月島で妻は初めてもんじゃ焼きというものを食し大満足。その後、もらったマップに書いてあった「東京で最も古い交番」へ。1926年(大正15年)に建てられた交番です。誰もいません。好奇心旺盛の妻は階段を上り、正面のデスクの椅子にドーンと座りました。直後、後ろのドアか
初めてなのに懐かしい。そんな古い町や家が好きです。
苔むした瓦屋根、磨き抜かれた格子戸、さり気なく置かれた自転車、つい覗いてみたくなるような老舗のたたずまい。 風情ある町や家は、長い時間の経過と、そこに住む人々の日々の営みによって、創りだされるのでしょう。 初めてなのに懐かしい。「ひろしのあの町あの家」は、各地で見つけた心ひかれる家々や風景を描いた水彩画です。
月島で妻は初めてもんじゃ焼きというものを食し大満足。その後、もらったマップに書いてあった「東京で最も古い交番」へ。1926年(大正15年)に建てられた交番です。誰もいません。好奇心旺盛の妻は階段を上り、正面のデスクの椅子にドーンと座りました。直後、後ろのドアか
「はにわ」を見に東博の庭に入った途端、ドーンとキティちゃんがお出迎え。表慶館の前は「Hello Kitty展」の入館待ちの大人で溢れています。ネットで見たら、開催初日は180分待ちもあったとか。サンリオの公式サイトから混雑のお詫びが出たほど。グッズの転売目的まであるで
ホテルの宿泊券を当てた妻の企画で、1泊2日の東京旅行に行ってきました。ホテルが晴海だったので1日目は日本科学未来館の「パリ・ノートルダム大聖堂展」、遅い昼食は月島でもんじゃ焼き。2日目は東博の「はにわ」。沢山の埴輪の中でも、ひろしのあの家としては、やはり
中央に立つ旗を持った像は、12世紀にベルンの町を造ったツェーリンゲン家の記念碑だそうです。兵士に見えますが鎧兜の中は熊。熊はこの町のシンボルであり、ベルンの語源であるとか。また、建物入口の手前には、緑や茶色の斜めの地下への扉が見えます。これは各地にある防
レマン湖畔にあるブドウ農家です。こちらでは普通の家なのかどうかわかりませんが、お洒落な感じがします。レマン湖の中央にスイスとフランスとの国境があり、対岸はフランスです。水彩画展でもラボー地区の絵を展示しました。斜面の上からブドウ畑と集落を見下ろし、家々の
ラボー地区の家の窓です。先週のようにブドウの木が窓に絡みついている家もあれば、このようにブドウ模様の窓格子も。畑だけでなく家もブドウと共にです。他の家にも、このような窓格子がありますが、デザインは違います。ブドウ系?窓格子作家がいるのでしょうか。世界遺産
ぼくのお祭りも終わり日常へ、次の絵は何にしよう。今回の水彩画展で海外の家々を見ていたら、懐かしく描きたくなりました。でも、コロナ以降は海外には行ってないし。あちこちの古い写真を見直して「スイスにしよう」。これはレマン湖に面したブドウ畑の広がるラボー地区に
このような挨拶文で始まる水彩画展「ひろしのあの町あの家」が昨日、大盛況のうちに終了しました。懐かしい同僚や同級生との再会、ゴルフ・太極拳仲間や多くの地元の方々と話すことができた1週間でした。心落ち着く、懐かしい、繊細など沢山のお褒めを頂き、やはり原画は力
昨日の午後、水彩画展「ひろしのあの町あの家」がオープンしました。展示の作業員はぼくと妻、応援に来てくれた妻の妹と姪の4人です。17年前の広い相鉄ギャライーの準備と同じメンバーです。みな17年分年を取りましたが。今回は天井からのワイヤーフック掛けや照明配置など高
ぼくの水彩画展が来週に迫りました。2007年4月1日、ブログ「ひろしのあの町あの家」はこの絵から始まりました。それから17年間、全国各地で多くの自然災害がありました。2011年の東日本大震災ではこの正文堂も大きな被害を受け、その後見事に修復。水彩画展でも「記念の絵」
大きな石造り倉庫に挟まれた、楽しい感じの大同倉庫です。描いていて思い出したのですが、父も倉庫の仕事をしていました。子供のぼくたちから見ても、父は笑っちゃうほど台風を怖がる人でした。それは各地の埠頭の倉庫が台風で波をかぶり、預かったタバコなどの商品をダメし
小樽駅から日銀通りを歩き始めたとき、ちょっと目に止まった建物です。小樽らしくないとは思いつつ、条件反射で写真をパチリ。これは北海道タオル株式会社、小樽で110余年にわたりタオル・手ぬぐいを製造販売しています。右手裏のトタン屋根の建物は使い込んだ作業場か?蔵の
この浪漫館は、明治41年築の旧第百十三国立銀行小樽支店です。先週の海鳴楼は、明治28年築の同銀行の小樽支店。僅か13年足らずで、小さな平屋の建物から2階建2棟に大変身。まさに明治期、小樽経済は急成長したのでしょう。ニシン漁、海運業の発達、石炭輸送のための鉄道開通
オルゴール堂3軒目の海鳴楼です。こんなに店があってオルゴールを買う人がいるのでしょうか。でも、建物は絵になる歴史的建造物なのが嬉しいです。今回は扉を開けずに、閉まったままを描きました。これは旧第百十三国立銀行小樽支店として明治28年に建てられ、もうすぐ130年
北海道有数の精米・穀物商だった共成(株)本社の建物です。大正4年築で現在は小樽オルゴール堂本館。8月7日の堺町店も旧岩永商店だし、7月24日の北一硝子も鰊倉庫の古い建物を上手く利用しています。建物を使う人は、その時代時代で変わります。小樽で20年前に描いたうちの
