第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
親鸞による教えは、従来の僧の習俗(しゅうぞく、風習や習慣のこと)にも大きな変化をもたらしました。極楽往生するには何の条件も必要なく、僧が守るべき戒律(かいりつ)にもこだわることはないとして、それまでタブーとされていた肉食妻帯(にくじきさいたい、肉食をして結婚すること)を自ら進んで実践(じっせん)したのです。現代のお坊さんはどの宗派の人も結婚できますが、これが広まったのは明治時代以降のことであり、そ...
法然の教えは、摂関家の九条兼実(くじょうかねざね)のような身分の高い公家のみならず、武士や庶民に至るまで多くの人々の支持を集めましたが、やがて旧仏教勢力の圧力を受けることになりました。法然は強制的に還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)させられて讃岐(さぬき、現在の香川県)に流されましたが、逆に浄土宗の教えが地方の武士や庶民にまで広がるという結果をもたらしました。なお、法然が流され...
平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけては、朝廷から武家へと政治の大変革が起こったのみならず、それに伴う数多くの戦乱や天災による飢饉(ききん)などが続いた時期でもありました。これらの現象が、平安中期より広まり始めた「末法(まっぽう)思想」そのものであると人々に強く信じられたことで、救いを求める人々の期待に応えるかのように新しい仏教が鎌倉時代に相次いで生まれ、広く信仰を集めました。いわゆる「鎌倉仏教...
一方、北の蝦夷ヶ島(えぞがしま、現在の北海道)では、縄文文化に続く稲作のない文化である「続縄文文化」を経て、独自の文様(もんよう)の土器を持つ「擦文(さつもん)文化」やオホーツク沿岸に分布する「オホーツク文化」が並存しました。なお、これらの文化はいずれも漁労(ぎょろう)あるいは狩猟に基礎を置く文化です。これらの文化を経て、13世紀にはアイヌの文化が生まれるようになりました。アイヌの人々は津軽(つがる...
モンゴルの動きが東アジアに大きな影響を与えていた頃、今の沖縄県に相当する日本列島の南の琉球(りゅうきゅう)では「按司(あじ)」と呼ばれた各地の首長がグスクを拠点に勢力を広げました。その後、琉球は山北(さんほく、別名を北山=ほくざん)・中山(ちゅうざん)・山南(さんなん、別名を南山=なんざん)の三つの勢力に統合されていきました。12世紀頃から、琉球ではそれまでの貝塚文化を経て農耕生活が始まり、グスクが...
一方、御家人たちも徳政令によって一息ついたものの、厳しい財政状況であることに変わりはありません。時が流れるとやがて生活に困るようになり、再び借上などに借金を申し込むことになります。しかし、幕府によって一度痛い目にあっている借上たちは、余程(よほど)のことがない限り今までどおりにお金を貸してはくれません。永仁の徳政令は、結果として御家人たちの経済活動をかえって阻害(そがい)するという結果をもたらして...
困窮(こんきゅう)する御家人の増加に対して、幕府も手をこまねいたわけではありませんでした。執権北条貞時は永仁5(1297)年に「永仁の徳政令」を出して、御家人に対して所領の売買や質入を禁じるとともに、すでに売却したものについては無償で元の持ち主に返却させることや、御家人が関係する金銭の訴訟を幕府が受け付けないことなどを定めました。要するに、幕府公認による「借金の棒引き」を行ったのです。それまでの借金が...
鎌倉時代の武士の社会では、先述のとおり一族の子弟たちに所領を分け与える分割相続が一般的でしたが、分割相続による所領の細分化がやがて御家人たちに深刻な影響を及ぼすようになりました。なぜなら、細分化によって農業収入は必然的に減少するのに対して、幕府からの様々な命令には「御恩」がある以上、これまでどおり従わなければならないからです。幕府への義務を果たす「奉公」は出費がかさむため、やがて御家人の多くが先述...
