜、家を抜け出すようなヤンチャは、生まれて初めてのことだ。 家族全員が寝静まった頃にそっと勝手口から出て、ちゃんと家の鍵も閉めてきた。 猫のように足音を忍ばせ、息を殺して海岸へと急ぐ。 誰もいない砂浜に立つと、トランクを片手にぶら下げた彼がいた。 時間を決めていたわけではないけれど、さほど待たせたわけではないのは、雰囲気でわ...
そうして私たちは、灯台を二人で探すことにした。 探すにあたって、小さな約束事もした。 本当の自分自身の名前は教えない。 ただそれだけだ。 思い出探索のこの夏の間は、私は喜惠で、彼は隆之介である。 くだらない自己満足ではあるけれど、彼といる私は「私」ではなく、かつて在りし日の「喜惠さん」だから、過去に置き去りにされた思い出を辿る行為も許されるだろう。 二人の秘密を暴き立てるのではなく、二人の想い残...
海をまとうコンテスト小説サイト・ノベルアップさんで行われた、イラストから物語を書くというコンテストに参加した作品。イラストが先にありきなので、かなり苦戦しましたが、頑張った(自画自賛!******************************「今でも灯台の中で怪物が眠っている、なんて言えば……おかしいかしら?」 自嘲に似たひどく乾いた声が、サラサラと砂のように頭上から零れ落ちてきた。 つい立ち止ま...
深夜にうなされて目が覚める。 とても怖い夢を見た。 首筋にまとわりつく汗を手でぬぐう。 恐ろしい夢だったのだが、目が覚めてみるとその内容を思い出せなかった。 フッと息を吐きだして寝具に身をうずめ、リディアナは再び目を閉じる。 ざわめく気持ちをなだめるのは難しいけれど、こんな夢を見る理由もわかっている。 明日、隣国の国王へと嫁ぐからだ。 得体のしれない夢を見るほど、不安に思う自分にそっと苦笑した。...
婚約者から初めて贈られたのは、魔法の日記帳だった。 持ち主を二人指定して、交換日記としてお互いの間を行き来する、不思議なノートである。 手紙とは違ってたくさん書けるし、配達の間に事故で消えることもないので、残業続きの文官や単身赴任中の騎士様が家族とコミュニケーションに使うケースが多いらしい。 私と彼のように婚約者同士の交換日記も一般的には珍しくはないけれど、かれこれ十年。子供の時からの習慣で、交...
大国ハランヴァと最果てのマカン国の国境は、爽やかな風の吹く草原だった。 広葉樹の連なる穏やかな森を抜けると、目の前に広がるのは緩衝地帯である穏やかな草原と、その先にそそり立つ険しい山岳地帯である。 目に見えるのは武骨な岩肌が多く、上部ほど緑が少ない。 山裾に広がる緑の森も、たった今抜けた森の穏やかな広葉樹とは葉の色が違い、暗緑色に塗り込められ、うっそりと茂り暗い色をしていた。 待ち受けるタクラ...
真夜中。 健やかな寝息が寝台を占拠する。 思わず舌打ちをしそうになって、男はそれをグッと飲みこだ。 部屋の隅に備え付けられているソファーに身体を丸めて無理やり目を閉じたが、すぐにそわそわと寝がえりを打つ。 横になり、座り、やっぱり横になり、落ち着かない。 見ないようにしようとすればするほど、視線が彼女に吸いつけられる。 のびやかな肢体。クルリとやわらかにウェーブがかかった長い髪。 白い肌。ほんの...
「王国の騎士たちよ、今こそ立ちあがる時だ!」 突然現れた未知の魔物を討伐するために、国王の命で国境に精鋭たちが送り込まれた。 死に一番近い山岳地帯であるタッキリ山脈に繋がっているが、人類到達可能な森の奥。 問題の場所には毒々しい色の巨大キノコがニョキリと生えて、胞子を振りまいている。 ビビッドな赤や紫のキノコの群れから噴き出す胞子も、親キノコに負けず劣らず凶悪な色をしていた。 モウモウと濁った極彩...
