仏教の発展によって、6世紀末から7世紀前半にかけて数多くの寺院が建てられました。なお、寺院は古墳にかわって豪族の権威を象徴するものであり、礎石(そせき、建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと)の上に丹塗(にぬり、朱色で塗ること)の柱を立てて、屋根に瓦(かわら)を葺(ふ)く建築技法が用いられました。聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(ほうりゅうじ、別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また...
後に徳川家康がカトリックを信仰しないオランダやイギリスと交流を深めたことで江戸幕府とオランダとの交易が実現し、カトリックの信仰国であるイスパニアやポルトガルとの関係を完全に断ち切ることが可能となったことを考えれば、あまりにも大きな差でした。なお、文禄(ぶんろく)5(1596)年にイスパニアの商船が土佐(とさ、現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が世界地図を示して「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教...
次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらはカトリックの由来であるキリスト教が「一神教」であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には「我が国の伝統や文化を破壊する許せない行動」としか映りませんでした。さらに秀吉を驚かせたのが、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強...
天正15(1587)年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックのイエズス会の宣教師が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦を準備して出迎えました。その壮大さに驚いた秀吉は、イエズス会による布教活動には我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。そして、現地を視察した秀吉が「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。秀吉が...
永禄(えいろく)3(1560)年の桶狭間(おけはざま)の戦いで名を挙げ、破竹の勢いで天下取りに向かって前進していた織田信長(おだのぶなが)は、南蛮貿易による権益や西洋の進んだ文化や技術を手に入れるために、キリスト教(=カトリック)を保護しました。ちなみに、カトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解したそうです。16世紀の日本人とはとても思えない、信長の柔軟な発想力がうかがえ...
ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿易による権益の欲しさから宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、なかには自らが洗礼を受けて「キリシタン大名」となるものも現れました。キリシタン大名のうち九州の大友宗麟・大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)はイタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、天正10(1582)年に伊...
我が国との南蛮貿易も布教活動と一体化されており、天文18(1549)年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。ザビエルは鹿児島から京都にのぼった後、山口の大内義隆(おおうちよしたか)や豊後府内の大友宗麟(おおともそうりん、別名を義鎮=よししげ)らの大名の保護を受けてキリスト教(=カトリック)の布教活動を続けました。...
南蛮貿易は、先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料・生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。また当時の貿易港としては、松浦(まつら)氏の平戸や大村(おおむら)氏の長崎、大友(おおとも)氏の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)など、九州地方が中心でした。大航海時代のきっかけのひ...
【ハイブリッド方式】第101回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年3月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、令和5年5月より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコード...
鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃(う)てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきまし...
地球をまるで饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのような、ある意味とんでもない発想ですが、これは当時の白人至上主義による人種差別に基づく当然の思想でもありました。そして両国は条約の取り決めを守りながら着実に植民地化を進め、その過程では南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産あるいは文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じてい...
イスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領して、ルソン島のマニラを根拠地としました。一方、ポルトガルはインド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから中国の明(みん)のマカオにも拠点を築きました。要するに、イスパニアは西廻(まわ)りで、ポルトガルは東廻りでそれぞ...
我が国における「国防の歴史」を語る際に欠かせないのが13世紀後半に起きた「元寇(げんこう)」ですが、その一方で、我が国が侵略を受ける前に先手を打って外国へ攻め込んだこともありました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)による二度にわたる「朝鮮出兵」のことです。しかし、多くの歴史教科書で秀吉の行為を「朝鮮侵略」と断じているばかりか、秀吉が結果的に「朝鮮の人々に多大な迷惑をかけた」ことばかりを強調するような歴史...
聖徳太子は1000年を遥(はる)かに超える長い年月のあいだ、ずっと我が国の人々に語り継がれた立派な偉人です。近現代においても、我が国のお札の肖像画(しょうぞうが)として最多の7回も採用されています。特に、昭和32(1957)年から我が国最初の五千円札に使用され、さらに翌昭和33(1958)年から昭和59(1984)年まで26年の長きにわたって現在の最高額紙幣である一万円札に使用されたという事実が、聖徳太子の我が国における...
文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ、呼称の変更に批判的な意見が多かったほか、教員からも「小中で呼称が異なれば子供たちが混乱する」「指導の継続性が損なわれる」といった意見が出ていたそうです。こうした状況を踏まえ、文科省は小中ともに聖徳太子の表記に統一し、中学では古事記や日本書紀に聖徳太子の本名である「厩戸皇子」などと表記されていることも明記する方向で調整することになりました。そ...
また、大阪の四天王寺(してんのうじ)や奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)をはじめとした全国各地の聖徳太子ゆかりの寺院の存在を「現在もなお、太子を信仰したり敬慕(けいぼ)したりする善男善女でにぎわっている。それは、日本の仏教史や精神文化史などを顧(かえり)みる上で極めて重要なことである」と肯定的に評価しています。さらには、同じく没後に諡(おくりな)をされた弘法大師(=空海)を例に挙げて「弘法大師の名を知ら...
