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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 日華事変と南京攻略 その8

    昭和12(1937)年11月に上海の鎮圧に成功した日本軍でしたが、これ以上の戦線の拡大を望んではいませんでした。そこで翌12月1日に国民政府の首都である南京を攻略する決断を下したのですが、その背景には「首都である南京を押さえれば蒋介石も講和に応じるだろう」という期待感がありました。要するに、長期化しつつあった日華事変(=日中戦争)を打開するために、我が国は首都攻略という手段を選んだのであり、そこに領土的野心...

  • 【ハイブリッド方式】第88回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年1月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 日華事変と南京攻略 その7

    トラウトマン駐華大使を通じての日本側からの和平工作に対し、国民政府の蒋介石はこれを拒否しました。なぜなら、蒋介石はいわゆる日華事変(=日中戦争)へと至った一連の戦いが起きたのは日本が九か国条約に違反したからだとして国際連盟に提訴しており、何らかのかたちで対日制裁が加えられるものと期待していたからでした。しかし、国際連盟のブリュッセル会議では対日制裁は行われず、蒋介石の思惑は外れました。また、和平工...

  • 日華事変と南京攻略 その6

    昭和12(1937)年8月23日に我が国の陸軍の2個師団が上海に到着したことによって、海軍陸戦隊のわずかな兵力で租界を守っていた第二次上海事変の戦況にもようやく変化の兆(きざ)しが見られましたが、多数の国民政府軍がドイツ式のトーチカなどを配備していたために激しい戦闘となり、戦いは膠着(こうちゃく)状態となりました。一方、不拡大方針を放棄したとはいえ、可能な限り早期の停戦を模索(もさく)していた日本政府と軍部...

  • 日華事変と南京攻略 その5

    盧溝橋事件をそのきっかけとし、通州事件や第二次上海事変などを経て、我が国とチャイナとが全面的に戦うことになったこれら一連の流れは、当初は「北支(ほくし)事変」、後には「支那(しな)事変」と正式に名づけられたほか、「日華(にっか)事変」という呼称(こしょう)も使用されました。戦後の歴史教育では「日華事変」と主に呼ばれてきましたが、なぜか昭和50年代(1970年代後半~1980年代前半)頃から「日中戦争」と呼ば...

  • 日華事変と南京攻略 その4

    ところで、この第二次上海事変も、戦後の歪(ゆが)んだ歴史観においては「日本軍が先に攻撃を仕掛けた」ことになっていますが、これが出鱈目(でたらめ)であることは先述した経緯でも明らかですし、日本政府が上海への陸軍派遣を決定した際に「帝国臣民を保護すべし」と命令した事実もそれを証明しています。ではなぜ蒋介石はわざわざ事変を起こしたのでしょうか。その理由として考えられるのは、第二次上海事変を通じて「日本が...

  • 日華事変と南京攻略 その3

    昭和7(1932)年に第一次上海事変が発生した後、列強による調停によって上海停戦協定が結ばれましたが、国民政府の蒋介石はこれを無視するかのように、上海に10個師団で50,000人もの正規軍を配置して圧力をかけていました。そして、通州事件や大山事件から間もない昭和12(1937)年8月12日に、国民政府軍が日本総領事館と商社の電話線を切断し、翌13日には上海の租界(そかい、中華民国内の外国人居留地のこと)から外に通じる道路...

  • 日華事変と南京攻略 その2

    昭和12(1937)年8月9日、大山勇夫(おおやまいさお)海軍中尉(ちゅうい)が上海を車で移動中にチャイナの保安隊に包囲され、機関銃で撃たれたうえに頭を青竜刀(せいりゅうとう)で割られるという惨殺事件が起きました。これを「大山事件」といいます。事件に対し、チャイナは大山中尉が中国兵を殺害したのが原因であると主張しましたが、その証拠となった中国兵の死体が事件発生当初には存在せずに後から置かれたことや、殺され...

