1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
ところで、最近の歴史教育では「鎌倉幕府の成立」が従来の建久3(1192)年ではなく、例えば平氏が滅亡した後に頼朝が朝廷から守護や地頭の設置を認めてもらった文治(ぶんじ)元(1185)年など、様々な説が存在しています。その理由としては「実質的に源頼朝を中心とする支配体制が確立した時期こそが鎌倉幕府の成立にふさわしい」からだとされていますが、果たしてこれは本当に正しいと言い切れるでしょうか。実は、鎌倉幕府の成...
なお、西洋において「God」とは、例えばイエス=キリストのような「絶対神」あるいは「唯一神」であり、我が国のような「八百万(やおよろず、非常に多くの、という意味)の神」とは決定的に異なります。明治に入ってキリスト教が公認された際に「God」を「神」と訳したことによって、絶対神であるはずの「God」が八百万の神の一柱(ひとはしら、我が国では神様は「柱」と数えます)になってしまったことが、キリスト教の信者が思...
この流れを受けて、イギリスで国王を首長とするイギリス国教会が成立するなど、国家の利益と宗教とを切り離す傾向が西洋全体でみられたことで、政治的権力が教会から国王へと移行する一方で、教会は「権威」としてのみ存続するようになったのです。政治的権威と権力との分離が歴史的に完全になされた地域は、地球上では西洋と我が国しかありません。東欧やロシア、そして中国も、あるいは現代のチベットでさえも、こうした分離は実...
かくして我が国では「権威」と「権力」との分離が完成しましたが、これは、大日本帝国憲法下において天皇が統治権を取りまとめてもつという「権威」としてご存在する一方で、実際の政治は立法・行政・司法の三権に任せる立憲君主であり続けたという、我が国が近代的立憲主義を容易に受けいれるという効果ももたらしました。さらにこの流れは、現在の日本国憲法第6条における「国家の最高政治権力者である内閣総理大臣を国家の象徴...
要するに、我が国では鎌倉幕府という軍事政権が誕生しても、天皇と対立して滅ぼそうとするどころか、逆に天皇の権威を活用することで政権を確立しようという、諸外国では考えられないような独自のシステムが存在していたということになります。鎌倉幕府以後、我が国の政治権力者は天皇の権威を活用しましたが、それゆえに、天皇のもとで築かれてきた古い文化を破壊することは少なく、むしろ「民安かれ」という天皇のご意思を受け止...
鎌倉幕府が成立した年は一般的に建久3(1192)年とされていますが、これには大きな意味があります。そもそも「幕府」という言葉の本来の意味は、中国における「王に代わって指揮を取る将軍の出先における臨時の基地」です。この場合、中国の皇帝は円滑に戦争を進めさせるため、将軍に対して、本来は皇帝の権限である徴税権や徴兵権を委任していました。つまり、頼朝は自らを「幕府の将軍」になぞらえることによって、朝廷から独立...
西洋の歴史において、そもそも民主政治は「人民が国家と争って勝ち取ったもの」でした。つまり、西洋の民主政治は「国家vs.人民」の歴史でもあったわけですが、我が国において「国家の元首が国民と直接争った」ことは一度もありません。我が国の伝統的な政治文化には、言うまでもなく「天皇陛下」が存在しておられます。天皇の古来の重要な役割は国民のために「祈る」ことであり、かつては実際に政治を行う権力もお持ちでした。そ...
ところで、学校で一般的に勉強する中学や高校の「公民の授業」では我が国独自の内容がほとんど教えられていません。それどころか、民主政治も基本的人権も「西洋が由来であり、我が国は遅れて広まった」と言わんばかりなのです。教科書を見ると、出だしから「日本国憲法の骨格をなす民主政治は」と、我が国における民主政治が日本国憲法から始まり、それ以前は非民主的(あるいは軍国主義的)であったと解釈できます。また、20世紀...
「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら...
河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。実は、その様子が8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今し...
神武天皇のご存在を証明する手掛かりは、実はもう一つあります。それは戦後の様々な発掘調査がもたらしたものであり、神武天皇が遺(のこ)された足跡が「地質学的に確実に証明されている」ことを皆さんはご存知でしょうか。その根拠の一つは「大阪」にあります。大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山...
