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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 鎌倉仏教 その3

    親鸞による教えは、従来の僧の習俗(しゅうぞく、風習や習慣のこと)にも大きな変化をもたらしました。極楽往生するには何の条件も必要なく、僧が守るべき戒律(かいりつ)にもこだわることはないとして、それまでタブーとされていた肉食妻帯(にくじきさいたい、肉食をして結婚すること)を自ら進んで実践(じっせん)したのです。現代のお坊さんはどの宗派の人も結婚できますが、これが広まったのは明治時代以降のことであり、そ...

  • 鎌倉仏教 その2

    法然の教えは、摂関家の九条兼実(くじょうかねざね)のような身分の高い公家のみならず、武士や庶民に至るまで多くの人々の支持を集めましたが、やがて旧仏教勢力の圧力を受けることになりました。法然は強制的に還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)させられて讃岐(さぬき、現在の香川県)に流されましたが、逆に浄土宗の教えが地方の武士や庶民にまで広がるという結果をもたらしました。なお、法然が流され...

  • 鎌倉仏教 その1

    平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけては、朝廷から武家へと政治の大変革が起こったのみならず、それに伴う数多くの戦乱や天災による飢饉(ききん)などが続いた時期でもありました。これらの現象が、平安中期より広まり始めた「末法(まっぽう)思想」そのものであると人々に強く信じられたことで、救いを求める人々の期待に応えるかのように新しい仏教が鎌倉時代に相次いで生まれ、広く信仰を集めました。いわゆる「鎌倉仏教...

  • 琉球と蝦夷ヶ島の変動 その2

    一方、北の蝦夷ヶ島(えぞがしま、現在の北海道)では、縄文文化に続く稲作のない文化である「続縄文文化」を経て、独自の文様(もんよう)の土器を持つ「擦文(さつもん)文化」やオホーツク沿岸に分布する「オホーツク文化」が並存しました。なお、これらの文化はいずれも漁労(ぎょろう)あるいは狩猟に基礎を置く文化です。これらの文化を経て、13世紀にはアイヌの文化が生まれるようになりました。アイヌの人々は津軽(つがる...

  • 琉球と蝦夷ヶ島の変動 その1

    モンゴルの動きが東アジアに大きな影響を与えていた頃、今の沖縄県に相当する日本列島の南の琉球(りゅうきゅう)では「按司(あじ)」と呼ばれた各地の首長がグスクを拠点に勢力を広げました。その後、琉球は山北(さんほく、別名を北山=ほくざん)・中山(ちゅうざん)・山南(さんなん、別名を南山=なんざん)の三つの勢力に統合されていきました。12世紀頃から、琉球ではそれまでの貝塚文化を経て農耕生活が始まり、グスクが...

  • 元寇とその影響 その11

    一方、御家人たちも徳政令によって一息ついたものの、厳しい財政状況であることに変わりはありません。時が流れるとやがて生活に困るようになり、再び借上などに借金を申し込むことになります。しかし、幕府によって一度痛い目にあっている借上たちは、余程(よほど)のことがない限り今までどおりにお金を貸してはくれません。永仁の徳政令は、結果として御家人たちの経済活動をかえって阻害(そがい)するという結果をもたらして...

  • 元寇とその影響 その10

    困窮(こんきゅう)する御家人の増加に対して、幕府も手をこまねいたわけではありませんでした。執権北条貞時は永仁5(1297)年に「永仁の徳政令」を出して、御家人に対して所領の売買や質入を禁じるとともに、すでに売却したものについては無償で元の持ち主に返却させることや、御家人が関係する金銭の訴訟を幕府が受け付けないことなどを定めました。要するに、幕府公認による「借金の棒引き」を行ったのです。それまでの借金が...

  • 元寇とその影響 その9

    鎌倉時代の武士の社会では、先述のとおり一族の子弟たちに所領を分け与える分割相続が一般的でしたが、分割相続による所領の細分化がやがて御家人たちに深刻な影響を及ぼすようになりました。なぜなら、細分化によって農業収入は必然的に減少するのに対して、幕府からの様々な命令には「御恩」がある以上、これまでどおり従わなければならないからです。幕府への義務を果たす「奉公」は出費がかさむため、やがて御家人の多くが先述...

