後ほど、中国近世の小説、『紅楼夢』の第十二回を投稿します。自分に横恋慕してきた男を懲らしめる鳳姐。その事件を契機に病を得てしまった賈瑞は、びっこの道士からもらった鏡を覗いたことで、不思議な幻想を経験し。是非読んでみてください。『紅楼夢』第十二回
中国語を通じ、中国の文化、歴史、生活などをお伝えしたいと思います。内容は筆者の気まぐれ、興味を持った内容を取り上げていきます。
日頃中国語に接する中で、気になったこと、表現力アップに役立ちそうな内容を紹介していきます。
国子監第五節明代の北京の文化明代の北京は封建政治と軍事の中心であり、且つ封建文化の堡塁(ほうるい)であった。ここで、統治する立場を占めた文化は封建文化であった。これは封建統治階級の独占した文化であった。しかし、直接一般の人々に属する民間文化と進歩した文化も絶えず闘争の中で成長した。統治階級の北京での文化統治明朝の統治者が北京に建都後、直ちに北京にいくつかの文化教育機構を設置した。明の統治者はこれらの機構をを用いて文化を独占し、同時にまたこれらの機構を利用し、地主階級の子弟を養成、選抜し、それによりさらにうまく封建統治を維持しようとした。明朝廷で試験を管轄していたのは礼部で、礼部の主な職責のひとつは三年に一回の会試と殿試であった。明朝では、地主階級の子弟は会試や殿試を通じて選抜され、上層の統治グループの中に...北京史(三十三)第六章明代の北京(11)
山海関第四節北京での大順政権(続き)大順政権の経済措置李自成は河南にいた時、声高らかに「均田免賦」のスローガンを唱えた。北京にいた時期、農民軍は終始働く人々から銭一文、穀物一粒徴収したことがなかった。農民軍の軍糧は、全て富豪からの追贜(隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)の取り立て)、索餉(軍糧の請求)に依存した。これと同時に、農民軍はいくつかの場所で、「均田」を実行した。山東地区では、農民軍の官吏は着任後、「富を切り分け貧しきを助けるの説を以て、主な政策(通衢)を明示し、戸は遠近を分かたず、所有者が耕すを認可」し、そして「大きな屋敷、肥沃な田畑」は皆「貧しき輩」の占有するところとなった。山西のあるところの農民や群衆は、農民軍官吏の指導の下、豪紳地主の手から土地、屋敷...北京史(三十二)第六章明代の北京(10)
大順政権による「追贜索餉」第四節北京での大順政権(続き)大順政権の政治措置時代条件や階級意識の制約のため、農民軍は封建制度を廃除し、新たな社会制度を打ち建てるよう努めることは無かったし、不可能であった。しかし、既存の社会を深く恨み、すばらしい生活を渇望していた農民軍は、北京にいた期間にも彼らの経験、智慧や才能を活かし、明朝の政治経済制度に対し、一連の改革を行い、何とか彼らの理想の社会秩序を実現すべく努力した。政治経済改革の実施の責任者は、李自成、劉宗敏、李過、田見秀など二十人余りから成る指導部であった。これら農民軍の指導者は、互いに兄弟と呼び合い、「一緒に座って飯を食い」、「何事も衆議を集めて計画し」、終始共同で議論する民主的なやり方を保った。早くも1640年(崇禎13年)、李自成が湖北省襄陽にいた時、中...北京史(三十一)第六章明代の北京(9)
李自成軍北京入城第四節北京での大順政権李自成の農民軍が北京に進軍明朝末年、地主階級は気が狂ったように土地を併呑し、農民に対し極端に残酷な搾取と掠奪を行い、幅広い農民が着るもの食べるものの当てもなく、貧困絶望の深淵に陥り、次々と破産し逃亡し、階級間の矛盾が既に極めて激しくなり、農民戦争は一触即発の状態であった。1627年(天啓7年)、陝北澄城県の飢えた人々が、県城になだれ込み、知県を殺し、明末の農民大蜂起が幕を開けた。これより、農民蜂起が野火のように中国全土各地で瞬く間に燃え上がった。明末農民蜂起蜂起の勢いが明朝の統治者を震撼させ、統治階級は慌てふためいた。農民軍は厳しく鎮圧すべきと主張する者がいた。「宣撫(招撫)」政策を採り、農民軍を分裂、瓦解させるべきと主張する者もいた。その他少数の人は土地問題の重大性...北京史(三十)第六章明代の北京(8)
明朝第14代万暦帝、在位1572-1620年第三節北京の政治(続き)北京の人々の鉱監、税監に対する反対闘争1596年(万暦24年)、明朝の統治階級内部で腐敗の最も甚だしかった大地主グループは、工商業に対する掠奪を強化するため、大量の宦官を派遣し、鉱山開発を名目にほしいままに金銀を掠奪することを開始し、その後更に全国各地で商業税を徴収した。宦官の鉱山開発と商業税徴収は北京より始まり、その後全国各地で行われた。鉱監、税監は天下に遍き、極めて大きな混乱や損害をもたらした。商業税徴収は辺鄙な片田舎まで深く入り込み、米、塩、鶏、豚までも納税させた。一般の土豪劣紳(地方のボスども)は更にこの機に乗じて宦官に賄賂を納め、朝廷の符札を取得し、勢いに乗じて商人や人々を痛めつけ、ほしいままに彼らの資財をかすめ取った。鉱山開発...北京史(二十九)第六章明代の北京(7)