そして、今回のような改定案が発表された背景には「今から20年近く前に、日本史学界の一部で唱えられた『聖徳太子虚構説』と呼ばれる学説」があると指摘し、この説の根拠が乏(とぼ)しいにもかかわらず「文科省は、この珍説が歴史学界の通説であるととらえてしまったようだ」と断じています。さらに、藤岡氏は「この説は日本国家を否定する反日左翼の運動に利用されているのであり、その触手(しょくしゅ)が中央教育行政にまで及...
ところが、新たに公表された次期学習指導要領には「『聖徳太子』は没後使われた呼称(こしょう)に過ぎないため、歴史学で一般的な『厩戸王(うまやどのおう)』との併記にする」と書かれていたのです。具体的には、伝記などで触れる機会が多く人物に親しむ小学校では「聖徳太子(厩戸王)」と、史実を学ぶ中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記するとされていました。文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
さて、内政においては我が国最初の成文法であり、後年の法典の編纂(へんさん)に多大な影響を与えた憲法十七条を制定し、外交においては当時の大国であった隋(ずい)との対等外交を実現した偉大な政治家である「聖徳太子(しょうとくたいし)」は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた...
既(すで)に存在する大量の土砂を利用すれば、古墳も比較的早く完成しますし、また仁徳天皇のように善政を敷(し)かれた人物の陵(みささぎ)だからこそ、多くの国民が「進んで」天皇陵の建設に力を尽くしたのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。これ...
仁徳天皇陵については、ある建設会社が「完成までに15年6か月の年数と延べ800万人の労力を要する」と試算しました。それだけ巨大な天皇陵であることを証明する数字ではありますが、当時の日本列島の人口は約400~500万人と推定されていますから、天皇陵の完成までに多くの人々が果てしない労役に駆り出されたともいえそうです。このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとら...
このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀」に記載があります。ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を残されておられるのです。1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこ...
民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后(こうごう)陛下に以下のように仰られました。「朕(ちん)は既(すで)に富んだ。喜ばしいことだ」。天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みながら仰られたそう...
さて、皆さんは大阪府堺市堺区に存在する、全長約486mを誇る世界最大級の古墳に葬(ほうむ)られておられるとされる「仁徳(にんとく)天皇」についてどのような印象をお持ちでしょうか。古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)か...
こうした事実を考慮すれば、既(すで)に大日本帝国憲法以前において定着していた「人権思想」に対して、わざわざ西洋由来の天賦人権論を持ち込む理由が果たして存在するのでしょうか。歴史のみならず、我が国での真っ当な「公民教育」を目指すのであれば、その背骨として「我が国伝統の政治文化」を教えるのが当たり前のはずです。しかし、今の教育では、それこそ「革命思想」につながる西洋の民主政治が重視される一方で、革命を...
我が国の初代天皇であらせられる神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位された際に「八紘(はっこう、四方八方のこと)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と仰せられたと伝えられており、これが由来となって「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉が生まれました。「八紘一宇」は「道義的に天下を一つの家のようにする」というのが大意であり、我が国だけでなく世界全体を一つの家として、神々のために祈られる天皇を中...
ところで、日本国憲法の三大原則のひとつに「基本的人権の尊重」がありますが、これは第11条や第97条において「侵(おか)すことのできない永久の権利」と規定されており、一般的にも「天賦(てんぷ)人権論」として知られています。しかし、こうした考えは「我が国の国柄」ではありません。天賦人権論の原理は西洋にあり、17世紀から18世紀の思想家であるイギリスのロックやフランスのルソーなどの社会契約説を由来として「すべて...
天皇御自らが政治を行われるのであれば、そこに徳川家が入り込む隙間(すきま)は全くありません。しかも、討幕派はその日のうちに矢継ぎ早に改革を行い、新たに創設された役職である「三職(さんしょく)」に慶喜の名がなかったばかりか、同日夜に行われた「小御所(こごしょ)会議」において慶喜の内大臣の辞任と領地の一部返上を決定しました。しかし、長年我が国の政治を引っ張ってきた旧幕府がその後に巻き返しを図り、小御所...
先述のとおり、朝廷から征夷大将軍に任じられたことで、幕府は政治の実権を「朝廷から委任される」、つまり「朝廷から預かる」という立場となりました。常識として、一度「預かった」ものはいずれ必ず「返す」ことになりますよね。だからこそ、朝廷から預かった「大政(=国政)」を「還(かえ)し奉(たてまつ)る」、すなわち「大政奉還」という概念が成立するとともに、幕府が存在しなくなったことで、薩長らの討幕の密勅がその...
