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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 戦後の文化 その2

    科学や芸術の分野においては、中断していた文化勲章の授与が昭和21(1946)年に復活し、昭和23(1948)年以降は毎年11月3日の「文化の日」に授与されるようになりました。また、昭和24(1949)年には理論物理学者の湯川秀樹(ゆかわひでき)が日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞し、敗戦後の国民に大きな勇気を与えました。同年には、あらゆる分野の科学者を代表する機関としての「日本学術会議」が設立されています。一...

  • 戦後の文化 その1

    大東亜戦争の敗北によって我が国は大きな痛手をこうむることになりましたが、戦後の復興は、文化の様々な分野での新しい流れを生み出しました。文学では、社会常識や既成のリアリズムに挑戦したり、自身の戦争体験を表現したりするといった、戦後の新しい価値観を代表した、太宰治(だざいおさむ)や坂口安吾(さかぐちあんご)、大岡昇平(おおおかしょうへい)や野間宏(のまひろし)などの作品が当時の人々の話題を呼びました。...

  • 貿易摩擦とバブル景気 その4

    ところで、バブル景気といえば、一般的には「投機的な面が強く、実態とかけ離れていた」という否定的なイメージが強いようです。確かに、バブル景気には経済の実態を反映していない側面がありましたが、自由経済の下ではこうした事態は有り得ない話ではなく、時間が経てば自然に落ち着くか、あるいは政策によって緩やかに収束させれば良いのです。バブル景気で株価や地価が上がって大儲(もう)けをした人がいたのも事実ですが、そ...

  • 貿易摩擦とバブル景気 その3

    円高不況の到来に伴い、日本銀行は公定歩合を引き下げました。なぜなら、公定歩合を下げることによって銀行が企業にお金を貸しやすくなり、企業が不況を乗り越えやすくなるからです。また、円高の加速によって我が国が内需拡大型の経済転換を強(し)いられたことで、公共事業の拡大や、所得税減税による内需拡大・低金利政策などが矢継ぎ早に実施されました。これらの政策が功を奏すると同時に、輸出産業がマイクロ=エレクトロニ...

  • 【ハイブリッド方式】第100回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年1月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、令和5年5月より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコード...

  • 貿易摩擦とバブル景気 その2

    我が国における農産物の輸入自由化を実現したアメリカでしたが、貿易摩擦がその後も続いたこともあって、平成元(1989)年からの「日米構造協議」において、アメリカは「貿易の不均衡の原因は両国における諸制度や構造そのものにある」として、我が国の経済構造の改革を求めました。また、それ以前の昭和60(1985)年には、アメリカの呼びかけで国際通貨基金(=IMF)の五大国(日本・アメリカ・西ドイツ・フランス・イギリス)に...

  • 貿易摩擦とバブル景気 その1

    1980年代前半の我が国は、第2次石油危機を省エネルギー化の成功で乗り切ったこともあり、低率ながら安定した成長を続けました。また、省エネルギー化をもたらした優れた技術を持つ日本製の工業製品が世界を席巻(せっけん)したことで、我が国の輸出が拡大しましたが、それは同時に欧米先進国の日本に対する輸入超過となり、特にアメリカは毎年膨大(ぼうだい)な額の対日貿易赤字を続けました。このため、アメリカは我が国に自動...

  • 保守政権の動揺 その12

    ところで、中曽根首相が昭和60(1985)年に終戦記念日である8月15日に靖国神社を公式に参拝した際に、教科書誤報事件と同様に中韓両国などによる猛反発を受けたことで、以後の参拝を中止しました。このことが、我が国の一部マスコミが中心となって歴代首相や大臣らが靖国神社に参拝することをためらわせる風潮をつくり上げるきっかけとなったのではないか、と考えられており、現代の内閣にまでその影響が続いています。なお、中曽...