「俺、魚って苦手なんだよね」 新婚生活の第一日目。 朝食のその席で、克己の口から飛び出したのは、衝撃的な言葉だった。 聞いた瞬間に私の脳は受け取りを拒否して、思わずフリーズしてしまう。 気分的には膝から崩れ落ちそうだったけれど、何とか持ちこたえる。 友人に紹介されて、なんとなく気が合って付き合い出した。 そして、なんとなくタイミングもちょうど良くて、交際を始めた一年後に結婚した。 長いとは消して言...
ずっと自分の顔が嫌いだった。 ぽってり太い眉。一重の丸っこい目。存在感のない鼻。 それなのに、小さいのに厚めのおちょぼ口が自己主張して、変に目立つ。 色っぽいはずの泣きボクロも、私の顔にあるだけで「何かついているよ」とゴミ扱いだ。 綾小路美美子という名前もよくなかった。「みみこ」は美が二つも並んでいるし、字面も雅やかな印象を与えるから、旧家のお嬢様っぽい美少女のビジュアルを期待されてしまうのだ。...
その男は、森の中で木にもたれ、眠っているようだった。 目深なフードで木の葉から漏れる日の光を避けているが、すぐに動けるようにかマントは軽くはおっているだけだ。使い込まれた装備や防具も体になじみ、明らかに戦う者だった。 なにより目立つのは、その腕の中にある、二振りの剣だ。 薬草を取りに森に踏み入ったアンナは、男の姿に戸惑った。 辺境というよりも僻地と呼べるこの場所に、余所者がやってくることは稀だ。...
ごきげんよう! 現在、尾岡れきさんと共同で「君と王子様企画」」を開催しています。 カクヨムとノベルアップさんが主な主催場所ですが、Twitterや他の小説サイトからも参加できます。 概要はこちら。 君と王子様企画・概要 久しぶりの企画主催でドキドキしています。 バレンタインまでが開催期間なので、もう一本ぐらい書けると良いなぁ。 現代モノで「私だけの王子様」の作品は多いので、レアものとなっている本物の王...
「何やってんだ」 頭上から、尖った声が降ってきた。 この声は……と思う間もなく、ついでに声の主も二階の窓から飛び降りてきた。 スタンと華麗に着地を決めて、私をかばうように前に立つスラリとした長身は、和也君本人だった。マジか。 「わ……私たちは、王子のこと……」「面白いか?」 突然の王子様登場にシーンとその場が静まり返っていたけど、やっとのようにゴニョゴニョ言いかけた数名を、和也君は低い声で黙らせる。 凍...
それは六月の半ば。 学校生活にも慣れ、クラスにも慣れ、それなりに友達もできて。 和也君は相変わらず「王子様」扱いで、ファンクラブもでき、告白や牽制し合う女子の対応に苛立ち、非常に毎日が大変そうだったが。 私は部活も楽しくて、和也君とも部活以外でも普通に話すようになって、なんか「友達以上恋人未満みたい!」と実に充実していた。 ある日、クラスの派手系の女の子に「相田さん、ちょっと相談に乗ってくれる?...
え? 今のどこに照れる要素があるの?! 内心では戸惑いつつ、名前を尋ねられて素直に答えた。「私は、相田三葉。入部テストは先輩がくるまでちょっと待ってね」 図書室で資料をあさってから部室に来るので、部長をはじめとした部員の登場は遅いのだ。 来てからもそれぞれが興味のある時代の資料をあさったり、歴史に関する雑談をしたりで、かなり混沌とした空間になる。 そんなことを説明しているうちに、和也君が私の推し...
そして入学から一ヵ月。 在校生は部活が必須なので、入部体験を繰り返している一年生も、そろそろ活動する部を確定しなければならない。 例の王子様の体験入部を追いかける女子が絶えず、いまだに部活が確定してない子が多いらしい。 本気で部活をしたい子が少なくて、ワーッと群がっては散っていく。 嵐のような行動を繰り返しているらしく、先生方も困惑しているようだ。 大変だな、王子様みたいな人気者がいると。 ち...
