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八咫烏・陰陽道宗家賀茂一族の系譜 https://yatagarasu33.jugem.jp/

八咫烏と称された賀茂一族の系譜を紐解くと日本古代史の謎が解明されます。

賀茂一族の系譜を元に、弥生、銅鐸、邪馬台国、卑弥呼、壬申の乱を解明。陰陽道、修験道、藤原氏、徳川氏との関係にも触れます。

八咫烏
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2011/02/28

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  • 2月11日、慈恩さんの新刊発売!

     2月11日、慈恩さんの新刊(電子ブック)発売!オススメです。地球維新天声会議ブログhttp://plaza.rakuten.co.jp/kagoshimalife/にて、下記スケジュールで記事を掲載との事です。2月1日 発売日告

  • 「遼太郎」なる者からの事実無根の誹謗中傷

     先般のご報告の通り、お蔭様でこのブログが本になりましたが、その後の売れ行き、評価も概ね好調です。ただ、一方で「遼太郎」なる者から、Amazonのレヴューで事実無根の誹謗中傷を繰り返され困っています。このブログを含め証拠を示しての

  • 来週、出版予定です。

     お蔭様で、本になりました。来週ヒカルランドから発売予定です。ご支援のほど、よろしくお願いします。http://www.hikaruland.co.jp/books/2013/02/06123129.html

  • ヒカルランドから出版

     ヒカルランドより、出版になります。http://www.hikaruland.co.jp/books/2013/02/06123129.htmlよろしくお願いします。大かも

  • 9.[葛藤]壬申の乱

    次に挙げるのは、壬申の乱における登場人物の中で、近江朝の主だった人物である。☆印は、出雲族を示す。まづ、壬申の乱において近江朝の将として活躍した者である。すなわち、書直薬(フミノアタイクスリ)、智尊(チソン)、☆穂積臣百足(ホズミノオミモ

  • 9.[葛藤]壬申の乱

    それによると、霊亀2年(716年)4月、壬申の乱の功臣の子息に田を賜ったとい記事がある。そして、その中に尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)の子、尾張稲置(イナキ)が含まれているのである。さらに、天平宝字元年(757年)12月、尾張稲置(

  • 9.[葛藤] 壬申の乱

    さらに、彼等以外にも賀茂氏をはじめ、出雲族が揃って・野(天武)方に就いている。 そもそも、大海人皇子挙兵の決断は、高市県主許梅に神懸り神託によるという。 その高市県主許梅に降りた神の名は、事代主(コトシロヌシ)。事代主も賀茂・三輪氏であった

  • 9.[葛藤]壬申の乱

    この賀茂蝦夷は、大友吹負に呼応して大和支配に協力、後に河内の近江軍に備え石手(イワテ)の道を守るなどして、活躍している。 挙兵を決断した大海人皇子が、最初に取った行動は、美濃国(岐阜県中部・南部)に使者を送ったことである。美濃国には皇子の直

  • 9:[葛藤]・壬申の乱

    �壬申の乱の実情 通説では、この乱は、大海人皇子にとって「窮鼠猫を噛む」如く勝算のないものだったとされる。 大海人皇子は、吉野へ去るにあたり、敵意がないことの証として武器を全て朝廷へ納めている。また、皇子に随行したのは、妃と二人の皇子、二十

  • 9:[葛藤]・壬申の乱

    �壬申の乱勃発天武元年(672年)、天智天皇の没後、皇位継承をめぐって、天智天皇の子・大友皇子(オオトモのミコ、オウジ)と、天智天皇の弟・大海人皇子(オオアマのミコ、オウジ)との間に、勃発した日本古代史最大の内戦を「壬申の乱」と言う。通

  • 9:[葛藤]・壬申の乱

    �壬申の乱勃発天武元年(672年)、天智天皇の没後、皇位継承をめぐって、天智天皇の子・大友皇子(オオトモのミコ、オウジ)と、天智天皇の弟・大海人皇子(オオアマのミコ、オウジ)との間に、勃発した日本古代史最大の内戦を「壬申の乱」と言う。通

  • 9:[葛藤・壬申の乱

    �壬申の乱勃発天武元年(672年)、天智天皇の没後、皇位継承をめぐって、天智天皇の子・大友皇子(オオトモのミコ、オウジ)と、天智天皇の弟・大海人皇子(オオアマのミコ、オウジ)との間に、勃発した日本古代史最大の内戦を「壬申の乱」と言う。通

  • 8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(5)

    �白村江(ハクスキエ・ハクソンコウ)の戦い 663年、百済・日本連合軍が、朝鮮半島沖で新羅・唐連合軍に大敗し、全滅した海戦を白村江(カクスキエ又はハクソンコウ)の戦いと言う。 このころの朝鮮半島は、北に高句麗、東に新羅、西に百済。その南に新

  • 8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(4)