これは明治23年築の旧小樽倉庫、横長の建物全景は壮観です。大正に小樽運河ができ、この倉庫は長く運河と共にありました。昭和の埠頭整備で運河の役割は終え、戦後はゴミとヘドロで汚れ、埋めてて道路になるところでしたが、保存運動で生き残り、今や人気の観光地。現在、
小樽駅から日銀通りに出たところで、目を引いたのがこのレンガ造りのカフェバー。狭い敷地に4階建、当時はのっぽビル?これは明治41年、旧向井商店(呉服店・洋品店)の倉庫として建てられました。商品を火災から守る意気込みを感じます。小樽は大火と復興する経済力で、木
千歳行きの飛行機を待つ羽田空港です。飛行機の後ろにコンテナ船、東京湾ですから日常の風景なのでしょうが、ぼくには新鮮でした。空を飛ぶ飛行機も海を行くコンテナ船も、絵にはないですが陸を走るトラックにも、みなそれぞれの持ち場で真剣に働く人達がいます。彼らによっ
この小樽オルゴール堂堺町店の建物は、明治29年開業の岩永時計店でした。石造りの壁や柱は洋館っほいのですが、屋根にはシャチホコが乗り完璧な和洋折衷です。朝が早かったので店はシャッターが閉まっており、店内の見える画像を探し出し、どうにか開店させました。岩永時
早く朝食を済ませ小樽築港駅から函館本線で小樽駅まで行きました。現在の駅舎は昭和9年、上野駅をモデルに造られました。上野駅より小ぶりな小樽駅、大ぶりな大連駅というところでしょうか。ホームに降りたら「るたお」と右から書いた古い駅名板や、使いこんだ扉・ガラス窓
この木骨石造の建物は、旧木村倉庫が鰊漁場の中継倉庫として明治24年に建てました。閉店後だったので、ガラス戸から中を覗くと中央に線路が見えます。港から引き込まれたトロッコのレールです。トロッコというと子供の頃の公園の工事現場を思い出します。作業員のいないトロ
「だて歴史の杜」に残る蔵です。これ見た時、ただのボロ蔵じゃないとすぐにスケッチ。案内板によると明治6年築。仙台藩の一門、亘理伊達家が移住当時に持ち込んだ先祖伝来の品や、伊達政宗関連資料、書物などを入れ、長持ち30棹ほどが収められていたとのことです。戊辰戦
前日、夜の地獄を見ようとホテルを出でましたが、途中から雨が強まり断念。雨も上がった翌朝、地獄谷の展望台までのつもりが、整備された歩道を快調に下り、谷の底まで行ってしまいました。帰りがけ、宿泊ホテルに見える大きな2つのドーム。ローマ風呂風の屋根です。娘の好
先週、ぼくの喜寿の前祝で、小樽・ニセコ・登別のホテルを回る70歳以上のツアーに夫婦で参加しました。一人で行くスケッチ旅行と大違いです。すべてお任せなので、何の下調べも準備もしませんでした。初日、小樽のすし屋での夕飯後、少し散策しました。翌朝は10時出発な
長府毛利藩の殿様の医者をしていた菅家の長屋門です。長屋門と言えば、ぼくにとっては近所にある「横浜市長屋門公園」です。こちらは有力農民大岡家の長屋門が保存されています。この長屋門は戦後、医院として診察室にも使っていたようです。長屋門公園の絵はがき用として頼
瑠璃光寺門前のお土産屋「たつみや」さんは、修理中の五重塔より魅力的でした。昭和の雰囲気満載、写ルンです全盛時代のフジカラー、テレホンカード、たばこの看板の劣化がいい感じ。当店売上ナンバーワンなのか?ソフトクリームの立体の看板がいくつもあって力が入っていま
日本海をバックに赤い鳥居が連なり、外国人に人気の元乃隅神社。そこから次に向かうのは角島大橋。別に行かなくてもいいのに観光ツアーのコース。この絵はその移動中のバスから見た瞬間のお気に入り風景です。写真から、この場所を特定しようとグーグルマップのストリートビ
金子みすゞの詩は、優しい言葉の中に生きる上で大切な事がしっかり入っていると思います。そんな彼女も結婚で悲しい最期に。あの時代に、朝ドラの寅子のような弁護士がいてくれたら。復元された金子文英堂2階左側は金子みすゞの部屋。窓際には小さな机と座布団が置いてあり
菊屋の並びにある、この門の佇まいに惹かれました。「こんなお屋敷なら住んでもいいかな?でも草取りが大変か」なんて勝手な事ことを考えながら、取り合えず写真をパチリ。絵を描きながらどこが好きなのか考えました。門や土塀の瓦、苔むす基礎石の風合い、門を守るように覆
萩の旧武家屋敷には石垣が多く残っています。指月山の花崗岩、笠山の安山岩が使われ、色とりどりの石垣で描きたくなりました。左塀の下側の明るい石の層は、江戸時代の土塀の基礎だったものでしょうか。明治以降、旧藩士には屋敷内での夏ミカン栽培が奨励されました。土塀は
菊屋家は萩藩の御用商人として藩を支えてきた豪商です。今でもやたら大きい敷地に、絵の左から蔵造りの母屋、金蔵、米蔵などの蔵が並んでいます。他に本蔵と釜場2棟を含め、5棟が重要文化財です。菊屋家は城下の町づくりにも貢献し、藩士や足軽の家を建てことで「阿古ヶ浜
ここは昭和10年築の旧明倫小学校。萩の藩校明倫館があった場所です。吉田松陰は、藩士養成よりも、誰に何を教えるかが自由な私塾の松下村塾の方を選んだのでしょうね。この旧校舎は現在「萩・明倫学舎」として萩の観光拠点です。日本一の木造校舎は超横長の2階建が4棟も
大分県から、2023年6月に行った山口県に戻ります。これは松下村塾、何と小さい。テレビなどではよく見ますが本物は初めて。ずっとこの場所にあったというのが貴重です。吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など当時無名の有名人が、ここで、うろついたり声を上
