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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 織田信長の統一事業・前編 その6

    さて、信長は苦労の末に永禄10(1567)年に美濃を攻め落とすことに成功しましたが、その頃から自身の印判に「天下布武(てんかふぶ)」と記すようになりました。天下布武とは「天下に武を布(し)く」、すなわち「武力によって天下を支配する」という意味が込められており、自分の最終目的が天下統一であることを高らかに宣言したのです。なお、近年の調査では「天下」を「畿内(きない)」に限定する説もあるようです。さらに、美...

  • 織田信長の統一事業・前編 その5

    ここで信長になったつもりで今後の対策を考えてみましょう。「宝の山」ともいえる今川氏の領地は確かに欲しいですが、仮に自身が三河・遠江・駿河の三国の領有に成功したとしても、武田信玄や北条氏康といった強力な戦国大名と領地が接してしまうことになります。ということは、今後は信玄や北条氏から自己の領地を守るために、常に大軍を彼らとの隣接地に置かねばならないことになりますから、そんな「防衛するのが精一杯」の情勢...

  • 織田信長の統一事業・前編 その4

    義元の死によって今川氏は没落しました。ということは、勢力が衰えた今川氏の領地を奪い取ることは比較的容易だったのです。当時の今川氏は三河から遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)、さらには駿河と広大な領地を持っていたのみならず、これらの地域は気候が温暖で収穫も多く、海の幸にも恵まれ、さらには金山もあるという、経済力豊かな「おいしい」場所でもありました。通常の戦国大名であれば、何も考えることなくこれらの...

  • 織田信長の統一事業・前編 その3

    後の世で「桶狭間の戦い」と呼ばれたこの戦は、信長による大逆転の勝利だったわけですが、戦後の論功行賞(ろんこうこうしょう)が、それまでの慣例とは明らかに異なっていたことをご存知でしょうか。義元の首を実際に討ち取った家臣よりも、義元が桶狭間を行軍中であるという情報を知らせた家臣の方が一番手柄であるとして、より多くの褒美(ほうび)を与えられているのです。その背景には、刀や槍による手柄よりも情報戦を制する...

  • 織田信長の統一事業・前編 その2

    駿河を本拠地とする戦国大名の今川義元が、永禄3(1560)年に尾張を狙(ねら)って侵攻してきたのです。25,000人ともいわれる今川氏の軍勢に対して、信長が動員できる人数はそのわずか10分の1以下の2,000人程度でした。まともに戦っては勝ち目がありません。家臣からは籠城(ろうじょう)を勧める意見もありましたが、信長は動きませんでした。しかしその後、今川軍の攻撃開始を聞くと信長はすぐさま出陣し、熱田(あつた)神宮で...

  • 織田信長の統一事業・前編 その1

    戦国時代には全国各地に数多くの戦国大名が存在していましたが、その多くは自分の足元を固めたり、あわよくば隣国を征服しようかと考えたりするなど、どちらかといえば地域的な対立が中心でした。そんな中、応仁の乱から約1世紀を過ぎた頃に初めて天下統一の意思を明確にし、なおかつその実現に一生をかけて挑んだ人物が現れました。もちろん「織田信長」のことです。さて、信長の出身である織田家はもともと尾張の守護大名であっ...

  • 鉄砲伝来と南蛮貿易 その4

    フランシスコ=ザビエル自身は2年余りで我が国を離れましたが、我が国における布教活動に道筋をつけたことで、この後もルイス=フロイスなどの宣教師が相次いで来日し、我が国に教会堂である南蛮寺(なんばんじ)や宣教師の養成学校であるコレジオ、神学校(しんがっこう)であるセミナリオなどを次々と建てました。ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿...

  • 鉄砲伝来と南蛮貿易 その3

    大航海時代のきっかけのひとつとなった宗教改革によって、カトリックは新興のプロテスタントの圧迫を受けることになりましたが、巻き返しを図りたいカトリックはイエズス会(別名を耶蘇会=やそかい)を設立して、アフリカやアジアなどヨーロッパ以外の各地での布教を目指しました。イエズス会による布教活動は、イスパニアやポルトガルによる植民地政策と一体化して行われました。布教の拡大によって地元住民にカトリックを信仰さ...

