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中国語気まぐれブログ https://blog.goo.ne.jp/inghosono/

中国語を通じ、中国の文化、歴史、生活などをお伝えしたいと思います。内容は筆者の気まぐれ、興味を持った内容を取り上げていきます。

日頃中国語に接する中で、気になったこと、表現力アップに役立ちそうな内容を紹介していきます。

いながさとし
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2010/06/24

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  • 北京史(三十三) 第六章 明代の北京(11)

    国子監第五節明代の北京の文化明代の北京は封建政治と軍事の中心であり、且つ封建文化の堡塁(ほうるい)であった。ここで、統治する立場を占めた文化は封建文化であった。これは封建統治階級の独占した文化であった。しかし、直接一般の人々に属する民間文化と進歩した文化も絶えず闘争の中で成長した。統治階級の北京での文化統治明朝の統治者が北京に建都後、直ちに北京にいくつかの文化教育機構を設置した。明の統治者はこれらの機構をを用いて文化を独占し、同時にまたこれらの機構を利用し、地主階級の子弟を養成、選抜し、それによりさらにうまく封建統治を維持しようとした。明朝廷で試験を管轄していたのは礼部で、礼部の主な職責のひとつは三年に一回の会試と殿試であった。明朝では、地主階級の子弟は会試や殿試を通じて選抜され、上層の統治グループの中に...北京史(三十三)第六章明代の北京(11)

  • 北京史(三十二) 第六章 明代の北京(10)

    山海関第四節北京での大順政権(続き)大順政権の経済措置李自成は河南にいた時、声高らかに「均田免賦」のスローガンを唱えた。北京にいた時期、農民軍は終始働く人々から銭一文、穀物一粒徴収したことがなかった。農民軍の軍糧は、全て富豪からの追贜(隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)の取り立て)、索餉(軍糧の請求)に依存した。これと同時に、農民軍はいくつかの場所で、「均田」を実行した。山東地区では、農民軍の官吏は着任後、「富を切り分け貧しきを助けるの説を以て、主な政策(通衢)を明示し、戸は遠近を分かたず、所有者が耕すを認可」し、そして「大きな屋敷、肥沃な田畑」は皆「貧しき輩」の占有するところとなった。山西のあるところの農民や群衆は、農民軍官吏の指導の下、豪紳地主の手から土地、屋敷...北京史(三十二)第六章明代の北京(10)

  • 北京史(三十一) 第六章 明代の北京(9)

    大順政権による「追贜索餉」第四節北京での大順政権(続き)大順政権の政治措置時代条件や階級意識の制約のため、農民軍は封建制度を廃除し、新たな社会制度を打ち建てるよう努めることは無かったし、不可能であった。しかし、既存の社会を深く恨み、すばらしい生活を渇望していた農民軍は、北京にいた期間にも彼らの経験、智慧や才能を活かし、明朝の政治経済制度に対し、一連の改革を行い、何とか彼らの理想の社会秩序を実現すべく努力した。政治経済改革の実施の責任者は、李自成、劉宗敏、李過、田見秀など二十人余りから成る指導部であった。これら農民軍の指導者は、互いに兄弟と呼び合い、「一緒に座って飯を食い」、「何事も衆議を集めて計画し」、終始共同で議論する民主的なやり方を保った。早くも1640年(崇禎13年)、李自成が湖北省襄陽にいた時、中...北京史(三十一)第六章明代の北京(9)

  • 北京史(三十) 第六章 明代の北京(8)

    李自成軍北京入城第四節北京での大順政権李自成の農民軍が北京に進軍明朝末年、地主階級は気が狂ったように土地を併呑し、農民に対し極端に残酷な搾取と掠奪を行い、幅広い農民が着るもの食べるものの当てもなく、貧困絶望の深淵に陥り、次々と破産し逃亡し、階級間の矛盾が既に極めて激しくなり、農民戦争は一触即発の状態であった。1627年(天啓7年)、陝北澄城県の飢えた人々が、県城になだれ込み、知県を殺し、明末の農民大蜂起が幕を開けた。これより、農民蜂起が野火のように中国全土各地で瞬く間に燃え上がった。明末農民蜂起蜂起の勢いが明朝の統治者を震撼させ、統治階級は慌てふためいた。農民軍は厳しく鎮圧すべきと主張する者がいた。「宣撫(招撫)」政策を採り、農民軍を分裂、瓦解させるべきと主張する者もいた。その他少数の人は土地問題の重大性...北京史(三十)第六章明代の北京(8)

  • 北京史(二十九) 第六章 明代の北京(7)

    明朝第14代万暦帝、在位1572-1620年第三節北京の政治(続き)北京の人々の鉱監、税監に対する反対闘争1596年(万暦24年)、明朝の統治階級内部で腐敗の最も甚だしかった大地主グループは、工商業に対する掠奪を強化するため、大量の宦官を派遣し、鉱山開発を名目にほしいままに金銀を掠奪することを開始し、その後更に全国各地で商業税を徴収した。宦官の鉱山開発と商業税徴収は北京より始まり、その後全国各地で行われた。鉱監、税監は天下に遍き、極めて大きな混乱や損害をもたらした。商業税徴収は辺鄙な片田舎まで深く入り込み、米、塩、鶏、豚までも納税させた。一般の土豪劣紳(地方のボスども)は更にこの機に乗じて宦官に賄賂を納め、朝廷の符札を取得し、勢いに乗じて商人や人々を痛めつけ、ほしいままに彼らの資財をかすめ取った。鉱山開発...北京史(二十九)第六章明代の北京(7)

  • 北京史(二十八) 第六章 明代の北京(6)

    劉六、劉七農民蜂起第三節北京の政治(続き)劉六、劉七が指導した農民蜂起劉六、劉七が指導した農民蜂起は、1510年(武宗の正徳5年)10月に勃発したもので、前後トータル2年持ちこたえ、活動の範囲は今の山東、河北、河南、湖北、山西、江西、安徽、江蘇の8省が含まれ、且つ4回北京を威嚇した。農民軍は順天府(北京)境の覇州(河北省廊坊市南部。北京、天津、保定の三角地帯の中心に位置する)で蜂起した。覇州は明朝の北京南部の重鎮で、荘園が交錯し、軍の屯田が密集して分布し、良田、美地が皇室、勲戚(勲功のあった皇族)、衛所(明の軍隊の編制)、朝廷により占拠された。ここに居住する貧しい農民と駐屯軍は、その中には漢族だけでなく、モンゴル族、ウイグル族の人々もいた。土着の人々(土著)だけでなく、移り住んできた流民や流罪になった犯罪...北京史(二十八)第六章明代の北京(6)

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