  • 日華事変と南京攻略 その1

    盧溝橋(ろこうきょう)事件を経て、日本軍は北京(当時は北平=ほくへい)・天津(てんしん)地域を平定しましたが、政府による不拡大方針があったことで、通州(つうしゅう)事件によって国内世論が激高したにもかかわらず、国民政府との和平実現に向けて動き出しました。和平工作において、我が国は元上海(シャンハイ)総領事で国民党の信頼が厚かった船津振一郎(ふなつしんいちろう)を担当者としたため、この和平の交渉は「...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その10

    要するに、事前に日本人の虐殺を計画し、かつ実行に移したことになりますが、こうした血の通った人間とはとても思えない暴虐な組織的行為は、当時の日本人も、現代の日本人も、まったく想像すらできないことです。我々にはこういう残虐なことをするセンスが初めからありません。そうであるからこそ、我々は通州事件が起きたことを決して忘れてはならないのです。それにしても、通州事件の存在をこれまで口をつぐんで無視し続け、ご...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その9

    しかし、21世紀を迎えてインターネットによる情報が広がったことで、通州事件の残虐さが次第に理解されると、これまでのように口をつぐんでごまかすことができなくなってしまいました。すると、今度は「通州事件が起きたのはそもそも日本軍が通州の保安部隊施設を誤爆したからだ」と主張し始め、事件の本質を歪(ゆが)めようとしていますが、もちろんこの考えは正しくありません。確かに、通州事件の直前に保安部隊への誤爆事故が...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その8

    チャイナの兵は日本人を婦女子に至るまで、およそ人間がやったとは思えぬような残忍極まりない方法で虐殺しましたが、この事件のあまりの残酷さに我が国の世論は一気に沸騰(ふっとう)し、対中感情が取り返しの付かないほど悪化してしまったのです。通州事件は民間人を巻き込んで虐殺するという、当時の国際法に明らかに違反する暴挙であり、軍同士が衝突した盧溝橋事件とは全く性格が異なります。にもかかわらず、大東亜戦争後の...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その7

    北京の東方に位置した通州(つうしゅう)は、親日的だった冀東(きとう)防共自治政府が支配していたため、多くの日本人が居留民として暮らしていましたが、その一方で、反日的行為を繰り返していた国民政府軍も駐屯していました。このような複雑な事情が存在していたこともあったからか、盧溝橋事件後の昭和12(1937)年7月に関東軍の爆撃機が国民政府軍の兵営を空爆した際に、間違って冀東(きとう)防共自治政府の保安部隊を攻...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その6

    第二次国共合作の実現によって息を吹き返した中国共産党でしたが、さらなる勢力の拡大のために日本軍と国民政府軍との衝突を意図的に作り出し、両勢力が弱ったところを一気に叩いて「漁夫の利」を得ようと考えていました。この思惑は後に成功し、1949(昭和24)年に中華人民共和国が誕生することになります。実際に盧溝橋における国民政府軍に共産党のスパイが紛(まぎ)れ込んでいて、彼らが日本軍に向けて発砲したことが中国側の...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その5

    ところで、一般的な歴史教育では「盧溝橋事件によって日本軍が中国軍と武力衝突を起こそうとした」と評価しているようですが、先述のとおり盧溝橋事件は数発の偶発的な発砲から起きており、日本軍側から武力衝突を起こそうという姿勢は全く見られません。それに、発砲を受けた部隊はその直前まで夜間演習を続けていましたが、誤射事故を避けるために実弾を使用しておらず、鉄カブトさえかぶっていませんでした。また、事件勃発後の...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その4

    かつて清国や中華民国が首都とした北京(ペキン、当時は「北平(ほくへい、ペイピン)」と呼ばれていました)には、明治33(1900)年に起きた北清(ほくしん)事変をきっかけとして翌明治34(1901)年に結ばれた北京議定書に基づき、我が国を含む列強の軍隊の駐留が認められていました。昭和12(1937)年7月7日午後10時40分頃、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近に駐屯していた日本軍が演習を終えた時、何者かが軍に向けて発砲...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年1月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その3

    延安に逃げ込んだ中国共産党軍に総攻撃をかけようとした国民政府の蒋介石は、東北軍の張学良(ちょうがくりょう)を現地へ送り込みましたが、1936(昭和11)年12月に彼を督励(とくれい、監督し励ますこと)するために訪れた西安(せいあん)で張学良に捕えられ、監禁されました。これを「西安事件」といいます。張学良がなぜ中国共産党に寝返ったのかは諸説ありますが、いずれにせよ西安事件によって、蒋介石は共産党との内戦を中...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その2

    国民政府との激しい勢力争いを続けていた中国共産党は、事態を打開するために抗日救国運動を提唱し始めましたが、これはヨーロッパにおいてソ連が支援した人民戦線運動と同じ性格を持っていました。なぜなら、抗日救国運動や人民戦線運動は救国のためとか、あるいは世界の人民と連携(れんけい)して行動するといった建前ばかりではなく、各国でナショナリズムをあおることによって、共産主義への敵対心を緩和させることが本当の目...

