1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
生糸輸出の増加は農村にも大きな変化をもたらし、生糸と関わりの深い桑(くわ)の栽培や養蚕が盛んとなりましたが、その一方で、安価な輸入品におされて綿(めん)や麻・菜種(なたね)などの生産は衰えました。また、松方財政によるデフレの影響で全農地における小作地率が増加していましたが、この傾向はこの後も続き、結果として大地主自身が農業を経営せずに小作人からの現物による小作料収入に依存(いそん)するという寄生地...
綿糸や綿織物の輸出が増加した我が国でしたが、原料の綿花や紡績機を全面的に輸入に頼っていたために、綿関係品全体としては輸入超過の拡大が続いていました。このこともあり、国産の繭(まゆ)を原料とした生糸を輸出することで多くの外貨を得ることができる製糸業が果たすべき役割は重要でした。農村による養蚕(ようさん)を基礎とする製糸業は、幕末の頃は簡単な手動装置の座繰(ざぐり)製糸が中心でしたが、輸出の激増によっ...
我が国の産業革命を支えたのは、綿糸を生産する紡績業でした。綿織物業は幕末の開国によって外国の安価な製品が輸入されたことで一時は衰退していましたが、輸入綿糸を用いた農村の問屋制家内工業で飛び杼(ひ)を導入して手織機(ておりばた)を改良したことで、次第に生産力が回復しました。綿織物業の業績回復は原料糸を供給する紡績業にも大きな発展をもたらし、明治16(1883)年に渋沢栄一(しぶさわえいいち)らが大阪紡績会...
四方を海で囲まれた我が国では、海洋国家を目指して大型の鉄鋼船を建造することが最重要の課題でした。このため、政府は明治29(1896)年に航海奨励(しょうれい)法や造船奨励法を公布し、鉄鋼船の建造や外国航路への就航に奨励金を交付することにしました。こうした海運業奨励政策によって、我が国では遠洋航路の開設が次々と行われましたが、なかでも日本郵船会社は明治26(1893)年にインドのボンベイ(現在のムンバイ)航路を...
日清戦争から三国干渉へと続いた歴史の流れは、我が国をしてロシアの圧力への対抗として軍事力を拡大せしめる結果となりましたが、軍事予算を確保しようと思えば、それだけ租税を多く徴収しなければいけません。しかしながら国民の負担にも限度がありますし、無い袖(そで)は振りようもありません。このため、政府は租税負担に耐えられるだけの経済力の育成にも力を入れることになりました。こうした政府の方針もあって、鉄道や紡...
会社設立のブームは株式への多くの払い込みをもたらしましたが、折からの米の凶作もあって資金の需要が巨額となり、各金融機関の資金が不足がちとなったところへ、景気の過熱に不安を持った日本銀行が金利を引き上げたことで株式が急激に下落してしまったことにより、明治23(1890)年には我が国最初の恐慌が発生してしまいました。その後に米の豊作や銀の価格の下落による生糸(きいと)などの輸出の回復などもあって不況を脱した...
西南戦争などを起因とした我が国の財政危機を立て直すために政府が「松方財政」を断行したことによって、全国でデフレや不況を引き起こしたり、あるいは自由民権運動が崩壊の危機を迎える遠因となったりしましたが、明治19(1886)年頃から好況へと転じ始めました。好況の背景には欧米列強の好景気がありました。松方財政によって我が国は銀本位制を確立させましたが、その銀の価格が下落したことで列強が日本の商品を求めやすくな...
さて、遼東(りょうとう)半島の旅順(りょじゅん)や大連(だいれん)の租借権をロシアから得たことによって、我が国は満洲の権益を持つことになりました。明治39(1906)年には関東都督府(かんとうととくふ)が旅順に置かれ、半官半民の南満洲鉄道株式会社(=満鉄)が大連に設立されました。満鉄は旧東清(とうしん)鉄道や鉄道沿線の鉱山や炭坑(たんこう)を経営して開発を行いました。なお、この場合の関東とは「旅順・大連...
日韓併合における重い負担は内政面も同様でした。日本政府は朝鮮半島内の生活水準を本国並みに引き上げることを目標としましたが、併合当時これといった産業が見当たらなかった朝鮮半島において、工業を興(おこ)してインフラを整備することは途方(とほう)もない大事業でした。結局、我が国は朝鮮に対して保護国の頃に当時の費用で1億円(現在の価値で約3兆円)を支援したのみならず、併合時代の35年間においても約20億円(現在...
さて、我が国は韓国を保護国にするという当初の思惑とは全く異なり、結果的に併合することになってしまいましたが、このことが軍事面や内政面などにおいて我が国の大きな負担となりました。なぜなら、日韓併合によって韓国は日本の領土となりましたから、朝鮮半島の安全保障も当然のように本国並みの基準に引き上げなければならないからです。日露戦争の勝利によってロシアは確かに朝鮮から手を引きましたが、だからと言って朝鮮半...
