1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
科学や芸術の分野においては、中断していた文化勲章の授与が昭和21(1946)年に復活し、昭和23(1948)年以降は毎年11月3日の「文化の日」に授与されるようになりました。また、昭和24(1949)年には理論物理学者の湯川秀樹(ゆかわひでき)が日本人で初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞し、敗戦後の国民に大きな勇気を与えました。同年には、あらゆる分野の科学者を代表する機関としての「日本学術会議」が設立されています。一...
大東亜戦争の敗北によって我が国は大きな痛手をこうむることになりましたが、戦後の復興は、文化の様々な分野での新しい流れを生み出しました。文学では、社会常識や既成のリアリズムに挑戦したり、自身の戦争体験を表現したりするといった、戦後の新しい価値観を代表した、太宰治(だざいおさむ)や坂口安吾(さかぐちあんご)、大岡昇平(おおおかしょうへい)や野間宏(のまひろし)などの作品が当時の人々の話題を呼びました。...
ところで、バブル景気といえば、一般的には「投機的な面が強く、実態とかけ離れていた」という否定的なイメージが強いようです。確かに、バブル景気には経済の実態を反映していない側面がありましたが、自由経済の下ではこうした事態は有り得ない話ではなく、時間が経てば自然に落ち着くか、あるいは政策によって緩やかに収束させれば良いのです。バブル景気で株価や地価が上がって大儲(もう)けをした人がいたのも事実ですが、そ...
円高不況の到来に伴い、日本銀行は公定歩合を引き下げました。なぜなら、公定歩合を下げることによって銀行が企業にお金を貸しやすくなり、企業が不況を乗り越えやすくなるからです。また、円高の加速によって我が国が内需拡大型の経済転換を強(し)いられたことで、公共事業の拡大や、所得税減税による内需拡大・低金利政策などが矢継ぎ早に実施されました。これらの政策が功を奏すると同時に、輸出産業がマイクロ=エレクトロニ...
【ハイブリッド方式】第100回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年1月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、令和5年5月より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコード...
我が国における農産物の輸入自由化を実現したアメリカでしたが、貿易摩擦がその後も続いたこともあって、平成元(1989)年からの「日米構造協議」において、アメリカは「貿易の不均衡の原因は両国における諸制度や構造そのものにある」として、我が国の経済構造の改革を求めました。また、それ以前の昭和60(1985)年には、アメリカの呼びかけで国際通貨基金(=IMF)の五大国(日本・アメリカ・西ドイツ・フランス・イギリス)に...
1980年代前半の我が国は、第2次石油危機を省エネルギー化の成功で乗り切ったこともあり、低率ながら安定した成長を続けました。また、省エネルギー化をもたらした優れた技術を持つ日本製の工業製品が世界を席巻(せっけん)したことで、我が国の輸出が拡大しましたが、それは同時に欧米先進国の日本に対する輸入超過となり、特にアメリカは毎年膨大(ぼうだい)な額の対日貿易赤字を続けました。このため、アメリカは我が国に自動...
ところで、中曽根首相が昭和60(1985)年に終戦記念日である8月15日に靖国神社を公式に参拝した際に、教科書誤報事件と同様に中韓両国などによる猛反発を受けたことで、以後の参拝を中止しました。このことが、我が国の一部マスコミが中心となって歴代首相や大臣らが靖国神社に参拝することをためらわせる風潮をつくり上げるきっかけとなったのではないか、と考えられており、現代の内閣にまでその影響が続いています。なお、中曽...
昭和57(1982)年11月、鈴木善幸にかわって中曽根康弘(なかそねやすひろ)が首相となり、内閣を組織しました。「戦後政治の総決算」を唱えた中曽根内閣は「行財政改革」を推進して、電電公社と専売公社を昭和60(1985)年に民営化(現在のNTTとJT)したほか、昭和62(1987)年には国鉄(=日本国有鉄道)を分割民営化(現在のJRグループ)させました。また、昭和59(1984)年には首相直属の諮問(しもん、意見を求めるという意味...
ところで、この鈴木内閣の時代に我が国の教育や国益そのものを著しく損ねる出来事が起きてしまったのをご存じでしょうか。いわゆる「教科書誤報事件」のことです。鈴木内閣時代の昭和56(1981)年に、政府与党の自民党が教科書制度改革案を発表しましたが、これに危機感を抱いた人々によって「日本が再び軍国主義の道を歩む」などと政治問題化されたとともに、わざわざ中華人民共和国や韓国に「ご注進」が行われました。そして、翌...
1979(昭和54)年2月にイラン革命が起きると、これをきっかけに石油生産が中断されたことを受けて、原油価格が大幅に上昇しました。これを「第2次石油危機」といいます。2度にわたる石油危機において、企業は「省エネルギー」を進めたほか、新規採用の抑制やパート労働への切り替えなどで人件費を削減した「減量経営」を行いました。こうした努力の結果、第2次石油危機の影響は、かつての第1次石油危機と比べるとそれほど大きいも...
