萩の旧武家屋敷には石垣が多く残っています。指月山の花崗岩、笠山の安山岩が使われ、色とりどりの石垣で描きたくなりました。左塀の下側の明るい石の層は、江戸時代の土塀の基礎だったものでしょうか。明治以降、旧藩士には屋敷内での夏ミカン栽培が奨励されました。土塀は
初めてなのに懐かしい。そんな古い町や家が好きです。
苔むした瓦屋根、磨き抜かれた格子戸、さり気なく置かれた自転車、つい覗いてみたくなるような老舗のたたずまい。 風情ある町や家は、長い時間の経過と、そこに住む人々の日々の営みによって、創りだされるのでしょう。 初めてなのに懐かしい。「ひろしのあの町あの家」は、各地で見つけた心ひかれる家々や風景を描いた水彩画です。
横浜中華街です。ここも描こう描こうと思っていて描かず仕舞いの街並みです。人も看板も色も賑やかすぎて、描く前から戦意喪失でした。今回、描こうと思ったのは、緑が珍しかったから。いままで、なぜ木があることに気付かなかったのだろう。現役時代の中華街は夜ばかり、退
横浜海岸教会から中華街へ向かって歩き始めたら、すぐこの店に遭遇。現役時代、同僚と昼食によく通った関内の「中国食堂」と同じ名前です。退職後、その店を訪ねた時には、すでに無くなっていました。もしやあの店の再来?と期待し、開店時間を見計らい戻ってきました。注文
ここは先週のスカンディアの隣にある JACK CAFEです。こちらはハンバーガーやホットドックなどアメリカ風のようです。描いていて気が付いたことが2つ。目立つビール瓶が以前はハイネケンでしたが、今は店名の入ったラベルに。また、市松模様がお好きなのか自販機まで。鬼滅
大桟橋の入り口にある横浜貿易協会ビルです。1929年築で当時流行のスクラッチタイル張り、角地でもあり目立ちます。1、2階はレストラン「スカンディア」で、60年近くも続く北欧料理の老舗です。いつも描こうと思いつつ描かず、食べようと思いつつ食べずじまいでした
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萩の旧武家屋敷には石垣が多く残っています。指月山の花崗岩、笠山の安山岩が使われ、色とりどりの石垣で描きたくなりました。左塀の下側の明るい石の層は、江戸時代の土塀の基礎だったものでしょうか。明治以降、旧藩士には屋敷内での夏ミカン栽培が奨励されました。土塀は
菊屋家は萩藩の御用商人として藩を支えてきた豪商です。今でもやたら大きい敷地に、絵の左から蔵造りの母屋、金蔵、米蔵などの蔵が並んでいます。他に本蔵と釜場2棟を含め、5棟が重要文化財です。菊屋家は城下の町づくりにも貢献し、藩士や足軽の家を建てことで「阿古ヶ浜
ここは昭和10年築の旧明倫小学校。萩の藩校明倫館があった場所です。吉田松陰は、藩士養成よりも、誰に何を教えるかが自由な私塾の松下村塾の方を選んだのでしょうね。この旧校舎は現在「萩・明倫学舎」として萩の観光拠点です。日本一の木造校舎は超横長の2階建が4棟も
大分県から、2023年6月に行った山口県に戻ります。これは松下村塾、何と小さい。テレビなどではよく見ますが本物は初めて。ずっとこの場所にあったというのが貴重です。吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など当時無名の有名人が、ここで、うろついたり声を上
正面奥の林の中にぼんやり見えのが、湯布院御三家の一つ「由布院玉の湯」です。ちょうど車の客が帰るところで、男女2人の従業員が丁寧なお見送り。車がこの道を走り去っても頭を下げ続けていました。このお見送りを見届けてから、絵の左手にある「由府両築」の向こう隣の共