正面奥の林の中にぼんやり見えのが、湯布院御三家の一つ「由布院玉の湯」です。ちょうど車の客が帰るところで、男女2人の従業員が丁寧なお見送り。車がこの道を走り去っても頭を下げ続けていました。このお見送りを見届けてから、絵の左手にある「由府両築」の向こう隣の共
昼食は、混雑した店に入る気にもならず、スーパーでサンドイッチと飲み物を買い、店の前に見えた大きな公園で食べました。この公園の名は湯布院中央児童公園、昔の児童たちがゲートボールをしていました。その奥に見えるのは隈研吾設計の焼杉の壁の現代美術館。壁の向こうに
金鱗湖畔の亀の井別荘の駐車場です。高級車を描きたいわけではなく、描きたかったのは塀の向こうにある建物、それも屋根瓦です。落ち葉で埋もれていますが、丸瓦の本瓦葺きです。京都や奈良の古い寺院や家では良く見られますが、湯布院で見られるとは、ちょっと驚き。さすが
鉄輪温泉の絵が終わり、今日から湯布院です。別府駅から亀の井バスで朝8時半に湯布院に到着。湯布院で見たいと思っていたのは田園風景です。観光客の多いメインストリートから外れ大分川を土手沿いに下りました。大分川は由布岳に源を発し、大分市から別府湾に注ぐ一級河川
屋根瓦の写真を撮った後、ぶらり登った高台は「鉄輪湯けむり広場」。名前の通り町中から湯けむりモクモク、その向こうに別府湾。道路脇には、誰でも使える地獄窯。看板にはホウレンソウ1~2分、たまご7~8分や、タコ、エビなど10種以上の蒸し時間の表示。地元の人や湯治客
昨年12月27日UPの木造洋館をスケッチ中、話し好きのお婆さんが「これはもとは医院、その医者の家はあすこ!」と教えてくれました。医者の家に行ってみると凝った屋根瓦が面白かったので、写真をパチリ。調べると、この明治生まれの建物は平成8年まで旅館でした。壊す寸前で
ガイドブックにあった豚まんを食べながら歩いていたら、このインパクトのある暖簾が目に飛び込んできました。調べたら暖簾は造形作家 望月通陽氏の作品で、柳屋は「サリーガーデンの宿 湯治柳屋」でした。サリーガーデン?はシフォンケーキの会社。湯治?は素泊が基本。隣に
今回は、別府の変わり湯に入るのも楽しみでした。竹瓦温泉の砂湯、紺屋地獄の泥湯を体験し、ここ鉄輪温泉では蒸し湯へ。でも泥湯の直後で湯疲れ気味のぼくは、慎重を期して入るのをやめ建物だけを撮影。湯けむりが立ち上がる手前両側の部屋が蒸し湯です。床に敷き詰めた石菖
ここは紺屋地獄、保養ランドの混浴露天風呂です。濁り湯の底はヌルヌルの鉱泥、泥を手ですくい体にヌリヌリしながらの保養入浴です。絵の左は3人家族、右は60代の男性とぼく。彼の第2の人生は全国を車で旅をしながら旅館で働くリゾートバイト。初めて聞いた仕事です。た
昭和3年(1928年)に熊八さんは、地獄めぐりの遊覧バス運行のため「亀の井自動車」を設立しました。この時、女性バスガイド(少女車掌)が日本で初めて誕生し、七五調の観光案内も名物となりました。確かに、今でもバスガイドさんの独特の語り口は健在ですよね。ぼくが乗った
先週の赤いのぼり旗は、大分のソールフード「とり天」の宣伝です。とり天の発祥は、別府初のレストラン東洋軒。天皇の料理番をしていた宮本四郎氏が別府に療養に来た時、熊八さんが亀の井ホテルの初代料理長を頼みました。その後、宮本氏は独立し東洋軒を作りました。その本
亀の井バスに乗って、日本初の明礬採取の史跡・明礬地獄へ行きました。早朝バスを降りると逆光に輝く海と空、地面からは蒸気が噴きだし圧巻です。こんな景色初めてと痛く感激。さすが別府八湯!橋は九州横断道路、奥には別府湾、その右はサルで有名な高崎山です。別府湾に桟
別府に着いて、初めて入った竹瓦温泉です。全景が写真に入らないほど大きな共同浴場なので唐破風の立派な玄関を描きました。珍しい室内にある砂湯に入りました。横になると元気な女性がスコップで温かい砂をどんどんかけてきます。「どうして砂が温かいの?」ときいたら温泉
別府駅前に、手足をあげたちょっと変わった銅像があります。別府観光の父と呼ばれている油屋熊八(1863~1965年)です。旅行前、別府関連の本を検索したら、植松三十里著『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』が見つかりました 。溢れるアイデアと人を巻き込む力で突き
人の多さにびっくりしながら湯布院の1日観光が終わりました。この絵は、帰りの大分空港行きバスの待ち時間を使って、由布院駅前で描いた最後のスケッチです。別府駅で同乗し、途中「由布登山口」バス停で降りた背の高い外国人男性。「彼も、もう下山したかな?」なんて思い
観光客はほとんどいない田舎道を歩いて金鱗湖に到着。そこは一転、小さな湖面を囲んで人人人の波、韓国語も飛び交い大騒ぎです。湖から離れ、急いで静かな一角に入りました。この茅葺が亀の井別荘か?と気持ちよくスケッチを終え、道に出たら奥に格式高そうな茅葺が。そちら
あけましておめでとうございます。 元日から能登半島地震・羽田の事故と続き、大変な年明けとなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。旅の3日目は別府駅からバスで湯布院に向かいました。混雑している湯の坪街道などを避け田園風景の見える田舎道を
共同浴場「熱の湯」の駐車場のベンチでこの洋館を描きました。明治41年築で、かつては医院、今はカフェになっています。共同浴場からは女性の歌う炭坑節や元気な笑い声が聞こえてきます。湯上がりのお婆さんがぼくの隣に座りました。「細かい絵だねー。遠いけど一人で熱の湯