5世紀の中国の南朝である宋(そう)の歴史家であった裴松之(はいしょうし)が「三国志(さんごくし)」に注釈を加えた際に、以下のような文章を書き残しています。「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅんじゅ...
我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」の呪縛(じゅばく)が、戦後75年以上を経た今もなお日本国と日本民族を洗脳し続けています。WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武(...
古代史のプロパガンダは他にも存在します。現代の皇室のルーツである大和朝廷(やまとちょうてい)について、中学校の学習指導要領では「大和朝廷(大和政権)」と記載されているのに対して、高校の一般的な歴史教科書では「ヤマト政権」あるいは「ヤマト王権」などの表記がされているのです。「大和朝廷」をなぜ「ヤマト政権(あるいはヤマト王権)」と表現するかといえば、一般的には以下の理由が知られています。・「大和」とい...
ところが、現在の歴史教科書では弥生文化の始まりについて、先述のとおり概(おおむ)ね以下のような記述がなされています。「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に波及したと考えられる」。つまり、日本列島における水稲耕作は今から約2500年前に朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、我が国で稲作...
青森県の大平山元I((おおだいやまもといち)遺跡で平成10(1998)年に行われた発掘調査によって複数の土器片(どきへん)が見つかりましたが、この土器片を「放射性炭素年代法(炭素14年代測定法)」で調査した結果、今から約16500年前のものであることが翌平成11(1999)年に判明しました。これによって、我が国の縄文文化における土器の技術が世界最古クラスであることが明らかになっています。また、昭和21(1946)年に相沢...
さらに付け加えれば、ピラミッドやパルテノン神殿などのように、世界四大文明あるいはその後のギリシャやローマの文明は石造建築の石が変わりにくいことに価値を置いており、しかもそれらの文明は「滅亡後に残された過去の遺物」でしかありません。一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)...
考えてみれば、人々の生活の発展には水や植物などの自然の存在が欠かせませんが、世界四大文明がいずれも河川の近辺から文化が栄えているなど、乾いた土地が多くて植物が育ちにくい環境に比べて、水源や山林が豊富にある我が国が大変恵まれているのがよく分かりますね。その後、弥生時代の始まりまでに水稲耕作が普及し、食料を備蓄し始めるようになると争い事が起き出したことから、我が国でも外国の進んだ技術を導入する必要に迫...
世界四大文明もしくはギリシャやローマにおける文明は確かに古くから優れた文化を持っていましたが、それは大規模な農耕や牧畜を行って食料を備蓄できたことで、他の地域に常に狙(ねら)われる危険があったからです。なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダ...
アメリカの国際政治学者であったサミュエル=ハンティントンは「日本は日本だけで一つの文明圏(ぶんめいけん)である」と公言しており、ギリシャ・ローマから始まる「西洋文明」あるいは殷(いん)・周(しゅう)・秦(しん)・漢(かん)より続く「中国文明」などと対等な価値を持つ文明の一つと認識しています。つまり、我が国は世界とは全く異なる独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、後述する「放射性炭素...
中学の歴史や高校の世界史で学習する「世界四大文明」という言葉については皆さんの多くがご存知かと思われます。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の四つであり、これが世界の文明の黎明(れいめい)であると歴史教科書に現在も記載されています。その一方で、我が国の起源はいわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲(すいとう)耕作(=水稲農耕)などの様々な文化も中国大陸や朝鮮半島から伝わったと...
※今回より「第100回歴史講座」の内容の更新を開始します(4月9日までの予定)。神話の時代を含めれば2680年以上の歴史と伝統を誇る我が国ですが、昭和20(1945)年に大東亜戦争(=太平洋戦争)に敗北してからは、特に近現代史の分野において史実とあまりにもかけ離れた、それこそ「捏造(ねつぞう)」と断言しても差し支えない内容が一般的に知られています。例えば「南京大虐殺(ぎゃくさつ)」「三光(さんこう)作戦」「731部...
