大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
康保(こうほう)4(967)年に村上天皇が崩御され、子の冷泉(れいぜい)天皇が即位された際には、関白兼太政大臣として藤原忠平の子である藤原実頼(ふじわらのさねより)が、右大臣に藤原師尹(ふじわらのもろただ)が、そして左大臣に醍醐天皇の子で臣籍降下した源高明(みなもとのたかあきら)がそれぞれ就任しました。冷泉天皇はご病弱であったため、早めに皇太子を決める必要があり、候補として冷泉天皇の弟である為平(ため...
延喜19(919)年、道真が亡くなった大宰府の墓所に社殿が建てられたのを皮切りに、天暦(てんりゃく)元(947)年には京都の北野(きたの)にも社殿を建てて道真を祀(まつ)るなど、全国的に道真を祀った神社が建立されました。落雷を起こしたことから、道真は雷の神であった火雷天神(からいてんじん)と同一視され、やがて「天神様」と称されました。また「雷神となった道真公の怨霊が天に満ちた」ことから、道真を祀った社(や...
菅原道真が死去した延喜3(903)年から6年後の延喜9(909)年、左大臣の藤原時平が39歳の若さで亡くなったのを皮切りに、延喜23(923)年には醍醐天皇の皇子で皇太子だった保明(やすあきら)親王が21歳の若さで、その2年後には保明親王と藤原時平の娘との間に生まれた子で、醍醐天皇の孫でもあった新たな皇太子の慶頼王(やすよりおう)がわずか5歳で亡くなるなどの不幸が相次ぎました。当時は全国的に天災や疫病(えきびょう)が...
ご即位後間もなく起きた「阿衡の紛議」によってご心痛を受けられた宇多天皇でしたが、自身は藤原氏を外戚とせず、また基経の死後に後を継いだ藤原時平(ふじわらのときひら)がまだ若かったこともあって、藤原氏以外の貴族を次々と登用されましたが、その中のひとりに菅原道真がいました。菅原氏は代々学者の一族でしたが、特に優秀であった道真は、宇多天皇のご信任を受けて要職を歴任しました。寛平(かんぴょう)6(894)年には...
藤原良房には後継となる男子がいなかったので、兄の子である藤原基経(ふじわらのもとつね)を養子とすると、基経は元慶(がんぎょう)8(884)年に新たに即位された光孝(こうこう)天皇の関白(かんぱく、天皇の成人後に政治を代行する職のこと)に事実上就任しました。その後、基経は光孝天皇の子である宇多(うだ)天皇が仁和(にんな)3(887)年にご即位された際に正式に関白に任命されましたが、宇多天皇が基経に出された勅...
伴健岑が承和の変で失脚した伴(とも)氏でしたが、一族である伴善男(とものよしお)が大納言(だいなごん)にまで昇進し、藤原氏に対抗できる勢力に成長しました。しかし、そんな中で貞観8(866)年に平安京の応天門が炎上してしまうという事件が起きました。伴善男は、自分の政敵であり嵯峨天皇の実子でもあった左大臣(さだいじん)の源信(みなもとのまこと)による放火であると訴えましたが、事件を調査した太政大臣の藤原良...
承和(じょうわ)9(842)年、嵯峨上皇が崩御された直後に、伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)らが皇太子である恒貞親王を東国へ移して謀反(むほん)をたくらんでいることが発覚しました。伴健岑や橘逸勢らは流罪となり、恒貞親王は皇太子を廃され、道康親王が新たに皇太子となりました。この事件を当時の年号から「承和の変」といいます。しかし、冷静になって考えてみれば、皇太子としての身分が保証され...