1日目は別府駅周辺、2日目は亀の井バス1日乗車券で、明礬温泉・地獄めぐり・鉄輪温泉を回りました。そこここから湯けむりが沸き上がり、まさに日本一の別府温泉を実感しました。ここは鉄輪温泉のいでゆ坂。手ごろな大きさの旅館や公共浴場、食堂が静かに並んでいます。道
別府・湯布院へ行ってきました。数枚スケッチしたので早速アップ、これは大正13年築の別府の「駅前高等温泉」入浴料250円の共同浴場です。絵を描いていると暇と思われるのか、よく話しかけられます。この時は東京で店舗の設計をしていた60代位の男性。仕事の話に続いて、母親
津和野大橋を渡った南は、整備された殿町通りとは違い、生活感のある店がポツポツと見受けられます。その中で「理髪店ほりの」は、懐かしくホッとするような雰囲気を醸し出していました。理髪店を描くのは好きですが、結婚して50年近くぼくも妻も床屋にも美容院にも一度も
この教会はキリシタン殉教慰霊のために明治23年に建てられ、火災により昭和6年の再建です。教会の中は畳敷、今どき畳と思っていたら、椅子が並んだ写真を見つけて、正座が苦手なぼくは一安心。行きませんでしたが、町のすぐ西側乙女峠にキリシタンの殉教地があります。浦上
10月18日の京都の足袋屋さんが分銅屋で、津和野にも分銅屋がありました。この分銅屋七右衛門は江戸時代より鬢付け油、和蝋燭、菜種油、香等を製造販売し、津和野の「元禄八人衆」と呼ばれた商家だそうです。建物は1853年の大火後、焼け残った材料を使って素早く再建したとのこ
この風格ある建物は明治中期のもの。明治時代は質屋、大正時代は家具店、そして現在は三松堂の支店、津和野銘菓源氏巻の菓子屋です。ぼくは旅先で気になる菓子を見つけると必ず買います。絵を描きながら妻に「津和野では何も食べなかった」と言ったら「私が2つ買った源氏巻
裏山の竹藪をバックに大きな赤い石州瓦の屋根。葺きたてだからか?こういう色なのか?他の家の瓦と違い、赤が際立っています。これから描く予定の石州瓦には、きっとイエローオカーを混ぜると思うのですが。看板には米屋、その文字の上に錦鯉の絵。どういう意味? 看板を見る
長く続いた京都の老舗から、6月に行った萩・津和野に戻ります。私淑する安野光雅さんの故郷の津和野にやっと来ました。この山は青野山、安野さんの絵にも話にもよく出てきます。まずは気合を入れて美術館へ向かいました。でも、意外に盛り上がりません。殆ど見た絵ばかりだ
JR宇治駅から歩くと、平等院の手前に間口の広い立派な屋敷が見えました。これは宇治茶を専門に扱う製茶問屋の芳春園 岩井勘造商店です。抹茶は今も石臼挽きにこだわっているとか。わが家は一保堂の抹茶を2種類常備。青雲は飲むために、初昔はかき氷用。初昔はつぶ餡・コンデ
三条通りの足袋の分銅屋さんです。品質が良く、色足袋、柄足袋、京友禅の足袋などもあり、この足袋を愛用している役者さんも多いとか。小さい頃、ぼくも下駄に足袋でしたが、それ以来、足袋は履いていませんでした。祖父、父、兄が趣味にしていた謡。ぼくも謡の雰囲気だけで
伏見の1764年創業の魚三楼です。川と陸の交通の要衝、伏見に上がる鮮魚や京野菜と名水を使い京料理の店として今に続いています。鳥羽伏見の戦いでは、この店の前で、銃砲で武装した新政府軍に新選組が切り込んだとか。玄関脇のプレートには「鳥羽伏見戦の弾痕」と説明があっ
酒は飲めないけれど、古い酒蔵は風情があって好きです。伏見といえば、灘、西条と並んで酒処、川沿いの酒蔵がいい感じです。地図を見たら左の2棟は「公益法人京都労働基準協会京都南支部」とお堅い名前が。「えっ!月桂冠じゃないの?」。よく見るとその住所の下に「月桂冠酒
以前描いた「西本願寺の門前」の通りを反対に向くと、場違いな感じで赤い洋風の建物が見えます。明治45年、親鸞650回大遠忌を記念して真宗信徒生命保険株式会社として建てられ、今は本願寺伝道院で重文です。描いていて、西洋っぽい、インドっぽい、お寺っぽい等、盛り沢山で
これまた十分老舗の「蕎麦ほうる」の看板をかかげた河道屋さんです。 祖母はこの蕎麦ぼうろが大好物でした。いつも家にあり、ぼくも一緒によく食べました。今、河道屋の缶箱を見て「あの時のぼうろは、この店だったのだ!」日本橋三越にも出店しているし、三越大好きな祖母
西本願寺に隣接してある龍谷大学大宮学舎です。1639(寛永16)年に僧侶の教育機関として設立したのが始まりだそうです。この本館は1879(明治12)年に講堂として建てられ、重要文化財です。石造りのようですが、実は木造の石貼りなのです。重厚な石造もどき。本館の左右両側
明治37年(1904)に竣工した京都府庁旧本館(重要文化財)です。創建時の姿をとどめる現役の官公庁としては最古とか。さすがに京都、最古や重文が多いこと。関東では大地震で古い建物は壊れ、昭和初期に建てられたものが多いです。神奈川県庁も描きましたが、重厚というか何
茶席の干菓子の最高峰、400年続く亀屋伊織さんです。京都の三千家の家元の初釜は、ここの干菓子が使われるとか。すべて予約の注文で、この店に来なければ手に入らない品。お茶席のあの空間でこそ亀屋伊織の干菓子が際立つのでしょう。温泉饅頭を立ち食いするようなぼくに
西本願寺に行きました。いつもながら巨大な木造建造物に圧倒されます。その門前、道路の両側は仏具屋さんばかり。手前右のやたら明るく賑やかな店は、なんと300年も続く老舗山田安心堂さんです。正面に見えるのは総門。その先に緑の車の走る国道1号線、その向こうに御影