  • 元寇とその影響 その8

    元寇を機に幕府の支配権は全国に拡大していきましたが、それとともに幕府内での北条氏の権力はさらに強化されました。なかでも北条氏の嫡流の当主である得宗(とくそう)の勢力が強大になったことで、得宗家の家来である「御内人(みうちびと)」と従来の一般御家人との対立が目立つようになりました。元寇の後、北条時宗が弘安7(1284)年に34歳の若さで亡くなると、時宗の子の北条貞時(ほうじょうさだとき)が13歳で9代執権とな...

  • 元寇とその影響 その7

    騎馬軍団を構成する馬は非常に神経質な動物であり、海を渡って攻め寄せる際に船に乗せることが大変難しかったことで、元軍は得意の騎馬をほとんど使えずに我が国と戦わなければならないという大きな不利を当初から抱えていたのです。一方、元の来襲という国難に際して、特に弘安の役の折に暴風雨が発生したことで「我が国は神風に守られている」とする「神国(しんこく)思想」がこの後に主流となっていきました。この思想は、やが...

  • 元寇とその影響 その6

    まず元軍といってもその大半が征服した異民族の連合軍であり、各人の戦意が乏(とぼ)しいのみならず、意思の疎通(そつう)が十分に行われなかったという一面がありました。次に、突貫工事で高麗に造らせた船は決して丈夫ではなく、しばしば転覆(てんぷく)の憂き目にあったほか、弘安の役の際の大暴風雨で多くの軍船が破壊されるとともに、数えきれないほどの兵の生命を奪ったとされています。また、大陸を縦横無尽に駆け回る陸...

  • 元寇とその影響 その5

    それでも、元軍の一部が幕府軍の守備の及ばない搦(から)め手から上陸し、博多の町に侵入して乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働きましたが、すぐに幕府軍に見つかって、街中で激しい戦いを繰り広げました。一方の幕府軍も、夜になって周囲が真っ暗になると、夜陰にまぎれて敵船に乗りこんで火をつけ、あわてた敵兵を討ち取るといったゲリラ戦を敢行するなど健闘を重ね、戦いは膠着(こうちゃく)状態となりました。そして旧暦7月1...

  • 元寇とその影響 その4

    翌建治(けんじ)元(1275)年、フビライは様子を見るために我が国に再び使者を送りましたが、幕府は使者の首をはねて外交拒絶の意思を明らかにしました。これは、以前に元が送った使者が我が国に長期間滞在したことで、スパイ活動をしていたのではないかと疑われたからでもあります。元との再戦を決意した北条時宗は異国警固番役を強化するとともに、全国の御家人に命じて博多湾沿いに石造の防塁である「石塁(せきるい)」を築き...

  • 元寇とその影響 その3

    さて、再三送った使者を追い返されて激怒したフビライは、文永11(1274)年旧暦10月に高麗兵を併せた約3万の兵力で壱岐(いき、現在の長崎県壱岐市)・対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)の両島を占領した後、ついに博多湾に上陸しました。幕府も九州地方の御家人を中心に彼らと応戦しましたが、それまでの一騎討ちを中心とし、名乗りをあげてから攻め込む日本式の戦闘方法が元軍の集団戦法には通用せず、いきなり大量の矢を浴び...

  • 元寇とその影響 その2

    元の使者に対して、鎌倉幕府は黙って元の服属国となることを受けいれるか、あるいは元との戦いを覚悟してでも服属を拒否するかの選択を迫られたわけですが、幕府には初めから「元には服属しない」という決断しか有り得ませんでした。なぜそういえるのでしょうか。鎌倉幕府は、そもそも武力によって他の勢力を自分の支配下に置くことで成立していました。そんな幕府が、いかに強敵だからといって元に服属してその軍門に下ったとすれ...

  • 元寇とその影響 その1

    かつて満州(現在の中国東北部)からモンゴル高原東部まで及ぶ帝国を築いた遼(りょう)は、1125年に女真族(じょしんぞく)が樹立した金(きん)によって滅ぼされました。金はその後も領土を拡大し続け、1127年にはチャイナの北宋(ほくそう)をも滅ぼしました。宋の皇帝の一族は南方へ逃れて南宋(なんそう)を建国し、以後は金と南宋という二つの王朝が中国大陸を支配するようになりました。その後、我が国で鎌倉幕府が成立して...

