第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
昭和12(1937)年11月に上海の鎮圧に成功した日本軍でしたが、これ以上の戦線の拡大を望んではいませんでした。そこで翌12月1日に国民政府の首都である南京を攻略する決断を下したのですが、その背景には「首都である南京を押さえれば蒋介石も講和に応じるだろう」という期待感がありました。要するに、長期化しつつあった日華事変(=日中戦争)を打開するために、我が国は首都攻略という手段を選んだのであり、そこに領土的野心...
【ハイブリッド方式】第88回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年1月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
トラウトマン駐華大使を通じての日本側からの和平工作に対し、国民政府の蒋介石はこれを拒否しました。なぜなら、蒋介石はいわゆる日華事変(=日中戦争)へと至った一連の戦いが起きたのは日本が九か国条約に違反したからだとして国際連盟に提訴しており、何らかのかたちで対日制裁が加えられるものと期待していたからでした。しかし、国際連盟のブリュッセル会議では対日制裁は行われず、蒋介石の思惑は外れました。また、和平工...
昭和12(1937)年8月23日に我が国の陸軍の2個師団が上海に到着したことによって、海軍陸戦隊のわずかな兵力で租界を守っていた第二次上海事変の戦況にもようやく変化の兆(きざ)しが見られましたが、多数の国民政府軍がドイツ式のトーチカなどを配備していたために激しい戦闘となり、戦いは膠着(こうちゃく)状態となりました。一方、不拡大方針を放棄したとはいえ、可能な限り早期の停戦を模索(もさく)していた日本政府と軍部...
盧溝橋事件をそのきっかけとし、通州事件や第二次上海事変などを経て、我が国とチャイナとが全面的に戦うことになったこれら一連の流れは、当初は「北支(ほくし)事変」、後には「支那(しな)事変」と正式に名づけられたほか、「日華(にっか)事変」という呼称(こしょう)も使用されました。戦後の歴史教育では「日華事変」と主に呼ばれてきましたが、なぜか昭和50年代(1970年代後半~1980年代前半)頃から「日中戦争」と呼ば...
ところで、この第二次上海事変も、戦後の歪(ゆが)んだ歴史観においては「日本軍が先に攻撃を仕掛けた」ことになっていますが、これが出鱈目(でたらめ)であることは先述した経緯でも明らかですし、日本政府が上海への陸軍派遣を決定した際に「帝国臣民を保護すべし」と命令した事実もそれを証明しています。ではなぜ蒋介石はわざわざ事変を起こしたのでしょうか。その理由として考えられるのは、第二次上海事変を通じて「日本が...
昭和7(1932)年に第一次上海事変が発生した後、列強による調停によって上海停戦協定が結ばれましたが、国民政府の蒋介石はこれを無視するかのように、上海に10個師団で50,000人もの正規軍を配置して圧力をかけていました。そして、通州事件や大山事件から間もない昭和12(1937)年8月12日に、国民政府軍が日本総領事館と商社の電話線を切断し、翌13日には上海の租界(そかい、中華民国内の外国人居留地のこと)から外に通じる道路...
昭和12(1937)年8月9日、大山勇夫(おおやまいさお)海軍中尉(ちゅうい)が上海を車で移動中にチャイナの保安隊に包囲され、機関銃で撃たれたうえに頭を青竜刀(せいりゅうとう)で割られるという惨殺事件が起きました。これを「大山事件」といいます。事件に対し、チャイナは大山中尉が中国兵を殺害したのが原因であると主張しましたが、その証拠となった中国兵の死体が事件発生当初には存在せずに後から置かれたことや、殺され...
盧溝橋(ろこうきょう)事件を経て、日本軍は北京(当時は北平=ほくへい)・天津(てんしん)地域を平定しましたが、政府による不拡大方針があったことで、通州(つうしゅう)事件によって国内世論が激高したにもかかわらず、国民政府との和平実現に向けて動き出しました。和平工作において、我が国は元上海(シャンハイ)総領事で国民党の信頼が厚かった船津振一郎(ふなつしんいちろう)を担当者としたため、この和平の交渉は「...
