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邪馬壹國・卑弥呼の本名判明 https://blog.goo.ne.jp/nanamihantaro/

女王卑弥呼について研究の総マトメの本の紹介です。

魏志では、邪馬壹國(やばいこく)、後漢時は、邪馬臺國(やばたいこく)です。九州の大分県宇佐市南宇佐が王都です。「倭女王少名日子建猪心命」これが卑弥呼の本名です。amazon.co.jpの和書で通販しています。

七海半太郎
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寝屋川市
出身
右京区
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2009/08/27

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  • 龍と剣

    「竜と剣」の図は、大分県山香町小武寺蔵。木彫製。竜が立って剣をのみこもうとしている。出典:富来隆「卑弥呼」学生社1970龍と剣護国霊験威力神通大自在王菩薩これを神仏混淆(こんこう)しての観音菩薩、観世音菩薩という。1、日本書紀、欽明天皇22年571年「八幡大明神が、筑紫に顕れたまう。豊前国宇佐郡、厩峰菱形の間に鍛冶の翁あり、首は、甚だ奇異なり。これに因って大神比義が、穀物を断つこと3年、籠り居し、精進した。幣帛を捧げ、祈っていう。もし汝が神ならばわが前に現れるべしと。即ち三歳の小児として現れ、竹の葉に立って、よろしく、我はこれ第16代誉田天皇、広幡八幡麻呂なり。わが名をば、護国霊験威力神通大自在王菩薩なり、国々所々に、跡を神道に垂れ、初めて顕れるのみ。・・・」これを信託と称して、大神比義は宇佐に奉り祭祀した。(...龍と剣

  • 追族5 天の耳目を知る

    追記、5月6日司馬遷以前、石は星に同じ。司馬遷はいう。昔から隕石はイヌの相をしていたと人々は言った。(これは和歌山県すさみ町の矢倉神社と関係ありや?)金星は百年に一、二回だけ、妙な動きをする。(岸本道夫「古代オリエント」)風土記「丹波、天女の羽衣」は、天に昇る衣であった。1~3世紀、百済とは、百に拘っていた。どうして?追族5天の耳目を知る南朝梁、王僧孺「何烱に興る書」月氏は、日逐を脳とし、月支を髓とする。(七海注)何烱:人名で昭武九姓の一国の姓名。日逐:日追いの義。髓:物事の本質。真髄。逐(チク):甲骨文では、豕(イノシシ)を追い掛ける足(辶)のさま。「追う」の意味を表す。逐は、追族と同じでしょう。史記扁鵲倉公列伝(第46)「夫れ、陽が、陰の支蘭の蔵に入る者は、活きるなり」(注)支は順節、蘭は横節なり。諸橋漢和...追族5天の耳目を知る

  • 追族4 邪馬臺の過誤

    追国4、邪馬台の過誤後漢書東夷伝倭国条倭は韓の東南大海中にあり、山島に由って居をなし、およそ百余り国あり。武帝が朝鮮(衛氏)を滅ぼしてから、使駅の漢に通じるものは、三十ほどの国あり。国は、みな王(みこ)と称し、世々、統(すべり)を伝える。・・・Aとする。其大倭王居邪馬臺國。(注、案今名邪馬惟音訛也)・・・Bとする。楽浪郡境は、其の国を去ること1万2000里。其の西北界拘邪韓国を去ること7000余里。Aの文章を整理、王については、多婆那国の脱解王(周防国佐波湊:三田尻港)が参考になる。「我が国は6才で、王(みこ)となり、28王が居る」七海注:28王は、28の星座をさす。使駅は、曰佐(オサ:通訳)の意味で、漢語が話せる国が30国という。距離は、楽浪の境から1万2000里で、邪馬臺國(ヤバタイ)が在ると明紀。この位置...追族4邪馬臺の過誤

  • 追(ツイ)族3、目支国

    追(ツイ)族3、目支国追族1、2を時系列でまとめてみます。ステップ1前11世紀の1023年、箕子は朝鮮の平壌へ行った。56代目箕準は、前195年、衛満に国を取られて、南の馬韓の天安に行った。前223年以前・・・韓侯の国が秦から追い出されて、真番(漢城)へ来た。(前108年、衛右渠は、漢の武帝に破れて平壌は楽浪郡になった。真番郡も漢が置いたが、前82年、廃止統合されて三韓は、楽浪郡の管轄となった。・・・楽浪の海中に倭人在り、分かれて100余り国、朝貢する)後9年、馬韓が弱まって箕準の国は亡んだ。(三国史記の温ソの言)天帝の子:都慕大王が予言書をもって諸韓を覆って制した。(A後漢書の記事、再度、馬韓人が王となるに一致)後漢時25~220、馬韓の天安には箕準の後裔:韓王の子孫は居ない。後9年、韓王の国はすでに滅んでい...追(ツイ)族3、目支国

  • 追(ツイ)族2

    (追記)辰韓は、東西が海に接している。(晋書辰韓伝)三国史記の慶州新羅(前57年創始)、百済温祚(前18年創始)の国は、当初、豆粒ほどの国でした。両国は、馬韓に統属されていた。追(ツイ)族2韓侯の子孫は、最終、半島から日本の摂津に来ています。(行楽弁当と重箱のような国家)行楽弁当は、仕切りがいくつか存在します。(三韓の例え)重箱は、いくつも重ねて、箱かさばらずに済む。どちらも蓋(ふた)は一つで、覇者は一人です。日本語は、襲を「かそね」と読み、重に同じです。結局、天の蓋が誰かと考える話を展開します。范曄(ハンヨウ)の後漢書韓伝は、魏志韓伝の後に完成した。戦後、韓国史の課題として辰王問題は、何度も取り上げられたが、未だに不詳です。次のABの化け物記事を解釈します。A、目支国范曄は、三韓の馬韓が強大で、すべて「古の辰...追(ツイ)族2