劉六、劉七農民蜂起第三節北京の政治(続き)劉六、劉七が指導した農民蜂起劉六、劉七が指導した農民蜂起は、1510年(武宗の正徳5年)10月に勃発したもので、前後トータル2年持ちこたえ、活動の範囲は今の山東、河北、河南、湖北、山西、江西、安徽、江蘇の8省が含まれ、且つ4回北京を威嚇した。農民軍は順天府(北京)境の覇州(河北省廊坊市南部。北京、天津、保定の三角地帯の中心に位置する)で蜂起した。覇州は明朝の北京南部の重鎮で、荘園が交錯し、軍の屯田が密集して分布し、良田、美地が皇室、勲戚(勲功のあった皇族)、衛所(明の軍隊の編制)、朝廷により占拠された。ここに居住する貧しい農民と駐屯軍は、その中には漢族だけでなく、モンゴル族、ウイグル族の人々もいた。土着の人々(土著)だけでなく、移り住んできた流民や流罪になった犯罪...北京史(二十八)第六章明代の北京(6)
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後ほど、中国近世の小説、『紅楼夢』の第十二回を投稿します。自分に横恋慕してきた男を懲らしめる鳳姐。その事件を契機に病を得てしまった賈瑞は、びっこの道士からもらった鏡を覗いたことで、不思議な幻想を経験し。是非読んでみてください。『紅楼夢』第十二回
今回は、鳳姐に横恋慕した賈瑞に対して、鳳姐が策略を講じ、賈瑞を懲らしめる様子が描かれます。この事件を契機に病を得、寝たきりとなった賈瑞が、この物語で時々登場する僧侶と道士の片割れからもらった不思議な鏡を覗いてみると……。『紅楼夢』第十二回の始まりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・王熙鳳は毒もて相思の一局を設け賈天祥は正に風月の鑑(かがみ)を照らす(「王熙鳳」は、本文ではあだ名の「鳳姐」と書かれています。「相思」は男女が互いに思慕すること。「賈天祥」は賈瑞の別名です。)さて鳳姐がちょうど平兒と話をしていると、取り次ぎをする者の声が聞こえた。「瑞旦那様がお越しになりました。」鳳姐は「お入りになってもらって。」と命じた。賈瑞は面会を請求し、心の中では密かに嬉しく思っていた。鳳...『紅楼夢』第十二回
寧国府では賈敬の誕生日のお祝いで、庭に芝居の舞台が設置され、一族の人々がお祝いにやって来ます。賈敬の孫の賈蓉の嫁の秦可卿の身体の具合が悪いと聞き、王熙鳳(鳳姐)らがお見舞いに行きます。その後、お庭に向かった鳳姐に、一族の賈瑞がちょっかいを出し、良からぬ下心を抱きます。『紅楼夢』第十一回の始まりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・寿辰を慶し寧府は家宴を排し、熙鳳を見て賈瑞は淫心を起こすさて、この日は賈敬の寿辰(老人の誕生日)で、賈珍は先に上等な食べ物、珍しい果物を、十六の大捧盒(大きな蓋付きの箱で、両手で捧げ持つ)に詰め、賈蓉に家の召使たちを連れて、賈敬のところに届けに行かせ、賈蓉に対してこう言った。「おまえ、お爺様が喜んでおられるかどうか、注意して見て、お辞儀をしたら、こ...『紅楼夢』第十一回
金栄が秦鐘をいじめたことに端を発した賈家の家塾での乱闘騒ぎで、金栄は皆の前で謝らされ、面目を失したのですが、自分ひとりが責任を取らされたことを不満に思い、金栄は帰宅後、母親に不満をぶつけます。金栄の叔母の賈璜の妻が寧国府の賈珍の妻の尤氏に不満を訴えようとするが……。第十回の始まりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・金寡婦は利を貪り権を利し辱めを受く張太医は病を論じ細かく源を窮(きわめ)るさて金栄は、多数の人々からの勢いに押され、また賈瑞により非を償うよう命じられ、秦鐘に「磕頭」kētóu(額を地面につけて相手にぬかずく)して謝り、宝玉はそれでようやく騒ぎ立てることをしなくなった。学校が引けて、金栄は自分の家に帰ったが、考えれば考えるほど腹が立ち、言った。「秦鐘は賈蓉の義弟...『紅楼夢』第十回
この回では、いよいよ賈宝玉と秦鐘が一緒に賈家の家塾に通い始め、そこでの騒動が描かれます。『紅楼夢』第九回の始まりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・劣子を訓(さと)すに李貴は申飭(しんちょく)を承(うけたまわ)り、頑童の茗煙が書房を鬧(さわ)がすを嗔(いか)る申飭shēnchì(しんちょく。叱責する)嗔chēn(いか)るさて秦邦業父子は専ら賈家の方から入学許可の手紙が来るのを待っていた。元々宝玉は急いで秦鐘と会う必要があると思い、遂に明後日に必ず学校に行くと決め、人を遣って手紙を届けさせた。その日になって、宝玉が起きると、襲人がとっくに本や筆の文具をちゃんと準備し、ベッドの縁に腰かけ、気がふさいだ様子であった。宝玉が起きて来たのを見ても、彼が髪を梳いて顔を洗う世話をするだ...『紅楼夢』第九回
