日本海をバックに赤い鳥居が連なり、外国人に人気の元乃隅神社。そこから次に向かうのは角島大橋。別に行かなくてもいいのに観光ツアーのコース。この絵はその移動中のバスから見た瞬間のお気に入り風景です。写真から、この場所を特定しようとグーグルマップのストリートビ
初めてなのに懐かしい。そんな古い町や家が好きです。
苔むした瓦屋根、磨き抜かれた格子戸、さり気なく置かれた自転車、つい覗いてみたくなるような老舗のたたずまい。 風情ある町や家は、長い時間の経過と、そこに住む人々の日々の営みによって、創りだされるのでしょう。 初めてなのに懐かしい。「ひろしのあの町あの家」は、各地で見つけた心ひかれる家々や風景を描いた水彩画です。
先週、終活のお仕事で築地本願寺に行っていきました。そのついでに周辺を散策しました。この建物は、聖路加国際病院旧舘の傍に移築された病院創始者のトイスラー記念館です。聖路加は「せいろか」と言っていますが、職員たちは「せいルカ」と呼んでいる人が多いそうな。福音
先週の白村江と一緒に出てきたスケッチ、みなとみらい21地区にある120年前に作られた石造りのドックです。このスケッチを描いたのは今から10年前、すでにぼくは退職。働いていたころも今も、会社はこの地区で多くの仕事をしています。そのまた20年前は、横浜博覧会
この絵は、どこを描いたのだろう?日本の風景ではなさそうだ。中国かな?画用紙裏側の年月日を見ると、その時期の旅行先は韓国。「韓国王朝街道を行く」ツアーで川といえば白村江です。そうだ、こんな感じの小さな船に乗って落花岩を見に行ったっけ。唐・新羅軍に負けた百済
本棚の中からクリアーファイルに挟んだ古い絵が出てきました。現地でのスケッチで、ブログに載せていないものも数枚。現地ではいつも先を急いでラフなのですが、この山居倉庫は比較的しっかり描けてます。2005年の古い絵です。旅先では夫婦別行動が常。ぼくは朝早くから、こ
「ブログリーダー」を活用して、つぶ庵さんをフォローしませんか?
日本海をバックに赤い鳥居が連なり、外国人に人気の元乃隅神社。そこから次に向かうのは角島大橋。別に行かなくてもいいのに観光ツアーのコース。この絵はその移動中のバスから見た瞬間のお気に入り風景です。写真から、この場所を特定しようとグーグルマップのストリートビ
金子みすゞの詩は、優しい言葉の中に生きる上で大切な事がしっかり入っていると思います。そんな彼女も結婚で悲しい最期に。あの時代に、朝ドラの寅子のような弁護士がいてくれたら。復元された金子文英堂2階左側は金子みすゞの部屋。窓際には小さな机と座布団が置いてあり
菊屋の並びにある、この門の佇まいに惹かれました。「こんなお屋敷なら住んでもいいかな?でも草取りが大変か」なんて勝手な事ことを考えながら、取り合えず写真をパチリ。絵を描きながらどこが好きなのか考えました。門や土塀の瓦、苔むす基礎石の風合い、門を守るように覆
萩の旧武家屋敷には石垣が多く残っています。指月山の花崗岩、笠山の安山岩が使われ、色とりどりの石垣で描きたくなりました。左塀の下側の明るい石の層は、江戸時代の土塀の基礎だったものでしょうか。明治以降、旧藩士には屋敷内での夏ミカン栽培が奨励されました。土塀は
菊屋家は萩藩の御用商人として藩を支えてきた豪商です。今でもやたら大きい敷地に、絵の左から蔵造りの母屋、金蔵、米蔵などの蔵が並んでいます。他に本蔵と釜場2棟を含め、5棟が重要文化財です。菊屋家は城下の町づくりにも貢献し、藩士や足軽の家を建てことで「阿古ヶ浜
