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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その1

    ところで、最近の歴史教育では「鎌倉幕府の成立」が従来の建久3(1192)年ではなく、例えば平氏が滅亡した後に頼朝が朝廷から守護や地頭の設置を認めてもらった文治(ぶんじ)元(1185)年など、様々な説が存在しています。その理由としては「実質的に源頼朝を中心とする支配体制が確立した時期こそが鎌倉幕府の成立にふさわしい」からだとされていますが、果たしてこれは本当に正しいと言い切れるでしょうか。実は、鎌倉幕府の成...

  • 権威と権力との分離 その7

    なお、西洋において「God」とは、例えばイエス=キリストのような「絶対神」あるいは「唯一神」であり、我が国のような「八百万(やおよろず、非常に多くの、という意味)の神」とは決定的に異なります。明治に入ってキリスト教が公認された際に「God」を「神」と訳したことによって、絶対神であるはずの「God」が八百万の神の一柱(ひとはしら、我が国では神様は「柱」と数えます)になってしまったことが、キリスト教の信者が思...

  • 権威と権力との分離 その6

    この流れを受けて、イギリスで国王を首長とするイギリス国教会が成立するなど、国家の利益と宗教とを切り離す傾向が西洋全体でみられたことで、政治的権力が教会から国王へと移行する一方で、教会は「権威」としてのみ存続するようになったのです。政治的権威と権力との分離が歴史的に完全になされた地域は、地球上では西洋と我が国しかありません。東欧やロシア、そして中国も、あるいは現代のチベットでさえも、こうした分離は実...

  • 権威と権力との分離 その5

    かくして我が国では「権威」と「権力」との分離が完成しましたが、これは、大日本帝国憲法下において天皇が統治権を取りまとめてもつという「権威」としてご存在する一方で、実際の政治は立法・行政・司法の三権に任せる立憲君主であり続けたという、我が国が近代的立憲主義を容易に受けいれるという効果ももたらしました。さらにこの流れは、現在の日本国憲法第6条における「国家の最高政治権力者である内閣総理大臣を国家の象徴...

  • 権威と権力との分離 その4

    要するに、我が国では鎌倉幕府という軍事政権が誕生しても、天皇と対立して滅ぼそうとするどころか、逆に天皇の権威を活用することで政権を確立しようという、諸外国では考えられないような独自のシステムが存在していたということになります。鎌倉幕府以後、我が国の政治権力者は天皇の権威を活用しましたが、それゆえに、天皇のもとで築かれてきた古い文化を破壊することは少なく、むしろ「民安かれ」という天皇のご意思を受け止...

  • 権威と権力との分離 その3

    鎌倉幕府が成立した年は一般的に建久3(1192)年とされていますが、これには大きな意味があります。そもそも「幕府」という言葉の本来の意味は、中国における「王に代わって指揮を取る将軍の出先における臨時の基地」です。この場合、中国の皇帝は円滑に戦争を進めさせるため、将軍に対して、本来は皇帝の権限である徴税権や徴兵権を委任していました。つまり、頼朝は自らを「幕府の将軍」になぞらえることによって、朝廷から独立...

  • 権威と権力との分離 その2

    西洋の歴史において、そもそも民主政治は「人民が国家と争って勝ち取ったもの」でした。つまり、西洋の民主政治は「国家vs.人民」の歴史でもあったわけですが、我が国において「国家の元首が国民と直接争った」ことは一度もありません。我が国の伝統的な政治文化には、言うまでもなく「天皇陛下」が存在しておられます。天皇の古来の重要な役割は国民のために「祈る」ことであり、かつては実際に政治を行う権力もお持ちでした。そ...

  • 権威と権力との分離 その1

    ところで、学校で一般的に勉強する中学や高校の「公民の授業」では我が国独自の内容がほとんど教えられていません。それどころか、民主政治も基本的人権も「西洋が由来であり、我が国は遅れて広まった」と言わんばかりなのです。教科書を見ると、出だしから「日本国憲法の骨格をなす民主政治は」と、我が国における民主政治が日本国憲法から始まり、それ以前は非民主的(あるいは軍国主義的)であったと解釈できます。また、20世紀...

  • 神武天皇が実在された理由 その6

    「方(まつ)に難波(なにわ)の碕(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやなみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ふ」。現代語訳すれば「難波の碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変早く着いた」となりますが、この一文は、神武天皇の一行が河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に進入し、難波の碕に着いたことを物語っています。こうした記述は、河内潟の時代でしか考えられません。なぜなら...

  • 神武天皇が実在された理由 その5

    河内潟の頃は、現在の大阪城から南に延びる上町台地の北端が潟口(かたぐち)であり、引き潮の際には潟の水が開口部から勢いよく大阪湾に流れ出す一方で、満潮の際には開口部を通って海水が潟内部へ逆流していたと考えられます。実は、その様子が8世紀に編纂(へんさん)された「日本書紀」にも書かれているのです。「因(よ)りて名(なづ)けて浪速国(なみはやくに)と為(い)ふ。亦(また)浪花(なにわ)と曰(い)ふ。今し...