朝鮮が我が国に併合されたことで、日本政府は朝鮮内の衛生の改善や植林事業などを行いました。また、併合前から始めていた土地制度の近代化を目的とした土地調査事業も本格的に行い、土地の一部が東洋拓殖(たくしょく)会社に払い下げられるなどによって、大正7(1918)年までに完了しました。この他、明治45(1912)年には土地調査令を公布して、地税の公平な賦課(ふか、租税などを割り当てて負担させること)を実現するととも...
安重根による伊藤博文の暗殺という大事件は、我が国の世論を激怒させたのみならず、韓国を震撼(しんかん)させました。日本による報復行為を恐れた韓国政府や国民の反応は、韓国内の最大の政治結社であった一進会(いっしんかい)が日韓合併の声明書を出したこともあって、次第に併合へと傾くようになりました。しかし、我が国は併合に対してあくまで慎重でした。日韓併合(=韓国併合)が国際関係にどのような影響をもたらすのか...
明治42(1909)年10月26日、伊藤博文はロシアの外務大臣と会う目的で訪れた満洲のハルビン駅で、韓国人の民族運動家であった安重根(あんじゅうこん)にピストルで撃たれて殺されました。熱心な愛国家であったとされる安重根からしてみれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤の罪は重く、また伊藤こそが韓国を併合しようとしている首謀者だと考えたのかもしれません。しかし、伊藤が韓国人によって殺されるということは、現実...
ハーグ密使事件を受けて韓国への感情が悪化した我が国では、保護国ではなく韓国を日本の領土として併合するべきだという意見が強くなりましたが、そんな情勢に身体を張って反対したのが初代統監の伊藤博文でした。伊藤としては、韓国の独立国としてのプライドを守るために、近代的な政権が誕生するまでは外交権と軍事権のみを預かり、その後に主権を回復させる考えだったのです。教育者であるとともに植民地政策に明るかった新渡戸...
こうして韓国は我が国の保護国となりましたが、これは韓国皇帝の高宗(こうそう)にとっては屈辱的なことでした。このため、高宗は自身も認めた国際的な条約であったにもかかわらず、自国の外交権回復を実現するために、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送って第二次日韓協約の無効を訴えました。これを「ハーグ密使事件」といいます。しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違法...
日露戦争の勝利によって朝鮮半島からロシアが手を引いたことで、我が国はようやくロシアの南下政策を食い止めるとともに韓国の独立を保つことができました。しかしながら、清国(しんこく)からロシアへと事大主義に走る韓国をそのままの状態にしておけば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅(おびや)かされるか分かったものではありません。そこで、我が国は韓国の独立を保ちながら軍...
列強による中国分割に出遅れたアメリカは「門戸(もんこ)開放・機会均等」を唱えるとともに満洲の権益を求め、我が国がポーツマス条約で得た長春(ちょうしゅん)以南のいわゆる南満洲鉄道(=満鉄)に対して、アメリカの鉄道王のハリマンが明治38(1905)年に共同経営を呼びかけました。ハリマンの申し出に対し、アメリカとの関係を重視した元老の井上馨(いのうえかおる)や伊藤博文あるいは首相の桂太郎らが賛同しましたが、外...
日露戦争での勝利は、結果として我が国の国際的地位を高めることにつながりましたが、それを裏づけるかのように明治38(1905)年にアメリカとの間で桂・タフト協定が結ばれ、アメリカのフィリピンにおける指導権と日本の韓国における指導権とをそれぞれ承認しました。また、同じ明治38(1905)年には日英同盟が改定され、イギリスのインドに対する支配権と引き換えに我が国の韓国への指導権をイギリスが承認しました。この他、ロシ...
また明治42(1909)年には内務省(ないむしょう)の主導で地方改良運動を始め、行政単位としての町村を中心に地方産業の振興を積極的に進めたほか、租税負担力の増加をはかるなど財政基盤(きばん)の立て直しを目指しました。なお、この運動と関連して地方の青年団が組織されたほか、明治43(1910)年には退役軍人の全国的な集まりとなる帝国在郷軍人会が誕生しています。この他、桂は明治43(1910)年に起きた大逆(たいぎゃく)...
明治34(1901)年に成立した第一次桂太郎内閣は、日英同盟の成立から日露戦争の終結まで長いあいだ政権を維持し続けましたが、日比谷焼打ち事件の影響で明治38(1905)年末に退陣しました。後を受けて翌明治39(1906)年に成立した第一次西園寺公望内閣は立憲政友会を与党として、鉄道や港湾の拡充(かくじゅう)を積極的に行うとともに、軍事的あるいは経済的な理由から鉄道国有法を成立させました(詳しくは後述します)。しかし...
さて、第二次山県内閣による様々な政策が与党であった憲政党の反発を招いたのを見た伊藤博文は、党利党略といった私益に走るのではなく、国益を重んじる政党を組織して、それまでの藩閥(はんばつ)政治の行政力と政党の立法力とを調和した新たな政権を確立する考えを持ちました。伊藤の考えに応じた憲政党は、明治33(1900)年に結成された「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」に合流するかたちで解党し、初代総裁となった伊藤...
