37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
94.「面構え」と「表情」 我々は、毎日、洗面の際、鏡で自分の顔を見ます。 その顔については、「面構え」という言葉があるように、骨と筋肉で形成された「構え」があり、それを基に様々な「表情」が生まれます。 つまり、人の「表情」は、その「面構え」を基に生ま
93.未発の中・已発の和 「構え」と「動作」の関係を理解することの大切さを考える際、役立つと思われるのは、<10>と<34>でふれた「未発の中・已発の和」という「中庸」(儒教の経典)の言葉です。 <34>では、この言葉を紹介し、「こころやからだの準備状態
92.「こころ」と「からだ」の土台「姿勢」ということばの定義を調べてみると、まず、次のようになっています。身体が静止している状態、運動している状態のいかんにかかわらず、身体の保つようすをさして姿勢という。古くは「構え」とか「格」という表現が用いられた。
91.「からだ」と「こころ」の壁を超える 「意識」が拡がる、「こころ」が自在に活動する、そうすると、「心身二元論」を超えて物事をとらえられるようになります。 それは、「物事を分けてみる」ことと、「つながりでみること」が、いわば併存するということです。世
90.「あたま」の奥から「からだ」の奥へ 自分の内部に注意を向けます。そうすると、まず、自分の意識が浮かぶ場が頭の中を占めている、そんな感じがしませんか。そして、その意識に浮かぶものをたどると、その空間がそれをもたらす奥につながっていて、意識を拡げると
89.「自主学習」は「自己理解」を深める 「瞑想」と「自主学習」が結びつくと、「自己理解」がすすむことになります。 「学習」の際、自分の中で起きることを考えると、「あたま」に浮かぶことを意識してそれを処理する過程もあります。しかし、その基となるものの多
88.「自己の理解を深める」ということ 生徒が立腰の際、目を瞑る、それは「瞑想」に通じるわけです。 そこで、その「瞑想」の効果として様々なことが言われていますが、まとめると次のようなことです。 俯瞰の視点を手に入れることで、雑念をスルーできるように
87.「境界」が消える 内を「見る」ことを続けると、その内からみた「からだ」と、「あたまの」の中と感じられる「意識」と、その奥にあると感じられる「深層」がリアルなものと受け止められ、それらの境界が無いというか、夫々が伸び縮みするというか、そんなふうに「み
86.「からだ」と「深層」 目を瞑って腰を立てる、それを続けると、「意識」が「からだ」の内に向かいます。筋肉で言うと、それまで「筋肉」というと「表層筋」を対象としていた「意識」が、「深層筋」に向かい、神経で言うと「筋紡錘」についての感覚が鋭敏になります
85.「ことば」と「深層」 学習に関わる内的経験として、「ことば」に関わることを取り上げてみます。無論、個々に違うでしょうから、例えば、次のようなことです。 まず、目を瞑っていると、外からの音や声が聴こえます。外からの「音声」は、最初は「耳」から聞こえ
84.自らの「深層」に触れる経験 瞑想の効果については、いろいろ言われていますが、大切なのはそれを継続することです。SSAの教室での「立腰」は、毎回10分、これを大体習3回実践します。その間、瞑目することで、内に意識がいきます。それが通塾している間、続き
83.自身の「意識」を拡げる 目を閉じてじっと「立腰」をするのに、最初は慣れません。(早く時間がこないかなあ)と焦る生徒もいるでしょう。しかし、そのうち、否応なしに自分の内部に意識を向けることになります。 内言を使用していろいろ考えている自分、その「コト
82.「こころ」を柔軟に 子供が下痢をすると、母親が子供に苦い薬を飲ませる、冬に子供がはだしでいると、母親が無理やり靴下をはかせる、それは、西洋医学的には、それが正しいとされてきましたが、下痢は体の毒になるものを出す、はだしは体温調節能力を高める、そうい
80.「からだ」と「こころ」の分断 「近代科学」の基にあるのが、「心身二元論」や「全体は部分の総和である」という分断の知であるとすれば、それで物事を「みる」ことには限界があります。無論、「現代の科学」はそれを超えて発展しつつありますが、現実の教育に反映さ
79.自在にはたらく「こころ」を 「こころ」の「意味」をどうとらえるかは、人それぞれでしょうし、ましてそれを「ことば」で表現することは、難しいことです。 そこで、それをとしてとらえると、その「意識」と「深層」が一方的なものではなく、その両者を隔てる壁
