近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
「壇ノ浦の戦い」に平家が敗れ、ときの安徳帝は僅か8歳で崩御されました。そして、赤間関の「阿弥陀寺」に奉葬されました。建久2年に、ときの朝廷は、御陵の上に「御影…
唐戸にある「旧下関英国領事館」は、現存する最古の領事館です。 当時の駐日英国公使「アーネスト・サトウ」が英国本国へ意見具申し、明治34年、赤間町にて開設されま…
下関駅から直ぐの竹崎町。此処に、高杉晋作に「一目惚れ」し、奇兵隊の創立に自ら参加し、自邸を「奇兵隊の本陣」に提供した、「廻船問屋《小倉屋》経営者:白石正一郎」…
明治28年(1895)3月20日、下関のふく料亭「春帆楼」において、日清戦争の講和会議が始まりました。日本側「全権:伊藤博文、陸奥宗光ほか」、清国側「全権:李…
此処には、古来より「篠瀬(死の瀬)」と呼ばれる大岩礁があり、干潮時には岩礁が見えるものの、満潮時には、海水下に潜ってしまいました。知る人ぞ知る「海の難所」でし…
ある意味、日本一、歴史の香りが高い公園ではないだろうか。「御裳川(みもすそがわ)公園」。「御裳川」とは、お伊勢さんを流れる清流「御五鈴川」の異称。清流の代表と…
かつては、古くて狭かった「長府の歴博」が、移転新築されていました。 私の知る限り、県立歴博のうちで良かったのは「福島県歴史博物館(会津若松市)」だけで、他は、…
高杉晋作の維新回天義挙の起点として、幕末史に燦然と名を残す「功山寺(曹洞宗)」です。 境内は、森閑としています。 総門です。禅宗様の四脚門。木造瓦葺き。間口4…
「功山寺(曹洞宗)」です。「覚苑寺」、「日頼寺」、「笑山寺」と並ぶ長府毛利家の菩提寺。しかし、歴史上の重要性、知名度は、抜群です。幕末の長州。「七卿落ち」のう…
長府毛利家の菩提寺のひとつ「笑山寺(曹洞宗)」です。元和年間に、廃寺となった観音寺というお寺を移転し、毛利秀元が開基となって建てられました。 秀元の祖母の乃美…
長府毛利家の菩提寺のひとつ「日頼寺」です。元々は「極楽寺」と称していましたが、毛利元就の四男/元清(=秀元の父)が、元就の法名「日頼洞春」に因み「日頼寺」と改…
「長府藩侍屋敷長屋」の隣を流れる清流が、「檀具川」です。季節には、蛍が飛び交うとか。神功皇后が九州へ熊襲征伐に遠征された際、此処に「檀」を築き祭事を行い、祭事…
中世の上級武士の屋敷門には、長屋が付属していました(長屋門)」。門に付随した長屋には、中間(ちゅうげん=上級武士に仕え、雑務を行う人)が住み、訪問客の供侍が待…
長府城下町の街歩きに疲れたら、「cafe マガサン」で一休み。ランチも、四季折々の地元産の素材を活かした、体に優しい料理を戴けます。 三方を海に囲まれ、農業も…
「長府毛利邸」内に建つ「長府藩祖/毛利秀元公像」です。毛利秀元は、関ヶ原の戦いに出陣していますから、歴史好きには御馴染みの「(空弁当の)宰相殿」です。 長州藩…
それでは、「長府毛利邸」を、じっくりと見ていきます。 大玄関です。 邸の内部へ。 全体像です。 建物の竣工は、明治36年。大正8年まで、長府毛利家の本邸として…
下関市長府惣社町にある「長府毛利邸」です。長府毛利家第14代当主の毛利元敏公が、明治31年に起工し明治36年に完成させた邸宅で、大正8年まで長府毛利家の本邸と…
長府毛利家の第3代毛利綱元公が、元禄11年(1698)に、黄檗宗萬福寺第7代住持である悦山道宗禅師を開山として招聘し、創建しました。寺禄102石で、歴代の長府…
「長府毛利邸」の南にある「古江小路」は、城下町の風情をふんだんに残すエリアです。その古江小路にドーンとあるのが、「菅家長屋門」。建築当時の姿を、完全に残してい…
「乃木神社」を出ると(直ぐ、西側が)「横枕小路」。樹葉に覆われた土塀の空間が、そのままタイムトンネルといった味わいがある路地です。その「横枕小路」の出口に「三…
「忌宮神社」の北東部に鎮座する「乃木神社」ですが、参道は、旧山陽道(乃木さん通り)」から延びています。 江戸・麻布の長府毛利家江戸屋敷で生まれた乃木さんですが…
長府城下町の中心部に鎮座する「忌宮(いみのみや)神社」です。大きな立派な神社です(長門国二の宮)。仲哀天皇、神功皇后が西国の「熊襲征伐」の際、此処に「豊浦宮」…
本覚寺の右隣にある「正円寺(浄土真宗本願寺派)」です。山口県指定天然記念物「大公孫樹」で有名です。 流石に、見事です。 …
「乃木さん通り」と呼ばれている旧山陽道に、特徴的な2寺が並んでいます。まずは「本覚寺(浄土宗)」です。「天馬門」というそうですが、特徴的な山門です。 ちょっと…
維新発祥の地「長府城下町」を散策しています。 司馬さんの「竜馬がゆく」でお馴染みの「龍馬のSP/三吉慎蔵」の住居跡がありました。三吉慎蔵は、天保2年(1831…
唐戸市場からサンデンバスで約15分。「長府城下町」に到着です。「維新発祥の地」の立派な石碑が。確かに、「維新発祥の地=晋作が挙兵した功山寺」が長府にあります。…
「ブログリーダー」を活用して、嵯峨野の青竹さんをフォローしませんか?
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
広さ:約130haもの「平城宮跡歴史公園」の東張り出し部に、「東院庭園」、宇奈多理神社、建部門(東院南門)などが復元されています。 「東院庭園」は、東西約80…
「平城宮跡(国の特別史跡)」は、近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅の途中に、広大に広がっている広場に復元されています。 その広さは、約1km四方に「750m×25…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…
「MOA美術館」は、創立者:岡田茂吉により第二次世界大戦後から本格的に蒐集された、国宝3点を含む総数約3500点もの膨大なコレクションを有しています。此の日も…