要するに、事前に日本人の虐殺を計画し、かつ実行に移したことになりますが、こうした血の通った人間とはとても思えない暴虐な組織的行為は、当時の日本人も、現代の日本人も、まったく想像すらできないことです。我々にはこういう残虐なことをするセンスが初めからありません。そうであるからこそ、我々は通州事件が起きたことを決して忘れてはならないのです。それにしても、通州事件の存在をこれまで口をつぐんで無視し続け、ご...
しかし、21世紀を迎えてインターネットによる情報が広がったことで、通州事件の残虐さが次第に理解されると、これまでのように口をつぐんでごまかすことができなくなってしまいました。すると、今度は「通州事件が起きたのはそもそも日本軍が通州の保安部隊施設を誤爆したからだ」と主張し始め、事件の本質を歪(ゆが)めようとしていますが、もちろんこの考えは正しくありません。確かに、通州事件の直前に保安部隊への誤爆事故が...
チャイナの兵は日本人を婦女子に至るまで、およそ人間がやったとは思えぬような残忍極まりない方法で虐殺しましたが、この事件のあまりの残酷さに我が国の世論は一気に沸騰(ふっとう)し、対中感情が取り返しの付かないほど悪化してしまったのです。通州事件は民間人を巻き込んで虐殺するという、当時の国際法に明らかに違反する暴挙であり、軍同士が衝突した盧溝橋事件とは全く性格が異なります。にもかかわらず、大東亜戦争後の...
北京の東方に位置した通州(つうしゅう)は、親日的だった冀東(きとう)防共自治政府が支配していたため、多くの日本人が居留民として暮らしていましたが、その一方で、反日的行為を繰り返していた国民政府軍も駐屯していました。このような複雑な事情が存在していたこともあったからか、盧溝橋事件後の昭和12(1937)年7月に関東軍の爆撃機が国民政府軍の兵営を空爆した際に、間違って冀東(きとう)防共自治政府の保安部隊を攻...
第二次国共合作の実現によって息を吹き返した中国共産党でしたが、さらなる勢力の拡大のために日本軍と国民政府軍との衝突を意図的に作り出し、両勢力が弱ったところを一気に叩いて「漁夫の利」を得ようと考えていました。この思惑は後に成功し、1949(昭和24)年に中華人民共和国が誕生することになります。実際に盧溝橋における国民政府軍に共産党のスパイが紛(まぎ)れ込んでいて、彼らが日本軍に向けて発砲したことが中国側の...
ところで、一般的な歴史教育では「盧溝橋事件によって日本軍が中国軍と武力衝突を起こそうとした」と評価しているようですが、先述のとおり盧溝橋事件は数発の偶発的な発砲から起きており、日本軍側から武力衝突を起こそうという姿勢は全く見られません。それに、発砲を受けた部隊はその直前まで夜間演習を続けていましたが、誤射事故を避けるために実弾を使用しておらず、鉄カブトさえかぶっていませんでした。また、事件勃発後の...
かつて清国や中華民国が首都とした北京(ペキン、当時は「北平(ほくへい、ペイピン)」と呼ばれていました)には、明治33(1900)年に起きた北清(ほくしん)事変をきっかけとして翌明治34(1901)年に結ばれた北京議定書に基づき、我が国を含む列強の軍隊の駐留が認められていました。昭和12(1937)年7月7日午後10時40分頃、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)付近に駐屯していた日本軍が演習を終えた時、何者かが軍に向けて発砲...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年1月)
黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
延安に逃げ込んだ中国共産党軍に総攻撃をかけようとした国民政府の蒋介石は、東北軍の張学良(ちょうがくりょう)を現地へ送り込みましたが、1936(昭和11)年12月に彼を督励(とくれい、監督し励ますこと)するために訪れた西安(せいあん)で張学良に捕えられ、監禁されました。これを「西安事件」といいます。張学良がなぜ中国共産党に寝返ったのかは諸説ありますが、いずれにせよ西安事件によって、蒋介石は共産党との内戦を中...