  • 神武天皇が実在された理由 その4

    神武天皇のご存在を証明する手掛かりは、実はもう一つあります。それは戦後の様々な発掘調査がもたらしたものであり、神武天皇が遺(のこ)された足跡が「地質学的に確実に証明されている」ことを皆さんはご存知でしょうか。その根拠の一つは「大阪」にあります。大阪湾の遠浅(とおあさ)の海岸沿いから広大な大阪平野が生駒山地まで続いている現在の大阪ですが、今から約20000年前には河内湾(かわちわん)と呼ばれる海が生駒山...

  • 神武天皇が実在された理由 その3

    5世紀の中国の南朝である宋(そう)の歴史家であった裴松之(はいしょうし)が「三国志(さんごくし)」に注釈を加えた際に、以下のような文章を書き残しています。「倭人(わじん)は歳(とし)の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」。当時の倭人、すなわち日本人は春分と秋分をそれぞれ一つの年紀として、つまり通常の一年を倍の二年として計算していたというのです。これを「春秋年(しゅんじゅ...

  • 神武天皇が実在された理由 その2

    我が国では長いあいだ、神話が絶えず意識されてきました。しかし、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領下で、日本を罪深い国に仕立て上げた「WGIP(=ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム、日本人に戦争犯罪者意識を刷り込む計画)」の呪縛(じゅばく)が、戦後75年以上を経た今もなお日本国と日本民族を洗脳し続けています。WGIPによる影響は我が国の歴史教科書にも確実に表れており、我が国初代の神武(...

  • 神武天皇が実在された理由 その1

    古代史のプロパガンダは他にも存在します。現代の皇室のルーツである大和朝廷(やまとちょうてい)について、中学校の学習指導要領では「大和朝廷(大和政権)」と記載されているのに対して、高校の一般的な歴史教科書では「ヤマト政権」あるいは「ヤマト王権」などの表記がされているのです。「大和朝廷」をなぜ「ヤマト政権(あるいはヤマト王権)」と表現するかといえば、一般的には以下の理由が知られています。・「大和」とい...

  • 日本文明のあけぼの その8

    ところが、現在の歴史教科書では弥生文化の始まりについて、先述のとおり概(おおむ)ね以下のような記述がなされています。「およそ2500年前(紀元前3世紀)、朝鮮半島に近い九州北部で水田によるコメ作りが始まった。こうした流れは、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島に波及したと考えられる」。つまり、日本列島における水稲耕作は今から約2500年前に朝鮮半島から伝わったと当然のように書かれているのですが、我が国で稲作...

  • 日本文明のあけぼの その7

    青森県の大平山元I((おおだいやまもといち)遺跡で平成10(1998)年に行われた発掘調査によって複数の土器片(どきへん)が見つかりましたが、この土器片を「放射性炭素年代法(炭素14年代測定法)」で調査した結果、今から約16500年前のものであることが翌平成11(1999)年に判明しました。これによって、我が国の縄文文化における土器の技術が世界最古クラスであることが明らかになっています。また、昭和21(1946)年に相沢...

  • 日本文明のあけぼの その6

    さらに付け加えれば、ピラミッドやパルテノン神殿などのように、世界四大文明あるいはその後のギリシャやローマの文明は石造建築の石が変わりにくいことに価値を置いており、しかもそれらの文明は「滅亡後に残された過去の遺物」でしかありません。一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)...

  • 日本文明のあけぼの その5

    考えてみれば、人々の生活の発展には水や植物などの自然の存在が欠かせませんが、世界四大文明がいずれも河川の近辺から文化が栄えているなど、乾いた土地が多くて植物が育ちにくい環境に比べて、水源や山林が豊富にある我が国が大変恵まれているのがよく分かりますね。その後、弥生時代の始まりまでに水稲耕作が普及し、食料を備蓄し始めるようになると争い事が起き出したことから、我が国でも外国の進んだ技術を導入する必要に迫...

  • 日本文明のあけぼの その4

    世界四大文明もしくはギリシャやローマにおける文明は確かに古くから優れた文化を持っていましたが、それは大規模な農耕や牧畜を行って食料を備蓄できたことで、他の地域に常に狙(ねら)われる危険があったからです。なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダ...

  • 日本文明のあけぼの その3

    アメリカの国際政治学者であったサミュエル=ハンティントンは「日本は日本だけで一つの文明圏(ぶんめいけん)である」と公言しており、ギリシャ・ローマから始まる「西洋文明」あるいは殷(いん)・周(しゅう)・秦(しん)・漢(かん)より続く「中国文明」などと対等な価値を持つ文明の一つと認識しています。つまり、我が国は世界とは全く異なる独自の「日本文明」をもっていたということになりますが、後述する「放射性炭素...