秦可卿の弟の秦鐘と仲良くなり、ふたりで一緒に賈家の家塾に通う約束をした賈宝玉。第八回では、薛宝釵の病気見舞いに行った宝玉が、自分が口に銜えて生まれてきた石に刻まれた文字と、宝釵のつけている金のネックレスに刻まれた文字が対句になっていることが分かります。さて、話はどう展開していくのでしょうか。『紅楼夢』第八回のはじまりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・賈宝玉は奇縁にて金鎖を識り、薛宝釵は巧合(たまたま)通霊を認めるさて、宝玉と鳳姐は家に帰り、何人かの人に会ったが、宝玉は賈のお婆様に、秦鐘を家塾に入れてあげる約束をしたことを報告し、自分も一緒に勉強する友になり、ちょうど勉強に発奮できる。また秦鐘の人柄や振舞いをたいへん称賛し、たいへん好ましい人物だと言った。鳳姐もその横から...『紅楼夢』第八回
劉婆さんが帰った後、周瑞の家内の家内がそのことを王夫人のところに報告に行くところから、第七回が始まります。『紅楼夢』第七回の始まりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・宮花を送り賈璉は熙鳳と戯(たわむ)れ、寧府の宴で宝玉は秦鐘に出会うさて、周瑞の家内は劉婆さんを見送りに行って後、王夫人のところに戻り報告をしに行ったのだが、あいにく王夫人は部屋におられず、召使の女たちに尋ねて、ようやく薛おばさんのところに相談に行ったと分かった。周瑞の家内はそれを聞いて、東の角門を出て、東院を通って、梨香院に向かった。ちょうど梨香院の門の前まで来ると、王夫人の小間使いの金釧兒とようやく髪を伸ばし始めた少女が階(きざはし)の上で遊んでいるのが見えた。周瑞の家内が入って来るのを見て、話があって来ら...『紅楼夢』第七回
『紅楼夢』第六回、栄国府に劉婆さんがやってきます。是非読んでください。紅楼夢第六回
さて第五回で、宝玉は警幻仙女から性の手ほどきを受け、賈蓉の妻の秦氏と契りを交わしますが、その後物語はどのような展開を見せるのか、第六回のはじまりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・賈宝玉は初めて雲雨の情を試し、劉老老は一たび栄国府に進むさて、秦氏は宝玉が夢の中で彼女の幼名を呼んだことから、心の中で合点がいかなかったが、また細かく聞くのは差し控えた。この時宝玉は失禁をしたかのようで、戸惑っていた。遂に立ち上がって全身の着物を脱いだ。襲人がやって来て、宝玉のためズボンの帯を締めてやった時、ちょっと手を太ももまで伸ばしたところ、そのあたりがひんやり冷たく、ねばねば湿っているのを感じ、びっくりして慌てて太ももから手を離して、尋ねた。「どうされたんですか。」宝玉は顔を赤くし、彼女の...『紅楼夢』第六回
第五回の前半で、警幻仙女から、宝玉や賈家一族に関わる女性たちの運命の一端を予言する帳簿を見せられた宝玉。警幻仙女から途中で止められ、この後何が起こるのでしょうか。第五回の後半の始まりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・宝玉はぼうっとして、思わず知らず帳簿を投げ出し、また警幻に随い後ろの方にやって来た。しかし彫刻した梁、彩色した棟、真珠を連ねたすだれ、刺繍した帷、仙花が馥郁と香り、見たことのない草が香りたち、真にすばらしい場所であった。正に、光は朱の扉や金を敷いた床に揺らめき、雪は珠の窓、玉で作った宮殿を照らす。また警幻が笑って言うのが聞こえた。「おまえたち、早く出て来てお客様をお出迎えなさい。」ことばが終わらぬうち、部屋の中に何人かの仙女たちが出て来た。蓮の葉のようなスカ...『紅楼夢』第五回(その2)
賈家の親戚である薛家のドラ息子、薛蟠が起こした殺人事件は、なんとか解決し、薛蟠とその母親である薛姨媽(賈政の妻である王夫人の妹)は、栄国府の敷地内の北東にある梨香院で暮らすことになりました。続いて何が起こるのか。紅楼夢第五回のはじまりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・賈宝玉は太虚境に神遊し、警幻は仙曲もて紅楼夢を演ず第四回の中で、薛家の母子が栄府の中に身を寄せ暮らすといった事のあらましは既に述べたので、この回ではしばし書かないで良いだろう。今、林黛玉は栄府にて、一に賈のお婆様が非常にいとおしみ、寝食起居何れも、宝玉と全く同じで、かの迎春、探春、惜春の三人の孫娘を後回しにした。そして宝玉と黛玉二人の親密さ、友情も他の人々とは異なった。昼間は一緒に行動し、夜は一緒に休み、真...『紅楼夢』第五回(その1)
王夫人の妹の嫁ぎ先の薛家で、妹の子供の薛蟠が殺人事件を起こしたという急報がもたらされ、騒ぎになりますが、この訴訟案件を裁いたのが、第一回で出てきた賈雨村でした。しかも、薛蟠の殺人事件のそもそもの原因は、この物語の当初に起こった事件がからんでいました。『紅楼夢』第四回をお読みください。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・薄命の女は偏(ひとえ)に薄命の郎(おとこ)に逢い、葫蘆の僧は葫蘆の案を判断するさて、黛玉は女兄弟たちと王夫人のところへ行くと、王夫人がちょうど兄嫁のところの使いと一家のいざこざについてあれこれ画策し、またおばの家で人命に関わる訴訟事件が遭ったと話しているのを聞き、王夫人がたいへん煩雑な件に対処されているのを知り、彼女たちは部屋を出て、亡くなった兄の妻の李氏の部屋に...『紅楼夢』第四回