「ねぇ、きいた? 五組に王子様がいるんだって」 クラスの女子の華やいだ声に、私は吹き出しそうになった。 昨日、入学したばかりだし、同じ学校から受験した友達もいない。 同じ偏差値なら三駅遠くても制服が可愛い学校に行きたいと、仲良しさんが軒並み別の学校へと進学したので、今はおひとりさまの私。 入学したばかりの学校なのでクラス全体がよそよそしい雰囲気だけど、親しくするきっかけを探して耳アンテナを張ってい...
「トラだ! 今年のお前はトラになるのだ!」「無理ですぅ~社長がトラになるだけで十分じゃないですか!」「安心しろ、俺は俺で虎になる!」 そう言ってネットで取り寄せたタイガーマスクのコスプレ衣装を意気揚々と掲げる社長に、直子は床に崩れ落ちガクリと膝をついた。「直子ちゃん、今年はそのどっちかでよろしく。じゃぁな」 直子の打ちひしがれた様子など、社長は全く気に留めていなかった。 衣装の入った箱を二つ渡して...
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北の砦にシエルはいた。 神器を持たない新兵に出来る事は限られている。 補給物資を受け取って采配を振るい分配をしたり、砦の外に出て負傷者を回収したりと、派手な戦闘を避ける配置についていた。 しかし最前線であることに変わりなく、魔物と遭遇することも当たり前で、剣を手放せない緊張感と共に忙しく過ごしていた。 今日は負傷者を、砦に連れ帰る役目だった。 前線で負傷して戦線離脱した者は激戦地から運び出され、...
それからも、粛々と時間は過ぎていく。 卵は卵のままだったが、徐々に大きく肥大して、その質量を増やしていた。 鶏卵サイズから拳大、拳大から子供の頭大と成長していった。 エマは卵が育つたびに綿を詰めた袋を新調し、抱えるほどに育った今は背中に背負っている。 人間の頭よりも大きく育ったことに、シエルは申し訳ないと何度も謝ったが見た目ほど重くないし、卵から生まれてくるのが成長したドラゴンでも天馬でも英雄の...
職場についてすぐ、エマは常時卵を持ち込む申請書を提出した。 他人の神器。しかも卵の持ち込みは前例がないので、許可が出るまでの審査時間が長引く可能性はあったが、エマが拍子抜けするぐらい簡単だった。 どうやら事前に、騎士団と神殿からも、申請がされていたらしい。 国教の守護神からの贈り物なので、神器が尊重されるのは知っていたけれど、異例に対しての対応が早くてエマはほっとした。 シエルの卵を預かっても、...
朝が来る。 慣れ親しんだルーティン通りに、エマは規則正しく目を覚ました。 顔を洗い、長い髪を硬く編んで頭に巻き付け、身支度を整えてから、部屋を出る。独身寮の部屋にはキッチンがないので、城の食堂で朝食をとってから仕事場である植物園へと向かう。 そのまま広い植物園の中で作業に没頭し、ちょっとした休憩時間と城の食堂での昼食が息抜きになるのが、当たり前に繰り返される。 そんな代り映えのしない毎日が延々と...
夕闇を切り裂いたのは、白色に燃える小さな星だった。 キラキラと虹色の火花を散らし、細く長い尾を引きながらその小さな星は流れ落ちる。 その光は儚く、あっという間にアルタイ山脈の山肌へと吸い込まれて消えた。 地表に届く前に燃え尽きたのか音もなく、辺りは藍へと染まっていく。 あっという間に夜闇に包まれた草原の片隅で、眼裏(まなうら)を焦がした刹那を見つめる少年がいた。 名はイルカイ。数えで8歳になる。...