元寇を機に幕府の支配権は全国に拡大していきましたが、それとともに幕府内での北条氏の権力はさらに強化されました。なかでも北条氏の嫡流の当主である得宗(とくそう)の勢力が強大になったことで、得宗家の家来である「御内人(みうちびと)」と従来の一般御家人との対立が目立つようになりました。元寇の後、北条時宗が弘安7(1284)年に34歳の若さで亡くなると、時宗の子の北条貞時(ほうじょうさだとき)が13歳で9代執権とな...
騎馬軍団を構成する馬は非常に神経質な動物であり、海を渡って攻め寄せる際に船に乗せることが大変難しかったことで、元軍は得意の騎馬をほとんど使えずに我が国と戦わなければならないという大きな不利を当初から抱えていたのです。一方、元の来襲という国難に際して、特に弘安の役の折に暴風雨が発生したことで「我が国は神風に守られている」とする「神国(しんこく)思想」がこの後に主流となっていきました。この思想は、やが...
まず元軍といってもその大半が征服した異民族の連合軍であり、各人の戦意が乏(とぼ)しいのみならず、意思の疎通(そつう)が十分に行われなかったという一面がありました。次に、突貫工事で高麗に造らせた船は決して丈夫ではなく、しばしば転覆(てんぷく)の憂き目にあったほか、弘安の役の際の大暴風雨で多くの軍船が破壊されるとともに、数えきれないほどの兵の生命を奪ったとされています。また、大陸を縦横無尽に駆け回る陸...
それでも、元軍の一部が幕府軍の守備の及ばない搦(から)め手から上陸し、博多の町に侵入して乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働きましたが、すぐに幕府軍に見つかって、街中で激しい戦いを繰り広げました。一方の幕府軍も、夜になって周囲が真っ暗になると、夜陰にまぎれて敵船に乗りこんで火をつけ、あわてた敵兵を討ち取るといったゲリラ戦を敢行するなど健闘を重ね、戦いは膠着(こうちゃく)状態となりました。そして旧暦7月1...
翌建治(けんじ)元(1275)年、フビライは様子を見るために我が国に再び使者を送りましたが、幕府は使者の首をはねて外交拒絶の意思を明らかにしました。これは、以前に元が送った使者が我が国に長期間滞在したことで、スパイ活動をしていたのではないかと疑われたからでもあります。元との再戦を決意した北条時宗は異国警固番役を強化するとともに、全国の御家人に命じて博多湾沿いに石造の防塁である「石塁(せきるい)」を築き...
さて、再三送った使者を追い返されて激怒したフビライは、文永11(1274)年旧暦10月に高麗兵を併せた約3万の兵力で壱岐(いき、現在の長崎県壱岐市)・対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)の両島を占領した後、ついに博多湾に上陸しました。幕府も九州地方の御家人を中心に彼らと応戦しましたが、それまでの一騎討ちを中心とし、名乗りをあげてから攻め込む日本式の戦闘方法が元軍の集団戦法には通用せず、いきなり大量の矢を浴び...
元の使者に対して、鎌倉幕府は黙って元の服属国となることを受けいれるか、あるいは元との戦いを覚悟してでも服属を拒否するかの選択を迫られたわけですが、幕府には初めから「元には服属しない」という決断しか有り得ませんでした。なぜそういえるのでしょうか。鎌倉幕府は、そもそも武力によって他の勢力を自分の支配下に置くことで成立していました。そんな幕府が、いかに強敵だからといって元に服属してその軍門に下ったとすれ...
かつて満州(現在の中国東北部)からモンゴル高原東部まで及ぶ帝国を築いた遼(りょう)は、1125年に女真族(じょしんぞく)が樹立した金(きん)によって滅ぼされました。金はその後も領土を拡大し続け、1127年にはチャイナの北宋(ほくそう)をも滅ぼしました。宋の皇帝の一族は南方へ逃れて南宋(なんそう)を建国し、以後は金と南宋という二つの王朝が中国大陸を支配するようになりました。その後、我が国で鎌倉幕府が成立して...