昼食は、混雑した店に入る気にもならず、スーパーでサンドイッチと飲み物を買い、店の前に見えた大きな公園で食べました。この公園の名は湯布院中央児童公園、昔の児童たちがゲートボールをしていました。その奥に見えるのは隈研吾設計の焼杉の壁の現代美術館。壁の向こうに
金鱗湖畔の亀の井別荘の駐車場です。高級車を描きたいわけではなく、描きたかったのは塀の向こうにある建物、それも屋根瓦です。落ち葉で埋もれていますが、丸瓦の本瓦葺きです。京都や奈良の古い寺院や家では良く見られますが、湯布院で見られるとは、ちょっと驚き。さすが
鉄輪温泉の絵が終わり、今日から湯布院です。別府駅から亀の井バスで朝8時半に湯布院に到着。湯布院で見たいと思っていたのは田園風景です。観光客の多いメインストリートから外れ大分川を土手沿いに下りました。大分川は由布岳に源を発し、大分市から別府湾に注ぐ一級河川
屋根瓦の写真を撮った後、ぶらり登った高台は「鉄輪湯けむり広場」。名前の通り町中から湯けむりモクモク、その向こうに別府湾。道路脇には、誰でも使える地獄窯。看板にはホウレンソウ1~2分、たまご7~8分や、タコ、エビなど10種以上の蒸し時間の表示。地元の人や湯治客
昨年12月27日UPの木造洋館をスケッチ中、話し好きのお婆さんが「これはもとは医院、その医者の家はあすこ!」と教えてくれました。医者の家に行ってみると凝った屋根瓦が面白かったので、写真をパチリ。調べると、この明治生まれの建物は平成8年まで旅館でした。壊す寸前で
ガイドブックにあった豚まんを食べながら歩いていたら、このインパクトのある暖簾が目に飛び込んできました。調べたら暖簾は造形作家 望月通陽氏の作品で、柳屋は「サリーガーデンの宿 湯治柳屋」でした。サリーガーデン?はシフォンケーキの会社。湯治?は素泊が基本。隣に
今回は、別府の変わり湯に入るのも楽しみでした。竹瓦温泉の砂湯、紺屋地獄の泥湯を体験し、ここ鉄輪温泉では蒸し湯へ。でも泥湯の直後で湯疲れ気味のぼくは、慎重を期して入るのをやめ建物だけを撮影。湯けむりが立ち上がる手前両側の部屋が蒸し湯です。床に敷き詰めた石菖
ここは紺屋地獄、保養ランドの混浴露天風呂です。濁り湯の底はヌルヌルの鉱泥、泥を手ですくい体にヌリヌリしながらの保養入浴です。絵の左は3人家族、右は60代の男性とぼく。彼の第2の人生は全国を車で旅をしながら旅館で働くリゾートバイト。初めて聞いた仕事です。た
昭和3年(1928年)に熊八さんは、地獄めぐりの遊覧バス運行のため「亀の井自動車」を設立しました。この時、女性バスガイド(少女車掌)が日本で初めて誕生し、七五調の観光案内も名物となりました。確かに、今でもバスガイドさんの独特の語り口は健在ですよね。ぼくが乗った
先週の赤いのぼり旗は、大分のソールフード「とり天」の宣伝です。とり天の発祥は、別府初のレストラン東洋軒。天皇の料理番をしていた宮本四郎氏が別府に療養に来た時、熊八さんが亀の井ホテルの初代料理長を頼みました。その後、宮本氏は独立し東洋軒を作りました。その本
亀の井バスに乗って、日本初の明礬採取の史跡・明礬地獄へ行きました。早朝バスを降りると逆光に輝く海と空、地面からは蒸気が噴きだし圧巻です。こんな景色初めてと痛く感激。さすが別府八湯!橋は九州横断道路、奥には別府湾、その右はサルで有名な高崎山です。別府湾に桟
別府に着いて、初めて入った竹瓦温泉です。全景が写真に入らないほど大きな共同浴場なので唐破風の立派な玄関を描きました。珍しい室内にある砂湯に入りました。横になると元気な女性がスコップで温かい砂をどんどんかけてきます。「どうして砂が温かいの?」ときいたら温泉