葬華師(そうかし)は凝(こご)った想いを昇華する。 想いが、喜びであっても悲しみであっても、強すぎれば澱み、穢れて濁るのだ。 その澱みを祓い清め葬る者を、葬華師(そうかし)と呼ぶ。 なんのこっちゃ? と思っていたが、義兄の憔悴ぶりを目にすることで、なるほどと腑に落ちた。 姉が亡くなって一年が過ぎても、義兄は気を塞いだままで、飲み食いだけでなく睡眠もままならない状態だからだ。 これは確かに、魂が澱...
卒業の歌が流れる中、あたしは覚悟を決めた。 学生生活も今日が最後だ。 粛々と進む式典の中、二列前に座る大好きなナナの背中が、感情の昂ぶりを押さえているのかかすかに震えている。 きっと卒業の寂しさを胸に抱え、別れの切なさに揺れながらも、片想いの相手に告白するかやめるか、最後の最後で迷っているに違いない。 大丈夫だよ、ナナ。 あなたが迷うなら、あたしが導く。 あなたが怯むなら、あたしが背中を押すよ。...
オリエンテーションは、フィールドワークである。 学園の管理下にある森を走破し、数か所あるポイントを巡って印を集め、出発地点に戻ってくる。ただそれだけであるが、契約獣とペアを組んだ同級生との絆づくりが目的であった。 とはいえ、森の中には肉食の獣も居るし、少ないながらも魔物がいる。 強い個体は年に数回の教員総出の討伐で狩られ、卒業間近の生徒たちの演習でも駆逐されているので、弱い魔物が残っていても比較...
エリスは今。 人生最大の危機に陥っていた。 うやうやしく捧げ持った小箱の中から、ちょこんと顔を出した自分の契約獣を目にして、悲鳴を上げる事こそ耐えたが顔色は蒼白である。 入学式の時に配られた契約獣の卵に自分の魔力を注ぎ、二週間たった今日。 魔法の授業で齲窩(うか)の呪文を用いて、生涯の相棒になるはずの魔法生物が生まれたのだ。 授業中であるから周囲は同級生ばかりで、そこかしこに契約獣と初めて対面し...
雪って、冷たいのか暖かいのか、わかんないな。 道の脇に寄せられて、こんもりと山と積まれた真っ白い雪に身体半分埋もれながら、マリエラは空から落ちてくる粉雪を呆然と見つめていた。 マリエラは国家公務員で、伝令部に所属する市井担当の郵便配達員である。 北の街に赴任した初めての冬は、南部生まれのマリエラの想像をはるかに超えていた。 一瞬で冬が嫌いになるぞ。と配属直後にヘラヘラ笑っていた上司の顔を思い出し...
数日おきに、ディミトラはスキュロス島を訪れた。 商品になる装飾品は制作が追い付かず数はとても少なかったが、島に渡るとすぐにアネモイが現れ、攫うように神殿横の小屋へ連れ込まれた。 とはいえ、無体な事をされる訳ではない。 根掘り葉掘り繰り出されるアネモイの問いに答え、雑談をして、なぜか「女の身でも自らを護れるようになれ」と護身を教わる事になっていた。 なぜそこまでしなくてはならないのか理解できないの...
ディミトラは影の薄い娘だった。 淡い金の髪に、海の色を溶かしたような青い瞳。 整った顔立ちながら癖が少ないがゆえに、エーゲの風景に溶け込むよう馴染み、印象に残らないという、不思議な容貌をしていた。 スキュロポーラ島で物売りの父親と装飾品を作る母親。共に暮らす兄妹7人のちょうど真ん中に生まれた。 じっと耳を傾ける質で口数は少なく、我儘を言い周囲の手を煩わせることもなく、かといって冷めて距離を置くで...
花見酒だと洒落込んで、丑三つ時に家を出た。ふらりふらりと河川敷の桜並木を見上げて歩き、適当な石に腰掛ける。買い込んだカップ酒に口をつけ、ケラケラ笑っていたがふと気づく。座れるほどの、岩があっただろうか?ゾロリ、と空気が動き、影が差す。遠く、犬が吠えた。...
