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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 摂関政治の全盛 その1

    康保(こうほう)4(967)年に村上天皇が崩御され、子の冷泉(れいぜい)天皇が即位された際には、関白兼太政大臣として藤原忠平の子である藤原実頼(ふじわらのさねより)が、右大臣に藤原師尹(ふじわらのもろただ)が、そして左大臣に醍醐天皇の子で臣籍降下した源高明(みなもとのたかあきら)がそれぞれ就任しました。冷泉天皇はご病弱であったため、早めに皇太子を決める必要があり、候補として冷泉天皇の弟である為平(ため...

  • 藤原北家の台頭 その7

    延喜19(919)年、道真が亡くなった大宰府の墓所に社殿が建てられたのを皮切りに、天暦(てんりゃく)元(947)年には京都の北野(きたの)にも社殿を建てて道真を祀(まつ)るなど、全国的に道真を祀った神社が建立されました。落雷を起こしたことから、道真は雷の神であった火雷天神(からいてんじん)と同一視され、やがて「天神様」と称されました。また「雷神となった道真公の怨霊が天に満ちた」ことから、道真を祀った社(や...

  • 藤原北家の台頭 その6

    菅原道真が死去した延喜3(903)年から6年後の延喜9(909)年、左大臣の藤原時平が39歳の若さで亡くなったのを皮切りに、延喜23(923)年には醍醐天皇の皇子で皇太子だった保明(やすあきら)親王が21歳の若さで、その2年後には保明親王と藤原時平の娘との間に生まれた子で、醍醐天皇の孫でもあった新たな皇太子の慶頼王(やすよりおう)がわずか5歳で亡くなるなどの不幸が相次ぎました。当時は全国的に天災や疫病(えきびょう)が...

  • 藤原北家の台頭 その5

    ご即位後間もなく起きた「阿衡の紛議」によってご心痛を受けられた宇多天皇でしたが、自身は藤原氏を外戚とせず、また基経の死後に後を継いだ藤原時平(ふじわらのときひら)がまだ若かったこともあって、藤原氏以外の貴族を次々と登用されましたが、その中のひとりに菅原道真がいました。菅原氏は代々学者の一族でしたが、特に優秀であった道真は、宇多天皇のご信任を受けて要職を歴任しました。寛平(かんぴょう)6(894)年には...

  • 藤原北家の台頭 その4

    藤原良房には後継となる男子がいなかったので、兄の子である藤原基経(ふじわらのもとつね)を養子とすると、基経は元慶(がんぎょう)8(884)年に新たに即位された光孝(こうこう)天皇の関白(かんぱく、天皇の成人後に政治を代行する職のこと)に事実上就任しました。その後、基経は光孝天皇の子である宇多(うだ)天皇が仁和(にんな)3(887)年にご即位された際に正式に関白に任命されましたが、宇多天皇が基経に出された勅...

  • 藤原北家の台頭 その3

    伴健岑が承和の変で失脚した伴(とも)氏でしたが、一族である伴善男(とものよしお)が大納言(だいなごん)にまで昇進し、藤原氏に対抗できる勢力に成長しました。しかし、そんな中で貞観8(866)年に平安京の応天門が炎上してしまうという事件が起きました。伴善男は、自分の政敵であり嵯峨天皇の実子でもあった左大臣(さだいじん)の源信(みなもとのまこと)による放火であると訴えましたが、事件を調査した太政大臣の藤原良...

  • 藤原北家の台頭 その2

    承和(じょうわ)9(842)年、嵯峨上皇が崩御された直後に、伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)らが皇太子である恒貞親王を東国へ移して謀反(むほん)をたくらんでいることが発覚しました。伴健岑や橘逸勢らは流罪となり、恒貞親王は皇太子を廃され、道康親王が新たに皇太子となりました。この事件を当時の年号から「承和の変」といいます。しかし、冷静になって考えてみれば、皇太子としての身分が保証され...

