chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
簾満月のバスの助手席 https://blog.goo.ne.jp/sudare-m

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
フォロー
住所
東区
出身
愛知県
ブログ村参加

2010/04/02

arrow_drop_down
  • 旧倉敷チボリ公園(水島臨海鉄道に乗る)

    一方北口には、メルヘンチックで北欧風な雰囲気が漂っている。アウトレット等の商業施設もあるが、南口とは対照的に長閑な佇まいだ。それは嘗て、都市型テーマパーク「倉敷チボリ公園」が立地していた名残の数々が、今なお残されているからである。アトラクション20、土産処13,レストラン14等で構成され、主にファミリー向けとも言われた公園は、滞在型観光の拠点として大きな期待がかけられ平成9(1997)年に開園した。「倉敷美観地区」が周遊型観光地と言われ、その短い滞在時間をこことセットにする事で引き延ばしたいとの思惑である。敷いては、泊まり客を増やそうとの意気込みが、当時の関係者にはあった。開園当初は、年間三百万人近い入場者を誇ったが、その後年々減少し、数々の立て直し策が行われるものの改善する事は無かった。終には百万人を大...旧倉敷チボリ公園(水島臨海鉄道に乗る)

  • JR倉敷駅(水島臨海鉄道に乗る)

    昭和56(1981)年、三代目として竣工したJR倉敷駅舎は、町の玄関のシンボルと言われ、地上8階建てのビル(高さ42m)であった。ホテルや商業施設が入り、夏には屋上にビアガーデン等も開かれ、盛況を見せていた。その駅ビルの3階から上部分が減築解体され、2階建て駅ビルに生まれ変わったのは平成27(2015)年3月の事である。竣工に合わせ構内には、商業施設である「さんすて倉敷」がオープンし、再び駅ビルに賑わいが戻ってきた。駅は単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、駅舎は南北連絡通路である橋上に設けられている。山陽本線の途中駅であり、また伯備線の起点駅でもある。隣接したところに、水島臨海鉄道も乗り入れている。利用客は岡山駅に次いで多く、観光で訪れる客が多いのも特徴だ。残念なことに、ここには新幹線の...JR倉敷駅(水島臨海鉄道に乗る)

  • 倉敷(水島臨海鉄道に乗る)

    岡山県の南部に位置し、県下最大の政令指定都市・岡山市に隣接する倉敷市は、人口48万人余りで、県下第二位を誇る都市である。中国地方では広島市、岡山市に続く、第三位の人口を擁する町でもある。市域は主に四つの地域に分けられ、その中心が倉敷残りは水島、児島、玉島の三地区で、何れも過去に編入合併により繰り入れられた町だ。倉敷の人口が20万人余り、残りはその三地区でほぼ三分されている。水島は、倉敷から車で20分ほど、高梁川河口域近くに位置している。明治以降、干拓で埋め立てられた新しい地に、コンビナートで代表される重工業地帯が広がっている。始まりは第二次世界大戦中のことで、瀬戸内海に臨む総面積約2500㏊の広大な地に、220を越える事業所が集積され、全国でも有数な工業地帯が形成された。児島は嘗て「吉備の穴海」と言う瀬戸...倉敷(水島臨海鉄道に乗る)

  • 宮の渡し公園 (東海道歩き旅・尾張の国)

    「この海に草鞋捨てん笠しぐれ」熱田の地を度々訪れた松尾芭蕉は門人達と、七里の渡しからあゆち潟(「愛知」の地名の語源とされている伊勢湾の干潟)を舟で遊び、幾つかの俳句を残している。七里の渡し場跡は、「宮の渡し公園」として整備されている。今日の姿からは、当時の海岸線を想像することは全く難しい。辺りはすっかり埋め立てられ、海は後退し、運河のような水際はコンクリート壁で固められ、その間近まで民家やマンションの建て並ぶ賑やかな町になっている。寛永2(1625)年に建てられた常夜灯は、その後風水害で破損した。その後位置を少しずらし再建されたが、それも火事で焼失何時しか荒廃した。今目にするものは、昭和30年に復元・再建されたものだ。この常夜灯に火が灯ると、翌日まで舟は出る事が無かったと言う。再現された鐘楼が建っている。...宮の渡し公園(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 七里の渡し賃 (東海道歩き旅・尾張の国)

    東海道では唯一の海路で、宮宿と桑名宿を結ぶのが七里の渡しである。渡し賃は、時代によりかなりの変遷があるが、細かく定められていた。それによると将軍や公家など高貴な身分の人は無賃、幕府などの公用旅行者は賃銭が定めにより決められていた。一般庶民は、幕府公用者の凡三倍であったそうだ。江戸時代の一般的な通貨に、「両」「分」「朱」という金銀貨単位が有り、更にその下に銅貨としての「文」があった。一両が四分、一分が四朱だから一両は十六朱となり、更に一両は四千文とされていたから、言い換えると一分は千文、一朱は二百五十文になる。更に銀貨としての「匁」が有り、金一両は銀六十匁とされていた。当時は銀相場が立っていて、これらは日常的に変化していたという。(「大江戸生活事情」石川英輔1997年講談社)当時の通貨がややこしい四進法であ...七里の渡し賃(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 七里の渡し (東海道歩き旅・尾張の国)