    �藤原氏は百済王族だった! 7世紀以来、千数百年にわたって日本の最高の名門貴族の座を手にした藤原氏とは何者なのだろう。藤原氏最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、未だにその出自がはっきりしていない、ということである。藤原氏は『日本書

  • 8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(3)

    �蘇我系・孝徳王朝要人暗殺孝徳朝の最高位、左大臣に抜擢されたのが、阿倍内麻呂臣(アベノウチマロノオミ)であった。この人物は、蘇我馬子の側近、阿倍麻呂と同一人物とする説がある。仮にそうでなくても、蘇我氏と阿倍氏とは非常に密接な関係にあったと

  • 8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(3)

    �蘇我系・孝徳王朝要人暗殺孝徳朝の最高位、左大臣に抜擢されたのが、阿倍内麻呂臣(アベノウチマロノオミ)であった。この人物は、蘇我馬子の側近、阿倍麻呂と同一人物とする説がある。仮にそうでなくても、蘇我氏と阿倍氏とは非常に密接な関係にあったと

  • 第8章:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(2)

    �クーデター・大化の改新(乙巳の変)!『日本書紀』によると、645年の「大化の改新(乙巳の変)」の蘇我入鹿殺害場面で蘇我氏の専横を糾弾している。「入鹿は王位を傾けようとしている。なぜ尊い血脈を、入鹿に替えることができようか。」というのである

  • 第8章:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(1)

    �葛城、蘇我系皇子・聖徳太子6世紀末。東アジア情勢は急変していた。これに対応すべく、国内でも国家意識を少しずつ高めていく必要に迫られていた。その為には、国家機構の整備が急務であった。 この時期に登場したのが、聖徳太子である。 聖徳太子は59

  • 7.大和の葛藤(2)−3

    <葛城・賀茂氏系図>

  • 7.大和の葛藤(2)

    �葛城・蘇我氏も、賀茂一族だった葛城氏・蘇我氏の出自については、不明な点が多い。と通説はいう。しかし、通説でも両氏は同族だということが判明している。 通説によると、蘇我氏は仲哀天皇の皇后・神功皇后を、大臣として補佐した健内宿祢(タケのウチの

  • 6.陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(11)

    �齢(ヨワイ)は封じてある 清明の母が、「尋ねて来て見よ」と言った、葛葉神社に伝わる『泉州白狐伝説』。この記載にあった、「齢(ヨワイ)は封じてある」という暗号。この不自然に歪められた時間軸を糺す為、天皇の在位期間から時代を遡ってみた。『記紀

  • 6.陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(10)

    �『記紀』欠史八代最近の通説では、神武天皇は架空の天皇で、崇神天皇こそが初代天皇ではないかという説が主力になって来ている。それによると神武天皇の記載は崇神天皇の史実を語ったものとされる。さらに、少なくとも2代から9代天皇までは「欠史八代」と

  • 6.陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(8)−3

    �関係図の検証念のため、前術の箸墓伝承について、登場人物を整理し、関係図を検証する。【1】箸墓伝説『日本書紀』崇神紀 大物主神 倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)<倭迹迹姫>【2】大田田根子の出自(1)『古事記』崇神

  • 6.陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(8)−1

    �ヤタガラスの娘・タマヨリヒメが卑弥呼だった!さて、ヤマトモモソヒメという女性の出自であるが、通説では、孝霊天皇の皇女とされる。これは、孝霊紀に、孝霊天皇と倭国香姫(亦名は絚某姉(ハヘイロネ))の間の所生と記載されていることに

  • 6.陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(7)

    �陶津耳・茅淳耳と大田田根子 大田田根子の出自と三輪の地名起源について、『日本書紀』崇神天皇の条に、前述の大物主の祟りにつての記事につづいて次のような記載がある。 「此の意富多多泥古 (オオタタネコ)と謂(イ)う人を、神の子と知れる所以(ユ

  • 6.陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(5)

    �卑弥呼は賀茂女(カモメ)だった。 『魏志倭人伝』に記載がある、邪馬台国の女王・卑弥呼とはいったい誰だったのか?古来数多くの方が解明を試みるが、未だに定説に到っておらず、日本古代最大の謎となっている。卑弥呼の候補者としては、次の3人が有力

  • 6.陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(4)

    (4)中国の史書が明かす、邪馬台国=大和国中国の史書『後漢書』によると、当時の日本「大和」を指して「邪馬臺国」(ヤマト)」と表記していることが確認できる。そしてそこには、南朝宋の范曄(ハンヨウ)によって、次のような注釈がつく。「按ずるに今、

  • 6.陰陽師・賀茂女(カモメ)卑弥呼と賢者の石(3)−1

    (3)陰陽師・卑弥呼と賢者の石 弥生時代の代表的な出土品である「銅鐸」は、当時の人々には「さなぎ」と呼ばれ、祖霊祭器であった可能性が大きい点は前に述べた。 当時の人々は、祖霊の子孫への輪廻転生という宗教観を持っていた模様である。 それに対し

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