※「昭和時代・戦後」の更新は今回が最後となります。明日(2月8日)からは「第100回歴史講座」の内容を更新します(4月6日までの予定)。昭和64(1989)年1月7日に昭和天皇が崩御されると、皇太子明仁(あきひと)親王が直ちに皇位を継承され、第125代天皇となられました。また、元号法の規定に基づいて、翌1月8日から元号が「昭和」から「平成」に改まりました。新たな元号となった「平成」は、チャイナの古典である「史記」の「...
昭和天皇の崩御に際して、多くの国民が悲しみに包まれました。崩御から約1か月半後の2月24日に新宿御苑でおごそかに行なわれた大喪(たいそう)の礼では、折からの氷雨にもかかわらず、世界164か国・28国際機関の弔問(ちょうもん)使節が世界各国から参集しました。わずか半世紀近く前に世界の多くの国を相手に激しく戦った国の元首であるにもかかわらず、恩讐(おんしゅう)を越えて昭和天皇に弔意(ちょうい)を示したのです。...
御用邸から皇居に戻られて間もない9月19日の夜、昭和天皇は大量の吐血をされてご重体となられました。天皇陛下のご不例に際し、各地で計画されていた祭りや祝賀行事などが一斉に中止になるなど、日本国内は自粛(じしゅく)モード一色になりました。その余りもの自粛ぶりに、一部の国民やマスコミからは不満の声も上がりましたが、国民のことのみをずっとお考えになり、自らを顧(かえり)みられることのなかった陛下がご重体とな...
実はこの当時、昭和天皇は病魔に蝕(むしば)まれておられました。宮内庁は陛下の玉体(ぎょくたい、天皇などの身分の高い人物のからだのこと)にメスを入れる決断を下しました。手術は成功して昭和天皇はお元気を取り戻されましたが、翌昭和63(1988)年の夏頃から急激に体調が悪化されました。終戦記念日の8月15日に日本武道館で行なわれた全国戦没者追悼式に際して、昭和天皇はご療養先の那須御用邸(なすごようてい)からヘリ...
先述のとおり、昭和20年代にかけて全国をご巡幸(じゅんこう)なさった昭和天皇でしたが、昭和47(1972)年にアメリカから返還された沖縄県へのご巡幸が達成できていませんでした。昭和62(1987)年に沖縄で秋の国民体育大会が行われることになり、開会式ご出席も兼ねてようやく念願のご行幸(ぎょうこう)が実現できると思われましたが、その直前に、ご病気によって中止となってしまいました。陛下(へいか)のご無念のお気持ちは...
活字文化では、終戦後のGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策の影響もあり、マルクス主義に対する制約がなくなったこともあって、学会や論壇ではマルクス主義的な思想が流行しましたが、その流れを受けて丸山眞男(まるやままさお)や大塚久雄(おおつかひさお)らが執筆した「世界」が創刊されたほか、戦時下で休刊していた「中央公論」や「改造」も復刊されました。安保闘争が激化した1960年代に革新的な立場の「...
戦後の放送メディアでは、昭和26(1951)年にラジオの民間放送が始まったほか、昭和28(1953)年には日本放送協会(=NHK)がテレビ放送を開始しました。歌謡曲では、終戦後の混乱期に並木路子(なみきみちこ)の「りんごの唄」に代表される軽快かつ明るい歌が流行したほか、美空(みそら)ひばりが多くの流行歌を生み出し、国民に長く愛されました。大衆娯楽としての映画は、戦後に黄金時代を迎えました。昭和29(1954)年には黒...
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1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...
ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...
大東亜戦争以前より我が国にとって最大の脅威となっていたソ連が消滅したことで、我が国の保守系の識者の多くは「これで我が国の思想や言論の流れが変わるだろう」と安堵(あんど)しました。しかし、そんな保守系の「油断」の隙を突くかたちで、左翼系の「進歩的文化人」と呼ばれた人々が自らの思想を満足させるために、ソ連解体以前から続けていた「日本の歴史から中国や韓国の好みそうな問題を取り上げ、両国に『御注進』する」...