    慶長6(1601)年江戸に幕府が開かれると、家康は江戸と京都の情報伝達の迅速化を目指した。伝馬の定めにより、「道筋」を定め、「宿」を整備し、宿に馬36疋を置き運輸伝達に責任を持つことを命じている。この折発した『伝馬定・伝馬朱印状は写しを含めかなり確認できるが、(中略)桑名宛の伝馬定には「上口者四日市、下ハ宮へ船路之事」と明記されている』(「中世の東海道を行く」榎原雅治2008年・中央公論新社)ので、これにより熱田の宮から四日市までの舟渡しが東海道の正式なルートとして定められた事が解る。その後七里の渡しは宮宿と桑名宿を結ぶ東海道で唯一の海路となった。距離が凡七里有りこう呼ばれているが、実際の航路は、潮の干満により大きく異なり、干潮による外回りのコースを取ると距離は十里にも及んだと言う。標準的な所要時間は4時...七里の渡し(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 宮(熱田)宿 (東海道歩き旅・尾張の国)

    「此の宿大に繁花なり家並みも美々しく遊女も海道第一にして少しく江戸の風まねぶ」精神川に架かる裁断橋を越えると伝馬町で、直ぐ左手に姥堂があり、ここから宮宿に入る。この「宮」は熱田神宮を省略した言い方で、宿場の発展はこの神社に負うところが大きい。その為熱田宿とも呼ばれる宮宿は熱田神宮の門前町で、宿場町でもあり、七里の渡しを控えた湊町でもあった。当時は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠の数は248軒を数え、戸数3,000軒、人口は10,000人を越す東海道でも最大規模の町であった。伝馬町の通りには旅篭、料理屋・茶屋や商家が立ち並びその間に、本陣・脇本陣や問屋場が入り交じり、賑やかに連なっていた。伝馬町の西の外れは三叉路である。ここを右に取れば熱田神宮前を経由し、名古屋城下へは1里半の道程だ。又途中今日の金山辺りから西に...宮(熱田)宿(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 白い町 (東海道歩き旅・尾張の国)

    旧東海道は古い道標の立つ三叉路で、その先を国道に遮られている。地図で確認すると左に曲がれば真っ直ぐに七里の渡し跡に向かう道があるようだが、片側5車線もある国道247号線を斜めに横切ることになる。ここは無難に右に回り国道に出て、神宮南歩道橋を渡り向こうに越える。橋の上からは右手に、二町余り先の熱田神宮の濃い緑の森が望まれる。尾張名古屋の城下町は、「ここから北に五十町なり」と言われている。当時も町並みは、神宮前を経て熱田台地(名古屋台地)の北端に築かれた名古屋城下まで続いていたと言う。名古屋は先の大戦で戦災を受け、市域の1/4が焦土と化し跡形もなく燃えて消滅してしまった。当時人口は60万人足らずであったが、将来の200万人を目標に据え、いち早く先進的な都市計画で復興を図ることになる。その基盤となったのが防災目...白い町(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 古い道標 (東海道歩き旅・尾張の国)

    裁断橋を越えると旧東海道のその先は、行き当たりでT字路だ。目の前の南北に流れる国道247号線に遮られ、旧道が消滅しているのだ。ここは宮宿の伝馬町から左折して神戸町への通りで、その先の七里の渡しの湊を目指す中心的な場所であったが、今その面影は全く何もない。そのT字路に寛政2(1790)年に建てられた、東海道と各方面に向かう追分けを示す道標が残されている。東は今来た東海道で江戸に向かい、南に取れば「京いせ七里の渡し」で、北に向かえば、「なごやきそ道」「みの道」「さやつしま道」である。尾張名古屋城下に向かう美濃街道は、名古屋の先岐阜県の垂井宿まで行けばそこから中山道が分かれている。木曽を抜け江戸に向かうか、京迄は関ヶ原を抜けるルートが出来ていた。佐屋・津島道はここから暫く北上し途中金山辺りから西に進路を変え、佐...古い道標(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 裁断橋(東海道歩き旅・尾張の国)