栄国府にやって来て、賈のお婆様、賈家の三姉妹、王熙鳳に出迎えられた林黛玉。後半では、ふたりの叔父、賈郝と賈政にご挨拶にうかがい、その後、賈宝玉に出会うことになります。第三回後半の始まりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・お茶請けが片付けられると、賈のお婆様はふたりの乳母に命じて、黛玉を連れてふたりの叔父に会いに行かせた。この時、賈郝の妻の邢氏が急いで立ち上がると、笑みを浮かべ答えて言った。「わたしが甥(おい)の娘を連れて行った方が、おそらく都合がよいと思いますが。」賈のお婆様は微笑んで言った。「そうだね。おまえも行っておくれ。もう戻って来なくていいから。」邢夫人ははい、と答え、黛玉を連れて王夫人にお別れを告げると、皆は表に通り抜ける部屋まで見送った。垂花門の前には既に何人...第三回(その2)
さて、第二回の最後で、賈雨村に声をかけて来たのは誰でしょうか。そして賈雨村にこのあとどのような運命が待っているのか。また母を失った林如海の娘、薫玉はこの後どうなるのでしょうか。第三回の始まりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・内兄(妻の兄)に託し、如海は(雨村を)西賓(幕僚)へ薦め外孫(林薫玉)を迎える賈母(史太君)は孤女を惜しむさて、雨村が急いで振り返って見ると、他でもなく、曾ての同僚で、一緒に弾劾を受けて罷免された張如圭であった。彼はこの土地の人で、免職後は家にいて、今都で罷免された官吏の復職の批准がされたとの知らせを聞き、あちこち情報を尋ね、つてを求めていて、ふと雨村を見かけたので、急いでお祝いを言ったのである。ふたりは挨拶を交わし、張如圭はこの知らせを雨村に告げ、...『紅楼夢』第三回(その1)
第一回で、甄士隠は気の毒にも最愛の娘が行方知れずになり、また家財も火災で全て失い、絶望の果てに失踪してしまいました。そんな中、妻の姑の封粛が新任の知県(知事)に呼び出しを受けるのですが、果たしてその用件とは?また士隠の金銭的支援で、科挙の試験の受験のため都に上った賈雨村のその後はどうなったのでしょうか。紅楼夢第二回の始まりです。-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・賈夫人は揚州城にて逝去し、冷子興は栄国府を物語るさて、封粛は知県様からの使者の呼び出しを聞き、急いで出て行って作り笑いを浮かべて尋ねると、これらの人はただ大声でこう言った。「早く甄様を出て来させよ。」封粛は慌てて笑みを浮かべて言った。「わたくしの姓は封といい、甄ではありません。ただ以前、娘婿に甄という者がおりましたが、...『紅楼夢』第二回
前回で甄士隠の幼い娘の英蓮への不吉な予言がこのあと的中するのか気になるところですが、隣の葫芦廟に住む、貧しい書生の賈雨村がこのあと登場します。ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・士隠が考え込んでいると、ふと隣の葫芦廟に身を寄せているひとりの貧しい儒者の姿が見えた。姓は賈、名は化、字は時飛、号を雨村という者である。この賈雨村は元々湖州の人で、学問で身を立て、役人を出す一族であったが、彼は一族が衰えた末世に生まれ、父母の代には先祖からの蓄えもあらかた使い尽くし、人口は衰え、ただ彼ひとりが残り、故郷にも家産無く、このため都に上って功名を得、再び一族発展の基礎を整えようと考えていた。前の年にここに来たのだが、生活に困り、しばらく廟の中に身を寄せ、毎日手紙の代書や文書を書いて生計を立てて...『紅楼夢』第一回・その(2)
皆さん、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。さて、2025年の第1回の投稿ですが、久々に『紅楼夢』を読んでいこうと思います。数年前に一度やりましたが、今回は改めて、細かい用語の解釈ではなく、物語全体の流れを見ながら読んでいきたいと思います。それでは、よろしくお願いします。第一回甄士隠は夢幻に通霊を識(し)り、賈雨村は風塵(浮世)に閨秀(名家の娘)を懐(おも)うこれはこの物語の第一回である。作者自ら云うに、曾て一度夢幻を見てから後、それゆえ真実を隠し、「通霊」(霊魂と対話、交流する能力)に借りてこの『石頭記』という書を書いた。それゆえ「甄士隠」zhēnshìyǐn(「真事隠」と発音が同じ。真実を隠す)と言うのである。けれど書に書かれたのはどんな人物のどんな事なのだろう。自らまたこのよ...『紅楼夢』第一回・その(1)