  • 藤原北家の台頭 その1

    桓武天皇や嵯峨天皇など、平安時代の初期には藤原氏などの貴族を抑えて天皇ご自身が政務をとっておられました。これを「親政(しんせい)」といいます。しかし、9世紀の半ば頃になると、藤原氏の北家が皇室との結びつきを強めて次第に勢力を伸ばしていきました。北家とは藤原四兄弟の房前(ふささき)の子孫で、大同5(810)年に起きた薬子の変の際に嵯峨天皇の秘書長官である蔵人頭(くろうどのとう)として活躍した藤原冬嗣の一...

  • 弘仁・貞観文化 その16

    前回(第97回)の講座で紹介したとおり、奈良時代の8世紀頃から仏教の広まりによって神祇(じんぎ)信仰と仏教とが次第に調和し融合(ゆうごう)する「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の風潮が広がりました。神社の境内(けいだい)に神宮寺(じんぐうじ)を建てたり、寺院の境内に守護神(しゅごしん)をまつり、神前で読経(どきょう)したりする例も多くなりました。神仏習合を反映して神像(しんぞう)彫刻も盛んとなり、薬...

  • 弘仁・貞観文化 その15

    密教は美術の方面でも影響を及ぼし、神秘的な作品が数多くつくられました。彫刻では密教とかかわりのある如意輪観音(にょいりんかんのん)や不動明王などの仏像が、一本の木から一体の仏像を彫りおこす一木造(いちぼくづくり)でつくられました。当時の代表的な彫刻としては、観心寺(かんしんじ)如意輪観音像や室生寺弥勒堂(みろくどう)の釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)、衣のしわを波が翻(ひるがえ)っているように...

  • 弘仁・貞観文化 その14

    天台宗や真言宗は、深遠(しんえん)な呪術(じゅじゅつ)の取得や厳しい修行によって仏教の奥義(おうぎ)を究めるという密教であり、加持祈祷(かじきとう)を中心とする儀式がタタリを鎮(しず)めるなど怨霊(おんりょう)封じに相応(ふさわ)しく、また幸福を追求する「現世利益(げんぜりやく)」の面から皇室や貴族によって支持されました。ちなみに、真言宗の密教は「東密(とうみつ)」、天台宗の密教は「台密(たいみつ...

  • 弘仁・貞観文化 その13

    空海は承和(じょうわ)2(835)年に62歳で死去しましたが、それから86年後の延喜21(921)年に、醍醐天皇から「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。なお、空海は「入定(にゅうじょう)」したとされ、入定すると肉体もまた永続性を獲得するという考え方から、後に空海は死んだのではなく、永遠に現世に留まって、衆生(しゅじょう)の救済のための禅定(...

  • 弘仁・貞観文化 その12

    ところで、空海に由来して今も広く使用される「弘法(こうぼう)にも筆の誤り」「弘法筆を選ばず」ということわざですが、「弘法にも筆の誤り」は「その道に優れている人でも時には失敗することがある」、「弘法筆を選ばず」は「本当の名人は道具の善し悪しなど問題にしない」という意味で使われています。実は、このうち「弘法にも筆の誤り」の由来が、平安時代末期に成立したとされる「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)...

  • 弘仁・貞観文化 その11

    真言宗(しんごんしゅう)の開宗(かいしゅう)は弘仁14(823)年とされていますが、この年に空海は嵯峨天皇から京都の東寺(とうじ)を下賜されました。東寺は平安京遷都に際して、西寺(さいじ)とともに鎮護国家の中心寺院として創建された由緒ある寺であり、これを空海に託すということは、嵯峨天皇が空海を仏教界の第一人者として認めておられたことを意味しているといえます。高野山とは別に、都にも真言密教の根本道場を建...

  • 弘仁・貞観文化 その10

    帰国した空海は、3年後の大同4(809)年にようやく入京が許されると、先述した「薬子の変」の際に自ら嵯峨天皇側に売り込んで、鎮護国家のための大祈祷を行いました。その功を賞されて、以後の空海は嵯峨天皇の庇護(ひご)のもとで急速にその存在感を発揮し始めました。弘仁7(816)年、空海は修行のための道場として、紀伊国(きいのくに、現在の和歌山県伊都郡高野町)の高野山の下賜(かし、身分の高い人が身分の低い人に物を...

