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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 朝鮮出兵の真実・後編 その4

    後に徳川家康がカトリックを信仰しないオランダやイギリスと交流を深めたことで江戸幕府とオランダとの交易が実現し、カトリックの信仰国であるイスパニアやポルトガルとの関係を完全に断ち切ることが可能となったことを考えれば、あまりにも大きな差でした。なお、文禄(ぶんろく)5(1596)年にイスパニアの商船が土佐(とさ、現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が世界地図を示して「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その3

    次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらはカトリックの由来であるキリスト教が「一神教」であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には「我が国の伝統や文化を破壊する許せない行動」としか映りませんでした。さらに秀吉を驚かせたのが、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その2

    天正15(1587)年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックのイエズス会の宣教師が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦を準備して出迎えました。その壮大さに驚いた秀吉は、イエズス会による布教活動には我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。そして、現地を視察した秀吉が「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。秀吉が...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その1

    永禄(えいろく)3(1560)年の桶狭間(おけはざま)の戦いで名を挙げ、破竹の勢いで天下取りに向かって前進していた織田信長(おだのぶなが)は、南蛮貿易による権益や西洋の進んだ文化や技術を手に入れるために、キリスト教(=カトリック)を保護しました。ちなみに、カトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解したそうです。16世紀の日本人とはとても思えない、信長の柔軟な発想力がうかがえ...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その7

    ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿易による権益の欲しさから宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、なかには自らが洗礼を受けて「キリシタン大名」となるものも現れました。キリシタン大名のうち九州の大友宗麟・大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)はイタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、天正10(1582)年に伊...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その6

    我が国との南蛮貿易も布教活動と一体化されており、天文18(1549)年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。ザビエルは鹿児島から京都にのぼった後、山口の大内義隆(おおうちよしたか)や豊後府内の大友宗麟(おおともそうりん、別名を義鎮=よししげ)らの大名の保護を受けてキリスト教(=カトリック)の布教活動を続けました。...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その5

    南蛮貿易は、先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料・生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。また当時の貿易港としては、松浦(まつら)氏の平戸や大村(おおむら)氏の長崎、大友(おおとも)氏の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)など、九州地方が中心でした。大航海時代のきっかけのひ...

  • 【ハイブリッド方式】第101回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年3月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、令和5年5月より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコード...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その4

    鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃(う)てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきまし...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その3

    地球をまるで饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのような、ある意味とんでもない発想ですが、これは当時の白人至上主義による人種差別に基づく当然の思想でもありました。そして両国は条約の取り決めを守りながら着実に植民地化を進め、その過程では南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産あるいは文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じてい...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その2

    イスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領して、ルソン島のマニラを根拠地としました。一方、ポルトガルはインド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから中国の明(みん)のマカオにも拠点を築きました。要するに、イスパニアは西廻(まわ)りで、ポルトガルは東廻りでそれぞ...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その1

    我が国における「国防の歴史」を語る際に欠かせないのが13世紀後半に起きた「元寇(げんこう)」ですが、その一方で、我が国が侵略を受ける前に先手を打って外国へ攻め込んだこともありました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)による二度にわたる「朝鮮出兵」のことです。しかし、多くの歴史教科書で秀吉の行為を「朝鮮侵略」と断じているばかりか、秀吉が結果的に「朝鮮の人々に多大な迷惑をかけた」ことばかりを強調するような歴史...

  • 聖徳太子抹殺計画 その7

    聖徳太子は1000年を遥(はる)かに超える長い年月のあいだ、ずっと我が国の人々に語り継がれた立派な偉人です。近現代においても、我が国のお札の肖像画(しょうぞうが)として最多の7回も採用されています。特に、昭和32(1957)年から我が国最初の五千円札に使用され、さらに翌昭和33(1958)年から昭和59(1984)年まで26年の長きにわたって現在の最高額紙幣である一万円札に使用されたという事実が、聖徳太子の我が国における...

  • 聖徳太子抹殺計画 その6

    文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ、呼称の変更に批判的な意見が多かったほか、教員からも「小中で呼称が異なれば子供たちが混乱する」「指導の継続性が損なわれる」といった意見が出ていたそうです。こうした状況を踏まえ、文科省は小中ともに聖徳太子の表記に統一し、中学では古事記や日本書紀に聖徳太子の本名である「厩戸皇子」などと表記されていることも明記する方向で調整することになりました。そ...

  • 聖徳太子抹殺計画 その5

    また、大阪の四天王寺(してんのうじ)や奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)をはじめとした全国各地の聖徳太子ゆかりの寺院の存在を「現在もなお、太子を信仰したり敬慕(けいぼ)したりする善男善女でにぎわっている。それは、日本の仏教史や精神文化史などを顧(かえり)みる上で極めて重要なことである」と肯定的に評価しています。さらには、同じく没後に諡(おくりな)をされた弘法大師(=空海)を例に挙げて「弘法大師の名を知ら...