炒腰花腰には腰の花がある1970年代、上海の街頭文化の中で、あまり健康的でない流行語に「腰花」があり、それにはまた「大腰花」と「小腰花」の区別があり、早押しクイズで「大腰花は豚の腎臓炒め(炒猪腎)、小腰花はアヒルの砂袋を乾したもの(鴨肫干)」と回答しても、それは間違いだと判定することはできないが、ここで言う「腰花」とは、当時のモダンな男女が街をぶらぶらする時のお決まりの動作であった。「大腰花」は若い男が女の腰を引き寄せること。「小腰花」は若い女性が男の手をを引くことである。「腰花」の大小は男女の関係の深さを反映しており、もし「大腰花」が盛りであれば、ゴールインが近いであろう。当時を振り返ってみると、「腰花」という幸薄い名前は、実際にはほころびが生じていた。「大腰花」は、或いは女性の腰の間に確かに男の一方の...腰有腰的花
金華火腿今回の話のテーマは、豚の後ろ足一本を丸々塩漬けにし、寒風に晒して作られる、金華火腿(金華ハム)。出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)-・-・-・-・-・-・-・-・-・-広東人の雑食性を形容することばに、こういうのがある。「翼のあるものは、飛行機以外。四つ足のものは、テーブル以外。広東人は何でも食べる。」たとえ飛行機が食べれたとしても、広東人はおそらくあまり食べたがらないと思う。なぜなら飛行機という二枚の翼を生やした物体はいつも遅れるので、これを食べようと思ったら、たいへんな我慢強さがなければならないからだ。それに比べ、足(脚)のテーブルに対する重要性は、明らかに翼の飛行機のそれより高い。紫檀やマホガニーなど、中国の堅木を使った家具の典型として、明式の家具がもし「圓腿側足(円形の...有一腿
猪油(ラード)今回のテーマは豚の油、ラード。これで炒めた料理は旨いのですが、健康志向の昨今では、使用が憚られることが多く、そういえば、香港の中秋節の月餅の宣伝で、ラード不使用を謳っているケースがありました。出典:沈宏非著『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)-・-・-・-・-・-・-・-・-・-豚肉の脂身は、もはや人々があまり敢えて食べようとはしなくなった。少なくとも、既にあまり人々が人前で、公然と食べることをしなくなった。事既にここに到り、猪油(ラード)は豚肉の脂身の粋ではあるが、それ以上に提起することさえ憚られる禁忌となった。猪油(ラード)がいつからわたしたちの日常の食生活から離れてしまったかを、時期の上で確定するのは大変難しい。ラードはつまるところ、食用油の配給切符の対象でなければ、肉の配給切符、...和猪油偷情(ラードと逢引きをする)
万寿山周辺、昆明湖の景観昆明湖の万寿山の前山に面して、東宮門内の宮殿区とは異なる形式の一組の建物群がある。ここは清代の最高統治者が盛大な典礼を行い、神に向かい仏を拝む場所であったので、殿宇は壮麗で、高閣が空高く聳え、更に石の壁が切り立ち、勢いが荘厳で、設計上、園全体の要害の高地で、園内で最も雄壮で豪華な建築群である。ここは昆明湖畔の雲輝玉宇牌坊から、順に排雲門、排雲殿、徳輝殿、佛香閣、更に山頂の智慧海まで、一本の明らかな中軸線を構成している。この中軸線の中部にある排雲殿は、慈禧が誕生日を過ごした時に、皇帝と群臣のお祝いを受けた場所で、またこの建築群の中で最も堂々とした殿堂である。その前身は、清漪園時代に乾隆が彼の母親の長寿祝いに建てた大報恩延寿寺の大雄宝殿で、1861年英仏連合軍の砲火で破壊され、1887...頤和園史話(5)
頤和園十七孔橋四、美しい頤和園頤和園は美しい。その美は、自然の山、自然の水だけにあるのではなく、山間や水面にちりばめられた、不揃いで、様々な形をした人工の建築群にあり、自然の景観と芸術的な建築の両者が高度に完璧に調和し統一しているところにある。ここの建造物は、中国の古典庭園建築芸術が新たな高度なレベルに到達したことを示している。中国古代の造園芸術は、2千年以上の悠久の歴史を備えている。早くも紀元前11世紀の西周の時代、周の文王は山水に樹木、禽獣、魚、虫を擁する大型の宮廷庭園を造営した。史書では「霊沼」、「霊囿(れいゆう)」と称した。中国古代の最初の詩歌集『詩経』の中で、周文王の宮苑の中で、麀鹿(メス鹿)が出没し、鶴が飛び魚が躍る活き活きした景色を詳細に描述した。秦漢時代になり、秦の始皇帝と漢の武帝が相次い...頤和園史話(4)
慈禧在頤和園仁寿殿前三、園外の情勢(風雲)と園内での歳月(春秋)頤和園の完成後、西太后慈禧は毎年大部分の時間を園内に居住して過ごすようになった。一般には旧暦4月に頤和園に入り、10月に誕生日を過ごすと、紫禁城の宮廷に戻った。彼女は頤和園に来る度に、大勢の女官を随員として連れ、前方では道を開けるよう叫び、後ろでは彼女を取り囲んで守った。途中通過したところでは、「水を街に撒き、黄土を道に敷き」、当地の役人が跪いて出迎えた。慈禧は頤和園内で湖や山で遊び、芝居や音楽を楽しみ、6、70歳の老婆は、時には観音菩薩の舞台衣装を引っ掛けて写真を撮って楽しんだ。しかし、もしこの権威欲の亡者が一心にここで「頤養天年」(身体を休め、天寿を全うし)、国事を問わないかと言うと、それは大間違いだった。実際は、慈禧は頤和園で暮らしてい...頤和園史話(3)
