主は正義と公正を愛されます。 主の御心を汲んで 誰に対しても偏り見る事をせず、 相対するようにしたいものです。 そのような姿勢で生きておれば、 神の恵みが …
大阪市生野区にある イエス教長老会平安教会の牧師による デイリー・メッセージです。 毎日、更新しています。 近畿福音放送伝道協力会(近放伝)が ABCラジオでお送りしております 「福音の光」のラジオ牧師もしております。
祈り、奉仕、献金...。 どんなものであっても 自分のできる最高のものを 神にお捧げすることが大切。 惜しみながらでなく 一番の上物を差し上げれば 神も最高…
オオカミの群れの中の羊。 それが私たちキリスト者が 置かれているシチュエーション。 そのままでは、間違いなく オオカミの餌食になってしまう。 だから神の御助…
キリスト・イエスは 私たちの救いのために 命を捨ててくださいました。 それを通して私たちは 神の私たちに対する愛を 知ったのですが、 キリストに倣うキリスト…
聖書には「忍耐」という言葉が 度々、登場します。 日本人が忍耐と聞くと 辛抱するとか我慢する事と 思いがちです。 しかし、聖書で忍耐という言葉が 用いられる…
神の力は 完全に委ね切る時に 顕れる。 神に委ね切ると言うと 丸投げする事と 勘違いする人がいる。 それは委ね切るのとは違う。 神の臨在を確信して 今できる…
同信の兄弟姉妹が集う 教会であっても 言いたくはないが 人の集まりである以上、 人間関係がこじれる事は 皆無とは言えない。 だが、そこが「教会」 であるがゆ…
私を含めキリスト者の多くは 今も暗闇の中にいるのやもしれない。 兄弟姉妹を憎む者は 闇の中にいると使徒ヨハネは教える。 もちろんいつもかつも 誰かを憎んだり…
困難に直面した時 本気で神に頼れる人は 幸いな人だと思う。 あなたはどうだろうか? 困難に直面した時、 スマホを握って 友人に助けを求めようと していないか…
とげとげしい言葉は 使わないことだ。 絶対に良い結果に なることことはない。 回りくどい話し方をしろと 言っているのではない。 余計な事は話さず。 温和な表…
主イエスは事実、 全ての栄光、尊厳、支配、権威を お持ちであり、 その力は隅々にまで及んでいる。 なのにそのお力を 私たちが否定してしまうので その力が働き…
キリスト者にも日常生活があります。 キリスト者同士でも摩擦があるのに 生活信条の違う キリスト者でない方々と 一緒に社会活動をするわけですから 人間関係に頭…
どんな罪であって 赦していただけますが、 罪に気付かなければ 悔い改めることもできません。 私たちは神の御心の啓示である 聖書のみことばを全うすることは 残…
私たちが味わった つらい体験は 無駄ではありません。 それが契機となって 私たちはさらに成長しましたし、 そればかりか、 同じような試練に直面している 兄弟…
詩篇37篇37節は 訳が幾通りか考えられるが、 表面的意味合いは 上の写真にある英語NLT訳が 分かりやすいと思う。 邦訳では新共同訳が これに近いので 今…
神との親しき交わりを持つために 何か特別な方法はないかと ああでもない、こうでもないと 模索するキリスト者がいます。 そういう方は、基本を お忘れになってい…
キリスト者であれば 度々、経験したかもしれないが、 信仰と現実との間で 心が揺れ動く。 私自身の経験を述べれば、 海外にいた頃、 その国の経済状況が悪化し …
イエスが公生涯に入られる前、 荒野で40日にわたる断食の後 サタンの試練に遭われた。 その時のサタンとの遣り取りが 福音書に記録されているが、 その時、サタ…
救いを得るようにとの計画は 万人に向けられたものなのです。 万人に向けられているが 救いへの招きを断る人が多いのです。 御怒りに遭うか救いを得るかの選択は …
モーセは罪をとは何かを 知る基準となる律法をもたらしたが イエスはその律法を完成された。 行いによって神の御心に適うには 律法の要求を心身共に 守らないとい…
永遠のいのちとは 創造主なる神の御心を知ること。 なのに全きお方である神と 罪深い私たちは交わることが 出来なかったので 神の御心を知り得なかったのです。 …
イエスの代償の十字架のおかげで 私たちキリスト者は 罪と死の縄目から解放されました。 代償を支払われたイエスが 新しい主人です。 だから主イエスとお呼びする…
今もイエスは 私たちを御覧になって 深く憐れんでくださり みことばを 伝え続けてくださっている。 今の時代は 直接イエスに拝謁することは 残念ながらできない…