桓武天皇や嵯峨天皇など、平安時代の初期には藤原氏などの貴族を抑えて天皇ご自身が政務をとっておられました。これを「親政(しんせい)」といいます。しかし、9世紀の半ば頃になると、藤原氏の北家が皇室との結びつきを強めて次第に勢力を伸ばしていきました。北家とは藤原四兄弟の房前(ふささき)の子孫で、大同5(810)年に起きた薬子の変の際に嵯峨天皇の秘書長官である蔵人頭(くろうどのとう)として活躍した藤原冬嗣の一...
前回(第97回)の講座で紹介したとおり、奈良時代の8世紀頃から仏教の広まりによって神祇(じんぎ)信仰と仏教とが次第に調和し融合(ゆうごう)する「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」の風潮が広がりました。神社の境内(けいだい)に神宮寺(じんぐうじ)を建てたり、寺院の境内に守護神(しゅごしん)をまつり、神前で読経(どきょう)したりする例も多くなりました。神仏習合を反映して神像(しんぞう)彫刻も盛んとなり、薬...
密教は美術の方面でも影響を及ぼし、神秘的な作品が数多くつくられました。彫刻では密教とかかわりのある如意輪観音(にょいりんかんのん)や不動明王などの仏像が、一本の木から一体の仏像を彫りおこす一木造(いちぼくづくり)でつくられました。当時の代表的な彫刻としては、観心寺(かんしんじ)如意輪観音像や室生寺弥勒堂(みろくどう)の釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)、衣のしわを波が翻(ひるがえ)っているように...
天台宗や真言宗は、深遠(しんえん)な呪術(じゅじゅつ)の取得や厳しい修行によって仏教の奥義(おうぎ)を究めるという密教であり、加持祈祷(かじきとう)を中心とする儀式がタタリを鎮(しず)めるなど怨霊(おんりょう)封じに相応(ふさわ)しく、また幸福を追求する「現世利益(げんぜりやく)」の面から皇室や貴族によって支持されました。ちなみに、真言宗の密教は「東密(とうみつ)」、天台宗の密教は「台密(たいみつ...
空海は承和(じょうわ)2(835)年に62歳で死去しましたが、それから86年後の延喜21(921)年に、醍醐天皇から「弘法大師(こうぼうだいし)」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。なお、空海は「入定(にゅうじょう)」したとされ、入定すると肉体もまた永続性を獲得するという考え方から、後に空海は死んだのではなく、永遠に現世に留まって、衆生(しゅじょう)の救済のための禅定(...
ところで、空海に由来して今も広く使用される「弘法(こうぼう)にも筆の誤り」「弘法筆を選ばず」ということわざですが、「弘法にも筆の誤り」は「その道に優れている人でも時には失敗することがある」、「弘法筆を選ばず」は「本当の名人は道具の善し悪しなど問題にしない」という意味で使われています。実は、このうち「弘法にも筆の誤り」の由来が、平安時代末期に成立したとされる「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)...
真言宗(しんごんしゅう)の開宗(かいしゅう)は弘仁14(823)年とされていますが、この年に空海は嵯峨天皇から京都の東寺(とうじ)を下賜されました。東寺は平安京遷都に際して、西寺(さいじ)とともに鎮護国家の中心寺院として創建された由緒ある寺であり、これを空海に託すということは、嵯峨天皇が空海を仏教界の第一人者として認めておられたことを意味しているといえます。高野山とは別に、都にも真言密教の根本道場を建...
帰国した空海は、3年後の大同4(809)年にようやく入京が許されると、先述した「薬子の変」の際に自ら嵯峨天皇側に売り込んで、鎮護国家のための大祈祷を行いました。その功を賞されて、以後の空海は嵯峨天皇の庇護(ひご)のもとで急速にその存在感を発揮し始めました。弘仁7(816)年、空海は修行のための道場として、紀伊国(きいのくに、現在の和歌山県伊都郡高野町)の高野山の下賜(かし、身分の高い人が身分の低い人に物を...