朝廷(=公)の伝統的権威と幕府及び諸藩(=武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした、いわゆる「公武合体」の立場をとり続けた土佐藩は、何とか徳川家の勢力を残したまま武力に頼らずに新政権に移行できないかと考えた結果、前藩主の山内容堂(やまうちようどう、別名を豊信=とよしげ)が「討幕派の先手を打つかたちで政権を朝廷に返還してはどうか」と慶喜に提案しました。このままでは武力討幕が避けられず、徳川...
討幕の密勅が下されたことによって、天皇の信任を得ていたはずの幕府が、自身が知らないうちに「天皇に倒される」運命となったのです。薩長両藩からすれば、それこそ待ちに待ったお墨付きだったことでしょう。しかし、討幕を実際に武力で行おうとすれば、江戸をはじめ全国各地が戦場と化すのは避けられず、またその犠牲者も多数にのぼることは容易に想像できることでした。いかに新政権を樹立するという大義名分があったとはいえ、...
そんな中、慶応(けいおう)2(1866)年旧暦1月に同盟を結んだ薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)の両藩は、公家の岩倉具視(いわくらともみ)らと結んで武力による討幕を目指していましたが、実は、薩長側がどれだけ優位に展開していようが「いきなり幕府を倒す」ことは不可能でした。なぜなら、先述のとおり、幕府が成立した背景に天皇が深くかかわっておられるからであり、この事実をしっかり理解できなければ、本来は楽しく...
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仏教の発展によって、6世紀末から7世紀前半にかけて数多くの寺院が建てられました。なお、寺院は古墳にかわって豪族の権威を象徴するものであり、礎石(そせき、建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと)の上に丹塗(にぬり、朱色で塗ること)の柱を立てて、屋根に瓦(かわら)を葺(ふ)く建築技法が用いられました。聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(ほうりゅうじ、別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また...
ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
産業構造の変化によって労働者人口が増加したことで「俸給(ほうきゅう)生活者(=サラリーマン)」などの一般勤労者が誕生したほか、バスガールや電話交換手など女性が「職業婦人」として社会に進出しました。また都市内では市電や市バス、円タク(1円均一の料金で大都市を走ったタクシーのこと)などの交通機関が発達し、東京と大阪では地下鉄も開通しました。なお、地下鉄は大阪が全国初の公営(大阪市)として開業しています...
明治から大正にかけて、我が国の人口は大幅に増加しました。明治初年には約3,300万人に過ぎなかったのが、我が国初の国勢調査が行われた大正9(1920)年には約5,600万人近くにまで増えたのです。こうした人口増加の背景には、明治以後に農業生産力が増大して多くの人口を養えるだけの食糧が確保できたことや、目覚ましい工業化に伴う経済発展や国民の生活水準の向上、加えて医学の進歩や内乱のない平和な社会の構築などが挙げられ...
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
宇野内閣の後継には海部俊樹(かいふとしき)氏が首相に選ばれ、平成元(1989)年8月に第一次内閣を組織しました。海部首相は平成2(1990)年2月に行われた衆議院総選挙で勝利し、新たに第二次内閣を組織しましたが、同年8月に発生したイラクによるクウェート侵攻から翌平成3(1991)年1月に勃発(ぼっぱつ)した「湾岸戦争」においては、人的支援の不手際もあったことからその対策に苦慮することになりました。その後、自らが政策...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...
つまり、政府からすれば、自分だけでは困難な道のりが予想された立憲国家の樹立や議会政治の実現をわざわざ民権派のほうから自主的にアシストしてくれたわけですから、建前上はともかく、自由民権運動は政府にとって心の底では「願ったり叶(かな)ったり」だったのではないでしょうか。もっとも、政府と民権派とが「立憲国家の樹立と議会政治の実現」という共通の目標を持っていたとしても、政府主導による「上からの改革」と自由...
ところで、先述した「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」、あるいは「集会条例」などが政府から出されたという事実を考慮(こうりょ)すれば、政府が自由民権運動を弾圧しようという意図を持っていたのは明白だという意見が出てくるかもしれません。しかし、西南戦争が終わってからの政府の動きを見れば、地方三新法の制定から府県会を実現させ、また明治十四年の政変がその原因とはいえ、国会開設の勅諭を発表して国会を開...
北海道に開拓使(かいたくし)を設置して以来、政府は多額の事業費を投入しましたが、赤字が続いていました。このため、旧薩摩藩出身で開拓長官の黒田清隆(くろだきよたか)は、国の管理上にあった開拓に関する官有物(かんゆうぶつ)を民間に払い下げようとしました。黒田は、同じ薩摩出身の政商である五代友厚(ごだいともあつ)に安くて有利な条件で官有物を払い下げしようとしましたが、明治14(1881)年7月にその内容が当時...