ここは昭和10年築の旧明倫小学校。萩の藩校明倫館があった場所です。吉田松陰は、藩士養成よりも、誰に何を教えるかが自由な私塾の松下村塾の方を選んだのでしょうね。この旧校舎は現在「萩・明倫学舎」として萩の観光拠点です。日本一の木造校舎は超横長の2階建が4棟も
大分県から、2023年6月に行った山口県に戻ります。これは松下村塾、何と小さい。テレビなどではよく見ますが本物は初めて。ずっとこの場所にあったというのが貴重です。吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など当時無名の有名人が、ここで、うろついたり声を上
正面奥の林の中にぼんやり見えのが、湯布院御三家の一つ「由布院玉の湯」です。ちょうど車の客が帰るところで、男女2人の従業員が丁寧なお見送り。車がこの道を走り去っても頭を下げ続けていました。このお見送りを見届けてから、絵の左手にある「由府両築」の向こう隣の共
昼食は、混雑した店に入る気にもならず、スーパーでサンドイッチと飲み物を買い、店の前に見えた大きな公園で食べました。この公園の名は湯布院中央児童公園、昔の児童たちがゲートボールをしていました。その奥に見えるのは隈研吾設計の焼杉の壁の現代美術館。壁の向こうに
金鱗湖畔の亀の井別荘の駐車場です。高級車を描きたいわけではなく、描きたかったのは塀の向こうにある建物、それも屋根瓦です。落ち葉で埋もれていますが、丸瓦の本瓦葺きです。京都や奈良の古い寺院や家では良く見られますが、湯布院で見られるとは、ちょっと驚き。さすが
鉄輪温泉の絵が終わり、今日から湯布院です。別府駅から亀の井バスで朝8時半に湯布院に到着。湯布院で見たいと思っていたのは田園風景です。観光客の多いメインストリートから外れ大分川を土手沿いに下りました。大分川は由布岳に源を発し、大分市から別府湾に注ぐ一級河川
屋根瓦の写真を撮った後、ぶらり登った高台は「鉄輪湯けむり広場」。名前の通り町中から湯けむりモクモク、その向こうに別府湾。道路脇には、誰でも使える地獄窯。看板にはホウレンソウ1~2分、たまご7~8分や、タコ、エビなど10種以上の蒸し時間の表示。地元の人や湯治客
昨年12月27日UPの木造洋館をスケッチ中、話し好きのお婆さんが「これはもとは医院、その医者の家はあすこ!」と教えてくれました。医者の家に行ってみると凝った屋根瓦が面白かったので、写真をパチリ。調べると、この明治生まれの建物は平成8年まで旅館でした。壊す寸前で
ガイドブックにあった豚まんを食べながら歩いていたら、このインパクトのある暖簾が目に飛び込んできました。調べたら暖簾は造形作家 望月通陽氏の作品で、柳屋は「サリーガーデンの宿 湯治柳屋」でした。サリーガーデン?はシフォンケーキの会社。湯治?は素泊が基本。隣に
今回は、別府の変わり湯に入るのも楽しみでした。竹瓦温泉の砂湯、紺屋地獄の泥湯を体験し、ここ鉄輪温泉では蒸し湯へ。でも泥湯の直後で湯疲れ気味のぼくは、慎重を期して入るのをやめ建物だけを撮影。湯けむりが立ち上がる手前両側の部屋が蒸し湯です。床に敷き詰めた石菖
ここは紺屋地獄、保養ランドの混浴露天風呂です。濁り湯の底はヌルヌルの鉱泥、泥を手ですくい体にヌリヌリしながらの保養入浴です。絵の左は3人家族、右は60代の男性とぼく。彼の第2の人生は全国を車で旅をしながら旅館で働くリゾートバイト。初めて聞いた仕事です。た
昭和3年(1928年)に熊八さんは、地獄めぐりの遊覧バス運行のため「亀の井自動車」を設立しました。この時、女性バスガイド(少女車掌)が日本で初めて誕生し、七五調の観光案内も名物となりました。確かに、今でもバスガイドさんの独特の語り口は健在ですよね。ぼくが乗った