  • 保守政権の動揺 その11

    昭和57(1982)年11月、鈴木善幸にかわって中曽根康弘(なかそねやすひろ)が首相となり、内閣を組織しました。「戦後政治の総決算」を唱えた中曽根内閣は「行財政改革」を推進して、電電公社と専売公社を昭和60(1985)年に民営化(現在のNTTとJT)したほか、昭和62(1987)年には国鉄(=日本国有鉄道)を分割民営化(現在のJRグループ)させました。また、昭和59(1984)年には首相直属の諮問(しもん、意見を求めるという意味...

  • 保守政権の動揺 その10

    ところで、この鈴木内閣の時代に我が国の教育や国益そのものを著しく損ねる出来事が起きてしまったのをご存じでしょうか。いわゆる「教科書誤報事件」のことです。鈴木内閣時代の昭和56(1981)年に、政府与党の自民党が教科書制度改革案を発表しましたが、これに危機感を抱いた人々によって「日本が再び軍国主義の道を歩む」などと政治問題化されたとともに、わざわざ中華人民共和国や韓国に「ご注進」が行われました。そして、翌...

  • 保守政権の動揺 その9

    1979(昭和54)年2月にイラン革命が起きると、これをきっかけに石油生産が中断されたことを受けて、原油価格が大幅に上昇しました。これを「第2次石油危機」といいます。2度にわたる石油危機において、企業は「省エネルギー」を進めたほか、新規採用の抑制やパート労働への切り替えなどで人件費を削減した「減量経営」を行いました。こうした努力の結果、第2次石油危機の影響は、かつての第1次石油危機と比べるとそれほど大きいも...

  • 保守政権の動揺 その8

    福田内閣の後を受けて昭和53(1978)年12月に成立した大平正芳(おおひらまさよし)内閣は、国会における「保革伯仲」状態と与党の内紛が続く中で、財政再建をめざしました。ところで、大平内閣時代の昭和54(1979)年4月に、我が国の伝統文化に根差すとともに、日本人の歴史観の根幹を形成してきた元号が法制化されました。いわゆる「元号法」のことです。大化の改新の始まりでもある「乙巳(いっし)の変」が起きた645年に我が国...

  • 保守政権の動揺 その7

    昭和51(1976)年12月に成立した福田内閣は、当時の円高不況や欧米との貿易摩擦の解消、あるいは東南アジア諸国との関係強化をめざすとともに、昭和47(1972)年に国交正常化させた中華人民共和国との条約交渉に臨み、昭和53(1978)年8月に「日中平和友好条約」を結びました。条約において、主権・領土の相互尊重や相互不可侵・相互内政不干渉が明記されるとともに、中華人民共和国側からの賠償金請求が放棄されました。しかし実...

  • 保守政権の動揺 その6

    首相の政治資金調達をめぐる疑惑となった「金脈問題」によって田中角栄内閣が昭和49(1974)年12月に総辞職すると、かわって三木武夫(みきたけお)内閣が成立しました。三木内閣は「クリーン政治」をスローガンに掲げて、政治資金規正法を全面的に改正しました。しかし、昭和51(1976)年にアメリカ・ロッキード社の航空機売り込みをめぐった田中内閣時代の汚職事件が明るみになり、田中前首相が逮捕されるという事態が発生しまし...

  • 保守政権の動揺 その5

    ところで、原油価格の高騰は我が国のみならず世界経済にも大打撃を与え、1973(昭和48)年を境に経済成長率の低下や物価あるいは失業率を上昇させるなど、深刻な事態をもたらしました。このため、日本・アメリカ・西ドイツ(後のドイツ)・イギリス・フランス・イタリアの6か国の首脳による「先進国首脳会議(サミット)」が1975(昭和50)年に開催され、経済成長や貿易問題などの先進国間での経済政策を調整しました。先進国首脳...