遠隔地(えんかくち)を結ぶ商業取引も盛んとなり、大量輸送を果たすために水運を利用したことで海上交通が発達しました。兵庫や淀といった各地の湊(みなと)や大河川沿いの交通の要地には、年貢の輸送や保管にあたる問丸(といまる、別名を問=とい)が発達し、陸上交通の要地には宿(しゅく)が設けられるようになりました。売買の手段としては、従来用いられてきた物々交換(ぶつぶつこうかん)に代わって輸入された宋銭(そう...
また手工業(しゅこうぎょう)としては、農具の需要が増えたことで賃仕事のみで生計を立てる職人も現れるようになり、番匠(ばんしょう、大工のこと)や鍛冶(かじ)、鋳物師(いもじ)、紺屋(こうや、染め物業のこと)などの新しい職業が形成されていきました。鎌倉時代の頃には、物資や人が集中する荘園や公領の中心地や交通の要地、あるいは寺社の門前地で定期市(ていきいち)が開かれるようになりました。その多くは月に三度...
鎌倉時代の中頃には、畿内や西日本一帯で米のほかに麦を裏作(うらさく)とする二毛作(にもうさく)が行われるようになるなど、農業の発展も見られました。耕地の面積も、地頭などが積極的に新田開発を進めたことで増加していきました。肥料も山野の草や木の灰を利用した草木灰(そうもくばい)や、青いままの草を刈って田畑に敷(し)き込む刈敷(かりしき)が利用されるなど、次第に工夫されていきました。また、牛馬(ぎゅうば...
承久の乱(承久の変)の後に幕府の勢力が拡大され、荘園内における地頭の地位が強化されたことによって、荘園領主の任命した荘官に対して地頭が年貢を滞納(たいのう)したり、あるいは横領したりするなど、下地(したじ)と呼ばれた荘園の土地を地頭が支配するようになりました。地頭による非法に対し、荘園・公領の領主たちは訴訟によって事態を解決しようとしましたが、現地に根を下ろした地頭の行動は次第に無視できないものに...
この頃の武士は簡素な生活をしており、武芸を身につけるために普段から笠懸(かさがけ、笠を的に矢を射ること)や流鏑馬(やぶさめ、疾走する馬の上から的を射ること)、犬追物(いぬおうもの、騎馬で犬を追って弓で射ること)といった騎射三物(きしゃみつもの)を行ったり、原野で巻狩(まきがり、狩り場を四方から取り囲んで獣を追い立てて捕らえる狩猟のこと)などの訓練を行ったりしました。なお、犬追物では犬が傷つかないよ...
開発領主からの流れを引き継いでいた鎌倉時代の武士は先祖以来の所領に住み着いて勢力を拡大してきました。彼らは河川近くなど農村の要地を選んで、周囲に堀や土塁(どるい)をめぐらせて防御を高めた館(やかた)をかまえて住みました。館の周辺には年貢や公事(くじ、年貢以外の雑税のこと。律令制の調・庸・雑徭の系統をひく)がかからない佃(つくだ)や門田(かどた)などと呼ばれた直営地があり、下人(げにん)や所領内の農...
時は流れ、春になったある日のこと、幕府から「急ぎ鎌倉に集まれ」という命令が関東の御家人たちに向けて発せられました。源左衛門は真っ先に鎌倉へ駆け付けましたが、そのみすぼらしい姿は他の武士の失笑を買いました。そんな源左衛門が幕府首脳から呼び出しを受けて前へ進むと、そこで待っていたのは、何とあの時の旅の僧でした。「源左衛門、よくぞ参った。いつぞやの大雪の日には大変世話になったな」。そう話しかけてきた旅の...
源左衛門のもてなしに感激した旅の僧は、さぞかし名のある武士ではないかと思って源左衛門の身の上をたずねました。「私は佐野源左衛門常世と申します。かつてはこのあたり一帯を治めておりましたが、一族の者に領地を奪われ、今はご覧のとおりに落ちぶれてしまいました」。源左衛門の話を聞いていた旅の僧が周囲を見渡すと、立てかけられた大きな薙刀(なぎなた)や、鎧(よろい)が入っていると思われる大きな箱を見つけました。...