  • 盧溝橋事件と通州事件 その1

    ※今回より「昭和時代・戦前」の更新を再開します(2月6日までの予定)。満州国建国後の昭和8(1933)年5月に塘沽(タンク―)停戦協定(または日中軍事停戦協定)が結ばれて満州事変が終息すると、その後の日中関係は停戦状態が続いて平静を保っていました。停戦協定において、満州と接した華北(かほく)地区にあたる河北省(かほくしょう)東北部には非武装地帯が設定され、その治安維持を中国側の警察が担当するようになりました...

  • 鎌倉文化 その6

    ※「第87回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月14日)からは「昭和時代・前編」の更新を再開します(2月6日までの予定)。絵画では、平安時代末期に始まった絵巻物(えまきもの)が引き続き盛んにつくられ、人物の一代記を描いた「一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)」や、合戦における戦いぶりを描いた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」、「平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)」など...

  • 鎌倉文化 その5

    鎌倉時代中期になると、細かい部材を組み合わせることによって清楚(せいそ、清らかで飾り気のないこと)で整然とした美しさを表現した禅宗様(ぜんしゅうよう、別名を唐様=からよう)が伝えられました。禅寺の円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)などがその例です。また、平安時代以来の我が国の伝統建築様式である和様(わよう)に大陸伝来の様式を巧みに取り入れた折衷様(せっちゅうよう)も生み出されました。河内(かわち...

  • 鎌倉文化 その4

    鎌倉時代末期には、伊勢神宮の外宮(げくう)の神官であった度会家行(わたらいいえゆき)によって独自の神道(しんとう)理論である「伊勢神道(いせしんとう、別名を度会神道=わたらいしんとう)」が生まれました。度会家行は著書である「類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)」の中で、従来の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)に対して、逆に仏が神の化身(けしん)としてこの世に現れたとする神本仏迹説(しんぽんぶつ...

  • 鎌倉文化 その3

    鎌倉時代は武士の政権だったことから、貴族の間では過ぎ去ってしまった古き良き時代への回顧や歴史の尊重という姿勢がみられ、順徳天皇ご自身の手による「禁秘抄(きんぴしょう)」など朝廷の儀式や先例を研究する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)が盛んとなりました。また、関白九条兼実の弟で天台座主(てんだいざす、延暦寺の最高位の僧職のこと)の慈円(じえん)は、承久の乱(承久の変)の直前までの道理による独自の歴...

  • 鎌倉文化 その2

    この時代の文学の特色の一つとして、源平両氏の栄枯盛衰(えいこせいすい)を主題とした武士たちの戦いぶりを、漢語などを用いた和漢混淆文(わかんこんこうぶん)で力強く描いた軍記物(ぐんきもの)が挙げられます。「保元(ほうげん)物語」や「平治(へいじ)物語」などの軍記物は語り物の形態による新しい形式をもち、なかでも平氏の興亡をつづった「平家物語」は、琵琶法師(びわほうし)によって平曲(へいきょく)として語...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年1月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 鎌倉文化 その1

    鎌倉時代には武士が政治の中心となったことで、それまでの公家中心の文化の流れを汲みながらもみながらも素朴(そぼく)な力強さを持ち、また鎌倉仏教あるいはチャイナの宋や元の文化の影響を受けながらも新しい文化が独自の成長を見せていきました。学問や文芸の世界でも新しい動きが始まりました。和歌の世界では、西行(さいぎょう)が出家後に諸国を渡り歩くなかで「山家集(さんかしゅう)」をまとめたり、後鳥羽上皇の勅撰(...