創業300年の俵屋は、京都に現存する最古の旅館だそうです。このような高級旅館は、ぼくには絵のモチーフとしてだけのお付き合い。わが家の旅行といえば、いつも会社の寮。夏休みや週末になると伊豆・箱根、軽井沢へ。一番通った箱根のリゾートマンションを息子は家の別荘
同志社大学を見に行きました。西門から入ったのですが、両側には立派なレンガ造りの建物が並んでいて、まるで明治村にでも入ったみたいです。その中に重要文化財が4棟、絵は重文のハリス理化学館から重文のクラーク記念館を望んだところ。紅梅も充分な咲きよう。同志社大卒の
萩・津和野のスケッチがなくなり、京都に戻ります。千枚漬で有名な村上重本店です。薩摩の殿様が村上重の近くで休んだ時、お茶請けに出した漬物が気に入り、この家紋が許されたとか。30年程前も漬物を買い、近くの老夫婦の人気洋食屋「コロナ」へ行きました。家族5人がそ
津和野大橋に立ち、緑ばかりの風景をスケッチしました。津和野といえば安野光雅のふるさと。彼の絵が好きで展覧会に何度も行きました。1984年、サイン会があるという展覧会では画集「イギリスの村」を買い列に並びました。事前に渡したぼくの名前に、安野光雅と年月日を筆ペ
泊まった旅館から外に出ると、そこはきれいな砂浜。その先に見えるのがシンプルな指月山(しずきやま)です。山の付け根には山裾を囲むように萩城跡の堀と石垣が残っています。NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で北大路欣也さん演じる毛利敬親は、若い人の意見をよく聞く殿様、良き
厳島神社は前にも見たし、さっと通り抜けてスケッチを始めました。素早く鉛筆を動かしているのを、後から外国の若い男女が見ていたようです。拍手で褒められ、撮影にも応え笑顔で別れました。まだ時間があったので軽く色を塗るとまた拍手。あれ!まだいたの? 着色した絵を
大鳥居を見ながら、先ほど買った岩国寿司の昼食です。近くに鹿のいないベンチを選んだのに、食べ始めてすぐです。妻との間に置いた手提げがゴソゴソと。誰?横を見ると目の前に長い大きな顔。手提げの中の画板と観光チラシをくわえています。返せとばかりに引っ張ったのです
錦帯橋に初めて行きました。全景を見ると綺麗なアーチ橋ですが、基本太鼓橋は上ったり下ったりで歩きにくい。平らな板でも渡したくなります。橋を渡った対岸の日陰で、錦帯橋だけを描きました。背にした緑の山を、橋のバックにしたかったので、対岸に戻って背景を加えました
先週、山口県とおまけに津和野・宮島を回るツアーに参加しました。今描いている京都の老舗は、まだ終わっていませんが一休みし、ツアーの合間を縫って描いた直近のスケッチをアップしようと思います。萩は幕末から明治にかけて日本を変えた有名人たちが育った町。高杉晋作の
この尾張屋は500年以上続く蕎麦屋。もとは尾張で菓子屋だったとか。蕎麦がツルツルと今の形になったのは江戸時代。その以前は、穀物として蕎麦粥や蕎麦がきなど飢えをしのぐ食べものだったようです。蕎麦も汁も尾張屋さんも進化を続け、今の形になったのですね。現役の時
初めて歩いた先斗町。狭い路地に店が立ち並び、どことなく猥雑な感じさえします。うまい具合に相合傘の2人連れが前を歩いてくれたりして。「京都先斗町」と言うと「に降る雪も~♪」とつながります。そして「雪に変わりはないじゃなし」じゃなくて「・・・あるじゃなし」で
黄粉をまぶした餅を串にさし、炭火の上で扇形に広げたり裏返ししたりで適度の焦げ目をつけます。まさに焼くのではなく炙るのです。昔は腰をかけ背中を丸めた老女将のあぶり作業?だった気がしますが、今は若女将。でも、甘い白味噌は変わらぬ美味しさでした。それにつけても
今宮神社といえば、ぼくには「あぶり餅」。また食べようと予定に入れました。門前の参道を挟んで2軒向かい合っています。神社に向かって右側の一和は1,000年、左側のこの餝屋は400年の歴史を持つ老舗。炭火で餅を炙る後ろ姿の女将と懐かしい餅を味わうぼく。詰襟の男子5人
鴨川の夏の風物詩、この川の上に納涼床ができるのです。冬のこの時期は静かでちょっと寂し気。ここから見える家並みは、絵にする程のものではないけれど、夏の納涼床と共に華やぐだろうの思いから描きました。華のない今は、絵も6Bの鉛筆でラフに描いてみました。家々の屋根
茶屋の雰囲気を残した祇園の新橋通です。保存地区だけあって1階は黒のベンガラ格子、2階はすだれで覆われ、シックに統一された町並みです。建物の中は料理屋やバーになったりと時代とともに変わっているのでしょう。この店は「祇をん八咫(やた)」という料理屋のようです。
四条大橋の袂にある東華菜館です。この橋を渡る度にいつも気になっていた建物。今回はここで昼食をと、開店11時半を待って入店。エレベーターボーイの操る日本最古のエレベータで4階へ。広い空間には凝った天井や室内装飾、窓の外には鴨川と南座の絶景。室内同様、外壁も
亀末廣は、御所や二条城にも納めていた和菓子の老舗。重厚な店に入り、ひとつだけ最中を注文。「お待ちください」と奥に消え、5分ほどして袋に入った最中が出てきました。亀形の皮はパリパリ。グッドジョブ!以前、京都の妻の友人から亀末廣の干菓子「京のよすが」を2度ほ
京都文化博物館などの洋館が並ぶ三条通り、そこから少し南に入ったところにイノダコーヒ本店があります。京都では何故かコーヒです。描いてませんが絵の右側が喫茶室。タキシードの年配の男性が仕切る空間は広く落ち着き、調度品も明かるさも心地いいのです。以前、京都には
