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バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
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2010/04/02

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  • 笠寺一里塚 (東海道歩き旅・尾張の国)

    恐らく正面には、伊勢湾の大海原が広がっていたのであろう。東海道は鳴海の中心部を出ると、作町で直ぐに北に向けて進路を変える。嘗ての伊勢湾は深くこの辺りまで入り込んでいて、東海道の行く手を塞いでいた。ここから先宮宿までは、1里半6町(約6.5㎞)の湾岸に沿った道が北に向け伸びていた。後に陸路をとる東海道も、中世の頃は是よりもより海に近い干潟を通っていたらしく、潮位によっては更に短縮したシーョトカット道であった。今日では、そんな街道のどこからも伊勢湾の海を見ることは出来ない。すっかり住宅等で埋まり、海までは直線距離でも数キロも離れている。北に向けて進んできた東海道は、松ヶ根台に突き当たる三王山辺りで、西寄りに進路を変え天白川に架かる天白橋を越える。嘗ては田畠橋と呼ばれる廿七間の板橋が掛けられていたという。橋の上...笠寺一里塚(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 文人墨客が愛した鳴海潟 (東海道歩き旅・尾張の国)

    「此所、古は海近く鳴海潟を見渡して往来して、塩の満ちる時は右の方上野という野を行き通いけるとぞ。浜辺を宵月の浜、又は呼続の浜とも言う。夜寒里、星崎、松風の里、皆並びて浦伝いなる、」(東海木曽両道道中懐宝図鑑)中世の頃の鳴海一帯は、これより更に北まで深く伊勢湾が入り込み、海に面した湊町として開け、鳴海も宮も潮待ちの宿と呼ばれていた。又古くから数々の歌にも歌われた、風光明媚な鳴海潟が知られていた。昔から伊勢湾は、潮の干満の差が大きい事が知られていて、干潮時にはそこに広大な干潟が形成される。中世の東海道は、潮の干満を見定めて人も馬も干潟を渡っていたようだ。干潟を歩くには、干満の時刻を知る必要があり、旅人は鳴海や宮の宿で情報を得て潮待ちなどをしていたようだ。その頃はまだまだ庶民の多くが行き来をする時代でも無く、旅...文人墨客が愛した鳴海潟(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 鳴海宿 (東海道歩き旅・尾張の国)

    有松と共に、「絞り」で知られた鳴海宿の東の入口が平部町である。その角に、立派な常夜灯が残されている。文化3(1806)年に設置され、旅人や宿内の安全、火災厄除けなどを秋葉神社に祈願したものだ。鳴海町は昭和38(1963)年、名古屋市との合併で緑区鳴海町となり、町役場は緑区役所となった。そこには問屋場が有ったと言うが、今は無骨な役所があるだけで痕跡は何も無い。宿場は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒、戸数は847軒という。人口も3,600人余りと伝えられているので小さな宿場ではなかったようだ。町並の長さも、凡そ半里に及ぶほどの宿場であった。当時は何所の宿場もそうであったように、人口比で見るとこの宿場も女性の方が多かった。名鉄鳴海駅に至る道路の角の本町に、松尾芭蕉ゆかりの誓願寺が有り、この辺りに本陣を務めた家...鳴海宿(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 鎌研一里塚 (東海道歩き旅・尾張の国)

    池鯉鮒と東海道40番目の宿場・鳴海の宿間は二里半十二町(11.1㎞)だが、間の宿の有松まで来れば残りは一里弱(およそ3㎞)と近くなる。元々が山間の僻地で、藩の振興策により開かれた町並の賑わいは、絞りを商う十余軒が中心で、土産を買い求める客も多かったと言う。箱根東坂の中頃にある畑宿も間の宿とされた町で、ここには名産の寄せ木細工がある。行き交う旅人に土産を売る状況は、有松の絞り染めと同様である。しかし畑宿にはもう一つの顔があり、江戸を控えて不審者が入り込まないように、監視の役割が課されていたらしい。徳川御三家の尾張名古屋の城下町も近い有松の役割はどうだったのか。尾張藩との繋がりの強い土地柄だけに、もしやと思ってみたりもする。興味深いところだが、そこの所は良く分からない。町を抜け暫くすると名古屋高速第二環状道路...鎌研一里塚(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 絞り商の屋敷 (東海道歩き旅・尾張の国)