  • 保守政権の動揺 その4

    第1次石油危機に見舞われた我が国では、昭和48(1973)年11月に第二次田中内閣が石油緊急対策要綱を閣議決定して総需要抑制策を行いました。この結果、我が国の消費が低迷するともに、大型公共事業が凍結あるいは縮小されることとなりました。また、田中内閣は一般企業に対して石油・電力の20%削減を要請しましたが、大混乱の中で企業がこぞって原材料を買い占(し)めたこともあって「物不足」が喧伝(けんでん、盛んに言いふら...

  • 保守政権の動揺 その3

    田中内閣は、当時太平洋沿岸に集中していた工業地帯を全国各地の拠点都市に分散させるとともに、これらの間を新幹線や高速道路などの高速交通網で結ぶとする「日本列島改造論」を掲(かか)げて、公共事業を積極的に推進しました。しかし、これらの政策は将来の事業化を見込んでの土地投機などによる地価の高騰を招き、社会問題と化しました。そんな折、我が国はおろか世界中に大打撃を与える事態が発生しました。1973(昭和48)年...

  • 保守政権の動揺 その2

    米中の歴史的和解を受けて、田中首相も中華人民共和国との国交樹立に向けて動き出し、内閣成立からわずか3か月足らずの昭和47(1972)年9月に、首相自らが訪中して周恩来首相と会談して「日中共同声明」を発表し、いわゆる「日中国交正常化」を実現させました。一方、日中共同声明の直後に、日本政府が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了したものと認められる」と表明したことにより、台湾の国民党政府が我が国との外交関係の...

  • 保守政権の動揺 その1

    ※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(2月7日までの予定)。昭和47(1972)年7月、7年8か月続いた佐藤栄作(さとうえいさく)内閣に代わって、田中角栄(たなかかくえい)が「決断と実行」をキャッチフレーズとして内閣総理大臣に就任しました。田中内閣が誕生する頃、世界情勢は大きな変化を遂げていました。同じ1972(昭和47)年2月に、アメリカのニクソン大統領が中華人民共和国を訪問して、毛沢東(もうたくとう)...

  • 院政期の文化 その3

    ※「第99回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月14日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(2月7日までの予定)。絵画では、大和絵(やまとえ)の様式によって時間の経過に従って絵や詞書(ことばがき)を織り交ぜながら物語を描くという絵巻物(えまきもの)が発達し、「源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)」や「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき...

  • 院政期の文化 その2

    当時のその他の文学作品としては、我が国やインドあるいはチャイナに伝わる1,000余りの説話を集めた「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」があり、当時の我が国の武士や庶民の生活などが見事に表現されています。ちなみに、前回(第98回)の講座で紹介した「弘法(こうぼう)にも筆の誤り」や「受領は倒るるところに土をつかめ」のエピソードは今昔物語集が由来となっているほか、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の...

  • 院政期の文化 その1

    院政期に入ると、朝廷を中心に栄えてきた貴族文化が地方へと広がっていきましたが、その背景には、この頃までに新たに勢力を伸ばし始めた武士の存在がありました。当時の建築としては、奥州藤原氏による平泉の「中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)」や、陸奥(むつ、ここでは現在の福島県いわき市)の「白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)」、豊後(ぶんご、現在の大分県豊後高田市)の「富貴寺大堂(ふきじおおどう)」な...

  • 平氏政権の誕生 その6

    源頼朝や足利尊氏(あしかがたかうじ)、あるいは織田信長(おだのぶなが)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)・徳川家康(とくがわいえやす)など、後の世で武士による政治が広く支持されたという現実を考えれば、初めてであるがゆえに、確固たるビジョンを持てない「開拓者」としての立場でしかなかった平氏政権の悲劇でもありました。武士として初めて政治の実権を握った平氏は、当時の国民の代表たる武士たちの共感を得ることがで...