JRで嵯峨嵐山駅から二条駅に向かい下車、山中油店まで歩く。いつもの運動不足のせいか、脇に見える二条城の堀がやたら長く感じました。山中油店は200年前から油を販売する老舗。燈明用に始まり、今は海外のオリーブオイルなど高級感のある多種の油が並んでいます。建物の
色鮮やかな山をバックにした渡月橋が描きたくて、鳥居本から自転車で嵐山に向かいました。イメージしていた場所に立つと、渡月橋の背景はモノトーン。紅葉でも新緑でもない2月です。無理もありません。橋を渡り反対方向を見ると、描かいてみたくなる冬山がありました。左遠
愛宕神社の一の鳥居をくぐると平野屋さんが一軒あるだけ。まるで平野屋さんの鳥居のようです。拝みはしないもののの、ありがたく見学。本来、寺や神社で見かける千社札が、梁や柱に沢山貼ってありました。やはり鳥居のすぐ下にある、なせる技でしょうか?つたやさんは貼らせ
あちこちで見かける愛宕神社ですが、その総本宮がこの先の愛宕山にあります。奥に見えるのは一の鳥居。本宮はここから2時間ほど登った山頂ですので、当然、参拝はご辞退しました。この愛宕街道の門前町は伝統的建造物群保存地区に指定され、茅葺がいい雰囲気を出しています
長い間、都だった京都には菓子・料理・仏具など何百年も続いている老舗が沢山あります。『京都時代MAP 伝統と老舗編』大きな本を見ながら、建物も古く絵になりそうな店を30程選び、地図に書き入れ、3日間で廻る周到な計画を立てました。30年前、京都に行った時、井堂雅
伏見、宇治を回って京都駅に戻り、最後の予定地の龍谷大学と西本願寺に向かいました。駅近くの信号待ちで見つけた焼肉ホルモン屋さんです。このような古い建物はそれらしくリノベートして、お洒落に使う店が多いように思います。でもこの店、暖簾やダクトから「焼肉ホルモン
この日はスケッチ日和。平等院で描いていたら「ここはスケッチ禁止です」と言われ途中で退散、観流橋を描き、いよいよ本命の通圓です。ちょうど30年前、家族一緒に寄った店です。「ここを描きたい」と言ったら、妻が子供3人に話し、みな文句も言わず、ぼくに絵の時間を作
前日の雨も上がり2枚目のスケッチは、観流橋の奥から流れ出て宇治川に注ぐ水しぶきです。その水量が山の深さに似合わず多すぎるのでは?と調べたら、この橋の奥に関西電力宇治発電所がありました。琵琶湖の水が長いトンネルで運ばれ、すぐ奥の発電所で一仕事を終えた後でし
先週、絵の題材探しに京都に行ってきました。2泊3日、JR、地下鉄、京阪、近鉄、電動自転車を駆使し、雨の日も良く歩きました。3日間で6万6千歩、最後は筋肉痛で足を引きずりながらでした。寒さや雨でスケッチは結局4枚だけ。でも写真は600枚撮ったのでしばらく安心
先月「規格外」でヴォーリズのレンガ塀を描きました。あの絵では、色も形も大きさもどれだけ違っているのか分かりにくく、アップの写真も撮ってきたので詳細を描いてみました。膨らみ過ぎたレンガにセメントを詰めたりして、まともなレンガがほとんど見えません。身内のため
近江八幡といえばこの白雲橋から見た景色が有名です。昨年7月20日の絵と先週の絵、そして今回で3枚も描いてしまいました。先週の実篤さんからのコメントで、時代劇「八丁堀の七人」はこの八幡掘りがロケ地と知りました。YouTubeで見たら昨年歩いた堀沿いの道や建物が映っ
昨年7月20日にアップした「八幡掘」を左側から描きました。堀は建物の裏側なので仕方ありませんが、色彩もなく地味です。でも、水運盛んなりし頃は人や荷物で溢れ、活気もあり色彩も豊だったことでしょう。水の豊かな日本は、河川も多く堀も造りやすく、水運には好都合で
ヴォーリズ設計の2所帯住宅です。来日した彼の両親も住んだとか。特に不揃いのレンガ塀がいいな~と思いました。色も形も大きさもまちまちのレンガ。でも、見ていて優しいのはなぜ?規格外であっても同等に扱う公平性、多様性、共存、自由なんて言葉が浮かぶから?いつも思
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月島で妻は初めてもんじゃ焼きというものを食し大満足。その後、もらったマップに書いてあった「東京で最も古い交番」へ。1926年(大正15年)に建てられた交番です。誰もいません。好奇心旺盛の妻は階段を上り、正面のデスクの椅子にドーンと座りました。直後、後ろのドアか
「はにわ」を見に東博の庭に入った途端、ドーンとキティちゃんがお出迎え。表慶館の前は「Hello Kitty展」の入館待ちの大人で溢れています。ネットで見たら、開催初日は180分待ちもあったとか。サンリオの公式サイトから混雑のお詫びが出たほど。グッズの転売目的まであるで
ホテルの宿泊券を当てた妻の企画で、1泊2日の東京旅行に行ってきました。ホテルが晴海だったので1日目は日本科学未来館の「パリ・ノートルダム大聖堂展」、遅い昼食は月島でもんじゃ焼き。2日目は東博の「はにわ」。沢山の埴輪の中でも、ひろしのあの家としては、やはり
中央に立つ旗を持った像は、12世紀にベルンの町を造ったツェーリンゲン家の記念碑だそうです。兵士に見えますが鎧兜の中は熊。熊はこの町のシンボルであり、ベルンの語源であるとか。また、建物入口の手前には、緑や茶色の斜めの地下への扉が見えます。これは各地にある防