福田内閣の後を受けて昭和53(1978)年12月に成立した大平正芳(おおひらまさよし)内閣は、国会における「保革伯仲」状態と与党の内紛が続く中で、財政再建をめざしました。ところで、大平内閣時代の昭和54(1979)年4月に、我が国の伝統文化に根差すとともに、日本人の歴史観の根幹を形成してきた元号が法制化されました。いわゆる「元号法」のことです。大化の改新の始まりでもある「乙巳(いっし)の変」が起きた645年に我が国...
昭和51(1976)年12月に成立した福田内閣は、当時の円高不況や欧米との貿易摩擦の解消、あるいは東南アジア諸国との関係強化をめざすとともに、昭和47(1972)年に国交正常化させた中華人民共和国との条約交渉に臨み、昭和53(1978)年8月に「日中平和友好条約」を結びました。条約において、主権・領土の相互尊重や相互不可侵・相互内政不干渉が明記されるとともに、中華人民共和国側からの賠償金請求が放棄されました。しかし実...
首相の政治資金調達をめぐる疑惑となった「金脈問題」によって田中角栄内閣が昭和49(1974)年12月に総辞職すると、かわって三木武夫(みきたけお)内閣が成立しました。三木内閣は「クリーン政治」をスローガンに掲げて、政治資金規正法を全面的に改正しました。しかし、昭和51(1976)年にアメリカ・ロッキード社の航空機売り込みをめぐった田中内閣時代の汚職事件が明るみになり、田中前首相が逮捕されるという事態が発生しまし...
ところで、原油価格の高騰は我が国のみならず世界経済にも大打撃を与え、1973(昭和48)年を境に経済成長率の低下や物価あるいは失業率を上昇させるなど、深刻な事態をもたらしました。このため、日本・アメリカ・西ドイツ(後のドイツ)・イギリス・フランス・イタリアの6か国の首脳による「先進国首脳会議(サミット)」が1975(昭和50)年に開催され、経済成長や貿易問題などの先進国間での経済政策を調整しました。先進国首脳...
第1次石油危機に見舞われた我が国では、昭和48(1973)年11月に第二次田中内閣が石油緊急対策要綱を閣議決定して総需要抑制策を行いました。この結果、我が国の消費が低迷するともに、大型公共事業が凍結あるいは縮小されることとなりました。また、田中内閣は一般企業に対して石油・電力の20%削減を要請しましたが、大混乱の中で企業がこぞって原材料を買い占(し)めたこともあって「物不足」が喧伝(けんでん、盛んに言いふら...
田中内閣は、当時太平洋沿岸に集中していた工業地帯を全国各地の拠点都市に分散させるとともに、これらの間を新幹線や高速道路などの高速交通網で結ぶとする「日本列島改造論」を掲(かか)げて、公共事業を積極的に推進しました。しかし、これらの政策は将来の事業化を見込んでの土地投機などによる地価の高騰を招き、社会問題と化しました。そんな折、我が国はおろか世界中に大打撃を与える事態が発生しました。1973(昭和48)年...
米中の歴史的和解を受けて、田中首相も中華人民共和国との国交樹立に向けて動き出し、内閣成立からわずか3か月足らずの昭和47(1972)年9月に、首相自らが訪中して周恩来首相と会談して「日中共同声明」を発表し、いわゆる「日中国交正常化」を実現させました。一方、日中共同声明の直後に、日本政府が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了したものと認められる」と表明したことにより、台湾の国民党政府が我が国との外交関係の...
※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(2月7日までの予定)。昭和47(1972)年7月、7年8か月続いた佐藤栄作(さとうえいさく)内閣に代わって、田中角栄(たなかかくえい)が「決断と実行」をキャッチフレーズとして内閣総理大臣に就任しました。田中内閣が誕生する頃、世界情勢は大きな変化を遂げていました。同じ1972(昭和47)年2月に、アメリカのニクソン大統領が中華人民共和国を訪問して、毛沢東(もうたくとう)...
※「第99回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月14日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(2月7日までの予定)。絵画では、大和絵(やまとえ)の様式によって時間の経過に従って絵や詞書(ことばがき)を織り交ぜながら物語を描くという絵巻物(えまきもの)が発達し、「源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)」や「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき...
当時のその他の文学作品としては、我が国やインドあるいはチャイナに伝わる1,000余りの説話を集めた「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」があり、当時の我が国の武士や庶民の生活などが見事に表現されています。ちなみに、前回(第98回)の講座で紹介した「弘法(こうぼう)にも筆の誤り」や「受領は倒るるところに土をつかめ」のエピソードは今昔物語集が由来となっているほか、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の...
院政期に入ると、朝廷を中心に栄えてきた貴族文化が地方へと広がっていきましたが、その背景には、この頃までに新たに勢力を伸ばし始めた武士の存在がありました。当時の建築としては、奥州藤原氏による平泉の「中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)」や、陸奥(むつ、ここでは現在の福島県いわき市)の「白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)」、豊後(ぶんご、現在の大分県豊後高田市)の「富貴寺大堂(ふきじおおどう)」な...