西太后慈禧二、西太后慈禧の「帰政」(政務の奉還)と頤和園の築造英仏侵略軍の焼き討ち、掠奪、破壊は、清漪園を二十数年間に亘り荒廃した状態にした。この期間、外国資本主義勢力は中国に軍事的な侵略を強めただけでなく、政治から経済までより一層の侵入と掠奪を行った。乾隆帝は曾て「天国上邦」(この世の天国)と自慢した封建大帝国は、この時代には『紅楼夢』で冷子興が形容する栄国府が、「架子虽没很倒、内囊却也尽上来了」(柱はまだ倒れていないが、中の棉は尽く出てきてしまっている)のと同様の状態であった。政治の危機、経済の逼迫は、清朝の統治者を一時的に園林の中の湖や塔の光景などに構っていられない状態にさせた。1873年(同治12年)、朝廷内には円明園修復の動議があったけれども、国庫が逼迫し、経費を準備するのが困難で、着工してしば...頤和園史話(2)
頤和園全景中華書局出版社1984年発行の『名勝古跡史話』の中から、前回『避暑山荘史話』を日本語でご紹介しましたが、今回は『頤和園史話』をご紹介します。頤和園の歴史は、なんといっても、清朝末期に西太后が海軍の整備費用を流用して作られた皇室庭園として有名です。頤和園史話中国の著名な古典庭園(中国では普通「園林」と言う)、頤和園(いわえん)は、北京城(城壁で囲まれていた旧市街)の西約10キロの郊外にある。園内には、明るく澄み切った湖水、青々として秀麗な山々、極彩色に輝く殿宇、たいへん手の込んだあずまやや回廊がある。おだやかな風がのどかに吹きそよぐ春の日、或いは天高くさわやかな秋の日、頤和園の門前はいつも車や人の流れが途絶えることが無い。それは万寿山と昆明湖で形作られる美しい庭園の景色の一場面で、もはや首都北京の...頤和園史話(1)
雍和宮打鬼第七節風俗習慣と日常生活上述の経済、政治、文化の発展と互いに関連するのは、風俗習慣と日常生活の変化である。風俗習慣は一般に古い伝統を備えており、清初の北京地区の風俗習慣は基本的に明代のものを踏襲していた。しかし北京地区の経済発展は、満州族の風俗が浸透し、またその他の面での影響もあり、これらの風俗習慣は、若干の事情によって多少の変化が発生せざるを得ず、且ついくらか新たな内容をも加えた。日常生活は経済生活と密接に関係し、この時代の日常生活は、各階級の経済生活情況を具体的に反映していた。風俗習慣清代、北京の風俗習慣の中で、節句(祭日)の内容が最も多彩であった。陰暦1月1日から、12月の最終日(30日、或いは29日)まで、1年間に数十の節句があった。その中で、いくつかの節句は明初の情況とほぼ同じだった。...北京史(四十六)清代(1644-1840年)の北京(8)
第六節北京の園林と廟宇西苑清朝が北京を都に定めて後、城池(城壁と堀の意から都市のこと)と宮殿の規模は相変わらず明朝に基づき、ただ戦乱で破壊された部分にのみ補修を加え、城門や宮殿の名称も多少改変した。紫禁城の西の「太液池」は、中、南、北海と分けて呼んだ。ここは金、元以来の宮廷の御苑の景勝地であった。清朝前期に拡張され、これを西苑とした。西苑の中は、楼台(高楼)が聳え立ち、彫刻や装飾が精緻で美しく、大小の修築された物の数が合わせて百を数えた。そのうち中南海の部分がしばしば「臣工を引見、応対し、重要な事務を総理し、王公、卿士を饗宴したり、或いは外潘を接見、朝見し、遠征軍の指揮官の帰還をねぎらい、武官が技を競う」(『日下旧聞考』巻21)ために使われ、「勤政殿」、「灜台」などがあった。康熙、乾隆の時代には、しばしば...北京史(四十五)清代(1644-1840年)の北京(7)
万斯同第五節清前期の北京の学術と文芸活動北京の学者や文士北京は清朝の首都になり、全国各地の学者、文士がこの地に集まった。彼らはある者は科挙の試験に合格し、翰林院に入った。ある者は或いは招聘を受け、或いは遊学のため、北京に来た。こうした学者たちは互いに親しくなり、議論を戦わせ、北京の文化的繁栄や学術の発展に重要な影響をもたらせた。康熙帝は三藩の平定(1681年。清朝の建国を助け、各地に独立政権となって藩王と称された漢人武将、雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚可喜(平南王)、福建の耿継茂(靖南王)を滅ぼした)後、学問を重んじ、学識のある名士が争って都、北京に集まってきた。平民階級で、徐元文の招聘に応じて北京で主に『明史』を編纂した万斯同(ばんしどう)は、毎回講義の度に、翰林、部郎、処士が4、50人を率いて、車座...北京史(四十四)清代(1644-1840年)の北京(6)
林清天理教の蜂起、林清の紫禁城攻撃1813年(嘉慶18年)、林清の率いる天理教徒が紫禁城を攻撃したのは、歴史上前例のない反乱活動であった。それは黄巣や李自成のように数十万の農民蜂起軍を率いて京城を攻撃したのではなく、百人、二百人の教徒が紫禁城に乱入し、宮殿の守備兵らと死闘を展開した。天理教は白蓮教の一派で、その組織は八卦に基づき編成され、それゆえ八卦教とも呼ばれる。天理教の派別は様々で、北京で組織されたものの多くは「龍華会」に属し、その中には更に紅陽派と白陽派の区分があった。この秘密の宗教教団は、北京、直隷、河南、山東、山西一帯で活動していた。彼らは「無生老母」を信奉し、「真空家郷、無生父母」の八字の口訣(信者に覚えやすいように口調よくまとめた語句)を伝授した。天理教のこの組織は、最初から清朝の政治権力を...北京史(四十三)清代(1644-1840年)の北京(5)