先週の赤いのぼり旗は、大分のソールフード「とり天」の宣伝です。とり天の発祥は、別府初のレストラン東洋軒。天皇の料理番をしていた宮本四郎氏が別府に療養に来た時、熊八さんが亀の井ホテルの初代料理長を頼みました。その後、宮本氏は独立し東洋軒を作りました。その本
亀の井バスに乗って、日本初の明礬採取の史跡・明礬地獄へ行きました。早朝バスを降りると逆光に輝く海と空、地面からは蒸気が噴きだし圧巻です。こんな景色初めてと痛く感激。さすが別府八湯!橋は九州横断道路、奥には別府湾、その右はサルで有名な高崎山です。別府湾に桟
別府に着いて、初めて入った竹瓦温泉です。全景が写真に入らないほど大きな共同浴場なので唐破風の立派な玄関を描きました。珍しい室内にある砂湯に入りました。横になると元気な女性がスコップで温かい砂をどんどんかけてきます。「どうして砂が温かいの?」ときいたら温泉
この尾張屋は500年以上続く蕎麦屋。もとは尾張で菓子屋だったとか。蕎麦がツルツルと今の形になったのは江戸時代。その以前は、穀物として蕎麦粥や蕎麦がきなど飢えをしのぐ食べものだったようです。蕎麦も汁も尾張屋さんも進化を続け、今の形になったのですね。現役の時
初めて歩いた先斗町。狭い路地に店が立ち並び、どことなく猥雑な感じさえします。うまい具合に相合傘の2人連れが前を歩いてくれたりして。「京都先斗町」と言うと「に降る雪も~♪」とつながります。そして「雪に変わりはないじゃなし」じゃなくて「・・・あるじゃなし」で
黄粉をまぶした餅を串にさし、炭火の上で扇形に広げたり裏返ししたりで適度の焦げ目をつけます。まさに焼くのではなく炙るのです。昔は腰をかけ背中を丸めた老女将のあぶり作業?だった気がしますが、今は若女将。でも、甘い白味噌は変わらぬ美味しさでした。それにつけても
今宮神社といえば、ぼくには「あぶり餅」。また食べようと予定に入れました。門前の参道を挟んで2軒向かい合っています。神社に向かって右側の一和は1,000年、左側のこの餝屋は400年の歴史を持つ老舗。炭火で餅を炙る後ろ姿の女将と懐かしい餅を味わうぼく。詰襟の男子5人
鴨川の夏の風物詩、この川の上に納涼床ができるのです。冬のこの時期は静かでちょっと寂し気。ここから見える家並みは、絵にする程のものではないけれど、夏の納涼床と共に華やぐだろうの思いから描きました。華のない今は、絵も6Bの鉛筆でラフに描いてみました。家々の屋根
茶屋の雰囲気を残した祇園の新橋通です。保存地区だけあって1階は黒のベンガラ格子、2階はすだれで覆われ、シックに統一された町並みです。建物の中は料理屋やバーになったりと時代とともに変わっているのでしょう。この店は「祇をん八咫(やた)」という料理屋のようです。
四条大橋の袂にある東華菜館です。この橋を渡る度にいつも気になっていた建物。今回はここで昼食をと、開店11時半を待って入店。エレベーターボーイの操る日本最古のエレベータで4階へ。広い空間には凝った天井や室内装飾、窓の外には鴨川と南座の絶景。室内同様、外壁も
亀末廣は、御所や二条城にも納めていた和菓子の老舗。重厚な店に入り、ひとつだけ最中を注文。「お待ちください」と奥に消え、5分ほどして袋に入った最中が出てきました。亀形の皮はパリパリ。グッドジョブ!以前、京都の妻の友人から亀末廣の干菓子「京のよすが」を2度ほ
