chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
フォロー
住所
北区
出身
北区
ブログ村参加

2012/08/07

arrow_drop_down
  • 資本主義の成立・後編 その3

    生糸輸出の増加は農村にも大きな変化をもたらし、生糸と関わりの深い桑(くわ)の栽培や養蚕が盛んとなりましたが、その一方で、安価な輸入品におされて綿(めん)や麻・菜種(なたね)などの生産は衰えました。また、松方財政によるデフレの影響で全農地における小作地率が増加していましたが、この傾向はこの後も続き、結果として大地主自身が農業を経営せずに小作人からの現物による小作料収入に依存(いそん)するという寄生地...

  • 資本主義の成立・後編 その2

    綿糸や綿織物の輸出が増加した我が国でしたが、原料の綿花や紡績機を全面的に輸入に頼っていたために、綿関係品全体としては輸入超過の拡大が続いていました。このこともあり、国産の繭(まゆ)を原料とした生糸を輸出することで多くの外貨を得ることができる製糸業が果たすべき役割は重要でした。農村による養蚕(ようさん)を基礎とする製糸業は、幕末の頃は簡単な手動装置の座繰(ざぐり)製糸が中心でしたが、輸出の激増によっ...

  • 資本主義の成立・後編 その1

    我が国の産業革命を支えたのは、綿糸を生産する紡績業でした。綿織物業は幕末の開国によって外国の安価な製品が輸入されたことで一時は衰退していましたが、輸入綿糸を用いた農村の問屋制家内工業で飛び杼(ひ)を導入して手織機(ておりばた)を改良したことで、次第に生産力が回復しました。綿織物業の業績回復は原料糸を供給する紡績業にも大きな発展をもたらし、明治16(1883)年に渋沢栄一(しぶさわえいいち)らが大阪紡績会...

  • 資本主義の成立・前編 その4

    四方を海で囲まれた我が国では、海洋国家を目指して大型の鉄鋼船を建造することが最重要の課題でした。このため、政府は明治29(1896)年に航海奨励(しょうれい)法や造船奨励法を公布し、鉄鋼船の建造や外国航路への就航に奨励金を交付することにしました。こうした海運業奨励政策によって、我が国では遠洋航路の開設が次々と行われましたが、なかでも日本郵船会社は明治26(1893)年にインドのボンベイ(現在のムンバイ)航路を...

  • 資本主義の成立・前編 その3

    日清戦争から三国干渉へと続いた歴史の流れは、我が国をしてロシアの圧力への対抗として軍事力を拡大せしめる結果となりましたが、軍事予算を確保しようと思えば、それだけ租税を多く徴収しなければいけません。しかしながら国民の負担にも限度がありますし、無い袖(そで)は振りようもありません。このため、政府は租税負担に耐えられるだけの経済力の育成にも力を入れることになりました。こうした政府の方針もあって、鉄道や紡...

  • 資本主義の成立・前編 その2

    会社設立のブームは株式への多くの払い込みをもたらしましたが、折からの米の凶作もあって資金の需要が巨額となり、各金融機関の資金が不足がちとなったところへ、景気の過熱に不安を持った日本銀行が金利を引き上げたことで株式が急激に下落してしまったことにより、明治23(1890)年には我が国最初の恐慌が発生してしまいました。その後に米の豊作や銀の価格の下落による生糸(きいと)などの輸出の回復などもあって不況を脱した...

  • 資本主義の成立・前編 その1

    西南戦争などを起因とした我が国の財政危機を立て直すために政府が「松方財政」を断行したことによって、全国でデフレや不況を引き起こしたり、あるいは自由民権運動が崩壊の危機を迎える遠因となったりしましたが、明治19(1886)年頃から好況へと転じ始めました。好況の背景には欧米列強の好景気がありました。松方財政によって我が国は銀本位制を確立させましたが、その銀の価格が下落したことで列強が日本の商品を求めやすくな...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・後編 その5