再会は、会社帰りの夜道だった。同棲中、家族に連れ帰られ、それきり三年。ほらみろ、訃報は嘘だったじゃないか。ずっと、会いたいと思っていたんだ。生ぬるい風の中、元気だったか?の問いに、赤い唇が弧を描く。相変わらず綺麗だ。重ねた手が、ヌチャリ、と音を立てた。...
すえた甘い臭いがする。閉ざされた扉の向こうから、熟れすぎた果実のように、甘い腐臭が。重い扉の向こうにあるのは、なにか。グジュグジュと溶け落ちた粘塊が脳裏をよぎり、手が震える。鍵を開け扉を押し開くと、密度の濃い腐臭が断末魔のように、部屋には満ちていた。...
貴方の手が好きなのだ。節くれだった指も、ゴツゴツした手のひらも、筋張った甲も…無骨なフォルムに見惚れてしまう。欲しかった貴方の手を、独り占めできる幸福。血も肉も体温もない、理想の貴方を窓辺に飾る。青空を背に、歓喜するほど美しい白が、カタカタと風に鳴いた。...
「花。夜に出歩くな。不審者情報を知らないのか?」「ごめん、家族にコンビニで買い物を頼まれたの」 本当は言い出したのは私で、ただたんに肉まんが食べたかっただけなのだけど、家族から渡された買い物メモが良い仕事をしてくれた。大神君はまるっと信じたようだ。「いや、危ないだろ。おまえの家族、危機管理が足りてないぞ。大丈夫か?」 あきれたような大神君の表情に、てへっと笑った。「私の逃げ足の速さを知ってるからね...
夕方からチラチラと散り始めた風花は、積もることなく夜闇に舞っていた。 こんな寒い夜はコタツから片時も離れたくない気持ちが強まるけど、それ以上に猛烈に肉まんが食べたくて仕方なかった。なにしろ今週は、大神君成分が足りないのだ。 初めて一緒に帰った日から、約束してもないのに一緒に学校を出て自宅まで送ってくれるようになり、慣れてきた頃合いで「気を付けて帰れよ」と教室で別れるようになった。 理由はわからな...
ぴゅうっと冷たい風が鼻先をなでた。 過ぎていく冷え切った空気は、冬の気配に満ちている。 授業が終わって、教室を出る時から、大神君は私の横にいた。 図書室で本を返し、目星をつけていた本を借りる間も、大神君は面白そうに私を見ていたから、ガラにもなく緊張してしまった。 好きな書籍のタイトルを見られるのって性癖を丸出しにしている気がして、生々しい脱衣を見られるよりも恥ずかしい気がするのは、私だけだろうか...
隣の席の大神君には、立派な獣耳がある。 少し青みがかった白銀の獣耳はふわっふわで、硬そうな黒髪の中からニョッキリ生えていて、教室に差し込む太陽に照らされるとすごく綺麗で、本当に良い獣耳だ。 触りたいな~と思うけれど挨拶以外で大神君と関わる事はないし、なにより私以外の誰にも獣耳は見えてないみたいなので、知らないふりをしている。 入学した時から獣耳が気になっていて、同じクラスになった二年生の今年は大...
花見酒だと洒落込んで、丑三つ時に家を出た。ふらりふらりと河川敷の桜並木を見上げて歩き、適当な石に腰掛ける。買い込んだカップ酒に口をつけ、ケラケラ笑っていたがふと気づく。座れるほどの、岩があっただろうか?ゾロリ、と空気が動き、影が差す。遠く、犬が吠えた。...
再会は、会社帰りの夜道だった。同棲中、家族に連れ帰られ、それきり三年。ほらみろ、訃報は嘘だったじゃないか。ずっと、会いたいと思っていたんだ。生ぬるい風の中、元気だったか?の問いに、赤い唇が弧を描く。相変わらず綺麗だ。重ねた手が、ヌチャリ、と音を立てた。...