  • 産業や商業の発達 その3

    遠隔地(えんかくち)を結ぶ商業取引も盛んとなり、大量輸送を果たすために水運を利用したことで海上交通が発達しました。兵庫や淀といった各地の湊(みなと)や大河川沿いの交通の要地には、年貢の輸送や保管にあたる問丸(といまる、別名を問=とい)が発達し、陸上交通の要地には宿(しゅく)が設けられるようになりました。売買の手段としては、従来用いられてきた物々交換(ぶつぶつこうかん)に代わって輸入された宋銭(そう...

  • 産業や商業の発達 その2

    また手工業(しゅこうぎょう)としては、農具の需要が増えたことで賃仕事のみで生計を立てる職人も現れるようになり、番匠(ばんしょう、大工のこと)や鍛冶(かじ)、鋳物師(いもじ)、紺屋(こうや、染め物業のこと)などの新しい職業が形成されていきました。鎌倉時代の頃には、物資や人が集中する荘園や公領の中心地や交通の要地、あるいは寺社の門前地で定期市(ていきいち)が開かれるようになりました。その多くは月に三度...

  • 産業や商業の発達 その1

    鎌倉時代の中頃には、畿内や西日本一帯で米のほかに麦を裏作(うらさく)とする二毛作(にもうさく)が行われるようになるなど、農業の発展も見られました。耕地の面積も、地頭などが積極的に新田開発を進めたことで増加していきました。肥料も山野の草や木の灰を利用した草木灰(そうもくばい)や、青いままの草を刈って田畑に敷(し)き込む刈敷(かりしき)が利用されるなど、次第に工夫されていきました。また、牛馬(ぎゅうば...

  • 武士の生活と土地支配 その3

    承久の乱(承久の変)の後に幕府の勢力が拡大され、荘園内における地頭の地位が強化されたことによって、荘園領主の任命した荘官に対して地頭が年貢を滞納(たいのう)したり、あるいは横領したりするなど、下地(したじ)と呼ばれた荘園の土地を地頭が支配するようになりました。地頭による非法に対し、荘園・公領の領主たちは訴訟によって事態を解決しようとしましたが、現地に根を下ろした地頭の行動は次第に無視できないものに...

  • 武士の生活と土地支配 その2

    この頃の武士は簡素な生活をしており、武芸を身につけるために普段から笠懸(かさがけ、笠を的に矢を射ること)や流鏑馬(やぶさめ、疾走する馬の上から的を射ること)、犬追物(いぬおうもの、騎馬で犬を追って弓で射ること)といった騎射三物(きしゃみつもの)を行ったり、原野で巻狩(まきがり、狩り場を四方から取り囲んで獣を追い立てて捕らえる狩猟のこと)などの訓練を行ったりしました。なお、犬追物では犬が傷つかないよ...

  • 武士の生活と土地支配 その1

    開発領主からの流れを引き継いでいた鎌倉時代の武士は先祖以来の所領に住み着いて勢力を拡大してきました。彼らは河川近くなど農村の要地を選んで、周囲に堀や土塁(どるい)をめぐらせて防御を高めた館(やかた)をかまえて住みました。館の周辺には年貢や公事(くじ、年貢以外の雑税のこと。律令制の調・庸・雑徭の系統をひく)がかからない佃(つくだ)や門田(かどた)などと呼ばれた直営地があり、下人(げにん)や所領内の農...

  • 執権政治の展開 その6

    時は流れ、春になったある日のこと、幕府から「急ぎ鎌倉に集まれ」という命令が関東の御家人たちに向けて発せられました。源左衛門は真っ先に鎌倉へ駆け付けましたが、そのみすぼらしい姿は他の武士の失笑を買いました。そんな源左衛門が幕府首脳から呼び出しを受けて前へ進むと、そこで待っていたのは、何とあの時の旅の僧でした。「源左衛門、よくぞ参った。いつぞやの大雪の日には大変世話になったな」。そう話しかけてきた旅の...