第一次大隈内閣の後に成立したのは、第二次山県有朋(やまがたありとも)内閣でした。第二次山県内閣は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)とに分裂した政党のうち憲政党を与党とし、懸案だった地租の税率を2.5%から3.3%に引き上げる地租増徴案を成立させるとともに、衆議院総選挙の選挙資格を直接国税15円以上から10円以上に引き下げました。前任の隈板内閣が短期間で崩壊(ほうかい)した現実を見た第二次山県内閣は...
第二次松方内閣の後を受けて明治31(1898)年に成立した第三次伊藤博文内閣は再び超然主義に戻り、財源確保のために地租(ちそ)の税率を上げるなどの増税案を議会に提出しましたが、これに反対した自由党と進歩党は合同して「憲政党(けんせいとう)」を結成し、衆議院で絶対多数を得る巨大政党が誕生しました。議会運営の見通しが立たなくなった第三次伊藤内閣は退陣に追い込まれ、我が国最初の政党内閣である第一次大隈重信内閣...
※今回より「第105回歴史講座」の内容を更新します(来年1月6日までの予定)。さて、明治27(1894)年から明治28(1895)年にかけて行われた日清戦争当時の我が国では、第二次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣が政治を行っていました。戦争という非常事態を受けて政府と政党は政争を中止し、全会一致で協力体制を整えましたが、こうした姿勢は日清戦争後も続けられました。なぜなら、日清戦争の勝利で得た巨額の賠償金に基づく軍事力...
※「弥生時代以前」の更新は今回で中断します。明日(12月8日)からは「第105回歴史講座」の内容を更新します(来年1月6日までの予定)。北海道函館市の豊原(とよはら)4遺跡の約6500年前の縄文時代の土坑墓(どこうぼ)から、幼児または子供の足形・手形を押し当ててつくられた「足形・手形付土製品(どせいひん)」が発掘されました。なお、青森県青森市の大石平(おおいしたい)遺跡からも同じような土製品が発掘されています。...
ところで、我が国で水稲耕作が始まったのは弥生時代の頃とされてきましたが、近年の進化した調査によって、少なくとも縄文時代の晩期にはイネの栽培が行われていたことが明らかになっています。平成11(1999)年、岡山県岡山市北区の朝寝鼻(あさねばな)貝塚の土壌(どじょう)から発見された栽培種のイネの細胞化石が、いわゆる「プラントオパール分析法」によって今から約6000年前のものであることが分かりました。その後も30か...
縄文時代の遺跡から出土する人骨を調べてみると、多くの儀式や儀礼が行われたと思われる形跡が見られます。例えば、縄文時代後期から晩期にかけて盛んになった抜歯(ばっし)の風習は、成人期における集団の通過儀礼として行われたと考えられています。また、死者の多くが手足を折り曲げて埋葬(まいそう)する方式で屈葬(くっそう)されており、これは死者の霊が生存者に災いを及ぼすことを防ぐためと思われます。なお、縄文時代...
ところで、先述したとおり縄文土器が世界最古クラスであることから、縄文文化そのものが世界最先端の技術を誇っていたことになります。こうした事実が明らかになったのは、放射性炭素年代法などといった最近の技術研究の進化がもたらしたものでもありました。要するに、我が国は縄文時代の頃から独自の文明の源泉があったことが明らかになったのです。そして、そんな縄文時代の頃から、我が国独自の慣習がありました。日本列島は伝...
さらに平成6(1994)年には、直径約1mのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱(ほったてばしら)建物跡も見つかりました。遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど様々な新発見がありました。三内丸山遺跡の発掘調査の結果、縄文時代の人々は海や森からの自然の恵みを巧(たく)みに...
つまり、私が受験生の頃は、縄文時代と言えば「自然環境に左右された貧しくて不安定な生活」であったのが、現在の教科書では「自主的な栽培(さいばい)も行われた豊かで安定した生活」と大幅に記述が変化しているのです。なぜここまで教科書の記述が変わったのでしょうか。その背景には遺跡の発掘調査による新たな発見がありました。青森県青森市の南西の大地に位置する三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、今から約5500年前~40...
ところで、これまで述べたように縄文時代は「豊かで安定した定住的な生活」とされ、歴史教科書にもそのように書かれていますが、私(黒田裕樹)が高校時代に日本史を勉強した昭和60(1985)年頃の縄文文化の記述が現在とは大きく異なっていたことを皆さんはご存知でしょうか。私が高校生の頃、縄文時代の文化は以下のように記述されていました。「当時の人々は、弓矢や石槍・落とし穴などを用いて動物を捕えた。また、水辺では貝を...
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1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...
ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...
大東亜戦争以前より我が国にとって最大の脅威となっていたソ連が消滅したことで、我が国の保守系の識者の多くは「これで我が国の思想や言論の流れが変わるだろう」と安堵(あんど)しました。しかし、そんな保守系の「油断」の隙を突くかたちで、左翼系の「進歩的文化人」と呼ばれた人々が自らの思想を満足させるために、ソ連解体以前から続けていた「日本の歴史から中国や韓国の好みそうな問題を取り上げ、両国に『御注進』する」...