    熱田伝馬町の姥堂に「裁断橋跡」の案内板が建てられている。小田原の陣に参戦し、陣中で病死した堀尾金助とその母の逸話に所縁の地である。説明によると「十八歳のわが子を亡くした母親は、菩提を弔うため、この地の橋の架け替えを行った。そして三十三回忌にあたり、再び橋の架け替えを発願した。しかしその願いも叶わぬまま、母親は亡くなってしまったが、その養子が意志を引き継ぎ、新たな橋を完成させた。」その橋の擬宝珠には、子を思う母の心情が刻まれていたと言う。「ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより、またふためとも見ざるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成り、ははの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ。」「後のよの又のちまで、此のかきつけを見る人は、念仏申給へや。」と続き、この仮名書き銘文は多くの人々...裁断橋(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 朝生(東海道歩き旅・伊勢の国)

    元禄文化の頃、公家や武家等が茶の湯の折、抹茶などと共に味わう和菓子を「上菓子(じょうがし)」と呼んだが、それには白砂糖や純度の高い氷砂糖が贅沢に使われていた。献上品としても使われ、上等な菓子との意を込めて、こう呼ばれていた。砂糖は南蛮文化と一緒に伝えられたものだが、当初は主に中国から輸入されていたようで、白砂糖の中でも最上級純白品を「三盆白」と言い「唐三盆」と呼ばれていた。当時はまだまだ高級品で、上菓子以外での使用は禁じられていた。吉宗の時代になって享保の改革では、国内でも砂糖の生産を奨励した。当時サトウキビは南西諸島で栽培され、黒砂糖の生産が一般的であった。その栽培を全国に広め、技術的な革新も有り、やがては国産初の白砂糖の商品化に成功した。「唐三盆」に対して、この国産品は「和三盆」と呼ばれることになる。...朝生(東海道歩き旅・伊勢の国)

  • Canal Resort (東海道歩き旅・尾張の国)

    「都会に出現した心も体も悦ぶ究極の楽園」今日の予定は宮宿まで歩き、その後は市バスで名古屋駅前まで移動する。そこから無料シャトルバスに乗り、中川区玉川町にある「CanalResort(キャナル・リゾート)」に向かう。温泉に入り、着替えをして、食事を済ませ、それからお城近辺を少しぶらついてから宿に入る予定である。ナトリウム塩化物泉、泉温48.8℃の天然温泉が楽しめる施設で、効能は筋肉痛にはもってこいだという。館内には食事ゾーンも有り、和食を始め軽食やアジアンメニューの店等が揃っている。何よりも入泉料が700円(平日、休日は800円)と安いのが良い。ここまで歩いて来たご褒美で、頭の中はもうこの事で一杯だ。笠寺観音の境内には、宮本武蔵の供養碑や、芭蕉の句碑なども有る。東海道沿いには、玉照姫の像が安置されたゆかりの...CanalResort(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 笠寺観音縁起 (東海道歩き旅・尾張の国)

    天林山・笠覆寺(笠寺)の縁起は、このように書かれている。「ある日、呼続の浜に一本の木が打ち上がった。その木は夜になると不思議な光を放つことから、村人は霊木として恐れたと言う。そんな折僧・善光上人は夢のお告げを受け、霊木を削り、十一面観世音菩薩とし、堂を造り本尊として安置した。それが小松寺である。」建立から百数十年の時が過ぎ、寺は何時しか荒廃する。そんな折鳴海に一人の娘が住んでいた。その謂れが続けて書かれている。「ある雨の日ずぶ濡れになった観音様を見て可哀想に思った娘は、自分が被っていた笠をとり、観音様にかぶせた。後日鳴海を訪れ、このことを知った中将・藤原兼平公がその優しい心に引かれ、妻として迎えることになった。この妻は「玉照姫」と呼ばれるようになった。」この縁により夫婦は荒れていた「小松寺」にお堂を建て、...笠寺観音縁起(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 笠寺観音 (東海道歩き旅・尾張の国)

    街道はやがて笠寺の門前町に入って行く。ここまで来れば、宮の宿まではあと一里余りを残す事となる。この辺りを古くは笠寺村と言い、上り下り立場(旅人が休憩する場所)が有ったところだ。「笠寺の一里塚」から400m程行くと街道の先に緑濃い森の中に建つ、山門(仁王門)が見えてくる。街道を折れ池に架かる石の太鼓橋を渡る。余り広くは無い池には亀が沢山飼われていて(?・棲んでいて)、社務所では餌が販売されている。池の水を汚さないための措置だと言う。仁王門を潜ると正面が本堂である。江戸時代に建てられたもので、市の文化財の指定を受けている。笠寺は、正式には「天林山笠覆(りゅうふく)寺」という真言宗智山派のお寺で、天平8(736)年の開基という古刹は、小松寺と称していた。寺は一時荒廃するが、紆余曲折が有り鎌倉時代には諸堂や塔が建...笠寺観音(東海道歩き旅・尾張の国)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、修ちゃんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
修ちゃんさん
ブログタイトル
簾満月のバスの助手席
フォロー
簾満月のバスの助手席

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用