レマン湖畔にあるブドウ農家です。こちらでは普通の家なのかどうかわかりませんが、お洒落な感じがします。レマン湖の中央にスイスとフランスとの国境があり、対岸はフランスです。水彩画展でもラボー地区の絵を展示しました。斜面の上からブドウ畑と集落を見下ろし、家々の
ラボー地区の家の窓です。先週のようにブドウの木が窓に絡みついている家もあれば、このようにブドウ模様の窓格子も。畑だけでなく家もブドウと共にです。他の家にも、このような窓格子がありますが、デザインは違います。ブドウ系?窓格子作家がいるのでしょうか。世界遺産
ぼくのお祭りも終わり日常へ、次の絵は何にしよう。今回の水彩画展で海外の家々を見ていたら、懐かしく描きたくなりました。でも、コロナ以降は海外には行ってないし。あちこちの古い写真を見直して「スイスにしよう」。これはレマン湖に面したブドウ畑の広がるラボー地区に
このような挨拶文で始まる水彩画展「ひろしのあの町あの家」が昨日、大盛況のうちに終了しました。懐かしい同僚や同級生との再会、ゴルフ・太極拳仲間や多くの地元の方々と話すことができた1週間でした。心落ち着く、懐かしい、繊細など沢山のお褒めを頂き、やはり原画は力
昨日の午後、水彩画展「ひろしのあの町あの家」がオープンしました。展示の作業員はぼくと妻、応援に来てくれた妻の妹と姪の4人です。17年前の広い相鉄ギャライーの準備と同じメンバーです。みな17年分年を取りましたが。今回は天井からのワイヤーフック掛けや照明配置など高
ぼくの水彩画展が来週に迫りました。2007年4月1日、ブログ「ひろしのあの町あの家」はこの絵から始まりました。それから17年間、全国各地で多くの自然災害がありました。2011年の東日本大震災ではこの正文堂も大きな被害を受け、その後見事に修復。水彩画展でも「記念の絵」
大きな石造り倉庫に挟まれた、楽しい感じの大同倉庫です。描いていて思い出したのですが、父も倉庫の仕事をしていました。子供のぼくたちから見ても、父は笑っちゃうほど台風を怖がる人でした。それは各地の埠頭の倉庫が台風で波をかぶり、預かったタバコなどの商品をダメし
小樽駅から日銀通りを歩き始めたとき、ちょっと目に止まった建物です。小樽らしくないとは思いつつ、条件反射で写真をパチリ。これは北海道タオル株式会社、小樽で110余年にわたりタオル・手ぬぐいを製造販売しています。右手裏のトタン屋根の建物は使い込んだ作業場か?蔵の
この浪漫館は、明治41年築の旧第百十三国立銀行小樽支店です。先週の海鳴楼は、明治28年築の同銀行の小樽支店。僅か13年足らずで、小さな平屋の建物から2階建2棟に大変身。まさに明治期、小樽経済は急成長したのでしょう。ニシン漁、海運業の発達、石炭輸送のための鉄道開通
オルゴール堂3軒目の海鳴楼です。こんなに店があってオルゴールを買う人がいるのでしょうか。でも、建物は絵になる歴史的建造物なのが嬉しいです。今回は扉を開けずに、閉まったままを描きました。これは旧第百十三国立銀行小樽支店として明治28年に建てられ、もうすぐ130年
北海道有数の精米・穀物商だった共成(株)本社の建物です。大正4年築で現在は小樽オルゴール堂本館。8月7日の堺町店も旧岩永商店だし、7月24日の北一硝子も鰊倉庫の古い建物を上手く利用しています。建物を使う人は、その時代時代で変わります。小樽で20年前に描いたうちの
これは明治23年築の旧小樽倉庫、横長の建物全景は壮観です。大正に小樽運河ができ、この倉庫は長く運河と共にありました。昭和の埠頭整備で運河の役割は終え、戦後はゴミとヘドロで汚れ、埋めてて道路になるところでしたが、保存運動で生き残り、今や人気の観光地。現在、
小樽駅から日銀通りに出たところで、目を引いたのがこのレンガ造りのカフェバー。狭い敷地に4階建、当時はのっぽビル?これは明治41年、旧向井商店(呉服店・洋品店)の倉庫として建てられました。商品を火災から守る意気込みを感じます。小樽は大火と復興する経済力で、木
千歳行きの飛行機を待つ羽田空港です。飛行機の後ろにコンテナ船、東京湾ですから日常の風景なのでしょうが、ぼくには新鮮でした。空を飛ぶ飛行機も海を行くコンテナ船も、絵にはないですが陸を走るトラックにも、みなそれぞれの持ち場で真剣に働く人達がいます。彼らによっ
この小樽オルゴール堂堺町店の建物は、明治29年開業の岩永時計店でした。石造りの壁や柱は洋館っほいのですが、屋根にはシャチホコが乗り完璧な和洋折衷です。朝が早かったので店はシャッターが閉まっており、店内の見える画像を探し出し、どうにか開店させました。岩永時
早く朝食を済ませ小樽築港駅から函館本線で小樽駅まで行きました。現在の駅舎は昭和9年、上野駅をモデルに造られました。上野駅より小ぶりな小樽駅、大ぶりな大連駅というところでしょうか。ホームに降りたら「るたお」と右から書いた古い駅名板や、使いこんだ扉・ガラス窓
別府・湯布院へ行ってきました。数枚スケッチしたので早速アップ、これは大正13年築の別府の「駅前高等温泉」入浴料250円の共同浴場です。絵を描いていると暇と思われるのか、よく話しかけられます。この時は東京で店舗の設計をしていた60代位の男性。仕事の話に続いて、母親
津和野大橋を渡った南は、整備された殿町通りとは違い、生活感のある店がポツポツと見受けられます。その中で「理髪店ほりの」は、懐かしくホッとするような雰囲気を醸し出していました。理髪店を描くのは好きですが、結婚して50年近くぼくも妻も床屋にも美容院にも一度も