    有松は天明の大火で、悉く茅葺きの町屋を焼失する災難に見舞われた。その後藩の援助を受けた復興に際して、建物は火災に強い防火を考慮した建物に建て替えられた。屋根は桟瓦葺きとし、壁は漆喰等を塗り込んだ塗籠造りに改め、隣屋と接する屋根には延焼防止の卯建を設けて町の再建を果たす事になる。その代表的な建築物が、県指定文化財の服部邸(井桁屋)で、母屋の二階は黒漆喰の塗り籠め造りで虫籠窓をはめ、屋根には瓦葺きの立派な卯建を上げている。隣接する蔵は土蔵造りで、白漆喰の塗り籠め、腰回りは海鼠壁である。江戸時代末期から明治元年までに建てられたものらしく、当時の姿を留める有松を代表する建物群だという。岡家住宅は、名古屋市指定の有形文化財である。一階は連子格子と海鼠壁、二階は虫籠窓の塗り籠め造りの建物で、江戸時代末期に建てられたも...絞り商の屋敷(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 有松絞り (東海道歩き旅・尾張の国)

    間の宿・有町は、400年近い伝統の「有松絞り」で知られる町だ。絞りとは木綿を糸で括って、多くは藍で染め、その括り方により様々な模様を描く技法である。全国一の「絞り染め」の産地とされ、昭和50(1975)年には、国の伝統的工芸品に指定されている。また令和元年には、「江戸時代の情緒に触れる絞りの産地~藍染が風に揺れる町有松~」として、文化庁より「日本遺産」に認定されている。東海道の通り道とは言え、元々この辺りは人家も乏しく耕地の少ない地で、尾張藩は治安の維持も有り、諸役を免除する条件でこの地への移住を奨励し、産業の開発を進めたと言う。しかし移り住んだものの、開発の乏しい地では、農業だけでは生きては行けず、副業として工夫されたのが、この絞り染めであった。ヒントは、名古屋城築城の折、手伝い普請の豊後の人たちの着衣...有松絞り(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 間の宿・有松 (東海道歩き旅・尾張の国)

    間の宿とは、宿場間の距離が長い場合や、峠越え、川越えなど難所に臨む地などに便宜上設けられた休憩の場である。従って宿とは言え、この地で宿泊は許されてはいなかった。知立から鳴海の間が2里半12丁(およそ11㎞)もあり、有松に間の宿が開かれた。桶狭間の合戦の折、信長が軍勢を整えたとされる大将ケ根(たいしょうがね)の交差点で国道を離れ、旧道に入り込む。藍染川に架かる松の根橋を渡ると、落ち着いた平入りの町並が現われる。名鉄有松駅の南を抜ける旧東海道筋は、駅を中心に東西800m程の間の電柱が地中化され、車も一方通行に規制された通りと成っている。「鳴海より一里ばかり東にあり。細き木綿を風流に絞りて、紅藍に染めて商うなり。この市店十余軒あり。」言われた有松村は、次の鳴海村と共に、「絞り」が知られた土地柄だ。安藤広重の東海...間の宿・有松(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 古戦場の亡霊 (東海道歩き旅・尾張の国)

    田楽狭間で勝利の宴を開いた今川義元は、豪雨の中信長の急襲を受け、敢えなく敗退し首を掻かれてしまう。義元の首級は信長に届けられ、首実検されるも、後に駿河に返された。一方首のない胴体は、今川の家来により駿河に連れて帰える事にる。しかし時期的にも想像以上に腐敗が早く、仕方なく途中、今の豊川市辺りで葬られたという。その後、この古戦場の周辺には、夜な夜な白い衣を着た兵士の亡霊が、辺りを走り回るとの噂が立つ様になる。そこで嘉永6(1853)年に尾張藩士が塚を築き、地蔵尊を建立し手厚い法要を催すと、霊は収まり現れなくなったと言う。「桶狭間古戦場伝説地」には、「義元の墓」と言われる石塔が有る。明治に入って直ぐの頃、地元の篤志家が墓として建てたものらしい。しかし、ここに義元の遺体は埋葬されてはいない。「義元の墓」には遺体の...古戦場の亡霊(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 桶狭間の合戦 (東海道歩き旅・尾張の国)

    時は戦乱の時代で有る。全国の大名達は国の統一を目指し、しのぎを削っていた。勢力を得て常に近隣地へ侵攻し、領土を拡大し、やがては天下国家の支配をと虎視眈々と狙い野望をメラメラと燃やしていた。永禄3(1560)年、満を持して上洛を目指す駿河の今川義元は、遠江・三河の兵、二万五千の大軍を率いて尾張に攻め込んできた。5月19日朝、五千の兵で沓掛城を出た義元は、大高城に向けて進軍した。早朝この知らせを聞いた尾張の織田信長は、僅か六騎で清須城を出る。途中、熱田神宮に立ち寄り戦勝祈願を行う頃には、ようやく追いついた家臣で1000人ほどになっていた。尾張方の先方隊300騎は、早くも善照寺砦から出陣し、当日昼頃今川軍と刃を交えるものの、多勢に無勢で勝負は明らか、今川軍の一方的な勝利に終わる。田楽狭間(ここから南西1キロほど...桶狭間の合戦(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 桶狭間史跡公園 (東海道歩き旅・尾張の国)