78.ものごとが多元的だとすると 我々は、自身を「からだ」とか「あたま」とかに分けて「見る」のには慣れていますが、それを様々な次元で「みる」ということはあまりしません。分かりやすく言うと、「肉体」のレベル「細胞」のレベル、「原子」のレベル、「波動」のレベ
77.「姿勢」が「みえる」 何かを学ぶ、まず「真似」をします。それを繰り返すと「習う」、身につくものがあります。例えば、「姿」を「見る」ことでは「見えない」「勢い」が「みえてくる」ということがあります。それを「気」を例にたどるとします。 「気」が「み
76.実践を基に学習して「みえる」ようになるもの 「深層」で、境界が無い、はたらきを共にする場を、(a・b・c)で表しました。それが「みえる」ようになるために、どうすればよいのでしょうか。 そこで、話が跳びますが、依然、NHKで「古武術に学ぶからだの
75.「みえない」ことを「みえる」ようにする 前回、例に挙げたのが、整体院である個所が不調なのに、別の箇所にはたらきかけられた、ということでした。では、同じ症状について、他のところでも同じ個所に働きかけるかというと、いろいろ、違いがあるわけです。手であっ
74.つながりが「みえる(何らかの「識別」「認識」ができる)」か「みえない」か さて、ある人が、自分の体のある個所が不調だというので整体医を訪れるとします。 その不調の箇所ではなく、別の箇所に働きかけます。すると元の箇所の不調が治ってしまう。そういうこと
73. 情報伝達の譬え 体の表層とか解剖によって目に見える次元で起きることと、深層の目に見えない次元で起きることのつながりを、情報の伝達に譬えてみます。 情報の「一方的伝達」には、例えば、手紙によるA→Bとでもいう伝達があります。これが、電話となると
72.共鳴と一方的伝達の違い 「立腰」の例にあるように、体の奥のはたらきを正すやり方について、いろんな方法があり、それぞれが「このやり方が正しい、他は間違いだ」という言い方をします。それにもかかわらず、夫々がそれなりに結果を出していて、続いているのをみる
71.様々なやり方があること 前回、「立腰」に関して、それが五行間のバランスを回復するやり方で、「ほかにもいろんなやり方がある」と述べましたが、そもそも、「立腰」という言葉についてもいろいろな解釈があり、それによって、その「やり方」にも微妙な違いがありま
70.バランスの取れた運動を身に付ける 我々が動く時、前後左右上下捩れ開閉、様々に動く、その時々に運動の中心が変わる、しかし、それがスムーズに動くと、バランスが取れた動きになります。しかし、その中心どれかに固定されると、バランスが崩れます。 ですから、
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37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
19.「解る」「できる」の判断 「レポートテスト」では、まず「問題」について、自身の思考過程を書き表します。次いで、その「レポート」と「解説」とを対照して、その「思考経過」の一つ一つについて、自分で「これは解っていた」、「ここはよく解っていなかった」、あ
18.原因の突き止め さて「レポートテスト」は通常のテストと違い問題の答とか結論とかだけではなく、思考経過を書き表すことになっています。 そこで、例えば、「解答」があっていたとしても、その「思考過程」に問題がある場合、それを明らかにできるようになってい
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが
63.対話の可能性 そこで、井筒俊彦氏の著作の続きで、その言語による文化の伝達の楽観論を主張する人々の考え方について触れた箇所を取り出してみます。 このような悲観論に反対して楽観的な立場を取る人々がおります。この人たちの思想の背後には人間精神についての
62.翻訳により抜け落ちるものと付け加わるもの「和訳」での「意訳」、「英訳」での「論理化」の両方を経験するとわかるのは簡単に言うと、元の文にあったものから抜け落ちるものがあることと、逆に元の文になかったものが付け加わることがあることです。そして、それを1
61.「論理化」で抜け落ちるもの 英語の英文和訳と和文英訳については、「自分でやることの意味」でとり上げましたが、そこでも紹介したように、和文英訳は英文和訳を逆にたどるようですが、それだけではありません。そこで、最初にやるのが、和訳の最後の「意訳文」を「