京都文化博物館などの洋館が並ぶ三条通り、そこから少し南に入ったところにイノダコーヒ本店があります。京都では何故かコーヒです。描いてませんが絵の右側が喫茶室。タキシードの年配の男性が仕切る空間は広く落ち着き、調度品も明かるさも心地いいのです。以前、京都には
JRで嵯峨嵐山駅から二条駅に向かい下車、山中油店まで歩く。いつもの運動不足のせいか、脇に見える二条城の堀がやたら長く感じました。山中油店は200年前から油を販売する老舗。燈明用に始まり、今は海外のオリーブオイルなど高級感のある多種の油が並んでいます。建物の
色鮮やかな山をバックにした渡月橋が描きたくて、鳥居本から自転車で嵐山に向かいました。イメージしていた場所に立つと、渡月橋の背景はモノトーン。紅葉でも新緑でもない2月です。無理もありません。橋を渡り反対方向を見ると、描かいてみたくなる冬山がありました。左遠
愛宕神社の一の鳥居をくぐると平野屋さんが一軒あるだけ。まるで平野屋さんの鳥居のようです。拝みはしないもののの、ありがたく見学。本来、寺や神社で見かける千社札が、梁や柱に沢山貼ってありました。やはり鳥居のすぐ下にある、なせる技でしょうか?つたやさんは貼らせ
あちこちで見かける愛宕神社ですが、その総本宮がこの先の愛宕山にあります。奥に見えるのは一の鳥居。本宮はここから2時間ほど登った山頂ですので、当然、参拝はご辞退しました。この愛宕街道の門前町は伝統的建造物群保存地区に指定され、茅葺がいい雰囲気を出しています
長い間、都だった京都には菓子・料理・仏具など何百年も続いている老舗が沢山あります。『京都時代MAP 伝統と老舗編』大きな本を見ながら、建物も古く絵になりそうな店を30程選び、地図に書き入れ、3日間で廻る周到な計画を立てました。30年前、京都に行った時、井堂雅
伏見、宇治を回って京都駅に戻り、最後の予定地の龍谷大学と西本願寺に向かいました。駅近くの信号待ちで見つけた焼肉ホルモン屋さんです。このような古い建物はそれらしくリノベートして、お洒落に使う店が多いように思います。でもこの店、暖簾やダクトから「焼肉ホルモン
この日はスケッチ日和。平等院で描いていたら「ここはスケッチ禁止です」と言われ途中で退散、観流橋を描き、いよいよ本命の通圓です。ちょうど30年前、家族一緒に寄った店です。「ここを描きたい」と言ったら、妻が子供3人に話し、みな文句も言わず、ぼくに絵の時間を作
前日の雨も上がり2枚目のスケッチは、観流橋の奥から流れ出て宇治川に注ぐ水しぶきです。その水量が山の深さに似合わず多すぎるのでは?と調べたら、この橋の奥に関西電力宇治発電所がありました。琵琶湖の水が長いトンネルで運ばれ、すぐ奥の発電所で一仕事を終えた後でし
先週、絵の題材探しに京都に行ってきました。2泊3日、JR、地下鉄、京阪、近鉄、電動自転車を駆使し、雨の日も良く歩きました。3日間で6万6千歩、最後は筋肉痛で足を引きずりながらでした。寒さや雨でスケッチは結局4枚だけ。でも写真は600枚撮ったのでしばらく安心
先月「規格外」でヴォーリズのレンガ塀を描きました。あの絵では、色も形も大きさもどれだけ違っているのか分かりにくく、アップの写真も撮ってきたので詳細を描いてみました。膨らみ過ぎたレンガにセメントを詰めたりして、まともなレンガがほとんど見えません。身内のため
近江八幡といえばこの白雲橋から見た景色が有名です。昨年7月20日の絵と先週の絵、そして今回で3枚も描いてしまいました。先週の実篤さんからのコメントで、時代劇「八丁堀の七人」はこの八幡掘りがロケ地と知りました。YouTubeで見たら昨年歩いた堀沿いの道や建物が映っ