ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
経済のグローバル化が加速する流れのなかで、我が国の金融市場も自由化に向けた変革を余儀なくされるようになりました。平成8(1996)年、当時の橋本龍太郎内閣は国内金融機関の国際競争力の向上を目指して、金融制度の規制を可能な限り緩和した「金融ビッグバン」の構想を打ち出しました。金融ビッグバンによって、外国為替取引の自由化や金融持株会社設立の解禁、株式委託手数料の完全自由化、銀行窓口での保険販売全面解禁など...
バブル経済の崩壊によって企業の経営が悪化したことから、1980年代までは「理想的な経営方法」ともてはやされてきた、終身雇用制や年功序列型といった日本型経営が見直されるようになりました。また、日本国内における様々な規制や、人件費などのコスト高が不況時の大きな負担となっていた企業の中から、生産拠点を海外へ移転させる動きがこの頃から目立つようになりました。これを「多国籍企業化」といいます。我が国で多国籍企業...
バブル崩壊後に発生した平成不況によって、中小企業の多くが倒産の憂き目にあったほか、生き残った企業でも、その多くが事業の整理や人員削減といった経営の効率化(=リストラ)を図ったことによって、大量の失業者が発生しました。失業者の増加は必然的に雇用不安をもたらしたことで、多くの国民が少しでも安価な商品を求めたり、あるいは買い控えをしたりするなどして消費が落ち込み、そのことがさらなる需要の縮小を呼び込んだ...
【ハイブリッド方式】第103回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年7月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第103回黒田裕樹の歴史講座...
平成2(1990)年からその兆候(ちょうこう)を見せていたバブル経済の崩壊は、翌平成3(1991)年に入るとより厳しい状況となりました。バブル経済の頃に積極的に投機に走った企業や個人が所有した株や土地などは、価格が軒並み低下したことで、その資産価値が大幅に下落したばかりか、その大半が返済不能な不良債権と化してしまいました。不良債権の増加は、バブル期に多額の資金を提供し続けた銀行にも大きな打撃となりました。多...
バブル経済の崩壊の直接の引き金となったのは、先述した大蔵省が各金融機関に通達した不動産の総量規制ですが、具体的には「不動産会社に対する融資を銀行に禁止する」通達のことでした。実は、この「通達」こそが最大の問題でした。なぜなら、例えば法律であれば議会によってその正当性などが論議されるとともに、時間をかけて審議できるからです。ところが、大蔵省という一機関からの通達であったがゆえに、まさに抜き打ちで決定...
平成元(1989)年12月に日本銀行の総裁となった三重野康(みえのやすし)氏は、就任当初から矢継ぎ早に金融引き締め政策を実施し、バブル景気に歯止めをかけようとしました。そんな折の翌平成2(1990)年3月に、大蔵省(現在の財務省)から各金融機関に対して不動産取引の総量規制を中心とした行政指導を行ったことで、約39,000円近くまで上昇していた日経平均株価が一気に下降し始めました。平均株価の大暴落は我が国の経済に大き...
大東亜戦争以前、我が国では軍人や官僚を中心に、いわゆる「国家社会主義思想」が蔓延(まんえん)していました。当時は相次ぐ恐慌(きょうこう)によって資本主義経済の限界がささやかれていた一方で、建国されたばかりのソ連が輝きを見せていたことが、我が国における「天皇を中心とした社会主義思想」に拍車をかけたのです。その後、戦争に敗北した我が国は自由主義的な政策を次々と行い、高度経済成長などによる奇跡的な復興を...
昭和から平成となった当時の日本経済は、先述のとおりバブル景気(=バブル経済)によって絶好調でした。そんな空前の好景気だったからこそ、平成元(1989)年からの消費税という大型間接税の導入が可能だったといえます。その一方で、バブル景気によって土地が暴騰(ぼうとう)した影響を受け、いわゆる「地上げ」などが問題化したり、あるいはバブル以前に資産を「持つ者と持たざる者」との差が「不公平である」と問題視されたり...
平成10(1998)年に誕生した小渕内閣は、翌平成11(1999)年に自由党との連立で内閣を改造して政権を安定させると重要な政策に取りかかり始め、同年5月には情報公開法や新ガイドライン関連法(周辺事態法など)を、8月には通信傍受(ぼうじゅ)法を次々に成立させました。一方、広島県の公立高校の校長が勤務校の卒業式での国歌斉唱に反対した教職員組合などの吊(つる)し上げを苦にして、平成11(1999)年2月に自殺するという悲...
ところで、平成5(1993)年に55年体制の崩壊が起きる前後から政党の離合集散が相次ぎました。宮澤内閣による衆議院解散を受けて、自民党を離党したグループから平成5(1993)年に「新生党」が誕生すると、これに日本新党や民社党・公明党が合流して、平成6(1994)年に「新進党」が誕生しました。しかし、やがて新進党からの離党者が相次ぐようになり、平成8(1996)年には社会党から改称した社会民主党(=社民党)の一部などが合...
