八咫烏と称された賀茂一族の系譜を紐解くと日本古代史の謎が解明されます。
賀茂一族の系譜を元に、弥生、銅鐸、邪馬台国、卑弥呼、壬申の乱を解明。陰陽道、修験道、藤原氏、徳川氏との関係にも触れます。
次に挙げるのは、壬申の乱における登場人物の中で、近江朝の主だった人物である。☆印は、出雲族を示す。まづ、壬申の乱において近江朝の将として活躍した者である。すなわち、書直薬(フミノアタイクスリ)、智尊(チソン)、☆穂積臣百足(ホズミノオミモ
それによると、霊亀2年(716年)4月、壬申の乱の功臣の子息に田を賜ったとい記事がある。そして、その中に尾張宿禰大隈(オワリノスクネオオスミ)の子、尾張稲置(イナキ)が含まれているのである。さらに、天平宝字元年(757年)12月、尾張稲置(
さらに、彼等以外にも賀茂氏をはじめ、出雲族が揃って・野(天武)方に就いている。 そもそも、大海人皇子挙兵の決断は、高市県主許梅に神懸り神託によるという。 その高市県主許梅に降りた神の名は、事代主(コトシロヌシ)。事代主も賀茂・三輪氏であった
この賀茂蝦夷は、大友吹負に呼応して大和支配に協力、後に河内の近江軍に備え石手(イワテ)の道を守るなどして、活躍している。 挙兵を決断した大海人皇子が、最初に取った行動は、美濃国(岐阜県中部・南部)に使者を送ったことである。美濃国には皇子の直
�壬申の乱の実情 通説では、この乱は、大海人皇子にとって「窮鼠猫を噛む」如く勝算のないものだったとされる。 大海人皇子は、吉野へ去るにあたり、敵意がないことの証として武器を全て朝廷へ納めている。また、皇子に随行したのは、妃と二人の皇子、二十
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