    さて、遼東(りょうとう)半島の旅順(りょじゅん)や大連(だいれん)の租借権をロシアから得たことによって、我が国は満洲の権益を持つことになりました。明治39(1906)年には関東都督府(かんとうととくふ)が旅順に置かれ、半官半民の南満洲鉄道株式会社(=満鉄)が大連に設立されました。満鉄は旧東清(とうしん)鉄道や鉄道沿線の鉱山や炭坑(たんこう)を経営して開発を行いました。なお、この場合の関東とは「旅順・大連...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・後編 その4

    日韓併合における重い負担は内政面も同様でした。日本政府は朝鮮半島内の生活水準を本国並みに引き上げることを目標としましたが、併合当時これといった産業が見当たらなかった朝鮮半島において、工業を興(おこ)してインフラを整備することは途方(とほう)もない大事業でした。結局、我が国は朝鮮に対して保護国の頃に当時の費用で1億円(現在の価値で約3兆円)を支援したのみならず、併合時代の35年間においても約20億円(現在...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・後編 その3

    さて、我が国は韓国を保護国にするという当初の思惑とは全く異なり、結果的に併合することになってしまいましたが、このことが軍事面や内政面などにおいて我が国の大きな負担となりました。なぜなら、日韓併合によって韓国は日本の領土となりましたから、朝鮮半島の安全保障も当然のように本国並みの基準に引き上げなければならないからです。日露戦争の勝利によってロシアは確かに朝鮮から手を引きましたが、だからと言って朝鮮半...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・後編 その2

    朝鮮が我が国に併合されたことで、日本政府は朝鮮内の衛生の改善や植林事業などを行いました。また、併合前から始めていた土地制度の近代化を目的とした土地調査事業も本格的に行い、土地の一部が東洋拓殖(たくしょく)会社に払い下げられるなどによって、大正7(1918)年までに完了しました。この他、明治45(1912)年には土地調査令を公布して、地税の公平な賦課(ふか、租税などを割り当てて負担させること)を実現するととも...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・後編 その1

    安重根による伊藤博文の暗殺という大事件は、我が国の世論を激怒させたのみならず、韓国を震撼(しんかん)させました。日本による報復行為を恐れた韓国政府や国民の反応は、韓国内の最大の政治結社であった一進会(いっしんかい)が日韓合併の声明書を出したこともあって、次第に併合へと傾くようになりました。しかし、我が国は併合に対してあくまで慎重でした。日韓併合(=韓国併合)が国際関係にどのような影響をもたらすのか...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・前編 その6

    明治42(1909)年10月26日、伊藤博文はロシアの外務大臣と会う目的で訪れた満洲のハルビン駅で、韓国人の民族運動家であった安重根(あんじゅうこん)にピストルで撃たれて殺されました。熱心な愛国家であったとされる安重根からしてみれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤の罪は重く、また伊藤こそが韓国を併合しようとしている首謀者だと考えたのかもしれません。しかし、伊藤が韓国人によって殺されるということは、現実...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・前編 その5

    ハーグ密使事件を受けて韓国への感情が悪化した我が国では、保護国ではなく韓国を日本の領土として併合するべきだという意見が強くなりましたが、そんな情勢に身体を張って反対したのが初代統監の伊藤博文でした。伊藤としては、韓国の独立国としてのプライドを守るために、近代的な政権が誕生するまでは外交権と軍事権のみを預かり、その後に主権を回復させる考えだったのです。教育者であるとともに植民地政策に明るかった新渡戸...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・前編 その4

    こうして韓国は我が国の保護国となりましたが、これは韓国皇帝の高宗(こうそう)にとっては屈辱的なことでした。このため、高宗は自身も認めた国際的な条約であったにもかかわらず、自国の外交権回復を実現するために、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送って第二次日韓協約の無効を訴えました。これを「ハーグ密使事件」といいます。しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違法...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・前編 その3

    日露戦争の勝利によって朝鮮半島からロシアが手を引いたことで、我が国はようやくロシアの南下政策を食い止めるとともに韓国の独立を保つことができました。しかしながら、清国(しんこく)からロシアへと事大主義に走る韓国をそのままの状態にしておけば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅(おびや)かされるか分かったものではありません。そこで、我が国は韓国の独立を保ちながら軍...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・前編 その2