すえた甘い臭いがする。閉ざされた扉の向こうから、熟れすぎた果実のように、甘い腐臭が。重い扉の向こうにあるのは、なにか。グジュグジュと溶け落ちた粘塊が脳裏をよぎり、手が震える。鍵を開け扉を押し開くと、密度の濃い腐臭が断末魔のように、部屋には満ちていた。...
貴方の手が好きなのだ。節くれだった指も、ゴツゴツした手のひらも、筋張った甲も…無骨なフォルムに見惚れてしまう。欲しかった貴方の手を、独り占めできる幸福。血も肉も体温もない、理想の貴方を窓辺に飾る。青空を背に、歓喜するほど美しい白が、カタカタと風に鳴いた。...
「花。夜に出歩くな。不審者情報を知らないのか?」「ごめん、家族にコンビニで買い物を頼まれたの」 本当は言い出したのは私で、ただたんに肉まんが食べたかっただけなのだけど、家族から渡された買い物メモが良い仕事をしてくれた。大神君はまるっと信じたようだ。「いや、危ないだろ。おまえの家族、危機管理が足りてないぞ。大丈夫か?」 あきれたような大神君の表情に、てへっと笑った。「私の逃げ足の速さを知ってるからね...
夕方からチラチラと散り始めた風花は、積もることなく夜闇に舞っていた。 こんな寒い夜はコタツから片時も離れたくない気持ちが強まるけど、それ以上に猛烈に肉まんが食べたくて仕方なかった。なにしろ今週は、大神君成分が足りないのだ。 初めて一緒に帰った日から、約束してもないのに一緒に学校を出て自宅まで送ってくれるようになり、慣れてきた頃合いで「気を付けて帰れよ」と教室で別れるようになった。 理由はわからな...
ぴゅうっと冷たい風が鼻先をなでた。 過ぎていく冷え切った空気は、冬の気配に満ちている。 授業が終わって、教室を出る時から、大神君は私の横にいた。 図書室で本を返し、目星をつけていた本を借りる間も、大神君は面白そうに私を見ていたから、ガラにもなく緊張してしまった。 好きな書籍のタイトルを見られるのって性癖を丸出しにしている気がして、生々しい脱衣を見られるよりも恥ずかしい気がするのは、私だけだろうか...
隣の席の大神君には、立派な獣耳がある。 少し青みがかった白銀の獣耳はふわっふわで、硬そうな黒髪の中からニョッキリ生えていて、教室に差し込む太陽に照らされるとすごく綺麗で、本当に良い獣耳だ。 触りたいな~と思うけれど挨拶以外で大神君と関わる事はないし、なにより私以外の誰にも獣耳は見えてないみたいなので、知らないふりをしている。 入学した時から獣耳が気になっていて、同じクラスになった二年生の今年は大...
山の竜とフローレンスが、その生活に徐々に慣れている間。 はじめは穏やかだった山の周辺も、徐々に騒がしさを増していました。 フローレンスは姿かたちだけでなく気質も美しかったので、とても愛されていたお姫様でしたから、取り戻そうと動く人間がたくさんいたのです。 フローレンスの国だけではなく他国の者も合わさり、多くの騎士や軍隊が山の竜の住処を目指していました。 それでも、山の竜の住処は岩山の連なる特別な...
人には人の王がいるように、山や海や空にもそれぞれを統べる竜が居ました。 竜からしてみれば、王のように君臨するつもりも支配する気はありませんでしたが、竜は悠久ともいえる長い時を生きるうえに、力も強く神秘の力を持っているので、いつの間にか統べる者として認識されていたのです。 生物として突出した存在であるがゆえに、小さな他種族から頼られることが多く、些細なことから少し手のかかる事まで願われました。 そ...
「あっぶねぇー!」 ドン! と背中を押されて吹っ飛んだ瞬間。 隣から伸びてきた見知らぬ腕に、腰を巻かれた。 掃除当番でゴミ箱を抱えて階段を下りていた途中だったので、その腕が止めてくれなかったら、私は階段数十段分の高さを空中ダイブしていたに違いない。 ありえないほどの腹部圧迫で「ぐえっ」と思わず変な声が出るぐらい勢いがついていたけど、危機一髪で階段落ちから助けてくれた人の腕は力強くて、私の体重にも揺...