  • 鎌倉仏教 その10

    これらの新しい仏教の動きに対して、従来の仏教勢力も巻き返しを図りました。鎌倉時代の初めの頃、華厳宗(けごんしゅう)の明恵(みょうえ、別名を高弁=こうべん)は戒律を厳重に守りながら権勢におもねらずに求道(ぐどう)の生活を続け、3代執権の北条泰時などの多くの人々の尊敬を受けました。また、同じ頃に法相宗(ほっそうしゅう)の貞慶(じょうけい、別名を解脱=げだつ)も山城(やましろ、現在の京都府南部)の笠置寺...

  • 鎌倉仏教 その9

    ところで、鎌倉仏教の6人の開祖のうち、一遍を除く全員が若い頃に比叡山延暦寺で修行を積んでおり、一遍も法然の孫弟子から学んでいるなど、それぞれが最澄(さいちょう)の影響を受けています。すなわち、鎌倉仏教はすべて最澄の蒔(ま)いた種が実ったものであると言えるのです。6人の開祖はそれぞれが天台宗を学んだことで、厳しい修行の中から選び取られた「一つの道」のみによって救われると説いています。例えば浄土宗や浄土...

  • 鎌倉仏教 その8

    貴族の家に生まれた道元は、若い頃に比叡山延暦寺に登った後に栄西の弟子から禅を学びましたが、後に宋に渡って曹洞宗を学びました。帰国後の道元は、幕府と結びついた臨済宗とは対照的に権力に背を向け、山中にこもってひたすら坐禅に徹することで悟りを開こうとしました。これを「只管打坐(しかんたざ)」といいます。道元は越前(えちぜん、現在の福井県東部)に永平寺(えいへいじ)を建立して開山となり、名誉や利益を求める...

  • 鎌倉仏教 その7

    栄西は法然と同じ頃に比叡山延暦寺で修行を積んだ後に、生涯に二度もチャイナの宋(そう)に留学して、坐禅によって自力で悟(さと)りを開こうとする臨済宗を広めました。また、同時期に法然が他の宗派から攻撃を受けているのを見ていた栄西は、朝廷の権威と結びついていた従来の仏教勢力に対抗する意味もあって、誕生したばかりの鎌倉幕府に接近しました。先述したように禅宗が武士の気風に合ったこともあって臨済宗は幕府の保護...

  • 鎌倉仏教 その6

    日蓮の強引ともいえる布教活動は他の宗派や幕府による迫害を受け、日蓮自身も何度も生命の危機にさらされるという法難(ほうなん)にあいましたが、日蓮宗の教えは関東や北国の武士層や商工業者を中心に広まっていきました。日蓮は「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」など多数の著書を残しています。また、日蓮宗の総本山は山梨県の久遠寺(くおんじ)です。ところで、鎌倉を中心とする関東の武士の間で大きな勢力を持ってい...

  • 鎌倉仏教 その5

    安房(あわ、現在の千葉県南部)の漁村に生まれた日蓮(にちれん)は若い頃に比叡山延暦寺に登って天台宗を学びましたが、修行を重ねるうちに「正しい宗教の教えが行われていないから世の中が乱れるのだ」という強い信念を持つようになりました。やがて法華経(ほけきょう)のみが釈迦(しゃか)の正しい教えであると確信した日蓮は、難しい法華経の経典が読めなくても「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」という題目...

  • 鎌倉仏教 その4

    「念仏を唱えればよい」とする法然の浄土宗や「阿弥陀仏の存在を信じて心の中で念ずればよい」という親鸞の浄土真宗は、平安時代の浄土信仰の流れを汲(く)んでいるといえますが、同じ流れの中で法然や親鸞よりもやや遅れて登場したのが一遍(いっぺん、別名を智真=ちしん)でした。「阿弥陀仏様はとてつもなく偉大なお方であり、善人と悪人の違いや仏の道への信心の有無に関わらず、私たちはすべて極楽往生ができる」と考えた一...

  • 令和4年 新年のご挨拶

    謹賀新年黒田裕樹の歴史講座は、本年5月で通算90回を迎えます。ここまで順調に続けられたのも、ひとえに皆様方の厚いご支援のお蔭であり、深く感謝申し上げます。今後とも、何卒よろしくお願いいたします。令和四年 元旦黒田裕樹拝(クリックで拡大されます)天王寺動物園のアムール虎撮影:西澤裕輝彦氏※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+...

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