源頼朝や足利尊氏(あしかがたかうじ)、あるいは織田信長(おだのぶなが)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)・徳川家康(とくがわいえやす)など、後の世で武士による政治が広く支持されたという現実を考えれば、初めてであるがゆえに、確固たるビジョンを持てない「開拓者」としての立場でしかなかった平氏政権の悲劇でもありました。武士として初めて政治の実権を握った平氏は、当時の国民の代表たる武士たちの共感を得ることがで...
そんな折に、平氏が政治の実権を握ることに成功したことで、自分たちと同じ武士である平氏であれば、必ずや「武士のための政治」を実現してくれるに違いない、と全国の武士たちが期待したのです。ところが、祖父の正盛の代から皇室や貴族と接することの多かった清盛には「武士のための政治」がどのようなものであるかが理解できませんでした。明確なビジョンを持っていなかったゆえに、清盛は摂関家と同じやり方で政治を行う以外に...
各地で武士が誕生し、その武装力を高めることによって、地方を中心に武士が世の中を支えるようになりましたが、そんな彼らには大きな悩みがありました。平安時代の頃には、それまでの公地公民の原則が完全に崩壊して、荘園制度が全盛期を迎えていましたが、この制度には大きな欠陥がありました。それは、荘園の所有が上流貴族や寺社のみに認められていたということです。実際に田畑を耕しているのは他ならぬ武士たちなのですが、朝...
平氏による政権に反発する勢力の中には、後白河法皇もおられました。そもそもご自身の院政の強化のために武士を使っていたはずが、いつの間にかその武士に政権を奪われたことがご不満であられたのです。安元(あんげん)3(1177)年、後白河法皇の近臣たちが京都の鹿ヶ谷(ししがたに、現在の京都市左京区)に集まって平氏打倒の計略をめぐらしていましたが、事前に発覚して失敗しました。これを「鹿ヶ谷の陰謀」といいます。陰謀...
平氏政権は武士による政権でしたが、平清盛が安徳天皇の外祖父(がいそふ、母方の祖父のこと)となったり、平家一門が次々と朝廷の要職に就(つ)いたりしたことで、摂関家のような貴族的な性格を持つようになりました。平氏は荘園や知行国の他にも「日宋(にっそう)貿易」という大きな経済的基盤をもっていました。先述のとおり、我が国と宋とは正式な国交を結びませんでしたが、民間の商船との交易は盛んに行われていました。清...
さて、保元の乱や平治の乱によって朝廷内の勢力争いに武士の持つ戦闘力が利用されたということは、それを背景として、武士が積極的に政治に介入し始めたことも意味していました。永暦(えいりゃく)元(1160)年、清盛は正三位(しょうさんみ)に昇進して、武士でありながら公家(くげ)の身分を得ることとなり、それまで貴族から見下されていた武士が初めて公家の仲間入りをし、彼らと肩を並べることになりました。後に清盛は仁安...
清盛の母は早くに亡くなりましたが、継母にあたる池禅尼(いけのぜんに)が健在でした。池禅尼は、捕らえられた頼朝の姿を見て「若くして亡くした自分の子に似ているから」という理由で、清盛に対して頼朝の生命を助けるように頼みました。はじめのうちは継母を無視して処刑しようとした清盛でしたが、池禅尼が「夫(=清盛の父である忠盛のこと)が生きていればこんなつれないことは言わないだろうに」と激しく抗議したため、仕方...
さて、平治の乱で非業(ひごう)の最期を遂げた義朝には多くの子がいましたが、長男の源義平(みなもとのよしひら)は処刑され、三男で当時14歳だった源頼朝や、九男でまだ赤ん坊だった源義経(みなもとのよしつね)らが捕らえられて、清盛の前に引き出されました。選挙という民主的な手段がある現代とは違って、昔は政敵とみなされた人物は本人のみならず子供であろうが一族もろとも殺されるのが常でした。なぜなら、身内を殺され...
保元3(1158)年旧暦8月、後白河天皇は子の二条(にじょう)天皇に譲位され、自らは上皇として院政を開始されましたが、まもなく後白河上皇の近臣であった信西(しんぜい、出家前の名は藤原通憲=ふじわらのみちのり)と藤原信頼(ふじわらののぶより)との対立が激しくなりました。一方、保元の乱の戦功によって平清盛や源義朝にも恩賞が与えられましたが、その差は歴然としていました。九州の大宰大弐(だざいのだいに)に任じら...
しかし、近衛天皇は久寿(きゅうじゅ)2(1155)年旧暦7月に子孫を残されぬまま崩御されました。次の天皇は、崇徳上皇の子である重仁(しげひと)親王が継承される可能性が高かったのですが、崇徳上皇の血統を嫌われた鳥羽法皇は、崇徳上皇と同じ璋子との間にお生まれになった、上皇の弟にあたる雅仁(まさひと)親王を、後白河天皇として強引に即位させました。我が子である重仁親王が天皇として即位しなければ、崇徳上皇は「治天...
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1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...
ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...