この教会はキリシタン殉教慰霊のために明治23年に建てられ、火災により昭和6年の再建です。教会の中は畳敷、今どき畳と思っていたら、椅子が並んだ写真を見つけて、正座が苦手なぼくは一安心。行きませんでしたが、町のすぐ西側乙女峠にキリシタンの殉教地があります。浦上
10月18日の京都の足袋屋さんが分銅屋で、津和野にも分銅屋がありました。この分銅屋七右衛門は江戸時代より鬢付け油、和蝋燭、菜種油、香等を製造販売し、津和野の「元禄八人衆」と呼ばれた商家だそうです。建物は1853年の大火後、焼け残った材料を使って素早く再建したとのこ
この風格ある建物は明治中期のもの。明治時代は質屋、大正時代は家具店、そして現在は三松堂の支店、津和野銘菓源氏巻の菓子屋です。ぼくは旅先で気になる菓子を見つけると必ず買います。絵を描きながら妻に「津和野では何も食べなかった」と言ったら「私が2つ買った源氏巻
裏山の竹藪をバックに大きな赤い石州瓦の屋根。葺きたてだからか?こういう色なのか?他の家の瓦と違い、赤が際立っています。これから描く予定の石州瓦には、きっとイエローオカーを混ぜると思うのですが。看板には米屋、その文字の上に錦鯉の絵。どういう意味? 看板を見る
長く続いた京都の老舗から、6月に行った萩・津和野に戻ります。私淑する安野光雅さんの故郷の津和野にやっと来ました。この山は青野山、安野さんの絵にも話にもよく出てきます。まずは気合を入れて美術館へ向かいました。でも、意外に盛り上がりません。殆ど見た絵ばかりだ
JR宇治駅から歩くと、平等院の手前に間口の広い立派な屋敷が見えました。これは宇治茶を専門に扱う製茶問屋の芳春園 岩井勘造商店です。抹茶は今も石臼挽きにこだわっているとか。わが家は一保堂の抹茶を2種類常備。青雲は飲むために、初昔はかき氷用。初昔はつぶ餡・コンデ
三条通りの足袋の分銅屋さんです。品質が良く、色足袋、柄足袋、京友禅の足袋などもあり、この足袋を愛用している役者さんも多いとか。小さい頃、ぼくも下駄に足袋でしたが、それ以来、足袋は履いていませんでした。祖父、父、兄が趣味にしていた謡。ぼくも謡の雰囲気だけで
伏見の1764年創業の魚三楼です。川と陸の交通の要衝、伏見に上がる鮮魚や京野菜と名水を使い京料理の店として今に続いています。鳥羽伏見の戦いでは、この店の前で、銃砲で武装した新政府軍に新選組が切り込んだとか。玄関脇のプレートには「鳥羽伏見戦の弾痕」と説明があっ
酒は飲めないけれど、古い酒蔵は風情があって好きです。伏見といえば、灘、西条と並んで酒処、川沿いの酒蔵がいい感じです。地図を見たら左の2棟は「公益法人京都労働基準協会京都南支部」とお堅い名前が。「えっ!月桂冠じゃないの?」。よく見るとその住所の下に「月桂冠酒
以前描いた「西本願寺の門前」の通りを反対に向くと、場違いな感じで赤い洋風の建物が見えます。明治45年、親鸞650回大遠忌を記念して真宗信徒生命保険株式会社として建てられ、今は本願寺伝道院で重文です。描いていて、西洋っぽい、インドっぽい、お寺っぽい等、盛り沢山で
これまた十分老舗の「蕎麦ほうる」の看板をかかげた河道屋さんです。 祖母はこの蕎麦ぼうろが大好物でした。いつも家にあり、ぼくも一緒によく食べました。今、河道屋の缶箱を見て「あの時のぼうろは、この店だったのだ!」日本橋三越にも出店しているし、三越大好きな祖母
西本願寺に隣接してある龍谷大学大宮学舎です。1639(寛永16)年に僧侶の教育機関として設立したのが始まりだそうです。この本館は1879(明治12)年に講堂として建てられ、重要文化財です。石造りのようですが、実は木造の石貼りなのです。重厚な石造もどき。本館の左右両側
明治37年(1904)に竣工した京都府庁旧本館(重要文化財)です。創建時の姿をとどめる現役の官公庁としては最古とか。さすがに京都、最古や重文が多いこと。関東では大地震で古い建物は壊れ、昭和初期に建てられたものが多いです。神奈川県庁も描きましたが、重厚というか何
茶席の干菓子の最高峰、400年続く亀屋伊織さんです。京都の三千家の家元の初釜は、ここの干菓子が使われるとか。すべて予約の注文で、この店に来なければ手に入らない品。お茶席のあの空間でこそ亀屋伊織の干菓子が際立つのでしょう。温泉饅頭を立ち食いするようなぼくに
西本願寺に行きました。いつもながら巨大な木造建造物に圧倒されます。その門前、道路の両側は仏具屋さんばかり。手前右のやたら明るく賑やかな店は、なんと300年も続く老舗山田安心堂さんです。正面に見えるのは総門。その先に緑の車の走る国道1号線、その向こうに御影
創業300年の俵屋は、京都に現存する最古の旅館だそうです。このような高級旅館は、ぼくには絵のモチーフとしてだけのお付き合い。わが家の旅行といえば、いつも会社の寮。夏休みや週末になると伊豆・箱根、軽井沢へ。一番通った箱根のリゾートマンションを息子は家の別荘
同志社大学を見に行きました。西門から入ったのですが、両側には立派なレンガ造りの建物が並んでいて、まるで明治村にでも入ったみたいです。その中に重要文化財が4棟、絵は重文のハリス理化学館から重文のクラーク記念館を望んだところ。紅梅も充分な咲きよう。同志社大卒の
萩・津和野のスケッチがなくなり、京都に戻ります。千枚漬で有名な村上重本店です。薩摩の殿様が村上重の近くで休んだ時、お茶請けに出した漬物が気に入り、この家紋が許されたとか。30年程前も漬物を買い、近くの老夫婦の人気洋食屋「コロナ」へ行きました。家族5人がそ