国民政府との激しい勢力争いを続けていた中国共産党は、事態を打開するために抗日救国運動を提唱し始めましたが、これはヨーロッパにおいてソ連が支援した人民戦線運動と同じ性格を持っていました。なぜなら、抗日救国運動や人民戦線運動は救国のためとか、あるいは世界の人民と連携(れんけい)して行動するといった建前ばかりではなく、各国でナショナリズムをあおることによって、共産主義への敵対心を緩和させることが本当の目...
※今回より「昭和時代・戦前」の更新を再開します(2月6日までの予定)。満州国建国後の昭和8(1933)年5月に塘沽(タンク―)停戦協定(または日中軍事停戦協定)が結ばれて満州事変が終息すると、その後の日中関係は停戦状態が続いて平静を保っていました。停戦協定において、満州と接した華北(かほく)地区にあたる河北省(かほくしょう)東北部には非武装地帯が設定され、その治安維持を中国側の警察が担当するようになりました...
※「第87回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(1月14日)からは「昭和時代・前編」の更新を再開します(2月6日までの予定)。絵画では、平安時代末期に始まった絵巻物(えまきもの)が引き続き盛んにつくられ、人物の一代記を描いた「一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)」や、合戦における戦いぶりを描いた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」、「平治物語絵巻(へいじものがたりえまき)」など...
鎌倉時代中期になると、細かい部材を組み合わせることによって清楚(せいそ、清らかで飾り気のないこと)で整然とした美しさを表現した禅宗様(ぜんしゅうよう、別名を唐様=からよう)が伝えられました。禅寺の円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)などがその例です。また、平安時代以来の我が国の伝統建築様式である和様(わよう)に大陸伝来の様式を巧みに取り入れた折衷様(せっちゅうよう)も生み出されました。河内(かわち...
鎌倉時代末期には、伊勢神宮の外宮(げくう)の神官であった度会家行(わたらいいえゆき)によって独自の神道(しんとう)理論である「伊勢神道(いせしんとう、別名を度会神道=わたらいしんとう)」が生まれました。度会家行は著書である「類聚神祇本源(るいじゅうじんぎほんげん)」の中で、従来の本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)に対して、逆に仏が神の化身(けしん)としてこの世に現れたとする神本仏迹説(しんぽんぶつ...
鎌倉時代は武士の政権だったことから、貴族の間では過ぎ去ってしまった古き良き時代への回顧や歴史の尊重という姿勢がみられ、順徳天皇ご自身の手による「禁秘抄(きんぴしょう)」など朝廷の儀式や先例を研究する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)が盛んとなりました。また、関白九条兼実の弟で天台座主(てんだいざす、延暦寺の最高位の僧職のこと)の慈円(じえん)は、承久の乱(承久の変)の直前までの道理による独自の歴...
この時代の文学の特色の一つとして、源平両氏の栄枯盛衰(えいこせいすい)を主題とした武士たちの戦いぶりを、漢語などを用いた和漢混淆文(わかんこんこうぶん)で力強く描いた軍記物(ぐんきもの)が挙げられます。「保元(ほうげん)物語」や「平治(へいじ)物語」などの軍記物は語り物の形態による新しい形式をもち、なかでも平氏の興亡をつづった「平家物語」は、琵琶法師(びわほうし)によって平曲(へいきょく)として語...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年1月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
鎌倉時代には武士が政治の中心となったことで、それまでの公家中心の文化の流れを汲みながらもみながらも素朴(そぼく)な力強さを持ち、また鎌倉仏教あるいはチャイナの宋や元の文化の影響を受けながらも新しい文化が独自の成長を見せていきました。学問や文芸の世界でも新しい動きが始まりました。和歌の世界では、西行(さいぎょう)が出家後に諸国を渡り歩くなかで「山家集(さんかしゅう)」をまとめたり、後鳥羽上皇の勅撰(...