    旧東海道は、名鉄「中京競馬場前駅」の手前で国道に合流する。ガードを抜けて暫く行くと、「桶狭間古戦場100m」や、「桶狭間古戦場まつり」の開催を告げる案内板が見えてくる。この駅が有名な古戦場巡りの最寄り駅にもなっているようだ。折角の機会である。街道を外れるとは言え、これぐらいなら足が痛くても寄れそうなので、案内板に従いそこを左折し、坂道を100m程上って行く。すると左手に緑も濃い森が現われ、入口に「史跡桶狭間古戦場跡」の石碑が建つ史跡公園があった。歴史の重要な転換点となった「桶狭間の合戦」が行われたとされる場所で、「国指定史跡桶狭間古戦場伝説地」である。今川義元はここで織田信長に襲われ、戦死したと伝えら、その弔いが古くからここでは行われてきた。田楽狭間、或は舘狭間とも呼ばれた地である。しかし古戦場がどこであ...桶狭間史跡公園(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 中京競馬場前駅(東海道歩き旅・尾張の国)

    境橋を渡り国道1号線を歩き、名鉄名古屋本線の「中京競馬場前駅」にやってきた。名古屋市の東に隣接する豊明市に国営の競馬場(今日の中京競馬場)が開設されたのは、昭和28(1953)年8月のことだ。第一回の国営競馬も、この年に開催されている。その開業に先立つ一ヶ月前、名古屋市の南の端に、その最寄り駅として名鉄・名古屋本線の新駅が開業している。駅を出ると競馬場入口までは屋根付きの遊歩道が設けられているようで、徒歩10分ほどかかるそうだ。この地は桶狭間と言われる所で、かつてこの駅の近くには、愛知電気鉄道の「桶狭間駅」が存在した。名鉄の社史によるとこの駅の開業は、昭和6(1931)年で、どういう訳かその僅か三年後には廃止されている。愛知電気鉄道と名岐鉄道が合併し、今日の名古屋鉄道と言う社名に変更する一年前の事だ。桶狭...中京競馬場前駅(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 境川の継ぎ橋 (東海道歩き旅・尾張の国)

    「うち渡す尾張の国の境橋これやにかわの継ぎ目なるらん」境川に架かる境橋を渡ると、丁度ここが三河と尾張の国境に当たる。渡り終えると橋詰めに小さな緑地ある。そこに中に、藤原朝臣光広のこの歌碑と説明板が立っていた。それによると「東海道に伝馬制が設けられて程無い頃、両国の立ち会いの下この川に橋が架けられた」とある。「川の中州を挟んで東側には土橋が、西側には板橋が架けられた。橋は度々洪水で流され修復を重ねたが、やがて継ぎ橋は一本の橋となり、明治に入ると欄干付きの橋に改修された」と言う。幕府は江戸の治安維持の目的で、河川に橋を架けることを厳しく制限していた。その為、貴人や高官が往来するような場合、臨時に舟橋が渡されることもあったようだ。とは言え架橋の禁止は、戦略的に重要な大河に限っての事らしい。旧街道を実際に歩いてい...境川の継ぎ橋(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 旅の持ち物 (東海道歩き旅・尾張の国)

    ところで、昔の旅人は何を持って歩いていたのか。テレビや映画の世界では、小さな振り分け荷物や、風呂敷で包んだ柳行李を肩にした画をよく見かける。安藤広重の東海道五十三次の絵でも、描かれている旅人の荷物は驚く程少なくて小さい。修験者などが比較的大きな笈(山伏の12種類の正式道具の一つ)を背負っている程度だ。今ほど物が豊富ではない時代で、当然と言えば当然だが、余りにも少ないようにも思う。ある本によると「財布、小銭入れ、道中差し、矢立、扇子、針糸、懐中鏡、鬢付け油、提灯、蝋燭、火打ち石、印判、鼻紙、薬入れ印籠、着替えなどが旅の必需品」と書かれている。修験者の笈が大きいのは、仏像・仏具や経典をも入れて持ち歩くらしいからこれは特別である。庶民の旅は、小銭入れや矢立、薬入れなどは腰に付ける場合が多く、道中差し(実際の刀ではなく...旅の持ち物(東海道歩き旅・尾張の国)

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