  • 平氏政権の誕生 その5

    そんな折に、平氏が政治の実権を握ることに成功したことで、自分たちと同じ武士である平氏であれば、必ずや「武士のための政治」を実現してくれるに違いない、と全国の武士たちが期待したのです。ところが、祖父の正盛の代から皇室や貴族と接することの多かった清盛には「武士のための政治」がどのようなものであるかが理解できませんでした。明確なビジョンを持っていなかったゆえに、清盛は摂関家と同じやり方で政治を行う以外に...

  • 平氏政権の誕生 その4

    各地で武士が誕生し、その武装力を高めることによって、地方を中心に武士が世の中を支えるようになりましたが、そんな彼らには大きな悩みがありました。平安時代の頃には、それまでの公地公民の原則が完全に崩壊して、荘園制度が全盛期を迎えていましたが、この制度には大きな欠陥がありました。それは、荘園の所有が上流貴族や寺社のみに認められていたということです。実際に田畑を耕しているのは他ならぬ武士たちなのですが、朝...

  • 平氏政権の誕生 その3

    平氏による政権に反発する勢力の中には、後白河法皇もおられました。そもそもご自身の院政の強化のために武士を使っていたはずが、いつの間にかその武士に政権を奪われたことがご不満であられたのです。安元(あんげん)3(1177)年、後白河法皇の近臣たちが京都の鹿ヶ谷(ししがたに、現在の京都市左京区)に集まって平氏打倒の計略をめぐらしていましたが、事前に発覚して失敗しました。これを「鹿ヶ谷の陰謀」といいます。陰謀...

  • 平氏政権の誕生 その2

    平氏政権は武士による政権でしたが、平清盛が安徳天皇の外祖父(がいそふ、母方の祖父のこと)となったり、平家一門が次々と朝廷の要職に就(つ)いたりしたことで、摂関家のような貴族的な性格を持つようになりました。平氏は荘園や知行国の他にも「日宋(にっそう)貿易」という大きな経済的基盤をもっていました。先述のとおり、我が国と宋とは正式な国交を結びませんでしたが、民間の商船との交易は盛んに行われていました。清...

  • 平氏政権の誕生 その1

    さて、保元の乱や平治の乱によって朝廷内の勢力争いに武士の持つ戦闘力が利用されたということは、それを背景として、武士が積極的に政治に介入し始めたことも意味していました。永暦(えいりゃく)元(1160)年、清盛は正三位(しょうさんみ)に昇進して、武士でありながら公家(くげ)の身分を得ることとなり、それまで貴族から見下されていた武士が初めて公家の仲間入りをし、彼らと肩を並べることになりました。後に清盛は仁安...

  • 保元・平治の乱 その5

    清盛の母は早くに亡くなりましたが、継母にあたる池禅尼(いけのぜんに)が健在でした。池禅尼は、捕らえられた頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子に似ているから」という理由で、清盛に対して頼朝の生命を助けるように頼みました。はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(=清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議したため、仕方...

  • 保元・平治の乱 その4

    さて、平治の乱で非業(ひごう)の最期を遂げた義朝には多くの子がいましたが、長男の源義平(みなもとのよしひら)は処刑され、三男で当時14歳だった源頼朝や、九男でまだ赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)らが捕らえられて、清盛の前に引き出されました。選挙という民主的な手段がある現代とは違って、昔は政敵とみなされた人物は本人のみならず子供であろうが一族もろとも殺されるのが常でした。なぜなら、身内を殺され...

  • 保元・平治の乱 その3

    保元3(1158)年旧暦8月、後白河天皇は子の二条(にじょう)天皇に譲位され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった信西(しんぜい、出家前の名は藤原通憲=ふじわらのみちのり)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激しくなりました。一方、保元の乱の戦功によって平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じら...

  • 保元・平治の乱 その2

    しかし、近衛天皇は久寿(きゅうじゅ)2(1155)年旧暦7月に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇は、崇徳上皇の子である重仁(しげひと)親王が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになった、上皇の弟にあたる雅仁(まさひと)親王を、後白河天皇として強引に即位させました。我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天...

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