    列強による中国分割に出遅れたアメリカは「門戸(もんこ)開放・機会均等」を唱えるとともに満洲の権益を求め、我が国がポーツマス条約で得た長春(ちょうしゅん)以南のいわゆる南満洲鉄道(=満鉄)に対して、アメリカの鉄道王のハリマンが明治38(1905)年に共同経営を呼びかけました。ハリマンの申し出に対し、アメリカとの関係を重視した元老の井上馨(いのうえかおる)や伊藤博文あるいは首相の桂太郎らが賛同しましたが、外...

  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合・前編 その1

    日露戦争での勝利は、結果として我が国の国際的地位を高めることにつながりましたが、それを裏づけるかのように明治38(1905)年にアメリカとの間で桂・タフト協定が結ばれ、アメリカのフィリピンにおける指導権と日本の韓国における指導権とをそれぞれ承認しました。また、同じ明治38(1905)年には日英同盟が改定され、イギリスのインドに対する支配権と引き換えに我が国の韓国への指導権をイギリスが承認しました。この他、ロシ...

  • 日清・日露戦争後の国内情勢 その6

    また明治42(1909)年には内務省(ないむしょう)の主導で地方改良運動を始め、行政単位としての町村を中心に地方産業の振興を積極的に進めたほか、租税負担力の増加をはかるなど財政基盤(きばん)の立て直しを目指しました。なお、この運動と関連して地方の青年団が組織されたほか、明治43(1910)年には退役軍人の全国的な集まりとなる帝国在郷軍人会が誕生しています。この他、桂は明治43(1910)年に起きた大逆(たいぎゃく)...

  • 日清・日露戦争後の国内情勢 その5

    明治34(1901)年に成立した第一次桂太郎内閣は、日英同盟の成立から日露戦争の終結まで長いあいだ政権を維持し続けましたが、日比谷焼打ち事件の影響で明治38(1905)年末に退陣しました。後を受けて翌明治39(1906)年に成立した第一次西園寺公望内閣は立憲政友会を与党として、鉄道や港湾の拡充(かくじゅう)を積極的に行うとともに、軍事的あるいは経済的な理由から鉄道国有法を成立させました(詳しくは後述します)。しかし...

  • 日清・日露戦争後の国内情勢 その4

    さて、第二次山県内閣による様々な政策が与党であった憲政党の反発を招いたのを見た伊藤博文は、党利党略といった私益に走るのではなく、国益を重んじる政党を組織して、それまでの藩閥(はんばつ)政治の行政力と政党の立法力とを調和した新たな政権を確立する考えを持ちました。伊藤の考えに応じた憲政党は、明治33(1900)年に結成された「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」に合流するかたちで解党し、初代総裁となった伊藤...

  • 日清・日露戦争後の国内情勢 その3

    第一次大隈内閣の後に成立したのは、第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣でした。第二次山県内閣は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)とに分裂した政党のうち憲政党を与党とし、懸案だった地租の税率を2.5%から3.3%に引き上げる地租増徴案を成立させるとともに、衆議院総選挙の選挙資格を直接国税15円以上から10円以上に引き下げました。前任の隈板内閣が短期間で崩壊(ほうかい)した現実を見た第二次山県内閣は...

  • 日清・日露戦争後の国内情勢 その2

    第二次松方内閣の後を受けて明治31(1898)年に成立した第三次伊藤博文内閣は再び超然主義に戻り、財源確保のために地租(ちそ)の税率を上げるなどの増税案を議会に提出しましたが、これに反対した自由党と進歩党は合同して「憲政党(けんせいとう)」を結成し、衆議院で絶対多数を得る巨大政党が誕生しました。議会運営の見通しが立たなくなった第三次伊藤内閣は退陣に追い込まれ、我が国最初の政党内閣である第一次大隈重信内閣...