村山首相の辞任を受けて、自民党・社会党・新党さきがけの3党の連立によって自民党総裁の橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう)氏が第一次内閣を組織しました。橋本首相は冷戦終結後の新たな日米の安全保障体制を目指した「日米安保共同宣言」に調印したほか、自身の誕生日でもあった7月29日には首相として11年ぶりに靖国(やすくに)神社に参拝しました。同年10月に小選挙区比例代表並立制で初の衆議院総選挙が行われ、首相自身の人...
平成7(1995)年3月20日の朝、東京の地下鉄の車内や駅の数か所で毒物サリンがばらまかれ、都心は大パニックとなりました。いわゆる「地下鉄サリン事件」です。サリンを製造したのはオウム真理教であり、計画的なテロであったことが後に分かりましたが、我が国では化学物によるテロを想定していなかったため、消防や警察では毒物が除去できず、化学兵器に対する防護服を持っていた陸上自衛隊の化学防護隊のみが対応可能でした。平成...
平成7(1995)年1月17日午前5時46分に発生した「阪神・淡路大震災」は、関西地方一帯を襲ったマグニチュード7.3の巨大地震であり、兵庫県の一部地域では国内史上初の震度7が観測されました。関連死を含めて約6,400人の生命が失われたほか、高速道路や新幹線、あるいは在来線といった鉄道が寸断され、ライフラインを失った人々の生活は長期にわたって不便を余儀なくされました。大正12(1923)年に発生した関東大震災など、我が国は...
平成5(1993)年8月に成立した非自民8党派による連立である細川護熙内閣は、衆議院総選挙において「小選挙区比例代表並立制」を導入し、選挙制度改革を含んだ一連の政治改革法案を成立させました。しかし、細川首相が3%の消費税を廃止して新たに7%の税率による国民福祉税を導入する構想を発表した頃から政権の求心力が低下し、また首相自身による佐川急便グループからの借入金処理問題の発覚もあって、細川内閣は平成6(1994)年...
衆議院総選挙に敗北して宮澤内閣が退陣する直前の平成5(1993)年8月4日、当時の河野洋平(こうのようへい)内閣官房長官による「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」が発表されました。いわゆる「河野談話」のことです。この談話は、1990年代から朝日新聞などの日本のマスコミや韓国によって盛んに主張され始めたいわゆる「従軍慰安婦問題」に関し、その幕引きを図るべく、当時の宮澤首相と河野官房長官とが旧...
昭和63(1988)年に発覚したリクルート事件を受けて国民の政治不信が強まっていたことから、抜本的な政治改革を行って国民の信頼を取り戻すべきだという声が政府の内外から次第に高まってきました。また、宮澤内閣当時の平成4(1992)年には佐川急便事件が、翌平成5(1993)年にはゼネコン汚職事件が相次いで発覚し、国民の激しい非難を浴びたことから、選挙制度改革や政界再編を目指す動きが与野党を巻き込んで見られるようになり...
宇野内閣の後継には海部俊樹(かいふとしき)氏が首相に選ばれ、平成元(1989)年8月に第一次内閣を組織しました。海部首相は平成2(1990)年2月に行われた衆議院総選挙で勝利し、新たに第二次内閣を組織しましたが、同年8月に発生したイラクによるクウェート侵攻から翌平成3(1991)年1月に勃発(ぼっぱつ)した「湾岸戦争」においては、人的支援の不手際もあったことからその対策に苦慮することになりました。その後、自らが政策...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
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ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...
我が国が隋に強気の外交姿勢を見せた一方で、かつて隋と激しく戦った高句麗は、自国が勝ったにもかかわらず、その後もひたすら低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けていました。隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったの...
今から2200年以上前に大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗りました。これが慣例となって、後の大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されるこ...
さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...
ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...
大東亜戦争以前より我が国にとって最大の脅威となっていたソ連が消滅したことで、我が国の保守系の識者の多くは「これで我が国の思想や言論の流れが変わるだろう」と安堵(あんど)しました。しかし、そんな保守系の「油断」の隙を突くかたちで、左翼系の「進歩的文化人」と呼ばれた人々が自らの思想を満足させるために、ソ連解体以前から続けていた「日本の歴史から中国や韓国の好みそうな問題を取り上げ、両国に『御注進』する」...
しかし、ロシア共和国大統領であったエリツィンの呼びかけもあってクーデターが失敗に終わり、それをきっかけにソ連共産党が事実上解体されると、ソ連そのものの弱体化が一気に加速しました。そして、同年12月までに「ソビエト社会主義共和国連邦」を構成していた共和国のすべてが独立を宣言したことでソ連は解体し、新たにロシア共和国などからなる独立国家共同体(=CIS)が誕生したのです。ソ連解体後の新生ロシアでは1917(大...
国家財政の立て直しを図ったゴルバチョフ大統領はペレストロイカなどの改革を次々と行ったものの、経済の停滞は依然として続き、1990(平成2)年に入るとソ連都市部の食糧不足が深刻化するようになり、ゴルバチョフは西側諸国を訪問して経済援助を懇願(こんがん)しました。また、第二次世界大戦中にソ連に併合されたエストニア・ラトビア・リトアニアのいわゆる「バルト三国」がそれぞれ独立を主張するようになり、ソ連は軍事介...