  • 追(ツイ)族1

    追(ツイ)族1朝鮮半島に、追族が居たかどうか、を考えます。先のブログ:貊(バク)族で述べたように、周の宣公(前609~前591)以来、韓侯(武王の弟)の国は、追・貊に支えられ、行動しています。後漢書と魏志(魏書)に、よく似た次の文章が出て来ます。A「国は鉄を出す。濊倭馬韓竝従市之」(後漢書韓伝)後漢書韓伝には、上記の濊(ワイ)・倭・馬韓が出て来ます。弁韓の洛東江には、良質の砂鉄が取れるので、これらの連中が来ています。ここに倭が出てくるが、鉄を買いに日本から来ている。しかも後漢朝の時代ですから、後25年からの記事とみられます。B魏志韓伝弁辰条弁韓(ほぼ慶尚南道と北道)は、はじめ12国でしたが、魏の時代は弁辰と言い、24国となっていた。つまり、弁韓の北の辰韓人が南下したので雑居しているという。ここにも、「弁辰は鉄を...追(ツイ)族1

  • 瞿摩帝寺(くまていじ)

    出典:ミ―ラン第三寺址壁画。羽田明「西域」青い目の僧侶が居る。瞿摩帝寺(くまていじ)以下、羽田明「西域」の解説を載せます。399年、法顕が、ホータン(和田)に滞在中、釈迦誕生祭りに挙行される「行使の儀式」を見た。行使とは、各寺院に安置された釈尊像を車に乗せて町中をねり歩き、供養を受ける。4月1日から14日まで挙行される。城内の街路は、掃き清められ美しく飾られる。釈尊は城外に準備された四輪車の仏殿におさめられる。仏陀像を真ん中に、両脇に菩薩を並べて天蓋で覆う。まわりに金銀で打ち出した飛天を掛ける。行像の行列が城に近付くと、王は王冠をとり、新しい着物に着替え、裸足になって進み出る。従者が華と香をもつ。王は仏像の足を頭に頂き、華を供えて焼香する。ついで、行像が城門を通過すると、門楼の上にいる王妃や侍女達が花弁をふり注...瞿摩帝寺(くまていじ)

  • 月とスッポンと神功皇后

    月とスッポンと神功皇后なぜ、月にスッポンが居るのか。きょうはこの話です。林巳奈夫は、中国古代の画像を解析しています。ここに、多く、鼈(スッポン)がでてきます。しかし、林さんの解析はあっても、七海は文献(書物)にでているのを見たことありません。みなさん御承知のように、日本では月にウサギがいます。中国でも、ウサギもあったが、主として蝦蟇(ガマカエル)とスッポンでした。玄奘三蔵がインドから仕入れた話に、インドラ神(帝釈天)が、ウサギの犠牲的精神に感心して、今後、月にウサギを留めようと言った。中国では、月に蟾蜍(センジョ:ガマガエル)とスッポンがいます。蟾蜍は、西王母が不死の薬をもっているので、絶世の美女・嫦蛾がその薬を盗んで飲んだ。それで、醜い蟾蜍となって、月に閉じ込められたという。ところが、鼈(スッポン)がいる話は...月とスッポンと神功皇后

  • 南史夷貊伝下・倭国条

    南史夷貊伝下・倭国条きょうは、木を見て、森を見ずの話しです。タイトルを見て下さい。倭国は、夷貊族の範疇(東夷の貊族)であると暴露した記事でした。南史に於いて、初めて文身国、大漢国が出て来ます。那須岳の文身国、白神山地の大漢国は、夷の貊(バク)族でした。広くとらえれば、日本は、夷バク族で、具体には東北六県をさしていた。のちに僅かの期間600年代に七国となるが、すぐ陸奥国となる。陸奥は代表で、九州島を筑紫島と云うのと同じです。まるで、重箱国家のようです。文身国淡路島の一宮のイザナギ神宮から東北7000余り里。約535.5km。那須岳をさします。大漢国那須岳から真北、5000里。約382.5km。ほぼ白神山地の日本海側の突端にあたります。これらは、両国の代表地点をさすが、那須岳連峰から北を、六国で蝦夷の国を指していま...南史夷貊伝下・倭国条

  • 貊(バク)族

    貊(バク)族貉バク、ミャク。2各(カク)貊バク、ミャク両者は、同じ種族をさす。各:1カク。2ラクは、駱ラクの音。貉バク、ミャクは、貊バク、ミャクと同音です。百(バク、ミャク)は、貉・貊と同音です。一白(イッパク)と書けば、百と同じだから、みな白から造られた漢字と考えればよろしい。追ツイ・貊バクの居住地韓侯は、陝西省の郃陽県と韓城市の間、現在の合陽市と韓城市の間に居た。韓侯(周の武王の弟)の国は、周宣公(前609~前591)のとき、突如、宣公は追・バクを封じた。12代宣公は韓侯に自ら命ずる。「奕々たる梁山、これは禹が治めたところである。倬たる道があり、韓侯は命を受けた。汝の祖考(父)を継いで我が命を廃するな。夙夜、怠ることなく謹んで汝の位に備えよ。・・・韓侯は、汾王の甥、蹶父(けいおう、王の姪で周の重臣の子)の...貊(バク)族

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