  • 聖徳太子抹殺計画 その4

    そして、今回のような改定案が発表された背景には「今から20年近く前に、日本史学界の一部で唱えられた『聖徳太子虚構説』と呼ばれる学説」があると指摘し、この説の根拠が乏(とぼ)しいにもかかわらず「文科省は、この珍説が歴史学界の通説であるととらえてしまったようだ」と断じています。さらに、藤岡氏は「この説は日本国家を否定する反日左翼の運動に利用されているのであり、その触手(しょくしゅ)が中央教育行政にまで及...

  • 聖徳太子抹殺計画 その3

    ところが、新たに公表された次期学習指導要領には「『聖徳太子』は没後使われた呼称(こしょう)に過ぎないため、歴史学で一般的な『厩戸王(うまやどのおう)』との併記にする」と書かれていたのです。具体的には、伝記などで触れる機会が多く人物に親しむ小学校では「聖徳太子(厩戸王)」と、史実を学ぶ中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記するとされていました。文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関...

  • 聖徳太子抹殺計画 その2

    平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...

  • 聖徳太子抹殺計画 その1

    さて、内政においては我が国最初の成文法であり、後年の法典の編纂(へんさん)に多大な影響を与えた憲法十七条を制定し、外交においては当時の大国であった隋(ずい)との対等外交を実現した偉大な政治家である「聖徳太子(しょうとくたいし)」は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた...

  • 八紘一宇と民のかまど その8

    既(すで)に存在する大量の土砂を利用すれば、古墳も比較的早く完成しますし、また仁徳天皇のように善政を敷(し)かれた人物の陵(みささぎ)だからこそ、多くの国民が「進んで」天皇陵の建設に力を尽くしたのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。これ...

  • 八紘一宇と民のかまど その7

    仁徳天皇陵については、ある建設会社が「完成までに15年6か月の年数と延べ800万人の労力を要する」と試算しました。それだけ巨大な天皇陵であることを証明する数字ではありますが、当時の日本列島の人口は約400~500万人と推定されていますから、天皇陵の完成までに多くの人々が果てしない労役に駆り出されたともいえそうです。このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとら...

  • 八紘一宇と民のかまど その6

    このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀」に記載があります。ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を残されておられるのです。1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこ...

  • 八紘一宇と民のかまど その5

    民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后(こうごう)陛下に以下のように仰られました。「朕(ちん)は既(すで)に富んだ。喜ばしいことだ」。天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みながら仰られたそう...

  • 八紘一宇と民のかまど その4

    さて、皆さんは大阪府堺市堺区に存在する、全長約486mを誇る世界最大級の古墳に葬(ほうむ)られておられるとされる「仁徳(にんとく)天皇」についてどのような印象をお持ちでしょうか。古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)か...

  • 八紘一宇と民のかまど その3

    こうした事実を考慮すれば、既(すで)に大日本帝国憲法以前において定着していた「人権思想」に対して、わざわざ西洋由来の天賦人権論を持ち込む理由が果たして存在するのでしょうか。歴史のみならず、我が国での真っ当な「公民教育」を目指すのであれば、その背骨として「我が国伝統の政治文化」を教えるのが当たり前のはずです。しかし、今の教育では、それこそ「革命思想」につながる西洋の民主政治が重視される一方で、革命を...

  • 八紘一宇と民のかまど その2

    我が国の初代天皇であらせられる神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位された際に「八紘(はっこう、四方八方のこと)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と仰せられたと伝えられており、これが由来となって「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉が生まれました。「八紘一宇」は「道義的に天下を一つの家のようにする」というのが大意であり、我が国だけでなく世界全体を一つの家として、神々のために祈られる天皇を中...

  • 八紘一宇と民のかまど その1

    ところで、日本国憲法の三大原則のひとつに「基本的人権の尊重」がありますが、これは第11条や第97条において「侵(おか)すことのできない永久の権利」と規定されており、一般的にも「天賦(てんぷ)人権論」として知られています。しかし、こうした考えは「我が国の国柄」ではありません。天賦人権論の原理は西洋にあり、17世紀から18世紀の思想家であるイギリスのロックやフランスのルソーなどの社会契約説を由来として「すべて...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その6

    天皇御自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、討幕派はその日のうちに矢継ぎ早に改革を行い、新たに創設された役職である「三職(さんしょく)」に慶喜の名がなかったばかりか、同日夜に行われた「小御所(こごしょ)会議」において慶喜の内大臣の辞任と領地の一部返上を決定しました。しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その5

    先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものはいずれ必ず「返す」ことになりますよね。だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その4

    朝廷(=公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(=武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした、いわゆる「公武合体」の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)が「討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか」と慶喜に提案しました。このままでは武力討幕が避けられず、徳川...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その3

    討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇に倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、...

  • 幕府の誕生と終焉でつながる歴史 その2

    そんな中、慶応(けいおう)2(1866)年旧暦1月に同盟を結んだ薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)の両藩は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、薩長側がどれだけ優位に展開していようが「いきなり幕府を倒す」ことは不可能でした。なぜなら、先述のとおり、幕府が成立した背景に天皇が深くかかわっておられるからであり、この事実をしっかり理解できなければ、本来は楽しく...

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