  • 弘仁・貞観文化 その9

    師である恵果の言葉どおり、すぐにでも日本に飛んで帰りたかった空海でしたが、その身は期間20年の留学僧であり、何よりも遣唐使船が唐に来なければどうしようもありませんでした。ところが、唐の新皇帝の即位を祝うために新たに遣唐使船が派遣されることになり、幸運にも空海はその帰りの船に同乗することができました。しかし、帰りの船はまたしても暴風雨に遭い、あわや難破かと思われたとき、空海は唐で彫った不動明王像(ふど...

  • 弘仁・貞観文化 その8

    入唐(にっとう)した空海は、まず梵語(ぼんご、別名を「サンスクリット」)を学びました。仏教の聖典の多くは梵語で書かれているため、教義の深奥(しんおう)に迫るためには絶対に必要だったのです。そして805年旧暦5月、当時の密教の第一人者で青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)を訪ねました。空海を一目見た恵果は「あなたが来ることは知っていた。いつ来るかと待っていたものだ」と喜んで彼を迎え、すぐさま教義の伝...

  • 弘仁・貞観文化 その7

    空海は、宝亀(ほうき)5(774)年に讃岐国(さぬきのくに、現在の香川県善通寺市)で、父の佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母の玉依御前(たまよりごぜん)のあいだに生まれ、幼名を「真魚(まお)」といいました。地方官たる郡司を父に持った真魚は、幼い頃から聡明さを称えられ、15歳の頃には京都(=長岡京)に出て、叔父で儒学者の阿刀大足(あとのおおたり)から学問の手ほどきを受けると、18歳で官吏育成機関であった...

  • 弘仁・貞観文化 その6

    大乗戒壇の設置によって延暦寺は仏教教学の中心となりましたが、それはすなわち、天台宗における大乗仏教の教えが後世に様々なかたちで派生したことを意味していました。例えば、10世紀半ばに浄土教(じょうどきょう)を広めた源信(げんしん)も、若い頃に延暦寺で修行した後に、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽浄土に往生し成仏することを説きました(詳しくは後述します)。源信の教えは鎌倉時代に浄土宗(じょうどしゅう)を開祖...

  • 弘仁・貞観文化 その5

    また、翌弘仁14(823)年に彼が建立した寺院が「延暦寺(えんりゃくじ)」の勅額(ちょくがく、天皇が国内の寺院に特に与える直筆の書で記された寺社額のこと)を授かったことで、以後は「比叡山延暦寺」と呼ばれるようになりました。その後、貞観8(866)年には清和天皇より「伝教大師(でんぎょうだいし)」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。また、最澄の教えは弟子の円仁(えんに...

  • 弘仁・貞観文化 その4

    還学生(げんがくしょう、ここでは短期国費留学生のこと)として延暦23(804)年に入唐(にっとう)した最澄は、天台山(てんだいさん)に留学して修行を重ね、天台の奥義を深めたほか、禅(ぜん)も学び、密教(みっきょう)も身に付けて、翌延暦24(805)年に帰国しました。帰国した翌年の延暦25(806)年、最澄の教えは「天台宗(てんだいしゅう、別名を天台法華宗=てんだいほっけしゅう)」として国家に認められましたが、彼...

  • 弘仁・貞観文化 その3

    先述のとおり、桓武天皇は「道鏡事件」が起きるなど大きくなり過ぎた仏教勢力との決別をはかるため、延暦3(784)年に長岡京、さらに延暦13(794)年に平安京に遷都されました。なお、桓武天皇は遷都の際に南都、すなわち平城京付近の寺院の移転を許可されませんでしたが、これは「旧来の仏教勢力の抑制」のほか、長屋王(ながやおう)などのタタリ封じで大仏を建立したにもかかわらず、道鏡への譲位問題などが起きたことで、旧来...