  • 鉄砲伝来と南蛮貿易 その2

    我が国との貿易が大きな利益をもたらすことを知ったポルトガル人は、やがて毎年のように我が国に来航するようになりました。さらにはイスパニア人も天正(てんしょう)12(1584)年に肥前(ひぜん、ここでは現在の長崎県)の平戸(ひらど)に来航して、我が国との貿易を始めました。当時の我が国では、ポルトガル人やイスパニア人のことを「南蛮人(なんばんじん)」と呼んだことから、彼らとの貿易を「南蛮貿易」といいます。南蛮...

  • 鉄砲伝来と南蛮貿易 その1

    天文12(1543)年、ポルトガル人を乗せた明の船が九州南方の種子島(たねがしま)に漂着(ひょうちゃく、ただよい流れて岸に着くこと)しました。これが我が国に初めて上陸したヨーロッパ人です。領主の種子島時尭(たねがしまときたか)は、ポルトガル人が所有していた「鉄砲」に興味を示してこれを購入すると、家臣にその使用法と製造法を学ばせました。手先が器用だった鍛冶(かじ)職人によって鉄砲がまたたく間に複製されると...

  • 大航海時代のヨーロッパ その3

    ところで、大航海時代という言葉だけを耳にすると、大海原(おおうなばら)に新たな希望を見つけようとした開拓の時代という良いイメージしか浮かばないのですが、実は、この時代には多くの人々が虐殺(ぎゃくさつ)されたという恐るべき側面が隠されていました。当時のイスパニアとポルトガルとの間には、15世紀末の1494年に大西洋を東西に分ける一本の線が引かれ、この線から東側で発見されるものはすべてポルトガルに、西側で発...

  • 大航海時代のヨーロッパ その2

    ポルトガルはインド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから明(みん)のマカオにも拠点を築きました。一方、イスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領してルソン島のマニラを根拠地としました。要するにポルトガルは東廻りで、イスパニアは西廻りでそれぞれアジアに進出した...

  • 大航海時代のヨーロッパ その1

    我が国では戦国時代にあたる15世紀後半から16世紀にかけてのヨーロッパでは、ルネサンスや宗教改革によって近代社会へと移行しつつありました。宗教改革によるカトリックとプロテスタントの激しい争いや、イスラームの世界への対抗もあって、ヨーロッパの諸国はキリスト教(特にカトリック)の布教や海外貿易の拡大を目指して世界へと乗り出しました。いわゆる「大航海(だいこうかい)時代」の始まりです。大航海時代の先頭に立っ...

  • 都市の発展と自治 その2

    各地の城下町と京都とをつなぐ遠距離の商業活動も盛んとなり、物資などを輸送するために陸上では馬借(ばしゃく)が、海上では廻船(かいせん)が活躍し、大きな千石船(せんごくぶね)もつくられました。交通手段の発達が人の流れを活発にしたことで、行商(ぎょうしょう)や巡礼(じゅんれい、聖地や霊場をめぐって旅をすること)が盛んとなり、各地で港町(みなとまち)や宿場町(しゅくばまち)が繁栄(はんえい)しました。こ...

  • 都市の発展と自治 その1

    戦国時代には城下町が地方の政治や経済あるいは文化の中心として栄えた一方で、農村では手工業(しゅこうぎょう)や商品経済が発達したことによって、農村の市場や町が飛躍的に増加し発展しました。この頃には各地の寺社が参詣者(さんけいしゃ)の増加に努めたため、門前町(もんぜんまち)や寺内町(じないまち)が発展しました。特に寺内町には門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)の商工業者が集結したことで、新設の市...

  • 戦国大名による領国支配 その3

    各地の戦国大名は富国強兵(ふこくきょうへい)を行って領国支配を強化しました。例えば、武器などの大量の物資の生産や調達が必要な場合は有力な商工業者を取り立てて、家臣団とともに領国内の城下(じょうか)に集めました。城下はやがて人や物資が集まる中心地となり、大名の居城(きょじょう)を中心に城下町(じょうかまち)が形成されました。この当時の有名な城下町としては、北条氏の小田原や今川氏の府中(ふちゅう)、上...