別府駅前に、手足をあげたちょっと変わった銅像があります。別府観光の父と呼ばれている油屋熊八(1863~1965年)です。旅行前、別府関連の本を検索したら、植松三十里著『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』が見つかりました 。溢れるアイデアと人を巻き込む力で突き
人の多さにびっくりしながら湯布院の1日観光が終わりました。この絵は、帰りの大分空港行きバスの待ち時間を使って、由布院駅前で描いた最後のスケッチです。別府駅で同乗し、途中「由布登山口」バス停で降りた背の高い外国人男性。「彼も、もう下山したかな?」なんて思い
観光客はほとんどいない田舎道を歩いて金鱗湖に到着。そこは一転、小さな湖面を囲んで人人人の波、韓国語も飛び交い大騒ぎです。湖から離れ、急いで静かな一角に入りました。この茅葺が亀の井別荘か?と気持ちよくスケッチを終え、道に出たら奥に格式高そうな茅葺が。そちら
鴨川の夏の風物詩、この川の上に納涼床ができるのです。冬のこの時期は静かでちょっと寂し気。ここから見える家並みは、絵にする程のものではないけれど、夏の納涼床と共に華やぐだろうの思いから描きました。華のない今は、絵も6Bの鉛筆でラフに描いてみました。家々の屋根
茶屋の雰囲気を残した祇園の新橋通です。保存地区だけあって1階は黒のベンガラ格子、2階はすだれで覆われ、シックに統一された町並みです。建物の中は料理屋やバーになったりと時代とともに変わっているのでしょう。この店は「祇をん八咫(やた)」という料理屋のようです。
四条大橋の袂にある東華菜館です。この橋を渡る度にいつも気になっていた建物。今回はここで昼食をと、開店11時半を待って入店。エレベーターボーイの操る日本最古のエレベータで4階へ。広い空間には凝った天井や室内装飾、窓の外には鴨川と南座の絶景。室内同様、外壁も
亀末廣は、御所や二条城にも納めていた和菓子の老舗。重厚な店に入り、ひとつだけ最中を注文。「お待ちください」と奥に消え、5分ほどして袋に入った最中が出てきました。亀形の皮はパリパリ。グッドジョブ!以前、京都の妻の友人から亀末廣の干菓子「京のよすが」を2度ほ
京都文化博物館などの洋館が並ぶ三条通り、そこから少し南に入ったところにイノダコーヒ本店があります。京都では何故かコーヒです。描いてませんが絵の右側が喫茶室。タキシードの年配の男性が仕切る空間は広く落ち着き、調度品も明かるさも心地いいのです。以前、京都には
JRで嵯峨嵐山駅から二条駅に向かい下車、山中油店まで歩く。いつもの運動不足のせいか、脇に見える二条城の堀がやたら長く感じました。山中油店は200年前から油を販売する老舗。燈明用に始まり、今は海外のオリーブオイルなど高級感のある多種の油が並んでいます。建物の
色鮮やかな山をバックにした渡月橋が描きたくて、鳥居本から自転車で嵐山に向かいました。イメージしていた場所に立つと、渡月橋の背景はモノトーン。紅葉でも新緑でもない2月です。無理もありません。橋を渡り反対方向を見ると、描かいてみたくなる冬山がありました。左遠
愛宕神社の一の鳥居をくぐると平野屋さんが一軒あるだけ。まるで平野屋さんの鳥居のようです。拝みはしないもののの、ありがたく見学。本来、寺や神社で見かける千社札が、梁や柱に沢山貼ってありました。やはり鳥居のすぐ下にある、なせる技でしょうか?つたやさんは貼らせ