師である恵果の言葉どおり、すぐにでも日本に飛んで帰りたかった空海でしたが、その身は期間20年の留学僧であり、何よりも遣唐使船が唐に来なければどうしようもありませんでした。ところが、唐の新皇帝の即位を祝うために新たに遣唐使船が派遣されることになり、幸運にも空海はその帰りの船に同乗することができました。しかし、帰りの船はまたしても暴風雨に遭い、あわや難破かと思われたとき、空海は唐で彫った不動明王像(ふど...
入唐(にっとう)した空海は、まず梵語(ぼんご、別名を「サンスクリット」)を学びました。仏教の聖典の多くは梵語で書かれているため、教義の深奥(しんおう)に迫るためには絶対に必要だったのです。そして805年旧暦5月、当時の密教の第一人者で青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)を訪ねました。空海を一目見た恵果は「あなたが来ることは知っていた。いつ来るかと待っていたものだ」と喜んで彼を迎え、すぐさま教義の伝...
空海は、宝亀(ほうき)5(774)年に讃岐国(さぬきのくに、現在の香川県善通寺市)で、父の佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母の玉依御前(たまよりごぜん)のあいだに生まれ、幼名を「真魚(まお)」といいました。地方官たる郡司を父に持った真魚は、幼い頃から聡明さを称えられ、15歳の頃には京都(=長岡京)に出て、叔父で儒学者の阿刀大足(あとのおおたり)から学問の手ほどきを受けると、18歳で官吏育成機関であった...
大乗戒壇の設置によって延暦寺は仏教教学の中心となりましたが、それはすなわち、天台宗における大乗仏教の教えが後世に様々なかたちで派生したことを意味していました。例えば、10世紀半ばに浄土教(じょうどきょう)を広めた源信(げんしん)も、若い頃に延暦寺で修行した後に、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽浄土に往生し成仏することを説きました(詳しくは後述します)。源信の教えは鎌倉時代に浄土宗(じょうどしゅう)を開祖...
また、翌弘仁14(823)年に彼が建立した寺院が「延暦寺(えんりゃくじ)」の勅額(ちょくがく、天皇が国内の寺院に特に与える直筆の書で記された寺社額のこと)を授かったことで、以後は「比叡山延暦寺」と呼ばれるようになりました。その後、貞観8(866)年には清和天皇より「伝教大師(でんぎょうだいし)」の諡号(しごう、貴人や高徳の人に死後贈る名前のこと)を賜(たまわ)りました。また、最澄の教えは弟子の円仁(えんに...
還学生(げんがくしょう、ここでは短期国費留学生のこと)として延暦23(804)年に入唐(にっとう)した最澄は、天台山(てんだいさん)に留学して修行を重ね、天台の奥義を深めたほか、禅(ぜん)も学び、密教(みっきょう)も身に付けて、翌延暦24(805)年に帰国しました。帰国した翌年の延暦25(806)年、最澄の教えは「天台宗(てんだいしゅう、別名を天台法華宗=てんだいほっけしゅう)」として国家に認められましたが、彼...
先述のとおり、桓武天皇は「道鏡事件」が起きるなど大きくなり過ぎた仏教勢力との決別をはかるため、延暦3(784)年に長岡京、さらに延暦13(794)年に平安京に遷都されました。なお、桓武天皇は遷都の際に南都、すなわち平城京付近の寺院の移転を許可されませんでしたが、これは「旧来の仏教勢力の抑制」のほか、長屋王(ながやおう)などのタタリ封じで大仏を建立したにもかかわらず、道鏡への譲位問題などが起きたことで、旧来...
官吏(かんり)の養成機関である大学(だいがく)において作文能力の優劣が採用試験で重要視されたことにより、大学での学問はそれまでの儒教(じゅきょう)中心のものから次第に歴史や文章を学ぶ紀伝道(きでんどう、または文章道=もんじょうどう)が盛んになりました。このため、有力貴族は大学で学ぶ一族子弟の寄宿と勉学の施設としての大学別曹(だいがくべっそう)を設けました。主な大学別曹としては、藤原氏の勧学院(かん...