ところで、時頼の頃の武士の様子が分かる有名な謡曲(ようきょく)「鉢(はち)の木」を皆さんはご存知でしょうか。なお、謡曲とは能(のう)の脚本、またはそれに節(ふし)をつけて謡(うた)うことです。上野国佐野(こうずけのくにさの、現在の群馬県高崎市)に住む貧しい老いた武士である佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めました。僧の話を聞くと、信濃(しなの、現在の...
一方、時頼は当時増加していた御家人達の所領をめぐる訴訟(そしょう)を迅速(じんそく)に処理するため、建長元(1249)年に評定衆の会議である評定のもとに「引付(ひきつけ)」という役職を新たに設けるとともに「引付衆(ひきつけしゅう)」を任命して、評定衆を補佐させました。なお、幕府の求めによって、朝廷でも同時期に後嵯峨上皇によって「院評定衆(いんのひょうじょうしゅう)」が置かれましたが、院評定衆は幕府の承...
式目は従来の律令(りつりょう)に比べて非常に平易な文章で書かれており、内容も実用的なものが多く、後世にまで大きな影響を与えました。ただし、式目の適用は武家社会に限られており、朝廷の支配下では律令の後身(こうしん、もとの形から変わって現在の姿になったもの)である公家法(くげほう)が、荘園領主の支配下では本所法(ほんじょほう)が引き続き効力を持っていました。なお、御成敗式目は当時の年号にちなんで「貞永...
※今回より「第87回歴史講座」の内容の更新を開始します(1月13日までの予定)。承久(じょうきゅう)の乱(=承久の変)の後、鎌倉幕府は3代執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)の時代に発展期を迎えました。泰時は執権の補佐役としての「連署(れんしょ)」を設置して、北条氏の一族の有力者を任命しました。また、有力な御家人などの11人を「評定衆(ひょうじょうしゅう)」に選んで、合議制によって政務の処理や裁判にあたら...
※「昭和時代・戦前」の更新は今回で中断します。明日(12月4日)からは「第87回歴史講座」の内容を更新します(1月13日までの予定)。そして、近衛が首相に就任する直前の昭和12(1937)年4月には、朝日新聞の記者で後に近衛の有力なブレーンとなった、かのゾルゲ事件で有名な尾崎秀実(おざきほつみ)も参加しています。首相に就任した直後、近衛は「国内各論の融和」を理由として治安維持法に違反した共産党員や二・二六事件の逮...
しかし現実は時として冷酷(れいこく)であり、この微妙かつ重要な時期に彼が首相であったことから、我が国は果てしない泥沼の戦争状態に突入することになってしまうのです。東京帝国大学に進学して哲学を学んでいた若き日の近衛文麿は、その後に京都帝国大学に転学していますが、その目的は「貧乏物語」の著作を持つとともにマルクス経済学を研究していた河上肇(かわかみはじめ)に師事するためでした。河上のもとで熱心にマルク...
かつて平安時代に摂関政治を行ったことで絶頂期を迎えた藤原氏でしたが、上皇による院政や平氏政権さらには鎌倉幕府の誕生によって没落し、やがては一門にあたる5つの家が交代で摂政や関白に就任するようになりました。これを五摂家といいます。五摂家の筆頭は近衛家(このえけ)でしたが、その血筋は江戸時代に一旦は断絶したものの、外孫(=他家に嫁いだ娘にできた子のこと)として皇室の血統を迎えたことで高貴さが強化されて...
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第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
明治7(1874)年といえば、民撰議院設立の建白書が出されただけでなく、前年の明治6(1873)年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起きたり、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に反対だった木戸孝允が下野したりするなど、政府にとって様々な問題が発生した一年でした。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくり...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...