  • 戦国大名による領国支配 その2

    戦国大名の中には、家臣団を統制したり、あるいは領国を安定して支配したりするために、基本法となる分国法(ぶんこくほう、別名を家法=かほう)を制定する者もあらわれました。分国法はそれまでの幕府や守護によって定められた法を継承したほか、家の慣習法を成文化したものが多く、また私闘を行った当事者の双方を処罰してすべての紛争を大名による裁定に委ねるという喧嘩両成敗法(けんかりょうせいばいほう)によって、家臣団...

  • 戦国大名による領国支配 その1

    自らの地位を実力で手に入れた戦国大名は、武力によって領地や領民を強力に支配していきました。彼らは服属させた国人(こくじん)や地侍(じざむらい、大名や国人などと主従関係を結んだ有力農民のこと)らを新たに家臣に組み入れました。国人や地侍らの収入の基準には耕地に課せられた税を銭に換算した貫高(かんだか)が用いられ、彼らの地位や収入を保障する代わりに貫高に見合った一定の軍役(ぐんやく)を負担させました。こ...

  • 戦国大名の登場 その3

    北陸では、越前(えちぜん、現在の福井県北東部)の守護大名であった斯波(しば)氏が守護代の朝倉(あさくら)氏によって政治の実権を奪われました。また、越後(えちご、現在の新潟県)では関東管領の上杉氏の守護代であった長尾(ながお)氏から景虎(かげとら)が出て、後に関東管領を継いで「上杉謙信(うえすぎけんしん)」と名乗りました。甲斐(かい、現在の山梨県)では守護大名だった武田(たけだ)氏がそのまま戦国大名...

  • 戦国大名の登場 その2

    それでは、各地の戦国大名の動きを見てみましょう。まず関東ですが、鎌倉公方(かまくらくぼう)の足利持氏(あしかがもちうじ)が永享(えいきょう)11(1439)年の永享の乱で敗死した後は、関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏が実権を握っていました。しかし、後に鎌倉公方が下総(しもうさ、現在の千葉県北部など)の古河公方(こがくぼう)と伊豆(いず、現在の静岡県南東部など)の堀越公方(ほりごえくぼう)とに分裂する...

  • 戦国大名の登場 その1

    ※今回より「第91回歴史講座」の内容の更新を開始しますす(9月22日までの予定)。応仁の乱を経て室町幕府の権威は有名無実と化し、幕府の実権をめぐって内部の権力争いが激化しました。幕府の実権は、当初は管領(かんれい、将軍を補佐して幕政を統轄する役職のこと)の細川(ほそかわ)氏が握りましたが、細川晴元(ほそかわはるもと)が執事(しつじ)の三好長慶(みよしながよし)の台頭を許し、その長慶も家臣の松永久秀(まつ...

  • 大東亜戦争の始まり その11

    ※「昭和時代・戦中」の更新は今回で中断します。明日(8月11日)からは「第91回歴史講座」の内容を更新します(9月22日までの予定)。これまで述べてきたように、大東亜戦争の緒戦において我が国は快進撃を見せており、もし戦局が有利な段階で諸外国との講和が結ばれていれば、戦争を勝利のうちに終わらせることは十分に可能でした。大東亜戦争は決して「無謀な戦争」ではなく、当時の軍事力や国力の比較からすれば、日清戦争ある...

  • 大東亜戦争の始まり その10

    統帥権干犯問題によって、事実上「軍部は政府のいうことを聞く必要がない」こととなりましたが、では「陸軍と海軍とが対立した場合」はどうなるのでしょうか。実は、陸海軍お互いが同等の統帥権を持っていたがゆえに、その場合の根本的な解決方法は何も存在しませんでした。例えば、陸軍大将でもあった東條英機首相は陸軍大臣も兼任していましたが、彼が海軍に命令することはできませんでした。東條首相は後に陸軍の軍令機関のトッ...

