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簾満月のバスの助手席 https://sudareshuji.hatenablog.com/

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
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2010/04/02

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  • すこやかセンター(玉野市電廃線跡を歩く)

    玉野市電には終着駅・玉遊園地前から先更なる延伸計画、渋川方面への案があった。この先奥玉、志池(玉原)、和田、日比小学校前、日比、波峠、日比製錬所前に各駅を設け、渋川海岸に到るルートだ。全長11.6㎞を、凡そ25分で結ぼうと言う計画である。 沿線には造船と並んで玉野市の有力な企業である、明治26(1893)年創業の日比製錬所(現在の日比製煉株式会社)が有り、終点の渋川には県下有数な渋川海水浴場が有る。 この瀬戸内海に沿った地域は当時から国鉄の空白地帯で、将来的には下津井を経て、倉敷に近い水島方面までの延長が考えられていた。 終着駅の名前の由来となった北山児童遊園地を後に50m程進むと県道とは別れ…

  • 終点・玉遊園地前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    玉野市電の走る「玉野」の地名は、玉比咩神社の巨大な「立岩」が、玉のようであったため「玉石」と名付けられた。これが由来となったとの説も有るらしい。嘗て海の入り江に屹立していた御神体は、今では直接触れることが出来、パワースポットとしても知られている。 相変わらず線路跡は駐車場になっているが、滅多に車の出入りも無く歩くには安心だ。玉比神咩社前駅から300m程の所に、神社前駅とは同日開業した「玉小学校前駅」が有った。小学校は右手に見えるが、駅がどの辺りに有ったのか、周辺が余りにも変りすぎ今となっては特定出来ないらしい。距離的にはお堂の辺りかと思うが、それらしき痕跡は何もない。 この先から廃線跡の駐車場…

  • 玉比咩神社前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    雑誌等では、「川の中を走る電車」等と紹介される事も有ったらしい。玉の町中を流れる白砂川は、大聖寺駅辺りで海に注いでいて、玉野市電は大聖寺前駅を過ぎるとこの川に沿って玉駅に向かっている。 玉駅から玉遊園地前駅まで路線が延伸される事になったが、周辺は既に市街地が形成されて線路を敷くスペースの確保が出来なかったようだ。結局、川の上に橋脚を建て、線路はその上に敷かれることになった。 玉駅から僅か430mで玉比咩(たまひめ)神社前駅に到着する。昭和35(1960)年8月3日の開業で、文字通り神社の真ん前の駅である。当時の駅は神社前の交差点、国道430号線を跨ぐ横断歩道橋の手前にあったと言う。 玉比咩神社…

  • 繁華街の玄関 (玉野市電廃線跡を歩く)

    その後玉野市電になると、慢性赤字の経営を改善するため二度にわたり路線を延長してきた。最初は終点だった三井造船所前駅(当初は玉駅)から商店街のある玉橋(当初は玉駅)の区間である。 延伸された鉄道は、三井造船場前駅を出ると、大きく右にカーブして進路を北に向け、終着駅・玉橋駅(開業すると直ぐに玉駅に駅名変更)に向かっていた。当時の駅は、現在両備バス・玉橋のバス停があり、玉商店街のイベント広場に成っている場所にあったらしい。 二度目は玉駅(計画時は玉橋駅)から更に先の玉遊園地前駅の区間で、これはさらに先まで延伸する計画の布石だったと思われる。 新たな終点までは、軌道を敷く場所がなかったのか、白砂川に沿…

  • 企業城下町 (玉野市電廃線跡を歩く)

    大聖寺駅を出た列車は白砂川橋梁で白砂川を渡るが、今日の専用道路の橋脚は、列車が走っていた当時のものがそのまま使われているそうだ。ここから線路跡は造船所と白砂川に挟まれた場所を、開業当初の終着駅に向かっていく。 川越しの右側、道路沿いに見えるのが玉野市の「総合体育館と児童館」である。ここは造船所創業時に、工場と供に建設された玉社宅が有った場所で、廃止になった跡地に、昭和58(1983)年に建てられた施設である。 左前方には、企業立病院として大正8(1919)年に設立された玉野三井病院が見えている。近年宇野地区に拠点を置く玉野市民病院と経営統合し、「地方独立行政法人 玉野医療センター」となっている…

  • 大聖寺前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    藤井海岸駅の向こうに、大仙山トンネルが見えている。 大仙山(104.0m)の僅かばかりの山裾に、やっとの思いで穿いたよう なトンネルだ。沿線では三つ目で、一番短くて全長は60mであるから、 これくらいなら切り通しでも良かったのにと思えてくる。 馬蹄形の入口を入ると、出口の方が明るく見えていて、歩いていても すぐに出てしまう。出て振り返ると、その口は補修されたのか四角くな っていて、入り口は丸なのに出口は四角、不思議なトンネルである。 抜けるといきなり目の前に、異様な光景が展開する。 赤い壁の建物。その奥に厳めしい護岸壁。その上に建つ巨大な黒瓦の 建物。更にそれに覆い被さるように聳える赤白に塗り…

  • 藤井海岸駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    鉄道廃線跡は、玉野市民病院前駅を出て古塩浜信号場にやって来る。 玉遊園地行きの電車は左の行違い線に入り一旦停車、宇野駅行きの電車 を待ち、ここでタブレットを交換し行違う。 再び動き始めた電車は、やや上り勾配に成りながら正面に見える小さ な山・中山(60.2m)に向かう。 暫く進むと、右側に宇野保育園と宇野小学校があり、その先で中山ト ンネルに入る。 長さは157m、沿線では二つ目のトンネルで、二番目に長いトンネルだ。 緩く左カーブしながらトンネルを抜け、次の藤井海岸駅を目指す。 駅は古塩浜信号所から700m程離れている。 併走してきた道路は直進し、線路は右にカーブするが、その分かれて行 く辺り…