順天府衙署第四節清朝の政治体制と民衆の蜂起清朝の北京での地方行政組織清代の北京の地方行政組織は、互いに独立した三つの部分で成り立っていた。すなわち、民政を管理する順天府、主に警備の責任を負う九門提督、治安の掌握を主とする五城御史である。順天府清は明に倣い、依然順天府を北京に置いた。衙署(役所)は地安門外にあり、鼓楼の東、すなわち明代の順天府旧址であった。大興、宛平の両県を管轄した。順天府尹(知事)は正三品官(一般の知府は従四品)であった。府尹の下属官には府丞、治中、通判、経歴などがあった。順天府の職権は「京畿治理」(北京首都圏の治安維持)、「刑名銭谷」(刑事訴訟、地租や税金の徴収)などの事務の掌握であった。清の統治者は毎月1、15日に、全国各州、府、県は、郷約(郷里で皆が遵守すべき規約)により人々全般に康...北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)
清乾隆景泰藍塔(乾隆時代の七宝焼の塔)官営手工業の衰退と民営工房の発達農業の回復と同時に、手工業も康熙中期以降に次第に盛んになり、乾隆初期にはこの時期のピークを迎えた。この時、手工業は相変わらず官営と民営のふたつに分かれていた。官営手工業は日増しに衰退し、皇室や王公貴族が必要とする手工業品、日用品は、より多くが民営の工房や店舗に行って購入する必要があった、或いはこれらの民営工房に代理で責任を持って制作させた。民営の手工業は明代よりも数量が増加した。官営手工業は康熙以降、内務府、工部などの役所に属していた。これらの衰退は、この時代の生産規模が明代に及ばないことを表していた。清の内務府には、明の内監が擁していたほど雑多で多くの官営の手工業部門は無かった。内務府は北京で主に内織染局(皇室、宮廷御用の絹織物の染色...北京史(四十一)清代(1644-1840年)の北京(3)
清朝廷、剃髪令を発し、漢人に辮髪を強制清初、統治者が踏みにじった手工業と商業土地の囲い込みは漢族の農民を破産、逃亡させ、北京地区の農業生産を破壊しただけでなく、北京城内の手工業や商業に損害を与えた。城内の多くの漢族の手工業者や商人は、住居が囲い込みで占拠され、身を安んじるところが無く、またしばしば満州貴族やその走狗たちの抑圧に遭った。満州貴族は奴僕をそそのかして城外に行かせ、公然と北京に交易に来る商人たちから掠奪させ、一度は販路が存続の危機を迎えた。大通りには「人市」が出現し、一部の満州貴族は自分がさらってきた漢族の男女を、少しもはばからずに「人市」に引き出して売り出した。こうした情況下、私営の手工業や商業は急激に衰退した。官営の手工業は、清朝廷と満州貴族の需要により、まだ明代から残されてきた一部を維持す...北京史(四十)清代(1644-1840年)の北京(2)
清摂政王ドルゴン第一節北京、清朝の都城1644年(大顺永昌元年)4月30日早朝、李自成は農民軍を率いて北京から退却した。城中に留まっていた明の御史曹溶が直ちに逃げ出し、自らを西城巡視に任じ、崇禎帝の位牌を祭る都城隍廟を設立した。彼は他の明朝の官僚と一緒に臨時管理機構を立ち上げ、まだ北京城から退却していなかった農民軍兵士を虐殺した。5月3日、清の摂政王ドルゴン(多尔衮)が清の兵士を統率して北京に入城し、多くの明の官僚が清に投降した。これと同時に、三河県(北京市と天津市の間の河北省の飛び地)では人々の髪を剃る(薙髪(ちはつ)。漢族に辮髪を強制すること)のに反対する抗清闘争が爆発した。漢民族の官僚地主を籠絡するため、ドルゴンは、およそ明朝の在京の内閣、六部、都察院などの役所の官吏は全て元の役人と満州族の役人が一...北京史(三十九)清代(1644-1840年)の北京(1)
八達嶺長城長城と居庸関万里の長城の修築は戦国時代に始まった。当時、各国は分裂して雄を称し、強が弱を凌駕(りょうが)し、衆が寡を暴き、領土兼併の戦争が已まず、このため互いに防御を行うための土木事業として、長城が各国の辺境に出現した。斉、楚、魏、燕、趙、秦などの大国が長城を築いただけでなく、たとえ小国の中山国でさえも長城を築いた。これらの長城は、各国がお互いの防御のために用いただけでなく、一部は匈奴の侵入を防御するためにも用いられた。これは燕、趙、秦北部の長城の場合である。この当時、燕、趙、秦の北部は匈奴と境界を接していて、しばしば匈奴の騎馬隊の侵入、攪乱を受け、たいへん苦悩していた。このため北部に長城を修築せざるを得ず、それによって防御していた。紀元前221年秦の始皇帝が中国全土を統一し、その他の長城は悉く...北京史(三十八)第六章明代の北京(16)