  • 日本文明のあけぼの その2

    中学の歴史や高校の世界史で学習する「世界四大文明」という言葉については皆さんの多くがご存知かと思われます。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明の四つであり、これが世界の文明の黎明(れいめい)であると歴史教科書に現在も記載されています。その一方で、我が国の起源はいわゆる「四大文明」よりも遅れており、水稲(すいとう)耕作(=水稲農耕)などの様々な文化も中国大陸や朝鮮半島から伝わったと...

  • 日本文明のあけぼの その1

    ※今回より「第100回歴史講座」の内容の更新を開始します(4月9日までの予定)。神話の時代を含めれば2680年以上の歴史と伝統を誇る我が国ですが、昭和20(1945)年に大東亜戦争(=太平洋戦争)に敗北してからは、特に近現代史の分野において史実とあまりにもかけ離れた、それこそ「捏造(ねつぞう)」と断言しても差し支えない内容が一般的に知られています。例えば「南京大虐殺(ぎゃくさつ)」「三光(さんこう)作戦」「731部...

  • 昭和から平成へ その5

    ※「昭和時代・戦後」の更新は今回が最後となります。明日(2月8日)からは「第100回歴史講座」の内容を更新します(4月6日までの予定)。昭和64(1989)年1月7日に昭和天皇が崩御されると、皇太子明仁(あきひと)親王が直ちに皇位を継承され、第125代天皇となられました。また、元号法の規定に基づいて、翌1月8日から元号が「昭和」から「平成」に改まりました。新たな元号となった「平成」は、チャイナの古典である「史記」の「...

  • 昭和から平成へ その4

    昭和天皇の崩御に際して、多くの国民が悲しみに包まれました。崩御から約1か月半後の2月24日に新宿御苑でおごそかに行なわれた大喪(たいそう)の礼では、折からの氷雨にもかかわらず、世界164か国・28国際機関の弔問(ちょうもん)使節が世界各国から参集しました。わずか半世紀近く前に世界の多くの国を相手に激しく戦った国の元首であるにもかかわらず、恩讐(おんしゅう)を越えて昭和天皇に弔意(ちょうい)を示したのです。...

  • 昭和から平成へ その3

    御用邸から皇居に戻られて間もない9月19日の夜、昭和天皇は大量の吐血をされてご重体となられました。天皇陛下のご不例に際し、各地で計画されていた祭りや祝賀行事などが一斉に中止になるなど、日本国内は自粛(じしゅく)モード一色になりました。その余りもの自粛ぶりに、一部の国民やマスコミからは不満の声も上がりましたが、国民のことのみをずっとお考えになり、自らを顧(かえり)みられることのなかった陛下がご重体とな...

  • 昭和から平成へ その2

    実はこの当時、昭和天皇は病魔に蝕(むしば)まれておられました。宮内庁は陛下の玉体(ぎょくたい、天皇などの身分の高い人物のからだのこと)にメスを入れる決断を下しました。手術は成功して昭和天皇はお元気を取り戻されましたが、翌昭和63(1988)年の夏頃から急激に体調が悪化されました。終戦記念日の8月15日に日本武道館で行なわれた全国戦没者追悼式に際して、昭和天皇はご療養先の那須御用邸(なすごようてい)からヘリ...

  • 昭和から平成へ その1

    先述のとおり、昭和20年代にかけて全国をご巡幸(じゅんこう)なさった昭和天皇でしたが、昭和47(1972)年にアメリカから返還された沖縄県へのご巡幸が達成できていませんでした。昭和62(1987)年に沖縄で秋の国民体育大会が行われることになり、開会式ご出席も兼ねてようやく念願のご行幸(ぎょうこう)が実現できると思われましたが、その直前に、ご病気によって中止となってしまいました。陛下(へいか)のご無念のお気持ちは...

  • 戦後の文化 その4

    活字文化では、終戦後のGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策の影響もあり、マルクス主義に対する制約がなくなったこともあって、学会や論壇ではマルクス主義的な思想が流行しましたが、その流れを受けて丸山眞男(まるやままさお)や大塚久雄(おおつかひさお)らが執筆した「世界」が創刊されたほか、戦時下で休刊していた「中央公論」や「改造」も復刊されました。安保闘争が激化した1960年代に革新的な立場の「...

  • 戦後の文化 その3

    戦後の放送メディアでは、昭和26(1951)年にラジオの民間放送が始まったほか、昭和28(1953)年には日本放送協会(=NHK)がテレビ放送を開始しました。歌謡曲では、終戦後の混乱期に並木路子(なみきみちこ)の「りんごの唄」に代表される軽快かつ明るい歌が流行したほか、美空(みそら)ひばりが多くの流行歌を生み出し、国民に長く愛されました。大衆娯楽としての映画は、戦後に黄金時代を迎えました。昭和29(1954)年には黒...

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