  • 日清・日露戦争後の国内情勢 その1

    ※今回より「第105回歴史講座」の内容を更新します(来年1月6日までの予定)。さて、明治27(1894)年から明治28(1895)年にかけて行われた日清戦争当時の我が国では、第二次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣が政治を行っていました。戦争という非常事態を受けて政府と政党は政争を中止し、全会一致で協力体制を整えましたが、こうした姿勢は日清戦争後も続けられました。なぜなら、日清戦争の勝利で得た巨額の賠償金に基づく軍事力...

  • 縄文文化 その12

    ※「弥生時代以前」の更新は今回で中断します。明日(12月8日)からは「第105回歴史講座」の内容を更新します(来年1月6日までの予定)。北海道函館市の豊原(とよはら)4遺跡の約6500年前の縄文時代の土坑墓(どこうぼ)から、幼児または子供の足形・手形を押し当ててつくられた「足形・手形付土製品(どせいひん)」が発掘されました。なお、青森県青森市の大石平(おおいしたい)遺跡からも同じような土製品が発掘されています。...

  • 縄文文化 その11

    ところで、我が国で水稲耕作が始まったのは弥生時代の頃とされてきましたが、近年の進化した調査によって、少なくとも縄文時代の晩期にはイネの栽培が行われていたことが明らかになっています。平成11(1999)年、岡山県岡山市北区の朝寝鼻(あさねばな)貝塚の土壌(どじょう)から発見された栽培種のイネの細胞化石が、いわゆる「プラントオパール分析法」によって今から約6000年前のものであることが分かりました。その後も30か...

  • 縄文文化 その10

    縄文時代の遺跡から出土する人骨を調べてみると、多くの儀式や儀礼が行われたと思われる形跡が見られます。例えば、縄文時代後期から晩期にかけて盛んになった抜歯(ばっし)の風習は、成人期における集団の通過儀礼として行われたと考えられています。また、死者の多くが手足を折り曲げて埋葬(まいそう)する方式で屈葬(くっそう)されており、これは死者の霊が生存者に災いを及ぼすことを防ぐためと思われます。なお、縄文時代...

  • 縄文文化 その9

    ところで、先述したとおり縄文土器が世界最古クラスであることから、縄文文化そのものが世界最先端の技術を誇っていたことになります。こうした事実が明らかになったのは、放射性炭素年代法などといった最近の技術研究の進化がもたらしたものでもありました。要するに、我が国は縄文時代の頃から独自の文明の源泉があったことが明らかになったのです。そして、そんな縄文時代の頃から、我が国独自の慣習がありました。日本列島は伝...

  • 縄文文化 その8

    さらに平成6(1994)年には、直径約1mのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡も見つかりました。遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど様々な新発見がありました。三内丸山遺跡の発掘調査の結果、縄文時代の人々は海や森からの自然の恵みを巧(たく)みに...

  • 縄文文化 その7

    つまり、私が受験生の頃は、縄文時代と言えば「自然環境に左右された貧しくて不安定な生活」であったのが、現在の教科書では「自主的な栽培(さいばい)も行われた豊かで安定した生活」と大幅に記述が変化しているのです。なぜここまで教科書の記述が変わったのでしょうか。その背景には遺跡の発掘調査による新たな発見がありました。青森県青森市の南西の大地に位置する三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、今から約5500年前~40...

  • 縄文文化 その6

    ところで、これまで述べたように縄文時代は「豊かで安定した定住的な生活」とされ、歴史教科書にもそのように書かれていますが、私(黒田裕樹)が高校時代に日本史を勉強した昭和60(1985)年頃の縄文文化の記述が現在とは大きく異なっていたことを皆さんはご存知でしょうか。私が高校生の頃、縄文時代の文化は以下のように記述されていました。「当時の人々は、弓矢や石槍・落とし穴などを用いて動物を捕えた。また、水辺では貝を...

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?

ハンドル名
黒田裕樹さん
ブログタイトル
黒田裕樹の歴史講座
フォロー
黒田裕樹の歴史講座

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用