  • 古塩浜信号所 (玉野市電廃線跡を歩く)

    大正6(1917)年、児島郡日比町の玉地区に三井物産造船部(三井 造船の前身)が創業し、工場建設に合わせ、玉、和田地区に社宅が建 設された。その後も工場拡張に伴い、奥玉、深井、渋川、利生にも社 宅が造られ、玉地区の人口は急増したが、造船業は昭和50年代に入る と深刻な不況に陥っている。 一方宇野地区は、明治末期の宇野線の開通、宇野港の開港、宇高連絡 船の就航以来、本州と四国を結ぶ玄関口として足元を固め、着実な発展 を遂げている。備南鉄道から玉野市電に引き継がれたとは言え、こうし た背景の中鉄道は、二大地区を結ぶ市民の足として期待されてきた。 ところが鉄道が開通した時代、街の中心は既に玉地区から…

  • 宇野地区の中心地 (玉野市電廃線跡を歩く)

    天狗山トンネルを抜け標高を下げながら100m程行くと、左側にベン チが置かれた休憩スペースがあった。 起点から1400m地点に置かれ、昭和34(1959)年6月15日に開業し た西小浦駅跡である。玉野高校前駅からは440mしか離れていない。 剪定されているので木の種類は分からないが、線路跡は並木道だ。 廃線跡の両側には住宅が建ち並び、線路跡との間には生活道路が通され、 それに挟まれるように延びている。 途中で町中を貫く国道30号線を越えるが、この辺りが宇野地区の中 心市街地に近く、大型の商業施設や市役所などが立地している。 左に向かえば800m程で、宇野駅前、宇野港前の港エリアだ。 国道を越え…

  • 天狗山トンネル (玉野市電廃線跡を歩く)

    線路跡は玉野市築港の静かな住宅地の中を、左にカーブしながら続い ている。前方に同線では最初の、「天狗山トンネル」の馬蹄形の入口が 見えてきた。 宇野港の背後に聳える天狗山(162.0m)の南裾辺りに穿たれたトン ネルで、玉野高校前駅からは僅かに上り、標高も若干上がって4m程の 場所にある。 トンネルの長さは179mあり、玉野市電に3つあったトンネルの中で は最長だ。入口上部に、錆びついて赤茶け僅かに残る金属片が見られる が、電車時代の架線を支えたパーツのようだ。 鉄道は経営の合理化、燃費の低減を狙って途中から電車をやめ、気動 車に変更されているが、その折にも撤去されず残されたものらしい。 右側…

  • 玉野高校前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    「この道は市民の健康増進を図るため造られたジョギングロードです。 コルクを混入させた柔らかい材料で鋪装されている。」 入口付近に古びて文字が消えかかり、辛うじて判読できる利用者に呼び かける看板が立てられていた。 県道22号を越える横断歩道橋を下りた辺りから自転車・歩行者専用道 路が始まった。しかしここまで歩いてきたが、普通の路面のようで、特 別な柔らかさなど感じられない。 年月を経て、堅く固まってしまったのかも知れない。 その赤く舗装された道を、左の宇野中学校のフェンスに沿って歩いて行く。 学校を過ぎ、道路を越えて小さな川を渡ると、その先右側に傾斜のあ る道路が見えてくる。ここが二つ目の駅、…

  • 廃線跡を歩く(玉野市電廃線跡を歩く)

    「玉野市電」が廃線になると、市は廃線跡の自転車・歩行者専用道路 化を決めた。半年後には工事に着手し2年後には工事が完了し、廃線跡 の多くが再利用されることになった。 その廃線跡を、国鉄駅に乗り入れていた起点の宇野駅から、終点の玉 遊園地前に向かい、辿り歩いてみる。 始発の宇野駅は、現在の宇野駅前交番付近とも、駐車場前の電話ボッ クス辺りに有ったとも言われている。 JR宇野駅の周辺は、連絡船の廃止や、宇野線の衰退により広大なヤー ドは不用に成り、一帯は駅の縮小を含めた大規模な再開発工事が行なわ れていて、その場所を定かに特定することは出来なくなった。 鉄道は、後には国鉄のホームに乗り入れたらしい…

  • 宇野線の凋落(玉野市電廃線跡を歩く)

    昭和63(1988)年、瀬戸内海を跨ぐ瀬戸大橋の児島・坂出ルートが 全線開通する。橋の上部が瀬戸中央自動車道で、下部に鉄道が通る併用 橋となり鉄道部分は将来の新幹線開業を見据えスペースが確保された。 これにより倉敷市の茶屋町と対岸の宇多津町の宇多津駅を結ぶ、本四 備讃線(31.0㎞)が瀬戸大橋線の愛称で華々しく開通した。 四国・高松との間に、快速・マリンライナーが頻発され、凡そ1時間で 結ぶ事になる。更に松山行き「しおかぜ」、高知行き「南風」、徳島行き 「うずしお」等の昼行特急列車や、夜行寝台特急の「サンライズ瀬戸」等 も運行された。反面大橋を渡る普通列車は運行されることは無かった。 一方、永…

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