  • 執権政治の展開 その5

    源左衛門のもてなしに感激した旅の僧は、さぞかし名のある武士ではないかと思って源左衛門の身の上をたずねました。「私は佐野源左衛門常世と申します。かつてはこのあたり一帯を治めておりましたが、一族の者に領地を奪われ、今はご覧のとおりに落ちぶれてしまいました」。源左衛門の話を聞いていた旅の僧が周囲を見渡すと、立てかけられた大きな薙刀(なぎなた)や、鎧(よろい)が入っていると思われる大きな箱を見つけました。...

  • 執権政治の展開 その4

    ところで、時頼の頃の武士の様子が分かる有名な謡曲(ようきょく)「鉢(はち)の木」を皆さんはご存知でしょうか。なお、謡曲とは能(のう)の脚本、またはそれに節(ふし)をつけて謡(うた)うことです。上野国佐野(こうずけのくにさの、現在の群馬県高崎市)に住む貧しい老いた武士である佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めました。僧の話を聞くと、信濃(しなの、現在の...

  • 執権政治の展開 その3

    一方、時頼は当時増加していた御家人達の所領をめぐる訴訟(そしょう)を迅速(じんそく)に処理するため、建長元(1249)年に評定衆の会議である評定のもとに「引付(ひきつけ)」という役職を新たに設けるとともに「引付衆(ひきつけしゅう)」を任命して、評定衆を補佐させました。なお、幕府の求めによって、朝廷でも同時期に後嵯峨上皇によって「院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)」が置かれましたが、院評定衆は幕府の承...

  • 執権政治の展開 その2

    式目は従来の律令(りつりょう)に比べて非常に平易な文章で書かれており、内容も実用的なものが多く、後世にまで大きな影響を与えました。ただし、式目の適用は武家社会に限られており、朝廷の支配下では律令の後身(こうしん、もとの形から変わって現在の姿になったもの)である公家法(くげほう)が、荘園領主の支配下では本所法(ほんじょほう)が引き続き効力を持っていました。なお、御成敗式目は当時の年号にちなんで「貞永...

  • 執権政治の展開 その1

    ※今回より「第87回歴史講座」の内容の更新を開始します(1月13日までの予定)。承久(じょうきゅう)の乱(=承久の変)の後、鎌倉幕府は3代執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)の時代に発展期を迎えました。泰時は執権の補佐役としての「連署(れんしょ)」を設置して、北条氏の一族の有力者を任命しました。また、有力な御家人などの11人を「評定衆(ひょうじょうしゅう)」に選んで、合議制によって政務の処理や裁判にあたら...

  • 近衛内閣の誕生 その6

    ※「昭和時代・戦前」の更新は今回で中断します。明日(12月4日)からは「第87回歴史講座」の内容を更新します(1月13日までの予定)。そして、近衛が首相に就任する直前の昭和12(1937)年4月には、朝日新聞の記者で後に近衛の有力なブレーンとなった、かのゾルゲ事件で有名な尾崎秀実(おざきほつみ)も参加しています。首相に就任した直後、近衛は「国内各論の融和」を理由として治安維持法に違反した共産党員や二・二六事件の逮...

  • 近衛内閣の誕生 その5

    しかし現実は時として冷酷(れいこく)であり、この微妙かつ重要な時期に彼が首相であったことから、我が国は果てしない泥沼の戦争状態に突入することになってしまうのです。東京帝国大学に進学して哲学を学んでいた若き日の近衛文麿は、その後に京都帝国大学に転学していますが、その目的は「貧乏物語」の著作を持つとともにマルクス経済学を研究していた河上肇(かわかみはじめ)に師事するためでした。河上のもとで熱心にマルク...

  • 近衛内閣の誕生 その4

    かつて平安時代に摂関政治を行ったことで絶頂期を迎えた藤原氏でしたが、上皇による院政や平氏政権さらには鎌倉幕府の誕生によって没落し、やがては一門にあたる5つの家が交代で摂政や関白に就任するようになりました。これを五摂家といいます。五摂家の筆頭は近衛家(このえけ)でしたが、その血筋は江戸時代に一旦は断絶したものの、外孫(=他家に嫁いだ娘にできた子のこと)として皇室の血統を迎えたことで高貴さが強化されて...

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