平安京への遷都(せんと)の頃から9世紀後半頃までの文化は、当時の嵯峨天皇や清和天皇の時代の年号から「弘仁・貞観文化」と呼ばれています。平安京における貴族中心の文化が発展し、学芸を中心に国家の隆盛を目指すという文章経国(もんじょうけいこく)の方針のもとで、唐風文化が最盛期を迎えました。平安時代の貴族の教養として、漢詩文を作ることが重視されたために漢文学が盛んになったことから、この時代には嵯峨天皇や空...
桓武天皇の時代に諸国の軍団や兵士が廃止されたことで、平安京の治安の悪化が懸念されるようになりました。そこで嵯峨天皇は、警察の機能とともに後には裁判も行うようになった検非違使(けびいし)を設置し、都の治安維持を担当させましたが、地方においては警察権が事実上存在しなくなり、都の「平安」の名とは裏腹に治安の乱れが甚(はなは)だしくなっていきました。また、嵯峨天皇は法制の整備にも力を入れられました。大宝(...
兄の不穏(ふおん)な動きに対して、嵯峨天皇は大同5(810)年旧暦3月に、天皇の命令を速やかに伝えるための秘書官としての役割を持つ蔵人所(くろうどどころ)を設置され、側近の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らが、その長官に当たる蔵人頭(くろうどのとう)に任命されました。大同5(810)年旧暦9月、平城上皇はついに平城京への再遷都(さいせんと)を宣言され、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)されましたが、事前に動きを察知さ...
先述のとおり、桓武天皇の子で皇太子の安殿(あて)親王は身体が弱く、病気がちでした。そんな親王の后(きさき)としてある女性が選ばれた際に、その女性が幼かったため、彼女の母親も後見役として一緒に迎えられましたが、ここでとんでもないことが起きてしまいました。何と、后の母親が、自身に夫がいるにもかかわらず、親王と「男女の関係」になってしまったのです。その母親こそが藤原種継の娘である藤原薬子(ふじわらのくす...
光仁天皇ご在位の宝亀(ほうき)11(780)年、朝廷に帰順したはずの蝦夷(えみし)の豪族の伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こしました。伊治呰麻呂は朝廷の鎮守府(ちんじゅふ、軍政をつかさどる役所のこと)である多賀城(たがじょう、現在の宮城県多賀城市)を落とすなど攻撃を続けました。桓武天皇は延暦8(789)年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、...
桓武天皇は律令制を実情に合わせて次々と修正され、令(りょう)で定められていない新しい官職を定められました。これを「令外官(りょうげのかん)」といいます。地方政治の改革のために設けられた勘解由使(かげゆし)もそのひとつで、地方行政官である国司(こくし)の交代に際して、後任者から前任者に与えられる解由状(げゆじょう)を審査させました。解油状は、前任者の国司が任期中に不正を行わなかったどうかを後任者が証...
早良親王の憤死(ふんし)後、朝廷では不幸な出来事が続発しました。疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が大流行し、桓武天皇の母親や后(きさき)が次々と亡くなったのです。新たに皇太子となった子の安殿(あて)親王も病気がちとなり、事態の深刻さに慌(あわ)てられた桓武天皇は、これらの「早良親王のタタリ」とも思える現状を打破するために、延暦13(794)年に平安京(へいあんきょう)に再遷都されました。...
※今回より「第98回歴史講座」の内容の更新を開始します(11月11日までの予定)。前回(第97回)の講座で紹介したとおり、天智(てんじ)天皇の孫にあたる光仁(こうにん)天皇は、藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原永手(ふじわらのながて)らの協力のもとで律令政治の再建を目指されましたが、天応(てんおう)元(781)年に子の桓武(かんむ)天皇に譲位されました。桓武天皇は道鏡(どうきょう)による政策などで大きくなり...
「ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...
ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...