  • 大東亜戦争の始まり その9

    ところが、当時の野党であった立憲政友会が「政争の具」として軍部と一緒になって当時の内閣を攻撃したことが、憲政を擁護(ようご)する立場であるはずの政党政治に致命的な打撃を与えてしまいました。なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府のいうことを聞く必要がない=内閣は軍に干渉できない」ことを認めてしまったからです。事実、この問題をきっかけとして、我が国では軍部の独走を事実上誰も止められ...

  • 大東亜戦争の始まり その8

    日露戦争と大東亜戦争とを比較した場合、まず目立つのは「人材の差」です。日露戦争の頃には明治天皇の厚い信任を受けた「維新の元勲(げんくん、国家に尽くした大きな功績のある人のこと)」たる「元老(げんろう)」が存在しており、戦争の際に彼らが指導権を握ることが当然と思われていました。しかし、昭和に入る頃には元老の多くが死に絶えており、権威が必然的に低下したことで、彼らが推薦して組織された内閣の指導力も同時...

  • 大東亜戦争の始まり その7

    他国と戦争となった場合、勝利を得るために「戦略」を練って戦い続けるのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができません。戦争終結は外交努力の結果であり、それは「政略」を行う政治家の仕事です。我が国が日露戦争で勝利できたのも、この「大原則」に従ったからであり、明治政府は我が国の国力の限界を見極めたうえで、長期戦と化して日本軍が劣勢(れっせい)となる前に戦争を終わらせるため、ロシアとの開戦前...

  • 大東亜戦争の始まり その6

    大東亜戦争より前に、我が国は圧倒的な国力の差がある相手と戦った経験がありました。もちろん日露(にちろ)戦争のことです。日露戦争において我が国は様々な戦いを苦労の末に勝ち抜いてきましたが、奉天(ほうてん、現在の瀋陽=しんよう)会戦を制し、また日本海海戦に勝利したあたりで戦力が限界に達しました。このまま戦いを続ければ、国力に勝るロシアの逆襲も十分に考えられましたが、国内の政情不安に悩まされたロシアがア...

  • 大東亜戦争の始まり その5

    我が国では、毎年正月に皇族の方々や一般の国民が、一つのお題に対して和歌を詠(よ)む「歌会始(うたかいはじめ)」という行事がありますが、大東亜戦争が始まった直後の昭和17(1942)年の歌会始で、昭和天皇は以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をお詠みになられました。「峰つづき おほふむら雲 ふく風の はやくはらへと ただいのるなり」厚い雲のように世界全体を巻き込んだ戦争が早く終わってほしい、という...

  • 大東亜戦争の始まり その4

    昭和17(1942)年4月、東條英機(とうじょうひでき)内閣の下で、前回からの任期を1年間延長したうえで、大東亜戦争中に唯一となった衆議院の総選挙が行われました。この選挙では、阿部信行(あべのぶゆき)元首相を会長とする翼賛(よくさん)政治体制協議会が推薦(すいせん)する候補者が、定員の466人中381議席(全体の8割強)を得て絶対多数となり、協議会に所属する議員は選挙後に翼賛政治会を結成し、政府による政策に協力...

  • 大東亜戦争の始まり その3

    大東亜戦争における緒戦の勝利によって、日本軍は開戦後わずか半年で東南アジアと西・南太平洋の広大な地域を占領下に置きました。日本軍の快進撃によって、かつての欧米列強の植民地は次々と解放されましたが、搾取(さくしゅ)を中心とした劣悪(れつあく)な環境で過ごしてきた現地の人々は、憎悪(ぞうお)の対象であった白色人種の列強の兵士が、自分たちと同じ有色人種の日本軍によって駆逐(くちく)される様子に歓喜しまし...

  • 大東亜戦争の始まり その2

    さて、真珠湾攻撃が行われた同じ昭和16(1941)年12月8日未明、マレー半島に上陸した日本陸軍は、山下奉文(やましたともゆき)陸軍中将の指揮の下でイギリスを相手に快進撃を続けた一方で、12月10日には、日本海軍航空隊がマレー沖の航空戦によって、イギリスが世界に誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」並びに巡洋戦艦「レパルス」を撃沈(げきちん)しました。東洋艦隊を壊滅状態に追い込んだことで対英戦争の大勢を決...

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