  • 弘仁・貞観文化 その2

    官吏(かんり)の養成機関である大学(だいがく)において作文能力の優劣が採用試験で重要視されたことにより、大学での学問はそれまでの儒教(じゅきょう)中心のものから次第に歴史や文章を学ぶ紀伝道(きでんどう、または文章道=もんじょうどう)が盛んになりました。このため、有力貴族は大学で学ぶ一族子弟の寄宿と勉学の施設としての大学別曹(だいがくべっそう)を設けました。主な大学別曹としては、藤原氏の勧学院(かん...

  • 弘仁・貞観文化 その1

    平安京への遷都(せんと)の頃から9世紀後半頃までの文化は、当時の嵯峨天皇や清和天皇の時代の年号から「弘仁・貞観文化」と呼ばれています。平安京における貴族中心の文化が発展し、学芸を中心に国家の隆盛を目指すという文章経国(もんじょうけいこく)の方針のもとで、唐風文化が最盛期を迎えました。平安時代の貴族の教養として、漢詩文を作ることが重視されたために漢文学が盛んになったことから、この時代には嵯峨天皇や空...

  • 薬子の変 その3

    桓武天皇の時代に諸国の軍団や兵士が廃止されたことで、平安京の治安の悪化が懸念されるようになりました。そこで嵯峨天皇は、警察の機能とともに後には裁判も行うようになった検非違使(けびいし)を設置し、都の治安維持を担当させましたが、地方においては警察権が事実上存在しなくなり、都の「平安」の名とは裏腹に治安の乱れが甚(はなは)だしくなっていきました。また、嵯峨天皇は法制の整備にも力を入れられました。大宝(...

  • 薬子の変 その2

    兄の不穏(ふおん)な動きに対して、嵯峨天皇は大同5(810)年旧暦3月に、天皇の命令を速やかに伝えるための秘書官としての役割を持つ蔵人所(くろうどどころ)を設置され、側近の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが、その長官に当たる蔵人頭(くろうどのとう)に任命されました。大同5(810)年旧暦9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知さ...

  • 薬子の変 その1

    先述のとおり、桓武天皇の子で皇太子の安殿(あて)親王は身体が弱く、病気がちでした。そんな親王の后(きさき)としてある女性が選ばれた際に、その女性が幼かったため、彼女の母親も後見役として一緒に迎えられましたが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが藤原種継の娘である藤原薬子(ふじわらのくす...

  • 平安京への遷都 その4

    光仁天皇ご在位の宝亀(ほうき)11(780)年、朝廷に帰順したはずの蝦夷(えみし)の豪族の伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こしました。伊治呰麻呂は朝廷の鎮守府(ちんじゅふ、軍政をつかさどる役所のこと)である多賀城(たがじょう、現在の宮城県多賀城市)を落とすなど攻撃を続けました。桓武天皇は延暦8(789)年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、...

  • 平安京への遷都 その3

    桓武天皇は律令制を実情に合わせて次々と修正され、令(りょう)で定められていない新しい官職を定められました。これを「令外官(りょうげのかん)」といいます。地方政治の改革のために設けられた勘解由使(かげゆし)もそのひとつで、地方行政官である国司(こくし)の交代に際して、後任者から前任者に与えられる解由状(げゆじょう)を審査させました。解油状は、前任者の国司が任期中に不正を行わなかったどうかを後任者が証...

  • 平安京への遷都 その2

    早良親王の憤死(ふんし)後、朝廷では不幸な出来事が続発しました。疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が大流行し、桓武天皇の母親や后(きさき)が次々と亡くなったのです。新たに皇太子となった子の安殿(あて)親王も病気がちとなり、事態の深刻さに慌(あわ)てられた桓武天皇は、これらの「早良親王のタタリ」とも思える現状を打破するために、延暦13(794)年に平安京(へいあんきょう)に再遷都されました。...

  • 平安京への遷都 その1

    ※今回より「第98回歴史講座」の内容の更新を開始します(11月11日までの予定)。前回(第97回)の講座で紹介したとおり、天智(てんじ)天皇の孫にあたる光仁(こうにん)天皇は、藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原永手(ふじわらのながて)らの協力のもとで律令政治の再建を目指されましたが、天応(てんおう)元(781)年に子の桓武(かんむ)天皇に譲位されました。桓武天皇は道鏡(どうきょう)による政策などで大きくなり...

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