これらの新しい仏教の動きに対して、従来の仏教勢力も巻き返しを図りました。鎌倉時代の初めの頃、華厳宗(けごんしゅう)の明恵(みょうえ、別名を高弁=こうべん)は戒律を厳重に守りながら権勢におもねらずに求道(ぐどう)の生活を続け、3代執権の北条泰時などの多くの人々の尊敬を受けました。また、同じ頃に法相宗(ほっそうしゅう)の貞慶(じょうけい、別名を解脱=げだつ)も山城(やましろ、現在の京都府南部)の笠置寺...
ところで、鎌倉仏教の6人の開祖のうち、一遍を除く全員が若い頃に比叡山延暦寺で修行を積んでおり、一遍も法然の孫弟子から学んでいるなど、それぞれが最澄(さいちょう)の影響を受けています。すなわち、鎌倉仏教はすべて最澄の蒔(ま)いた種が実ったものであると言えるのです。6人の開祖はそれぞれが天台宗を学んだことで、厳しい修行の中から選び取られた「一つの道」のみによって救われると説いています。例えば浄土宗や浄土...
貴族の家に生まれた道元は、若い頃に比叡山延暦寺に登った後に栄西の弟子から禅を学びましたが、後に宋に渡って曹洞宗を学びました。帰国後の道元は、幕府と結びついた臨済宗とは対照的に権力に背を向け、山中にこもってひたすら坐禅に徹することで悟りを開こうとしました。これを「只管打坐(しかんたざ)」といいます。道元は越前(えちぜん、現在の福井県東部)に永平寺(えいへいじ)を建立して開山となり、名誉や利益を求める...
栄西は法然と同じ頃に比叡山延暦寺で修行を積んだ後に、生涯に二度もチャイナの宋(そう)に留学して、坐禅によって自力で悟(さと)りを開こうとする臨済宗を広めました。また、同時期に法然が他の宗派から攻撃を受けているのを見ていた栄西は、朝廷の権威と結びついていた従来の仏教勢力に対抗する意味もあって、誕生したばかりの鎌倉幕府に接近しました。先述したように禅宗が武士の気風に合ったこともあって臨済宗は幕府の保護...
日蓮の強引ともいえる布教活動は他の宗派や幕府による迫害を受け、日蓮自身も何度も生命の危機にさらされるという法難(ほうなん)にあいましたが、日蓮宗の教えは関東や北国の武士層や商工業者を中心に広まっていきました。日蓮は「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」など多数の著書を残しています。また、日蓮宗の総本山は山梨県の久遠寺(くおんじ)です。ところで、鎌倉を中心とする関東の武士の間で大きな勢力を持ってい...
安房(あわ、現在の千葉県南部)の漁村に生まれた日蓮(にちれん)は若い頃に比叡山延暦寺に登って天台宗を学びましたが、修行を重ねるうちに「正しい宗教の教えが行われていないから世の中が乱れるのだ」という強い信念を持つようになりました。やがて法華経(ほけきょう)のみが釈迦(しゃか)の正しい教えであると確信した日蓮は、難しい法華経の経典が読めなくても「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」という題目...
「念仏を唱えればよい」とする法然の浄土宗や「阿弥陀仏の存在を信じて心の中で念ずればよい」という親鸞の浄土真宗は、平安時代の浄土信仰の流れを汲(く)んでいるといえますが、同じ流れの中で法然や親鸞よりもやや遅れて登場したのが一遍(いっぺん、別名を智真=ちしん)でした。「阿弥陀仏様はとてつもなく偉大なお方であり、善人と悪人の違いや仏の道への信心の有無に関わらず、私たちはすべて極楽往生ができる」と考えた一...
謹賀新年黒田裕樹の歴史講座は、本年5月で通算90回を迎えます。ここまで順調に続けられたのも、ひとえに皆様方の厚いご支援のお蔭であり、深く感謝申し上げます。今後とも、何卒よろしくお願いいたします。令和四年 元旦黒田裕樹拝(クリックで拡大されます)天王寺動物園のアムール虎撮影:西澤裕輝彦氏※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+...
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第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
明治7(1874)年といえば、民撰議院設立の建白書が出されただけでなく、前年の明治6(1873)年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起きたり、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に反対だった木戸孝允が下野したりするなど、政府にとって様々な問題が発生した一年でした。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくり...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...