恋は人を愚か者に変えるらしい。 ならば感情で動く今の私は、激しい恋に落ちている。 金の靴を残して消えた、金の髪と青い瞳の美しい乙女に恋をした。 彼女は魔物を倒し囚われた私を開放すると、あっという間に姿を消してしまった。 あの日からずっと。 月の輝く星のない夜に現れ、金の靴を残した不思議な彼女を、ただひたすら追い求めている。 どこから来て、どこに消えたのか。 彼女の全てが謎めいていた。 華麗に戦っ...
白雪姫は目を覚ます。 山頂のゴツゴツした岩場に置かれた、寒々しいガラスの棺の中。 二度、三度と緩やかにまばたいて、透明な蓋に細い指先を当ててそっと押し上げた。 華奢な体を起こし、ふと、目覚める直前に喉の奥から転げ出た毒林檎の欠片に気付いて、ポイと遠くへと投げ捨てる。 冷たい冬の空気を大きく吸って、吐いて、棺の中に座ったまま、そっと視線を傍らへと投げた。「姫様、首尾はいかほどに?」 ひっそりと控え...
オオカミを割腹すると宇宙だった。 丸々と大きく膨らんだ腹を裂いた切れ目のその奥に、どこまでも果てのない暗闇の深淵を彩りながら、赤や青に煌めく星に似た輝きが幾つも煌めいていたのだ。 「これはいったい、どういうことだ?」 茫然とした顔でつぶやいたのは、ナイフを手にした狩人である。 人食いオオカミが近隣の村や森に出ると聞いて、警戒がてら様子を見て回っていた気の良い青年だった。 森の中にある老婆の家を訪...
彼の名前はクレヒト・ループレヒト。 数年前から頻繁に研究のため地上と月を行き来し、とうとう地球に移住してきた祖父のお気に入り。 祖父が亡くなる一か月ほど前に研究のため同居を始めたが、今はシュエの保護者でもある。 血縁はないが祖父の養子になったので、書類上の叔父になる。 地球に永住を決めた者同士ではよくある事だが、甘えるには他人である。 大地が恋しくなるには、ある程度は歳を重ねた者か幼少期に地上を...
北限に立ち、夜明けを見る。 ただそのためだけに、ザクザクと雪を踏みしめて、シュエは岬の岩場を目指していた。 先月、祖母の後を追うように、祖父も亡くなった。 すべての手続きを終えて地球で生きると決めて、なんとなく夜明けを見たくなったのだ。 北限は吹雪く日も多く、思い立ってもなかなかその機会は訪れなかった。 久しぶりの晴れの訪れは唐突で、雪どころか風もなくシンと恐ろしいほどに静かだ。 北限に近い土地...
空は快晴。 天高く晴れた空は底抜けに青く、雲一つなかった。 足を踏み入れた山はすっかり秋の顔をしていて、鮮やかな紅が目にまぶしい。 背負ったリュックはさほど重くないけれど、小一時間も歩けば息が上がってくる。 少しひんやりした秋の風は、火照ってくる身体にちょうど良かった。 ミッチリと密集した雑木もすっかり秋の色で、色鮮やかな美しい風景も、先の見えない獣道寸前の山道は不安をあおる。 登山というには軽...
天国と地獄は、いつだって隣りあわせだ。 文化祭で販売する焼き芋機の試運転で出来上がった焼き芋の試食は、準備する生徒の特権でもあるのだけれど、焼き立ての芋を手にしたまま晶くんを見つめる数人の喉がゴクリと鳴った。 ふんわり色付いた晶くんの頬のほうが焼き芋より美味しそうだ、なんて、いけない事を先輩たちも声に出さず思っていそうな眼差しになっている。 同じ一年で、同時に入部している、希少女子の私と話すより...