あちこちで見かける愛宕神社ですが、その総本宮がこの先の愛宕山にあります。奥に見えるのは一の鳥居。本宮はここから2時間ほど登った山頂ですので、当然、参拝はご辞退しました。この愛宕街道の門前町は伝統的建造物群保存地区に指定され、茅葺がいい雰囲気を出しています
長い間、都だった京都には菓子・料理・仏具など何百年も続いている老舗が沢山あります。『京都時代MAP 伝統と老舗編』大きな本を見ながら、建物も古く絵になりそうな店を30程選び、地図に書き入れ、3日間で廻る周到な計画を立てました。30年前、京都に行った時、井堂雅
伏見、宇治を回って京都駅に戻り、最後の予定地の龍谷大学と西本願寺に向かいました。駅近くの信号待ちで見つけた焼肉ホルモン屋さんです。このような古い建物はそれらしくリノベートして、お洒落に使う店が多いように思います。でもこの店、暖簾やダクトから「焼肉ホルモン
この日はスケッチ日和。平等院で描いていたら「ここはスケッチ禁止です」と言われ途中で退散、観流橋を描き、いよいよ本命の通圓です。ちょうど30年前、家族一緒に寄った店です。「ここを描きたい」と言ったら、妻が子供3人に話し、みな文句も言わず、ぼくに絵の時間を作
前日の雨も上がり2枚目のスケッチは、観流橋の奥から流れ出て宇治川に注ぐ水しぶきです。その水量が山の深さに似合わず多すぎるのでは?と調べたら、この橋の奥に関西電力宇治発電所がありました。琵琶湖の水が長いトンネルで運ばれ、すぐ奥の発電所で一仕事を終えた後でし
先週、絵の題材探しに京都に行ってきました。2泊3日、JR、地下鉄、京阪、近鉄、電動自転車を駆使し、雨の日も良く歩きました。3日間で6万6千歩、最後は筋肉痛で足を引きずりながらでした。寒さや雨でスケッチは結局4枚だけ。でも写真は600枚撮ったのでしばらく安心
先月「規格外」でヴォーリズのレンガ塀を描きました。あの絵では、色も形も大きさもどれだけ違っているのか分かりにくく、アップの写真も撮ってきたので詳細を描いてみました。膨らみ過ぎたレンガにセメントを詰めたりして、まともなレンガがほとんど見えません。身内のため
近江八幡といえばこの白雲橋から見た景色が有名です。昨年7月20日の絵と先週の絵、そして今回で3枚も描いてしまいました。先週の実篤さんからのコメントで、時代劇「八丁堀の七人」はこの八幡掘りがロケ地と知りました。YouTubeで見たら昨年歩いた堀沿いの道や建物が映っ
昨年7月20日にアップした「八幡掘」を左側から描きました。堀は建物の裏側なので仕方ありませんが、色彩もなく地味です。でも、水運盛んなりし頃は人や荷物で溢れ、活気もあり色彩も豊だったことでしょう。水の豊かな日本は、河川も多く堀も造りやすく、水運には好都合で
ヴォーリズ設計の2所帯住宅です。来日した彼の両親も住んだとか。特に不揃いのレンガ塀がいいな~と思いました。色も形も大きさもまちまちのレンガ。でも、見ていて優しいのはなぜ?規格外であっても同等に扱う公平性、多様性、共存、自由なんて言葉が浮かぶから?いつも思
右の洋館は明治33年築の銀行。黒漆喰で塗られたことから黒壁銀行と呼ばれ、今は黒壁ガラス館となっています。手前の蔵はオルゴールの店です。以前、ぼくが唯一オルゴールを買ったのは「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」です。怖い夢を見ているような印象深い
2023年 謹賀新年昨年は近江にしか行けませんでしたので、半年間も近江が続いています。その記念に立ち寄った長浜の「太閤ひょうたん」の店先に、ぼくを入れました。今年こそ、もっとスケッチ旅行に出かけ、知らない町を描きたいです。次回のアップは1月11日ですので