ヤコブ書1章26節で宗教と訳されているギリシャ語はΘρέσκεια(スレスケイア)という単語なのだが、この単語のニュアンスは幅広く、翻訳が難しい。敬虔、誠実…
御子イエスの 貴い犠牲と引き換えに 私たちは罪の赦しを得て 義と見做され、それによって 神との和解が成立しました。 キリスト者となった今、 私たちキリスト者…
私たちキリスト者の救いが 神によって あらかじめ定められていたという点は 驚きと共に感激ですね。 救いは私たちの努力でなく 神からの賜物です。 私たちは、そ…
誰でも神の助けや恵みに 感謝したことがあるでしょう。 なのに、どうしてれを忘れて 神の御力を疑うのでしょうか? あなたを助け、 恵んでくださった神は 今も変…
兄弟姉妹に無私の心で 命懸けで仕える、 それがキリスト・イエスが 自ら模範を見せてくださった キリスト者の生き方でした。 イエスは私につながっていなさいと …
窮地に陥る時は 決まって神を無視して 自分勝手な生き方をしている時。 主を恐れることをわすれないように 心がけたいですね。 主を恐れることはいのちの泉…
今、本当にそう思います。 荒んだ世を正し 平和な世をつくるために 神の子として立ち上がる キリスト者が起こされることを 願ってやみません。 平和をつく…
私たちキリスト者は 狼の群れの中の羊のような状態。 ぼーっとしていたら 獰猛な狼の餌食になってしまいます。 だから被造物の中で一番狡猾な サタンのように賢く…
奉仕であれ喜捨であれ 同調圧力に屈してしたり 義務感に駆られてしたりでなく、 神から賜わった恵みへの 報恩感謝としてすればこそ 神に喜ばれるのです。 奉仕や…
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主は正義と公正を愛されます。 主の御心を汲んで 誰に対しても偏り見る事をせず、 相対するようにしたいものです。 そのような姿勢で生きておれば、 神の恵みが …
神はみことばで悪を炙り出し、 みことばで私たちを 保護してくださいます。 神のみことばは サタンの攻撃に対して 鋭い攻めと鉄壁の防御で 私たちを護ってくださ…
ヨハネの福音章1章1節に 「初めに、ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。」と あるように、神はみことばです。 また14節では …
イエス様も間違いなく尊いお方です。 ですが、イエス様も聖霊様も 御父と同じ神であって 位格が違うだけなのです。 ですが、イエス様は目に見え、 人々の生活の真…
「信仰が大事なのであって 行いは二の次だ」と意味不明な 言葉を発するキリスト者がいます。 牧会者の中にもいたりします。 ですが、これはナンセンスです。 「救…
自分は何をやってもダメだと 自分に嫌悪感を覚えている人が 意外とたくさんいるようです。 また、中には、 自己卑下と謙遜を混同して、 やたらめったら自分を貶め…
みことばを喜び、 みことばを生きる者を 神は祝福します。 なぜなら、 みことばを生きる者が 不幸になると、 神の力が疑われるからです。 みことばを通しての約…
アンガー・マネジメントは 本当に大切です。 というのは、怒っている時、 あなたの心の中も頭の中も 神は不在に なってしまっているからです。 怒りの矛先となっ…
自分の弱さ、罪深さを知る者が 御子イエスの十字架での贖いを 必要とする。 罪の代償が死であることを 知らなければ、 イエスの代償の死の有難さを 理解できない…
人が出来る事は 人がやればよい。 だが人に無理なことがある。 その無理な事を 無理なく解決してくださる方が 神なのです。 ひょっとしたら 私たちが神に対して…
神は私たちを いつも護ってくださいます。 神は私たちに いつも恵みをくださっています。 神は私たちが 試練に直面した時、 共に解決に向けて歩んでくださいます…
信仰が大切だというのはその通り。 だが、だからと言って 行いは必要ないというわけではない。 キリスト者の行いは 信仰を賜って救っていただいた事への 感謝の表…
しきりに見て関心を持った事を 人は実現しようとします。 多くの場合、それらは 無意識のうちにやっているので、 自分でも気付かないうちに 神が喜ばれない行為を…
神の恵みは私たちには 計り知れないものです。 そんな計り知れない恵みが 主を恐れ、主に拠り頼む者に 与えられるのです。 その恵みは夢物語ではありません。 あ…
キリスト者も 未信者と同じように この世の栄華や成功を 得ることを願い、 あたかも神を利用しているのかのような 祈りをしてしまっているかもしれません。 神に…