十三陵北京昌平県北天寿山の麓に、明朝の13人の皇帝の墳墓が分布し、十三陵と称する。明代には16人の皇帝がいたが、開国の皇帝、朱元璋が南京孝陵に葬られ、建文帝朱允炆(しゅいんぶん)が「靖難之役」の中で亡くなった場所が分からず、景泰帝朱祁钰(しゅきぎょく)は帝号を削られ、死後は王礼に依って北京西郊の金山に葬られた。それ以外の13人の皇帝は、均しく昌平県北天寿山の麓に葬られた。十三陵とは、長陵、献陵、景陵、裕陵、茂陵、泰陵、康陵、永陵、昭陵、定陵、慶陵、徳陵、思陵である。明の成祖朱棣(しゅてい)は皇位を取得して以後、鋭意北京に遷都し、1407年(永楽5年)7月皇后徐氏が亡くなり、人を遣って北京で陵地を選定するのに、諸山を遍歴させ、「吉壌」(風水の良い墓地)を捜した。最後に「地理術人」(風水師)廖均卿(りょうきん...北京史(三十七)第六章明代の北京(15)
磬錘峰(けいすいほう)有名な承徳十大景は、避暑山荘と外八廟の周囲に広がり、あるものは近く武烈河のほとりにあり、あるものは遠く十数里外にあり、均しく天然に形成された奇峰異石であり、多種多様な姿をしている。人々はそれぞれ形状に基づき、様々なイメージの名前を付けた。例えば、磬錘峰、蛤蟆石、鶏冠山、僧冠山、羅漢山、元宝山、双塔山、月牙山、饅頭山などである。避暑山荘から東を望むと、先ず目に映るのが、磬錘峰(けいすいほう)である。これは上部が太くて下部が尖っていて、形が棒槌(きぬた)のように倒立した奇峰で、俗に棒槌山と呼ばれる。この峰は崖のほとりにきわどく立ち、峰の頂には背の低い樹木が群生し、峰の腰部の岩の隙間には古い桑の樹が生えている。伝説ではこの桑の実(桑葚)はたいへん甘美で、食べると仙人になれる。この峰の最も古...避暑山荘(その7)奇峰異石十大景
普陀宗乗之廟(三)普陀宗乗之廟と土爾扈特(トルグート)部の帰順普陀宗乗之廟は避暑山荘北側の獅子溝に位置し、土地は22万平方メートルを占め、外八廟の中で最大規模の寺院である。この寺院は乾隆が自分の60歳の誕生日と母親の80歳の誕生日を祝うため、命令を出してラサのポタラ宮に似せた様式に建造させたものである。乾隆は誕生祝いの際、モンゴル、青海、西北各地の少数民族の上層の人物が熱河にお祝いに来ることを考慮し、来訪者の大部分がラマ教の信徒であるので、ラマ教の聖地、ポタラ宮に似せてこの廟を建設した。普陀宗乗はすなわちチベット語のポタラ(布達拉)の漢訳である。乾隆の詩の中でいわゆる「普陀はもと遐(とお)きの人を撫(なぐさ)め、神道は誠にこれを相する有るを看る」(『普陀宗乗廟即事』)というのは、「神道教えを設く」を以て辺...避暑山荘(その6)外八廟(2)
承徳外八廟・普寧寺避暑山荘の建設が始まってから、康熙帝、乾隆帝は山荘の周囲に次々と多くの寺院を建立した。1713年(康熙52年)康熙帝玄燁(げんよう)が六十歳の誕生日を迎えた時、モンゴルの王公たちが熱河に来て朝見し、うやうやしく礼拝しやすいように、溥仁寺、溥善寺を建立した。これは山荘の周囲に最初に建てられた寺院で、規模が小さく、乾隆帝在位時に建てられた寺院には遠く及ばなかった。乾隆帝は費用と大量の人力物力を惜しまず、避暑山荘の東側と北側の山麓に、ひとつ、またひとつと寺院を造営した。1755年(乾隆20年)から始まり、およそ三から五年毎に一寺建立した。1755年に普寧寺を建立、1760年に普佑寺を建立、1764年に安遠廟を建立、1766年に普楽寺を建立した。1767年2月普陀宗乗之廟の建設に着手、1771年...避暑山荘(その5)外八廟(1)
永佑寺舎利塔湖地区の北側には平原地区が広がる。東部平原は、熱河泉の北に位置し、元々春好軒、嘉樹軒、永佑寺など幾組かの建物があった。永佑寺内には御容楼があり、曾ては康熙と乾隆の肖像画が安置されていたが、とっくに破壊されてしまった。ただ永佑寺の後ろには舎利塔が尚存続し、この塔は南京の報恩寺塔を真似て作られ、十層の八角形で高さは60メートル余り、頗る壮観である。中部平原は、万樹園と試馬埭(しまたい)から成り、土地の広さは数千畝ある。湖のほとりには甫田叢樾、濠濮間想、水流雲在、鶯囀喬木の四亭があり、亭の上では湖や山の景色を見渡すことができる。四亭以北は、すなわち万樹園と試馬埭である。ここには日差しを遮る木々の生い茂った森林、青々とした草が敷物のような草原がある。試馬埭曾ては万樹園の中は自由に遊びまわる鹿の群れがお...避暑山荘(その4)平原地区、山岳地区
慈寿寺塔(明万暦6年(1578年)建立)第五節明代の北京の文化寺院と園林明代、北京の人々は、北京城の郊外に多くの大小の寺院を建設した。明代の北京の寺院は全部で千か所以上あり、宛平県の1県だけでも570ヶ所あった。いくつかの寺院は、今日でも完全な状態で残っている。(沈榜『宛署雑記』巻言、闕名『燕京雑記』)これらの寺院には、道教、仏教、ラマ教の寺院や、回教の清真寺が含まれていた。寺院の建物には、漢族、蒙古族、チベット族、回族、ウイグル族等、各民族の独特な芸術やスタイルが表され、同時にまたベトナム、朝鮮、インド、ネパールを含めた東方の各国の民族の芸術スタイルが混ぜ合わされていた。北京の安定門内、東四、牛街、錦什坊街の回教四大清真寺は、牛街清真寺が明朝期に再建されたのを除き、その他は何れも明代の創建である。数多く...北京史(三十六)第六章明代の北京(14)