最初であり最後である主が あなたと共にいてくださいます。 飢え渇いたあなたの心は みことばによって 潤されるでしょう。 命を生かす みことばの水を飲んでます…
自ら積極的に 神から遠ざかろうとしない限り、 神は私たちを 神の御心に適った生き方を 選択できるように導かれます。 それほどに慈愛に満ちたお方なのです。 そ…
イエスは想像を絶するような 侮辱、冒涜、拷問の末に、 皆に捨てられて ぼろ雑巾のように 人々にも、弟子たちにも、 最後は御父からも捨てられました。 なぜ、こ…
この世の知恵は 多かれ少なかれ 見せかけのものが含まれる。 一方で、神がくださる知恵は えこひいきや見せかけのような 人との比較が介在せず、 神の御心に適い…
ある人が冗談で言っていました。 その人が言うには、 神にもできない事があるそうです。 皆さんはそれが なんだと思いますか? 私も初めてそれを聞いた時には 笑…
学ぶの語源が「真似ぶ」であると 聞いたことがあるかもしれません。 何事も模倣からはじまります。 これは信仰生活も例外ではありません。 信仰の先輩方の生き方に…
妻は夫に従うように との部分ばかりが強調されているが、 夫は妻を命懸けで守れと 聖書は教えていいる。 イエスが教会へと呼び集められた 私たちキリスト者を救う…
主の力を信じられないから 浮足立ってこの世の方法で 問題を解決しようとしてしまう。 焦るな! 主に委ねよ! みことばと向き合え! そうすれば今すべきことが分…
同信の先輩方に倣って 私たちも忍耐でもって みことばを生きましょう。 聖書において忍耐は 試練に喜んで立ち向かうという ニュアンスで使われています。 勝利さ…
神の御心に適ったものを イエスの御名で求めれば その望みは成就するとの 約束がある。 知らぬキリスト者はいない。 だが、適ったらラッキー という程度に思って…
イエスの命と引き換えに 神に買い取られたのが キリスト者となった私たち。 その有難さを忘れてはいけない。 それを忘れるから肉が働く。 神の目にあなたは 御子…
キリスト者がお互いに 憐れみと平安と愛で 満ち溢れるようにと 祈り合えるようになれば、 教会の成長は 難しくはないだろう。 自分の事ばかりでなく 同信の兄弟…
イエスはみことばが 受肉されたお方。 なので私たちキリスト者は みことばという木に つながる枝ということだ。 みことばにつながっておれば 多くの実を結ぶで…
人である以上 キリスト者であっても 心の片隅で見返りを 求めてしまいます。 それは致し方ない事です。 それはそれで認めることが 必要です。 そのような弱さを…
キリスト・イエスのように 命を捨てる覚悟で 隣人に仕える事を愛という。 その愛でもって 互いに仕え合えと イエスは教えられた。 その教え(福音)通りに 私た…
言葉はもういい。 生き様で みことばの素晴らしさを 証ししていこう。 我が国の福音宣教は 元来、そうであったはず。 教勢と信徒数が伸びない事に 頭を抱えた一…
神を愛するキリスト者は 神の似姿として造られた 隣人をも愛するのが筋だ。 だが、昔から変わらないのは 神への愛は語りながらも 隣人は目に入らない。 しかし、…
キリスト者は イエスの命と引き換えに 神に買い取られた存在です。 罪の代償は死であったので、 イエスがその代償を 償ってくださったのです。 罪が赦された今、…
三位一体の位格の一つである 聖霊が篤信のキリスト者の 心の内にお住まいである事は 本当に有難い事であります。 これこそ正に、インマヌエル、 神が共におられる…
神の御心を無視して 自分勝手な生き方をして 自他ともに苦しめてきた 自らの罪に気付かせていただき、 その罪を赦していただいたのが 私たちキリスト者で あった…
神を知っている者は 神のご性質に倣って 愛し合うようになる。 その愛とは、 キリスト・イエスに見られる 無私の愛だ。 あなたは如何であろうか? キリスト教と…
福音宣教と聞くと ことばで伝えるというイメージが 強くなるが、 福音を生きるキリスト者の 生き様を目撃した者が、 その素晴さに感銘を受けて 原因を聞いてくる…
みことばを生きておれば みことば通りに生きる自分を みことばの約束通りに 護ってほしいと 神に祈ることが出来る。 神の御力はみことばを生きる者に 働くわけだ…
鹿は喉が渇くと 舌が貼りついて 呼吸困難になるとか。 鹿にとって 喉を潤すことは 死活問題なのです。 それと同じように 私たちも主のみことばで 心が渇いたま…
バプテスマの預言者は 旧約時代を締めくくる 最後の預言者だと言われています。 預言は予言と違って 神のみことばは成就する事を 証しする事を言います。 旧約は…